aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

英語を学ぶのに役立つ音楽


julie andrews, "Do re mi"(1965)

Ben E. King, "Stand by me"(1961)
John Denver, "Country road"(1971)

Doris Day, "Que sera sera"(1956)

Andy Williams, "More"(1967)
Elvis Presley, "I really don’t want to know"

Diana Ross & the Supremes and The Temptations, "I'm gonna make you love me"

Dolly Parton, Linda Ronstadt & Emmylou Harris, "To Know Him Is To Love Him"

Les Paul and Mary Ford, “I really don’t want to know”

 

ビートルズ
The Beatles, "Hold me tight"

The Beatles, "Tell me what you see"
The Beatles, "Any time at all"
The Beatles, "yellow submarine"
The Beatles, George Harrison, "something"
The Beatles, "when I'm sixty four"
The Beatles, "A day in the life"
The Beatles, "Maxwell's Silver Hammer"
The Beatles, "being for the benefit of mr. kite"
The Beatles, "back in the U.S.S.R."
The Beatles, "Eleanor Rigby"
The Beatles, "Octopus's Garden"
The Beatles, "Hello, good bye"
The Beatles, "Mother nature's son"

The Beatles, "she loves you"

The Beatles, "No reply"

The Beatles, "Tell me what you see"

The Beatles, "all together now"

The Beatles, "good night"

The Beatles, "I saw her standing there"
The Beatles, "She's leaving home"
The Beatles, "In my life"
The Beatles, "If I fell"
The Beatles, "The end"
The Beatles, "Here there everywhere"
The Beatles, "Yesterday"
The Beatles, "and I love her"
The Beatles, John Lennon, "You can't do that"
The Beatles, "Norwegian wood"
The Beatles, Paul McCartney, "Getting better"
The Beatles, "Come Together"
The Beatles, "Please please me"
The Beatles, "Across The Universe"
The Beatles, "Not a second time"

美学ノート


【漢字の美の語源】犠牲獣が大きくて美味いというのが、漢字文化圏における美の語源。


ラテン語のプルケルの語源】プルケルも犠牲獣が力強いという意味だった。ギリシャ語のカロスの訳語として使われた。むしろ「力」という意味が強い。ギリシア語において美と善とは渾然一体となっていた。


【藝術の語源】漢字圏において、藝は、現代の意味での芸術というよりは、むしろ「学問」という意味だった。ちなみに術は、「家と家の間の小道」という意味。


【アートの語源】アートの語源はラテン語のアルスであり、それはギリシア語のテクネーの直訳である。ギリシア語にはもうひとつ、ミーメーシスもあった。


【ミーメーシス】アリストテレスは、あらゆる芸術の形態を一括してミーメーシスと呼んでいた。


【日本語の美学の語源】ドイツ語のエステーティックの翻訳が美学という日本語なのではない。日本語における「美学」という言葉はフランスのジャーナリストであったウージェーヌ・ヴェロンの著書『L'esthetique』を、思想家の中江兆民が1883年から1884年にかけて『維氏美学』として翻訳し、文部省出版局から出版したことからはじまった。 さらに西洋近代語の「美学(esthètique、aesthetics、Ästhetik)」という言葉の源流をたどると、18世紀ドイツの哲学者、A.G.バウムガルテンが、古代ギリシャ語で「知覚」を意味するAisthesis(アイステーシス)から、「感性的認識の学」を示すAesthetica(エステティカ)という用語を案出し造語したことに端を発する。つまり、古代ローマ時代にあったラテン語ではないのだ。ただし、美についての哲学的思索としての美の学は、バウムガルテンによって始まったのでは全然なくて、プラトンからアリストテレスプロティノストマス・アクィナスフィチーノへと受け継がれて行った歴史あるものであり、18世紀にドイツ人のバウムガルテンが美学を作った、のではない。バウムガルテンは、「アルス・プルクレー・コーギタンデー」と定義した。「美しく考えることの学」なのである。


【美学の対象】美学の対象は、自然美や数学の構造美や、人格美など、世界の全てのものを含みうる。


【昔から芸術と美は不一致】芸術と美の一致はなくてもいい。美しくないものが芸術であってもかまわない。なにせ、ダヴィンチですら、真理の表現を目指した結果、美しい絵が副産物として残ったのだ。ダヴィンチだって美しさを目指していたわけではない。芸術は真理を目指すものであるから、必ずしも美しくなくてもいいのであって、ダヴィンチの作品が美しくもあるのはたまたまである。


華厳経モナド華厳経の一即一切、一切即一という思想があるが、これはギリシアのヘンカイパーンやモナド論と似ていると言われることがある。


【ダイナミゼーション・オブ・スペース】エルヴィン・パノフスキーによると、空間の動態化が映画の本質である。時間の空間化が映画なのである。演劇には出来ないが、映画には出来るとされるのが空間の動態化である。

認識能力の古典順序

「悟性」と訳されるドイツ語のフェアシュタントは、フランス語のアンタンドマン、ラテン語のインテレクトゥス、ギリシア語のヌースである。これはかつて、最上位の認識能力とされ、日本語ではその意味においては「知性」と表記される。

 

他方、「理性」と日本語に訳されるドイツ語のフェアヌンフトは、フランス語のレゾン、ラテン語ラティオー、ギリシア語のロゴスである。


カント以降においては、「悟性(フェアシュタント)」は「理性(フェアヌンフト)」よりも下位に置かれ、理性の助けがなければ未完成的で有限なものとされ、悟性のさらに下に感性(センスス)が置かれた。

 

ドイツ観念論におけるインテレクトゥスとラティオの逆転はカントによるものだ。なぜなら、カントは、世界そのものを知的に直観する能力は人間にはないという有限主義の立場に立ったからである。物自体は不可知なのである。

 

まとめると、①インテレクトゥス(知性=ヌース)→②ラティオ(理性=ロゴス)→③センスス(感性)というのがカント以前であり、

 

ラティオ(理性)→②インテレクトゥス(悟性)→③センスス(感性)というのがカント以降の序列なのである。

現象学ノート

 

【存在と存在者の区別】

存在するものは存在者(ダス・ザイエンデス)である。存在者を存在させるものが存在そのものである。何かを存在させるものが存在そのものである。存在させる者(=存在)によって存在する者(=存在者)は存在そのものではない。たとえば、子ネコは親ネコから産まれてくる。親ネコは子ネコを存在させるものである。では、親ネコが存在そのものなのかといえば、そうではない。親ネコも他に依存的である。存在そのものは自存(=それ自体で存在)するので、他のものに原因を持たない。存在そのものは何かを存在させるものである。存在者は存在によって存在するのである。

 


【「存在=神」という等式】

「存在=神」という伝統的な等式がある。この等式を論じるのを「存在神論」という。この等式が意味するのは、「存在そのもの(エッセ・イプスム)は神という存在者である」ということである。つまり、「存在は存在者である」ということである。この伝統的な等式を拒否しようとするのが、ハイデガーの哲学なのである。しかし、ハイデガーがこの等式をどこまで拒否できているかどうかは、実は不明である。

 


【「定義」とは何か】

定義とは基本的には、「種差+類」である。たとえば、「人間とは、言葉を話す動物である。」という定義をした場合に、「言葉を話す」というのが種差であり、「動物」というのが類である。種差というのは、同一類に属するある種を他のすべての種から区別する特定の徴表である。動物という類において、「人間」を他のすべての動物から区別している「理性」は種差である。つまり、定義というのは、類に属するものに対して種差を使って成されるのだから、最上位の類であるものとして存在を考えた場合、「存在」は定義できないのである。

 


【存在そのものは「定義」できない】

存在そのものは定義できないとされる。なぜ定義できないかというと、存在は最上位の類だからである。定義とは基本的には、「種差+類」であるから、最上位の類である存在については、「存在は、種差な類である。」という文を作ることができないのである。

 


存在論的差異

存在者と存在は違う。「Xは存在する」のXにはいろいろな存在者を入れることができる。しかし、そのXに、「存在」を入れることはできない。なぜなら、存在するのは存在者だけだからである。

 


【存在の意味を問うこと】

直ちに意味が理解可能な問いは、存在者に対する問いに過ぎない。しかし、「個々の存在者とは何か」ではなく、「そもそも存在とは何か」という存在の意味への問いはなかなか立てられるのが難しい。

 


【なぜ机という存在者を存在の意味の問いの手掛かりにできないのか】

問いを立てることで、問われていることを漠然とであれ理解しているものこそが手掛かりとしてふさわしい。「問いを立てることで、問われていることを漠然とであれ理解しているもの」のことを「現存在(ダーザイン)」という。昔、現存在は、意識や人間と呼ばれていた。我々は全員be動詞を使っている。be動詞の意味がわからない人はいない。それゆえ、我々は、存在の意味を漠然とであれ了解しているのである。現存在は、その漠然とした「存在了解(ザインスフェアシュテントニス)」を持っているのである。現存在は、「その都度私がそれであるその当のもの」である。「その都度私であるもの」が「現存在」である。

 


【時間性(ツァイトリッヒカイト)】

存在の意味を時間性から明らかにしようというのが『存在と時間』の前半部の主題である。

 


【現存在は世界内存在である。】

現存在は、インデアヴェルトザインである。そもそも、現存在は、内存在(インザイン)である。「ザインイン」と「インザイン」は違う。コップの中に水があったり、タンスの中に服があったりするのはザインインである。しかし、インザインは、常に既に住み着くことである。現存在が存在するならばその都度必ずそれは世界と切り離し難く関わって存在するのである。つまり、現存在はまず存在し、それからその次に、二次的に世界のうちに歩み入るのではない。現存在が存在するならば、それはそのままただちに、世界の内に在って世界と関わってしまっていることを意味する。人間にとって故郷(ハイマート)であるような場が世界なのである。

 


【現存在はその都度私のものであるところのものである】

存在への問いはダーザインをその手がかりとする。ダーザイン(現存在)は、イェー(その都度)マイネス(私のもの)である。しかし、多くの場合、現存在は平均的な日常性においては、むしろ固有(アイゲン)な自己を失ってウムアイゲントリッヒな在り方に頽落(フェアファーレン)しているのである。

 


【ツーハンデンザイン】

ハンマーを手にして、それで釘を打ち付けることができることが、ハンマーを知っているということである。世界にあるものの与えられ方は、そういうふうに与えられる。太陽は灼熱の物体である以前に我々を温めてくれる恩恵として与えられる。全てのものは、何らかの形で生に関わるものとして意味づけがされおわってから与えられるのだ。その意味で世界は我々に馴染み深いハイマートなのである。そして道具的存在者はひとつで孤立しているわけでは決してない。我々がハンマーを使えるためには板や扉や釘が必要で、そのハンマーが置かれた作業場が必要だ。ハンマーは道具連関の中でのみ働く。道具が働くのはそれがところを得ているからである。適所性(べバントニス)がなければ道具は働かない。世界が世界であるのは有意義性(ベドイトザームカイト)においてである。

 


【水車と川さえ人間化される】

水車がツーハンデンザインならば、川も、雨も道具連関の中で、ツーハンデンザインであることになる。大地はそこを踏みしめてどこかへ向かうための場であり、川はそこで人が身体を洗い身を清める場であるということになる。風は単に吹き過ぎて消えるのではなく風車を回し、それによって小麦を砕くツーハンデンザインである。これら全てが故郷としての世界を作る。それら全ては有意義性を持つ。大地は動かないのである。

 


【しかし大地は揺れる】

しかし、大地は動く。洪水が起きて人はそれに飲み込まれる。世界は人間のハイマートであるどころか、むしろ世界は人間とは異質でよそよそしい何かであると考えるのがレヴィナスであった。

 


【他者は不在においてさえ居合わせている】

岸に繋がれたボートは、そのボートで漕ぎ出ようとする誰か知人を指示し、他方また、見知らぬ(フレムトな)ボートであってさえも、そのボートは見知らぬ他人を指示する。このようなハイデガーの他者の取り扱いついて、ハイデガーが目の前に現前する個別具体的な他者の問題をあらかじめ置き去りにしてしまったとして批判するのが和辻哲郎レーヴィットである。和辻はハイデガーの死が「その都度一人称の私の問題であること(イェーマイニヒカイトJemeinigkeit)」を批判したのである。ハイデガーによれば、抽象的な他者というのは不在の現前として常に欠如的にも現れうる。しかし、そのような影の薄い他者や、欠如的にのみ現れる抽象的な他者に注目するのではなく、まさにいま目の前に居る個別具体的な他者に注目すべきであったというのがカール・レーヴィット和辻哲郎であった。レーヴィットの著作『Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen:共にある人間という役割における個人(共同現存在の現象学)』とは、むしろ世人の現象学なのであった。

 


【世人】

世人は他ならぬ自分の生の大部分をまるで他人事(ひとごと)のように生きている。ふつうの日常において、現存在は共同現存在である。共同現存在は、ほぼ世人である。世人は他者たちと共にあり、誰も自分自身なんかを生きてはいない。世人はウムアイゲントリッヒ(非-固有本来的)である。そう、アイゲンとは、固有という意味なのである。

 


【死すべきもの】

それぞれが現存在であり、それぞれが自己であるのに、その他ならない自己のあり方は多くの場合アイゲントリッヒ(固有本来的)ではないというのがハイデガーの分析だ。ではどうしたら、アイゲントリッヒになれるのだろうか。ハイデガーによれば、人は「死すべきもの」である限りで、もはやひとごとではない固有の生を生きざるをえないのである。全てがひとごとでありうるとしても、たったひとつだけ決してひとごととなりえない事柄がある。それが死だ。誰も私の代わりに死ねないし、私も誰かの代わりに死ぬことができない。だから私の死はアイゲンである。死一般ではなく、この私の死は、アイゲンである。ハイデガーは有限な生を、有限なままに内側から肯定しようとしているのである。

 


【なぜ有限的な生はわざわざ肯定されなければならないのか】

①生それ自体の肯定はまったく不必要かもしれないし、②あるいは、生それ自体の肯定をしようとしないどころか、有限的な生それ自体の意味を否定するような思想もありうるかもしれない。③あるいは、生の意味はと問うこと自体が贅沢な営みであるとするなら生を肯定する思想を言葉で表現しようとするのは贅沢な営みかもしれない。しかし、ややもすると生の意味の全面的な否定や絶望を組織するしかないような思想は思想として二級品である。それらが思想として二級品である理由は、思考の表現というものが持つ責任を果たしていないからである。生の意味の全面的否定を説く思想、たとえば自殺の美学を文章にして雄弁に説くというのは矛盾しているのである。旨いものを食いながら、他者に向けて生の意味を全面的に否定する思想、例えば「自殺の美学」などを言葉でもって語るというのは不健康である。思想というものはそういうものではない。我々が生きている限り、我々の身体は時々刻々と自分の生を肯定し続けているのに、その肯定を我々が自ら否定するというのは、思想としてどこかが一貫していないのである。身体である我々が生の肯定を意志しているのに、その身体がその否定を意志するのは矛盾しているからだ。

 


【人間は世界内存在である限り常に何らかのシュティムング(気分)のうちにある】

人間がジッヒ・ベフィンデン(=どこかにあること)するからには、必ずベフィントリッヒカイト(情態性)を持たざるをえない。人間の在り方には常にベフィントリッヒカイト(情態性)がまとわりついているのである。では、人間にとって最も基本的なベフィントリッヒカイトとは、一体何だろうか。それが不安(アングスト)である。

 


【なぜアングストがもっとも基本的な気分なのか】

なぜアングストがもっとも基本的な気分なのか。我々には被投性があるからである。我々はその都度存在している。しかし、我々は生まれることに同意した覚えはないし、世界は私が作ったものでは全然ない。我々は、我々がどこから来てどこへ立ち去って行くのか、何のために生きるのか、それがあらかじめ分からないままで、とにかく、とりあえず存在しているからである。我々には我々や世界が存在する理由や根拠が分からないからである。だから、現存在はこのアングストという特異な情態性(ベフィントリッヒカイト)に根本的に常に拘束されており、それを何かに夢中になることによって忘れることはあれど、結局基本的にはいつもこのアングストは潜在しており、この情態性からは決して逃れられないのである。人間の基本設定はアングストなのである。このような不安に囚われたとき、世界はもはやウムハイムリッヒ(よそよそしくて不気味なもの)なものとなる。不安に囚われたとき、世界はもはやハイム(家)でもなんでもなくなるのである。こうなってしまったとき、世界はそれ自体としては剥き出しの不気味さを持っているのではないか。世界が馴染み深いものとしてあるという根付きの気分は、いつまでもこの生が続くという素朴な思い込みを前提とした錯覚だったのではないか。

