aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

どうして悲しみは心地よいのか

「どうしても僕には、犬や猿には感情があるような気がするのですね。基本的な感情ならあるとも言えると思います。でもそれは原始感情であって、人間基準でのいわゆる「感情」とは呼べないものなのかもしれません。たとえば飼い主に怒られて悲しそうにしている犬を僕は見たことがあります。ただ、感情とは「想像力の発揮による価値の感受」のことだと定義すると、飼い主に叱られている犬は単にその場で叱られたことを悲しんでいるだけで、自分がやってしまったことや叱られていることがどういう意味をもつのかを想像して悲しんでいるようには見えない、つまり、自分が怒られているという事態を何らかの価値(=というよりはむしろ意味と言うべきでしょうが)をもったものとして構成してその意味を感受しているという感じはしないです。」

「この点で僕の念頭にあるのは「悲しみはいつも心地よい」ということです。犬が怒られて悲しい、と表現することは可能だとは思いますが、悲しみが享受されているのかというと、おそらく享受のステージがすっとばされて直接的なのでしょう。意味を経由するとしても、その意味は人間のような一般性も象徴性も経由することのないような生物学的レベルでの意味だと思います。人間は喜怒哀楽、いずれにも享受のワンクッションがあります。衝動で人を刺してしまうような怒りに心地よさはないでしょうが、意味を経由するという点で言えばやはり間接的です。犬のしょんぼりは可愛いですが、それはアルファオスに威嚇された劣位個体のありかたと同じようなものだと思います。」

「「悲しみはいつも心地よい」ってなんとなく分かるようでいて、分かりにくいです。これは具体例なしに、それ以上の正当化も不要で、当たり前に人々に是認されるような命題ではなくないでしょうか。「悲しみはいつも心地よい」ということがよく分かるような、具体例とかって、ありますか?」

「確かにそうですね。「悲しみはいつも心地よい」ことを説明するときに具体例は必要ですし、心地よさというプラスの感情ではないようなマイナスの感情もここに含まれているというのが混乱のもとだと思います。ポイントは感覚と感情の対比であってプラスの感情とマイナスの感情の対比ではありません。「悲しみはいつも云々」の言葉は感覚の絶対性と感情の間接性・相対性の対比としての表現だとするとまだ許容できませんか。ちなみにこの言葉には歴史があって、アリストテレスカタルシス論に淵源をもちます。好き好んで悲しさを経験しようとする人間観察があったのでしょうね。ただ、僕にはこの言葉はリアリティがあります。あまりに悲しくて泣けない、涙がこぼれてやっと泣ける、という経験をしたことがあるからです。直接的な経験は動物的経験で、涙もこぼせません。救いとしての涙が到来するとき、確かに悲しみは心地よかったです。」

「なるほど、救いとしての涙が到来する、ですか。つまり、「悲しみが大好物であるような不思議な人間たちの余裕の秘密は、自他の区別である。役者に自分を投影しつつも他人事として役者を見てもいるから、観客は悲劇でさえ楽しめるんだ。劇中で、あるキャラクターが裁かれたとしても、それは自分によく似た他人であるから、人々は余裕を持って見ていられるんだ」というアリストテレスの見解を、「悲しみが大好物であるような不思議な人間たちの余裕の秘密は、感覚と感情の区別である」と修正したのがマルブランシュだったわけですね。マルブランシュからすれば、大恋愛してから失恋した直後のひとはボス猿に脅されてパニックに陥り、なにもできなくなった子猿のように、感情として悲しむということがまだできていない。とにかくショックで、怯んで、何もできないのだから、ごはんも食べられない(=冷静でいられなかったり、無気力になったり、混乱しているせいで情緒がうまく定まらなかったりする)。しかし、そこでもし何かのきっかけ(=例えば踏み切りを見ること)によって、「この踏み切りのように、一時代が終わったのだ」という意味づけが与えられれば、やっとのことで、その衝撃は、めでたく「悲しみ」となる。悲しみは、どうすればいいのかわからないという感覚ではなく、泣けばよいということが分かっている感情なのである。そしてその悲しみには、余裕がある。どんな余裕かというと、意味上の解釈の余地があるという余裕である。つまり、解釈次第でどうにでもなるという余裕がある。「一時代が終わってしまった」と意味づけられる距離が事態とのあいだに生まれたとき、「次の時代に進むための重要なステップだった」という解釈がその事態に対してできるようになるための距離も同時に確保されているのだ。感情には余裕があるから心地よく、その余裕の中で、泣けばいいことなのだとも分かっていることが心地よいのである。さっきまで、どうすればいいのか分からなかったのに、いまや泣けばいいのだから。そしてさらに、この余裕は、最終的には悲しみをたくましい(=ふてぶてしい?)自己肯定へと変えてしまう。なぜならば、たとえ悲しみが「自殺をするべきような失恋だ」という強烈な意味づけを帯びていたとしても、その意味づけは瞬間的なもの、一過性のもの、より強い言葉で言えば「思春期的なもの」、後発的なもの、でしかなく、次第に、生命の先発的価値である生きることの肯定という大原則に適うような別の意味づけに場所を譲っていくからである。こうして、「次のステージに進むために必要な失恋だ」という別の意味づけが生まれてくる。だんだん(感覚にはなかった)感情の「余裕」は、「心地よさ」へと繋がっていく。だから、「悲しみはいつも心地よい」のである。こういうことですかね。そして、アリストテレス発祥の「悲しみはいつも心地よい」という表現に類似の言葉として、⑴「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」(松尾芭蕉)とか、⑵「生きている中、わたくしの身に懐かしかったものはさびしさであった。さびしさの在ったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった。」(永井荷風「雪の日」)とか、⑶「苦悩の感情においても人は少なくとも自己を感じ、自己を所有する。このことだけでも、すでにそれ自身によって、自己感情の絶対的な欠如よりも幸福なること無限である」(フィヒテ)というようなものを見つけました。個人的には、⑴が一番ピンと来ました(⑶はすこし大袈裟な表現だと感じます)。わざわざ悲しみを構成してその意味を味わうというようなことが、僕にもあるし、そのことは無意味な動物的衝撃に苦しむときよりも、人生を豊かにする余地に僕が恵まれていくということなのかもしれません。「感傷に浸る/ふける/おぼれる」という言葉はネガティブな価値づけを孕んでいますが、そのことが人間の生を豊かにもしているとも言わなければ片手落ちのような気もしてきますね。」

