aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

時間についての不思議

【時間について俺が不思議なこと】

【不思議⑴】:退屈な会議は時間がゆっくり流れているように感じるのに、素晴らしい映画を見ている時間は時間がものすごいスピードで流れているように感じる。(例えば、『セデック・バレ』という全部で4時間の台湾映画を見ている時間は全部で5分間くらいに感じたと映画批評家高橋ヨシキは言っていた。まぁ、それはさすがに大袈裟に言い過ぎだとしても、実際俺も、『マッドマックス 怒りのデスロード』という大好きなフェミニズムの映画を見ている2時間は、俺にとっても30分くらいに感じるかもしれない。)

【不思議⑵】:たくさんの出来事があった怒涛の一週間のあとで、一週間前をあとから思い返すと、まるで一週間前が一ヶ月前のことであるかのように感じる。

【不思議⑵'】:また、『魔の山』の中でトマス・マンはこんなことを言っている。

「新しい土地で過ごすはずの幾日かは若々しい、つまり力強いどっしりとした歩みをふたたび取り戻す。---しかしこれも「慣れる」につれて日ごとに短くなってくるのである。4週間の最後の週は気味の悪いほどの速さと儚さでおわってしまうことだろう。もちろん、時間感覚の若返りはそういう旅行が終わってからも効き目が残っていて、日常の生活に戻ってからふたたび効き始める。家へ帰ったたばかりの日々は、転地の後ふたたび新鮮となり、どっしりと若々しく感得される。しかしこれは数日のあいだだけのことである。」(トマス・マン『魔の山』)

要するに、トマス・マンが4週間の旅行先に到着すると、最初のほうは時間がゆっくりと流れ、だんだんスピードが速くなっていき、旅行が終わり、今度は自分の家に戻るとまた時間がゆっくりとなり、慣れるとまた時間が速くなるというのだ。これは、なぜなのか。

【不思議⑶】:強い印象を受けている出来事について思い出すときには「まるで昨日のことのように」感じると言う。とくに、ある衝撃的な出来事から今に至るまで思い出す人の中で大した変化が起きていない時には、なおさら「昨日のことであるかのように感じる」と言うのではないだろうか。

例えば、40歳の人が「僕は30歳の誕生日を昨日のことのように思い出せる」と言った例を俺は聞いたことがあるが、40歳の人が10歳の誕生日を「昨日のことのように思い出せる」と言った例は聞いたことがない。その理由は、40歳と10歳の間では思い出す主体のあいだにたくさんの変化が生じているからではないだろうか。例えば身長が大きくなったりとか。

【不思議の解明の試み:主観時間に関する注意資源論】

人間は、脳内の注意資源を使えば使うほど、人間は主観的に長い時間が立っていると考えてしまい、そのように考えられた主観的時間と、客観的とされている時間との差額の大きさが、時間の「速さ」として感じられているのではないか。

ちなみに、
(使った注意資源の量)=(経った主観時間の長さ)
というこの理論はフリッカ錯視の研究を参考にした。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021300003/?ST=m_labo

[不思議⑴についての上記の注意資源論の適用]

<想起という観点からの⑴の解釈>
場面変化の多い映画ではすごいたくさんの注意資源を使うから主観的にはすごいたくさんの時間が立っていると考えられる。たとえば映画の中で泣いたり笑ったり、色んな劇的なことが起こったので、8時間くらい経っているような気がする。それなのに、映画を見終わって時計を見るとたった2時間しか経ってない。それで、「いつもの4倍のスピードで時間がたってしまった!」と感じるのだ。

→このとき、映画の上映時間は客観的にいうと2時間だが、8時間に相当する注意資源を使ったので、8時間経っていないとおかしい、と脳は主張する。このおかしさを解消するためには、上映中の映画館の中では4倍の速度で8時間が流れてしまったので普通の世界では2時間しか経っていないのだ、ということにすればいい。

よって「この2時間の映画の体感時間は30分だ」という発話の意味は、「(この映画を上映中の映画館の中では、4倍の速度で時間が流れているかのようなので、そこで2時間の映画を見ても、普通の世界の速度での30分ぶんの時間にしか感じないんだから、)退屈する心配はないよ」という意味である。

<進行中の体感という観点からの⑴と⑵'の解釈>

しかし、本当にそうだろうか。注意資源という概念を使って同じ現象を以下のようにも解釈できる。

参考:https://psych.or.jp/interest/ff-36/

恋人との会話に熱中している時、あるいは、休まずに身体を動かしている時、あるいは、ディスカッションに夢中になっている時、あるいは、夢中で読書している時、などにおいては、「ひと休み休憩」などを入れない場合には、出来事はひとつの全体として捉えられており、前半や後半に別れていたり、幾つかのパートに別れていたりはしない。そうすると、その行為の最中には出来事Aと出来事Bとが分節されて、そのあいだの間隙を意識することで時間経過に注意資源が使われるということがないため、時間経過に向けられた注意資源が少なくなるのだ。そうすると、恋人と会話していた時間は実際には1時間であったのに、体感時間としては10分にしか感じられないということが起こる。時間経過に対して向けられた注意資源の消費量が少ないからである。

たとえば、「サッカーの試合中にある選手Aが選手Bにパスをして選手BがシュートしてからゴールキーパーCがそれを止めてそのボールがコートに戻っていく」という出来事は、文章で書くと3つくらいの出来事に分節されているように見えるが、実際の試合中の選手からしたらそれはひとつながりの出来事でしかないのである。

それと同様のことが⑴の映画内でも起こっているのではないだろうか。変化が多い映画ならば別だが、場面変化がほとんど起こらない映画の中で白熱した議論が展開されれば、「主観的には30分しか経っていないはずなのに時計を見たら2時間も経っていた」ということが起こるはずである。(たとえば「え、もうこんな時間!現象」「もう2時間も経ってる!現象」)

上記の2つの理解をまとめておく。

❶想起という観点から捉えたならば、たくさんのことが起きた映画を見る前は、見た後からしたらものすごく前のような気がしてしまう。(注意資源消費量が大きいから。)

それとは別に、

❷進行中の体感という観点から捉えたならば、映画を見ている最中は、たくさんの出来事がシーム(seam)レスにつながって未分節なため、ひとつの融解した出来事のように感じられており、それゆえにそこに向けられる注意資源消費が少なくなり、短い時間であったかのように感じられるのだ。(注意資源消費量が小さいから。)

ここで❷をもう一度言い直して⑵'を説明してみる。

旅行先などの楽しい時間においては、出来事と出来事との間が融解しており未分節で、そうであるがゆえにスムーズに連続的に展開し、その移り変わりの知覚に注意資源は要請されないのだが、退屈な時間には各出来事が個々に分節できるようになっており、それらの出来事のあいだの移行が意識され、そこに注意資源を使わされてしまう。時間知覚の研究によれば、使った注意資源の量と主観時間の長さは比例するので、退屈な時間ほど長く感じる。

要するに、客観的には同じ時間継続した運動でも、ぎこちない諸運動(しばしばそれは退屈さを引き起こすのだが)はそのあいだの接続を意識するため遅く感じ、なめらかな諸運動(しばしばそれは魅惑を引き起こすのだが)は接続を意識しないため速く感じる。よって、どちらも注意資源消費量に比例するものとして説明できる。

[不思議⑵についての上記の注意資源論の適用]

<想起という観点からの解釈>
注意資源を一週間で大量に使うと、ふつうは1ヶ月で使う注意資源の量とおなじだけ使ったはずなのに、まだ1週間しか経っていないという主観時間と客観時間とのあいだに差が生じる。それによって脳が1週間前を1ヶ月前だと誤解してしまう。脳からしたら、1週間前も1ヶ月前も、使った注意資源の量としては同じなので、ついつい1週間前のことに1ヶ月前のようだという判定を下してしまうというわけ。

[不思議⑶についての上記の注意資源論の適用]

<想起という観点からの解釈>

衝撃的な出来事から今日までの変化がほとんどなくて、それゆえにその変化を知覚したり記憶したりするための注意資源消費量があたかも昨日から今日までの注意資源消費量とおなじくらい少ないときには、「昨日のことのように」という表現が適切に思えてしまう。

つまり、10年前のことであっても、昨日のことを思い出すのと想起に要する注意資源の消費量が変わらないならば、それは主観的には同じ距離しか離れていないものとして感じるということである。

例えば、100キロメートル離れている場所と10キロメートル離れている場所に徒歩でいくときには、100キロメートル離れている場所の方が遠いと感じるけれども、それはそこに到達するまでに消費したエネルギーが大きいからであって、もしもどっちにも飛行機でいけるとしたら、「搭乗券を買って飛行機にチェックインして空港に行って離陸してから着陸するまでの消費努力量」は、100キロメートルでも10キロメートルでも同じことなので、結局はどちらも同じくらい離れていると主観的には感じることになる。これは空間の例だが、これと同じことが時間についても言えるとしたら、想起に要する注意資源消費量が同じだからという理論で不思議⑶も説明ができることになる。

(→ところで、「歳を経るごとに1年間が経過するまでの体感スピードがどんどん速くなっていく」ということを「ジャネーの法則」というのだが、これは、一年経過前と一年経過後とを比較したときに多くの変化に気づく子供時代に対して、大人になると、一年経過前と一年経過後とを比較したときにほとんど変化に気付けなくなってしまうので、「一年前が昨日のことのように感じる大人に対して何年も前のことのように感じるのが子どもなのだ」という仕方で対比すれば、不思議⑶の応用例として、このジャネーの法則にも説明がついていることになる。これはあくまでも想起という観点からのジャネーの法則の説明であるが、体感という観点からもジャネーの法則は説明でき、子ども時代は全てのものが新鮮であり、全てを分析的にミクロに見てしまうのであるが、大人になると大局を捉えて遠くから全体の滑らかな動きをマクロに見るということが可能になりその結果時間の体感スピードが速くなっていくのである。)

言語・文化・記憶について

 

【言語の根本特性は少なくとも5つ】

 

①「言語の超越性」とは、言語は時間と空間を超えて有効であることができることである。具体例は手紙などである。これは非言語メッセージでは実現が難しい。

 

②「言語の多産性(生産性)」とは、言語が様々な部品から成り立っていてその組み合わせで無限の事柄やまだ経験したことがないことや、不可能なことまでをも表現できることである。

 

③「言語の文化的伝承性」とは、言語が文化の一部として世代間で継承されていくことである。

 

④「言語の学習性」とは、言語が、生まれつき言語を身につけていくのではなく、試行錯誤の中で文法や使い方が学ばれていくことである。

 

⑤「言語の非必然性(恣意性)」とは、「「ある対象を指し示す言葉」と「その言葉が指し示している対象」との間を結びつける必然的な理由がないこと」である。具体例は、イスに座っているとき、その座っている何かを「イス」と呼ばなければならなかった必然性はない、ということである。また、「言語の非必然性」を理解する上で気をつけなければならないのは、「海」という言葉で「優しい父親と泳いだ特別な情愛と浜辺で寝転んで聞こえた波の心地よい音」を結びつけるのは「個人的な結び付け」であり、広辞苑に載っているような定義を結びつけるのは「公的な結び付け」であるという区別である。非必然的な結びつけの中にに、さらにこの2つの側面があることが見逃されやすい。「海」という言葉にも、あるいはどんな言葉にも、ひとりひとりの人間に独自の情感がこびりついており、この個人的な学習成果と、言語の文化的伝承性が結びつけ方を固定している共通の学習成果とが、どちらもあることを絶対に見逃してはならない。どちらの側面も非常に重要であり、どちらも揃って「海」という言葉の内容になっている。また、人が「海」という言葉を話すときには、どちらの内容も独自の仕方で活躍している。どんなささいな言葉の意味にも、「他人と共通の意味(=外延的意味、明示的意味)」と「個人的な意味(=内包的意味、暗示的意味)」の二つの側面があるのだ。そして、コミュニケーションにおいては、この「外延的意味」と「内包的意味」が常にズレているのだが、そのズレを許容しながらコミュニケーションが進行していくということにも注意が必要である。

 


【言語の「名付けの機能」】

 

言語における「名付けの機能」とは、名付けることによってその存在を認識させるという機能である。名付けられたものは、その存在が社会の中で認識されるようになる。たとえば、「セクハラ」や「アカハラ」や「パワハラ」や「マタハラ」の存在が認識され、それを問題化することができるようになったのは、それを表現する言葉ができたからである。 「夜遅く帰る夫が妻や義母をなだめるためのおみやげ」という言葉はドイツ語で、「drachenfutter」というのだが、この名詞が日本語にはないから、これを日本社会で認識するのは難しい。以上のことを別の言葉で言えば、「ある社会の中に存在しないものを指し示すような言葉はその社会には存在しない」となる。たとえば、「おせち」が無い社会には「おせち」という言葉は存在しない。また、「権力を理不尽に振りかざすのが当然である社会」にも、逆に「権力を理不尽に振りかざす人が完全にゼロ人であるような理想社会」にも「パワハラ」という言葉は存在できない。どちらも「パワハラ」とされている事態が問題化されえないからである。

 


【言語の「対象化機能」】

 

言葉にしていないことを言葉にすると「モヤモヤした気持ちを整理できる」という機能がある。

 


【デュシェンヌ・スマイル】

 

「作り笑い」とは区別されて、「本物の笑顔」と言われている表情は、フランスの精神内科医デュシェンヌが発見したことにちなんで「デュシェンヌ・スマイル」と呼ばれている。口角が上がっていて、目の端にカラスの足跡のようなシワができるのがこの表情であり、表情筋のうち、コントロールが難しい筋肉、眼輪筋が動いているのが「デュシェンヌ・スマイル」である。コントロール可能な筋肉しか動いていない作り笑いとこれを区別することができるとされる。ちなみに、悲しいことについて話す時に日本人が少し笑顔になることを「ミステリアス・スマイル」と表現した学者がいる。

 


【色とSD法、蛇口の色】

 

エスディー法(SD法)とは、商品やサービス、銘柄などの与える感情的なイメージを、「明るい – 暗い」、「人工的な – 自然な」など、対立する形容詞の対を用いて5段階または7段階の尺度で回答させる方法のことである。製品の印象評価の際に利用されることが多い。英語表記は、Semantic Differential Method(セマンティック・ディファレンシャル)である。蛇口の色において、暖かいお湯のほうが赤色で、冷たい水のほうが青色なのはSD法を使っている。

 


マクドナルドが明るい理由】

 

ファーストフード店は暖色系の色を使うことでそこに滞在している時間の体感時間を長くして、結果的に店の回転率を上げている。暖色系の部屋には、そこで実際に過ごした時間よりも長くいた気分になるということである。たとえば、これと同じ論理で、休憩室に緑色を多くするとリラックスできるが、なかなか休憩から帰ってこなくなるとも言われている。

 


【デズモンド・モリスの一次ジェスチャーと二次ジェスチャーというジェスチャー分類】

 

一次ジェスチャー」というのは、その動作自体が意味を伝える機能をもっているもので、「手招き」や「首を横に振る」「バイバイと手を振る」など。「二次ジェスチャー」というのは、「偶発ジェスチャー」ともよばれ、「クシャミ」や「頬杖をつく」など、一次的な意味は単に生理的・機能的な問題であるが、それを観る側が二次的に「風邪をひいたのかな」「昨日の疲れがまだ残っているのかな」とか「私の話が退屈なのかな」という意味を付与するもの。この区別は非常に重要である。気分が身体運動と連動してしまっている「二次ジェスチャー」は「気分ジェスチャー」とも呼ばれる。二次ジェスチャー(偶発ジェスチャーや気分ジェスチャー)は相手にも自分にすらも気づかれない場合さえある。一次ジェスチャーは言葉の代わりをするものがあるので、これを「エンブレム」とも呼ぶ。さらに、ジェスチャー分類で見逃されがちなのが、「例示的動作」である。これは、まだジェスチャーとして認知されておらず、名前もついていないのだが、「昨日釣った魚はこんなに大きかったんだよ!」とかいう時の手の動きや、海外の政治家が演説を熱心にする時に強調点に合わせて動く手の運動などがこれにあたる。強調ポイントで人差し指を立てながら話すのは「バトン信号」と呼ばれ、大統領選挙で多用されている。これによって、「自信」や「威厳」を示すことができるとされている。モリスによれば、バトン信号は、「話す言葉で表す思考のリズムに調子をつけるもの」と言っている。

 


ピースサインとフランスのレジスタンス】

 

日本では写真を撮る時に使われているピースサインは、フランスのレジスタンスの、勝利を意味する記号として使われていた。その後各地で平和の象徴として使われはじめた。手の甲を見せながらピースサインをするのは侮辱行為にあたるので注意が必要。

 


【人類学者エドワード・ホールの提唱した「モノクロニックタイム」と「ポリクロニックタイム」】

 

「モノクロニックタイム」とは、一本の時間直線の上にイベントを配置していくもので、ある時間にはひとつだけのイベントがあるひとつの空間で起きると考える時間の捉え方である。「スケジュール帳に書き込んでいく」ような時間の捉え方と考えてよい。だから、同じ時間に複数の予定を入れることはできない。それに対して、「ポリクロニックタイム」とは、ある時間において起きるイベントは複数あってよく、例えば19時にアポイントを取ってあったとしても、その時間にアポイントを取っていない人が現れるとその人との対話も同時に始まったりするような時間の捉え方である。モノクロニックに時間を捉えているひとからしたら、自分とのアポイントがある時間に、ポリクロニックに時間を捉えているその相手が目の前で違うことを始めたら嫌だろうし、「なぜ私に集中してくれないのか」と思うだろうが、ポリクロニックな時間概念を持っている人からしたら、ちょっと相手のところにふらっと立ち寄ったときに、「別の人とのアポイントが既にあるから出ていけ」とモノクロニックな時間概念を持った人から言われれば不快かもしれない。

 


【文化の定義は大きく2つ:文化はどこにあるのか問題】

 

文化の定義には、文化は人に対して外在的で、文化は人を取り巻いていると考える立場を取る定義と、人の脳内などに内在するという立場を取る定義とがある。文化の定義を論じた学者は様々いるが、たとえば①エドワード・タイラー(文化人類学の父で文化の概念を提唱した)、②クリフォード・ギアーツ(文化の外在的実在論を唱えた)、③ウォード・グッドイナフ(文化は脳内のプロセスだと考えた)、④西田ひろ子(文化スキーマ理論を2000年に提唱したことよって文化を脳内の実体とした)、⑤ヘーゼル・マーカスと北山忍(相互独立的自己観、相互協調的自己観の対比の提唱)などが有名である。

 


【文化スキーマ理論】

 

文化スキーマとは、「脳の中に保存されている繰り返しの体験から獲得される物事の共通点が一般化された汎用的な知識」のことである。

 

①事実・概念スキーマ(事実スキーマの例は「日本には47都道府県がある」などで、概念スキーマの例は、「机には4本の脚があり、その上に読み書きできる平面の板が乗っている」などである。たとえば「こたつ」などは日本人でないと持っていない概念スキーマだろう。)

 

②状況スキーマ(「教室とはどんなものかという知識」、「病院とはどんなものかという知識」。たとえば、日本で育っていない人が「寿司屋」を「バー」と認識しうるように、これも生まれ育った地域での経験を前提すると言える。)

 

③手続きスキーマ(病院の受診と支払いや寿司屋での注文の手順が学習されていること)

 

④方略スキーマ(問題解決の仕方についての知識。たとえば遅刻しそうなときにタクシーに乗る方が早いか、電車に乗るほうが早いか、自転車の方が早いかなどがその土地の人間ならすぐに分かるようになっているが、引っ越してきたばかりだとそれがわからない)

 

 

⑤自己スキーマ(自分の名前、性別、出身地、所属機関など。日本人はアメリカ人と比べて自己を否定的に評価する傾向があることが北谷忍らによって明らかにされている)