 


【死はエンデでありグレンツェである】

死はその人がどんな信仰(天国、輪廻転生など)を持っているかに関わらず、「この生」の「終わり(エンデ)」であり、「限界(グレンツェ)」である。境界というのは、そこまでがそのものであるような目印である。死は、その死を含んで、その死までの生を生の全体として定めるような、そういう目印である。死をまだまだ先のものとしていつまでも繰り延べていると、この生の全体をまさに自分に固有なものとして生きることができない。全体的な生、また全体的であるがゆえに、固有である生を生きるためには、必ず到来する死を引き受けなければならない。死へと先駆することは、この生の全体を定めて、この生を固有なものとすることなのである。

 


【死は不可能性の可能性である】

死は「そこに至るとすべての可能性が失われて一切が不可能(ウンメッグリッヒ)になるようなもの」である。死は、その都度、現存在自身が引き受けなければならない、最も固有で、交渉を欠いた、追い越しえない、不可能性(ウンメグッリカイト)の可能性(メックリッヒカイト)である。

 


【先駆的決意性(フォアラウフェンデ・エントシュロッセンハイト)】

死に向かって自分の全体としての固有な生にあらかじめ先駆けていく(フォアラウフェンド)ようなあり方が先駆的決意性である。このありかたにおいて初めて人は自分の生の全体を我がものとし、固有なものとすることになるのである。つまり、「死に関わる存在(ザイン・ツム・トーデ)」であることを引き受けることにおいて、初めて人は自分の有限的な生そのものを残りなく自分の手にすることになるのである。それはまるで、旅に出て、「旅にはいずれ終わりが来ることを知っている」というまさにそのことによって、あらゆる日常的な風景や旅先での親切がたった一回きりの代替不可能で反復不可能なかけがえのないものに思えてくるように、である。我々の人生だって、実際には旅のようなものなのである。すべての旅が、その終わりを区切られることによってまさにその旅、固有なその旅となるように、全ての生も、それが終わりを持つことによってまさに限りあるその生(閉じた一個の全体であり固有なその生)となるのである。旅の一日一日が二度と戻ってこないかけがえのないものであるならば、生きられた日々がなぜそうだとはいえないのか。たしかに、死を直視すれば絶望するだろう。前線の兵士は絶望しているだろう。しかし、「今年の花を来年もまた見れるとは限れない」というそのことのもつまさにその一回性において、全ての経験のそれぞれが輝きだすということは、じゅうぶんにあり得ることである。

 


【時間性の変換:「未来」から「将来」へ。そして「過去」から「既在」】

死への先駆けを考えることがなぜ画期的なのかといえば、そのことが時間性の捉え返しを含むからである。「過去は過ぎ去ってもはやない、そして、未来はいまだない。その過去と未来の間に挟まれて、わずかな現在がある。」という日常的な時間性は、「死はまだ当分やってこないだろう」という考えと非常に親和的である。しかし、「未来」ではなくて、「まさに来たらんとするもの、ある意味では、既に今、半ば現前しているもの」として「将来」を考えて、そして、生の全体を自分がとらえるべきなのであるから、「既に自分がそうであったものとして今、引き受けられたあり方」として、過ぎ去らない「既在」を考えられるのである。時間がこういう構造をもつことで我々は生の全体をとらえることができるというのがハイデガーの議論のもう一つのポイントである。

 


ハイデガーユダヤ人】

興味深いことに、ハイデガーの周辺にはユダヤ人が数多くいた。ハイデガーが最も高く評価した最初の弟子カール・レーヴィットも、「愛人」だったとされることもあるハンナ・アーレントも、レヴィナスユダヤ系の学生であった。レーヴィットナチスの台頭とともに、ローマに亡命し、そのあと仙台に、そしてアメリカに亡命した。それに対してレヴィナスは、一兵士として従軍し捕虜収容所に囚われた。出身地リトアニアカウナスにおいて、レヴィナスの近親者はほとんど虐殺されていることが分かった。

 


【無(ネアン)の不可能性としての痛み】

生の意味を取り返す経験が死への先駆だけとは限らない。世界のうちでむしろ無こそがありえないことを端的に表示する経験が「痛み」の経験であるとレヴィナスはいう。「痛み」の経験がむしろ生を見つめる機会となるのである。「痛み(souffrance)」は無の不可能性をこそ告げる。ハイデガーとはこの点で対照的である。ハイデガーは、「無(Nights)→不安(Angst)→死(Tod)」という系列で思考している。不安は、何についての不安でもない、対象を欠いた漠然とした気分なのであるが、強いていえば、無を前にした不安なのである。そして、その無は、そうと気付かれているかどうかは別として、「死」なのである。しかし、レヴィナスは「決して無ではありえないことこそ問題にされるべきではないか」と問う。身体的な痛みこそ、無の不可能性(L’impossibilité de néant)を明かすのである。「この痛みさえ消えてくれるならば世界全部と引き換えにしてもいいと思っても現にその存在を主張し続ける」のが「痛み」なのである。「世界よ、痛みごと消えてくれるなら無であって構わぬ」といくら願ったところで、痛みはその存在を執拗に主張してくるのである。ハイデガーは無を強調するが、レヴィナスはより切実な問題でありうるような「無の不可能性」をこそ強調するのである。死ではなくむしろ痛みの経験において生の意味は取り返されるのではないかと、問いを立て直したのがレヴィナスである。生の意味が取り返されるのが痛みの経験だけとは限らない。食事の経験であってさえ、よいのではないか。

 


ハイデガーの死の捉え方の一面性に対する批判】

ハイデガーは死への先駆を強調することで、あくまで能動性(activité)において死を捉えようとする。疑いようもなく、死へと先駆けていくことは、確固たる「主体性(主人maître性)」と「能動性」を前提する。しかし、「死」とはそういうもの、それだけのものなのだろうか。「死」というのはむしろ端的に、我々が究極的には「受動的」であることをこそ明かすのではないか。ハイデガーは死を、ある種の「雄々しさ(virilité)」に覚醒する契機として捉えているようにも見えるが、むしろ死は我々の受動性(passivité)をこそ明かしているのではないだろうか。死において、我々はもはや主人(maître)たりえないのである。

 


ハイデガーが取りこぼした「他者の死」という論点】

ハイデガーにとって主要に問題だったのは、あくまで「自己の死への先駆による自己の生の固有な全体の獲得」であった。しかし、「自己の死」と「他者の死」とを並べて単純に比較したとき、「自己の死」のほうが「他者の死」よりも問題であることの根拠はどこにあるのだろうか。日常的に言えば、「傍ら(ダーバイ)にある他者の死」のほうが「自己の死」よりも重大で切実な問題であることは十分に考えられることである。「一人称の死」を重視するあまり、「二人称の死」を棚上げにしてはならなかったはずだ。人というのは、場合によっては、それが叶わぬ望みであるとしても「他者の死」よりもむしろ「自分の死」を選び取ることさえありえるような動物なのである。我々は「他者/に対して/のために/の代わりに/ある一者(l'un-pour-autrui)」なのである。我々はある局面で、ハイデガーがそんなことは不可能だというのに反して、「他者の代わりに死ぬ」ということがありうる。私にとって、最も切実な問題が、自分の死ではなくて、他者の死であってなぜ悪いだろうか。

経験論の私的ノート

【経験論から言語哲学へ】

 

 

 

 


【イギリス経験論:方法自体を反省するときさえ、その方法に依拠する】

「経験から実践知を得ようとするそうした試みを(その方法自体を反省するときさえ、その方法に依拠するような愚直さで)包括的に実践し、その結果、多様な思考を生んできたのが、近代の「イギリス経験論」であった。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p3)

 


【経験から実践知へ】

「イギリス経験論は、経験から実践知を得ようと試みる方法を(その方法自体を反省するときさえ、その方法に依拠するような愚直さで)包括的に実践した。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p13)

 


【ロックの精神の能動性】

「精神は、さまざまな集成を作るにあたり、しばしば能動的なパワーを行使する。というのも、ひとたび精神に単純観念が備え付けられると、精神はこれを集めてさまざまに構成することができ、こうして多様な複合観念を、それが自然の中でもそのように一緒に存在するかどうか検討することなく、つくることができるからである。」(ニディッチ版『人間知性論』第2巻2-22、p.288)

 


【ロックの精神の複合観念に対する能動性】

「精神はその単純観念に関してはまったく受動的であるが、複合観念に関してはそうではないと言ってよいであろう。なぜなら、それらは、一緒にされ、一つの一般名辞のもとに統合された単純諸観念の組み合わせなので、人間の精神がそれらの複合観念を形成するうえである種の自由を行使することは明白だからである。」(ニディッチ版『人間知性論』第2巻30-3、p.373)

 


【ロックにおける一般観念を形成する困難と労力】

一般観念は精神のフィクションであり案出物(contrivances)であり、困難を伴い、われわれが想像しがちなほど容易には現れてこない。例えば三角形の一般観念(これは最も抽象的で包括的で困難な観念などではないが)を形成するには、いくらかの労力と技術が必要になるのではないだろうか。というのも、三角形の一般観念は斜角でも直角でもいけなく、等辺でも二等辺でも不等辺でもいけなく、それらのすべてであると同時にどれでもないのでなければならないからである。つまり、それは、存在するはずのない不完全な何か(something imperfect, that cannot exist)、すなわち、いくつかの異なった、そして互いに両立しない諸観念のいくつかの部分が寄せ集められた一つの観念である。この不完全な状態にある精神は、そのような諸観念を必要とし、知識の伝達と拡大の便宜のために、それら諸観念のもとへ急ぐのである。(ニディッチ版『人間知性論』第4巻 7-9 p.596)

 


【ロックにおける「人格」の定義】

「人格とは思考する知的な存在者であり、理性を持ち反省を行い、自分自身を自分自身として、つまり異なる時間と場所において同一である思考する者(the same thinking thing)として考察することのできる存在者である。」(ニディッチ版『人間知性論』第2巻 27-9 p.335)

 

 

 

【シャフツベリ:自然の形成力はわれわれの道徳的経験にいきわたっている】

子ども時代、祖父の盟友であるロックを家庭教師として学んだ哲学者であり政治家でもある第三代シャフツベリ伯爵(Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury: 1671-1713)は、人間の自然な情愛や感覚が、利己的な情念を制御し、秩序を生むという論点を強調する。それによって、知性の幅広い役割を強調するロックの立場に対し、むしろ感覚や感情を重視する経験論者たち(ハチスンやヒュームやスミスら)に道を拓くことになった。シャフツベリの論点を、代表作の一つである『徳あるいは価値に関する研究』の議論を通して整理しておこう。

 シャフツベリは、われわれが自分や他人の行為を反省する経験そのものを反省、考察しようと試みる。「われわれが自分や他者の行為を反省するとき、その行為が「自然な情愛(natural affections)」を通じてなされたか否かをただちに識別し、賞賛すべきものと憎むべきものを「内なる目 (inward eye)」によって区別するという経験についてである。これは、どのような経験なのだろうか。

 シャフツベリは、自然な情愛や情念と、自己保存のための私的な情念をわれわれがただちに区別する経験を次のように描いている。前者は、愛、感謝、恵み深さ、寛大さなどで、それ自体が精神的快楽を与えるだけでなく、「正邪の感覚(sense of right and wrong)」を通じてさらなる秩序を生むのに対し、後者は、生命への愛、食欲、性欲、賞賛や名誉への愛など、個人や社会の存続のために必要だが、それらが過剰になってしまうと、自然な情愛を失い、他人や社会から離れる結果を招いてしまう。まして、残酷さ、悪意、敵意、嫉妬などといった反自然的な情念をもつことは、自然な情愛を完全に失うことを意味し、本人だけでなく、誰にとっても不幸なこととなる、と。

 シャフツベリは、このような区別をただちになす「内なる目」を、「知性」と呼ばず、「正邪の感覚」や「秩序と均整の観念あるいは感覚(the idea or sense of order and proportion)」と呼ぶ。われわれは、自然の形成力をただ漫然と見ているだけではなく、自然が形成する全体の調和・秩序に「美」を感じそれを賞賛し愛するよう自然によって性向づけられている。したがって、「邪悪」や「卑劣」などといった道徳的な区別も、立法者の意志や神の意志によってつくられたものではなく、自分がその一部となっている全体(仲間、家族、同胞などの「種」や「システム」)との調和への愛(あるいはそれらとの調和を乱すことでバランスを失う情動への嫌悪)をもつわれわれの性向から生じる「自然な感覚」であるとされる。

 このようなシャフツベリの所論を貫いているのは、独特な自然観である。シャフツベリは、自然を、有機体のように形態を形成する力を内に宿す「形成的自然(plastic nature)」(Characteristics of Men, Manners, Opinions, Times, Cambridge Texts in the History of Thought, 1999. pp.93, 240) 、つまり、調和と秩序を形成する「生命的原理」(Ibid, p.307)として見ている。「自然な情愛」がさらなる秩序を生むこと、そして、そのような秩序に美を感じ「自然な情愛」をわれわれがただちに賞賛するということ。「この二つの事実を、シャフツベリは経験を反省することを通じて観察し、自らの自然観の例証ととしているのである。

 このようなシャフツベリの自然観は、古代ギリシアの哲学や、ケンブリッジプラトニストたちの自然観に通じる。しかし、シャフツベリは、自然の形成力がわれわれの道徳的経験にまで及んでいることを、自然な情愛とそれを賞賛する自然な感覚がさらなる秩序を生むという経験の反省を通して例証している。そして、そのような経験論的議論を通じて、「知性による労働」でなく、「自然な感覚」を重視する結論に至ったのである。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p42-44)

 


【ハチスン:道徳的感覚(モラル・センス)とは何か】

シャフツベリの洞察のなかから道徳的感覚という論点を継承し、他の外的感覚との類比とその含意を探求した論者に、フランシス・ハチスン(Francis Hutcheson: 1694-1746)がいる。ハチスンは1694年にアイルランドで生まれ、後にスコットランドの大学で道徳哲学を教え、ヒュームやアダム・スミスらに大きな影響を与えた人物である。この章の最後として、ハチスンの代表作『美と徳の観念の起源』などの論点の特徴を確認しておこう。

 第一に、ハチスンは、われわれの感覚の被決定性や受動性を強調する。感覚とは「われわれの意志から独立して諸観念を受けとり、快苦の知覚をもつわれわれの精神の決定(determination)」(Essay on the Nature and Conduct of the Passions and Affections, in Collected Works of Francis Hutcheson, Ⅱ, Georg Olms Verlagsbuchhandlung Hildesheim, 1971. p.4、以下EN)である。われわれはある対象から、感覚を通して、意志や利害とは関係なしに、不随意に、受動的かつ必然的に快を受けとる(An Inquiry into the Original of our Ideas of Beauty and Virtue, 4th edition, 1738, Lincoln-Rembrandt Publishing. xiv, ILL pp.135,140, 以下INQ。EN p.2)。 これと同様に、われわれは博愛(利他心)を見るときに、自分の利害・意志に関係なく、ただちにある特殊で単純な快、是認を感じる(INQ p.107)。したがって、「われわれが美徳と呼ぶ理性的行為者の感情、行動、性格を是認することへの決定」(INQ xv)としての「道徳的感覚(moral sense 以下、モラル・センス)」をわれわれはもっている。

 第二に、ハチスンは、理性と感覚の分業を強調する。感覚は、対象が現れると、自分の利害についての反省なしで「一見して」作用する(at first view INQ pp.79,83)。同様に,モラル・センスとは「観察された行動からわれわれに及んでくる利益や損失についてのどんな意見にも先立って、その行動から是認や否認の単純観念を受けとる精神の決定」(INQ p.84)であり、モラル・センス自体の作用に推理は含まれない。これに対し、理性は「新しい種類の観念を生じさせず、受けとられた観念の関係を発見識別する」(Illustrations on the Moral Sense, 3rd edition edited by Peach Bernard, Harvard U. P., 1971. p.135以下ILL)にすぎないので、理性が是認や否認を感じさせるのではない。

 第三に、ハチスンは、観察することで動機づけられるという論点を重視する。美徳は、観察者のなかに行為者に対する善意あるいは愛を引き起こす(INQ pp.84-85)。つまり、博愛的な行動をなす行為者を見る観察者は、モラル・センスによってその行動を是認するだけでなく、その行為者に対する利他心を感じ、観察者自身もまたその行為者への利他的な行動へと動機づけられる。

