aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

自作『アンチ・オイディプス』用語集

【アンチオイディプス用語集】

 


1.【構成】『アンチオイディプス』(1972)は四章構成。第1章は「欲望機械」。第2章は「精神分析と家族主義 すなわち神聖家族」。第3章は「未開人、野蛮人、文明人」。第4章は、「分裂分析への序章」。第3章では「エディプスコンプレックス」と文化人類学との結びつきを露わにすることなどが目論まれており、第4章は「精神分析」に対置される「分裂分析」を提示することが目論まれている。


2.【プロセス一元論】『アンチオイディプス』においては、「機械」という概念が重要な役割を果たしている。生物を含めた自然界から人間の心的領域、さらには社会の諸慣習・制度に至るまで、あらゆる対象や出来事が、相対的な自立性を保ちながら運動する機械の連鎖から生まれてくるという見方をドゥルーズガタリはしていて、人間の欲望や無意識、主体もそこに含まれる。機械による欲望の生産のプロセスの中で、それぞれの欲望がどこに属するかについての登録がなされ、欲望の産物を消費する主体が生まれてくる。複雑に連鎖しながら様々な現象を生み出す「機械」を、静的な「構造」に対置し、構造主義化されたフロイト主義を解体していく。ドゥルーズガタリは、人間の身体を統合された全体としてではなく、様々な「機械」の組み合わせと見なす。もろもろの「機械」は、その活動のための素地となる「器官なき身体」(誕生した瞬間の胚のように、未分化で機械の活発な動きも見られない原身体)との間で様々な関係を結び、身体外の自然物や、おもちゃ、他人の身体などを構成する「機械」とも相互作用する。接続と切断を繰り返し、多方向的なエネルギーの流れを作り出す「機械」の組み合わせによって、私たちの生命プロセスが成り立っている。そして、ドゥルーズガタリが提示するのは、機械による生産のプロセス一元論なのである。


3.【現実と表象】現実は被分析者によって生産される。それなのに、精神分析家はそうやって生産された現実を、「悲劇」「神話」「公準(postulat)」などの何らかのパターンに還元し、回収する。欲望的生産によって現実は生産されているにもかかわらず、それらは精神分析家によってオイディプス的現象の代理表象とみなされてしまう。「欲望的生産」が、「表象」に道を譲ってしまう。これをこそドゥルーズガタリは批判しているのである。精神分析は、被分析者の身体で生産されている現実を、現実ではなく、ソフォクレスの劇場における表象、演劇だととらえるのだ。


4.【欲望は定型的なものではない】ドゥルーズガタリは欲望を定型的なものとみなす精神分析の考え方を徹底的に批判するのである。アンチオイディプスの最終ターゲットは「エディプス神話の解体」である。


5.【蓮見重彦の喝破】蓮見重彦が『表層批評宣言』(1979)において喝破したとおり、精神分析というのは、被分析者との対話=面接(セアンス)の中で、精神分析家はそこにあえて「問題」を見い出だし、特にエディプス的な問題を自ら作り出し、そのエディプス図式に当てはめて、それを今度は解決しようとするのだ。それは実際に治療(正常とされている規範に従わせること)において効果があるのかもしれないが、そこで行われているのは、劇場の舞台で、精神分析家と被分析者がエディプス神話の役回りをそれぞれ演じることであり、その演劇の完遂をもって、ソフォクレスの悲劇を何度も再上演しているということなのだ。主体の再構造化(という治療)はエディプス神話の再上演なのである。ドゥルーズガタリに言わせれば、精神分析のセアンス(面接)の過程で被分析者から抵抗が生じるのは、そこに無意識の闇に抑圧されている去勢の事実があるからではないし、また、既に確立された自我が抵抗しているのでもない。そうではなくて、分裂していく「漏れ水」としての欲望が、エディプス化されることをためらっているのである。君の欲望はエディプス的欲望だと教え込まれることによって、そこに実際に意識はいく。実際そういうエディプス的欲望を抱いていた気になるし、インセストタブーの存在を根拠に、近親相姦の願望があるということを認めたくもなる。しかし、欲望は実はそれ自体としては革命的なのであり、人間の欲望はもっと多様なのである。真に欲望することが革命的なのである。

 


6.【ある欲望を禁じる法が実在することは、禁じられているその欲望が実在することの証明にはならないのではないか】エディプス的主体が精神分析的な表象を介して事後的に構成されると、人間は潜在的には近親相姦の欲望を持っていて、根源的な抑圧が働いているのだということが既成事実化する。


7.【精神分析は人称化してしまう】ドゥルーズによると、精神分析は欲望的生産を人称化してしまう。ドゥルーズガタリにとって欲望的生産は一人の人間の身体あるいは精神の中に限定されることなく、自然や社会の中に広がっているので、欲望を誰々の欲望だと特定することはできないし、欲望的生産を私と家族の誰かとの関係に還元できるようなものでもないのだ。


8.【欲望機械とは何か】欲望機械とは、主体としての人間が意識的にコントロールできない欲望の流れ、しかも定型化された運動にならず、絶えず、逸脱する傾向のある欲望の流れに焦点を当てた言葉。テレビをみている人を観察していると、貧乏ゆすりをしていたり、耳がピクピク動いていたり、背中を掻いたり、本人の意識していない統御を離れた運動を見ることができる。その運動を駆動している欲望を生産しているのが欲望機械である。


9.【ドゥルーズガタリは、フランクフルト学派ではない。】精神分析マルクス主義を融合した視点からの資本主義批判はフランクフルト学派。エーリッヒ・フロムやヴィルヘルム・ライヒもこの路線。ジジェクもこの路線。この路線を「精神分析的な資本主義批判」と呼ぶならば、それに対してドゥルーズは、精神分析の中核にある仮説「エディプス・コンプレックス」の批判が資本主義批判になると考えている。つまり精神分析と資本主義が不可分に結びついているとドゥルーズは考えている。そのうえで両者を批判するのがドゥルーズの立場。


10.【ラ・ボルド病院】ガタリラ・ボルド病院という患者と医師の関係を根本的に変えようとする先端的な病院に勤務していた。このラ・ボルド病院というのは、ラカンによって創設されたパリ・フロイト学派のメンバーであったジャン・ウリ(1924-2014)が開設した自由な雰囲気の精神病院であった。そしてこのジャン・ウリが発見したアーティストが、エマーブル・ジェイエである。ジャン・ウリは、愛すべきジェイエの作品に序文を書き、ジャン・デュビュッフェというアール・ブリュットの提唱者に紹介したのである。


11.【ドゥルーズの『経験論と主体性』という本】ドゥルーズの『経験論と主体性』という本は、ヒュームの因果論の受動性を、後期フッサールの「受動的総合論」に接続させる論考。