 

⑥人スキーマ(友人がどんな人かについての知識、「彼は運動部だから礼儀正しい」とか)

 

⑦役割スキーマ(「彼女は女性だから控えめだ」とかそのような役割に関する後天的な知識。偏見に繋がることも非常に多い。)

 

⑧情動スキーマ(感情表現に関する知識。例えば「この表情と仕草は歓びを表す」とか。相手の表情を見て「いますこし機嫌が悪そうだな」と思えるのはこのスキーマがあるから。)

 

⑨言語スキーマ(慣用表現や文法や語彙やジョークの面白さの前提となる知識。例えば「よろしくお願いします」という言葉の意味は理解されにくいし翻訳もしにくい。「Please take care of me」と翻訳するわけにもいかないがしかし、なにもお願いしていないわけではない。)

 

⑩非言語スキーマ(表情、ジェスチャー、話し方、声色に関する知識。日本だと普通でも海外だと失礼にあたるジェスチャーなどがある。)

 

がある。

 

①〜⑩は特定の文化の中で繰り返されることで経験的に獲得されると考えられている。

 


【記憶の分類】

 

記憶はまず、「感覚記憶」、「短期記憶」、「長期記憶」に分けられる。

 

「感覚記憶」は、各感覚器官で瞬間的に保持され、意識され注意を向けられることがなければ速やかに消失していく。これは、意識されない記憶である。

 

意識される記憶には、「短期記憶」と「長期記憶」とがある。「短期記憶」は海馬体で保持され、長期記憶は大脳新皮質で保持される。

 

「短期記憶」の保持可能時間は約30秒以内と言われており、たとえば携帯電話番号などは記録しないとすぐに忘れてしまう。短期記憶は、海馬体に一時的に保持されるが、その短期記憶が脳の一番外側にあって脳の一番新しい部位、すなわち大脳新皮質に移されて固定化されると長期記憶となる。

 

「長期記憶」の中には、意識的に想起され言葉で説明できる記憶である「宣言的記憶(陳述記憶)」と、無意識的に獲得・想起され言葉では説明できない記憶である「宣言的記憶(非陳述記憶)」とがある。非宣言的記憶は、無意識に獲得されて想起されるので、人は通常これを「記憶」とは呼んでいないことに注意すべきである。

 

さらにその、「宣言的記憶(陳述記憶)」の中には、出来事や想い出に関する記憶である「エピソード記憶」と、言語や知覚できる対象の意味(概念)の記憶である、「意味記憶」とがある。たとえば、「いつどこで誰が何をしたか」といういわゆる「おもいで」の記憶は「エピソード記憶」であるが、「机には4本の脚があり、その上に読み書きできる平面の板が乗っている」という貯蔵されている知識は「意味記憶」である。

 

逆に、「宣言的記憶(非陳述記憶)」のほうには、以下の4つの下位区分がある。

 

ひとつめが、「手続き記憶」であり、これは自分では意識することがほとんどないが保持されている自分の技能に関する記憶である。例えば「自転車の乗り方」「ピアノの弾き方」「キーボードのブラインドタッチの仕方」「母語文法の操作」は「手続き記憶」である。

 

ふたつめが、「知覚の記憶」であり、これは知覚に関する記憶である。これはいわゆる「慣れ」とも呼ばれている。例えば「外の道路工事の大きな音にもだんだん慣れて気にならなくなっていくこと」は「知覚の記憶」である。

 

みっつめが、「習慣の記憶」であり、こちらは端的に「習慣」と呼ばれているものである。例えば「食前に手を洗うことが自然と想起される」「家に入る時靴を脱ぐ」のは「習慣の記憶」である。

 

よっつめが、「情動の記憶」であり、これは情動に関する記憶である。例えば、過去に体験した喜びの情動は学習され保持される。注意すべきなのは、「小学生のときに読書感想文が入賞して嬉しかった」という記憶における「嬉しかった」は「エピソード記憶の一部」ともいえて、「情動の記憶」そのものではないということである。もちろん両者は連携して作用する。例えば思い出の曲を聴くとその頃の思い出のエピソード記憶が想起されるだけでなく、再び当時の感情が蘇りジーンとするという場合に両者は連携して働いているのだが、それでも両者は区別できる。ポイントとしては「嬉しいと感じたことが分かる」ことを可能にするのが情動記憶であり、情動記憶は脳の扁桃体に保持されると言われている。例えば、「心拍数や血圧の増加など体内の生理的な情動反応が起きた時に、それ以前にもそのような一連の情動反応を繰り返してきたのを無意識に情動記憶として憶えていることで、自分が今感じている情動は、「嬉しい」という言葉でラベリングされている経験なのだ、と即座に分かる」のが「情動記憶」である(逆に言えば、急に涙が出てきたときのような突然の情動反応の場合や、複雑な情動反応が起きた場合には、そのような情動反応は十分に繰り返されてはおらず、たくさんの経験が貯蔵もされていないため、それがどういう言葉で表すべき感情なのかが分からないことがある)。また、「なぜ嬉しいと分かったのか」は言葉では答えにくいことから、「情動記憶」は「非宣言的記憶」に分類されている。

 

なお、「文化」とされるものの多くが、個人的ではなく、他の人とも共通の体験をしたことの非宣言的記憶が担っていると考えられており、宣言的記憶も協力して文化を担っていることから、これらをまとめて「文化長期記憶」と呼ぶ場合もある。

 


【「基本情動」と「社会的情動」】

 

基本情動は生得的な基盤を持つとされ、他の生物(霊長類やネズミ)でも観察されることを根拠に人類に普遍的とされることがある。

 

定説とされてよく挙げられる基本情動はおよそ6つある。①よろこび、②怒り、③かなしみ、④おどろき、⑤恐怖、⑥嫌悪などがそれである。

 

それに対して、社会的な生活の中で、12歳ごろまでに基本情動が細分化されていくことで獲得・学習されていく「後天的情動」あるいは「社会的情動」とされるものには、①自尊心、②罪悪感、③嫉妬、④敵意などが、よく挙げられる。また基本情動が細分化された情動概念は文化によってかなりそのあり方が異なるとされる。

 


【セルフエンハンスメント文化とセルフイフェイスメント文化】

 

アメリカでは、「私の息子は〇〇大学に通っていてそこの名誉学生だMy child is an honor student at X University」というようなステッカーが車に貼ってあったりする。日本人は「フランス語がお上手ですね」と言われれば「言語は奥が深いのでまだまだです」などと答える。アメリカ人は「Thank you」と答えるだろう。自分を強化する文化なのか自分を消去する(self-effacement)文化なのかという対比があると言われている。

 


【ニスベット:木を見る西洋人、森を見る東洋人】

 

日本人とアメリカ人が視覚から入った情報を認知するスタイルが異なることを証明した有名な研究がある(Masuda & Nisbett, 2001)。これはどういう実験かというと、水面下で魚やカエルなどの生物が動くアニメ映像を見た後、何を見たかを説明する時に、日本人は背景的または周辺的な情報にまず言及する傾向があり、また、「カエルが海藻によじ登っている」という具合に、周辺にある物との関係性に注目しながら、生物の行動に言及する頻度がアメリカ人より明らかに多かったのである。その次に、前に見た生物の絵を同じ絵だと確認できるかの記憶力テストをしたところ、日本人は背景の絵を変えると正解率が下がってしまった。一方で、アメリカ人は映像について説明する際、背景や周辺情報に言及することは日本人より少なくて、背景の情報は無視し、生物だけに注目し「魚が3匹いる」などと言及する傾向が強かった。したがって、たとえ絵の背景を変えて記憶力テストをしても、変化した背景の絵には影響されにくい(逆に言えば背景の変化には気づきにくい)ため、日本人よりテストの正解率が高かった。これらの実験結果は、日本人は物を見る時に背景や周辺情報と合わせ、全体的に物を見る傾向が強いのだが、アメリカ人は、物を見る時に背景情報には注目せず、そこにある最も顕著なものに注目する傾向が強いことを示す。同じ映像を見せられても、両者の認知スタイルが異なるのは、各自がそれぞれに特徴的なものの見方を繰り返し経験し、そのようにものを認知する傾向性が無意識に獲得・学習・貯蔵されているためだと考えられる。
 

音について

 


【耳の方向感知の不思議】

ステレオスピーカーが目の前に二つあるとする。そうすれば、レーシングカーが左から右へと通りすぎる音を再現できる。しかし、上空からヘリコプターが左から右へ通り過ぎる音を再現できない。しかし、耳は、2つしかないのに、自然界のあらゆる方向からの音の方向を感知できる。

 


【耳にまつわる言葉の遣い方】

聴覚は外耳(=集音と共鳴)と中耳(=固体電音伝達)と内耳(=感音)でできている。「耳たぶ」と呼ばれているものは「耳垂」である。「耳」と呼ばれているものは多くの場合「耳介」である。「外耳」とは「耳垂と耳介と外耳道」のことであり、「中耳」とは「鼓膜の奥にある3つの耳小骨のある小部屋」のことである。「内耳」とは「中耳の奥にある前庭と蝸牛と三半規管」のことである。蝸牛の内側にはリンパ液に浸った有毛細胞がある。有毛細胞は蝸牛神経に耳小骨から来た振動を電気信号に変えて伝達し、大脳に送る。

 


【人は位相のズレで音の方向を特定する】

まず耳介にあたった音波は複雑に反射して色々な位相にずれて外耳道、中耳の小部屋、そして内耳へと進んでいく。その位相のずれが音源の方向の認知のヒントになっていると言われている。その証拠に成長した後に事故などで耳介が変形すると、音は聞こえてもどこからの音なのかがわかりにくいという症状になって現れることがある。もちろん身体の全体で音波を感じているので耳介の変形の影響は限定的なのであるが。

 


【風呂場の共鳴と同じことが外耳道でも起きている】

外耳道は大人では約3センチほどある。この外耳道は3000ヘルツから4000ヘルツの音によく共鳴する共鳴管の役割を担っている。風呂場で気持ちよく響く音は風呂場全体と共鳴している音だからである。それと同様に、3000ヘルツから4000ヘルツの音は耳の中の外耳道とよく共鳴する音なのである。よって、その音から聞こえなくなることがある。「騒音性難聴」と言って、エンジンルームやトンネル工事などで働く人は、様々な音域の音を聞き続けることになるのだが、その音のうち、人間には特に響くように耳の形がなっている4000ヘルツ周辺の音だけが共鳴によって増強されて、内耳の蝸牛のリンパ液の中にある有毛細胞が損傷されるのだ。これが他の人には聞きやすいはずの4000ヘルツ音から発生する難聴である「騒音性難聴」である。会話音域である1000ヘルツの音と外耳道とよく共鳴する4000ヘルツの音を人間ドックや聴力検査で2つとも試すのは、この騒音性難聴を検出するためである。

 


【中耳の耳小骨:①ツチ骨、②キヌタ骨、③アブミ骨】

鼓膜に入った音波は中耳内の小部屋で、ツチ骨→キヌタ骨→アブミ骨が「てこの原理」によって音を効率的に、リンパ液が溜まった蝸牛の有毛細胞に伝えているのだ。アブミ骨はリンパ液に接しているわけだが、これはスピーカーを水面から離すよりも水面に触れさせると水中の人に声を伝えられるのと同じ原理を利用しているのである。

 


【中耳は空洞の小部屋になっているのだが、その空気は鼻から来る】

中耳炎や伝音性難聴が鼻と関係しているのは、中耳を換気するのが鼻だからである。鼓膜は太鼓と同じで、鼓膜内部と鼓膜外部の気圧が同じときよく響くのである(実際、新幹線がトンネルに入ったり、飛行機で上空に入った時のように鼓膜内外の気圧差ができると聞こえが悪くなる。これは鼓膜が震えづらいからである。)が、そのために鼓膜内部の中耳の気圧を鼓膜外部の外耳の気圧と同じにしているのが中耳に接続された耳管なのである。耳管は通常閉じているのだが、あくびや唾を飲み込むときに開き、鼻から中耳を換気することが知られている。実際、耳管が開くのを体験することができる。鼻をつまみ、口を閉じながら唾を飲み込むと、気圧が変わるのがわかる。そして手を離してもう一度唾を飲み込むと気圧が元に戻るのだ。このような現象を体験できるのには理由がある。唾を飲み込むときには、空気を一緒に飲み込むのだが、鼻と口を閉じているため、鼓膜内部の気圧が唾の飲み込みによって下がるのだ。そして耳管を通じて中耳内部の空気も一緒に飲み込まれて減るのである。それゆえに飛行機で上空にいるときのような気圧差が生じるというわけである。そして鼓膜が振動しにくくなるから音が聞こえづらくなるのだ。これは花粉症や鼻詰まりの状態とよく似ている。もし耳管の入り口に鼻水があったら空気が中に入れないし、鼻水が中耳に送り込まれて急性中耳炎になるかもしれない。このようにして耳管を通して中耳の働きが制限されると「伝音性難聴」になるのだ。また、耳管は普段閉じているわけだが、開きっぱなしになる病気もある。これが「耳管開放症」である。これは「歌手の中島美嘉が、かかった病」として有名である。「耳管開放症」とは、声を出すときに、その声帯の振動が開いた耳管を通して直接鼓膜を振動させてしまうために、自分の声ばかりが周りの音以上に自分に響いて日常生活に支障が出るのである。

 


【内耳は中耳のさらに奥にあり、①蝸牛(カタツムリ管)、②三半規管、③前庭がある】

①蝸牛は、鳥類では真っ直ぐで、哺乳類では回転している。蝸牛が回転しているのは低音域の音を増強するためで、「長いものを巻いて納めている」という理由以外の理由もある。蝸牛の中は内リンパ液と外リンパ液で組成が違うため全体で電池の役割を果たしている。「半透膜を使って電池が作れる」のと原理は同じである。物理エネルギーである音の振動を電気エネルギーに変更するのが有毛細胞である。蝸牛内の場所によって二回転半ある蝸牛の担当音域は違う。根本の太いところは高い音を担当しており、頂上の方の細いところは低い音を担当しているのである。②三半規管では、頭が回転したときに内部のリングにリンパ液が流れ、リングの中のリンパ液の流れを感知することで頭の回転を感知しているのだ。③前庭には、垂直と水平方向に板が置いてあり、耳石という砂が敷き詰められている。この耳石という砂の傾きで重力や加速度の方向を感知するのである。「めまい」の原因はこの「耳石」と「三半規管」にあることが多い。

 


【フォンという単位は何なのか】

音の三要素は「①音の強さ(波でいう振幅)」、「②音の高さ(波でいう振動数)」、「③音色(波でいう波形)」である。音の強さの表し方は「音圧」と考えて「パスカル」で表すものと、ある一定の音を基準として相対的な音圧レベルを示す「デシベル」がある。また、他にも感覚的な音の強さは物理量に比例するとは限らず振動数(周波数)によっても変化するので「フォン」を使うこともある。

 


【人間が聞こえる音の高さの範囲】

人間に聞こえる音の高さの範囲は、一般成人では20ヘルツから16000ヘルツと言われている。年齢が低いと、「モスキート音」という高音域まで聞き取れる。また、言語音のうち、特に子音は主に高音域でできているので、子音のところだけ何を言っているかわからないという難聴が生じる。

 


【伝音性難聴と感音性難聴の違い】

「伝音性難聴」は外耳から中耳の障害で、電気信号に変換される蝸牛まで行かない段階で生じるのが伝音性難聴である。耳垢(みみあか)だって伝音性難聴を引き起こす場合がある。それに対して、「感音性難聴」は蝸牛から脳までの電気信号の変換伝達が障害されることで生じる難聴である。「メニエール病」などが感音性難聴の代表である。

 


【耳鳴りを音楽にしたのがスメタナシューマン

楽家スメタナ弦楽四重奏第一番「我が生涯より」の最終楽章で耳鳴りの音をバイオリンで表現した。さらに音楽家シューマンは、交響曲第二番の第一楽章の冒頭は、耳鳴りの音をトランペットで表現ていると言われている。耳鳴りには、動脈瘤(りゅう)を原因とするもののように、外から聴診器を当てると、他人にも聴こえるものまであるという。

 


【音と光は似ていて、違う】

音はほぼ真空中だと伝わらないが、光はほぼ真空中でも伝わる。だからこそ夜空の星は見えるのだ。音の媒質は空気だが、光は電気と磁気の波なのである。なお、水の波の媒質は水である。

 

 


【音と媒質】

音は媒質中を伝わる。では、空気とはなにか。空気は窒素分子と酸素分子の混合気体である。では、媒質を「ヘリウムガス」にすると音の波が伝わる速度は速くなる。なぜだろうか。ヘリウム中の音速が空気中の音速よりも非常に速くなるのは、ヘリウム原子が空気を構成する窒素原子や酸素原子よりもずっと軽いからである。だから、ヘリウムを吸い込んで声を出すと、声は高くなる。あと、音の媒質はふつう空気なのだが、その空気の温度を高くすると、音の波が伝わる速度は速くなる。媒質を水にしても、音は速く伝わる。具体的に言うと、音は常温中で、約340m/sで進むのに対し、水中では約1500m/s、鉄では約5000m/sの速さになり、ヘリウムガス中では、約900m/sになる。

 

 


ケルビンの問い】

ケルビンはこのような問いを出した。「今、海からコップ1杯の水をすくう。そして、それらの水の分子に放射線を使って色というか、しるしをつけてみる。さて、これを海に戻して、地球の7つの海を全部かき混ぜる。そしてもう一度すくう。そうすると、ふたたびすくったそのコップには、さっきしるしをつけた水分子が、いったい何個くらい入っているだろうか。」答えは数百個である。数百個の水分子は海に戻してかき混ぜても、もう一度取れるのである。百万匹の魚で同じことをしても、もう1匹も取れないかもしれない。百万匹の魚を海に戻してかき混ぜたら同じ魚にはもう会えないだろう。では、ケルビンはこの問いを出すことで何を言いたかったのだろうか。ケルビンは、「それだけ分子というものは小さくてギッシリ詰まっているんだよ」、ということが言いたかったのである。空気というのは、両手で眼前の空気をとじこめると、その両手の中に10の24乗個の空気分子が入っているような密度なのである。そしてこの「10の24乗個」というのは、「1億の1億倍の1億倍の個数」ということである。このギッシリおしくらまんじゅうしている空気分子が振動するのが音波である。そしてその空気分子が鼓膜を叩いているのだ。

 


【音と光の身近な違い】

音が気になって仕方がないことは多いが、光が気になって仕方がないことは少ない。騒音は遮断しにくいけれども眩しい光はブラインドを閉めれば遮断できる。音を聴いて踊り出したくなる人はいるのに、光の点滅をみると不安になる人はいても踊り出したくなる人は少ない。

 


【音も光も波なのに波長とスピードが全然違う】

人間の耳に聞こえる音の波長は「数センチから長くても十数メートル」というスケールである。しかし、目に見える光の波長は「100万分の1メートル」である。さらに、伝わるスピードも違う。音は「秒速330メートル」のスピードだけれども、光は「秒速30万キロメートル」のスピードである。音と光の伝わるスピードは、100万倍違うのだ。

 

 


【身体は音を発せるのに光は発せない】

人間の身体は音の送信者にも受信者にもなれる。光は受信者にはなれど送信者にはなれない。音は体の至る所から出せる。

 


【音のドップラー効果と光のドップラー効果

近づいてくるときは音が高く聞こえて、遠ざかっていく時は音は下がって聞こえる。キャッチボールをする2人のうちの投げ手の方が、近づきながら一定の周期(2秒に1回)でボールを投げると、投げ手は2秒に1回投げているのに、受け取り手はそれより頻繁にボールを受け取る。振動数が増えれば音は高くなる。だから、近づいてくる時音は高くなるのだ。音のドップラー効果と同じように光のドップラー効果もある。遠ざかっていく光は赤みがかって見える。