ひとまずの知覚理論

【知覚空間が運動空間を先取りするようになるまで】

①全身の運動性能による運動空間の切り出し

②各種知覚器官に固有の運動性能による知覚空間の切り出し(ただし知覚器官別の微弱な空間規定の総体としての知覚空間)

③全身運動による各種知覚空間の運動空間への準拠的統合

④知覚空間に運動空間に対する先取り機能が成立(下書き機能)

⑤知覚空間のパースペクティブ性(=起点となる視点がありその視点の運動空間内での移動を前提に知覚空間が意味付けられていること)は知覚空間が運動空間に準拠することで可能となる(つまり運動空間が成熟した知覚空間を可能にする)。ちなみに「AがBに準拠する」とは、「AはBに対応するものとして意味づけられる」という意味である。だから、楕円に見える湯呑みの飲み口も正円としてまずは意味づけられる。

⑥体の移動を通じてパースペクティブ性を解消した空間構造が確定する。

 

【日常的知覚の論理的発達の順序】

①複視(=ペットボトルが幾つもみえる。だって焦点があってくるのは生後3ヶ月から。)をしている赤ちゃん。

②運動(=触ってみたら1個だった)による触覚知。

③触覚の場所への単眼視による像たちの収斂と重ね合わせ。

④日常的知覚の成立。

立体視の成立は、複視による像のズレで説明されることがあるが、なぜ複視による像がズレたままではいけないのかを説明するには結局運動という契機が必要になる。

なぜゴリラは見えないのか

https://youtu.be/vJG698U2Mvo?si=AK2qECMobTiEY_gk

Daniel Kahnemanの『Thinking, Fast and Slow』を読んで以下のように整理しておく。

 

①注意力の使用権はシステム1(=fast thinking)とシステム2(=slow thinking)によって共有されている。
②注意力の総量は一定かつ有限である。
③システム1は注意力をほとんど消費せずに働くことができるし、主体を動かすこともできる。
④システム2は注意力を大量に消費しないと働けず、注意力を大量に消費しないと主体を動かすこともできない。
⑤システム1は常に注意力をほとんど消費しない仕方で働き続けているし、主体を動かし続けている。つまり、システム1は停止することができない。
⑥システム1の働きを抑制するためにはシステム2が働く必要がある。
⑦システム2が他の細かい作業に集中している間は、システム2がシステム1に抑制を効かせることができない。なぜなら、②より注意力の総量は一定かつ有限であり、また④よりシステム2がシステム1に対して抑制を加える働きをするのにも大量の注意力が要求されるからである。
⑧だから、システム1の働きに抑制が効かなくなり、それゆえゴリラは見えない。

なぜ私は同性婚の法制化に賛成なのか

同性婚の法制化は合憲だと考えるからである。

憲法24条1項「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」

という条文は、

たとえば、次のような事例で考えるとよい。

高尾山にピクニックにいくとしよう。ピクニックのリーダーから、「高尾山にはお弁当のみを持ってこい」と言われたとする。でも、そう言われたひとが、「でもお弁当は箱がかさばるな。お弁当つくるの面倒くさいな」と思って「ウィダーインゼリー」を持ってきたとする。それで、現地についてみると、「俺はお弁当のみを持ってこいと言ったのに、お前はお弁当を持ってこないで、ウィダーインゼリーを持ってきてしまった。だからお前には高尾山に登る資格がない。いますぐ帰れ!」と言われたとする。だとするとこのリーダーは少し、論理的に考え過ぎて頭がおかしくなったのかな、と思うのが普通だと思う。

高尾山ピクニックを成立させるために必要なのは弁当であるよりも前にエネルギーであって、エネルギーが摂取できれば弁当である必要はないと考えるのが普通だから。

また、あるピクニック参加者が、お弁当を持参せず、ウィダーインゼリーすら持参せず、高尾山の山頂でピザハットにヘリコプターで出前を頼むという、かなり尖った行為をするとしよう。それはおそらくとんでもないお金がかかるだろうけれど、事前予約などをしておけば、やってもらえるかもしれない。これは、ものすごく異常な手段を使って、エネルギー摂取という目的を達成し、お弁当を持ってこないような事例である。しかしこの場合も、参加者たちは山頂でピザハットを食べることを許容することもありえる。それくらい、エネルギー補給に比べたらお弁当なんかどうでもいいのだ。みんなが空腹にならずに山頂で楽しくおしゃべりができることが重要なのであって、そのとき各人が食べているものはお弁当であれウィダーインゼリーであれ出前のピザハットであれ、どれでもよいのである。ちなみに、お花見会場にすらピザハットは出前をしてくれるのだから、それ相応のお金を出せば、どこでも来てくれるだろう。

さらに例をあげよう。市役所に、

「住民票はマイナンバーカードのみで発行されます」

と書いてあっても、それは、マイナンバーカードのみで十分である(だから他のものは要りませんよ)という意味で、マイナンバーカード以外が禁止であるとまでは書いていないと読める。マイナンバーカードがどういうものかについての文脈があるからだ。

つまり、マイナンバーカードを作るときに必要だった、より強力な書類をもってくることを禁止していると取るのはむしろ変である。マイナンバーカードは、それらより重要な書類の代用となることで、手続きを簡略化できることがその存在意義のひとつだから。

たとえば、そもそもマイナンバーカードを作るときにパスポートや身体障がい者手帳を出す人がいるけど、ということはマイナンバーカードよりもパスポートのほうが強い力を持っていることになり、そちらの提出を住民票発行の際に禁止するのはまさに本末転倒である。