 第四に、ハチスンは、快適な生という目的にとっての感覚の合目的性を指摘する。実際、われわれは、感覚によって受け取る快苦の感じによって、自分の保存に必要なものを得、危険なものを避けることができる。ハチスンは、この事実から、感覚とは、神が定めた何らかの目的に役立つように意図され付与されたものと考える。同様に、博愛を是認するモラル・センスをもつことによって、他者に役立つ行動は、その行為者自身に自らに対する是認の快を与え、同様のモラル・センスをもってそれを観察する他者がこの行為者を愛し、その人に善行をなすことを可能にする。つまり、博愛を是認するモラル・センスをもつことで、人々は、(悪意、すなわち他者の不幸への欲求を是認するモラル・センスをもっていた場合よりも)幸福への傾向をもつことになる。われわれの幸福に資するモラル・センスをわれわれがもっているというこの事実から、神が博愛を目的としてわれわれにモラル・センスを付与したと蓋然的に推理される(ILL pp.133-134, 137-138, INQ pp.83-85, 96-97, 191-192)。 われわれの幸福を欲求する博愛的な神は、われわれが感じる是認に愛を付随させ、モラル・センスをもつ人間を、神が設定したこの博愛という目的へと動機づけ、すべての人を対象とする「普遍的博愛」へ発展するようにわれわれを秩序づけているのであるとされる(INQ pp.140-142)。このようにハチスンは、シャフツベリ同様われわれの経験についての反省・考察を、われわれを含み込むより大きな洞察と結びつける。ただし、シャフツベリは、われわれの「正邪の感覚」を、調和と秩序を形づくっていく自然の働きの一部とみなした。それに対し、ハチスンは、われわれのモラル・センスを、博愛的で利他的な秩序を創造する神の意図の一部とみなすのである。

 第五に、ハチスンは、このような感覚の普遍性を指摘する。自分の経験や他者を観祭するかぎり、感覚は、われわれの構造にとって普逼的な作用である(ILL pp.128,132,159,162)。同様に、歴史や他者についての観察によって知るかぎり、人々が博愛を是認することは是認しないことよりも蓋然性が高いと経験的に判断される。しかも、博愛的な神が付与すると推理されるこのセンスの作用が今後も続く蓋然性は、引力の法則が続くことと同じくらいきわめて高い(INQ xvi, p.139, ILL pp.161-162)。人類に付与された感覚としてのモラル・センス自体は発展も変化もなく、人類に普遍的に見出されるものである。したがって、モラル・センスの変化や不調という問題もあまり深刻には受けとめられていない。

 シャフツベリとハチスンに共通するのは、人間の知性よりも感覚を、そしてそのような感覚を与えた自然や神の知恵を強調する点である。彼らによれば、われわれの認識や社会は、人間の知性による労働や工夫によってでなく、自然や神の知恵によって決定されている。そして、このような壮大な全体観は、われわれの日々の道徳的経験それ自体を反省、

考察しようと試みる経験論から推理されている。つまり、生得観念を媒介としてでなく、自他の行為を反省する経験を媒介として認識や社会の秩序が生まれると考える点では、彼らもロックと同じ線上にある。ただし、ロックは、われわれの知性の働きを、そしてシャフツベリとハチスンは、われわれの自然な感覚の働きを強調した。感覚や感情の影響力を評価する点で「道徳感覚学派」と呼ばれる後者の立場は、スコットランド出身の哲学者デイヴィッド・ヒュームアダム・スミスによって批判的に継承、発展されることになる。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p44-p47)

 


【シャフツベリとハチスンの違い】

「シャフツベリはわれわれの「正邪の感覚」を調和と秩序を形づくっていく自然の働きの一部とみなした。それに対し、ハチスンは、われわれのモラル・センスを、博愛的で利他的な秩序を創造する神の意図の一部とみなすのである」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p46)

 


【ロックからバークリーへ】

「ロックによれば、外的物体の一次性質が、われわれの感覚を触発して単純観念を生み、この単純観念を素材として知性が一般観念をつくり、それに名前をつけることで、思考や知識の拡大伝達が可能になるのであった。

しかし、バークリは、このように外的物体を想定することを批判する。というのも、バークリに言わせれば、ロックが想定するような外的物体とは何かわからないし、外的物体から単純観念がどのように生まれるのかもわからないからである。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p52)

 


【ヒュームによる進化論にも似た「自然の作者」批判】

自然の作者として神の存在を推理する蓋然性批判の第二の論点は、自然と人工品とのクレアンテスの類比とは違う類比を複数指摘することで、クレアンテスの議論の確実性を弱めることにある。先の分類でいえば、②にあたる「反対の観察」があるときには、推理の確実性は弱まるという論理による反撃である。フィロは二つのアイデアを提示してこの論理を補強している。

 第一のアイデアは、宇宙と動植物との類似を強調するアイデアである。部分が全体のために、全体が部分のために働いている点で、宇宙は知的な創作者がつくった時計によりも、動植物のような有機体に類似しているのかもしれないという代案である。

 第二のアイデアは、進化論を予感させる次のような仮説である。つまり、物質が安定的な形態を求めて絶え間ない盲目的な運動を続けており、われわれはそのつかの間の安定を秩序ある宇宙と呼んでいるにすぎないという議論である。したがって、この仮説に基づくならば、目的と手段の適合は物質の継起的な運動の必然的な途中経過にすぎず、それを意図した知性を想定する必要はないという反論である。

 フィロはこれらのアイデアを提示する真意を次のように説明する。「宇宙論のとんなシステムを確立するためのデータもわれわれはもっていない。われわれの経験は、それ自体とても不完全で、範囲においても持続においてもきわめて制限されているので、物事の全体についてのいかなる蓋然的推理もわれわれに提供できないのだ」(Dialogues concerning Natural Religion, edited by Eugene F. Miller, Liberty Fund, 1987. p.45)と。

 つまり、われわれの経験は限定されているために、確実に知ることができない主題がある。しかし、そのような主題についても、われわれは想像力の習慣的な働きによって強固な信念を形成しがちである。そのような場合、多くの蓋然的な仮説を並置することによって、特定の推理や信念だけを主張する独断的態度を批判することができる、というのである。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p68)

 


【ヒュームの可能性】

道徳的言語や社会制度の生成において「人為」がいかに有害であるか、そしてその害を緩和するための「対話」とはどのような形でありうるかということについては、主著である『人間本性論』よりも、それに続く著書である『道徳原理の研究(渡部峻明訳、晢書房、1993年)』(ヒュームはこれを自らの著作の中で最良の作品と呼んでいる)の「付録」における所論と、とくに巻末に収められた「対話一篇」が、大きなヒントになる。この「対話一篇」は、とても短いが、『自然宗教に関する対話』と同様、経験を超えたテーマや、道徳的言語で語らざるを得ないテーマといった、論争になりがちなテーマをめぐる「寛容な対話」、哲学的対話の実践例としてだけでなく、言語の本性と可能性を考えるうえでも役に立つ。また、『道徳・政治・文学論集(田中敏弘訳、法政大学出版局、2011年)』に収められたエッセイ群も、そのような「対話」を喚起するものとしてだけでなく、人間と社会について広く考える「人間の科学」の企てを理解するためにも、重要な論考である。ヒュームや経験論だけでなく、人間と社会の問題に関心のある人には、『人間本性論』だけでなく、これらの著書の精読を強く勧めたい。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p91)

 


【不快を共感によって享受するので自分に関係ない不正義も不快である】

「不正義がわれわれからとても離れていて、われわれ自身の利益に全く影響を及ぼさない場合でも、それでもそれはわれわれを不快にする。なぜならわれわれは不正義を人間社会にとって損害を与えると、つまり、不正義を犯す人に近づくあらゆる人に害を及ぼすとみなすからである。われわれは彼ら(=不正義を犯す人に近づく人)の不快を共感によって享受する。そして、一般的に眺める際に、人間の行動において不快を与えるものは何であれ「悪徳」と呼ばれ、同じ仕方で満足を生むものは何であれ「徳」と呼ばれるのである。」(A Treatise of Human Nature. Edited by, David Fate Norton and Mary J. Norton, Oxford University Press, 2000. Ⅲ, 2-2 p.320)

 


【「彼は下劣だ」と評価することは他者と共通の感情を表現していて、偏ってはいるが素朴な主観主義ではない。】

「人が誰かに「悪徳」「睡薬すぺき」「下劣」といった形容辞を与えるとき、彼は(自愛の言語とは)別の言語を話しているのであり、それにおいては彼の聴衆すべてが彼と一致するはずであると彼が予期するところの感情を表現しているのである。したがって、このとき彼は、自分の個人的で特殊な状況から逸脱し、他者と自分とに共通な観点を選んでいるにちがいない。」(Hume, David. An Enquiry concerning the Principles of Morals, edited by T. L. Beauchamp, Oxford University Press, 1998, §9, p.148)

 


【ヒュームの幸福】

ヒューム「人間の幸福は活動、快楽、怠惰という3つの混合要素に存する」(David Hume, Essays Moral, Political, and Liberty, edited by Eugene F. Miller, Liberty Fund, 1987, p.269)

 


【ヒュームの快楽】

ヒューム「人びとが快楽について洗練すればするほど、どんな種類の快楽においても耽溺するということは少なくなる。というのも過度の耽溺ほど真の快楽を損なうものはないからである。」(David Hume, Essays Moral, Political, and Liberty, edited by Eugene F. Miller, Liberty Fund, 1987, p.271)

 

 

 

【スミスの疎外論

「スミスというと、市場原理主義や自由放任主義の元祖というイメージがあるかもしれない。しかし、スミスは、政府の役割としての公共政策の重要性も論じている。たとえば、国富を増大させる分業の広がりによって、国民の大半が単純作業に従事するばかりとなると、「人間としてなりうるかぎり愚かで無知となる」とスミスは言う。さらには、「精神の無気力(the torpor of his mind)」によって、どんな理性的会話を楽しむことも参加することもできなくなるだけでなく、寛大で高貴で優しい感情をもつこともできなくなり、結局、私生活上の普通の諸義務についてさえ、その多くについて正当な判断を(just judgment)が下せなくなる」(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, Liberty Fund, 1976, p782)。そして、自国の重大かつ広範な利害についても判断できなくなるというのである。ここからスミスは、庶民の初等教育などの公共政策や、政府による財政政策などの重要性に注意を促していくのであるが、このしばしば「スミスの疎外論」と呼ばれる指摘は、我々の生きる現代にも通じる警告ともなっているだろう。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p109)

 


アダム・スミスにおける道徳感情の腐敗の主要原因】

「富者や権力者を称賛し、ほとんど崇拝し、貧しい人や身分の低い人を軽蔑したり、少なくとも軽視したりする性向(disposition)は、身分の区別や社会的秩序の確立と維持の両方に不可欠だが、同時にわれわれの道徳感情の腐敗を導く、大きくて、最も普遍的な原因である。」(Smith, Adam. The Theory of Moral Sentiments, Liberty Fund, 1982)

 


【スミスの想像力論】

他者の思考や感情の中に入っていき、それについていく能力として想像力を捉えるスミス視点は、(中略)『道徳感情論』において、ヒュームの共感論に対する批判となって現れる。しかし、『道徳感情論』以前に書かれ、生前には出版されることのなかった哲学的な初期の論文群(特に、「哲学的探求を指導する諸原理」、「外的諸感官について」、「いわゆる模倣的諸技芸において行われる模倣の本性について」)において、そのような想像力論が生き生きと論じられている。そこでは、ヒュームが企てた「人間の科学」つまり、人間的自然を導く原理(原因)を推測しつつ、人間的自然の生成変化(結果)を描いていくという探求の、スミスにおける展開を見ることができるだけでなく、人間の想像力と技術との関係性という、アリストテレスから現代にまで連綿と続く哲学的な問題を考えるうえでも、興味深い議論が展開されている。これらの問題に関心のある人には、ぜひスミスの次の著書の一読をお勧めする。

アダム・スミス著、佐々木健訳、『哲学・技術・想像力 哲学論文集』(勁草書房、1994年)

(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p112)

 


ジョン・ステュアート・ミルは何をやっていたのか:帰納→演繹→検証(具体的演繹法)】

「J.S.ミルの道徳科学の特徴は、低次のさまざまな経験法則(因果法則としてはまだ洗練されていないもの)と、人間本性の複数の法則とのあいだを媒介し、検証する中間公理の探究にあった。つまり、経験や歴史的事象から法則を帰納しつつ、その法則を、人間本性の諸法則から演繹可能であるかどうかを検証するという科学的探究である。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p132)

 


【ミルの危害原理は他者への無関心を正当化するものではない】

「ミルは、「多数者の専制」を、社会が警戒すべき害悪のひとつであるとさえ言う。それに身をまかせず、個性を成長させるためには、他の個性とのぶつかりあいが必要である。そして、この文脈で、ミルは、「他者危害の原則」と呼ばれる原理を提示している。それは、個人の行動の自由に対して、法的あるいは道徳的に干渉、統制する唯一の目的は、他者に危害を加えることを防止することであるという原則である。しかし、注意すべきは、この原則は、他者に迷惑をかけないかぎり、他者に無関心でいることを正当化する原則ではないという点である。この原則のもとで互いの個性を最大限尊重しあって、個性を自由に発展させることが、社会の責務であり、社会の利益となると説くのである。そして、そのように性格を形成する実践を通して、各人が、道徳的感情を感じるようになり、社会的存在者としての人格を形成するようになる。ベンサムが強調した外的な制裁でなく、良心の責めという内的制裁の経験も、ミルにとっては、思弁的能力の状態を向上させる自由と、それを通じての個性の自由な発展という実践と不可分なものであった。

 今日を生きるわれわれは、行為の一般的ルールが、専門家や多数者によって次々と決められていく状況や、人びとの行動を規制する外的な制裁が次々と整備されていく状況に、合理性や効率性を感じこそすれ、不自由を感じることが少ない。そのような合理性や効率性は、個性と個性がぶつかりあい、互いの思弁的能力や個性を発展させる機会を減らす「合理化」なのかもしれないのだが、われわれは、各種の「合理化」に慣れてしまったせいか、そのような状況を、むしろ安楽と感じる感受性さえも身につけてしまっている。しかし、このようにして進む思弁的能力の衰退に、個人の能力だけでなく、社会全体の衰退の兆候を見、それへの処方箋を探求したミルの言葉は、われわれの心にまっすぐに語りかけ、問いかけてくる。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p131)

 

 

 

【ミルの具体的演繹法帰納→演繹→検証)に対するパースのアブダクション

「パースは、帰納に先立つプロセスとして仮説形成が生じているという。パースの挙げている例で考えてみよう。たとえば、内陸部で魚の化石が発見されるとする。このとき、われわれは、「化石が発見されたあたりは昔、海だったのだろう」という仮説を立てる。このように、驚くべき事実Cが観察されるとき、「もしAが真であれば、Cは当然である」という仮説を形成することを、パースは「アブダクションabduction」と呼ぶ。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p133)

 


アブダクションにおける「誘拐」という意味】

アブダクションは、いくつかの事象をただ凝視するにととまらず、合理的に関連づけて解釈し説明するための仮説形成である。それが荒唐無稽であるか、それとも先見性や洞察力に満ちた仮説であるかは、その仮説から引き出される帰結や予測を帰納によって検証することによって後から判明する。

 では、なぜバースは「アブダクション」などという名でこのプロセスを呼んだのだろうか。われわれは「驚異」や「賞賛」や「恐怖」などの情念を感じさせるものと出会ったとき、なじみのものと取り合わせてみることで「まるで〜のようだ」というアブダクションを無意識のうちに模索し始める。アブダクションには「誘拐」という意昧があることからも予期されるように、「アブダクションを示唆するものは、われわれに対して閃き(flash)のようにやってくる。それは一つの洞察(insight)である。ただしそれは極度に誤りうる洞察である」(Pragmatism as the Logic of Abduction(Harvard Lectures on Pragmatism 1903)/The Essential Peirce Selected Philosophical Writings ed. By Nathan Houser and Christian Kloesel, Indiana U.P. 1992, 1998,2, p.227)とされる。特殊なものと出会ったときにそれについて「まるで〜のようだ」という仮説を形成するこの力には「抵抗できず、命令的である。われわれは自分の軍門を開いて、少なくともしばらくのあいだは、それを受け入れなければならない。」(『連続体の哲学』206頁)とパースは言う。つまり、われわれが能動的に仮説をつくるというよりは、それをひらめき、思い込んでしまうから「誘拐」なのである。帰納的推理が作動するためにはまず何かしらの仮説を思い込むということが先立たねばならない。では、なぜわれわれは、誤りに満ちた仮説を思い込むよう誘拐されてしまうのだろうか。パースの次の描写は示唆的である。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p134-p135)