 


【音の蜃気楼と光の蜃気楼】

蜃気楼で有名なのは、富山湾の蜃気楼。これは、光が屈折して起きている。光の光線が曲がり、屈折しているから、無いものがそこに見えるのだ。光の蜃気楼と同じように、音の蜃気楼もある。冬の寒い日に、夏には聞こえないような、遠くの線路を走る電車の音が聞こえる。これも音波の屈折現象である。静かだから聞こえるのではなく、音波が屈折するから聞こえるのである。

 

 


【超音波というのは聞こえる音よりも波長が短い方の波である】

波長があまりにも長くても、人間の耳には聴こえない。それなのに、あまりにも波長が短くて人間に聴こえない音のほうが超音波と呼ばれる。たとえば、イルカは波長が8センチメートルしかない波を使って相互に交信をしており、これを「超音波」という。

 


【波の邪魔のされ方】

ついたての向こう側の人の話し声は聞こえる。音の波は一本のビームのように伝わるのではなくドームのように広がる。障害物にぶつかると波はまた新たな波を作る(ホイヘンスの原理)。この、波面上(同位相面)の各点から出る球面波のことを「素元波」という。たとえば、石ころが何もない池の真ん中にぽちゃんと落ちる。そうすると、まるい図形を描きながら波ができる。この波の各点各点がまた新たな波を生み出し、これが雪崩式につながっていくのである。

 

 


【何も無い池に石を二つ落とすとどうなるか】

波と波がぶつかると、何が起きるか。何も無い池に石を二つ落とす。すると、輪っかが二つできる。そしてどこかでぶつかる、と思うが、ぶつかるのではなく、重なるのである。物理では自然界を「ツブ的なもの」と「ナミ的なもの」にわける。人間は「ツブ的なもの」である。「ツブ的なもの」は、ぶつかる。「ナミ的なもの」は、重なるのである。重なると、新しいパターンができる。これが干渉パターンである。新しい波は、「大きく揺れるところ」と「あまり揺れないところ」とが筋状になる。波は複数重なることによって、「跳ね返る」のではなく、「ぶつかる」のでもなく、「新たな波ができる」。

 


ピタゴラスと自然倍音の音階】

ピタゴラスは鍛冶屋の金槌が「かなとこ」を叩く音を聴いており、「心地よいもの」と「心地よくないもの」があることに気づいた。そして、「弦の長さを半分にすると、音の高さが倍になること」を見出した。「ピタゴラス音階」は、「振動数(=音の高さ)が整数倍になるように作られた音階」である。ちなみに、アリストテレスは「音は物体の振動と関係している」ということは見抜いていたのだが、それを数学に結びつけるということはしなかった。それを再び数学に結びつけたのはガリレオである。「職人の道具と技芸が開発されたこと」によって数学と観察を結びつけられるようになったのである。それゆえにこそガリレオの数学的な音の分析が可能になった。

 

 


ピタゴラス音階とバッハの平均律

合唱でハーモニーを作るために使われることがあるのが「ピタゴラス音階(整数倍の振動数比の和音)」である。たとえば、グレゴリオ聖歌ピタゴラス音階を使って合唱している。物理の言葉ではこれをハーモニクスという。また、振動数比が2倍になると1オクターブ違う音ができるので、それを12等分に分割して12回同じ操作をすると振動数が2倍になるように調節するとピアノの鍵盤のようになる。どうやってやるかというと、等比数列である。「2の12分の1乗(=約1.05946倍)」ごとに振動数を増やしていくから、ピアノの鍵盤のとなりあう音は綺麗な整数比では書けない。しかし、バッハの平均律はどこから始めてもドレミファソラシドを作ることができる。半音ずつ音を高くしていくのを12回繰り返すと1オクターブ高くなるのが平均律である。そして、「2の12分の1乗(=約1.05946倍)」を12回繰り返すとちょうど「2」になるのである。

 


【ヘルツとは何か】

1ヘルツとは、「1秒間に1回振動するということ」である。そうすると、「ハ長調のラの音」は440ヘルツなのであるが、すると、「440ヘルツの音」というのは、「1秒間に440回空気分子が耳の鼓膜を叩く」ということである。人間の身体は「とんでもなく鋭敏なセンサー」であることがわかる。1気圧とは「1013ヘクトパスカル」のことであるが、「20マイクロパスカル」の音圧さえ人間の耳は感知できる。「20マイクロパスカル」は、「100億分の1気圧」である。では、「100億分の1気圧」というのは、どのくらいの圧力かというと、1メートル四方の領域に蚊が一匹乗っかっているくらいの圧力であり、この「100億分の1気圧(20マイクロパスカル)」の違いを人間の耳は聞き分けているのである。耳が、どれほど、「とんでもなく鋭敏なセンサー」であるかがよくわかる。トンネルに入ったり、飛行機で上空に登ると何か異変を感じるのは当然なのである。


ハ長調のラの音などというものはどこにあるのか問題】

ハ長調のラの音」は、「振動数が440.00000ヘルツの音」である。しかし、そんなものはどこにも無い。小数点以下が何桁まで正しいかという話になると、どこかで厳密な440ヘルツぴったりではなくなってしまうのだ。「ラの音は、イデア界にある」と言いたくなるのである。これは「正三角形がイデア界にある」と言いたくなるのと同じである。

 


【波は自分の大きさと似た大きさのものにぶつかる時甚大な影響を受ける】

なぜコンサートホールの吸音板には数メートルのヒダヒダがついているのか。そのくらいの波長の音を吸収したいからである。1cmの波が1メートルの隙間を通っても大した影響を受けないが、1cmの波が1cmの隙間を通ると甚大な影響を受ける。これを「ディフラクション効果(回折効果)」という。


【音と音波を切り離そう】

「音というのは本当は音波でね」と物理学者はよく言うが、本当にそうなのか。実は「音波」は「音」のほんの一面なのではないか。

 


ヴェーバー=フェヒナーの法則】

ヴェーバー=フェヒナーの法則というものがある。ヴェーバーは19世紀の生理学者で、フェヒナーはその弟子である。たとえば、「1キログラムの重さと1.1キログラムの重さの違いを言い当てることができる人」がいるとする。さて、この人は、「2キログラムと2.1キログラムの重さの違いを言い当てることができる人」だろうか。違うのである。この人は、「2キログラムと2.2キログラムの重さの違いを言い当てることができる人」になるのである。つまり、人間の感覚の弁別は、絶対数ではなく割合になっているのだ。つまりこの人は「1割の変化を割り当てられる人」だったのである。さて、ここからが非常に興味深い点である。このヴェーバー=フェヒナーの法則の適用範囲は人間の感覚に一般に言えるとされ、音でも事情は同じだというのだ。

 


【「私は2ヘルツの音を聴き分けることができます」という文はなぜおかしいのか】

ヴェーバー=フェヒナーの法則に反しているからおかしいのである。つまり、感覚が刺激の差を聴き分けられるというのはおかしいから、この文はおかしいのである。次のことが非常に重要である。すなわち、人間に聴き分けられるのは、音圧刺激の「差」ではなくて音圧刺激の「比」なのである。そして、比を記述するならば、物理学者や数学者の自然な思考は、「対数」という道具を使おうと促されるはずである。対数とはなにか。比が1000だと10の3乗なので、対数は3である。比が100だと10の2乗なので、対数は2である。比が10だと10の1乗なので、対数は1である。比が1だと10の0乗なので、対数は0である。

 


【「音圧レベル」の単位がデシベル

比の対数を取ることで、音圧レベルという概念を導入することができる。人間に感知できる最小の音圧は、1メートル四方の領域に蚊が1匹乗っかっているくらいの圧力であり、これが「100億分の1気圧(20マイクロパスカル)」であった。ここで、問題になっている圧力が、この「20マイクロパスカルの何倍か」ということをまず考えて、その比を出すのである。さらにその比の対数を取るのである。最後に、その比の対数をさらに20倍するのである。こうして出てくる数値を、音圧レベルという。この音圧レベルの単位が、有名な、デシベルである。たとえば、電話の着信音は50デシベルで、飛行機のエンジン音をまぢかで聴くと120デシベルである。重要なことは、電話の着信音と飛行機のエンジン音はものすごい音の違いなのにデシベルにすると50デシベルと120デシベルになるということである。なぜこうなるかというと、これが、比だからである。そして、なぜこのような違いになるのかということは物理学では説明することができないと言われている。つまり、「物理学的な音波」と「人間の聴く音」との非常に興味深い違いはまさにここにあると言われている。ちなみに、騒音の単位として「フォン」が使われることと「デシベル」が使われることがあるが、両者は違う概念である。

 


【光は横波、音は縦波】

振動の向きと波の進む向きとが直行している波のことを横波という。光の電磁波は典型的な横波である。振動の向きと波の進む向きが同じ波が縦波である。音の音波は典型的な縦波である。たとえば、ゼッケン番号1の応援団員が屈伸運動をすると2秒後にゼッケン番号2の応援団員が屈伸運動をするのをゼッケン番号100の応援団員まで続けていくのが横波である。それに対して、ゼッケン番号1の応援団員が首を横に振ると2秒後にゼッケン番号2の応援団員が首を横に振るのをゼッケン番号100の応援団員まで続けていくのが縦波である。ぎゅうぎゅうに詰まった満員電車で、左端の人間がつまづくと、右端の人間までそのよろめきの衝撃が伝わるのは典型的な縦波である。音を作るとは縦波を作るということである。例えば、声帯の振動が直近の空気分子を揺らして他人の耳の鼓膜の振動にまで伝播するのも縦波である。

 


【横波は上下振動、縦波は左右振動】

横波において、各点は上下に振動している。たとえば、ゼッケン番号1の応援団員が屈伸運動をすると2秒後にゼッケン番号2の応援団員が屈伸運動をするのをゼッケン番号100の応援団員まで続けていく、というのを遠くから見たときに見える横波の場合、下がって上がる応援団員のブレ幅の半分の数値、つまり基準点からどれだけ上がるか、どれだけ下がるかを表す長さを、振幅という。振幅が大きければ大きいほど応援団員は大揺れすることになり、振幅は波の強さを表す。そして、ひとりの応援団員が屈伸運動をするために、下がって上がるというワンラウンドを終えるまでにかける時間を周期という。重要なことは、周期はたったひとりの応援団員でも言えるということだ。そして、1秒間に何回振動するかを表す数値が振動数である。周期の逆数が振動数である。1回振動するために2秒かかるなら振動数は0.5(2分の1)ヘルツである。1秒間に1回振動するなら振動数は1ヘルツである。よって、振動数が小さければ小さいほどゆったりとした振動になり、振動数が大きければ大きいほど激しい振動になる。つまり、聞こえる声が高ければ高いほど、耳の鼓膜は激しく高速で叩かれていることになる。

 


【①振幅と②振動数(と周期)と③波長が波の三要素】

ゼッケン番号1の応援団員が屈伸運動をすると2秒後にゼッケン番号2の応援団員が屈伸運動をするのをゼッケン番号100の応援団員まで続けていく、というのを遠くから見たときに見える横波の場合、応援団員たちの頭の位置をつなげていくと波のうねり模様が描ける。周期はひとりの人のその屈伸運動が一回終わるまでにかかる時間のことである。それに対して、波長というのは、複数人の頭の位置を並べたときに見える、盛り上がって盛り下がるうねり模様の一回分の長さのことである。周期はひとりの応援団員でも言えるが、波長は応援団員が複数人いないと言えない。波長は、応援団員たちのウェーブの、一瞬を捉えたスナップショットの画像のうねり模様のひとうねりの長さである。

 


【①「音色」と②「強さ」と③「高さ」が音の三要素】

波形が決める音の①「音色」、振幅が決める音の②「強さ(大きさ)」、振動数の決める音の③「高さ」、これが音の三要素である。

 


【振動数が大きければ大きいほど波が細かくなり波長は短くなる。】

大縄を持って左端の人が大縄を細かく揺らすと細かい波ができる。すなわち、振動数が大きければ大きいほど、つまり振動が激しければ激しいほど、波長は短い、つまり波が細かくなる。

 


【位相とは振動のパターンの情報のことである】

波の本質とは、「波長情報と振動数情報が組み合わさってできる位相」のことである。応援団員たちが全くバラバラのパターンの運動をすると、綺麗な波はできない。波の形が、時間の中でも移動しつつも維持されるのが綺麗な波である。つまり、「振動のパターンの情報」、すなわち位相が維持されるのが綺麗な波である。そして、「位相(フェイズ)」の情報の中身を分析すると、実はそれは波長情報と振動数情報がどちらも畳みこまれている、ということがわかる。つまり、波長情報と振動数情報がどちらも畳みこまれている位相情報が時事刻々と維持されることが波の本質である。つまり、「位相を持っている」というのが「波動」の「本質」である。

 


【「同位相」と「逆位相」】

応援団員たちがウェーブをするときに、ゼッケン番号1番の応援団員がしゃがんでいるときに、ゼッケン番号2番の人が立っているような動き方を「逆位相」という。逆に、ゼッケン番号1番の応援団員がしゃがんでいるときに、ゼッケン番号2番の人がしゃがんでいるような動き方を「同位相」という。で、波というのは、同位相では起きない。位相が揃っていればただの同時体操である。「振動現象の伝播」が「波」である。波は同位相でも完全な逆位相でも起きず、その中間で、少しずつ位相がずれているのでなければならず、かつ、位相の情報(=振動数情報と波長情報との組み合わせ)が維持されていなければ起きない。

 


エレキギターにおけるフェイザーと位相】

音楽における「ハーモニクス」や「うなり」という概念は、「位相あっての話」であって「位相を前提している」。「位相」を意図的にズラす操作をするのが「フェイザー」というエレキギターのデバイスなのである。意図的に少しだけ位相のパターンをずらす操作を電気的にするのがフェイザーである。

 


【位相が維持されるから重ね合わせられる】

ゼッケン番号1の応援団員が50cm屈伸運動をすると2秒後にゼッケン番号2の応援団員が50cm屈伸運動をするのを続けていく、というのを遠くから見たときに見える横波の時に、逆端の100番の人からも同時に10cm屈伸運動をする同様の指令があると、二つの指令は必ずどこかで衝突する。その衝突の時何が起きるかというと、右からの指令と左からの指令をそのまま足し算するだけでいいのである。たとえば50とマイナス10を足して40cm上がればいいという合成になる。「基準の位置からのずれ」を物理学では「変位」というのだが、この「変位」を単純に足し算すればいいのである。このように変位の足し算だけで合成された後の波のプロファイルが書けるのはなぜかというと、これも「位相がキープされる」ということがあってのことである。この「位相がキープされる」という条件が不成立で、つまり、みんながてんでバラバラの動きをしていれば、二つの指令を足し算すれば合成できるなんてことは無理なのである。


【うなり(ビート)】

振動数がほんのわずかに違う二つの波が重なると、ぐわんぐわんぐわんぐわんと音が「唸る」。たとえば440ヘルツと443ヘルツの「おんさ」を同時に鳴らすと音が「唸る」のである。


【音速(音の伝わる速さ)にまつわるニュートンの間違い】

ニュートンは、音速は約秒速280メートルであると『プリンキピア』(1687年)に書いてある。しかし、正しくは1気圧かつ室温程度で秒速330メートルである。これを1816年に訂正したのが、ラプラスであった。なぜニュートンは間違えたのかというと、音が空気を揺らしながら伝わっていくときに、空気が圧縮されたり膨張したりするのだが、そのときに空気の温度がずっと変わらないという「等温変化」をニュートンは仮定してしまっていたのである。しかし、実際には「断熱変化」であったのだ。音は非常に素早いので、空気の温度が変わることを考えなくてよかったのだ。

 


【単振動と正弦波】

正円の円周上を物体Pが等速で動くと考えてみよう。これを真横から見ると、点Pは上下に振動しているように見える。この振動を、単振動という。単振動は数学的に最も美しい振動ということになっており、調和振動とも言われる。たとえば、ゼッケン番号1の応援団員が屈伸運動をすると2秒後にゼッケン番号2の応援団員が屈伸運動をするのをゼッケン番号100の応援団員まで続けていく、というのを遠くから見たときに見える横波の場合に、そのゼッケン番号1から100の応援団員たちが全員単振動をすると作られる波が、正弦波である。

 


【1番数学的に綺麗な波が正弦波】

声色の違いは波形の違いとして現れる。正弦波を典型に、他の波は記述できる。そして、この波形の違いが声色として認識される。声色と楽器の音色も原理は同じで、バイオリンの音色、ハープシコードの音色、ピアノの音色などが違うのはその波形が違うからである。また、波形は、大縄のような形だけではなくて、ノコギリ型や富士山型など様々な形を作りうる。手を叩いた時の音は解析すると波形がぐちゃぐちゃであるが、楽器から出てくる音は波形が複雑な形ではあるが、規則正しく周期的になる(=位相の情報がキープされる)。これを「楽音(がくおん)」と言って、手を叩く音とは区別される。

 


【音のフーリエ分解】

調和振動が作りだす波が正弦波である。それがたとえば440ヘルツだとする。その正弦波の二倍の振動数の波は880ヘルツである。3倍ならば1320ヘルツである。このようにある正弦波の振動数の何倍かの音を強弱を調節しながら重ね合わせていくとあらゆる音が作れる。このように整数倍の振動数比の和音(=ピタゴラス音階)を作ることであらゆる音が作れるのだ。また、どんな音でも、正弦波に分解することができる。この正弦波への分解を「フーリエ分解」という。

 


【なぜヘッドホンやイヤホンで音を聴くと音が上から聴こえるのか】

耳は次のような仕方で音源を特定する方法も、持っている。すなわち、右の方を向いたときに、左の耳に音がたくさん入ってきたら音源が前であり、反対に、右の耳に音がたくさん入ってきたら音源が後ろだと分かる。では、右を向いても左を向いても音に変化がなかったらどう判断されるか。音源が上で音は上からきていると判断するのである。だから最近のヘッドホンはスピーカーで聴くときのように、前から音が来ているように補正するための仕組みを設けたりもしている。ちなみに、映画館では、スピーカーが上や下にあったり背後にあったりするのだが、映画の中のドラえもんが動いていても、ドラえもんの声はドラえもんの口から聞こえるように補正されて聞こえる。ちなみに、人間のマネキンの耳穴にマイクを設置する「ダミーヘッド録音」や「バイノーラル録音」をすると、イヤホンでも真上から聞こえてきてしまう効果を軽減することができる。

 


【ザックス=ホルンボステル分類法】

打楽器は動作に注目しているのに、弦楽器は振動しているものに注目しているであり、金管楽器は振動しているものが通るものである。これは、大量の洗濯物の山の中から服を引き出しにしまっていく時に、「長袖の引き出し」と、「半袖の引き出し」と、「かわいい服」の引き出しがあるようなものである。これでも、典型概念とそこからの距離の大小を使えば価値的な分類をうまく遂行できるのだが、それでも可愛くて長袖の服を手に取った時に一瞬の迷いは生じてしまうのである。こういった分類基準の不統一を解消し、分類基準を発音原理で一本化しようとしたのが、ザックス=ホルンボステル分類法であった。


カラヤンが好んだホールはヴィニヤード型】

極めてたくさんの道具を演奏に使おうとした音楽家として有名なのがグスタフ・マーラーである。オーケストラが大きくなるマーラーの曲はヴィニヤード(=ぶどう畑)型などの大ホール(たとえばベルリンフィルのホールや、日本のサントリーホールなど)が向いているが、室内楽的な響きが合うハイドンの曲などは小さいホール(200-300人規模)が向いていると言われる。シューボックス型はウィーン楽友協会のムジーク・フェライン・ザール・ホールが有名である。ここはニューイヤーコンサートが行われることで有名である。指揮者のカラヤンは自分を中心に周りに同心円状に広がる大ホールであるヴィ二ヤード型を好んだという。