実際、マイナンバーカードがなくても、在留カード特別永住者証明書・パスポート・運転免許証・健康保険証などを出したり、組み合わせたりすれば、マイナンバーカードと同等(どころかそれ以上)の力に到達することもできるような仕組みに今もなっている。

結論として、「マイナンバーカードのみで住民票が発行される」と書いてあることと、実際にはマイナンバーカードがなくてもほかの手段で住民票が発行されることとは、日常言語レベルでは、なにも矛盾していない。

もちろん、マイナンバーカードがあれば一番簡単に発行できるだろうし、わざわざ健康保険証や在留カードをもっていくのは馬鹿げているから、推奨されてはいないだろうけど、禁止もされていない。

それと同様に、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」という条文も、両性の合意がなくても、そもそも結婚を成立させるためにより重要な「合意」があれば、「両性の合意」がなくても結婚できると考えるべきである。

マイナンバーカードよりも在留カードの方が得にくいものである(←現に私は在留カードなんか持ってない!)のと同様に、「両性の合意」よりも「同性の合意」の方が得にくいものであることは認めなければならない。しかし、上記の理由から、「同性の合意」があれば「両性の合意」がなくてもかまわないと考えるほうが自然である。



「性」について私はどのように考えているのか

どんな身体で生まれても、それとは独立に人は「性自認」を決めることってできるし、できたほうがいいよね。例えば、生物学的に女性に産まれた人がその日の気分を含めた様々な理由で自らを男性としてみなし(=性自認)、社会的にも男性として扱ってほしいと要求するということが、できた方がいいと思う。

それは、日本に生まれて日本国籍をもっている人がそれは自分で選んだわけではないからアメリカ国籍を取得してもいいし、そういうことができるほうがいいのと同じ。人間にはそういう自由があるしその自由を守っていかなくてはいけない。

「生物学的性」を根拠にしてふつうは「性自認」が決まるけど、自分の生物学的性別を引き受けるのが嫌だというひともいるかもしれないよね。ペニスがあるからという理由で自分を男性としてみなすのが普通というだけで、ペニスがあるからといって自分を男性としてみなさなければならないわけではないよね。人間は自由だもの。(ちなみに、人間は自由だということを認めないひともいるけど、「ではなにが人間をあらかじめ決定しているのですか?」とその人に問うと、その答えは「科学法則」であることが多く、「ではなにが科学法則をあらかじめ決定しているのですか?」とその人に問うと、その答えは結局「人間」であることがわかり、最終的に人間は自由だと、その人も前提していることが判明してしまう。)

例えば、生物学的には男性だけど、だからといって男性として自分をみなしたり、男性として人にみなされたりするのが嫌だっていうひとも全然いてかまわないと思う。人間って自由な生き物だからね。それで、そういう人に男性としての性的役割の強制がなされないようにしたいよね。

ここまでが前提で、そのうえで私が気になるのは生物学的な性別それ自体が「性自認」によって変えられるという主張。それはありえないと思う。自由で尊重されるべき性自認のあり方によって変えられるのはあくまでも自分が演じるべき「性役割」としての「ジェンダー」だよね。

あくまでも「ジェンダー(性役割)」が自由な「性自認」によって自由に変えられるほうがいいのであって「生物学的性」は生まれてから死ぬまで安定しているよね。

もちろん性転換手術によって性器を取り付けたり切除したりはできるし、ホルモン投与でホルモンバランスさえも変えられるけど、身体中のすべての細胞の染色体レベルまで性転換させるのは、無理だと思う。

だから、自分の生物学的な性は生まれてから死ぬまで確定しているものとして一旦まずは受け入れざるをえないと思う。つまり、性染色体の在り方が時間的に安定していて、そう簡単に変えられるものではないということは受け入れざるをえないと思う。そしてこのことは「性染色体がXXかXYかの二通りしか生物学的性別はない」などという変な主張をしているのではなく、XXYやXXXYのような様々な生物学的性の在り方があるという前提で、しかしそれらの変更の難しさについては受け入れざるをえない、と言っているに過ぎない。

もちろん、性転換手術には保険が適用されるべきだし、「戸籍上の性」だって変えられていいに決まっているんだけど、それによって「生物学的な性が、性自認によって変えられる」と考えるのは誇張じゃないかな、と思う。

それから、「こころ」というのを実体化して、さらにそこに性別までつけて、「こころの性」という言葉もあるみたいだけど、あんな言葉は不要で、「性自認」という従来の言葉だけあれば、それで十分だと思う。

ここまで出てきた話をまとめると、いわゆる「4つの性」、すなわち①生物学的性、②性自認、③性的指向、④性表現のうち、②と③と④は各人でそれぞれに自由に自己決定できるものであるべきだというのが私の考え。

そして、⑤性役割(ジェンダー)については、現状、自分だけで決められる問題ではないと思う。本人の希望を押し潰してまで、社会が押し付けてくることが多いものだから。つまり、内発的側面と外発的側面の両面から「⑤性役割」については論じる必要がある。だから、「性役割」については、後述する。

さて、①生物学的性に関しては、まず、男か女かの二通りであるという理解を即刻やめるべきだと思う。例えば、River Galloさんはインターセックスで、「生物学的性」が男が女かに定まっていない。クラインフェルター症候群についても同様だし、そもそも放出されている性ホルモン量が各人で違うということも考慮すべきだと思う。

また、「生物学的女より生物学的男の方が優れている」とか「生物学的男より生物学的女の方が優れている」とかいう考えも、ある特定の価値を前提して見た時にはじめてそう見えるというだけで、一般に言える話ではないと思う。例えば、寿命に注目する観点を取れば女の方が優れているし、凶暴さに注目するという観点を採れば男女別犯罪発生率などの統計から考えても女の方が優れているということになりそうだが、一般にすべての項目で生物学的女性のほうが生物学的男性より優れているとは言えないだろう。