 


【パースと、ただ一回だけの個別具体的なツツジ

「気持ちのいい春の朝、窓の外をながめると、満開のツツジが見える。いや、そうではない! それが見えるわけではない。私に見えるものを記述するには、そう言うしかないけれども、それはすでにひとつの叙述であり、文であり、事実である。私が知覚するのは叙述でも文でも事実でもなく、ただのひとつのイメージなのだが、これを理解できるようにするには部分的にとはいえ事実の言明 (a statement of fact)に頼るしかない。この言明は抽象的である。しかし、私に見えるのは具体的だ。目に見えるものを文で表現しようとするときには、私はひとつのアブダクションを行っているのである。われわれの知識全体が、実を言えば、帰納によって検証され洗練された仮説でできた、もつれた毛せん (one matted felt)なのだ。一歩ごとにアブダクションを行うということがなければ、たんなる凝視(vacant staring)の段階よりも先に知識がわずかでも進むということはありえないのである。」(手稿 692,1901年, パースの手稿はハーバード大学図書館に寄贈され、マイクロフィルムとして公開されている。)

 つまり、パースによれば、われわれが体験する具体的なものを言葉で捉え記述しようとするとき、その体験を「帰納によって検証され洗練された仮説」に置き換えて言明するほかない。具体的な体験の具体性を損なうにもかかわらず、われわれはそのような仕方で体験を言明化する。そして、なにかしら言明化されると、その言明は検証や解釈の対象となる。「たんなる凝視よりも先に知識がわずかでも進む」ことの副産物として、検証や再解釈の対象となることで、我々の信念は常に流動変化していくことになる。しかし、それこそが人間であるとパースは言う。パースの説く、人間に可能な探求とは何であるかをみていこう。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p135)

 


【4つの能力の欠如からのいくつかの帰結】

「われわれはどのような方法で知識を探求していくことができるだろうか。この問いに対するデカルトの方法的懐疑に対する批判がイギリス経験論の展開を促してきた。パースもまた同様である。「パースは、四つの能力の欠如からのいくつかの帰結」という1868年の論文において、「デカルト主義」の特徴を次のように指摘している。①哲学は普逼的懐疑から始まらなければならないと考える。②確実性の究極的なテストは個人の意識の中に見出されるべきと考える。③そこからの一本の推論の糸を「哲学」と称する。④絶対的に説明不可能で分析不可能な何か究極のものを想定する。そして、パースはこれらにことごとく反対する。すなわち、内的な観念を直観する能力、自己について確実に認識する能力、記号なしに思考する能力、物自体を認識する能力といった能力を否定するのである。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p136)

 

 

 

【煮えたぎるものとしての経験】

「「真実 (the true)」ということは、きわめて端的にいえば、ただわれわれの思考において有用だ、ということである。それはちょうど「正しさ(the right)」ということが、ただわれわれの行動の仕方において有用だ、ということと同じである。ほとんどいかなる形態においても有用だということである。また長い目で見て、そして全行程からして、有用だということである。というのも、目下のすべての経験に有用に(=expedienceに=適切に)対処できるものが、必ずしもそれ以後のすべての経験に、同じように満足に対応できるとはかぎらないからである。われわれも承知しているように、経験とは煮えたぎって溢れ出るもの(ways of boiling over)であり、われわれに現在の諸定式を訂正するように迫ってくるのである。」(James, William. Pragmatism ed. with an introduction, by Bruce Kuklick, Hackett Publishing, 1981, p.100)

 


【原文】

Experience has ways of boiling over, and making us correct our present formulas.

 


純粋経験

では、溢れ出るものとされる、われわれの経験とは、どのような洞察なのだろうか。それは、それは、流動変化する「純粋経験」の宇宙についての洞察、つまり、異種交雑の混乱が生む経験の流動性、あるいは異種の経験が結ばれあう関係性の経験についての洞察である。ジェイムズは、「直接に経験される要素」を「純粋経験」と呼び、それがどんな経験であれ、経験されるものは排除せずに「実在的なもの」とみなす根本的な経験論を企てる。

 たとえば、心霊現象や啓示体験といった、一般性に欠け、言語化しがたい経験であっても、その体験を切り捨てたり、「超自然的」などとレッテルを貼ったり、習慣的な連鎖の生成といった説明に置き換えたりすることなく、そのような宗教的な体験にも、それと連接する経験と「完全に平等な権利」を認め、それらを等しく「純粋経験」という名の「実在」とみなし、あらゆる生き生きとした純粋経験を相互に結びつける経験の推移において生じている事態を扱うこと。それが、「ふつうの経験論」とは異なる「根本的経験論」の立場である。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p149)

 


エルンスト・マッハについて】

「私は父の書斎で非常に早い時期に(15歳くらいの時)、カントの『プロレゴーメナ』を手にしたのであるが、これを想う時、私はいつも、すこぶる運がよかったという感銘にうたれる。私はこの本を読んで、強烈な、抹しがたい感銘をうけた。その後哲学書を読んでこれ程の感銘をうけたことはない。」(エルンスト・マッハ著、廣松渉、須藤吾之助訳、『感覚の分析』p32)

 


【物自体についての驚くべき考え】

「私は非常に早い時期に、それまで抱いていた全く素朴な世界観を、カントの『プロレゴーメナ』によって揺り動かされました。ところが、この著作に接したことで、私は却(かえ)って批判をよびさまされ、あの近づきがたい「物自体」は、なるほど自然に、本能的に生ずる幻影ではあるが、何といってもやはり不合理な、そのうえ危険な幻影だという考えをもつようになり、カントのうちに潜在的に残っているバークリーの立場や、ヒュームの考え方につれもどされるという結果になりました。カントはバークリーやヒュームから退行している。バークリーやヒュームの方がより整合的であった。私は本気でそう思います。」(エルンスト・マッハ著「物理学と心理学との内面的な関係について」廣松渉編訳『認識の分析』p4-p5)

 


アインシュタインへの影響】

「私自身について言えば、少なくとも、とりわけヒュームおよびマッハによって、直接にも間接にも大いに助成されたことを承知している。[...]マッハがまだ若く感受性に富んでいた時期に、光速度の不変性の意義をめぐって物理学者たちの間に問題がすでに持ち上がっているようであったら、マッハが相対性理論に考え及んだということは、ありえないことではない。」(アインシュタイン「マッハ追悼文」『アインシュタイン、ひとを語る』東海大学出版部、p176-p179)

 


【マッハについての参考文献】

 


今井道夫著『思想史のなかのエルンスト・マッハー科学と哲学のあいだ』(東信堂、2001年)

 


木田元『マッハとニーチェ ー世紀転換期思想史 』(講談社学術文庫、2014年)

 


野家啓一『無根拠からの出発』(勁草書房、1993年)

 

 

 

 


【経験論は途絶えていない】

「まとめよう。⑴経験論は「言語論的転回」によって途絶えたわけではなく、現代にも脈脈と受け継がれている。むしろ、原語の主題化という点で言えば、経験論的な議論の強い影響下で起こったもの(マウトナー、ホフマンスタールら)もあった。⑵他方、論理学的研究を基にした言語哲学(分析哲学)には当初は経験論の痕跡は見られず、後になって経験論と絡み合うようになっていった。⑶そして、そもそも、現代的な経験論も言語哲学英米圏の哲学内部で完結するものではなく、むしろ最初はドイツ語圏で生まれたものであり、20世紀以降に主たる舞台を徐々にイギリスやアメリカに移していった。(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p171)

 

 

 

【一階述語論理と二階述語論理】

 


フレーゲは論理主義に立って、まず、算術の概念がすべて論理学の概念だけで定義できることを示し、そして、あらゆる算術的命題が、論理学の公理体系からの隙間のない推論によって導出できる、ということを示そうとした。しかし、そのためには、どんな算術的命題も表現できる豊かな論理学が新たに必要だった。フレーゲが述語論理を開発したのはまさにこの目的のためだったのである。つまり、算術を述語論理に還元するというのが、フレーゲ自身にとって最重要の仕事だったということである。

 ところで、この仕事を遂行するためには、実は先述した述語論理の体系ではまだ不十分である。算術的命題すべてをカバーできるだけの表現能力を獲得するためには、命題関数の変項に個体だけでなく命題関数それ自体を入れることーたとえば、命題関数「xは動物である」のxに命題関数「xは動物である」を入れることーもでかるような、発展的な述語論理の体系を構築する必要があるのである。(ちなみに、述語論理のうち、変項の値が個体だけのものは「一階述語論理」と呼ばれるのに対して、変項の値に命題関数も含むものは「二階述語論理」と呼ばれる。)

 しかし、個体だけでなく命題関数も変項の値とする拡張を無制限に行うと、結果としてその公理体系は矛盾を抱え込むことになってしまう。このことを指摘したのが当時フレーゲと同様に論理主義の立場をとり、彼の論考を熱心に追っていたラッセルだった。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p176)

 

 

 

 


【語の意味はその語の表象ではない】

 


「語の内容が表象不可能だということは、その語に一切の意味を否認したり、その語を使用から排除する理由とはならない。これとは反対のように見えるのは、恐らく、我々が語を孤立させて考察して、その意味を問うからであろう。そのときには、我々は表象を語の意味と見なすことになる。こうして、対応する内的な像が我々に欠けている語は、いかなる内容も持たないように思われる。しかし、常に、完全な命題を念頭に置かなければならない。その中でのみ、語は本来、意味を持つのである。語の意味を問う際に内的な像が我々の心に浮かぶかもしれないが、そうした像が判断の論理的な構成要素に対応する必要はない。全体としての命題が意義(Sinn)を持つならば、それで十分である。そのことによってまた命題の部分もその内容を得るのである。」(ゴットロープ・フレーゲ『算術の基礎』第60節)

 

 

 

【『論理哲学論考』という著作は、思考に対して限界を引く書物、ではない】

 


「本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。したがって、限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンス(unsinnig)なのである。」(ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳、「序」『論理哲学論考岩波文庫)

 


→たとえば、「人が生存できる環境」と「人が生存できない環境」との境界線を我々が引けるということは、我々が「人が生存できない環境」がどういうものかを考えられる、というこのことを前提にしている。しかし、「思考が可能なもの」と「思考が可能でないもの」との境界線についてはこの前提(=我々が思考不可能なものについて思考できるという前提)が成り立たない(ちなみに、「死ぬ前」と「死んだ後」についても同様の構造がある)。それゆえウィトゲンシュタインが試みたのは、ナンセンスな言語表現と有意味な言語表現との間の境界線を引くことを通して、間接的に、境界線の「内側から思考不可能なものを限界づける」(4.114節)ことであった。

 


→だから、ウィトゲンシュタインは思考の限界を直接は引けていないし、彼もそう言っているのである。彼はただ、思考の表現である言語に有意味な表現とナンセンスな表現との境界線を引こうとしただけである。それゆえ、問題は、「(私の)言語の限界が思考の限界と等価である」という主張のほうなのだ。「命題形成可能性」が「思考可能性」とまったく同じであること、つまり、「我々に作ることができる命題の総体」と、「我々に考えうる世界の有り様の総体」とがぴったりと一致するというこの「写像理論」が崩せれば、『論理哲学論考』の「摩擦の無いつるつるした世界(氷上の楼閣)」は崩れ去り、その世界は経験的世界と何のつながりも持ち得ない理想的結晶に過ぎなかったことになる。重要なのは、このことが、彼自身の理論の仕立て(→言語の限界=思考の限界=世界の限界という仕立て)からして、彼の理論に内在的にそう言えるということなのだ。

 


【そして後期へ】

 


「「崇高な把握」は具体的な事例から立ち去るように私に強いる。というのも私の言っていることは具体的事例には当てはまらないからだ。そして私は霊妙な領域へと赴き、本来の記号について、存在するはずの規則について(どこに、どのように存在するのかは言えないにもかかわらず)語るのだ。そして「ツルツルすべる氷の上へと」入り込むのである。」(ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳、『哲学宗教日記』、講談社、p115)

 


「現実の言語を精密に考察すればするほど、この言語と我々の要請との間の衝突が激しくなる。(論理の透明な純粋さといったものは、わたくしにとっては探求の結果生じてきたのではなく、一つの要請だったのである。)この衝突は耐えがたくなり、この要請はいまにも空虚なものになろうとしている。われわれはなめらかな氷の上に迷い込んでいて、そこでは摩擦がなく、したがって諸条件が、あるいみでは理想的なのだけれども、しかし、われわれはまさにそのために先へ進むことができない。われわれは先へ進みたいのだ。だから摩擦が必要なのだ。ザラザラした大地へ戻れ!」(ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著、藤本隆志訳、『哲学探究』<ウィトゲンシュタイン全集8>、大修館書店、107節)

 

 

 

 


ウィトゲンシュタインハイデッガーのことを理解しようとしていた】

「私は、ハイデッガーが存在と不安について考えていることを、十分考えることができる。人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。例えば、或るものが存在する、という驚きについて考えてみよ。この驚きは、問いの形では表現され得ない。そして、答えは全く存在しないのである。我々がたとえ何かを言ったとしても、それは全くアプリオリにただ無意味でありうるだけなのである。それにもかかわらず、我々は言語の限界に対して突進するのである。キルケゴールもまたこの突進を見ていた。そして彼はそれを全く似たように(パラドックスに対する突進として)言い表しているのである。言語の限界に対するこの突進が倫理学である。」(フリードリヒ・ワイスマンによる記録、黒崎宏訳、「ウィトゲンシュタインとウィーン楽団」<ウィトゲンシュタイン全集5>、大修館書店、p97)

 


【絶対的なものは語り得ず、語られれば相対的なものになってしまうのだが、それでも絶対的な倫理に敬意を払うと誓うウィトゲンシュタイン

倫理学が人生の究極の意味、絶対的善、絶対的に価値のあるものについて何かを語ろうとする欲求から生ずるものである限り、それは科学ではあり得ません。それが語ることはいかなる意味においてもわれわれの知識を増やすものではありません。しかし、それは人間の精神に潜む傾向を記した文書であり、私は個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるを得ませんし、また、生涯にわたって、私はそれをあざけるようなことはしないでしょう。」(ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著、杖下隆英訳、「倫理学講話」<ウィトゲンシュタイン全集5>、大修館書店、p394)

 

 

 

【「偽」と不適切性】

真にも偽にもなりえないがその発話が不適切(infelicitous)にはなりうるような文がある。以下の①〜⑦を見て欲しい。

①「船をエリザベス号と命名します(I name)。」

②「彼女を妻とすることに同意します(I do)。」

③「遺言:私の銀時計を弟に譲ります(I give)。」

④「明日は雨である方に賭けるよ(I bet)。」

⑤「やあ」

⑥「電気つけて」

⑦「ちょっとそこの醤油とって」

→これら①〜⑦は、真にも偽にもなりえないが「不適切」(infelicitous)にはなりうる。

→たとえば初対面の人に「やあ」と発話するのは「不適切」である。

 


→これらの例が示唆しているのは、偽であるような文は、多種多様な不適切である文の一様態に過ぎないのではないか、ということだ。実際、「今雨がふっている」という真か偽になりうる文が偽になる時、「その文は偽である」の代わりに、「その文は、不適切だった」とも言いうるのである。

 


※ただし、偽な文であれば全て不適切な文かというと、そうとも言い切れない。というのも、偽だが適切な文というものがありえる。たとえば、

⑧(相手が約束を守っていない場合に)「約束を守ってくれてありがとう」

とその人に言うのは「皮肉」である。皮肉は「偽であることを前提とした発話」であり、偽であることは話し手にとっても聞き手にとっても分かりきっているから、ここでも真偽は問題になっていない。皮肉は、相手を非難する意図を伝える文脈では「適切」であったり、逆の文脈では「不適切」であったりすることができる。我々は偽の文でさえ適切に使っているというのは驚くべきことである。

 


→偽であったところで、不適切でなければ我々は言葉を使うのであるが、では、真偽が取り立てて問題になるのはどんなときか。それは、何かがどんなときも誰にとっても絶対確実でなければならないような状況である。そしてそんな危機的状況とは、いったいどこにあるのだろうか。どこかにはあるのかもしれないが、そんな例外的状況を言語分析における典型とする言われも必然性もない。