12.【ドゥルーズの『意味の論理学』】『意味の論理学』では『不思議の国のアリス』が論じられるが、そこには「笑いのないネコ」ではなく「ネコのない笑い」などの表現が出てくる。アントナン・アルトールイス・キャロルの作品の翻案を試みた人物として出てくる。アルトーはキャロル作品が深層の統合失調的な運動を隠蔽している、と言ってキャロルを批判するのだが、ドゥルーズはむしろこのアルトーのこの「深層」と「表層」の区別に疑問を呈するのである。ドゥルーズアルトーを評価するけれども、「表層」を規定する「深層」という発想を受け入れたくないのである。


13.【アルトーの残酷演劇】アルトーは身体を、様々な情動が明確な中心を持たずに生成変化し、交差し、葛藤する場所と捉えていた。アルトーは、統率を離れた身体のパーツの、バラバラな、痙攣するような動きを「残酷演劇」によって表現しようとしていた。


14.【エスではなくマシンへ】フロイトの「エス」は、ドゥルーズによれば、「それ」がいたるところで機能しているという性格を考えると、むしろ「それ」ではなく「マシン(機械)」と呼ぶべきだったという。エスではなくマシンなのだ。

 

15.【ドゥルーズのマシンとは何か】ドゥルーズの機械は①自動的に作動し、②自立的で、③全く同じ運動を反復するのではなく機能する過程で差異を生じさせるような運動体であり、普通のシステムのように、なにかの産出を自己目的化したり、産出するシステム自体を維持しようとしたりするような作動の仕方ばかりをするわけではない。④「道具」は「機械」と違って有用だが、機械は有用性とは関係ない。⑤機械はただ循環する。⑥機械は単独で作動したりはせず、ふたつの異なるものが接触(接続)すると、ふたつのものが同化することなく、そこには機械が生じる。欲望を生産する「欲望機械」は、ふたつのものの連接によって欲望を生産したり、ふたつのものの切断によって別の欲望に変えたりしており、接続する機械と切断する機械は常にペアになっている。⑦機械はメタファーなどではない。本当にあるのは「自然」でもないし、それから区別される「人為」でもなく、「機械のプロダクションのプロセス」なのである。⑧工場にある普通の機械たちはドゥルーズガタリのいう「機械」の具体的な一形態に過ぎない。⑨ある機械は流れを発生させ、他の機械は流れを切断する。機械は「欲望」や「独身者」などを産出する。乳房はミルクを産出する源泉機械であり、口は乳房という機械に接続される器官機械である。拒食症の口も器官機械である。身体の各器官はそれぞれ機械として独自の運動をしているし、他の器官と繋がりつつも相対的には独立しており、他の機械に接続される可能性を持っている。「機械」に対して、「道具」は合目的的だが、機械は異質なものの連接と離接によって生じるのであって、予測がつくようなものではない。機械は予測できない変な作動の連鎖として在る。⑩フロイトは口唇期→肛門期→男根期→潜伏期→性器期という発達順序に応じてリビドーの中心的所在地が移動すると論じたけれども、ドゥルーズの機械は連鎖の不安定さのせいで中心が常に移動しており、エネルギーの中心がどこかなど定まらない。ドゥルーズに言わせると、「父と母と子のオイディプス三角形」は人間の欲望を産出する「欲望機械」のとてつもない抑圧を実は前提している。「警笛に性的刺激を覚える人」や、「母の尻穴にいつまでも固執する人」が「性的異常者」だとするためには、「エディプス・コンプレックス」が自然と形成されることを精神分析は前提にしなければならなかったし、「父が僕の母を妻とした力に憧れて主体化しようとする僕」の主体化過程とは無関係な身体各部の機械としての運動が役に立たないものとして精神分析にはみなされることになる。


16.【ブルーノ・ベッテルハイム(1903-1990)】「機械はすべて連続した物質的な流れとかかわり、機械はこの流れを切り取るのである」とドゥルーズは言っている。物質的なものの流れが実際にあり、人間の身体の上でこの流れは切断され、新たな機械、新たな流れが生まれる。欲望の流れが向かっていく部分対象は肛門→腸→胃→口と現実的に切り替わっていく。心理学者と自称していたベッテルハイムは、ちゃんとした教育を受けた心理学者ではないことが判明したのだが、コネチカットConnecticutと叫ぶ少年を分析している。これは、コネクト(接続)とアイ(私)とカット(切断)を意味しており、この少年は身の回りの様々な機械に自分を接続したりすると訴えていた。この少年の名前はジョイである。


17.【リチャード・リンドナー】『機械と少年Boy with Machine』という新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)の画家リチャード・リンドナーの絵では、大きな太った少年が、自分の小さい欲望機械のひとつを巨大な技術的社会的機械に接木し、これを作動させている。リンドナーは劇作家ブレヒトの影響を受けている。


18.【ファルス】そもそもシニフィアンは「意味するもの」という意味で、ソシユール言語学で、言語は「意味するもの=聴覚的イメージ」と「意味されるもの」との結合によって成り立つという時の「意味するもの」の方で、「専制君主シニフィアンsignifiant despotique」というのは、各人が言語、ラカン的に言うと、「象徴界」を獲得する時に他の全ての「シニフィアン」がそれとの関係によって「シニフィアン」たらしめられる最も中核的かつ絶対的な力を持つ「シニフィアン」としての、「エデイプス(王)」をめぐるシニフィアンということ。より特定すると、父の力の象徴である「ファルス」という記号ということになる。つまり、ファルスとは象徴界における意味作用の起点である。様々なシニフィアンは、ファルスと関係づけられることによって機能する。ファルスはペニスではない。ファルスにはペニスに相当するような対応する実体はなく、ファルスは常に欠如である。ファルスはシニフィアンとしてのみ存在し、シニフィエはない。主体がどれだけ努力しても到達できない理想、価値(意味)の源泉となるのがファルスである。ラカンの「ファルス」は、男性に実際についているペニスではなく、記号である。ラカンは無意識の中に言語的構造を見出した。つまり無意識はラカンの発見によると、言語のような構造を持っているのである。つまりラカンは無意識を記号のシステムとして捉えたのである。ラカンによるフロイト解釈の鍵は、永遠の欠如としてのファルスという考え方である。後期ラカンはファルスを「主人のシニフィアン」と呼んでいる。


19.【シュレーバー症例】ダニエル・パウルシュレーバー(1842-1911)は、ザクセン王国の民事の総括判事だったのだが妄想型統合失調症にかかって入院させられ、自分への措置を不満に思って裁判を起こし自由になった人物で、『シュレーバー回顧録』(1903)と呼ばれる手記を刊行した。この世界は「光線」たちに支配されており、悪い光線が自分の中に入ったせいで苦しんでいるとシュレーバーは考えており、その悪い光線の元凶が最初の主治医であったパウル・フレクシッヒであったというのが主張で、その光線の影響で女体化したと彼は主張していた。シュレーバーは、自分の話を聞いたら、人は自分を狂人だと思うだろうと言っており、しかも、彼は自分の世界観をかなり論理的に自己分析していたので、フロイトラカンが分析した。ドゥルーズガタリはこの「光線」をフロイトのように単なる妄想とは見ずにシュレーバーの中で生じている「機械」の運動だととらえる。具体的にはシュレーバーの身体が「器官なき身体」へといったん初期化され、その器官なき身体という「表面」に「光線」という器官機械の運動が上書きされ、「登記」され、「登録」されて、新たな女性の身体へと新しく生成変化したというイメージで捉え直したのである。この「光線」という機械が「器官なき身体」という「表面」に「登録」されて機能しはじめることが「神の創造」なのであり、これらの光線=機械を表面に引き付けて各器官の働きを分節しながら配分し、登記する膜を「ヌーメン」という。ヌーメンは器官なき身体を覆っている膜で、これは神聖な英知体である。