そして、⑤性役割に関して言えば、そもそも生物学的男は「男らしい」とされる特徴をもっているべきだとか、生物学的女は「女らしい」とされる特徴をもっているべきだという考えを、なるべくはやく捨てたほうがいいと思う。そしてそのためには、性役割(=ジェンダー)の内容規定をどんどん流動化させ、事実上、無化していく作戦が有効だと思う。つまり、生物学的男が演じるべき「男らしさ」という役割の内容が曖昧になっていった方がいいと思うということ。女らしさについても同様である。たとえば、マルセル・デュシャンの『泉』という作品によって、「では、キャンバスに唾を吐きかけたら、それはアートと呼べるのか」という議論が巻き起こり、「アート」の内容規定がどんどん流動化していった歴史があるけれども、あのようなことが性役割についても起きていけばいいと思う。生物学的男性がどんどん子育てや家事をしたりスカートを履いたりすれば、何が男らしいのかはわからなくなっていくと思う。女らしさについても同様。たとえ、もともと「男らしさ」や「女らしさ」が典型としてはどういう在り方なのかということが歴史的にある程度共有されていることが歴史調査によって判明したと仮定しても、その場合でさえ人間は自由なので、それに縛られる必然性などない。(歴史調査によって分かるのはむしろ、男性はかつてスカートやリボンをつけていたというような歴史的事実であることも多いのだが)もし仮に人の典型的性役割を進化論的研究によって突き止めることによって、固形化した性役割の流動化運動に対抗できると主張する人がいたとしても、そのような研究によって可能となるのは、所詮、典型的性役割と派生的性役割の区別が言えるようになることくらいであって、その典型的性役割を人が再び受け入れるべきだということまでは言えないのである。複雑化している現状を理解しようとして本源や典型を突き止めてから現状に至る来歴を描こうとする発生的議論は、あくまでも現状理解にとって有用であるに過ぎず、ここが発生論の原理的限界である。要するに、性役割が流動化してきた来歴を暴くだけでは現状の流動化を抑えることなどできないので、進化論的研究を恐れる必要などないのである。

さて、ここまでの話をここで一気にまとめていこうと思う。私が総論として言いたいのは、「その人が自分で選んだのではないことについての価値判断はなるべく中立化されるような社会がいい社会だと私は思う」、ということである。

だから、例えば生物学的女性として生まれたひとが、本当は生物学的性に一致した性自認がしたかったのに、「女性はこの社会では社会的に劣位に置かれている(=女性差別が現にある)」という理由で自分を女性としてみなす(=女性として性自認する)ことを回避して男性として性自認し、男性として自らを扱ってもらうことを社会に要求する、ということが起きるとしたら、それはそもそも女性差別をなくしたらいいのであって、「性自認が自由なのだから女性差別はあっても大丈夫だよね」という論理がまかり通らないようになるべきだ、と私は思う。もちろん性自認は当事者の自由であるし、自由であったほうがいいという冒頭に述べた私の考えを私は維持するが、だからといって、女性差別を許容するわけにもいかないので、「本人の本当の希望どおりの性自認が誰にも強制されずに成し遂げられるべきだ」と私は言いたい。この話は、「タバコを吸う権利は万人に認められるべきだが、タバコ自体は推奨されるべきではない」という話と構造レベルではかなりよく似た議論であると思う。どこらへんが構造レベルでよく似ているかというと、「生物学的性と性自認が不一致であってよい権利は万人に認められるべきだが、不一致自体は推奨されるべきではない」ということを私は主張しているからである。とくに今私が話題にした事例では、不一致への権利が女性差別をする悪しき人からの強制によって希求されているわけで、このような事例では、(不一致への権利は常に認めるにせよ)不一致を推奨するわけにはいかないと私は言っているのである。

生物学的男性として生まれようが生物学的女性として生まれようが、それについて他人や当事者から下される価値判断(=評価)がなるべく中立化されている(=プラスともマイナスとも言えないような評価が下される)ような社会を人は目指していくべきなのだ。

次に、性自認流動性についての話だが、これは例えば、❶「生物学的男性が突然自分の性自認が女性であると言い出し、そのまま女湯に入っていくのを許容するのか」とか❷「生物学的男性が突然自分の性自認は女性であると言い出してオリンピックの女子種目で圧勝するのを許容するのか」とか❸「生物学的男性の性犯罪者が性自認は女性であると主張して女子刑務所に送られることを許容するのか」とか❹「生物学的男性が性自認が女性であると主張した場合に女子トイレを使ってもいいのか」とか❺「十歳以下の子供が自発的に要求した場合には第二次性徴抑制剤を投与したり性転換手術を受けさせてもいいのか」といった問題設定で議論されることが多い問題だよね。これら❶から❺の論点はいわゆる「反トランス」言説を唱える論者によって言及されることが多い論点であることも注目に値する。

これらについては、自由な②性自認をどこまで⑤性役割に直結させるかという話だと思う。まず、性自認に連動させて性役割を決めてもよいと私は思う(だから、私は反トランス言説を唱える者ではない)。ただし、すぐにそれをやると混乱が起きるかもしれないので、性自認に連動させて性役割を決めてもよいという方針を取るためには、例えば❶については「各銭湯がどんな方針であることを明らかにして近隣住民の理解を得る」とか❷については「オリンピックを二個の性別でやるのをやめる」とか❸については「女子刑務所に送るが独房にする」とか❹については「男性小便器を段階的に廃止してみんなのトイレ」を普及させるとか❺については「第二次性徴後に手術しても第二次性徴前に手術したのと同じ結果が得られるような技術開発を進めるまでは、一時的に許可する」とか、さまざまな対策を事前に講じておくことができると思う。そして、これらの対策が取りうるのだから、これら❶から❺の論拠に基づいていわゆる「トランス排除」の言説に賛同していいことには決してならない。