 


→要するに、我々は、例えば学校のテストで正誤判定をさせられるときには、文の真偽がとりたてて問題になっていると思い込んでいるけれども、自分たちが思っているよりもずっと、真偽が問題になっていない文を使っているのである。真偽が問題となる言語使用の局面は他の様々な言語使用の局面のうちのひとつに過ぎないのである。では、真か偽かを考えても仕方がないようなこれらの文について我々はどのように考えたらいいのだろうか。以下の3カテゴリーがその役に立つことがある。(ただし、言語について考えるそのやり方は無数にありえるので、以下のことをヒントに、なにか言語を学ぶときに気づいたことがあったら、ヴェリタスの先生に話してあげてほしい。英語について考えたり、日本語について考えることは授業を実り多く、そして楽しくするはずだ。)

 

【J.L.Austinにおける言語行為の3カテゴリ】

⑴【発話行為(locutionary act)】

→どんな言語も、それを使うとき何か(口、身体、他人、物)を動かさないことができるだろうか。できないのであれば、言語とは行為の一種であると考えてよいはずだ。そして、なんであれ発話する行為(以下「言語行為」と呼ぶ)の全般がまずは「⑴発話行為」にあたる。真偽が問題とならないパフォーマティブ(=行為遂行的)な発話(「明日は行くと約束します」)も、記述や報告に使われるコンスタティブ(=事実確認的)な発話(「雨が降っている」)も、意味も分からず唱えた外国語も、まずはこれに含まれるといったんは考えてみよう。様々な文をまずはここに溶かし込むのである。

 


⑵【発話内行為(illocutionary act)】

→なにごとかを言うことにおいて-in-、なにごとかを行うその行為のこと。

→たとえば、「約束する」、「告白する」などの、「相手にこちらの意図が伝わればその時点で十分」と言えるような言語行為は「⑵発話内行為」にあたる。

→「⑵発話内行為」とは「発話内の力(illocutionary force)」を伴った言語行為である。

→社会的な慣習や、習慣によって言語行為とその効果の間の関係が緊密で安定している。たとえば①〜④はこれにあたる。

 


⑶【発話媒介行為(perlocutionary act)】

→なにごとかを言うことによって-by-なんらかの実際的で実効的な「発話媒介効果perlocutionary effect」を聞き手に及ぼし、それによってなにごとかを行うその行為のこと。「⑶発話媒介行為」は、言語行為であるのに、発話の適切性が話し手の発話そのものによって構成も保証もされないような言語行為である。

→「怖がらせる」「確信させる」などは、「相手に意図が伝わればその時点で十分」と言えるような言語行為では全然なくて、その言語行為の「適切性」が聞き手に依存して変わってしまう。たとえば「約束する」の場合には相手に及ぼす実際的効果とは無関係にその言語行為を適切に達成することができたけれど、「どうなってもしらんぞ」と言うような言語行為の場合には、その効果によって相手がビビらなければ適切に達成できない。

→ 「⑶発話媒介行為」は、社会的な慣習や習慣によって言語行為とその効果の間の関係が安定してはいるが、その場その場での即興性もあり、「⑶発話媒介行為」が及ぼす「発話媒介効果」は文脈次第でどのようなものでもありうる。例えば「結婚するぞ!」という発話媒介行為が相手に及ぼす発話媒介効果は何だろうか。文脈によっては相手が笑い出すかもしれないし、泣き出すかもしれない。

 


→では、その「文脈」というのはいったいなんなのか。

 


【文脈の重要性】

人間の全ての言語行為(speech-act)は以上の3つのカテゴリーのうちのどれかに定まるということには結局ならないし、まったく同じ発話でも文脈が変わればどれに分類されるのが適切かは変わる。

 


[具体例1.]たとえば、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「Aさんったら、これから何をするかわからないなんて変なの」とBさんが思った場合をまずは考えてみよう。この時、そもそもAさんが発話に込めた「発話内の力(illocutionary force)」がBさんに伝わってさえいないので、これは「⑵発話内行為」としては「不適切」であり、これは「⑴発話行為」でしかない。

 


[具体例2.]次に、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「そんなこと言われてもちっとも怖くないぞ!」とBさんが思った場合はどうか。この時、Aさんが発話に込めた「発話内の力」はBさんに伝わってはいるのだが、Bさんが実際に怖がってはいない。よってこれは「⑵発話内行為」である。

 


[具体例3.]最後に、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「怖い!」とBさんが実際に思った場合はどうか。この時、Aさんの発話は、Bさんに「発話媒介効果」を及ぼしている。つまり、「発話内の力」がBさんに伝わっていて、Bさんが実際に怖がっている。この「発話媒介効果perlocutionary effect」を聞き手に及ぼし、まさにそのことによってなにごとかを行うその行為こそが「⑶発話媒介行為」である。

 


【オースティンまとめ】

「われわれは、何ごとかを言うこと(発話行為)において何ごとかを行い(発話内行為)、しばしばそれによって何らかの効果を聞き手に及ぼす(発話媒介行為)。すなわち、この3つの行為の一部ないし全部によって、われわれの日々の言語的コミュニケーションが構成されていると言うことができるだろう。」(勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』、2016年、p257)

 

 

 

【参考文献】

『J・L・オースティン著、坂本百大訳『言語と行為』(1978年、大修館書店)

 


マイケル・ダメット反実在論と、全体論に反対して提示した分子論的言語観についての文献】

金子洋介『ダメットにたどりつくまで』(勁草書房、2006年)

 


デイヴィドソンによる言語の非存在論

森本浩一『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』(NHKブックス、2004年)

 


グスタフ・マーラー(Gustav Mahler : 1860-1911)の交響曲と経験論】

 

 

 

【経験論の名著の時系列順】

 


【1562年】

セクストス・エンペイリコス(2-3世紀頃)『ピュロン主義哲学の概要」(ラテン語訳)

【1620年】

ベイコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム

【1625年】

グロティウス(1583-1645)『戦争と平和の法』

【1632年】

ガリレイ(1564-1642)『天文対話』

【1637年】

デカルト(1596-1650)『方法序説

【1641年】

デカルト省察

【1651年】

ホッブズ(1588-1679)『リヴァイアサン

【1660年】

ルノーらポール・ロワイヤル『一般理性文法』

【1670年】

スピノザ(1632-1677)『神学政治論』

【1670年】

パスカル(1623-1662)『パンセ』(ポール・ロワイヤル版)

【1674年】

マルブランシュ(1638-1715)『真理探究論』

【1677年】

スピノザ『エチカ』

【1678年】

カドワース(1617-1688)『宇宙の真の知的体系』

【1687年】

ニュートン(1642-1727)『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』

【1689年】

名誉革命→「権利章典

【1690年】

ロック(1632-1704)『統治論』『人間知性論』

【1696年】

ベール(1647-1706)『歴史批評事典』

【1698年】

シャフッベリ(1671-1713)『徳あるいは価値に関する研究』

【1710年】

ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』

【1710年】

バークリ(1685-1753)『人知原論』

【1714年】

マンデヴィル(1670-1733)『蜂の寓話』

1717年

クラーク(1675-1729)『クラーク=ライプニッツ往復書簡集』

【1721年】

モンテスキュー(1689-1755)『ペルシア人の手紙』

【1725年】

ハチスン(1694-1746)『美と徳の観念の起源』

【1732年】

バークリ『アルシフロン』

【1733年】

ポウプ(1688-1744)『人間論』

【1734年】

ヴォルテール(1694-1778)『哲学書簡』

【1739年】

ヒューム(1711-1776)『人間本性論』

【1741年】

ヒューム『道徳・政治論集」(1752年『政治経済論集』。1777年まで改訂重ねる)

【1751年】

ヒューム『道徳原理の研究』

【1751年】

デイドロら『百科全書』

【1755年】

ルソー(1712-1778)『人間不平等起源論』

【1759年】

スミス(1723-1790)『道徳感情論』

【1762年】

ルソー『社会契約論』『エミール』

【1771年】

ハーマン(1730-1788)「懐疑論者の夜の夢」(ヒューム「人間本性論』第1巻結論部の独訳)

【1776年】

スミス『国富論(諸国民の富の本質と諸原因に関する探求)』

【1776年】

ベンサム(1748-1832)『統治論断片』

【1776年】

アメリカ独立宣言」

【1779年】

ヒューム『自然宗教に関する対話』(独訳出版は1781年)

【1781年】

カント(1724-1804)『純粋理性批判

【1788年】

カント『実践理性批判

【1789年】

ベンサム『道徳と立法の原理序説』

【1789年】

フランス革命→「人権宣言」

【1790年】

カント『判断力批判

【1790年】

スミス『道徳感情論』(第6版改訂版)

【1807年】

ヘーゲル(1770-1831)『精神現象学

【1819年】

ショーペンハウアー(1788-1860)『意志と表象としての世界』

【1821年】

ヘーゲル『法の哲学』

【1822-1831年

ヘーゲル『歴史哲学講義』

【1835年】

トクヴィル(1805-1859)『アメリカのデモクラシー』

【1843年】

ミル(1806-1873)『論理学体系』

【1844年】

マルクス(1818-1883)『経済学・哲学草稿』

【1849年】

エマソン(1803-1882)『代表的人物』

【1859年】

ミル『自由論』

【1859年】

ダーウィン(1809-1882)『種の起源

1862年

ラスキン(1819-1900)『この最後の者にも』

【1867年】

マルクス資本論

【1867年】

日本で大政奉還明治維新

【1872年】

ニーチェ(1844-1900)『悲劇の誕生

【1874年】

ブレンターノ(1838-1917)『経験的立場からの心理学』

1878年

パース(1839-1914)「われわれの観念をいかにして明晰にするか」「信念の確定」

【1879年】

フレーゲ(1848-1925)『概念記法』

【1879年】

フェヒナー(1801-1887)『夜の見方に対比される昼の見方』

【1883年】

マッハ(1838-1916)『マッハカ学』

【1883-1885年】

ニーチェツァラトゥストラはかく語りき

1884年

フレーゲ『算術の基礎』

1886年

マッハ『感覚の分析』

【1889年】

ベルクソン(1859-1941)『意識に直接与えられたものについての試論』

【1896年】

ベルクソン物質と記憶

【1897年】

ジェイムズ(1842-1910)『信じる意志』

【1899-1936年】

クラウス(1874-1936)『矩火(die Fackel)』

【1900年】

フロイト(1856-1939)『夢判断』

1903年

デューイ(1859-1952)『論理学説研究』

【1904年】

ジェイムズ「純粋経験の世界」

【1907年】

ジェイムズ『プラグマティズム

【1907年】

ベルクソン『創造的進化』

【1910-1913年】

ラッセル(1872-1970)とホワイトヘッド(1861-1947)『プリンキピア・マテマティカ

【1912年】

ラッセル『哲学入門』

【1913年】

フッサール(1859-1938)『イデーン I』

【1914年】

ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』

【1914-1918年】

第一次世界大戦

【1916年】

一般相対性理論アインシュタイン

【1917年】

ロシア革命

1921年

ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考

【1927年】

ラッセル『現代哲学』

【1927年】

ハイデガー(1889-1976)『存在と時間

【1929年】

ハイデガー形而上学とは何か』

【1929年】

ウィトゲンシュタイン倫理学講話」

【1929年】

シュリック(1882-1936)らウィーン学団『科学的世界把握ーウィーン学団

【1929年】

ホワイトヘッド『過程と実在』

【1929年】

世界大恐慌

【1932年】

カルナップ(1891-1970)「言語の論理的分析による形而上学の克服」

【1934年】

ミード(1863-1931)『精神・自我・社会』

【1936年】

エイヤー(1910-1989)『言語・真理・論理』

【1936年】

ベンヤミン(1892-1940)『複製芸術時代の作品』

【1936-1949年】

ウィトゲンシュタイン哲学探究

【1938年】

デューイ『論理学ー探究の理論』

【1939-1945年】

第二次世界大戦

【1942年】

メルロ=ポンティ(1908-1961)『行動の構造』

【1945年】

メルロ=ポンティ『知覚の現象学

【1945年】

広島、長崎に原爆投下

【1947年】

アドルノ(1903-1969)・ホルクハイマー(1895-1973)『啓蒙の弁証法

【1947-1959年】

オースティン(1911-1960)『知覚の言語』

【1951年】

ライヘンバッハ(1891-1953)『科学哲学の形成』

【1951年】

クワイン(1908-2000)「経験主義のふたつのドグマ」

【1952年】

アメリカが水爆実験に成功

【1953年】

ドゥルーズ(1925-1995)『経験論と主体性ーヒュームにおける人間的自然についての試論』

【1955年】

オースティン『言語と行為』

【1955年】

ラッセル=アインシュタイン宣言

【1958年】

ハンソン(1924-1967)『科学的発見のパターン』

【1960年】

クワイン『ことばと対象』

【1960年】

ガダマー(1900-2002)『真理と方法』

【1961年】

レヴィナス(1906-1995)『全体性と無限』

【1963年】

セラーズ(1912-1989)『経験論と心の哲学

【1964-1975年】

ベトナム戦争

【1966年】

アドルノ『否定弁証法

【1967年】

デリダ(1930-2004)『声と現象』

【1967年】

デリダ『グラマトロジーについて』

【1967年】

デリダエクリチュールと差異』

【1967年】

ヨーロッパ共同体(EC)成立

【1968年】

ドゥルーズ(1925-1995)『差異と反復』

【1968年】

プラハの春、フランス五月革命

【1969年】

アポロ11号月面着陸

【1970年】

クーン(1922-1996)『科学革命の構造』

【1973年】

第四次中東戦争オイルショック

【1974年】

デイヴィドソン(1917-2003)「概念枠という考えそのものについて」

倫理学の私的ノート ヒューム→アダム・スミス→カント


 
 
倫理学とはどのようなものか】
倫理学ethicsとは、規範normや価値valueに関する哲学の一分野で、「われわれはいかに生きるべきか、その理由はなにか」を体系的に理解しようとする学問。ただし「倫理」と「道徳」を区別する立場も存在する。
 
 
【狭義の倫理学
狭い意味では、生きていく上での様々な問題にわれわれが直面したとき、「どのようにすべきか」ということに関する指針を与えてくれるもの。「どうしよう?」という問いに対する指針の探求。
 
 
倫理学の三本柱】
⑴   徳倫理学(Virtue ethics):感情や性格(人柄)などに重点を置いて倫理というものを考える立場。 (アリストテレス、フィリッパ・フッド、アラスデア・マッキンタイアetc.)
⑵   義務論(Deontology):行為の評価は、その動機や意図が「義務」にかなっているかどうかで行なわれる。(カント etc.)
⑶   功利主義(Utilitarianism):関係者の幸福を総和して、その幸福の量が少しでも多くなる選択肢を選べとする。 (ジェレミーベンサム、ジョン・スチェアート・ミル、ヘンリー・シジウィック、リチャード・マーヴィン・ヘアetc)
 
 
【他の立場に対する差異を意識した三本柱の再規定】
⑴   徳倫理学:正しい行為というより、「よい人」を目指すべきだという考え方
⑵   義務論:幸福なんかよりも義務が大切だという考え方
⑶   功利主義:みんなが幸福になるようにするのが正しいという考え方
 
→一般に、道徳判断の対象が行為に向けられるのが義務論と功利主義(ただし動機功利主義などもある)。それに対して性格に向けられるのが徳倫理。
 
 
【代表的な対立軸:功利主義vs義務論(結果か動機か)】
→嘘をつくことで多くの人の命を救う場合、それは結果が良いのでその嘘をつく行為は良い行為なのではないか。ただし、義務論も、瞬間的で一回的な、「動機」だけを取り出してみて、それについて評価をしている。徳倫理学は性格という持続的なものに対して評価をする。
 
 
 
倫理学における方針:理性主義と感情主義】
倫理学における感情主義の代表:デイヴィッド・ヒュームアダム・スミス
倫理学における理性主義の代表:サミュエル・クラーク、ウォラストン、カント
 
 
【自律と他律】
他律の倫理学:ヒューム(人間は倫理の現場において他者の現存を何より重視する)
自律の倫理学:スミス(人間は称賛されることだけでなく、称賛されるに値する人であることをも求める)、カント(自分の頭で考えて自分で決める)
 