20.【フロイトは催眠術をやめた】フロイトは最初シャルコーに倣って催眠術を分析に使っていたが、やがてイポリット・ベルネームの影響を受けて催眠術ではなく、「額に手を置いて思いつくことを語らせる」というスタイルにした。さらにそのあと、ソファに被分析者を座らせて、分析者が見えないようにして自由に語らせるという「自由連想法」に移行した。


21.【ゲオルグ・ビュヒナー】ドイツのロマン主義から自然主義への移行期を「ビーダーマイヤー期」と呼び、この時代は政治への無関心が特徴なのだが、この時期に下層階級解放を掲げていた革命家で作家のゲオルグ・ビュヒナーの小説『レンツ』にドゥルーズは言及している。しかも主人公のレンツを分裂症者として。実際、このレンツのモデルは分裂症だったとされている疾風怒濤時代の作家ヤーコブ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ(1751-1792)である。実在のレンツは、ゲーテの2歳年下で、ゲーテを追ってワイマールに行ったが追い返されたらしい。ロシアでフリーメーソンのサークルと付き合ったりもしていた。この小説のレンツは牧師のオーベルリーンの元を訪れて精神状態を回復するかに思えたのだが、牧師が留守にする間に森の中を散策していると、身体中の諸機械が自然の石や水や植物などの諸機械と交流して作動し、狂気に落ちていき、最後にはすべての社会的プレッシャーから解き放たれて、何も不安を感じなくなって終わる。ビュヒナーの二大作品は『レンツ』と『ヴォイツェック』で後者は下級軍人ヴォイツェックが頭の中の声に誘導されて愛人を殺害する話。サミュエル・ベケットの『モロイ』も自転車や警笛に接続する分裂症者としてドゥルーズに引用されている。サミュエル・ベケットの『マロウンは死ぬ』(1951)も引用される。


22.【メラニー・クライン】メラニー・クライン(1882-1960)はオーストリアで生まれイギリスで活動した精神分析家で、子供の精神分析を専門にしていたが、同じく子供の精神分析をしていたフロイトの娘アンナ・フロイト(1895-1982)と論争したことが知られている。クラインは「部分対象」という概念を作ってラカンに多大な影響を与えた。これは幼児がまずは母親をまとまった人格として捉えるよりも先に、「乳房」として捉えており、父親を「ペニス」として捉えているというもの。ミルクを適確なタイミングで与える乳房は「いい乳房」、そうでない乳房は「悪い乳房」と捉えているというもの。ドゥルーズは、部分対象になりうるものが母親の乳房などに限定せず、なおかつ部分対象から全体対象へと移行する過程が自然だという前提を取り払う。


23.【充実身体】ドゥルーズの使う「充実身体」という言葉には、身体や社会体などが、欲望の流れで充満しているという意味の他に、いろんなものが詰まっているせいで身動きが取れなくなっているという意味もある。


24.【器官なき身体】身体の各器官が、もろもろの自動機械装置を停止させて、それぞれの器官がそれぞれの役割を果たさなくなり、「直立状態で停止する」のが「器官なき充実身体」の状態である。各器官が役割ごとに分節化されておらず、それぞれの器官が有機的な繋がりを失って、組織分化される前の状態に戻り、潜在的な「胚の状態」が露わになり、組織化による苦しみや緊張やプレッシャーから解き放たれた状態、「死の欲動」が目指している状態、それが「器官なき身体」の状態である。「器官なき身体」に到達することは、死ぬこと以外の方法ではありえないのだが、ヴァーチュアルな次元で、欲望の究極の行き先としてそういう水準が潜在的にあるというのがドゥルーズの考えなのである。器官なき身体は死のことであり、消費不可能であり、非生産的である。器官なき身体は無味乾燥で現実性が希薄なので「砂漠」である。「遊牧的主体」は、この「器官なき身体」の「表面」を「旅」する。砂漠はアトミックであり、旅人も原子のように孤独である。なお、注意点としては、細胞分裂をし始める前の受精卵ですら、分裂への傾向性を帯びているのだから、機械的運動によるストレスが一切ない、分化する以前の状態としての「器官なき身体」というのは、通常の意味で実在するようなものではなく、潜在性として、ヴァーチュアルなポテンシャリティとしてあるのである。器官なき身体は身体の零度である。


25.【器官なき身体と死への情動】器官なき身体は死へ向けて欲望機械を動かす不動の動因なのだが、欲望機械が実際に動き出すと、むしろ欲望機械たちの不規則的な動きによって器官なき身体は平穏を乱されて不快に思う。「器官なき身体の欲望機械に対する反発」が「パラノイア機械」である。器官なき身体が欲望機械たちをひとつの場に繋留しようとするのである。要するに、「欲望機械」には「分裂志向」があり、「器官なき身体」には「死への志向」があり、「パラノイア機械」には「固執志向」があるのである。


26.【独身機械】「パラノイア機械」も「独身機械」も欲望機械の分裂志向を抑止するべく身体を法によって縛り付ける傾向があるという点で似ているのだが、「パラノイア機械」と「独身機械」の違いは、「独身機械」は自己性愛的な享楽を享受するところである。例えば、人間の身体が機械によって拡張されるというSF的なイメージが独身機械の典型であって、代表は、ミッシェル・カルージュの『独身機械』、デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』、カフカの『流刑地にて』、レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』、エドガー・アラン・ポーの『落とし穴の振り子』、アルフレッド・ジャリの『超男性』、オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』などである。これらの作品には、ロボットやアンドロイド、人間と機械の交わりなどの形象が出てくる。「独身機械」においては「欲望機械」(機械)と「器官なき身体」(人間)とが和解しているのである。独身機械はエネルギーを内側に向けており、強度的であり、その最たる例はニーチェであり、永劫回帰説に基づく生の肯定である。「ニーチェ的主体」は、自らの「器官なき身体」と外部からテクストを介して侵入してくる機械(あるいはシュレーバーの言葉で言う「光線」)との間の鬩ぎ合いのせいで、振り回されて、不安定化しているのだけれども、それは単に苦痛というだけではなく、自らの身体に、過去の名前たちと共に流れ込んでくる機械の運動を楽しみ、そのリビドーを「消費」しているのである。このようなニーチェ的主体が「独身機械」なのであり、外からやってくる欲望機械の運動を、自らの「器官なき身体」という「表面」の上で遊ばせて楽しむことができるという自己に対する性愛が「独身機械」になることによって可能になるのである。独身機械たちは、動き回らずとも、そのつど生成変化しながら、歴史上の様々な人物を器官なき身体として生きるのである(永劫回帰)。