「机が硬い」はなぜ価値判断なのか

【机が硬いことも価値判断を前提していることについてのわかりやすい証明】

Aさん「机は硬い。」

Bさん「え、でも、クラゲやタコにとっては机が硬くないかもよ?」

Aさん「うん、そうだね。じゃあ、君は机は硬くないと言えるというのかい?」

Bさん「そうさ。机は硬くないと言えるはずだ。僕が「机は硬くない」と言える場合だってあるんじゃないかな。」

Aさん「じゃあ、君は骨を大切だとは思わないということかい?僕が君から全ての骨を引っこ抜いてもいいということ?重要ではないなら文句は言わないよね。」

Bさん「いや、骨は大切さ。」

Aさん「いつも?」

Bさん「うん。常に骨は大事さ。引っこ抜かないでほしい。」

Aさん「だったら、君は常に骨を大切に思っているんだね。僕もそうだよ。」

Bさん「あ、そうか!」

Aさん「そう。骨が常に大事ならば、骨のことを大切にしているやつらの集団内でなら、「机は硬い」と、常に言わざるをえないんじゃないかな。そして、この常に言える事柄は、骨にたいする価値判断を前提しているのさ。つまり、君が「机は硬くない」と言うことは、君が君のいまの身体を大切に思う限り、できないんだよ。」

Bさん「なるほどー!」

『カラマーゾフの兄弟』に関するノート

【『カラマーゾフの兄弟』に関する基礎的なノート】

罪と罰』(1866)や『白痴』(1868)や『悪霊』(1871)を書いたロシアの文豪フョードル・ミハイロヴィチ(=ミハイルの息子)・ドストエフスキー(1821-1881)の最後の長編小説が『カラマーゾフの兄弟』(1880)である。作家の村上春樹の『海辺のカフカ』などにおけるそれをはじめとして、この『カラマーゾフの兄弟』に強烈な影響を受けた作家は数えきれない。『カラマーゾフの兄弟』は、複雑な4部構成(第1部が1〜3編、第2部が4〜6編、第3部が7〜9編、第4部が10〜12編)の長大な作品であり、この作品の「序文」によれば、続編が考えられていたらしい。『カラマーゾフの兄弟』は翻訳が全部で2000ページを越えるような大長編作品なので、多くの読者は、第二部の三男アリョーシャが綴るゾシマ長老の生涯のあたりで挫折する。ここまでまずは読破することを「ゾシマ越え」という。ちなみに、哲学者のヴィトゲンシュタインはこの『カラマーゾフの兄弟』を自身の生涯で30回も読んだらしい。劇中に挿入されているサイドストーリーの中で、もっとも有名なもののうちのひとつである「大審問官」編は第2部第5編「プロとコントラ」のとくに第5章である。また、この物語を複雑にしている要因として、アグラフェーナ(通称グルーシェニカ)という女性が、①父フョードルと、②長男ドミートリーと、③品性下劣なポーランド人将校ムッシャローウィチ、この三人の男性の間で揺れていること、そして、カラマーゾフ家の兄弟の長男であるドミートリーは、グルーシェニカのために婚約者のカテリーナを捨てようとしているのだがそのカテリーナにドミートリーは3000ルーブル借りていること、そのカテリーナとイワンは相思相愛であること、などなどに注意しなければならない。また、この物語を読むときには、「チェルマシニャー」という領地はカラマーゾフ家の遠方の領地でありつつ、ドストエフスキーの実の父親ミハイル・ドストエフスキー農奴たちによって殺された(とされることが多い)場所であることを留意せねばならない。つまり、「チェルマシニャー」という言葉は「遺産」と「父殺し」のふたつを象徴しているのだ。

【主人公は誰なのかという問題】
主人公は三男のアレクセイ・カラマーゾフであるとされているが、主人公は皮肉屋の料理人スメルジャコフという見方もある。ちなみに、主人公はイワンであるという説が最も深いと考える向きもある。いずれにせよ、父フョードルとその3人(あるいは4人)の息子たちの愛憎劇が描かれている。要するに、主人公が誰かをひとりに決める意味はあまりない。

【『カラマーゾフの兄弟』に描かれている主題】
①愛と憎しみ、
②淫蕩と純潔
③三角関係
④金銭欲と殺人
⑤悪と恥辱の関係
無神論と敬虔
⑦大地と生命
⑧父親殺し
などなど数え上げればきりが無い。

【1866年の「スコトプリゴニエフスク」が舞台】
カラマーゾフの兄弟』の舞台は19世紀後半の農奴解放令(1861)の直後である1866年(←アレクサンドル2世暗殺未遂事件が起きた年であることに注意)のまだ社会秩序が混乱したロシアの架空の田舎町「スコトプリゴニエフスク」(Skotoprigonievsk:家畜追込町)である。この街は、まだ社会構造が安定せず拝金主義と犯罪は横行している、という設定である。ただし、この「スコトプリゴニエフスク」は架空であるから、実在しない。では、そのモデルとなった街はどこかというと、ドストエフスキーは1875年から1878年1880年に「スタラヤ・ルーサ」というロシアのノヴゴロド州中部の古い実在する街に住んでおり、「スコトプリゴニエフスク」というこの架空の町のモデルは、このスタラヤ・ルーサであるとされている。

ドストエフスキーの生涯】
1821年にモスクワの慈善病院の次男として生まれる。
1838年にペテルブルク陸軍中央工兵学校に入学。
1839年に父が領地の農奴に殺害される。
1846年に処女作『貧しき人々』で華々しい作家デビュー。「第二のゴーゴリ」などと言われる。
1849年に社会主義者グループの「ぺトラシェフスキー会」のメンバーとともに逮捕される。この「ぺトラシェフスキー事件」でドストエフスキーは逮捕され、同年12月にドストエフスキーを含む21名の被告が死刑判決を受ける。12月22日、セミョーノフスキイ練兵場に引き出され、銃殺刑執行寸前のところで、皇帝ニコライ1世による恩赦の知らせが届き、死刑にかえて、シベリアのオムスクで4年間の懲役刑に処せられる。ただし、最初から直前恩赦の予定で銃殺刑が言い渡されていたらしい。
1854年にオムスク出獄。
1859年に兵役解除となり、10年ぶりにペテルブルク帰還を許される。以後、作家活動を再開。
1861年死の家の記録』を発表。
1864年地下室の手記』を発表。
1881年1月28日死去。
1881年3月1日、ロシア皇帝アレクサンドル2世が革命家によって暗殺された。ドストエフスキーはそのほんの一月ほど前に病気で亡くなった。しかし、彼が住んでいた建物の中の隣の住居には、皇帝の命を狙う「人民の意志」党のアジトがあり、テロリストたちがさかんに出入りしていたらしい。