 
【真夜中の赤信号を無視するか】
「真夜中、車が来ておらず、しかも誰も見ていないとしたら、赤信号だけれども横断歩道を渡るかどうか。」
 
①    カントの場合
理由が何であれ、渡ってしまうのは義務違反。義務なのだからダメなものはダメなのであって、なぜ渡ってはいけないかと言えば、それが義務だからであり、それ以上の理由はない。道徳的行為であるためには、それが義務だから以外の理由があってはならない。理由がなんであれ赤信号で横断歩道を渡るのは義務違反なのでダメ。また、それが義務だからという理由以外によって為された行為はたとえ義務に合致していたとしても良い行為にはならない。
 
②    ヒュームの場合
車にひかれる危険性がないという利益を鑑みて、渡ってしまうかもしれない。
この時、その人の行為を観察する他人が周囲にいない、渡っても自身の評判に影響がないという点がとくに大きい(道徳における他者の重要性がとても大きい)。
理性は情念の奴隷なので、渡っちゃいけないことはわかっているけど、やめられない
(Cf.アクラシア:無抑制の問題: わかっちゃいるけどやめられないというアクラシア問題に対して、わかっているならやめられるはずで、それはわかってないからなんだという人もいる。)。
 
③    スミスの場合
胸中に「公平な観察者」が形成されているような人は、この時、横断歩道を渡らない。周りにその行為を見ている人がいなくても、「公平な観察者」が胸中にいて、その「公平な観察者」からの是認を求める気持ちと、その「公平な観察者」に否認されたくないという気持ちが、行為者に、横断歩道を渡らずに、立ち止まらせる。
 
 
 
 
 
【ヒューム前史:「道徳感覚学派Moral Sense School」】
⑴   第3代シャフツベリ伯Anthony Ashley Cooper; 3rd Earl of Shaftesbury (1671-1713):イングランドの道徳哲学者、美学思想家。徳と美の直観的能力として「道徳感覚moral sense」を重視。フランシス・ハチスンを教え、ジョセフ・バトラーなどにも影響を与える。祖父の侍医でもあったジョン・ロックに教育を委ねられ古典語に堪能であった。→浜下昌宏の研究が有名。
 
⑵   フランシス・ハチスンFrancis Hutcheson (1694-1746):18世紀アイルランドの道徳哲学者。『美と徳の観念の起源』(1725)では、ロックの認識論を踏まえつつ、「道徳感覚」を提唱し、「仁愛benevolence」という利他的動機を道徳的善と規定する。自然法学を踏まえた社会科学的な洞察は、ヒュームとスミスに批判的に継承され、スコットランド啓蒙思想の展開に大きな影響を与えた。ヒュームと交流をもち、アダム・スミスを教えた。「最大多数の最大幸福」という言葉を「最初」に用いた人物として有名
 
 
⑶  ジョセフ・バトラー Joseph Butler(1692-1752):イギリスの神学者、道徳思想家。道徳感覚学派を代表する一人。シャフツベリ伯の影響を受けて、ホッブズの快楽主義を批判し、人間には「自愛」以外に「良心」としての道徳感覚とそれによる支配原理が存在すると主張し、後者に前者を統治・規制する優位を与える。また、彼の利己主義の批判は有名で、利己主義は欲求の対象とそこから得られる満足との混同に由来すると説く。さらに、彼はシャフツベリの影響を超えて、人間本性を含む世界全体を、自然と道徳の合一を可能にする目的論的体系・制度と考える。著作に『説教15集』(1726)、『自然宗教と啓示宗教の自然の構成および運行との類比』(1736)などがある。
 
 
デイヴィッド・ヒュームDavid Hume(1711-1776)】
18世紀スコットランドの哲学者、歴史家。「輪転機から死産」することになる『人間本性論』(1739-40)の全3巻をフランスにて執筆した。のちに、『人間本性論』の第1巻の「認識論」にあたる『人間知性の探求』(1748)と、ヒューム自身が一番気に入っているらしき『道徳原理の探求』(1751)を刊行した。『イングランド史』(1754-62)は評判がよく、教科書にもなって広く読まれた。懐疑論、因果論、人格の同一性論で有名であり、カントを「独断の微睡み(ドグマティック・スランバー)」から目覚めさせ、哲学探究の全く新しい方向を与えたとされる。ヒュームはルソーに惚れ込んでいたがルソーの被害妄想ゆえにルソーに「裏切り者」扱いされて、ルソーを「悪魔」と呼ぶに至った。詳しくは、山崎正一串田孫一著『悪魔と裏切者: ルソーとヒューム(ちくま学芸文庫)』
 
【ヒューム倫理学の基本書】
Hume, D. [1739-40] A Treatise of Human Nature. Edited by Norton, David Fate. Norton, Mary J. 1st Ed Oxford University Press, 2000.
 
 
 
デイヴィッド・ヒュームの倫理思想の性格】
1.      【道徳の世俗化】
→その端緒はホッブスとも言える。
 
2.      【感情主義】
→道徳を感情に基礎付ける。ただしアダム・スミスと同じく「道徳感覚」は否定
 
3.      【道徳を二つに区別】
→自然的徳(親が子の面倒を見る)と人為的徳(法律、所有、約束)
 
4.      【理性主義的道徳説(サミュエル・クラーク、ウォラストン)批判】
「理性は情念の奴隷であり、かつ奴隷でのみあるべきであって、情念に仕え、それに従う以外のつとめを何か持っていると主張することは決してできない。」(『人間本性論』 第2巻、第3章、第3節、第4段落)
→つまり、理性は行為の動機付けの役割を担うことはできない。道徳とは実践的なものであるが、しかし、理性が人間を行為へ導いているのではなく、感情・情念が行為を引き起こしているのだ。カントの「実践理性」が行為を導くように、理性主義者は、理性によって行為が引き起こされると主張するのであるが、ヒュームに言わせれば、理性にあるのは、1.計算能力か、2.事実(「地球は丸い」「三角形の内角の和は二直角に等しい」)の認識能力か、3.(目的-手段の)関係の把握能力くらいなのであって、人を行為にまで導くほどの力はないのである。
 
5.      【理性は「ガイド」をするので追放はされない。】
カントが欲求や感情、そして幸福など(カントの「感性」にあたるもの)を、「道徳」から完全排除したのに対し、それとは対照的に、ヒュームは「道徳」に「理性は不要」とは言っていない。情念が単独では盲目だから、情念を導いてやる案内役(理性)が必要なのである。車で言えば、モーターが情念で理性はそのハンドルなのである。
 
6.      【道徳の非実在性 : 道徳とは観察者の外側に実在しているものではない】
 
「悪徳だと認められる行為、たとえば故意の殺人について考えてみよう。あらゆる観点から故意の殺人について検討して、「あなたが悪徳と呼ぶ事実、つまり実在するものを見出すことができるかどうか」考えてみよう。故意の殺人をどんな仕方で取り扱おうと、あなたはある種の情念、動機、意志の働き、そして思惟しか見出さない。この場合、それ以外の事実は一切存在しない。あなたが対象[のみ]を考察している限り、悪徳はあなた[の心の中]から完全に消えてしまう。あなたが自分の反省を自分自身の胸の内へと向け、 そして、自分のうちに生じ、この[故意の殺人という]行為へと向けられる否認(disapprobation)の感情を見出すまで、悪徳を見出すことは決してできないのだ。[確かに、]ここには事実がある。だが、この事実は感じ(feeling)の対象ではあるが理性の対象ではない。この事実はあなた自身の内にあるのであって、対象の内にあるのではない。それゆえ、あなたが何らかの行為や性格が悪徳であると宣言するときに意味しているのは、「あなたの本性の構造から、その行為や性格について熟慮することによって、非難の感じ、ないし感情を抱く」ということに他ならない。」 (『人間本性論』 第3巻、第1章、第1節、第26段落)
 
→「道徳的善悪(徳・悪徳)」は、「対象そのもの」や「対象間の関係」にあるのではなく、観察者の胸中で抱かれる情念・感情にある。これを道徳判断の主観主義という。ただし、個人的な好き嫌いで道徳判断が為されているという「単純な主観主義」ではない。
 
 
7.      【ヒュームにおける「道徳判断」の仕組み】
道徳判断とは、行為者の性格に対して下されるものであり、ほとんどの道徳判断には「共感」が関与している。そして、「共感」は身近な人ほど強力に働くから、その「共感」のブレ(えこひいき)を補正するための「一般的観点(general point of view)」という装置がある。
 
8.      【単純な主観主義ではない】
「ある性格が一般的に、われわれの個別利害に関わりなく考察される場合にのみ、その性格は、それを道徳的に善い・悪いと呼ぶような感じ・感情を引き起こす」(『人間本性論』第3巻、第1章、第2節、第4段落)
→「個別利害に関わらない」というのは、道徳判断を下す際に抱かれる感情は、判断を下す当人「の/に関わる」感情ではない。では、道徳判断を下す際に抱かれる感情はどこからきたのか。「共感」を通じて、他者から来たのである。では、「共感」とは何か。ヒュームによれば、「共感」とは、「他者の感情をコミュニケーションによって獲得する性向」(『人間本性論』第2巻、第1章、第11節、第8段落)である。そして「共感こ」そが、ヒュームの道徳哲学では、善悪の区別の主要な源泉なのである。( 『人間本性論』第3巻、第3章、第6節、第1段落)
 
9.      【ヒュームにおける共感sympathyは推測の能力である。】
共感とは、相手の顔つきや会話に表れる様子・態度から、その人の感情を推測し、その結果、相手と同じような感情を獲得する能力のこと。それゆえ、ヒュームの「共感」は哀れみや同情ではない。ヒュームの共感の問題点としては、共感は、判断を下す人の立場や状況の変化に応じて、当人に様々な感情を抱かせる。特に、赤の他人よりも家族や仲の良い友人に対して強く働く(えこひいき)。なぜなら①心理的な近さ、②距離的な近さ、③自分との類似性が共感に強く影響するから。たとえば動物倫理の文脈でヒューム倫理学を使うとすれば、イヌよりはサルの方により強く「共感」する。
 
10.  【他者との意見の対立→不快→一般的観点general point of view】
評価者個人に応じた観点から誰かある特定の個人の性格をそれぞれ自分なりに評価していても、評価者たちの意見はなかなか一致しない。だから評価者たちはどうするかというと、その評価されるものの周囲のナロウサークルに焦点を当てるのである。そしてそのナロウサークルにおいて優勢な評価に評価者は共感するのである。
 
「我々一人一人が性格や人物を、それらが個人の特殊な観点から、現れるままに考察しようとするならば、我々が合理的な言葉によって意見を交わすことは不可能であろう。それゆえ、そうした絶えざる不一致を防ぎ、事物についての一層安定した判断に至るために、ある不動かつ一般的な観点を我々は定め、そして自分達の目下の状況がどんなものであれ、我々が何かを考える際には、常に自分達をその視点に置くのである。」(『人間本性論』第3巻、第3章、第1節、第15段落)
→ヒュームの「不動かつ一般的な観点」というのは、普遍的な観点でもどこにあるのかも分からない理想的な観点でも偏らない観点でもない。
 
11.  【ナロウ・サークル:他者がいなければ道徳判断ができない】
「われわれは、人物の道徳的性格に関して判断を下すために、その人物が活動する、狭い範囲の仲間たちnarrow circleへと、自分の視線を限定する。」(『人間本性論』第3巻、第3章、第3節、第2段落)
 
ある人がナロウサークルでどういう風に評価されているか、そのナロウサークルの中で優勢な評価に観察者は共感する。
 
 
12.  【客観性が確保された道徳判断:ある程度偏りがないと客観性はない】
「各個人の快や利益は異なっているので、もしも彼らがある共通の観点を選択しないのならば、彼らの感情や判断において、合意することは不可能であったろう。この共通の観点から彼らはその対象を眺め、この観点によってその対象は、観察者全員にとって同じように見えるのである。」 (『人間本性論』第3巻、第3章、第1節、第30段落)
 
→一般的観点はナロウサークルの中で作られていくものである。しかしナロウサークル、つまり身近な人々の観点はやはり偏っているのではないか。偏っているのである。偏りのある観点を調べてからでないと客観性が確保できず、信用できないのである。(かたよりの倫理学)。評価されている人の道徳的性格(人柄)の影響を一番善く受けていて、評価される人のことを一番善く分かっているのは、評価される人の周りにいる「人々」に他ならないという考えがヒュームにはある。(他律(ヘテロノミー)の倫理学
 
 
 
 
13.  【ヒュームの道徳の4つの源泉】
①  判断されることが他者にとって有用(useful)/不利益であるかどうか
→(例).約束を守る、遅刻しない、誠実である
②  判断されることがその人自身にとって有用/不利益であるかどうか
→(例).仕事が機敏、勤勉である
③  判断されることが他者にとって快適(agreeable)/有害であるかどうか
→(例).ウィットに富む、息が臭い
④  判断されることがその人自身にとって快適/有害であるかどうか
→(例).快活さ、陽気さ、朗らかさ
 
だから、評価される人のことを道徳的に一番よくわかっているのは、これら4つの道徳の源泉の影響を一番強く受けるナロウサークルの人々なのだ。
 
 
14.  【ヒュームの倫理思想のまとめ】
ヒュームにおける「道徳判断」とは一般的観点から性格を眺めたときに是認・否認の感情を抱くことである。そして、「ナローサークル」で実際に下されている判断が、その道徳判断の基準(一般的観点general point of view)となる。ヒュームの倫理学は、普遍的基準や理想的基準や偏らない基準を求めない倫理学なのである。また、道徳判断を下すために「他者」は非常に重要である(他律の倫理学)。なぜなら、第一に、他者との意見の対立が不快であることを客観的判断に至るための原動力にするのだからである。第二に、道徳判断を下すためには自分の外のナロウサークルの他者の感情を基軸にするのでなければならないから、である。
 
 
15.  【ヒューム倫理思想の問題点】
①  倫理・道徳の範囲が狭い。つまり、道徳性の論理的要件として、R. M. ヘアは「普遍性」を挙げるのだが、それがない。
②  多数者の専制を容認するかもしれない。結局全部、多数決で善悪がきまるのか。たとえば、「同性愛者は不徳なので死罪にすべきだ」という人が多数派のコミュニティで、その判断は道徳的に正当化されるかもしれない。また、トクヴィル、J. S.ミルらが懸念したように、多数者の利益の貫徹によって少数者が抑圧されるのではないか。冤罪の危険性もある。
 
 
16.  【ヒューム倫理学は、信念・欲求モデルと整合する】
メタ倫理学における「信念(理性が取り扱う)—欲求(感情の領域に含まれる)モデル」はヒュームの枠組みと整合的である。たとえば、「喉が渇いたのでサイダーを飲もうと、おもむろに冷蔵庫に手を伸ばした」という行為について、「信念—欲求モデル」によれば、その行為が遂行される際には、「冷蔵庫にはキンキンに冷えたサイダーが入っている」という「知識or信念」と、「何か冷たいものを飲みたい」という「欲求」があったということになる。ここで注目すべきは次の二点。まず、①「信念-欲求」モデルにおける「信念」は、それ自体が単独で行為を動機づけることはできなくて、何かを飲みたいという「欲求」がなければ、冷蔵庫を開けるという行為には決して至らないということ。それゆえ、「信念」は客観的ではありえても、動機付けの力は持たないものとなる。次に、②行為を引き起こすときに不可欠とされる「欲求」は、「世界がどうなって欲しいかor世界がどうあるべきか」を表す心理状態とされる。そのため、実際の世界のあり方に照らして「欲求」というものの真偽が決まるわけではない。その意味で、行為を引き起こす「欲求」は主観的なものだということができる。現代における「メタ倫理学」という領域では、ヒュームに由来するとされる「信念—欲求モデル」でもって行為者の心理状態を捉える、というのが一般的。
 
 
 
 
アダム・スミスAdam Smith (1723-90)】
18世紀スコットランド啓蒙思想の中心的人物で、道徳哲学者にして、古典経済学の父とされる。『道徳感情論』(1759)と、『国富論(諸国民の富)』(1776)が二大主著。アダム・スミスは、 グラスゴー大学の学生時代にヒュームの『人間本性論』をこっそり読んでいるところを見つかって怒られたらしい。『人間本性論』は宗教批判書でもあり禁書だったのでスミスが処分された記録が残っている。『国富論(諸国民の富)』の出版年は1776年であり、これはヒュームの死んだ年である。アダム・スミスは当時進行中だったアメリカ独立戦争の行く末を見届けてからこの本を出版しようとしていたのだが、胃癌だったヒュームからスミスに「読みたい」という手紙が届いて、それでヒュームが死ぬ5ヶ月前にアダムスミスはこの本を刊行することにしたのである。
 