27.【ハイデガーニーチェ評価】ハイデガーニーチェが「理性の主体」には否定的だったのに、「意志の主体」には肯定的だったということを問題視している。


28.【ヤスパース】神を前提とする実存主義を展開したヤスパースドゥルーズは評価している。


29.【モレールとモレキュレール】モレールとモレキュレールは違う。モレールなものはモル状であって、流動性が低い。モレキュレールなものは分子状であって、流動性が高い。革命家はモルキュレールであってモレールではない。


30.【ライヒライヒマルクス主義的な社会心理学者であり、大衆が実はファシズムを求めているのだということに気づいてそれを指摘した。しかし、理性的な対象と非理性的な幻想とを区別していたことをドゥルーズは批判している。


31.【プルースト】文学作品も欲望の流れの切断によって生み出される機械である。『失われた時を求めて』は文学機械である。ガタリの『機械状無意識』という作品は、『失われた時を求めて』を軸に展開されている。ドゥルーズガタリは、『失われた時を求めて』におけるナラトゥールすなわち語り手を、作品の中で起こる全てのことに通暁している超越論的視座から語る語り手ではなく、物語とともに自己自身が転変し、自己生成する語り手として評価している。つまり、『失われた時を求めて』の語り手は、「器官なき身体」なのだ。自分自身を限りなくゼロに近い状態にし、周囲でうごめく諸機械の微細な運動を感知し、自分の身体表面に貼り付けていくのである。この場合の身体とは小説の物語のことである。物語の表面に、イメージを貼り付けていくのが、『失われた時を求めて』の語り手なのである。プルーストの語り手は、胸を張って、刺激がやってくるのを待っているような所作をするのである。


32.【神聖家族】「神聖家族」とはもともとパパとママとボクの関係であるよりも前にそもそもイエスとマリアとヨセフの家族を指しており、ドゥルーズがこの言葉を使うときには、マルクスエンゲルスの著作『神聖家族』(1845)も意識されている。『神聖家族』という著作は、ブルーノ・バウアーというヘーゲル左派の人間主義キリスト教理解を批判した著作であり、マルクスヘーゲル左派からの離反を決定的にしたような著作である。


33.【現実界】現実は想像界象徴界の加工を経ている。現実は現実界ではまったくない。ラカン現実界は、フロイトエスに相当する非合理的な欲動、死への欲動が蠢く領域である。ラカンにとって現実界は人間の主体性にとって脅威となるような危ないものだった。実際、ラカンは人間が神経症になると象徴界は機能不全になるし、精神病になると、象徴界が完全に崩壊し現実界に直接晒されて生きることを強いられるとしている。たとえば、PTSDは、ラカンによると、現実界との直接の接触によって生じる。また、ラカンにとって、言語=象徴やイメージによってはアクセスできないような不可能の領域なのだ。しかし、ドゥルーズガタリにとって「現実的なもの」は、欲望機械の運動とともにどんどん変化していく不定形なもので、人にとって必ずしも脅威とはいえない。しかも、ドゥルーズの「欲望機械」は、ラカン派において、主観の一切含まれない客観的世界とされている現実界を生産する。

 


34.【ブロニスワフ・マリノフスキー(1884−1942)】マリノフスキーは、ポーランド生まれでイギリスで活躍した機能主義的な人類学者である。パプア・ニューギニアの東側にあるトロブリアンド諸島で「クラ」と呼ばれる交換についての分析をしたことで有名。彼は方法論として「参与観察」を提唱した先駆者とされている。彼は『未開社会における性と抑圧』という本の中で、フロイト精神分析を基本的には評価しつつも、父の役割を担うのはトロブリアンド諸島では母方の伯父なのであって、エディプス三角形は文化によって現れ方が異なっていると指摘している。


35.【死への欲動】フロイトは生物には興奮や緊張による不快を和らげようとする基本的な傾向があると考えている。たとえば、空腹は、緊張する。恐怖も緊張する。だから不快である。しかし、ご飯を食べるとリラックスするし、笑顔を見せるとリラックスできる。こうした緊張の緩和が、フロイトのいうところの快楽なのである。興奮の無い究極の状態は、子宮に回帰するどころか、生まれる前の無機物の状態である。そこに戻ろうとする欲動が死への欲動である。『快感原則の彼岸』(1920)において、フロイトは死への欲動という概念を展開する。ドゥルーズは、もしもフロイトがこの路線で進めていたならば、エディプス・コンプレックス論はそのまま消滅していたのではないかと示唆している。少なくとも、エディプス・コンプレックスが、精神分析の中核的な地位に置かれ、かなりの程度、普遍的だとされることはなかったかもしれないとドゥルーズは考えている。


36.【ゲオルグ・グロデック(1866-1934)】ドイツ人で医師で作家でもあったグロデックは、「エス」という言葉を最初に使い、フロイトよりも広範な意味でこの言葉を使っていたことから、ドゥルーズによって、「グロデックのほうが無意識に忠実であった」と評価されている。グロデックはフロイトとの手紙でグロテッグが使った「エス」という語を借用し、フロイトが自分の概念であるかのように使い始めたことに腹を立てていた。


37.【秘密委員会】アドラーフロイトから離反し、国際精神分析協会内部でフロイト派とユング派の対立が鮮明になっていたころ、1912年にできたのがフロイトの教えを守るべく側近たちが組織した思想統制的なグループである「秘密委員会」である。初期メンバーは5人で、カール・アブラハム(1877-1925)、フェレンツィ(1873-1933)、アーネスト・ジョーンズ(1878-1958)、オットー・ランク(1844-1939)、ハンス・ザクス(1881-1947)である。ジョーンズ以外は全員ユダヤ系である。


38.【フロイトユングフロイトは神話を無意識的なものにしようとした。ユングは無意識的なものを神話にしようとした。しかし、これらはどちらも、入り口では同じ前提に立っており、その前提とは、あらかじめある尺度を適用することで被分析者の妄想をなにかの表象として見ていることである。フロイトは性的欲動に還元し、ユングは神話の構造に還元するのである。


39.【主体】sujetというフランス語は語源であるラテン語のsubjectumまで遡ると「下に投げ出されているもの」という意味になり、「臣民」という意味になる。カントがこれを「魂の根底にあるもの」という意味で使い出したため、「主体」という意味が生じた。フランス語のassujettirという動詞は従属させるという意味で、昔の語法をまだ温存している。


40.【超越的と超越論的のちがい】超越的は、人間の経験の限界を超えていてそれゆえ認識不可能という意味で、超越論的は、主体による客体の認識を可能ならしめる条件という意味である。超越的な対象には形而上学以外にアクセスの可能性はないが、超越論的な対象には、そのつど思考作用の働くたびに内省すること、すなわち「批判」によるアクセスができないわけではない。