ドストエフスキーの後期5大長編】
①『罪と罰』(1866年)
②『白痴』(1870年)
③ 『悪霊』(1872年)
→ 革命家たちによるリンチ殺人事件や、人神思想にとり憑かれた男、陵辱された少女の自殺などが描かれる。最もディープな作品は実はこれ。
④『未成年』(1875年)
⑤『カラマーゾフの兄弟』(1880年)

ドストエフスキーの父ミハイル・ドストエフスキーの死】
1839年6月、ドストエフスキーの父ミハイルが死ぬ。ミハイルの死の真相はいまだによくわかっていない。ミハイルは「チェルマシニャー」という村の領主だった。『カラマーゾフの兄弟』の中で、次男イワンは「スコトプリゴニエフスク」から遠く離れた農村チェルマシニャーを引き継ぐことになるがそれはここである。また、次男イワンと料理人スメルジャコフがこの街について言及した翌日に殺人事件が起きることも忘れてはならない。ドストエフスキーの父親ミハイルの死因は、実は他殺ではないかとされることもある。ミハイルは泥酔に見せかけて窒息死させられていたらしい。この件について、ミハイルは自分の領地の農奴に殺されたのだ、という噂は当時から広く流布していた。 ドストエフスキーの父ミハイルは、元軍医で、領民である農奴たちに対して非常に残酷な人物で、農奴の子女をレイプしたりしていたらしい。これは若き理想主義者のドストエフスキーにとって耐えがたいことであった。

ドストエフスキーと父的なものの関係】
カラマーゾフの兄弟』における「父親殺し」の主題とは、①家庭の父、②国家の父(すなわち皇帝)と、③人類の父(すなわち神)の3層を含んでいるという解釈がある。父ミハイルが死んだとき、ドストエフスキーはまだ18歳であった。この時、サンクトペテルブルクで学生生活を送っていたドストエフスキーは父の死を知らされると激しい癲癇(てんかん)の発作を起こしたらしい。フロイトが有名な論文「ドストエフスキーと父親殺し」という1928年の論文で分析するところの「ヒステリー発作」である。この父の死によって、ある意味でドストエフスキーは解放を味わったのだろうとされている。その後ドストエフスキーは『貧しき人々』(1846)で作家デビューを果たしたのち社会主義思想青年の会合「ミハイル・ペトラシェフスキーの会」に接近していく。貧富の差の拡大に抵抗する活動をしているうちにドストエフスキーは危険分子とみなされ、1849年、28歳で仲間と共に「反逆罪」で逮捕されて死刑判決が下される。しかし銃殺執行直前にドストエフスキーはニコライ1世から恩赦されて4年間のシベリアのオムスクへと流刑となる。1858年にペテルブルグに帰還する。刑期を終えてからのドストエフスキーは、革命運動からは手を引き、「理想主義的社会主義者」から「キリスト教人道主義者」へと転身し(たとされていて)、作家活動に入るが、それでも皇帝権力からの手紙の検閲などは生涯続いた。重度の賭博癖と恍惚感を伴う「てんかん発作」も生涯続いた。雑誌では、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を絶賛したり「プーシキン論」を書いたり「反ユダヤ主義」や「ロシアメシアニズム」を唱えたりもした。ロシアの父である皇帝(ツァーリ)(の権力)と自分の緊張関係(あるいは和解)と、そして、父ミハイルと自分との関係(あるいは和解)がドストエフスキーにとって極めて重要であった。ドストエフスキーは歳をとるにつれて皇帝派にすりよっているように見えるが、「カラマーゾフ万歳!」というシュプレヒコールで『カラマーゾフの兄弟』を終えているのは流石である。というのは、「アレクサンドル2世暗殺未遂事件」(1866)の主犯の名前は「ドミートリー・カラコーゾフ」だったのであり、しかもそのシュプレヒコールを叫ぶのは熱狂的社会主義者の若者コーリャ・クラソートキンなのだから。そもそも、この「父親殺し」という主題を拡大解釈すると「国民の父」、すなわち「皇帝殺し」に繋がるという読み筋はふつうにありえたわけだ。実際、ソ連ドストエフスキー学者のグロスマンは予告はされていたが書かれることのなかった『カラマーゾフの兄弟』の続編において「アリョーシャはアレクサンドル二世の暗殺計画に加わり断頭台に登る」と推定している。『カラマーゾフの兄弟』発表(1880)の1年後、つまり1881年3月1日、ロシア皇帝アレクサンドル2世が革命家によって実際に暗殺される事件が起きていることは非常に興味深い。


【田舎地主のフョードル・カラマーゾフ
強欲でアルコール依存症で、無類の女好きで守銭奴。離婚してから彼は3人(あるいは4人)の息子たちと別れて暮らしている。スメルジャコフを息子ということにするなら息子は4人だが、そこが問題なのである。商人サムソーノフの妾であるグルーシェニカが好き。総資産は12万ルーブルであり、その遺産が愛憎の元になっている。彼は物語の中で撲殺される。