近代イギリス道徳哲学における自己愛と利他心について言えば、ホッブズらの利己主義的人間観とハチスンらによる利他心優位の人間観の対立を、アダム・スミスは調停したとされる。彼は『道徳感情論』で利己心と共感に注目する。彼は、共感から生じた是認による利己心の制御を,道徳の成立として見て取った。また『道徳感情論』第6版で、スミスは「想定された公平な観察者」という概念を作り、道徳判断の客観性を確保したとされる。
 
 
 
国富論の世界】
国富論』(1776)の有名な文句は「神の見えざる手」であり、この本はたしかに、政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することで豊かで強い国を作るべき(自由放任主義)だと唱えている。ただし、堂目 卓生『アダム・スミス道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008年)によれば、『道徳感情論』におけるスミスの人間観と社会観を再考察し、その上で『国富論』を検討することによって、これまでとは異なったスミス像を示すことができるらしい。その『道徳感情論』の鍵概念とはヒュームとは違った、アダム・スミス独自の、「共感」に基づく道徳感情説と、「想像上の立場交換」、そして「公平な観察者」である。
 
【アダムスミス倫理学の基本書】
Smith, A. [1759] The Theory of Moral Sentiments, edited by Raphael, D. D. and Macfie, A. L.,
Oxford: Clarendon Press, 1976
 
 
 
 
【人と共感するか状況に共感するか】
⑴   人と共感するヒューム
→お葬式で身内を亡くした人がヘラヘラしている場合、その人の感情と同じ感情を抱く
 
 
⑵   状況に共感するアダム・スミス
お葬式で身内を亡くした人がヘラヘラしている場合、その人の感情と同じ感情を抱かず、その状況に着目して、その態度は場違いなものだとして否認する。そうすると相手は不快になる。人は不快を避けて快を求める。よって彼は是認を求めて態度を改めるかもしれない。そもそもアダム・スミスの共感論は、以下のスリーステップになっている。⑴まず、観察者が行為者と想像上の立場交換(imaginary change of situation)をして感情を獲得した後に、⑵「想像された自分の感情」と、「実際に観察される他人の感情」とを比較する。観察者は、「自分の感情(想像)」と「他人の感情(実際)」とを比べてみた結果、両者がほぼ一致する場合には、他人の感情を「適切なもの」として「是認」し、一致しない場合には「不適切なもの」として「否認」する。⑶さらに、相手の感情との「比較」を通じて観察者が獲得した「是認」の感情が相手に伝わると、相手は自分の感情や行為が自分以外の人に認められたことを知って快い気持ちになる。)
 
→「共感は、情念[そのもの]を見ることからよりもむしろ、その情念が引き起こされる立場を見ることから生じる」(『道徳感情論(1759)』第Ⅰ部、i篇、1節、10段落)
 
→たとえば、苦労して返済不要の奨学金をもらっても全く喜んでいない学生がいたとして、もし彼が友人に「君がその状況で大喜びしていないのは不適切だ」と否認された場合、彼は友人に否認されるのが不快であり、是認されて快感を得たいがために、態度を改めるかもしれないのである。(否認(不快)を避けて是認(快)を求める人間観)
 
→われわれは、他人から是認されることを願う結果、自分の感情や行為を、他人が是認できるものに合わせようとする(我々は、他人の目線を気にする)。では、誰の目線を気にするのか(=道徳判断の基準はどこにあるのか)。ヒュームのように、身近な人の視線ではない。インパーシャルスペクテイターの目線を気にするのである。
 
 
 
 
【ヒュームとアダム・スミスの共感は、何が違うのか】
ヒュームの場合:「共感」する相手と、同じような感情を獲得する。
 
アダム・スミスの場合:想像上の立場交換で獲得する感情は、相手の感情と一致するとは限らない。
 
 
 
アダム・スミスの倫理思想の性格】
 
1.      【アダム・スミスの共感ステップ①:理論の前提と想像上の立場交換による感情の獲得】前提とされるスミスの人間観:人間はみな、他人の境遇に関心をもつ。
前提とされるスミスの人間観:人間はみな、他人と同じ感情を自分も抱こうとする。
前提とされるスミスの人間観:人間はみな、不快を避けて快を求める。
→しかし、他人の胸中は直接覗き込めない
→そこで、想像上の立場交換imaginary change of situationをする。われわれは道徳判断を下すとき、想像の中で、自分を他人の状況に置いてみる。つまり、「自分がその人と同じ状況下にいたら、どのような感情を持つだろうか?」「そういう状況で自分はどのような行為をするだろうか?」と想像する。
→スミスの人間観:人は自分自身を含めて誰しもが、たとえ自分との利害関係がない人に対してでさえも、関心を持つ。そして、その他人と同じ感情を自分も抱こうとする。ただし、他人の感情を直接見ることは出来ないので、「想像上の立場交換」(共感)をする。
 
 
2.      【アダム・スミスの共感ステップ②:「想像上の自分の感情」と「観察された他人の感情」との比較】
「想像上の立場交換」をして感情を獲得した後、「想像された自分の感情」と、「実際に観察される他人の感情」とを比較する。ふたつを比較して、両者がほぼ一致する場合は、他人の感情は「適切なもの」として「是認」されるが、ふたつを比較して、両者が一致しない場合は、他人の感情は「不適切なもの」として「否認」される。この「是認」と「否認」の感情が、アダム・スミスにおける「道徳感情」である。
 
3.      【アダム・スミスの共感ステップ③:是認感情の伝達(感情の相互交流)】
さらに、相手の感情との「比較」を通じて観察者が獲得した「是認」の感情が相手に伝わると、相手は自分の感情や行為が自分以外の人に認められたことを知って、快い気持ちになる
 
4.      【他人の評価から、自分の評価へ】
自分には、他人への関心がある(人間観の前提より)
⇒だから、他人に対する道徳判断を下す。
他人にも、自分への関心がある (人間観の前提より)
⇒だから、他人も自分に対して自分と同じように道徳判断をしているはずだ。
では、自分は他人の目にどう映っているんだろうか。
「では、自分は他人に道徳的にどう判断されているんだろうか。」
 
このように問いを発展させたアダム・スミスは、評価対象の重点を他人から自分自身へと移していく。われわれは、他人から是認されることを願う結果、自分の感情や行為を、他人が是認できるものに合わせようとする(我々は、他人の目線を気にする)。では、誰の目線を気にするのか(=道徳判断の基準はどこにあるのか)。その「他人」が誰でもいいわけではない。では、誰の基準に合わせる(べきな)のか。この時、アダム・スミスは、ヒュームと同じ客観性確保の問題を抱えているわけだが、その問題解決の方向性は、ヒュームのように、身近な人に注目するのではない。アダム・スミスは、親や友人など、親しい人は、私に対して愛着や好意を持っているから偏っていて不適切として退けるし、また逆に、自分に対して明らかな敵意をもっている人もその判断が公平さを欠いたものであるから不適切として退ける。そして、偏りのない「インパーシャル・スペクテイター」による「是認」に対する「共感」を、自分の過去の行動を自分が「是認」する時の基準にするのである。では「インパーシャル・スペクテイター」とは何なのか。
 
5.      【 「公平な観察者impartial spectator」は第三者の立場である】
自分に対する適切な判断の基準を与えてくれるのは、自分と利害関係にない、そして自分に対して特別な好意や敵意をもたない第三者、すなわち「公平な観察者」たちだけ。「それらの対立する利害について何らかの適切な比較をなしうるにはまず、われわれは自分の位置を変えなければならない。われわれは、自らの場所からでも、他人の場所からでもなく、また、自らの目でも、他人の目でもなく、どちらとも特別な関係を持たず、両者の間で公平に判断する、第三者の場所から、第三者の目で、それらの利害を眺めなければならない。」『道徳感情論(1759)』第Ⅲ部、1、6)
 
6.      【公平な観察者impartial spectatorの特徴】
①    個人的利害にとらわれない
②    個人的感情にとらわれない
③    関連する事情に通じている(well-informed)
 
「公平な観察者」は、「内なる人」、「人類の代表者」、「胸中の半神(デミ・ゴッド)」、「神の代理人」、「良心」などと呼ばれる。
 
7.      【ヒュームの「一般的観点general point of view」と「公平な観察者」との違いは何か】
 
【→胸中にいるかどうか】
われわれは、観察者としての経験、そして判断される当事者としての経験を通じて、自分が所属する社会において、「公平な観察者」たちが、実際に他人の感情や行為をどのように評価するか、どう判断するかを学んでいく。その結果、 「公平な観察者」の基準が胸中に形成される。つまり我々は、経験を通じて「公平な観察者」の基準を胸中に獲得していくのである。
 
8.      【自分に対する道徳判断:裁判との類比】
自分に対する道徳判断は、自身を2人の人物に分割した上で、自分の感情や行為を判断することでなされる。その2人の人物としては、行為者である裁判を受ける被告と、観察者である裁判官である。
 
9.      【自分に対する道徳判断:「良心」の創出、安心と不安】
「自分が行為した同期を振り返り、それを、利害に関心のない観察者が調べるような見地で調べる場合、この想定された公平な裁判官の是認に共感することで、自らを賛美する。」 (『道徳感情論[1759]』第Ⅱ部、2篇、2節、4段落)
 
人は、「想定された公正な裁判官」の是認に対する共感によって、自分の過去の行動を是認する。 (『道徳感情論[1759]』第3部、1、2)
 
われわれの胸中には、公平な観察者としてのもう一人の自分がいて、自分の感情や行為が適切なものか否かを判断する。われわれは、常に胸中の公平な観察者の判断に従うわけではないけれど、その判断を気にしないではいられない。自分の感情や行為に対して、胸中の公平な観察者から是認を受ける場合には安心するし、否認される場合には不安になる。
 
 
10.   【ヒュームとスミスの倫理思想の比較:「共感」と「道徳感情」】
ヒュームとスミス、ともに「共感」を通じて、「道徳感情を獲得」するという、大きな枠組みは一緒である。しかし、「共感」ということで意味されている内容と、「獲得される道徳感情」に関して、大きな違いがある。ヒュームの「共感」は、相手の様子から相手の感情そのものを推測すること、あるいはその推論能力である。それに対して、スミスの「共感」は、状況に焦点を当てて想像上の立場交換をすることである。また、ヒュームの道徳感情は、推論の失敗がない限り、相手と同じものである。それに対して、スミスの道徳感情は、相手と一致するとは限らない。
 
 
11.   【ヒュームとスミスの倫理思想の比較:「客観的な視点の違い」】
ヒューム、スミスともに「共感」の偏りを問題視した。その結果、両者ともに、「客観性」を確保する視点を導入した。両方とも、経験を積むことで、徐々に獲得されるものであるけれども、その具体的内実は驚くほど異なっている。ヒュームの「一般的観点general point of view」は、被評価者を取り巻く「身近な関係者narrow circle」の視点である。ヒュームの「一般的観点」は、観察者の外にある実際(real)の観点。それに対して、スミスの「公平な観察者impartial spectator」の視点は、胸中に形成される「利害・感情にとらわれていない、事情に通じた人」の視点である。アダム・スミスの「公平な観察者」は、観察者の内にある理想的(ideal)な観点である。
 
→また、ヒュームではどちらかというと、他人と意見が合わないことの不快感を原動力に客観的な道徳判断に向かうのだが、アダム・スミスではインパーシャル・スペクテイターに是認される快感を原動力に客観的な道徳判断に向かうのである。
 
 
12.   【まとめ】
ヒュームにおける有徳な人:情念の闘争(他者由来の感情)のうちにある他律的存在
スミスにおける有徳な人:良心によって自己を反省し、良心の統制に従って行為する自律的存在→カント倫理学への接近
 
 
イマヌエル・カントImmanuel Kant (1724-1804)】
純粋理性批判』(1781/87)
『道徳形而上学の基礎付け』(1785)
実践理性批判』(1788)
判断力批判』(1790]
 
【カント倫理学の基本書】
Kant, I. [1785] Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, Hrsg. von Karl Vorländer. Hamburg: Meiner, 1994
 
 
イマヌエル・カントの倫理思想の性格】
1.    【人間観】
人間とは、理性的存在者でありながら、常に同時に感性的刺激にも晒されている存在。
→理性だけしか持たないのが神や天使や精霊。感性だけに支配されているのが動物。人間は理性と感性にまたがって存在しているがゆえに道徳が必要になる。
 
2.    【「道徳」から「感性的要素(欲求・関心・幸福)」を完全排除】
カントは、仮言命法(「もし~したいなら…せよ」)よりも定言命法(端的に「…せよ」)を重視する。仮言命法とは、感性が命じる命法であり、それには以下の2種類がある。「熟練の規則(各自の欲求や関心に基づく個々の具体的目的に到達するための行為を指示)」と「怜悧の助言(誰もが求める一般的目的である幸福に至る行為を示すもの。)」である。「熟練の規則」が道徳たりえないのはなぜかというと、欲求や行為の目的は多様で個別的だからで、「怜悧の助言」が道徳たりえないのはなぜかというと、幸福も人によって様々で、自分を幸福にする行為が必ずしも他の人に幸福をもたらすとは限らないから。
 
3.    【道徳における普遍性(ユニバーサリティ)の重視(普遍主義)】
→道徳には、いつでもどこでも誰にでも妥当する普遍性が必須。
 
4.    【理性の自己律法、自律(オートノミー)、「自己決定」の倫理学
→人間にとって「道徳的に行為する」というのは、感性に流されることなく自分の理性の自己立法によって定められた「道徳法則」に従って行為すること。
→「汝の格率が、普遍的法則となることを、その格率を通じて自分が同時に意志できる格率に従ってのみ行為せよ」(『道徳形而上学の基礎付け』宇都宮 芳明 訳、以文社、2004年、p.42 / IV421)
→人が自分の意志決定をするための主観的規則(=格率)が、同時に普遍的法則になることも彼が意志できるような、そういう法則に従ってのみ、人は行為すべきである。
→すべての理性的な人が、すべての人に適用されることを望み、かつ自分も同意できるような、そういう規則に従ってのみ、人は行為すべきである。
 
5.    【厳格主義】
→「それが義務だから」という理由でなされる行為だけが道徳的に善いので単に「義務にかなっている」だけではダメ!たとえば「友情」ゆえに為した優しい行為は道徳的に善くはならない(←直観と合わない)。
 
6.    【人格の尊厳】
人格は「目的」にはなれど「手段」とされてはならない。
 
【カント倫理学の問題点1.(義務同士の衝突) :「ハインツのジレンマ」】
ローレンス・コールバーグ(米の心理学者)のたとえ話。ハインツの妻は病気で、ある薬を飲まないと死んでしまうのだが、その薬を持っているのは町のとある薬屋だけであり、薬屋は強欲で、ハインツにはとても払えないような大金を要求している。ハインツは手を尽くしたがそんな大金は集めることはできなかった。ハインツは薬屋に忍び込んで薬を盗む。さて、この盗みは許されることなのだろうか?
→このジレンマは、「他人のものを盗んではならないという義務」と、「自分の妻の命は助けなくてはならないという義務」とが衝突している。(原典はLawrence Kohlberg, “Stage and Sequence: The Cognitive-Developmental Approach to Socialization,” in D. A. Goslin ed., Handbook of Socialization Theory and Research, Rand McNally, 1969)
→ある「義務」と別の「義務」がぶつかった時、それを裁くもう一つ上の原理が必要になるのだろうか。しかし、カントの倫理学には理性から出てくる「義務」が最下層の基盤のはずである。
 
【カント倫理学の問題点2.(感情・欲求の位置):美しき魂schöne Seeleの問題】
シラーによるカント批判。「カントの厳格な道徳律は人間に、結局は感性や傾向性を考慮することなくもっぱら理性の原理に従うことを要求する。これに対してシラーは、完全な人間の理念をこれら二つの原理が調和した心の状態に求める。これが「美しき魂」である。それは、感情の赴くままに自発的に行なわれた行為が、同時に意志の命令に合致するような境地である。」(有福、坂部 編『カント事典』弘文堂、1997)
 
【カント倫理学の問題点3.形式主義の問題】
例外を作らない代わりに、具体性や内容は欠如しがちなので、道徳的ジレンマに出会ったときの指針として使いづらい。具体的にどうしたらいいのかが分かりづらい。
 