41.【ピエール・クロソウスキークロソウスキーは、小説『バフォメット』(1695)で、神を排他と制限の巨匠として描く一方で、反キリストとしてのバフォメットを、様々な述語の間を遍歴する、包含的離接 une disjonction inclusive」の化身として描いている、とドゥルーズはいう。具体的に言うと、この小説は14世紀初頭にフランスに駐在していたテンプル騎士団の中で、「バフォメット」と呼ばれる偶像に対する崇拝や同性愛が拡がったので、グランド・マスターであるジャック・ド・モレー(1243-1314)が、その事態に対処して騎士団をもう一度引きしめようとするけれども、「バフォメット」はいろんな姿で現れ、ものすごい美少年の小姓だったり、カルメル会の修道女テレーズ(1873-1897)だったり、大アリクイの姿をした、反キリストの異名を取ったシチリア王兼神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世(1194-1250)だったりする。(はっきり名前は出てこないが、フリードリヒという名前と台詞にニーチェが若干意識されているらしい。)モレーもその誘惑によって翻弄される。神は一人一人のアイデンティティに関する記憶を守ってくれるのに対し、バフォメットの中ではいろんな人物の記憶や霊がまじりあっているという設定。


42.【グレゴリー・ベイトソン(1904-1984)のダブル・バインドダブルバインドとは、文化人類学者のベイトソンが提唱した、特に家族内の関係において、メッセージとメタ・メッセージが矛盾しているような状態をいう。エディプス的主体は、ドゥルーズによるとそうしたダブルバインドの総体である。たとえば、「お父さんのように、お母さんに愛される人になるためには、お母さんを愛する欲望を克服して、お母さんへの愛のライバルであるところのお父さんのようになりなさい」というのは、ダブルバインドである。お母さんを愛する欲望を克服しないとお父さんのようになれないのに、お父さんはお母さんを愛しており、そんなお父さんになることが目指されているからだ。「成功したければ父を超えなければならないが、父を超えるのは禁止だ」というロマンロランに宛てたフロイトの手紙もダブル・バインド的である。


43.【ドゥルーズの地獄の機械はラカン対象aだ】ドゥルーズは、ラカンがエディプスのタガを緩めて、分裂症的な動きを解放したように見えて、実は、そのタガを締め直そうとしているように見えると考えている。解放したように見える側面として、「地獄の機械 machine infernale」としての対象aに言及している。そもそも対象aとは、「他者の」とか、「異なる」を意味するフランス語の形容詞autreの略で、人間が一生を通じて求め続けるのだけれども、決して到達できない「対象」のことである。座右の銘などがまさにそう。主体の「欲望」を喚起する源泉のようなもの。対象aは「部分対象」として現れるので、何とかなりそうだけど、結局、手に入れたと思ったら、本体は既にほかの所に移動しているというようなもの。水平線のようなもの。ラカン対象aの具体例として、乳房、養便、声、まなざしの4つを挙げている。精神分析を応用した文化論では、人が子供の時からフェティシズム的に拘るもの、例えば、人形やフィギュア、怪獣、アニメのキャラのようなものが対象aとして機能している、という議論がある。この対象aは、「想像界/象徴界/現実界」のいずれにも属さない微妙な場所に位置し、「構造」を撹乱するものであるとラカンは説明している。対象aは「大文字の他者」とも違う概念なので気をつけなければならない。ちなみに、「地獄の機械」という言葉は、元々、19世紀にコルシカ出身の陰謀家ジュセッペ・フィエスキ(1790-1836)が発明した、24挺の銃を同時発射する装置の名称。あと、コクトー(1889-1963)の戯曲に『地獄の機械 La machine infermale』(1934)というのがある。これは、ソフォクレスの『エディプス』をベースにしていて、実の親子だったと知らない時のエディブスとイオカステの恋愛、年上の女性に憧れる若い男と、若い男に刺激される中年の女の間の関係が描かれている。エディプス三角形は、実は、地獄を現出するぞということが暗示されているタイトルらしい。この対象aの撹乱的性格に対して、再びエディプス神話のタガを締め直すというラカンの側面はファルスの理論である。


44.【フーコーの『狂気の歴史』】フーコーの『狂気の歴史』において、狂人とみなされた人を家族のもとに再び送り返そうとした人物として、フィリップ・ピネル(1745-1826)とウィリアム・テューク(1732-1822)が紹介されている。テュークはクェーカー教徒の実業家で、ヨーク収容所と呼ばれる、患者が自由に散策できる開放的な構造の精神病院を創設した。


45.【主体形成の場としての家族という考え】精神病や神経症の原因が家族にある、家族が機能不全を起こしているからいけないのだ、という見方はこのころからあった。しかも治療のために擬似家族的な集団を作ることさえ既にあった。家族のプロセスが人間を生み出すという見方は精神医学の世界に非常に根強いのだ。ドゥルーズは、精神分析や精神医学は、近代の家族主義(核家族における人格形成を重視する権力や管理思想と関係しているイデオロギー)と結びつき、それを強化しているのではないかという問題意識を持っている。資本主義の解体を目指す立場のエンゲルスでさえ核家族における労働の再生産は否定しなかったのだ。エディプス三角形は虚構ではないのかと疑う人も、人間がどのように基本的アイデンティティを形成するのかと考えると、しばしば、父と母と子の三角形を想定してしまう。核家族は資本主義的な欲望の生産体制のユニットとして重要な位置を占めているのではないか。

 


46.【ルソーの自然人】ドゥルーズガタリ曰く、欲望は欠如を知らない。それゆえ、何かを欲望するのはその対象の欠如によってではない。ルソーの「自然人」的な無垢を回復しようとする思想家や革命家たちは、一見すると父の法の支配を打破しようとしているように見えるのだけれども、実は、近代人には何かが欠如しているという前提に立っており、自然人こそが「父」になっているのである。

 

47.【小箱選びのモチーフ】フロイトの「小箱選びのモチーフ」というのは、シェイクスピアヴェニスの商人の中のバッサーニオの小箱選びの分析である。フロイトは、シェイクスピアゲーテが好きだった。ゲーテの自伝『詩と真実』(1811-1833)の中のゲーテの幼少期を分析した論文「詩と真実の中の幼年期の想い出」(1917)という論文もある。

 

48.【素朴マルクス主義ドゥルーズガタリのちがい】全ての欲望は下部構造によって規定されると考える素朴マルクス主義に対して、ドゥルーズガタリは、欲望は単に社会体制によって生産されるだけでなく、社会体制そのものの編成に欲望が関わっていると考える。

 