 


【ビール瓶は気鳴楽器になる】

水を入れていないビール瓶を吹くよりも水を入れたビール瓶の方が出る音が高くなるのは、水を入れたビール瓶のほうが空気の入る体積が少ないので、単位時間あたりに空気が震える回数が多くなるからである。

 


【振動数】

振動数は一般に、波の伝わる速さを波長で割った値になる。材質と太さの同じ弦が等しい力で張られていると仮定すると、弦を伝わる波の速さは等しいので、弦の長さが半分になれば振動数は倍になり、音は1オクターブ高くなる。

 


【弦の中では何が起きているのか】

弾かれた弦の中では、波が往来しており、定常波という波を作り出している。定常波というのは何かというと、波長と周期と振幅という波の3要素が全て等しい二つの進行波が、両端からやってきてそれがぶつかって合成されるとできるようなものである。

 

短調はネガティヴ、長調はポジティブとされる】

西洋音楽では、短調はネガティヴ、長調はポジティブと言われるのだが、実際にはユダヤ民族の民謡「マイムマイム」のように、井戸が見つかって水が出て喜んでいる場面の曲でも短調であったりする。ちなみに、日本の民謡には「さくらさくら」など、短調の曲が多い。

 


【ファルセットと声帯】

ファルセットは裏声とも呼ばれる。ファルセットにおいて声帯は背中側が開いて前側の方だけ閉じている。ファルセットーネにおいては半開する。地声においては声帯は閉じている。左右の声帯が触れあう面積が大きければ大きいほど低い声になるのは、弦楽器で弦が長ければ長いほど低い音になるのと同じ原理である。

 


【シンガーズフォルマント】

車掌の声の成分や、漁港のセリ人のダミ声などは、3000ヘルツ付近の高周波成分でパワーが強くなっている。これは雑音が周りにある条件下でもよく通る声の条件を満たしているということである。車掌の声を特徴づける「鼻腔共鳴」によってシンガーズフォルマントが得やすくなっているらしい。

 


【感覚遮断実験】

音感覚の遮断実験をしていると様々な異常が起きる。たとえば、第一に、蝸牛管が自ら音を感知した時の電気信号を発する。他にも、全く響きがないところにいると、残響がないということは周りに壁がないということを意味するので、外敵に襲われることへの警戒が必要で、それゆえに不安になる。

 


【日光の鳴き龍】

天井と床との間で音が何度も反射して行ったり来たりするための「ムクリ」が廊下に仕組まれている。これが竜の鳴き声に見立てられている。

 


【中国語の2音節の語は20通りの発音がある】

中国語において、2音節(複音節)の語には、1音節目には4通りの四声があり、2音節目には四声と軽声があり、それゆえにふたつを掛け合わせると20通りの声調があることになる。ちなみに、日本語の短母音「あいうえお」に対応するものは中国語には、7つある。

 


【モーラとは何か】

モーラとはカナ文字1文字をひとつの単位として区切る日本語の音の数え方の単位であると言ってよい。ただし、カナ文字1文字とはいえ、キャキュキョなどの拗音は、小さな字まで含めて1モーラである。また、促音というのは独立で1モーラを形成する。例えばパイナップルはパイナツプルとなって6モーラである。ちなみに、二重母音である「ういろう」の「い」も、それだけで独立の1モーラとして数える。例えば、俳句の五七五は、音節の数を数えているよではなくて、モーラの数を数えているのである。その証拠に、「たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる」という芭蕉の俳句は、「たびにやんで」の部分は、音節数で数えるならば「やん」で1音節なのだから字余りではないのだが、多くの人が字余りだと感じる。これはなぜかというと、モーラを数えているからで、モーラを数えるならば「ん」で独立の1モーラを形成するからなのだ。

 


【古代の日本語は濁音で始まらない】

古代の日本語では単語の最初の位置に濁音がくることはありえなかった。ホシとかツチとかソラとかタキとかアメとかハナとか、全て清音で始まっており、中国語から来た漢語の影響を受けて濁音で始まる言葉、例えばゲンゴやガッコウやザイリョウなどである。

 


【「カエルの詩人」草野心平

草野心平はカエルの詩人と呼ばれた。彼はカエルの詩を書いたのではなく、カエルの立場から詩を書いた。

 


【学校のチャイム】

学校のチャイムは「ウエストミンスターの鐘」という曲が採用されており、4つの音だけで曲が構成されている。英国議会ビックベンでも流れている。

 


【防災行政無線放送】

17時になると街に流れる防災行政無線放送は地域によって違うものが流れており、九十九里町では「我は海の子」が流れるが、豊島区や渋谷区では「夕焼け小焼け」が流れる。「赤とんぼ」や「ふるさと」を流す地域もある。

 


【寺の鐘の梵鐘は三段階に分けられている】

寺の鐘の梵鐘は三段階に分けられていて、「①当たり」と「②押し」と「③送り」がある。当たりは近くの人に聴こえており、押しは遠音と呼ばれて遠くの人にも聞こえる。送りは、弱い音だが、うねりがあって、余韻となる。梵鐘の音は100デシベルくらいの大きな音である。ちなみに、ディドロの書いた百科全書の中に、当時の人々が鐘を作る際に、出てくる音たちの振動数をはかり、配分を調合しながら作るという説明が出てくる。

 


【振動数ヘルツとドレミの西洋音階との関係】

ドの音は135ヘルツである。ミの音は300ヘルツから330ヘルツである。ハ長調のラの音は440ヘルツである。通常の常音階の基準音として採用されている「ラ」の音はピアノの鍵盤の49番目の音で、ぴったり440ヘルツの音が使われている。

 


【ロンドンっ子の定義はボウベルが聴こえるところで育ったかどうか】

ロンドンには、サンマリールボウSt Mary-le-Bowという教会がある。ここのボウベルが聴こえるところで育ったかどうかがコックニーすなわちロンドンっこであるかどうかの基準になる。ちなみに、『徒然草』の第220段には、いまは妙心寺にあって、むかしは嵯峨野の天竜寺にあったこの鐘の音は「鐘の声は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし」と言及されている。黄鐘調は西洋音階でいうラの音に相当する。ちなみに、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という句は、「花曇りの空に鐘の音が聞こえてくる。あれは、 上野東叡山寛永寺の鐘か、はたまた浅草浅草寺の鐘か」という意味である。


生理学者ヨハネス・ミュラーの「特殊神経エネルギー説」と「共感覚」の矛盾】

有名な共感覚者にはバイオリニストのイツァーク・パールマンカンディンスキーやロシアの音楽家スクリャービンや、リムスキー・コルサコフがいる。「異なる受容器を通して生じた感覚的経験はそれぞれ質的に異なる」というのが「特殊神経エネルギー説」である。これは耳は音波で目は光波を処理し、それだけを処理するのだから、それらが交わることはありえないという説であった。たとえば音を聞いて色を感じるというのは生理学的にはありえないと考えられたのである。

 

 

 

 

 

学習について学習しよう

 

 

【参考文献】

1.藤田和生『比較認知科学への招待―「こころ」の進化学』(ナカニシヤ出版,1998)

2.ジェームズ・E・メイザー(2006), 磯博行・坂上貴之・川合信幸訳『メイザーの学習と行動 第3版』(二瓶社, 2008)

3.実森正子・中島定彦『学習の心理―行動のメカニズムを探る―』(サイエンス社, 2000)

4.Pavlov, I, P. (1927). Conditioned Reflexes. Oxford: Oxford University Press.

5.Skinner, B. F.(1938). The behavior of organisms. New York. Appelon-Century-Crofts.

6.Skinner, B. F.(1948). Superstition in the pigeon. Journal of Experimental Psychology, 38, 168-172.

7.Thorndike, E. L.(1911). Animal intelligence. New York, Macmillan.

 

 

 

 

 

 

【最初に話の流れだけを提示してみる】

1.学習とは、「経験による比較的永続的な行動の変容」である。

 


2.行動には大きく分けて、「刺激により誘発される反射行動」と、「随意的に制御可能で個体が自発するオペラント行動」がある。

 


3.反射行動の変容原理としては、「馴化」と「鋭敏化」という2つの「非連合学習」があり、それとは異なって「連合学習」もある。「馴化」とは刺激の反復により反射が減弱する過程で、「鋭敏化」とはその逆に増強する過程である。

 


4.反射行動は、「古典的条件付け」と呼ばれる「連合学習」によっても変容する。「古典的条件付け」とは「中性刺激」と反射を誘発する「無条件刺激」の「対提示」によって、「中性刺激」が「条件刺激」となり、よく似た反射を誘発するようになる過程である。

 


5.「オペラント行動」は「オペラント条件づけ」と呼ばれる「連合学習」の変容原理によって変容する。これはある環境刺激(弁別刺激)の下で自発された反応が、それに後続する環境変化(強化刺激)により強められたり弱められたりする過程である。

 


6.オベラント行動の時間や回数と強化の出現の間に設けられた関係を「強化スケジュール」と呼び、オペラント行動の生起は、それによって特徴的なパターン(「スキャロップパターン」や「ポーズ・アンド・ラン」など)になる。

 


7.「古典的条件づけ」と「オペラント条件づけ」は、「連合学習の一般原理」である。

 


8.実際には刺激間や刺激と反応の組み合わせ、あるいは場面によって、学習の効率は著しく変化する。これらは「学習の生物学的制約」と呼ばれる。つまり、「連合学習の一般原理」はどの動物にも同じように適応できるわけではないし、効率も種によって異なる。

 


9.自然界に見られる学習には「連合学習の一般原理」には当てはまらないものが数多く見られ、それらは「プログラムされた学習」と呼ばれる。

 


10.「学習の生物学的制約」や「プログラムされた学習」は、動物がその種の典型的な生活を送るために必要不可欠な内容を必要な時に確実に学習するために進化した「適応的意義」を持つものであり、ヒトの学習も、こうした制約から自由ではなく、なんでもゼロからいつからでもどんな仕方ででも学べるわけではない。ヒトを含めた動物たちに与えられた時間や学習の機会は無限にあるわけではないので、生きていくために必要不可欠なことは、速やかに効率よく学ぶ必要があり、すべてをゼロから学ぶのでは時間がいくらあっても足りない。「学習の生物学的制約」と「プログラムされた学習」は、学習の自由度を下げてしまうように思えるかもしれないが、学習の自由度を下げて、どのように学習するかがあらかじめ決まっていることによって素早く学習することを可能にしている。むしろ、「古典的条件付け」や「オペラント条件付け」のような「一般原理による学習」こそ、より予測することが難しい環境変化に適応するための最終手段としてバックアップ的に装備されていると考えた方がよい。人間以外の動物たちの学習の多くは、当該の種としての典型的な生活を送るためにどうせ必ず学習しなければならないものについては、それを確実に学習するときように、あらかじめプログラムされたものになっている。

 

 

 

 

 

 

【これまで考えられてきたヒトの特殊性】

⑴.道具を使う

⑵.道具を作る

⑶.言葉を話す

⑷.文化を持つ

⑸.意識(内省)

→⑴-⑸は、原初的な形でなら動物にもその萌芽が見られる。

 

 

 

【学習とは何か】

 


比較認知科学における「学習」は、「学校の授業や宿題」のことではない。比較認知科学における「学習」とは、「「経験による」「比較的、永続的な」行動の変容」のことである。また、「何かをしなくなること」も学習である。たとえば、「嫌な思いをした店に二度と行かなくなる」のも「学習」である。行動の変容というのはたとえば、新しい行動の形成、行動の形態の変化(料理のレシピ調べが読書からネット検索へ)、行動の時間帯の変化、行動の持続時間の変化、行動の頻度の変化、行動の出現場所の変化なども学習である。

 

 

 

【学習とは何でないか】

 


[⑴.経験をしなくても生じる行動の変容は学習ではない]

→誰に教わらなくても赤ん坊は「ハイハイ」をして歩くので「ハイハイ」は学習ではない。

 


[⑵.すぐに元に戻る行動の変容は学習ではない]

→ガソリンスタンドに行くと揮発油の匂いがするけれども、すぐに気にならなくなる。これは抹消の匂い感受器の「順応」と呼ばれる働き。このようにして生じる非常に短期的で抹消的な行動の変容は学習ではない。他方で、毎日ガソリンスタンドに勤めているうちに「順応」に必要な時間が短くなっていったとしたらそれは学習である。

 


[⑶.永久的な行動の変化も学習ではない。]

→事故で片足を失ってもう両足では歩けなくなった場合、そうして生じた行動の変容は学習ではない。ただし、義足を装着してから訓練によって歩けるようになったなどの行動の変容は学習。

 

 

 

 


【学習はなぜ必要なのか】

 


常に一定の環境(たとえば深海のような安定した環境)で生活する動物ならば生活や繁殖に必要なすべての情報(たとえば「何を食べて、誰と繁殖するか」など)があらかじめ遺伝子に組み込まれていてもよいだろうが、現実には、「完全に安定した環境」というのはほぼないし、そこに住む動物もほぼいない。

 


→たとえ空間的位置を変えなくても、時間(たとえば季節)が変われば環境は変わる。そうした変化する環境に「学習」によって対応したり行動を調節したりできる動物の方が、より適応的に生きていくことができる。

 


→さらに重要なことに、環境の中には、「遺伝子の中に組み込むことが原理的にできない情報」もたくさんある。たとえば、生まれた場所の地理や地形を遺伝子に組み込むことはできない。よって、「学習」は非常に多くの動物にとって、生存の役に立つというだけではなく、必要不可欠でさえある。学ぶしかない情報というのもたくさんあるからだ。

 

 

 

【学習の2類型】

 


学習には二種類ある。

1.さまざまな動物に共通した基本的原理に従って生じる学習

2.種によって特異的にプログラムされた学習

 

→「2.プログラムされた学習」は後半で扱う。


→ただし、「1. 共通した基本的原理に従って生じる学習」の学習原理は次に述べる行動のタイプによってことなる。

 

 

 

【行動の2類型】

 


行動には「⑴反射行動」と「⑵オペラント行動」がある。

 


⑴.反射行動(レスポンデント行動)

→「反射行動」とは、「ある刺激が生体の感覚器に取り込まれると、自動的に誘発される不随意的な行動」である。

 


[⑴-①. 唾液反射]

→口に食物が取り込まれると不随意的に唾液が生じる。

→唾液が出ないと食べ物を飲むのは難しい。(胃液もそう。)

 


[⑴-②. 眼瞼(がんけん)反射]

→眼に空気を吹きかけると瞬きが不随意的に誘発される。

→瞬きに関しては、ある程度意志の力で制御することができる。ただし完全にはできない。

→瞬きがなければ目が乾いて物が見えなくなる。

 


[⑴-③.歩くときの姿勢維持]

→歩くときに不随意的に姿勢が維持される運動。

 


[⑴-④.驚愕反射]

→雷が鳴ると身がすくむ

 


[⑴-⑤.原始反射(吸入反射、把握反射、ルーティング反射)]

→新生児が備えている特有の反射行動。

→新生児のくちびるに物を近づけるとそれを吸う反射(吸啜反射)。

→新生児の手のひらに鉛筆などを押し付けるとそれを強く握る反射(把握反射)。

 

 

 

⑵.オペラント行動(「道具的行動」とも呼ばれる)

→オペラント行動は、「主体がその出現を制御できる随意的な行動」であり、反射行動とは異なってオペラント行動を誘発する特定の刺激はない。

→オペラント行動の最大の特徴は、「行動の結果、生じた環境の変化によってその強さや自発される頻度が変わること」である。

→人間が普段の生活でやっている行動の多くはオペラント行動である。

→たとえば、字を書くこと、友達と話すこと、テレビを見ること、料理をすることなど、これらは随意的に制御できるので、いずれもオペラント行動である。

→オペラント行動は「主体が環境に働きかけてそこから良い結果を得るために道具として用いられるもの」とみなすことができるため、時として「道具的行動」と呼ばれることもある。

 

 

 

【「⑴反射行動」におけるその変容原理の2タイプ】

 


反射行動の変容原理には、「⑴-ⅰ.非連合学習」と「⑴&⑵-ⅱ.連合学習」とがある。さらに「非連合学習」の中には「⑴-ⅰ-1.馴化」と「⑴-ⅰ-2.鋭敏化」とがあり、他方で「⑴&⑵-ⅱ.連合学習」の中には「⑴-ⅱ-1.古典的条件付け」がある。ただし、「⑴&⑵-ⅱ.連合学習」の中には、「⑵-ⅱ-2.オペラント条件付け」もあるが、「⑵-ⅱ-2.オペラント条件付け」の方は「⑴反射行動」の変容原理ではなく、「⑵オペラント行動」の変容原理である。

 

 

 

[⑴-ⅰ.非連合学習]

非連合学習とは、反射を誘発する刺激を反復して提示すると、反射の強度や頻度が変化するという学習である。

→なぜ「非連合」学習と呼ばれるかというと、「複数の刺激や反応の組み合わせが関与しないから」である。非連合学習には「馴化」と「鋭敏化」があり、どちらも「刺激の単独提示」によって生じる。

 

 

 

<⑴-ⅰ-1.馴化>

→くつろいでいる時に突然雷がなると身体がびくっと動く。これを「驚愕反射」という。しかし、何度も雷の音を聞いているうちに驚かなくなる。これが「馴化」である。反復によって反射強度が弱まっていく現象のことを「馴化」あるいは単に「慣れ」と呼ぶ。

 


【自発的回復】

→ただし、雷に馴化した後に数日後また雷が鳴ると同じ驚愕反射が起きる。これを驚愕反射の「自発的回復」と呼ぶ。

 


【刺激特異性】

→馴化には、さらに注意点がある。たしかに時間が経てば「自発的回復」によって、反射は回復するけれども、だからといって、この「馴化」は筋肉疲労によって生じたものではない。その証拠に、雷にはもう馴化している人のところに突然大地震が到来した場合でも、また同じ驚愕反射は起きる。ということは、「馴化」は「筋肉疲労」によってではなく、それを生じさせたある特定の刺激に対して生じている現象なのである。これを馴化の「刺激特異性」と呼ぶ。

 

 

 

【脱馴化】

→ある刺激に対して馴化が生じた後、馴化刺激とは無関係な刺激を提示すると、馴化したはずの反射が回復する場合がある。たとえば、「雷の音」に馴化した人に「強い光」などを当てると雷に対する反射が回復することがある。これを脱馴化という。

 


【馴化・脱馴化法】

脱馴化を利用して、2つの刺激が区別されているかどうかを調べることができる。1つ目の刺激に対して馴化が成立したあとで、2つ目の刺激を提示すると2つ目の刺激に対して反応が回復すれば、その2つの刺激に区別がついていると考えるのである。この手法を「馴化・脱馴化法」と呼ぶ。これは言語的なテストを用いることができない乳児や動物の知覚に対してしばしば利用する。

 


【刺激般化】

→でも、「馴化」に関して、さらに厄介なことに、「馴化」は厳密にそれを生じさせた一つの刺激だけに対して生じるのでは、ないのだ。実は、ある刺激に対して「馴化」が生じている時、それとよく似た同じような刺激に対しても「馴化」は起きているのである。たとえば、雷に馴化している人は、それとよく似たシンバルの音に対しても馴化している。これを「刺激般化」と呼ぶ。

 


【馴化の適応的意義】

→「馴化」の「適応的意義」は、「環境内の重要ではない刺激を無視する」という非常に重要な意義がある。生体は環境内の事物を常にチェックしてはいるのだが、そのために必要な「注意」や「時間」は有限なので、常時環境内のすべての事象に注意を払っていることはできない。そこで、馴化は「強いかもしれないが特に危険ではないような刺激」をフィルターにかけてこしとる」という役割を担っている。「環境内の不要な刺激の濾過」が馴化の意義である。