【おまけ】
 
【女性倫理学者フィリッパ・フットの「トロッコ問題」】
⑴   スイッチを押すと線路が切り替わって、1人死んで5人助かる。
⑵   歩道橋からひとりを線路上に突き落とすと、1人死んで5人助かる。
 
→⑴のとき多数派はスイッチを押すほうを選び、⑵のとき多数派は突き落とさない方を選ぶことが知られている。帰結主義的に考えれば、帰結が同じなら同じ選択をするはずなのに、なぜ⑴と⑵で違う選択をするのか。
 
 
 
 
【フットの答え】:二重結果説(ダブル・エフェクト・セオリー)
⑴   の場合は5人助けようとして、ひとりが死ぬことを許容している。
⑵   の場合はひとりが死ぬことを許容するだけでなく、意図している。
→⑴のほうは、ひとりを殺すことが許容されるが、直接意図はされていない。
→⑵のほうは突き落とされたひとりが死ぬことは許容されるだけでなく、直接意図もされている。
→「ひとりが死ぬ」結果を直接意図して5人を救うのが⑵で、5人を救おうとすると1人が死んでしまうのが⑴。「ひとり死ぬ」という結果が直接意図されたかどうかが⑴と⑵は違う。⑵はひとりを殺そうとしているが、⑴はひとりが死んでしまうことを許容している。フットは、我々は「⑴許容される結果」と「⑵意図される結果」を分けていると考えた。⑵のほうはひとりを5人を救うための「手段」としているのである。
 
 
 
【フットの結論】
ある行為によって結果A(5人助かる)と結果B(ひとり死ぬ)が生じるときに、結果Aの善さは結果Bの悪さを凌駕し、Bが直接意図されたものでないならば、その行為は「善い」あるいは「許容される」。
 
 
 
 
【ジョシュア・グリーンのループ実験】:「手段」としてひとりを殺すスイッチの実験
⑶   暴走トロッコの進む路線を、スイッチを押すと切り替えることができる。スイッチを押すと、トロッコの進む路線は、ひとりを殺す路線に切り替わり、5人のところに到達するまでに、そのひとりを轢き殺したせいでスピードが落ちて停止する。
→⑶のとき、多数派は、「スイッチを押す」方を選ぶことが知られている。しかしこれは、フットの「二重結果説」と矛盾する。明らかに⑶はひとりが死ぬことを5人を助けるための「手段」として意図しているからだ。よって⑶は「二重結果説」だと説明できない。ということは、「二重結果説」など単なる後付けの正当化だったのではないか。
 
 
 
【ジョシュア・グリーンの答え】二重過程理論(ダブル・プロセス・セオリー)
「突き落とす」という直接的な行為が嫌なだけではないのか。私たちの道徳的意思決定は内臓レベルの反応(進化の過程で獲得した自動的な過程:「習慣」)と、それに遅れて働き「後付けの正当化」をしたり調整を行う推論レベルの知的反応とから構成されているという説。これを「二重過程理論」という。たとえば、「近親相姦がなぜダメか」と言われて、「家族制度の崩壊につながる」という正当化は、コンドームをつければいいだけの話であって、それは知性が後付けした理屈である。実際、コンドームをつけても近親相姦は嫌だし、コンドームを付ければ子どもは生まれないので家族制度の崩壊にはつながらない。実際には内臓レベルの反応として、「なんとなく生理的に無理である」に過ぎないのだ。
 
 
 
 
【ジョシュア・グリーンの結論】
義務論的(カント的)な道徳判断は進化の過程で獲得した自動的反応に過ぎない。また多くの道徳理論は、そうした反応を後から正当化したものに過ぎない。
 
 

オースティンの言語行為論

【言語行為論を俺が高校生に話した原稿】

エミール・バンヴェニストが「蜜蜂のダンス運動は言語ではない。それは言語未満の、コードに過ぎない」と主張する理由のひとつには、ハチは「音声」による伝達を行わないというものがあった。よって我々が「音声」を使うから暗闇でもコミュニケーションが取れるのに対して、ハチは暗闇ではダンスが見えなくなってしまうと彼は指摘するわけだ。しかし、バンヴェニストのこの主張に対して、我々は次のような疑問をもう一度呈することができる。「いや、身振りだって言語ではないか。そもそも、言語とは音声を発しながら為す身振りのことなのではないのか?」と。ミツバチと我々人間の言語の差異の記述を、片方は身振りでありもう片方は身振りでないという路線で進めるのを避けるために、人間の言語だってそもそも行為であるという立場の理論にも耳を傾けてみよう。

【「偽」と「不適切性」の区別】

真にも偽にもなりえないがその発話が不適切にはなりうるような文がある。以下の①〜⑦を見て欲しい。

①「この船をエリザベス号と命名します(I name)。」
②「彼を夫とすることに同意します(I do)。」
③「遺言です。私の銀時計を弟に譲ります(I give)。」
④「明日は雨である方に賭けるよ(I bet)。」
⑤「やあ、どうも。」
⑥「電気つけて」
⑦「ちょっとそこの醤油とって」

→これら①〜⑦は、真にも偽にもなりえないが「不適切」(インフェリシタスinfelicitous)にはなりうる。たとえば初対面の人に「やあ」と発話するのは「偽」というよりは「不適切」である。

(→このような「偽」と「不適切性」の区別から考えると、ミツバチは常に「適切な」行為しかできない。また伝えられることは「真」なことだけであるから、ミツハチには「嘘」がつけない。まして「皮肉」など言えるはずがない。よって、これから述べる言語行為論には、そもそも「人間の言語」についてのものであることが前提されていることになる。では、何が不適切とか適切とかを決めているのか。文脈である。後述するが、むしろ文脈が問題なのである。どちらも言語行為と言いうるハチと人間の言語行為を決定的に分けているのは、文脈の多様と文脈切り替えの自由ではないのか。というのも、しばしば人間の言語の根本特徴としてアンドレ・マルチネの指摘した「二重分節性」があげられるが、あれだって「ある単語を他の文脈においても適切に使いうる」という文脈の多様と文脈切り替えの自由の指摘とも言いうるからだ。)

→これら①から⑦のは全てパフォーマティブな発話ということができる。ではそもそも、コンスタティブ(constative)とパフォーマティブ(performative)とはどういう意味だろうか。

【コンスタティブとパフォーマティブ

⑧外は雨が降っています(事実確認的・コンスタティブな発話)
⑨明日は行くと約束します(パフォーマティブ・行為遂行的な発話)

→⑨は真でも偽でもない。⑨は文が事実と合致しているかどうかは問題になっていないのに、完全に有意味な発話である。

→では、⑧のほうは、純粋にコンスタティブ(事実確認的)なのだろうか。ここまでの話の流れだと、「⑨はパフォーマティブで⑧はコンスタティブだ」と言いたくなるけれど、本当にそうだろうか。⑧だって、「傘を取ってくれ」という意味とか、「外に出るのはやめよう」という行為を促すようなパフォーマティブな意味を含んでおり、完全に事実の記述とは言えないはずである。

→そうすると、「真」とは「適切性」のひとつの様態であり、「偽」とは「不適切」のひとつの様態であるに過ぎないのではないだろうか、という疑惑が湧いてくる。ためしに、「偽であるような文は、実はその大半が、不適切であるような文の特殊な場合だ」、というアイデアを検証してみよう。実際、⑧という真か偽かになりうる文が偽になる時、「その文は偽である」の代わりに、「その文は、不適切だった」とも言いうるのである。つまり、晴れているときに⑧を発話することは端的に「不適切」と言い換えて構わないように思えてくる。

【皮肉とは「偽だが適切な文」のことである】

→ただし、「偽な文であれば全て不適切な文か」というと、実はそうとも言い切れない。というのも、「偽だが適切な文」というものがありえるからである。たとえば、

⑩(相手が約束を守っていない場合に)「約束を守ってくれてありがとう」

とその人に言うのは「皮肉」である。皮肉は「偽であることを前提とした発話」であり、偽であることは話し手にとっても聞き手にとっても分かりきっているから、ここでも真偽は問題になっていない。皮肉は、相手を非難する意図を伝える文脈では「適切」であったり、逆の文脈では「不適切」であったりすることができる。我々は偽の文でさえ適切に使っているのだ。

→このように、文がたとえ偽であったところで、不適切でなければ我々はその言葉を使うのであるが、では、真偽が取り立てて問題になるのはどんなときか。それは、何かがどんなときも誰にとっても絶対確実でなければならないような状況である。後述するが、実はそんな状況はあまりない。学校のテストですら、そこまでのことが問題になっているかどうかは微妙なのである。

→ちなみに、⑩の発話を受けて、その聞き手は皮肉に気づかないこともありうる。つまり、「あれ、この人にとっては、自分は約束を守ったことになっているのかな?」と聞き手が思うこともありうる。さらには「皮肉に気づいているのに、皮肉に気づかないふりをする」ということすら可能である。


→我々は、例えば学校のテストで正誤判定をさせられるときなどを典型として考えているから、色々な場面で文の真偽がとりたてて問題になっていると思い込んでいるけれども、実は自分たちが思っているよりもずっと、真偽は問題になっていないのである。テスト中も実はそうである。たとえば、「ふだんの授業中に先生の話を聞き、それを受けて適切な仕方で解答できるかどうか」が問題になっているのが学校の定期テストであり、それは極めてタイムスピードが遅滞した形態で為される「緩慢なコミュニケーション」と呼び変えることができる。ふだんの会話は長くても5分で終わるが、それを100分に引き伸ばすと定期テストになるというわけだ。さらに、受験生たちが受ける模試で聞かれているのは、「高校生で学習を求められるのはこういったことだが、ではこう聞かれたらどう答えますか?」という少しだけ話し手も聞き手も、何遍も繰り返してきたせいで、メタになっているような部類の問いである。(というか、メタになっていないとしたらそれは受験勉強が足りていないのである。)つまり、これらのテストの対策というのは、その科目についての専門的な学びというよりは、むしろ、コミュニケーションとは何か、そしてその技法を学ぶことに属しているのである。そしてこの事実は、基本的に隠蔽されている。定期テストがコミュニケーションの勉強であることは、暴露されたくないが、全員が薄々気づいていることのうちのひとつだ。

→では、真か偽かがどうでもいいので、真か偽かを考えても仕方がないようなこれらの文①から⑩などについて、我々はどのように考えたらいいのだろうか。以下の3カテゴリーがその役に立つだろう。


【オースティン流言語行為の3大カテゴリー】

[⑴発話行為(locutionary act)]

→どんな言語も、それを使うとき何か(口、身体、他人、物)を動かさないことができるだろうか。できないのであれば、言語とはひとつの行為の一種であると考えてよいはずだ。そして、なんであれ発話する行為(以下「言語行為」と呼ぶ)の全般がまずは「⑴発話行為」にあたる。

→真偽が問題とならないパフォーマティブ(行為遂行的)な発話も、記述や報告に使われるコンスタティブ(事実確認的)な発話も、意味も分からず唱えた外国語の音読も、まずはこれに含まれるといったんは考えて、様々な文をまずは⑴に溶かし込むのである。


[⑵発話内行為(illocutionary act)]

→なにごとかを言うことにおいて(-in-)、なにごとかを行うその行為のことである。たとえば、「約束する」、「告白する」などの、「相手にこちらの意図が伝わればその時点で十分」と言えるような言語行為は「⑵発話内行為」にあたる。

→「⑵発話内行為」とは「発話内の力(illocutionary force)」を伴った言語行為であり、社会的な慣習や、習慣によって発話内行為とその効果との間の関係が緊密で安定している。たとえば上記の①〜④はこれにあたる。

[⑶発話媒介行為(perlocutionary act)]

→なにごとかを言うことによって(-by-)、なんらかの実際的で実効的な「発話媒介効果perlocutionary effect」を聞き手に及ぼし、その効果によってなにごとかを行うその行為のこと。

→「⑶発話媒介行為」は、発話の適切性が話し手の発話そのものによっては構成も保証もされないような言語行為であるという点で⑵とは異なる。たとえば、「怖がらせる」「確信させる」などは、「相手に意図が伝わればその時点で十分」と言えるような言語行為では全然なくて、その言語行為の「適切性」が聞き手に依存して変わってしまう。⑵に属する「約束する」の場合には相手に及ぼす実際的効果とは無関係にその言語行為を適切に達成することができたけれど、「おまえ、そんなことすると、どうなってもしらんぞ」と言うような言語行為の場合には、その効果によって相手がビビらなければこの言語行為を適切に達成することができない。

→ 「⑶発話媒介行為」も、社会的な慣習や習慣によって言語行為とその効果の間の関係が比較的安定してはいるが、その場その場での即興性もあり、「⑶発話媒介行為」が及ぼす「発話媒介効果」は文脈次第でどのようなものでもありうる。例えば「結婚しよう」という発話媒介行為が相手に及ぼす発話媒介効果は何だろうか。文脈によっては相手が笑い出すかもしれないし、泣き出すかもしれない。即興性があるため安定しないのである。

→では、そのあらゆる言語行為の適切性を根本的に下支えしていると思しき、「文脈」というのはいったいなんなのか。結局のところ、言語行為論が重視しているのは、状況にあった言語行為をなしているのかどうか、すなわち文脈(context)に合った言語行為ができているかどうか、ということにならざるをえない。言語行為論の核心は文脈論なのである。


【言語行為論における文脈の最終的重要性】
人間の全ての言語行為(speech-act)は以上の3つのカテゴリーのうちのどれかに定まるということには結局ならないし、まったく同じ発話でも文脈が変われば⑴と⑵と⑶のどれに分類されるのかは変わる。以下に3つの具体例を挙げる。

[具体例❶]
まず、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「Aさんったら、これから何をするかわからないなんて、変なの!うふふ」とBさんが思った場合をまずは考えてみよう。この時、そもそもAさんが発話に込めた「発話内の力(illocutionary force)」がBさんに伝わってさえいないので、これは「⑵発話内行為」として判定するならば「不適切」であり、これは「⑴発話行為」でしかない。

(→この場合、「⑵発話内行為」として、不適切なのはAさんの発話だろうか?オースティンの議論構成としてはそうなのだが、受け取るBさんの側が、「受け取ること」に失敗しているとも言えないだろうか?)

[具体例❷]
次に、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「そんなこと言われてもちっとも怖くないぞ!」とBさんが思った場合はどうか。この時、Aさんが発話に込めた「発話内の力」はBさんに伝わってはいるのだが、Bさんが実際に怖がってはいない。よってこれは「⑶発話媒介行為」として判定するならば「不適切」であり「⑵発話内行為」でしかない。


[具体例❸]
最後に、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「怖い!」とBさんが実際に思った場合はどうか。この時、Aさんの発話は、Bさんに「発話媒介効果」を及ぼしている。つまり、「発話内の力」がBさんに伝わっていて、かつ、Bさんが実際に怖がっている。この「発話媒介効果perlocutionary effect」を聞き手に及ぼし、まさにそのことによってなにごとかを行うその行為こそが「⑶発話媒介行為」なのである。



【参考文献】
ジョン・ラングショー・オースティン著、坂本百大訳『言語と行為』(1978年、大修館書店)

 

 

【参考:言語ゲーム

言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)とチェスのゲームとは全く違う。チェスは調べようと思えばすぐに調べられるような明示的な規則があるけれども、言語ゲームは明示的な規則がどこかに書いてあるのではない。言語ゲームのルールには、(共同作業の中で言葉の誤りが訂正されたりするのだから)規範性はあるのに、ルール自体が言語の実践的使用の中で更新されてゆくこともまたありえて、しかもそれらは明示的ではない。言語ゲーム概念は、言語実践が普通のゲームとは違って明示的な規則には従っておらず、生活の流れの中でその言葉の意味は供給されているのであって、言葉の意味はその言葉が喚起するイメージなどではない、ということを主張しようとして作られたものなのだ。

 


【発展】

家族的類似性=共通の本質に基づかない類似性

マイケル・ダメット反実在論と反クワイン全体論と分子論的言語観

ポール・グライスの会話の含みの理論

1980年代のデイヴィドソンの言語の非存在論

 

【規則のパラドクス】

自然数列は無限に続く。たとえば、「0から順に2を足す」という言葉は、それだけでは、どういう風にその指示を遂行するべきかを決定できない。そのことは、どれほど指示に言葉をつけたそうとも、具体例を何個つけて示そうとも同じである。たとえば、「1000」から先は4ずつ足し続けると解釈されるかもしれない。