【長男ドミートリー・カラマーゾフ
息子たちのうちの長男がドミートリー・カラマーゾフ。1866年4月4日,ロシア皇帝アレクサンドル2世が狙撃された事件の首謀者の名前がドミートリ・カラコーゾフDmitrii Vladimilovich Karakozov(1840‐66)であることを考えるといかにこの名前がギリギリの名前かがよく分かる。ドミートリーの愛称は「ミーチャ」。熱血漢の元将校で非常に切れやすい。父とグルーシェニカをめぐって争っており、父フョードルと仲がとても悪い。父フョードルと長男ドミートリーの仲がどのくらい悪いかというと、父が長男ドミートリーを『群盗』というシラーの戯曲に登場する「父を裏切る息子」であるフランツ・モールに喩えるくらい仲が悪い。しかも、愛憎を複雑にするのは、長男ドミートリーがグルーシェニカに恋するあまりに捨てようとしているドミトリーの婚約者カテリーナのことを次男のイワンが好きなのだ。長男ドミートリーは3000ルーブルをカテリーナに借りており、これを返すためにお金が必要で、父親の財産をあてにしている。よって長男ドミートリーに父親を殺す動機は十分にある。最終的に彼の情熱にほだされたグルーシェニカとついにモークロエ村で相思相愛になる。最終的に、ドミートリーは「馬車の中から火事で焼け出された女性たちと赤子とグルーシェニカにまつわる神秘的な夢」を見て、「すべての人間の中で最も下劣な悪党は私だ」と判事たちに宣言し、「私は無実だが、父を殺したいと思ったのだから罰を受け入れる」と宣言して20年のシベリア流刑に処される。

【ポイント:二系統の母親】
長男のドミトリーの母親はアデライーダ(金持ちで、フョードルを捨てて駆け落ちする情熱的な女性)。次男イワンと三男アレクセイの母親はソフィア(敬虔で静かな女性)。カラマーゾフの兄弟のうち長男だけ母親が情熱的で、次男と三男は母親が敬虔的である。

【次男イワン・カラマーゾフ
次男がイワン・カラマーゾフ。愛称はワーニャ。ただし、次男イワンだけは、愛称で呼ばれることは基本的にない。イワンは無神論者(とされる)。スメルジャコフ曰く「父フョードル・カラマーゾフに最もよく似て欲深いのはイワン」らしい。モスクワで活躍する批評家。劇中で「大審問官」という叙事詩を述べる。ドミトリーの婚約者のカテリーナが好き。しかも、カテリーナもイワンのことが好き。次男イワンは「大審問官」において、「地上の不幸に神が手を差し伸べないこと」に激しい怒りを表明しておきながら、他方で、これから殺されようとしている階下の自分の父親の足音を聞いていながら、父がこれから殺されようとしているのを分かっていてそれを許容してしまう。なぜなら、彼は自分の父親が死んだらいいとどこかで思っていたからだ。それを癲癇で病室にいるスメルジャコフに指摘された時、彼は激昂することになる。そして最終的にイワンは狂気に落ちていく。

【イワンと「大審問官」】
イワンは、「大審問官」という叙事詩を作中で語り始める。物語詩「大審問官」の舞台は異端審問が吹き荒れる中世末期のスペインのセビリヤである。大審問官は自分は反キリストであるとキリストに宣言する。

【三男アレクセイ・カラマーゾフ
三男はアレクセイ・カラマーゾフ。三男アレクセイが『カラマーゾフの兄弟』の主人公(ということになっているが、実際問題主人公はスメルジャコフという見方もできる。もっと深く読むならばこの物語の主人公はイワンだともされる)。アレクセイの通称が「アリョーシャ」。アレクセイは、ゾシマ長老がいる修道院に通う修道僧である。アレクセイは穏やかで優しく、人に悪意を抱かず、欠点だらけの父親や兄たちを愛している。大金持ちで美人な未亡人、ホフラコワ夫人の一人娘であり、小児麻痺が原因で、車いすの生活をしている女性リーズと相思相愛の関係にある。ドミトリーに侮辱された過去のある退役した二等大尉スネギリョフ(←誇り高い軍人だったが自尊心を完膚なきまでに叩きのめされていて、貧しい)の息子で、アリョーシャの指を川辺で噛んだ地元の子供イリューシャ(←この子は物語の終盤に若くして死んでしまう)と、その師である社会主義者のコーリャ・クラソートキンに、アリョーシャは尊敬されている。ゾシマ長老の死後に、アリョーシャはゾシマ長老の一代記(伝記)を書くことになる。当時のロシアの伝説では、「聖人の死体は腐らない」はずだったのに、尊敬する師匠ゾシマ長老の死体が速やかに腐り、アリョーシャは信仰のゆらぎに直面する。絶望しかけたアリョーシャは、ドミートリーを翻弄しているかに見えたグルーシェニカに出会い、彼女の中に純粋な魂を見出す。その後、棺の傍らでゾシマ長老の夢をみて、ゾシマ長老から促されたアリョーシャは歓喜に満たされ、打たれたように大地と口づけをする。ロシア的土壌主義の力で精神的に復活した(とされる)。ちなみに、ゾシマ長老の「長老」とは、ロシア正教会の高位の僧が持つ尊称で、ゾシマ長老は三男であるアレクセイの精神的な父であり師匠である。

【四男(とされうる)スメルジャコフ(パーヴェル・フョードロウィチ)】
農奴のことをロシア語で「スメルド」という。ドストエフスキーの父は「チェルマシニャー」で農奴に殺されたことが思い出される。父フョードル・カラマーゾフは、次男イワンが「俺はチェルマシニャーに行く」とスメルジャコフに言ったその日の夜に殺された。この暗示の意味はもはや明白である。スメルジャコフは、カラマーゾフ家の料理人。母親はリザベータ・スメルジャーシチャヤ。スメルジャコフは料理人なのもあって潔癖症。スメルジャコフは、父フョードルの支援を受けてモスクワに料理修行に行って帰ってくるとかなり老けこんでおり、「「虚勢派」(=ロシア正教からまったく独立した異端宗派)の宗徒のようだった」とされている。「虚勢派」は性器を切除して神との一体化を目指すため、皇帝権力からしても脅威であったとされている。スメルジャコフは、フョードルの4人目の息子というか庶子かもしれないのだが、カラマーゾフ家の召使として扱われている。スメルジャコフは次男のイワンに、強い影響を受けている。そもそも、スメルジャコフの誕生からして暗示に満ちていて、長年、カラマーゾフ家に仕えている召使夫婦である下男グリゴーリイとその妻マルファの間に6本指の赤ん坊が生まれるのだが、その赤ん坊が生後2週間で死亡し、その赤ん坊が死亡した日の夜中にカラマーゾフ家の風呂場に迷い込んだスメルジャーシチャヤという死にかけの女が風呂場で産み落とした赤ん坊がスメルジャコフなのだ。そしてグリゴーリィとマルファがスメルジャコフの育ての親となる。ちなみに、パーヴェル(=名前)・スメルジャコフ(=臭い男)・フョードルヴィチ(=フョードルの息子)は、カラマーゾフ家の敷地内で産まれたが、父フョードルの息子かどうかについては議論がある。「カラマーゾフ」と名がついた者は、みんな生命的だが、「スメルジャコフ」は虚勢的で非生命的であるし、名前にも「カラマーゾフ」とついていない。最終的に、真犯人探しの裁判が始まると彼は癲癇(てんかん)の発作で倒れる。靴下の中に3000ルーブル隠している。イワンに3000ルーブルを返してスメルジャコフは首吊り自殺。