 


<⑴-ⅰ-2.鋭敏化>

→「馴化」と同じように刺激を反復して提示すると、「反射」の強度がむしろ増していく場合があり、これを鋭敏化と呼ぶ。たとえば、お化け屋敷に入った時、最初のうちは少し驚くだけであるが、中をどんどん進むにつれて、最終的には「なんでもない音」や「ちょっとした物の動き」にさえ身体がすくむようになる。暗闇で人影を見ると非常にドキっとするのは「鋭敏化」の働きである。

 


【お化け屋敷】

→馴化に比べて、「鋭敏化」の方は「刺激特異性」が弱くて、多様な刺激に容易に「刺激般化」が起きる。お化け屋敷はこの性質を利用しているのである。

 


【鋭敏化の適応的意義】

→「鋭敏化」の意義は、「危険なものをなるべく早く、確実に察知する」のに役立っている。危険が存在するかもしれない確率が高い場所ならば、たとえ間違うリスクをおかしてでも、危険を早く察知する方が得策なのだ。

 


【馴化と鋭敏化のどちらが起きるか】

→ある刺激を単独で反復提示したときに、「馴化」と「鋭敏化」のどちらが生じるのかを予測することは難しいが、一般的には、「弱い刺激を短い時間間隔で何度も同じ場所に反復提示すると馴化」が生じやすくて、それとは逆に、「強い刺激を長い時間間隔で違う場所に提示すると鋭敏化」が生じやすい。

→たとえば、「時計の針の音」や「持続的な天井のファンの音」には「馴化」が生じやすい。それに対して、「大地震」の後には「鋭敏化」が生じやすいので「小さな余震」に対して非常に鋭敏な反応になる。お化け屋敷も適度な時間間隔を十分に空けてから強い刺激を与えるように内部の仕掛けが作られている。

 

 

 

[⑴&⑵-ⅱ.連合学習]

「刺激と別の刺激の間や、刺激と反応の間の関連が生じたり、その関連の在り方に変化が生じたりするような学習」のことを一括して「⑴&⑵-ⅱ.連合学習」と呼ぶ。「連合学習」の基本過程には「⑴反射行動」の変容原理である「⑴-ⅱ-1.古典的条件づけ」と、「⑵オペラント行動」の変容原理である「⑵-ⅱ-2.オペラント条件づけ」との2種類がある。つまり、「古典的条件付け」は反射行動の連合学習であり、「オペラント条件付け」はオペラント行動の連合学習である。

 

 

 

<⑴-ⅱ-1.古典的条件付け>

ノーベル賞を受賞したロシアの生理学者にパブロフがいる。パブロフは唾液腺の働きを研究(1927)しており、犬の口の中にチューブを固定して自動的に唾液を採取できるようにしていた。その研究の途上、パブロフは奇妙な現象に気付いた。「飼育係の足音がすると犬が唾液を流し始めた」のである。これを再現するためにパブロフは次のような実験を開始した。まず犬にベルやブザーやメトロノームなどの音を聞かせる。犬はその音に注意を引かれるがそれ以上のことは起こらない。それを確かめたのちに、パブロフは音に続けて数秒後に犬の口の中に酸や肉片を入れた。すると、犬は食物に対する反射行動として唾液を流し始める。ここまでの操作を何度も繰り返すと、犬は音を聴かせただけで、口の中に酸や肉片が入れられる前から唾液を流し始めるようになった。つまり、「犬はベルの音がすると唾液が出る」という新しい「反射行動」を獲得したのである。これを抽象化すると、次のようになる。

 


【無条件刺激】

→まず、もともと反射行動を誘発する機能を持っていた刺激(この場合は酸や肉片)のことを「無条件刺激」と呼ぶことにする。

 


【無条件反射】

→次に、「無条件刺激」によって誘発される反射のことを「無条件反射」と呼ぶ。

→「無条件刺激」によって起きる「無条件反射」は生体に生得的に備わっている。

 


【中性刺激】

→「無条件刺激」に対して、最初は特別な意味を持たなかった刺激(この場合にはブザーの音)のことを「中性刺激」と呼ぶ。

 


【条件刺激】

→「中性刺激」(ブザーの音)が、「無条件刺激」(肉片)と対(つい)にして提示することにより「「唾液反射」を誘発する」という新しい働きを獲得した。この「新しい働きを備えるようになった中性刺激」のことを「条件刺激」と呼ぶ。

 


【条件反射】

→「「条件刺激」によって新たに誘発されるようになった反射」のことを「条件反射」と呼ぶ。

 


【古典的条件付けのまとめ】

→以上のことをまとめると次のようになる。「一般的に、「中性刺激」と「無条件刺激」とを対にして提示(=「対提示」)し、「無条件反射」が生じることを繰り返すと、「中性刺激」が「条件刺激」となり、「無条件反射」によく似た「条件反射」が生じるようになる。この学習過程のことを単に、「古典的条件付け」と呼んだり、あるいは「反射行動」の別名が「レスポンデント行動」であることから、「レスポンデント条件付け」と呼んだり、あるいは発見者の名前を取って「パブロフ型条件付け」と呼んだりする。」

 


【強化】

→「古典的条件付け」が成立するための必要条件は、「「中性刺激」と「無条件刺激」とを対にして提示すること」、それだけである。「「中性刺激」と「無条件刺激」とを対にして提示する」というこの手続きのことを単に「強化」、あるいはオペラント条件付けにおける強化とは区別するために、特に「レスポンデント強化」と呼ぶ。

 


【必要条件は対提示だけ】

→「古典的条件付け」のポイントは何かというと、「古典的条件付けが成立するための必要条件の中に、「反応の結果生じる事象」は含まれていない」ということである。つまり、「古典的条件づけは、反応の結果には影響されない」のである。

 


【梅干し】

→日本人の多くは、梅干しを見ると唾液が不随意的に出る(=反射行動)が、これは、「梅干しのすがた(=「条件刺激」=かつての「中性刺激」)」と、「梅干しの酸味(=「無条件刺激」)」が繰り返し「対提示」された結果、条件づけられた「条件反射」である。梅干しを食べない西洋人はこの反射を持たないので、これは古典的条件付けによる「学習」である。

 

 

 

 


【古典的条件づけのバリエーション】

→「古典的条件付け」には実は色々なバリエーションが存在し、それに応じて古典的条件付けのしやすさが変化することが知られている。そのうち特に重要なものは、「中性刺激の提示」と「無条件刺激の提示」との間の時間的関係である。

 


【同時条件付け】

→まず、「同時条件付け」は、「中性刺激の提示」から概ね5秒以内に「中性刺激の提示」をしたままそこへさらに重ねて「無条件刺激の提示」をするようなタイプの古典的条件付けであり、これが最も条件付けが容易である。

 


【延滞条件付け】

→次に、「延滞条件付け」は、「中性刺激の提示」から「無条件刺激の提示」までの時間間隔を長くしたもので、条件付けするのはそれに伴って難しくなる。また、この場合、「条件反射」は「中性刺激の提示」から設定された時間だけ遅れて生じる。

 


【痕跡条件付け】

→さらに「痕跡条件付け」という方法がある。これは、「中性刺激の提示」後、一旦、「中性刺激」を消してから「無条件刺激」を提示するという方法である。この場合にもそれに伴って、学習は難しくなる。

 


【逆行条件付け】

→さらに「逆行条件付け」という方法もある。これは「中性刺激」と「無条件刺激」の提示順序を逆にするものである。このやり方だと、「同時条件付け」と同じように「中性刺激」と「無条件刺激」とが「対提示」されているのにもかかわらず、条件付けは著しく困難になるのだ。たとえば、梅干しを見ても唾液が不随意的に出たりはしない西洋人に、「梅干しの酸味(=「無条件刺激」)」を提示してからそのあとで「梅干しのすがた(=「中性刺激」)」を提示することを繰り返しても、その「対提示」の結果、「梅干しを見ると唾液が出る」という「条件反射」を条件付けることは困難になる。

 


【時間条件付け】

→さらに特殊なものとして「時間条件付け」という方法もある。これは、「中性刺激」を提示しないで、一定の時間間隔で「無条件刺激」だけを繰り返し提示する方法である。この手続きで条件付けすると、「条件反射」はその時間間隔で生じるようになる。この場合、「時間間隔そのもの」が、「条件刺激」になっていると考えられるのである。

 

 

 

【消去】

→一旦条件づけられた行動は未来永劫そのままで変わらないのかというとそんなことは当然なくて、「古典的条件付け」が成立し「新しい条件反射」が生じるようになったあとに「条件刺激」だけを単独で提示することを繰り返すと、「条件反射」は次第に弱くなっていき、ついには出現しなくなる。パブロフの犬の例で言えば、「ブザーの音」だけを聞かせてその後に「肉片」を口に含ませるのをやめると、次第に、パブロフの犬はたとえ「ブザーの音」が聞こえても唾液を出さなくなるのである。このように「条件付けの成立後に条件刺激だけを単独で繰り返し提示する手続き、あるいはそれによって反応が減衰していく過程」のことを「消去」と呼ぶ。

 


【消去は「消し去ること」ではなく「抑制すること」である。】

→ただし、「消去」は実は「消し去ること」という意味ではなく、「消去」と呼ばれている手続きによって実際になされていることの内実に即していうなら、「条件反射の抑制」という意味である。その証拠に、いったん消去した後に長い時間を置くと、「消去」したはずの「条件反射」が復活することがよくあるのである。ということは、「消去」にはその効果時間というものがあり、このように「消去」の効果が切れることがあるということである。このような復活を「馴化」のときと同様に「自発的回復」と呼ぶ。雷の音に「馴化」した後に数日後また雷が鳴ると同じ驚愕反射が起きるのを驚愕反射の「自発的回復」と呼ぶわけだが、それと同じく、条件反射も「消去」してから長い時間を空けると「自発的回復」をしてしまうのだ。だから「消去」という操作の内実は「消し去り」ではなく「抑制」の過程である。

 


【古典的条件付けにおける刺激般化】

→「馴化」でも「刺激般化」は生じたように、「古典的条件付け」でも「刺激般化」は生じる。具体的にいうと、「古典的条件付け」が成立すると「条件刺激」によく似た別の刺激に対してもある程度の「条件反射」が出現することを指す。たとえば、「メトロノームの拍数」や「ブザーの音の高さ」が少しくらい変わっても同じ条件反射(唾液反射)は出現する。これを「古典的条件付けの刺激般化」と呼ぶ。

 


【刺激般化の適応的意義】

→「刺激般化」は「学習」を曖昧にしてしまうように思われるかもしれないが、「刺激般化」にも適応的意義がある。たとえば、「刺激般化」がもしも一切起こらないとすれば、動物は環境内にあるありとあらゆる刺激について個別に学習しなければならなくなり、これは非常に大変なのである。よく似た刺激に対しては既に学習したことを応用するようにしておいた方がより適応的だったのである。これが刺激般化の「適応的意義」である。

 


【分化強化と弁別の適応的意義】

→しかし、場合によってはよく似た刺激であっても、「刺激般化」して応用するのではなく、区別をしたほうがいい場合もある。たとえば、「子供が蜂に刺されてしまって、痛い思いをして、蜂を怖がるようになった」としよう。この学習は高確率で「刺激般化」するので「色々な虫を子供は怖がるようになる」だろう。すると、こどもはこれが嵩じると、もうそとに出れなくなるかもしれない。だから、「ハチに少し似ていても、ハチではない虫は安全だ」ということを子供は学習する必要がある。そのために分化強化と弁別が必要なのだ。

 


【分化強化と弁別】

→「古典的条件づけ」をするときに、ある二つのよく似た刺激のうちの、一方については、「無条件刺激」と対提示して「強化」し、他方については、「無条件刺激」との対提示をしないことによって「消去」することを繰り返すと「条件反射」は前者の刺激に対してだけ成立するようになる。このように、「二つ以上の刺激で強化の仕方を変える操作」のことを「分化強化」といい、「「分化強化」の結果、それらの刺激に対する反射の生じ方が分かれてくること(=分化)」を「弁別」という。

 


【分化強化の具体例】

パブロフの犬の例で言えば、「100拍のメトロノームの音」に対してはパブロフの犬の条件反射を「強化」し、「120拍のメトロノームの音」に対しては「消去」するようにすれば、条件反射としての唾液分泌は「100拍のメトロノームの音」に対してのみ生じるようになる。

 


【高次条件付け】

条件付けが成立した後に、「第2の中性刺激」と「条件刺激」だけを対提示すると、「第2の中性刺激」が「条件刺激」としての機能を獲得する。たとえば、メトロノームの音で唾液反射を示すようになった犬に、光が提示されて短時間の遅延の後にメトロノームの音だけ(肉片はなし)を提示されるという経験が反復されると、やがて光は唾液反射を誘発するようになる。これが「2次条件付け」である。理論的には3次や4次も可能。

 


【高次条件付けの具体例】

ハチを見ると恐怖する子ども→刺激般化→昆虫図鑑のハチの絵や写真を怖がる子ども→反復→昆虫図鑑を怖がる子ども

 


【条件性制止】

メトロノームの音で唾液反射を条件づけた犬に対して、光とメトロノームの音を同時に提示し、その時には肉片を与えないことを繰り返すと、メトロノームの音だけの時には唾液反射が生じるのに、メトロノームと音が組み合わさった場合には反射を示さなくなる。別刺激の存在が条件づけられた反射の出現を阻害する現象を「条件性制止」と呼び、この場合は光が条件反射を抑制する機能を獲得したと考えることができる。

 


【隠蔽】

光と音のように、二つの刺激を組み合わせた「複合刺激」を中性刺激として条件付けを行うと、どっちの刺激も対提示されているにもかかわらず、どちらか一方の刺激だけが条件刺激としての機能を獲得する場合がある。たとえば、ブザーと光を同時に提示しているのに、ブザーに対しては唾液反射が生じているのに光には生じないことがある。これはどちらの刺激がその生体に取って顕著かを示している。これを条件付けにおいて一方が他方を「隠蔽」した、という。

 


【阻止】

たとえば、光という中性刺激に条件付けを行って唾液反射の条件刺激とした場合、そのあとで第二の刺激であるブザーと光の複合刺激を提示しても、第二の刺激がほとんど条件刺激としての機能を獲得しない現象である。

 


【古典的条件付けの適応的意義】

古典的条件付けは、重要な無条件刺激の予兆を生体が学習する過程である。こうした過程は、食物を口中に入れるよりも前に、既に口内の状態を適切にしておくことに役立つのである。たとえば、ネズミが猫などの危険な捕食者の接近を猫の匂いやあしおとで検知することができれば、猫が接近するよりも前に不動状態(うずくまって動かない)をとったり、巣に逃げ込む条件反射によって、より安全にその危険をやり過ごすことができる。

 


→条件刺激が出現したということは、その直後に無条件刺激が来るであろうことを予測させるような出来事である。もしも、無条件刺激が到来することを事前に察知することができるとしたら、動物はより早く確実に準備的な行動をとることができる。だからこそ、古典的条件付けという学習システムには適応的な意義があるのである。

 


【系統的脱感作(かんさ)】

古典的条件付けは、人間の恐怖症や依存症、異常な性的執着などの問題行動にも関連している。これらは経験により強い不快や快の情動的反応が特定の刺激に条件づけられたものと考えられる。これらの治療法として、系統的脱感作などがある。これはクモの小さい模型など、恐怖反応を引き起こさない極めて弱い状態から提示し始めて、患者が平静を保てていることを確認しながら少しずつ刺激強度を高めていき「条件づけられた恐怖反応」を「消去」していくという方法である。なお、これはいわゆる行動療法のひとつである。

 

 

 

【拮抗条件付け】

依存症、異常な性的執着の治療に対しては拮抗条件付けという手法がある。これは依存や執着の対象となっている当該刺激と「嫌悪を生じさせる無条件刺激(たとえば催吐剤(さいとざい)や電撃)」を対提示することにより、当該刺激に連合した快の情動を打ち消す手法である。ただしこれは当然、人権問題になる。

 

 

 

 


<⑵-ⅱ-2.オペラント条件付け>

 


【言葉の定義】

「随意的に制御できる行動」がオペラント行動である。

「オペラント行動が自発されるための環境側の必要条件」が弁別刺激である。

オペラント行動は、「3項目随伴性」で記述される。3項目随伴性とは、①弁別刺激、②オペラント反応、③オペラント反応に後続して起きる強化刺激の3つである。

 


【車の運転というオペラント行動】

車の運転はオペラント行動である。この場合、信号が青になるのは①弁別刺激で、ブレーキから足を離してアクセルを踏むのが②オペラント反応。ここで、オペラント反応をドライバーが自発するかどうかは主体の意志に任されている。そして、アクセルペダルを踏むと車が進むのが③強化刺激である。弁別刺激は、あくまでオペラント反応というある特定の行動に機会(きっかけ)を提供しているに過ぎない。また、ガス欠で車が動かなくなればドライバーはそれ以上アクセルを踏まなくなる(このように、反応の強さがオペラントレベルに戻ることを指して「消去」と呼ぶ。)のであって、アクセルを踏むのはそれによって車が動くからでありその限りででしかない。

 


【ソーンダイクの実験】

ソーンダイク(1911)は「問題箱」と呼ばれる箱に動物を閉じ込めた。最初のうち動物は闇雲に動いていたが、そのうちに偶然しかけが外れて脱出した。これを繰り返すと無駄な反応は減少して閉じ込めるや否や脱出するようになった。「快を得られるものは強められ、不快をもたらすものは弱められる」法則をソーンダイクは、「効果の法則」と呼び、この学習を「試行錯誤」と呼んだ。効果の原理を使った学習を現在はオペラント条件付けと呼んでいる。オペラント条件づけでは、個体は反応を環境から良い結果を引き出そうとする道具として用いていると考えることができるため道具的条件付けと呼ばれることもある。オペラント条件付けには、「オペラント反応に後続して、何かが出現し、それによってオペラント反応が強められるパターン」と、「オペラント反応に後続して、何かが消滅し、それによってオペラント反応が弱められるパターン」とがある。

 

 

 

【オペラント強化と、罰と、消去の違い】

オペラント条件付けの原理はスキナー(1938)によって整理されて体系化された。オペラント条件づけの成立する要件は、反応が自発された後に環境の変化が生じることである。これは古典的条件付けが、反応の結果には影響されなかったことと好対照である。反応が自発された後に環境の変化が生じて反応が強められることを「オペラント強化」と呼び、環境変化の結果、逆に反応が弱められることを「罰」と呼ぶ。また、条件づけられたオペラント反応がもはや環境の変化を引き起こさなくなるとその反応の強さが条件付けを始める以前の強さ(オペラントレベル)に戻る。この手続き、あるいはこの手続きによって生ずる反応強度の復旧をさして、「消去」と呼ぶ。反応が強化されていた場合には消去によって反応はオペラントレベルまで減少し、反応が罰されていた場合には消去によって反応はオペラントレベルまで増加する。

 


ゲームセンターでコインを入れてからのボタン押しの回数で考えると分かりやすい。コインを入れる前に試しに操作してみる時のボタン押しの頻度をオペラントレベルとすると、コインを入れてから、ボタンを押すとキャラクターを操り、望ましい結果が得られるならばボタンを押す頻度は増加し強化される。コインを入れてから、ボタンを押すと望ましくない結果が得られるならばボタンを押す頻度は減少し罰される。ゲームの制限時間が来てボタンを押しても何も起こらなくなると、消去が起きて、ボタンを押す頻度はオペラントレベルに戻る。

 

 

 