49.【ドゥルーズが愛した文学者たち】トマス・ハーディ(1840-1928)はヴィクトリア朝の英国の代表的な小説家で、牧歌的・宿命論的な作品が多いことで知られる。旧制高校時代から日本の英語の教科書によく採用される人。『チャタレイ夫人の恋人』で知られるロレンスは精神分析を批判して本当の無意識の欲望の無規定性を指摘したことでドゥルーズ+ガタリが評価していた。マルコム・ローリー(1909−1957)は、英国生まれの詩人・小説家で、母親からのネグレクトなどが原因で、14歳からアルコール潰けになり、同性愛の友人の告白を拒絶して相手を自殺に追いやったことへのトラウマも加わって、すさんだ生活をするようになった作家。母親代わりになってほしいと願った妻と共にアメリカやカナダ、カリブ海諸国を放浪し、英国に戻ってきて亡くなった。アルコール中毒ぎみの英国の領事がメキシコの火山地帯の町で突然の死を迎える一日の流れを描いた『火山の下でUnder the Volcano』(1947)という小説が有名。ヘンリー・ミラーアメリカの小説家で、パリでのボヘミアンたちのコミュニティの中での経験をベースにした自伝的小説『北回帰線』(1934)と『南回帰線』(1939)で知られる。アレン・ギンズバーグ(1926−1997)と、ジャック・ケルアック(1922−1969)は、第一次大戦勃発から大恐慌くらいまでの間(1914−1929)に生まれて、五〇年代のアメリカで活動し、ヒッピーなど、カウンター・カルチャーに影響を与えたビートニク世代の代表的な文学者。ドゥルーズは、いつもマイナー文学の方へ行く。ブルトンよりもアルトーが好きだし、ゲーテよりもビュヒナーが好きだし、シラーよりもヘルダーリンが好きだった。その理由は、ドゥルーズが興味があったのは、規制のシニフィアンの秩序を突き破って、既成の統語法を逸脱できるかということであったからだ。ヘルダーリンの詩は、ドイツ語の統語法からしばしば逸脱しているし、彼は後半生は狂気に陥って塔の中で監禁されて過ごした。

 

50.【消費も生産である。】登録や消費はドゥルーズにとって生産の一部である。大地機械は、農耕や牧畜、個人の消費、生殖や排泄などもまとめて、エネルギーの流れとしてコード化しているのであって、要するに大地機械を構成する各器官に人々の欲望は従属しており、各人の生産も消費も登記されており、最初から自立した独自の欲望を持った個人がいるとはドゥルーズは考えていない。大地機械の器官を私有化する過程は、肛門期と結びついている。

 

51.【テクストは全て機械である。】ドゥルーズガタリからすると、学問のテクストを含めて、テクストは全て機械なので、著者の意図通りにコントロールできないのは前提である。

 

52.【アメリカ文化主義】文化主義というのは、アメリカにおける文化人類学、延いては社会科学一般の潮流で、1930年代から1950年代にかけて強い影響力を持っていたもの。それまでの文化人類学が、あらゆる社会は同じ方向に向かって進化しているという前提に立っていたのに対して、各文化はそれぞれのスタイルを持っているというフランツ・ボアズ(1858-1942)の影響のもと、文化ごとに人々の人格形成の在り方は異なるということを明らかにしようとした。精神分析理論の影響が強い。代表者は、『菊と刀』(1946)を書いたルース・ベネディクト(1887-1946)、サモアの少女たちの性文化を研究したマーガレット・ミード(1901-1978)、ウィーンでフロイトの教えを受けた後で戦争神経症の患者の治療にあたり、文化人類学の研究をしたアブラハム・カーディナー(1891-1981)などが代表。

 

53.【超コード化】超コード化とは、コードから逸脱していく欲望の流れを、その上位のレベルで、ピラミッドの上からコントロールするということ。つまり、従来の組織体のもとで機能していた出自や縁組のシステム、古い共同体の骨組み、小共同体の中での事物の自然な秩序を、形式的には王の名のもとにラディカルに解体すると宣言しながら、実質的には温存させ、民心を落ち着かせながら国家の管理機構が上から管理して全体をまとめること。吉本隆明(1924-2012)が指摘した、民衆の共同体的性格(私的領域)に関わる国津罪と、政治機構(公的領域)に関わる天津罪の棲み分けの問題によく似ている。

 

54.【無意識は工場だ】「欲望は工場あるいは機械としての無意識における自動的生産であると言われている。」(『フランス哲学思想辞典』p550 財津理によるジル・ドゥルーズの項)

 

55.【備給】「備給investissement=Besetzungというのは、リビドーを特定の対象に注入することを意味するフロイト用語です。ドゥルーズガタリは、もう少し広く、力とかエネルギーとか、それらの分布の強度のようなものを注入するという意味で使っているようです。」(仲正昌樹ドゥルーズガタリ『アンチオイディプス』入門講義』p106)

 

56.【ライヒ】「(ライヒは、)マルクーゼと同じく、ドイツ語圏からアメリカに移住して、60年代後半の新左翼運動に影響を与えたフロイト左派的な立場の論客です。」(仲正p151)

 

57.【資本主義機械】「専制君主機械が諸欲望が散逸しないように超コード化を行うのに対し、資本主義機械は脱コード化を進めます。大地機械の段階では、禁止されていた等価交換を全面的に解禁し、脱領土化を極限まで進めていくのが資本主義機械です。」(仲正p282)

 

58.【公理系とは】「資本主義が脱コード化を特徴としているにもかかわらず、システムとして存続することを可能にしている抽象的な法則」(仲正p287)

 

59.【文明化した現代社会における再領土化の例】①地方分権主義、②ナショナリズム、③少数民族や宗教的マイノリティが団結を強めていること、④ソ連におけるロシア・ナショナリズム、⑤独裁政権の樹立、⑥警察権力の強化。

 

60.【欲望は私が望まなくても発動している社会的プロセス】「ドゥルーズガタリにおける欲望とは、自分に欠けているものを望むことではなく、「わたし」が望まなくとも、発動している社会的プロセスであり、あらゆる種類の結果=効果を算出するプロセスのことである。」(芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』「欲望(欲望する機械)」p108)

 

61.【欲望と欲求】「「欲望」を考えることが重要なのは、「わたし」はつねによりよいものを望んでいるはずなのに、実際には自分を抑圧するものを選んでしまうという不条理は、個人の「欲求」を規定し産出する欲望のレヴェルを考えなければ説明しえないからだ。ドゥルーズガタリは、消費社会に加えて、貧困や暴力、ひどい政治体制に反発せずにそれに甘んじ、「自発的に」加担さえしてしまうといった現象を挙げているが、「欲望」の分析の目標はこうした「欲求」では説明しえない現象を生み出す機械機構を解明し、生を解き放つ可能性を模索することにある。(芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』「欲望(欲望する機械)」p109)

 

62.【欲望の生産と社会的生産】「欲望する機械は分子状において作動するが、社会機械はその分子状の欲望する機械をモル的・統計的に把握したものにすぎない。こよように欲望の生産と社会的生産とを本性上同一ではあるが体制において異なるものとして理解することによって、社会と個人とを対立させるような社会哲学とは異なる視点が開かれる。欲望の流れの組織化の違いに応じて、領土機械(=原始共同体社会)・専制君主機械(=古代専制国家)・資本主義機械(=現代国家)という社会機械の歴史的類型が提出される。」(鈴木泉「ドゥルーズ」(p.656中央公論新社『哲学の歴史』第12巻所収)