【フョードルの死】
フョードルが何者かに撲殺され、3000ルーブルが奪われる。同日の夜、カラマーゾフ家の召使グリゴーリィは、塀を乗り越えて逃げ出すドミートリーを見つけるが、ドミートリーに殴り倒され気絶する。ドミートリーは血まみれで商店に行き食物や酒を買い込む。ドミートリーが向かった村の宿では、グルーシェニカが、昔の恋人ムッシャローウィチと再会していた。ドミートリーは、自分がグリゴーリィを殺したと思っている。警察官と検事がやってきてドミートリィを父親殺しの罪で逮捕し、ドミートリィは、自分は父フョードルは殺していないと言うが信じてもらえない。ドミートリー裁判にかけられる。一方真犯人のスメルジャコフはイワンに、「あなたにそそのかされたのだ」という。スメルジャコフは、イワンの「神も不死もなければ全ては許される」という無神論にそそのかされて実行しただけだと言い、イワンこそ主犯だと言い、そして自殺する。イワンは彼の言葉によって自分自身の隠された欲望に気づいて狂気へと追い込まれる。イワンはスメルジャコフの告白に戦慄し、自分が従犯として訴えられることを覚悟のうえでイワンは法廷で真実を話すが、誰にも信じてもらえない。イワンを愛するカテリーナが、イワンをかばうために、ドミートリーが酔って「父を殺してやる」と書いた文書を提出したため、ドミートリーの有罪が確定する。

【第2部第5編「プロとコントラ」第5章:大審問官】
作中叙事詩「大審問官」は、16世紀のスペインが舞台で、異端審問の時代。大審問官と復活したキリストが対峙する。大審問官は「人間は自由の重荷に耐えられない生き物であり、自由と引き換えにパンを与えてくれる者に従うのだ」と主張する。これは20世紀の全体主義の問題を予言するかのような問題提起だった。そもそも福音書のマタイ伝には「人はパンのみに生くるにあらず」とある。しかし、大審問官は地上のパンの大切さを確信している老獪な人物である。「聞くがいい。我々はお前とではなく「あれ」とともにいるのだ。これが我々の秘密だ。我々はもうだいぶ前からお前につかず、「あれ」についている。」と大審問官はキリストに言い放つ。ここでいう「あれ」とは悪魔のことである。キリストは、大審問官に敗北を認めつつ大審問官に口づけをする。その瞬間、大審問官の心は燃え上がる。イワンは、「大審問官」の中で「神がいなければ全てが許されるのではないか」「神がいるならなぜ世界に悪がこれほどはびこっているのか。」「神が創った世界は調和に満ちているなら、なぜこれほど世界には幼児虐待があるのか。」とアリョーシャに問いかける。アリョーシャは、その問いかけを受けて、ただイワンに口づけする。それはキリストが大審問官にした行為と同じであった。


【『カラマーゾフの兄弟』の何が興味深いのか】
カラマーゾフの兄弟』の興味深さは、「イワンではなくむしろアリョーシャこそが現実主義者である」、という点だろう。ドストエフスキーは、「アレクセイこそが現実主義者だ」と言っている。つまり、ドストエフスキーは人間の心を本当の意味で見抜いているのはイワンではなく実はアレクセイだと言っているのだ。『カラマーゾフの兄弟』のまさにここが根本的である。なぜなら、無神論者のイワンが現実主義者で、修道僧のアレクセイが理想主義者だという解釈に誰しも引きずられるからだ。しかし、それがちょうど逆なのである。ここが端的に深い。というのも、「大審問官」は次男イワンが作った作り話なのである。それなのに、その劇中物語「大審問官」の中に、大審問官がキリストに敗北宣言をされつつ、最後にキリストにキスをされ、なぜか一瞬大審問官の心が燃え上がるようなシーンがあるのだ。なぜイワンは、自分で作った反キリスト的な話に信仰のかけらを潜ませてしまったのか。イワンが、実は自分の信仰を否定しつつもそれを捨てきれていないことをアリョーシャは見抜いていて、それでアリョーシャはイワンにキスをするのである。アリョーシャはイワンの心に信仰が残っていることを見抜いたから、そこに賭けようとしてキスをするのである。対するイワンは、この「大審問官」において、一方で「地上の不幸に神が手を差し伸べないこと」に対する激しい怒りを表明しておきながら、他方で、これから殺されようとしている自分の父親に対しては、彼がこれから殺されようとしているのを分かっていながらそれを許容してしまう。つまり、イワンは冷静で知的に理論武装しているように見えるが、実は弱さと不安と欲望を抱えているのだ。

 

ドストエフスキーに影響を受けたとされている作家】

埴谷雄高の『死霊』
加賀乙彦の『宣告』
高村薫の『照柿』
大江健三郎の『さようなら、私の本よ』
島田雅彦
鹿島田真希の『ゼロの王国』は『白痴』を踏まえた長編