【刺激性制御】

オペラント条件づけでは、環境側の必要条件、すなわち弁別刺激が整えられると個体は反応を自発する。その意味では、反応が自発するか否かはあくまでその主体に委ねられている。しかし、弁別刺激を提示すると、その個体に当該の反応を自発するように促すことができるので、弁別刺激は個体の行動を制御する一要因になっていると考えることができる。このように弁別刺激を与えるかどうかによって個体のオペラント反応の自発を制御できることを「刺激性制御」と呼んでいる。①交差点で青信号に従って動き出したり、赤信号に従って止まったり、②挨拶をしたりするのは、弁別刺激による制御(刺激性制御)を受けた行動であると考えることもできる。

 


【「条件反射で居酒屋に入ってしまった」は言葉の誤用】

「酒好きの人が旅先で赤のれんを見るとその店に入ってしまった」という場合に、「弁別刺激」が「条件刺激」となって「条件反射」を誘発しているように見える場合がある。しかし、この場合、「赤のれんをくぐる行動」はオペラント行動である。反射行動ではないので自発しない意志があれば止められるはずである。

 

 

 

【強化と罰には4種類ある】

 


「強化」はオペラント反応を強め、「罰」はオペラント反応を弱める。

強化と罰には、①正の強化と②正の罰と、③負の罰と④負の強化がある。

 


①オペラント反応に後続して提示され、オペラント反応の「結果」としてそれが提示されるとオペラント反応を強める強化刺激のことを「報酬」または「正の強化刺激」または「正の強化子」と呼ぶ。そして、これによって反応が強められることを「正の強化」と呼ぶ。

 


②オペラント反応に後続して提示され、オペラント反応の「結果」としてそれが提示されるとオペラント反応を弱める強化刺激のことを「罰子」または「嫌悪刺激」または「負の強化刺激」または「負の強化子」と呼ぶ。そして、「負の強化子」によって反応が弱められることを「正の罰」と呼ぶ。

 


③オペラント反応の「結果」として、「正の強化刺激」を剥奪したり提示を遅らせると、反応は弱められ、これを「負の罰」という。

 


④オペラント反応の「結果」として、「負の強化刺激」を剥奪したり提示を遅らせると、反応は強められ、これを「負の強化」という。

 

 

 

①→「上手にお手ができた犬におやつを与える」のが「正の強化」。

②→「家具をかじった犬を叱る」のは「正の罰」。

③→「犬が吠えると食事を片付ける」のは「負の罰」。

④→「犬が機嫌の悪い飼い主から隠れるようになる」のは「負の強化」。

 


→負の強化は罰ではなく強化であり、強化であるならばオペラント反応は強められる。

→犬が機嫌の悪い飼い主から離れるというオペラント反応をすると、それによって機嫌の悪い飼い主に叱られるという「嫌悪刺激」が提示されることは無くなるか、あるいは遅れる。これによって、このオペラント反応は強化されるのである。

 

 

 

【子どもや犬のしつけ等で罰を使用してはいけない理由は全部で7つある。】

 


→まず確認しておこう。オペラント条件付けとは、「弁別刺激(例えば青信号)」をきっかけにして生じるオペラント行動(=随意運動)である「オペラント反応(例えば「アクセルを踏む」)」の結果として提示される「強化刺激(例えば車の発進)」によって、当該の「オペラント反応」が「オペラント強化」されるような、学習過程のことである。

 


→例えば、笛を吹いたら「おすわり」をすることを、おやつを使ってイヌにオペラント条件付けするとしよう。この場合、笛の音は「①弁別刺激」であり、おすわりをすることが「②オペラント反応」であり、それに後続しておすわりをしたことの結果として理解されるべきものとして提示されたおやつが「③強化刺激」である。そして、この①と②と③が全て揃っていることを「3項目随伴性」と呼ぶ。

 


→ところで、そもそも「罰」は「罰を与える側にとって望ましくない行動」をすぐに減少させることが多い。これが「正の強化刺激」となって、この「罰を与える」という行動は「オペラント強化」される。つまり、罰を与える側の罰を与える随意運動は「オペラント強化」されやすい。そのため、人はついつい、「しつけ」において「正の罰(嫌悪刺激の提示)」や「負の罰(報酬の剥奪)」を使いがちになってしまうという構造がある。では、「罰」を使うことの何がそんなにいけないのか。以下の7つの問題があるからである。

 


⑴第一に、罰は、身体的、精神的に学習者を傷つけることにつながり、倫理的な問題を引き起こしやすい。また罰が倫理的な問題を引き起こしやすいことがよく知られているため、罰を与える時に弱い強度の罰からスタートされやすい。

 


⑵第二に、罰は、「望ましくない行動をさせないようにする」のには有効だが、「望ましい行動をするように導く」のには有効でない。というのも、罰は「何をしてはいけないか」を指示はするが、「何をすればよいか」は指示できない。よって、罰を与えられることによって学習者は積極的な行動が取りにくくなるかもしれない。

 


⑶第三に、罰は、繰り返すとその効果が弱くなっていくことが多く、同じ効果をあげ続けるには罰を強くしていかなければならない。しかもその際に、段階的に罰の強度を高めていくと、かなり強い強度の罰でさえも効かなくなる。倫理面への配慮から、人はついつい最初は弱い強度の罰でスタートしてしまいがちなのだが、それは罰に対する学習者の慣れを生んでしまう。そこからさらに、更なる倫理面への配慮から、罰の強度を一気に上げず、徐々に罰の強度を高めていくということもまた起きやすい。そうすると、学習者には罰への慣れがかなり高い強度まで生じえてしまう。弱い罰からはじめて徐々に強度を上げていくと、かなり強い罰でも効果を持たなくなる場合がある。これを防ぐには、最初から非常に強い強度の罰を与えればいいのであるが、そのような強度の設定は誰にとっても容易なことではない。

 


⑷第四に、罰が来なかった時、学習者にとっては、「望ましくない行動をしなかったから罰が回避できたのか」、それとも、「もう罰は来なくなったのか」がわからないということである。そのため、学習者は再び同じことをしてしまうことが多い。例えば、子どもが何か先生にとって望ましくないことをすると、罰として先生がその子どもにビンタをする教室があるとして、ある日子どもが遅刻をした時に、先生がその子どもにビンタをしないと、子どもからしたら「遅刻は先生にとって望ましくない行動ではなかった(もしくはなくなった)からビンタが回避できたのか」、それとも、「遅刻は先生にとって望ましくない行動ではあるがビンタはもう来なくなった」のかがわからない。だから、遅刻することが先生にとって今はどういう行動であるのかを知ろうとして同じ行動は再び繰り返される場合がある。

 


⑸第五に、罰が来る場面には、先生や親の存在など、はっきりした弁別刺激が伴っていることが多い。それゆえ、たとえ罰を与えることによって望ましくない行動がみるみるうちに減ったとしても、それは弁別刺激があるときだけに限られる場合が多い。弁別刺激がないところでは、望ましくない行動をするかもしれない。つまり、コソコソと隠れて悪事を働くようになるかもしれない。

 


⑹第六に、罰は、学習者に学習にとって好ましくない行動を引き起こしがちである。例えば、罰でしつけられた犬の場合には、ストレスから、「テイルチェイシング」のような、「自分の尻尾を追いかけてうなる行動」を取ることが多くなる。人間の子どもの場合も、「顔をピクピクと動かす」というチック症に似た症状が出ることがある。これらの嫌悪的な反応は、望ましい行動の出現を妨害する可能性がある。

 


⑺第七に、学習者は罰を回避するために、罰を与える仕掛けを壊したり、罰を与える訓練者を攻撃したりする可能性がある。学習者にとっては、これは究極の解決策になっており、学習者からしたらそのことが合理的な行動だと思えるかもしれない。また、そのことによって訓練者も損害を被る。

 

 

 

以上のように、罰を使用する学習は非常に難しく、罰を使用する学習に熟達するよりも、罰を使用する学習自体を避ける方が賢明である。

 

 

 

【条件性強化刺激とは何か】

動物には生得的に強化刺激として機能する刺激がある。空腹の動物に対しては食物、喉が乾いている動物に対しては水、性的活動期における異性などがそれである。これらは一括して一時性強化刺激と呼ばれる。そして、一時性強化刺激と対提示された刺激、一時性強化刺激の到来(これからやってくること)を示す刺激、一時性強化刺激と交換可能な刺激も強化刺激としての機能を発揮する。これを二次性強化刺激あるいは、条件性強化刺激と呼ぶ。

 


【条件性強化刺激と汎用条件性強化刺激の違いは何か】

ここが重要なのだが、条件性強化刺激はあくまでもそれを支える一時性強化刺激が強化機能を持つその限りにおいてのみその強化機能を発揮する。例えば、お手をするとおやつがもらえる場合に、そのおやつと対提示されるクリック音は強化機能を持つが、それは飽食した直後には強化機能を持たない。しかし、例えばお金や商品券のように、その時の動因の状態とは無関係に常時強化機能を発揮し、それを収集すること自体が目的となるような強化刺激もある。これが汎用性強化刺激である。

 

 

 

【オペラント条件付けにおける刺激般化】

例えば、笛を吹いたら「おすわり」をすることを、おやつを使ってイヌにオペラント条件付けするとしよう。この場合、笛の音は「①弁別刺激」であり、おすわりをすることが「②オペラント反応」であり、それに後続しておすわりをしたことの結果として理解されるべきものとして提示されたおやつが「③強化刺激」である。この時、いつもとは違う音色の笛を吹いてみよう。そうすると、犬は少し戸惑うけれどもやはりおすわりする。このように、学習時の弁別刺激に類似した刺激にたいしては、学習したオペラント反応が少し強度は弱まるにせよ出現するのである。これを刺激般化という。このような曖昧化には適応的意義があることは既に述べた。そもそも同じ笛であってさえ、その音色は毎回異なるのであって、もし仮に「①弁別刺激」が飼い主の声であれば、その一回ごとの変化はさらに大きいわけである。そして、おすわりは普通、飼い主の声を弁別刺激として訓練される。学習があまりにも特定の刺激に厳密に限定されてしまうと応用が効かなくなるのである。

 

 

 

【オペラント条件付けにおける分化強化とオペラント弁別】

通常は刺激般化の及ぶ範囲内のよく似た刺激であっても、2つの類似した刺激のもとでオペラント反応の強化の仕方を変えると、反応の生じ方を変えることができる。この手続きを分化強化とよび、分化強化によって反応の仕方に違いができた状態をオペラント弁別と呼ぶ。例えば、笛Aの音を聞くと、おすわりをすることを強化し、笛Bの音を聞くと伏せをすることを強化すると、この分化強化によってオペラント弁別を成立させていることになる。

 

 

 

【オペラント条件付けの最大の弱点とそれを克服する4つの手段】

オペラント条件付けの最大の弱点は、オペラント反応というのはあくまでも動物が自発するものなので、古典的条件付けのように当該の反応を動物の意志とは無関係に確実に生起させる手段がないということである。もし犬が自発的におすわりをしてくれなければ、そのおすわりをオペラント強化することはできないのである。だから、でたらめに放置しておいてもなかなか出現しないような反応を作り上げてそれをすかさずオペラント強化するためには様々な方法が考案されている。以下の4通りがその代表である。

 


①誘発法

②成型法

③模範提示法

④逐次接近法

 


以上の4通りのうち、

 

 

 

 


【①誘発法】

→①誘発法とは、例えば、犬に「おすわり」と言いながら、おやつを持った手をイヌの目の前で上に向けて動かすと、イヌの顔はそれを追って上を向き、それに伴っていわゆる「おすわり」の姿勢に移行する。そこですかさずオペラント強化をすると、おすわりをオペラント条件付けできる。この時、強化の方法はおやつ以外のなんでも良くて、「褒める」や「クリッカーを鳴らす」でもよい。これによって、おやつがない時でも犬は手の動きと「おすわり」という弁別刺激によっておすわりをするようになり、これでおすわり学習は成立する。

 


【②成型法】

→②成型法とは、学習者の手や足をとって必要な介助を行なって、それを達成したら強化する方法である。たとえば、お手を教える時には最初は「オテ」と言いながらイヌの前足をとって持ち上げ、それを強化する。徐々に介助を減らしていくとついには合図に対して自発的に手を持ち上げるようになるのだ。ただしこの方法は、訓練者と学習者の間に信頼関係が必要となる。

 

 

 

【③模範提示法】

→③模範提示法は、学習者の前で形成した行為を訓練者が演じて見せることである。ヒトのように模倣が安定して生じる学習者であればこの方法は非常に効果的である。しかし、一般にヒト以外では模倣というのはそれほど容易には生じないので、適用できる学習者の範囲は限られる。

 

 

 

【④逐次接近法】

→④逐次接近法とは、学習者の行為のレパートリーの中から、目標となる行動に少しでも近いもので、かつ比較的生起頻度が高いものを選び出して、それを強化することから始めて、徐々に目標行動に近づけていくことである。ただし、これはそんなに単純な学習では全然ない。ポイントは、基準を上げる時にすかさず一個前の基準の行為を「消去」することである。

 


例えば、「犬に新聞受けから新聞をとってこさせる場合」を考えよう。

まず、犬が新聞受けの方を一瞬見たら、すかさず褒めるのである。

これを何度か繰り返せば犬は何度も新聞受けを見るようになる。

そうしたら今度は基準を上げて、新聞受けまで近づくと褒めるようにするのである。

次に新聞を口に加えたら褒め、それを持って戻ってきたら褒めるように基準を変えていく。

これが逐次接近法である。

 


しかし、その基準を上げる際には、必ずその前までの基準の行動を「消去」することが大事である。

我々人間も、テレビのリモコンを押しても画面に何もうつらなければ、リモコンを振るなどの「探索行動」をする。それと同じように、あるオペラント反応をするという基準をクリアしているのに、それまでもらえていた強化刺激がもらえなければ、そのオペラント反応は通常オペラントレベルにまでゆっくりと消去されていくのであるが、その際に、学習者は様々な探索的行動をするのである。つまり「消去」は行動の変異性を増すので、それらの変異の中に次の基準を満たすか、あるいはそれに近い行為が出現する可能性は高くなるのだ。これがポイントである。

 


【なぜおやつではなくてクリッカーなのか】

→また、犬のしつけにおいては、「強化刺激におやつを使う」のはあまり賢明ではない。なぜならば、おやつだと、①おやつがなくなるかもしれないし、②満腹になるかもしれないし、③強化したい行動の直後に即座に与えることができずに思わぬ行動が強化されてしまうかもしれないからである。だから、まずは確実な「条件性強化刺激」を提示して、それが貯まったら、後からゆっくりおやつをなどを与える方が良いのである。より確実な条件性強化刺激としては「クリッカー」がある。クリッカーは、クリック音で即座に、犬のオペラント反応を肯定することができる。

 

 

 

【オペラント反応は毎回強化を与えられなくても維持できる】

オペラント反応は、一回自発されると一回強化を与えなければいけないようなものでは必ずしもない。そのことを利用して、「強化スケジュール」を考えることができる。

 


縦軸に反応の累積数、横軸に時間経過を書いたロール紙である「累積記録機」を使えば、反応が全くない時には描かれる線は紙と平行になり、反応が高頻度で生じている時には累積記録が切り立ったものになるような、線が描ける。これにより反応の加速や減速が一目で分かるのである。

 

 

 

①反応を毎回強化するスケジュールが「連続強化」(Continuous  Reinforcement )である。

②反応を時折強化するスケジュールが「間歇強化」(Intermittent Reinforcement)である。

「間歇強化」の別名が「部分強化」(Partial Reinforcement)である。

 


オペラント反応を消去しようと思った時に消去にかかる時間や反応回数のことを「消去抵抗」と呼ぶ。

 


では、実際問題、オペラント反応を消去しようと思った時に、「①連続強化された場合のオペラント反応」と、「②間歇強化された場合のオペラント反応」とで、消去抵抗はどちらが大きいか。正解は、「②間歇強化された場合のオペラント反応」である。直観的には、①連続強化された場合のオペラント反応だと答えたくなるが、間歇強化された反応の方が遥かに消しにくいのである。間歇強化の方法は無限にあるが、代表的なものは以下の4種類である。

 


1.Fixed-ratio

2.Variable-ratio 

3.Fixed-interval 

4.Variable-interval

 

 

 

【①固定比率のスケジュール】

固定比率(Fixed-ratio)スケジュールは、反応が定められた回数溜まると強化刺激がもらえるような間歇強化のスケジュールである。固定比率強化の特徴は2つある。ひとつめは、「強化後休止」である。強化後休止の長さは、要求されている回数が多ければ多いほど長くなる。ふたつめは、「休止と連続作業(Pause and Run)」である。強化後休止とは、強化の後に反応が生起しなくなる期間があることで、「休止と連続作業」とは、反応が一旦始まると、要求された回数まで反応がやすみなく一定の反応率で進むことである。日常場面では「歩合給」や「ポイントが一定ポイント溜まると商品と交換できるサービス」や、「自動販売機に10円だけを入れて同じジュースを何本も買う行動」などがこれにあたる。

 

 

 

【②変動比率のスケジュール】

変動比率(Variable-ratio)スケジュールは、強化されるために必要な毎回の要求回数は一定しておらず、毎回何回目に強化されるかは学習者には分からないのだが、反応が平均して定められた回数溜まった時に強化が与えられるような間歇強化のスケジュールである。このスケジュールだと固定比率での強化に見られるような反応休止がほとんど生じることがない。強化直後からほぼ一定の高い時間あたり反応率、つまり一定高率で反応が持続する。

 


→パチンコやスロットは、ある確率で「当たり」という名前のオペラント強化が行われるが、いつそれが出現するかは予測できない。このスケジュール下では、長期間強化がされなくても非常に長い間反応は維持され、消去抵抗は非常に高くなる。一旦消去されても、一度反応が強化されると反応はすぐに元に戻る。ギャンブルの恐ろしさの本質はこのスケジュールにある。

 


【わがままなのは子供のせいなのか問題】

→子供が何度も駄々をこねると、多くの親は根負けして何回かに一回おやつを買い与えるが、これは「駄々をこねる」というオペラント反応を変動比率で間歇強化していることになる。おやつを買ってもらえるために必要な駄々をこねる回数が一定していないので、強化後休止も起こらない。駄々をこねる反応が何回目で強化されるかはわからないのでこれは変動比率での強化である。わがままは子供のせいではなく、親がそれを訓練しているのである。「わがまま」の場面は、子供にとってみれば何度か駄々をこねると何回目かで時々報酬が手に入るという学習場面なのだ。

 


【③固定間隔のスケジュール】

固定間隔(Fixed-interval)スケジュールとは直前の強化から一定期間が経過した後の最初の反応に強化が与えられるような間歇強化のスケジュールである。このスケジュールでは、強化の後しばらくは反応が出現しないが、時間経過に伴って少しずつ反応の出現率が上がり、強化の直前が最も反応回数が多くなる。そのため累積記録は特徴的なホタテガイの殻の形になるため、スキャロップパターンを描くと言われている。10分間隔でくるバスが来てからしばらくは反応は止み、また8分めくらいからまた反応が加速しだすのである。

 


→日常的には一定間隔でくるバスを待っている時にバスのくる方向を見る反応や、風呂のお湯張りで様子を見に行く反応の回数や、オーブンでお菓子を焼いていて様子を見る反応の回数などがこれにあたる。

 

 

 

【④変動間隔のスケジュール】

変動間隔(Variable-interval)スケジュールは、不一定の時間が経過し、直前の強化から「平均して」ある一定の時間が経過した後の、最初の反応に強化が与えられるような間歇強化のスケジュールである。日常では「全然一定間隔でこないバスのくる方向を見る行動」や、「話し中であることが多いお客様相談室への電話をする行動」などがこのスケジュールに近い。このスケジュールでは、②変動比率での強化とは好対照をなして、たとえ反応率が高くても強化の数にはほとんど影響がないので、一定低率で反応が生起する。消去抵抗は変動比率強化と同じく非常に高い。