『ものはなぜ見えるのか』からの引用

【ヒュームに対するトマス・リードの勝利】

ヒューム(1711-1776)「われわれが見ているテーブルは、それから離れるにつれて小さくなるように思われる。しかし、本当のテーブルはわれわれとは独立に存在するのであって、いかなる変化も被らない。それゆえ、精神に現前していたのは単なる像にすぎなかった。」(デイヴィッド・ヒューム著『人間知性研究』斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局、原著1742年、翻訳書2004年、142頁)

→こうしたマルブランシュ、バークリ、ヒュームらの論法に対し、敢然と異を唱えたのがリードである。リードの反論は、彼らに対する致命的な反駁になっていると思われるので、参照しておきたい。リードはヒュームに反駁する(これはマルブランシュへの反駁でもある)。

リード(1710-1796)「実在するテーブルが、千とおりの違った距離に次々におかれ、そしてまた、どの距離においても千とおりの違った位置におかれたとする。幾何学と透視法の規則によって、一つ一つの距離や位置において、その見かけの大きさや見かけの形がどうでなければならないかを、論証的に決定することができる。そのテーブルを次々に貴方の好きなようにこれらのさまざまな距離と位置に、もしくはそのすべてのおき方でおいてみてごらんなさい。眼を開けてごらんなさい。貴方は当然、その実在するテーブルがその距離で、その位置でもたねばならない見かけの大きさ、見かけの形を具えたテーブルを、正確に見て取るはずだ。このことは、貴方が見ているのは実在のテーブルだという強い論拠ではなかろうか」(Thomas Reid, Essays on the Intellectual Powers of Man(1785), Cambridge, Mass., The MIT Press, 1969, p.227.)

(木田直人著『ものはなぜ見えるのか マルブランシュの自然的判断理論』90頁より引用)

 

 

【空間の大きさに関するあらゆる単位は肉体の運動を前提する】

「マルブランシュの議論を離れることを承知で、この一トワーズの固定性の起源を問うてみよう。

結論から述べると、一トワーズとは、肉体のあり方に象られたものである。トワーズという単位が、もともと両腕を伸ばしたときの身体尺に由来するから、というだけではない。空間の大きさを表す単位そのものが、触覚、広く肉体の運動を前提せずば、想定しえないからである。このことはいっけん分かりづらいので、先のリードの発想を援用し、運動しない視覚のみの生命体を想定してみる。

(註128:運動しない資格の生命体の思考実験は、リード(リード[原書1764年]『心の哲学』朝広謙次郎訳、知泉書店、2004年、120-131頁)のみならず、バークリ(バークリ[原書1709年]『視覚新論 付:視覚論弁明』下條信輔植村恒一郎、一ノ瀬正樹訳、勁草書房、1990年、122-127頁)、コンディヤック(コンディヤック[原書1746年]『人間認識起源論上巻』、古茂田宏訳、岩波文庫、1994年、241-242頁)によって考察を与えられている。)

この視覚生命体にとって、まず、物体までの距離、物体の大きさが知りうるものなのかを検討し、ついで、視覚生命体が単位を理解しうるかどうか、考察してみたい。

まず、この生命体が物体までの距離を知ることは可能であろうか。もちろん、距離を述べることはできない。彼にとって、物体の接近とは色の拡大として、物体の遠隔とは色の縮小として、経験されるに違いなく、遠さと近さの概念は一切もちえない。では、焦点をあわせるための眼の筋肉の緊張が、物体の距離の徴表として利用できないであろうか。これまた不可である。なぜなら、筋肉の緊張を利用して距離を言うためには、予め知られた距離にこの筋肉感覚が結びついていることが必要なところ、距離はいかようにしても彼には知られていないからである。したがって、彼に距離を言う術はない。

次に、視覚生命体は、(見えの大きさではなく)物体の「本当の」大小を知ることはできるだろうか。長さの違う二本のリボンを想定してみよう。この生命体に両リボンの「本当の」大きさを判別することは、間違いなくできない。なぜなら、マルブランシュが述べていたように、両リボンを「手にとって互いに並べあわせて」みることはできないからである。しかも、注目すべきことに、「本当の」大小のみならず、視覚的大小すら判別することも困難になる。もちろん著しく見えの大小が異なるリボンであれば、その識別は可能であろう。しかし、見えの大きさが近似している場合、あるいは、このリボンのおかれた方向がバラバラな場合、さらには互いに離されておかれた場合、このリボンの大小を判定することは困難になる。すると、確実に見えの大小を判定するためには、視覚についての「単位」を発生させねばならない。

では、問題中の問題である、単位を発生させることはできるだろうか。

まずは長さの単位を検討してみよう。結論から言えば、視覚生命体が長さの単位を発生させることは不可能である。なぜなら、長さとは距離ないし「本当の」大きさのことであって、これを知りえないことは上で述べたとおりだからである。たとえば、彼にとって一トワーズは意味をなさない。なぜなら、一トワーズは生命体との距離に応じて、しかも透視角度に応じてその大きさを変じるからである。それゆえ、メートル法など、長さの単位はおしなべて利用することができないはずである。

では、彼は大きさについて単位を一切用いることができないのであろうか。否、そのはずはない。さきに、彼が二本のリボンの視覚的な大小の比較ができたのは、いずれか一方が他方の大小の基準になりえたということである。そうであるならば、特定のリボンをもってこれを視覚上の単位としうるのではないか。もちろん基準たりうるためには条件がある。それは、そのリボンが視覚にとって不動でなければならない、ということである。視覚世界が転変を繰り返すのはいっこうにかまわないが、基準自体が転変していたのでは話にならない。

そこで、けっして変化しない固定されたリボンが見えているとして、この不動のリボンの視覚的大きさを、一リボンと定義してみよう。この場合、二リボンとは何を表すのか。固定された原器としての一リボンを、空間上二倍の長さになるまで延長させて、それが視覚生命体に映じた大きさのことを指すのか。そうではない。なぜなら、空間のリボン二本分の視覚的な見えは、視界の辺境に位置するにつれ縮尺されてしまうのであるから、二リボンをリボン原器二本分をもって定義することはできない。では改めて問わねばならない。二リボンとは何か。

もちろんこのようなことに違いない。リボン一本分の視覚的大きさの二倍の大きさである。では見えの大きさは何によって定まるのか。月と十円玉がぴったり重なるとき、両者の大きさは同じである。そして、月と十円玉のあいだに気球がぴったり重なるとするならば、三者は同じ視覚的大きさとなる。つまり、対象の端と眼を結ぶ線分がなす角度の大きさこそが見えの大きさを定めるということになる。