 


→「雨乞い」と「降雨」には因果的関係がない。雨乞いという「反応」はそれに対する強化の回数に直接関係がないから、雨乞いはそう頻繁には行われない。しかし、非常に長いタイムスパンで見てみれば、ある低頻度なペースで雨乞いをしていると、雨はでたらめなインターバルで、つまり間隔が非一定に、降る。そうすると、「雨乞い」が強化されるのである。つまり、この「雨乞い」は変動間隔スケジュールでの強化を受けることになるのだ。

 

 

 

【なぜ我々は縁起を担ぎ、おまじないをして、雨乞いをして占いをするのか】

「発話と実現との間にたとえ客観的な因果的確証がなかったとしても、実現するたびに人間は、(妥当なものかどうかは別として)原因を想起し、また、実現されないならば原因を等閑に付し、探ろうとしない。この非対称性にもとづいて、実現時には発話をその原因として特定、想起し、「やはり口にしたからこうなったのだ」という主観的確信を深めることになる。(占い一般にも同様の構造が観察される。)」(木田直人著「砲丸のように言葉を投げること」p54より引用)

 

 

 

→日頃我々は、縁起を担いだり、おまじないをしたりといった、様々な奇妙な行動をとる。多くの人々は、それらが非科学的な行為であることを認識しているにもかかわらず、やめようとしない。このことの理由の一部は、「オペラント条件づけ」と「強化スケジュールの効果」で説明することができる。スキナー (Skinner 1948)は、ハトを実験箱に入れ、ハトが何をしようが無関係に15秒に一度、食物を提示した。するとハトは、ひたすら待っていればよいだけであるにもかかわらず、ぐるぐる回る、床をつつくなどの、個体によって異なるさまざまな行動を繰り返し見せるようになったのである。スキナーはこれを、食物の提示前に生じていた反応が偶然強化された結果であると考え「迷信行動」と名づけた。いったんこうした無意味な行動が強化されると、その出現頻度は高まり、その結果さらにその行動が強化される機会が多くなる。多くのルーティーンはこのような偶然の強化の結果生じたものかもしれない。しかもこうしたルーティーンは、強化との因果関係はないのだから、毎回強化されるわけではなく間歇強化を受けるのである。そうすると、こうした迷信行動はますます強固になっていく。「雨乞い」や「人柱(ヒトバシラ)」やさまざまな宗教的儀式も、もとをたどればこのような偶発的強化によって形成されたものかもしれない。

 

 

 

 


【学習の生物学的制約】

1960年代までは、「学習の一般性(学習を研究するには動物はなんでもよいという考え)」が主張されていたが、1960年代以降は、それに反する事実が次々と明らかになった。

 


→まず、学習は自由に起こせるものではなく、種が持っている生物学的特性から強い制約を受けるものだったのだ。

→学習は、刺激によって学習の速度が著しく変わるし、反応と刺激の組み合わせによって学習の効率は大きく変わる。

→学習は、年齢や個体性によって制約を受け、弁別刺激や反応の形態や強化刺激にかかわらず同じように学習が進むわけではなかったのだ。制約によっては、学習途上で学習行動が瓦解してしまうこともありうる。

 


【食物嫌悪学習】

選択的連合は、ガルシアら(Garcia, Ervin, & Koelling, 1966)は、1966年のラットの「食物嫌悪学習」の研究で、選択的連合を提唱した。甘みのついた水を飲ませてから22分後に食あたりを起こす薬物をラットに注射すると、翌日にはラットは甘味水が食あたりの原因であるかのように甘味水を拒否するようになったのである。

 


→これは手続きだけ見ると「古典的条件付け」とよく似ている。甘味水は「中性刺激」であり、「食あたり薬物」は「無条件刺激」であり、それらの「対提示」によって甘味水が「条件刺激」となった結果、ラットは「甘味水」を条件反射的に避けることを学習したと考えることができる。しかし、このように「古典的条件付け」で理解すると不可解なことが以下の3つある。

 


①[反復の不在]第一に、中性刺激と無条件刺激の対提示の反復こそが古典的条件付けによる学習の条件であったにもかかわらず、この場面に反復は不在である。

②[間隔の広さ]第二に、古典的条件付けでは中性刺激と無条件刺激の対提示は時間的に二つの刺激が近接していなければならないはずであるが、しかしこの実験では「中性刺激である甘味水」と、「無条件刺激である薬物」との間に22分もの時間が挿入されている。

③[なぜ甘味水なのか]第三に、「無条件刺激である薬物」と時間的に近接している刺激は注射針であったり、実験者の手袋であったり、実験者の白衣であったりしてよいのに、なぜ無条件刺激と連合したのはそれらから時間的に遠く離れた甘味水だったのか。

 


→これらをそれぞれ①学習の早さ、②遅延の長さ、③連合の選択性と呼ぶ。

 


【選択的連合】

選択的連合とは、連合学習の中に、1.結びつきやすい刺激と刺激のペアや、2.結びつきやすい刺激と反応のペアがあり、反対に1'結びつきにくい刺激と刺激のペアや、2'結びつきにくい刺激と反応のペアがあることである。ガルシアら(Garcia & Koelling, 1966)は、上記の③の問題の本質である「選択的連合」が生じていることを次のような実験を行なって示した。まずラットを4つの群に分けて、次のように操作をしわけた。

 


第一群のラット:甘味水を与える→X線で気分を悪くさせる

第二群のラット:甘味水を与える→電気ショック

第三群のラット:光と音が出る無味な水→X線で気分を悪くさせる

第四群のラット:光と音が出る無味な水→電気ショック

 


→この結果、いずれの群も特徴のある水を飲んで不快な思いをしているのに、水の摂取量が減ったのは、第一群と第四群だけだったのだ。逆にいうと、第二群と第三群のラットは甘味水の摂取量は減らなかったのである。

 


→これは何を意味するのか。味は気分の悪さにその原因として後から指定されやすい一方で、音や光は電気ショックにその原因として後から指定されやすかったのである。これを指して選択的連合と呼ぶ。気分が悪くなる反応は味という刺激と結びつきやすく、電気ショックという刺激は光や音と結びつきやすかったのである。

 


→このほか、飲食物を食べて食中毒を起こすとその飲食物を嫌悪するようになる学習が広範な種で見られ、しかもそれによって「もともと中性刺激だったものを条件刺激に変化させる(=条件づける)」ことができるのは食物の味だけでなく見た目や匂いなどもあることから、これは当初「味覚嫌悪学習」と呼ばれていたが、今では「食物嫌悪学習」と呼ばれているのである。食物嫌悪学習は上述の通り「古典的条件付け」によく似ているが、①学習の早さ、②遅延の長さ、③連合の選択性から鑑みて、特別なタイプの学習類型と考えてもよい。

 


→これは人でも生じる。ガンの化学療法や、放射線治療を受けて気分が悪くなると、思いもよらない食材が嫌悪されるようになることがある。他にも、理由がわからないがどうしても食べられない食材がある場合、生涯のどこかの時点でその食べ物に対する嫌悪が学習された可能性があるのだ。

 


→たとえその食べ物が原因でなくても、その時偶然引いていた風邪で、その食べ物を食べた後に気分が悪くなると、因果関係がそこにはなくても、その時に食べた食べ物が嫌悪されるようになるということがあり得る。この学習は、アルコール依存症やニコチン依存症の治療にも応用が可能だが、人権に配慮しなければ大変なことになる。飲めない人が無理して飲んで吐くことを繰り返すとお酒が嫌いになるのである。

 


【オペラント条件付けにおいても選択的連合は生じる】

→シェトルワース(shettleworth, 1975)は、1975年の研究で、ゴールデンハムスターの様々な行動を、餌や巣材を用いて強化したり電気ショックで罰したりしてみた。そうすると、行動と強化刺激の組み合わせによって、学習の容易さが大きく異なっていたのである。「後肢(こうし)立ち」は食物や巣材で容易に強化できるが、電気ショックではほとんど減少しなかった。逆に、「顔洗い」は、電気ショックで容易に減少するが、食物や巣材では増えなかった。同じオペラント行動でも、報酬で増えやすく罰で減りにくい行動と、罰で減りやすく報酬で増えにくい行動があるのだ。

 


ラクリンの実験】

→さらに、行動だけでなく、文脈も学習に影響する。ラクリンの1969年の実験によると、スキナーの有名な実験でおなじみのように、キーをつついて餌を手に入れることを容易に学習するはずのハトが、キーをつついて電気ショックを切ることを学習するのは非常に困難であることがわかったのである。一方で、壁から出たキーを翼で叩いて電気ショックを切ることは容易に学習した。ここでポイントなのは、キーをつつくこと自体は、ハトにとって容易な行動であるはずであり、なぜ特定の文脈ではそれが難しくなるのかということである。

 


【種特異的防御反応】

→この問いにボウルズ(Bolls, 1970)は1970年に一応、答えた。回避学習の容易さには、その種が示す生得的な防御反応(種特異的防御反応)が関係しているとボウルズは主張している。鳩は電気ショックを受けると翼をバタつかせて暴れまわるが、このハトの種特異的防御反応は、翼でキーを叩くことと拮抗していないので学習が容易だが、キーをつつくことはこの反応と拮抗しているので学習が容易ではないのだ。

 


→これも、ある刺激とある反応の間に連合しやすいものとそうでないものがあるという選択的連合の例である。

 


→人間にも種特異的防御反応は存在する。たとえば、「地震が起きたらまずは落ち着いて火を消して、落ち着いてガスの元栓を閉めなさい」とよく言われるが、それを学習するのは難しい。なぜなら、種特異的防御反応であるパニックを起こしている(泣き叫ぶとかその場から逃げるとか)時に、「ガスの元栓を閉める行動」は「拮抗」するからだ。

 


→このように、ある中性刺激とある反応との学習による選択的連合は、ヒトにも見られるのである。

(→また、ある刺激と別の刺激との選択的連合も、人にも見られるのである。→食物嫌悪学習)

 

 

 

 

 

 

【本能による漂流とブレランド夫妻】

本能による漂流とは、訓練をすればするほど、学習が崩れていくという非常に興味深い現象のことである。学習研究の元祖バラス・スキナーのもとで学んだブレランド夫妻は会社を作り、そこでオペラント条件付けを用いていろいろな動物にショーをさせるビジネスをやっていた。そんなある日、ブレランド夫妻は、時折「強化の原理」がうまく働かなくなり、動物が思い通りに訓練できなくなることに気づいたのである(Breland &Breland, 1961)。

 


→たとえば、金鉱掘りに見立てた木片を拾って箱に入れると報酬がもらえるという訓練をしていたブタである。最初は豚の食欲も旺盛なので訓練は順調に進んだ。しかし、ブタが満腹になったわけではないのに、豚は次第に木片を箱には持って行かなくなったのである。むしろそのかわりに、ブタは木片を落として転がしては鼻すりをするようになったのである。鼻すりをしても報酬は貰えないしむしろ貰えたはずの報酬がどんどん遅延するのだからこの場合ブタの鼻すりは負の罰を受けている。それでもブタは鼻すりをやめなかった。

 

 

 

→アライグマもそうであった。アライグマにコインを拾わせて貯金箱に入れれば報酬を与える仕方で訓練をしていたのだが、ある時からアライグマはコインを貯金箱に「ひたして」それをゴシゴシと擦るようになってしまったのである。

 


→豚もアライグマも、木片やコインは単なる中性刺激であり、これらはただの「物体」であった。しかし、訓練を進めると、これらの物体はもはや「条件性強化刺激(=強化刺激の到来を告げる、強化刺激に代替可能なもの)」になってしまったのである。そうすると、本来は食物に対して示されるべき生得的な行動が、その食物の信号(すなわち条件性強化刺激)に対して示されるようになっていくのである。こうして学習は瓦解する。つまり、学習が瓦解して、生得的な行動パターンへと漂流していくのである。皮肉にも、学習を重ねれば重ねるほど、この漂流の効果は強力になっていくのである。強化の原理が、学習行動を壊す元凶になっていたのである。

 

 

 

→それで、ブレランド夫妻はどうしたのか。「サミー、なぜ踊る?」という題のニワトリの芸はその典型なのであるが、ニワトリ(チャボ)はジュークボックスのスイッチが入るとその上で足元を交互に引っ掻いて踊り出す。これは鶏が落ち葉や地面の下の虫を探す動作なのであるが、当初夫妻が計画したのは、ニワトリが音楽をじっくり聴くようにすることであったのだが、その音楽と舞台が条件性強化刺激になって生得的な本能についには漂流してしまったため、むしろ「踊る芸」であるということにしたのである。

 


→ヒトにも種全体としての固有な特性とその個人としての特性に応じて、「学びやすいこと」と「学びにくいこと」とがある。

 

 

 

【プログラムされた学習】

「古典的条件付け」と「オペラント条件付け」は、様々な予期できない環境変化に適応できるようになるための「一般的な学習の原理」なのであるが、しかし、自然界の動物たちはそんなに「一般的な学習」をしているのかというと、あまりそうではない。動物たちの学習の多くは、限られた時間の中で当該の種としての典型的な生活を送るためにどうせ必ず学習しなければならないものを確実に学習するときように「プログラムされた学習」になっている。

 

 

 

【グールドと蜜蜂】

グールド(Gould, 1982)は、蜜蜂が眠っている間に、巣箱を何マイルも移動させてみた。そうすると蜜蜂は大混乱になるかというと、ならなかったのである。ところが、ミツバチが巣から飛び出していったそのあとで、帰ってくるまでの間に巣箱を移動すると、その移動距離が数フィートであっても、大混乱になったのである。

 


→蜜蜂は人間がショッピングモールまでの道筋を長期的に覚えているような仕方で経路や情景を長期的に覚えているのではないらしい。

 


→蜜蜂は、巣から飛び出した後、体軸を巣に向けたまま左右に繰り返しとぶ。そして次第に距離をとってから巣から離れていく。蜜蜂はこの飛行によって巣の周りに何があるのかを1日に一回記憶しているらしい。そのとき前日までの記憶は綺麗さっぱり消えて書き換えられているのだ。自然界では外部の情景は予告なく変わる。嵐が来れば一変するだろう。こうした状況では、毎日一回情景を書き換え学習するようにプログラムされているほうが賢明ではないだろうか。だから、グールドが数マイル移動させたのは単なる嵐や自然災害に相当するものでしかなかったのだ。こういう時、毎日一回の学習は非常に有効なのだ。

 


【べーレンズとジガバチ】

ジガバチは、10個程度の巣の中に発達段階の異なる幼虫を住まわせ、毎日その幼虫の大きさに合わせた獲物を取ってきて餌付けする。ジガバチは毎朝、全部の巣を訪ねて、幼虫の様子を調べてから狩りに出発し、戻ってきて餌付けをする。では、ジガバチは長期的に巣穴の場所と幼虫の大きさの関係を記憶しているのだろうか。ベーレンズ(Baerends, 1941)は、試しに、親が朝、大きさチェックに来る前にこっそりと幼虫の場所を全て入れ替えてみた。しかし、その場合でも、戻ってきたジガバチはしっかりと幼虫の大きさにあった獲物を給餌したのである。ところが、親が朝に幼虫の大きさを調べた後に、つまり親が狩りに出かけてから戻ってくるまでの間にベーレンズが幼虫の場所を入れ替えると、親は入れ替えられる前の幼虫の大きさに従って給餌してしまったのである。つまり、ジガバチは、朝一番のパトロールの時に学習した巣穴の場所と幼虫の大きさの関係に従って行動しており、給餌時の幼虫の大きさは全く考慮されていないのだ。ハチは、給餌時に餌の大きさを調節できるわけではなかったのである。もし給餌時に「あなたは大きい子だからこれね」という具合に調整するのであれば「巣穴とそこに住む幼虫の大きさの関係」などというややこしいことを覚えずに済むわけだが、ジガバチは毎朝「巣穴とそこに住む幼虫の大きさの関係」を覚えることをプログラムされており、それに従った行動をしていたのだ。

 


→ハチ類の場所学習というのは、概して極めて高度なのであるが、「いつ、なにを、どのようにして学習するか」ということが既に限定されたプログラムに基づいて行われているような学習なのである。これは必要な作業を確実にこなすうえで、非常に効率がいい。

 

 

 

 


ローレンツと刷り込み(インプリント)】

皇居のカルガモの親子たちは、雛が生まれると親がいちいち雛のところまで餌を運んでくるような習性をカルガモが持たないため、家族で水辺に引っ越していき、そしてそれを警察官が車を止めるなどして援助する。そしてその映像が人間には人気である。親ガモの後を雛たちが歩いてついていくのである。ノーベル賞を受賞した動物行動学者のローレンツ(Lorenz, 1960)は、ハイイロガンを使って、ガンやカモやニワトリなどの孵化後すぐに自立し移動できる早成性(離巣性)のある鳥類のヒナが、孵化直後に見た、(できれば動く)物体に非常に強い愛着を示すことを「刷り込み(インプリント)」と呼んで研究した。

 

 

 

 

 

 

【刷り込みの特徴】

この「刷り込み」という学習には、いろいろと面白い特徴がある。

 


①第一に、「擦り込み」は、ただ一度の経験で生じ、学習は極めて容易で、安定して生じる。

②第二に、学習が容易に成立する「敏感期」と呼ばれる時期がある。ニワトリの場合には、孵化後数週間から48時間程度である。敏感期の間、完全暗黒にするなど刺激を一切提示しなければ、敏感期は少しの期間延長されるが、これを過ぎると学習は生じにくくなる。

③第3に、いったん学習が成立すると、それを別の刺激に再学習させることは難しい。

 


【刷り込みやすいものの好み】

刷り込みの対象は基本的に何でもよいが、刷り込みのしやすさにはある程度の選別があるようである。たとえばニワトリの場合、敏感期に赤いボールといった無意味な物体に刷り込むと、後にニワトリの剥製に刷り込み直すことがある程度可能である。しかしこの手順を逆にすると、つまり、ニワトリの剥製に刷り込んだあとに赤いボールに刷り込み直すことはできない。

 


→また、敏感期の間を完全暗黒で育てると、ヒヨコは、刷り込みが起きなかったのに、ニワトリの形態に対してある程度の追従反応を示すようになる。これらは刷り込みが万一失敗したときのバックアップ機構なのかもしれない。

 


【親子刷り込みと性的刷り込み】

刷り込みには、実は「親子刷り込み」と「性的刷り込み」という2つのタイプがある。「親子刷り込み」は上記の通り「養育者の学習」であるが、「性的刷り込み」は「性成熟後に繁殖活動をおこなう対象の学習」である。種によってはこれが同時に進行することもあり、ローレンツに刷り込まれたハイイロガンは、成鳥になってもヒトに求愛したという。つまり、ハイイロガンでは、親として刷り込まれた人の類が、性的対象としても刷り込まれるのだ。「性的刷り込み」は、一般には敏感期の開始が遅く、通常数ヶ月齢から始まり数週間続く(Gould, 1982)。 

 

 

 

→ガン・カモ・ニワトリなどは、孵化後すぐに自立し移動するので早成性(離巣性)があった。その反対の鳥類は晩成性(就巣性)と呼ばれ、性的刷り込みのほうは、晩成性(就巣性)を持つ鳥類でも生じる。

 


【さえずり学習】

島類のさえずりは、テリトリーの防衛と求愛のための重要な技能である。さえずりの獲得のメカニズムはそもそも種によってさまざまなメカニズムでおこなわれるようであるが、種によっては、厳格にプログラムされた学習がそれを決定していることもある。

 


【小西とミヤマシトド】

鳴禽類の1種ミヤマシトドで見られるさえずりの学習メカニズムが有名である。

 


→この鳥は、通常の場合、両親に養育され、幼鳥の時に父親のさえずりを繰り返し聞かされる。成長して最初の繁殖期が近づくと、ひなはさえずりの練習を始める。そして徐々に上達し、最終的に、父親のさえずりに似た音声でさえずるようになる。

 


→小西正一(Konishi,1965)は、この学習機構を明らかにするために、さまざまな実験操作をおこなった。まず、幼鳥時にミヤマシトドを隔離して育て、同種のさえずりを聞かせないようにすると、さえずりの練習をするんだけれどもまったく上達せず、自種の典型的なさえずりとは似ても似つかないものになってしまうのだ。

 


→さらに、幼鳥時に同種のさえずりを聞かせても、繁殖期が来る前に耳を壊して耳を聞こえなくし、自分の声が聞こえないようにすると、さえずりは練習するが完成はしない。つまり、この鳥のさえずりは、幼鳥時に聞かされたさえずりの記憶を繁殖期まで保持し、自分のさえずりを聞きながらその記憶に合わせるように調節していくことで初めて完成するのである。さらには、幼鳥時に聞かせるさえずりは、自種のものでなければならないらしく、近縁種のウタスズメのさえずりを聞かせても、全く効果はなかった。

 


→なぜ、ミヤマシトドがひなの時に聞いたウタスズメのさえずりの学習効果は、全然ないのだろうか。どうやら、聞かせるさえずりはなんでもよいわけではなく、ミヤマシトドはさえずりの原型を生まれつき持っていて、ヒナのときに聞くのが、その原型からあまりにも遠く離れたものであったら学習しないようになっているらしいのだ。

 


→つまりこのミヤマシトドの学習は①学ぶ対象(なにをまなぶか)、②学ぶ時期(いつまなぶか)、③学ぶ方法(どうやってまなぶか)、がすべて厳密にプログラムされているのである。

 

 

 

以上のような「学習の生物学的制約」や「プログラムされた学習」は、学習に枠をはめてしまっているから、学習の自由度を下げてしまうように思えるかもしれない。たとえば、学習にあらゆる自由度を与えて、何でもゼロから学習できるようにすれば確かにより柔軟に環境に適応できるように見える。しかし、実際には動物に与えられた時間や学習の機会は無限にあるわけではないので、生きていくために必要不可欠なことは、速やかに効率よく学ぶ必要がある。すべてをゼロから学ぶのでは、時間がいくらあっても足りない。何をいつどうやって学ぶかが決まっている方が素早く学習できるのである。つまり、「学習の生物学的制約」や「プログラムされた学習」は、動物たちが、必要なことを必要なときに確実に学習するために進化させてきた工夫なのである。だから、学習は生物学的適応形態の1つであり、種により、多様なものへと進化したと考えられる。逆に言えば、制約なき「一般原理による学習」は、この意味では、より予測の難しい環境変化に対応するための最終手段だと見ることもできよう。

 


【ヒトの学習だって生物学的制約から自由ではない】

学ぶに遅すぎることなしと言われるように、ヒトの学習は学ぶ時期には制限がゆるいと思われているし、フランス語を学ぶかドイツ語を学ぶかも選べるのだから何を学ぶかも選べるし、どうやって学ぶのかも選べる。だから、ヒトの学習は一般的には自由度が高い(生物学的制約がない)と考えられている。しかし、ヒトとして生きるための重要な技能には、やはり強い生物学的制約がかけられている。食物嫌悪学習もその1つである(食中毒になればその対象を素早く嫌いになり、対提示の反復は不要)し、言語の学習もそうである。

 


→ピアノは大人になってからの習得は難しいし、絶対音感も幼児期に訓練しなければ習得は難しい。

 


→言語は非常に複雑な体系であるが、しかし乳幼児は驚くほど容易にこれを学習する。実はこれにはヒト特有の非論理性が関係している。(正確には、非論理的な仕方で「決め打ち学習」するというヒト特有の学習仕方の制約が関係している。)

 

 

 

 


【乳児の音素の学習は無限にある音に境界線を引けるようになる学習ではない】

→6ヶ月未満の乳児に、rとlのような、音素の似た変化を聴かせると、それが母国語のものでなくても、音素に変化があったことに乳児は気付く。しかし、10ヶ月以降の乳児にrとlのような音素の似た変化を聴かせると、それが母国語のものでなければ(例えばその乳児の母語が日本語であれば)その変化に気がつかなくなる。母国語の音素の対にしか気付かないようになっているのだ。つまり、言語音の区別の学習とは、無限にある音の中に切り込み(境界線)を入れて音素として切り出せるようになっていくことではなくて、むしろ、既にあらかじめひかれた切れ込み(境界線)を消していく過程でもあるのだ。

→そもそも、人間の発声器官で出せる音声は無限ではない。発声器官の構造が決まっているからだ。もともと人間の発声器官で出せる音声の種類が無限ではないのであれば、幼児の側でもあらかじめ人間の発声器官で出すことが可能な音の場所にそれに対応した境界線を引いておくことは賢明な策なのである。だから、幼児はあらかじめ音に境界線を引いておく。しかし、そのような境界線があっても、自分の母国語では何の役にも立たないのであれば、それを学習によって消してしまうのだ。最初から区別をしないようにしたほうが情報が確実に伝わるからだ。日本人にはrとlの区別がつかないとよく言われるが、それは学習の過程でその区別を潰すことを学習したからかもしれない。

 

 

 

【黄色い球体のくだものはミカンだが、ミカンは黄色い球体のくだものなのか問題】

たとえば、母親が黄色くて丸い果物を持って「ミカン」と言うのを幼児が聞くと、幼児はその果物を見て「ミカン」と言えるようになるだけではなく、「ミカン取って」と言われると、その果物を取るようになる。こんなこと当たり前のように思われるが、実はこれは論理的ではない。というのも、論理的に厳密に考えるならば、「逆は必ずしも真ならず」だからである。ある物体が「ミカン」と呼ばれたからといって、その物体がミカンだとは限らない。お母さんがミカンを持って、「黄色」と言ったからといって、「黄色」はミカンではない。ミカンは黄色いが、黄色がミカンだとは限らない。黄色くて丸い果物が「ミカン」だからと言って、「ミカン」が黄色くて丸い果物である保証はないのだ。(たとえば、ツバメを指差して「鳥」と言われた場合に、「鳥」はツバメのことではない。)このような論理錯誤をしながら「決め打ち学習」をするのは、これまで調べられた中ではヒトだけである。これはヒトの特徴といえる。

 


【決めうち学習】

またそもそもその「ミカン」という言葉が、黄色くて丸い果物全体を指すという保証もない。もしかしたら、「ミカン」という言葉が指しているのは、黄色くて丸いくだものについているブツブツのことなのかもしれない。だが、ヒトの幼児は、疑いもなく、その果物全体が「ミカン」であり、かつ「ミカン」はその果物のことであると考えて、「ミカン」という単語を習得する。こうしたさまざまな奇妙な学習の非論理的制約が、ヒトの言語習得を支えているのである。だから、ヒトの学習も、生物学的制約やプログラムされた学習から完全に自由なのではない。

六義園記の冒頭

「道は、人によりて弘(ひろ)まる、異国(ことくに)の往にし教へ、すでに然(しか)なり。境は、名を持て伝ふ、大和歌の古き習わし、また同じ。」

 

「中国の古い教えに在るように、道はそれを正しく受け止め、その素晴らしさを他人に語り広める人間がいて、初めて広まる。同じように、我が国古来の道である、和歌のテーマ「境=名所・歌枕」も、その美しい場所の評判を語り伝え、歌い継ぐ人がいて、初めて後世まで伝えられるのである。」

 

これ、昔は

 

「みちは、ひとによりてひろまること、くにのおしえ、すでにしかなり」

 

とカナ表記されていたらしい。これだと中国の話ではなくなる。読点の位置で文意は変わる。

罰を与えてはいけない理由は7つある


【子どもや犬のしつけ等で罰を使用してはいけない理由は全部で7つある。】

 

→まず確認しておこう。オペラント条件付けとは、「弁別刺激(例えば青信号)」をきっかけにして生じるオペラント行動(=随意運動)である「オペラント反応(例えば「アクセルを踏む」)」の結果として提示される「強化刺激(例えば車の発進)」によって、当該の「オペラント反応」が「オペラント強化」されるような、学習過程のことである。

→例えば、笛を吹いたら「おすわり」をすることを、おやつを使ってイヌにオペラント条件付けするとしよう。この場合、笛の音は「①弁別刺激」であり、おすわりをすることが「②オペラント反応」であり、それに後続しておすわりをしたことの結果として理解されるべきものとして提示されたおやつが「③強化刺激」である。そして、この①と②と③が全て揃っていることを「3項目随伴性」と呼ぶ。

→ところで、そもそも「罰」は「罰を与える側にとって望ましくない行動」をすぐに減少させることが多い。これが「正の強化刺激」となって、この「罰を与える」という行動は「オペラント強化」される。つまり、罰を与える側の罰を与える随意運動は「オペラント強化」されやすい。そのため、人はついつい、「しつけ」において「正の罰(嫌悪刺激の提示)」や「負の罰(報酬の剥奪)」を使いがちになってしまうという構造がある。では、「罰」を使うことの何がそんなにいけないのか。以下の7つの問題があるからである。

⑴第一に、罰は、身体的、精神的に学習者を傷つけることにつながり、倫理的な問題を引き起こしやすい。また罰が倫理的な問題を引き起こしやすいことがよく知られているため、罰を与える時に弱い強度の罰からスタートされやすい。

⑵第二に、罰は、「望ましくない行動をさせないようにする」のには有効だが、「望ましい行動をするように導く」のには有効でない。というのも、罰は「何をしてはいけないか」を指示はするが、「何をすればよいか」は指示できない。よって、罰を与えられることによって学習者は積極的な行動が取りにくくなるかもしれない。

⑶第三に、罰は、繰り返すとその効果が弱くなっていくことが多く、同じ効果をあげ続けるには罰を強くしていかなければならない。しかもその際に、段階的に罰の強度を高めていくと、かなり強い強度の罰でさえも効かなくなる。倫理面への配慮から、人はついつい最初は弱い強度の罰でスタートしてしまいがちなのだが、それは罰に対する学習者の慣れを生んでしまう。そこからさらに、更なる倫理面への配慮から、罰の強度を一気に上げず、徐々に罰の強度を高めていくということもまた起きやすい。そうすると、学習者には罰への慣れがかなり高い強度まで生じえてしまう。弱い罰からはじめて徐々に強度を上げていくと、かなり強い罰でも効果を持たなくなる場合がある。これを防ぐには、最初から非常に強い強度の罰を与えればいいのであるが、そのような強度の設定は誰にとっても容易なことではない。

⑷第四に、罰が来なかった時、学習者にとっては、「望ましくない行動をしなかったから罰が回避できたのか」、それとも、「もう罰は来なくなったのか」がわからないということである。そのため、学習者は再び同じことをしてしまうことが多い。例えば、子どもが何か先生にとって望ましくないことをすると、罰として先生がその子どもにビンタをする教室があるとして、ある日子どもが遅刻をした時に、先生がその子どもにビンタをしないと、子どもからしたら「遅刻は先生にとって望ましくない行動ではなかった(もしくはなくなった)からビンタが回避できたのか」、それとも、「遅刻は先生にとって望ましくない行動ではあるがビンタはもう来なくなった」のかがわからない。だから、遅刻することが先生にとって今はどういう行動であるのかを知ろうとして同じ行動は再び繰り返される場合がある。

⑸第五に、罰が来る場面には、先生や親の存在など、はっきりした弁別刺激が伴っていることが多い。それゆえ、たとえ罰を与えることによって望ましくない行動がみるみるうちに減ったとしても、それは弁別刺激があるときだけに限られる場合が多い。弁別刺激がないところでは、望ましくない行動をするかもしれない。つまり、コソコソと隠れて悪事を働くようになるかもしれない。

⑹第六に、罰は、学習者に学習にとって好ましくない行動を引き起こしがちである。例えば、罰でしつけられた犬の場合には、ストレスから、「テイルチェイシング」のような、「自分の尻尾を追いかけてうなる行動」を取ることが多くなる。人間の子どもの場合も、「顔をピクピクと動かす」というチック症に似た症状が出ることがある。これらの嫌悪的な反応は、望ましい行動の出現を妨害する可能性がある。

⑺第七に、学習者は罰を回避するために、罰を与える仕掛けを壊したり、罰を与える訓練者を攻撃したりする可能性がある。学習者にとっては、これは究極の解決策になっており、学習者からしたらそのことが合理的な行動だと思えるかもしれない。また、そのことによって訓練者も損害を被る。


以上のように、罰を使用する学習は非常に難しく、罰を使用する学習に熟達するよりも、罰を使用する学習自体を避ける方が賢明である。

 

 

私の世界観

【私の世界観】

 

【現れとは何か】

 「現れ」とは、人と世界との相互作用のことであり、身体を備えた<私>が、この現れの中に観点を取ることで、そこに価値と意味とを見出す。<私>が現れの中に価値と意味とを見出すとは、即ち、時間や空間などをその代表とするような、もろもろの秩序を切り出すということである。まさにこのことでもって、現実性の概念が準備される。そして、この現れの現実性の概念こそが、存在の概念を形成し、存在の概念にその中身を充填する。すべての現れは、前景化しているものから後景に退いているものまで、多かれ少なかれ、すべて意識作用の対象となっており、だから意識作用の対象にあたるものとは何かと言えば、要するに、<私>への現在の現れの総体のことである。ところで、<私>が意識する作用それ自体も<私>に現れる様々な現れのうちのひとつとなりうるのである。この、「意識作用自体に意識作用が向かうこと」を「反省」という。そして、現れる意識作用のなかでも、もっとも現実的な意識作用が、固有身体へと向かう意識作用である。というのも、現れるすべての意識作用は「身体の状態がどのようであるか」という固有身体に向かう意識作用を常に同時にその一部に含みながら、作用するからである。例えば、目の前の茶碗。これに意識作用が向かう時、この茶碗は硬く冷たいと意識される。この時、意識の作用は茶碗に向かっている。しかし同時に、茶碗へ向かう意識作用にはもう既に、茶碗を触る固有身体への意識作用が含まれている。何かへ向かうあらゆる意識作用は、常に同時に固有身体へと向かう意識作用を引き連れてでなければ作用できないのだ。

 

(0)【現象主義】

 なるほど真に存在の名に値するものは意識の外側にあって経験されぬ物自体ではなく、時間的な現象以外にはないのだから、現象主義を取るべきである。しかし、我々の探求は、まずは知覚と行為から始めなければならない。透明な意識が出てくるのは幾重にも基本的秩序の捨象を経たその最後においてであって、哲学的探求の最初においてであってはならないのだ。我々は、我々が生きる日常的な経験から始めなければならない。その日常的な経験とは知覚レベルの経験のことである。知覚レベルに身体運動によって統合された頑強な秩序があるのは当然として、知覚と区別された言表以前の、前注意レベルの感覚にさえ、秩序がある。空間規定もそれを使った時間規定も秩序である。この前意識レベルにおいてさえ、感覚器官固有の運動によって既に切り出され終わった秩序があり、本当にあるもの(=実在)としての物どもを、さらに下支えして、既に確保しているのだ。人間が生物である限り、生物は秩序を切り出し、意味を見出し続ける。生物は操作可能で反復可能であるものとして、輪郭を切り出し、境界線を引き、明晰さを欲し、切り出すこと自体に快楽を見出すのである。そしてこのような、淡さを欠いた強固な秩序に支えられてあるものは、「現象」ではなくむしろ「物」と呼ばれるべきなのである。

 

(1)【透明な意識への直接与件としての現象】

 感覚レベルでの根本的な秩序、たとえば空間の秩序や時間の秩序の切り出しのさらにその手前に、概念としてのみ想定できる透明で非身体的な意識の次元を措定し、そこに与えられる直接与件として、①全てが一回きりの印象だけで満たされ、いかなる同一性の措定にも先立つのにもかかわらず常なる「変動」のただなかにあると言いうるような純粋感覚や、②純粋経験、あるいは③主客身分の現れ、④誰への現れでもない現れと意識主体との美的一体化(=直観)といったことを想定することはできるのだが、その次元に上記の全ての秩序を還元することはできない。それらは我々の通常の在り方や現に生きているということを捨象したあとで想定される実在性を欠いたものに過ぎないからである。

 

(2)【手つかずの自然】

 認識には余剰あるいは外部があるはずだが、これは少なくとも仮説として認められるに過ぎない。ただしこのような認識の外部にあるものを我々がそのまま感覚・知覚するということはありえず、またそれは無意味なのであって、無意味ならば、端的にこのような「物自体」なるものは、無いとさえ言いうる。しかし、そのような人間が絶滅した後も残るのでなければならないような何ものかを、「無ではない何か」と呼んで想像することはできるだろう。しかしそれはあくまでも二番手として、後から想像されたものに過ぎない。だからこれを「実在」と呼ぶのはおかしいのである。

 

(3)【概念の非実在

 概念は時間的な限定や空間的な限定をもたない抽象的なものである。よって、概念は実在しない。

 

(4)【概念の存立】

 概念は存立する。例えば「トンカチを持ってきて」と言われて、「どの会社でいつ作られたどのトンカチなのか」は聞かずに、私は「something to nail」(たとえば石でもいい)を持ってくることができる。その意味で概念は日常的であり、実効的であり、現実的である。時間的な変化のただ中にあっても一定の安定性を保って超時間的に存続していく、人間が切り出した諸秩序は、概念の別名でもある。


(5)【概念の由来】

 「概念が存立する」とは、主体が生得的に備えて生まれてくる諸概念の範型のような概念(能動ー受動、原因ー結果、実体ー属性、生物ー無生物、動くものー動かぬもの、直接ー間接、コントロール項ー被コントロール項など)のうち、主体が成長していく過程で主体の関心に応じてその中身(例えば、「乳を出す動くもの」としての「母」)が細かく分類されていき、新たに切り出され、新たに名づけられて、世界の整理の仕方が増えていくことである。そのとき言葉は大きな役割を果たす。


(6)【知覚】

 主体の関心に応じて切り出さていく諸概念を使って、既に整理されおわった経験を我々はしている。というのも、たとえば知覚には既にして空間規定があるし、注意が向く項にも既に生得的な傾向性がある。我々は概念を使って知覚する。したがって、価値的な整理がされ終わったものが経験として我々に提示されているのであり、そのことを指して我々はもっぱら「経験」と呼んでいる。だから、「現象をそのままで経験する」ためには、「経験」の意味をずっと広く拡張せねばならない。それが純粋経験である。純粋経験は時間的な現象全体の経験なのであり、通常の経験とは似ても似つかない。知覚の対象は、あくまでも実体としての物体である。

 

(7)【実体をはじめとする概念の範型としての身体】

実体は身体運動の対項である。実体を操作することによって間接的に操作できるものが属性である。さらにその諸実体の運動は、身体運動を範型にして因果的に整理される。さらに、心の概念は、身体を動かす際の「「力」とその「抵抗」との同時的現れ」としての「実効感」がまずあって、そのうちの「力」の方として、切り出される。

 

(8)【経験の構造の探究】

経験論を徹底することで経験論から脱するのがビラン哲学である。ビランは、経験を可能にする構造さえも、経験的な仕方で反省しようとする。経験の中から経験の構造を取り出すその仕方の名前が、「反省的抽象」である。経験を可能にする生得的な能力の発揮が、全ての経験には既に論理的に前提されているということを、思弁的にではなく経験の中で確認しようとするのがビランの形而上学である。それに対して松永は、ビランが反省的抽象によって経験から取り出した経験の構造を、さらに「エレメント」という時間的変化を許容する非必然的な条件へと溶かし直す。