つまり、視覚の大きさとは視角の大きさのことに違いない。

よって二リボンとは、一本のリボン原器に基づく視角の二倍を意味することになるだろう。これによって、視覚の「単位」はいっけん基礎づけられそうに思われる。

では、視覚生命体は、長さという資格での単位を得られなかったものの、視角という資格での単位を獲得できたことになるのか。問題はそう単純ではない。というのは、この角度の計測はどのようになすのか。この角度自体、この生命体が見うるものではない。この角度を見ることができるのは、リボンの片端から片端へと線分を結んで視角をつくるという肉体の操作、および、この視角を脇にまわって計測する、という二重の肉体の運動を要求する。すると、この生命体にとって、角度を計測しうる前提は消滅し、それゆえ一リボンという単位も無意味に帰する。彼にとっては、漫然と大小の印象を語りうるにすぎず、したがって、単位の概念を発生させることはできない。ここに、単位概念は、それが長さであるにせよ、角度であるにせよ、肉体の運動を前提にすることが明らかとなるのである。

さて、上の事柄を整理してみよう。第一、固定性が単位の基であること。第二、固定性に加え、操作性が単位の発生を可能にさせるということ。視覚の幾何学が、視覚の生命体によって確立されえない理由は、第一があっても、第二の操作性を欠くためである。けっきょく、空間の大きさに関するあらゆる単位は肉体の運動を前提するということが結論づけられる。

以上、マルブランシュのテクストから大きく逸脱したが、一トワーズという「延長そのもの」が触覚的、運動的経験を前提せねば観念しえないものであることが明らかになった。したがって、彼が一トワーズ云々の議論をするとき、間違いなく触覚が教えた経験を無自覚にも挿入しているということが明白になるのである。ではなぜマルブランシュは触覚についての洞察を欠いたのか。

マルブランシュにとって、不変のものとは、感覚に由来するものではありえなかった。どのみち触覚が不変的であったにせよ、触覚が不変であるわけではない。つまり、マルブランシュは数学的必然性を真理の模範とするあまり、いっけんは真理に漸近するものでさえ、一切合財、誤謬の機会原因として斥けたのである。つまり、真理の資格で語りえるものは、神の内なる叡智的延長、そして、これを淵源とする幾何学的真理のみであって、いっけん、不変不動を提供するかに見える触覚、肉体の運動

(註129:以上のことから、視覚のみの生命体を想定することによって、単位の発生には肉体の運動を要することが示されたのであるが、なぜ触覚ないし肉体の運動が特権的に固定性を提供するのだろうか。端的にその理由を述べれば、肉体自体が固体としてあり、それゆえ固定的であるからである。肉体の固定性を基軸にしてこそ、単位は発現したのである、この固定性を前提とした上で、道具を用いず肉体そのものを基準にしうるという利便性、また、他者との間で大差がないという共通性(実際、肉体以外で、大きさの共約性もたらすものは驚くほど見つからない)に基づいて、人類は、肉体そのものを単位として用いてきた。いわゆる身体尺である。たとえば、さきに述べた「トワーズ」(toise)も両手を伸ばした長さのことで、英語では「ファゾム」(fathom)、日本では「尋」が対応する。

ところが、肉体は絶対的な固定性を提供しない。いうまでもなく、身体は人それぞれに差異があるのみならず、特定の同一人の身体も、成長により変ずるし、また、厳密には一日のうちにも微妙に変化をしている。そこで、身体尺では精密な計測の必要を満たすことはできなくなり、より不変的な基準への探究が始まる。たとえばメートル法である。1メートルは最初「地球の北極点から赤道までの経線の距離の1000万分の1」として定義されたが、もちろん、地球とて厳密には相対的不動性しか提供しない。地球とても物体であり、物体に依拠した単位は、けっして絶対的固定性に辿り着けないのである。そこで現在においては、光速度不変の原理に基づいて「光が、2億9979万2458分の1秒間に真空中を進む距離」として定義されるにいたった。現代人は、ようやくマルブランシュが求めていた「延長そのもの」「絶対的な大きさ」に出会ったのであろうか。そう考えるのは拙速である。なぜなら、光速度不変の原理とは、相対性理論を支える一つの要請として導入されたものだからである。これを深追いするのは、もはやマルブランシュのテクストを過度に逸脱することになるので控えておきたい。)

は、真理への眼差しを曇らせるものとして、さらに激しい排撃の対象になった。そしてこのとき、すなわち、彼が真理の身分として語られねばならないはずの幾何学と感覚との紐帯を叩ききったとき、同時に、ユークリッド幾何学も、実は触覚的経験に根をもつ幾何学であるということを自覚する途が途絶えたのである。

その結果彼はあくまでも延長そのものの不動地点を、触覚や運動ではなく、神の視点に求めざるをえなくなる。それゆえ、その不動地点は絶対的なものでなければならない。いきおい相対的な不動性を提供するものとしての触覚や運動は排除されてしまう。だが、この排除は完全に成功しない。私の見るところ、この相対的不動性は、あたかも亡霊のようにマルブランシュの思考に憑いて離れない。この相対的不動性の位置づけの不定性は、マルブランシュの理論を次の点で危機に陥れる。すなわち、(次節で述べることになるが)「自然的判断」の訂正機能について、訂「正」されたものは真なのか、偽なのか、という問題である。自然的判断によって訂正されたものは、少しも絶対的不動性をもつものではない。つまり、彼はモデルを触覚の相対的固定性に仰ぎつつ、これに自覚的でないがゆえに、この「相対的な固定性」の位置づけに頭を悩ませるのである。他方、バークリは大きさや距離の起源が触覚経験にあることを洞察した。これによって、マルブランシュが対決しなければならなかった「自然的判断」の困難を回避することができたのである。逆にマルブランシュは、相対的固定性の位置づけをめぐり、自然的判断理論の最大の困難に立ち向かうことになる。後述するが(一三九頁、一四七頁参照)、彼はその位置づけを神に求めることになる。

以上、われわれは「延長そのもの」が指す内容を明らかにしてきた。マルブランシュが念頭におく「延長そのもの」とは、実際のところ二つあった。第一は無限を含む「被造物としての形而上学的延長そのもの」である(これは叡智的延長ではない)。第二は「触覚的延長そのもの」なのであるが、マルブランシュはこれについて無自覚なまま、神の視点から見た固定的・不動的延長であると考える。そしてこの無自覚は、マルブランシュに、経験論の維持の困難という闇と自然主義の発見という光を与えることであろ。それではようやく、初版における自然的判断に眼を向けてみよう。さきに述べたように、まずは第一性質に関わる自然的判断を、ついで第二性質に関わるそれを、概観する。」

(木田直人著『ものはなぜ見えるのか』p96-p102、中公新書、2009年)

 

キリスト教の位格について:①存在=力(父)と②知恵=正義(子)と③愛=意志(聖霊)が三位一体


①:存在=力(父)

②:知恵=正義(子)

③:愛=意志(聖霊)


第1格(=神=御父):存在と力
第2格(=イエス=御子):ロゴスと理性
第3格(=精霊):意志と愛

 

↑力の発動によって存在を確認することになる。このことは抵抗の経験という形で示される。つまり抵抗を力と存在との間にかませれば力と存在の同時発生(双発)は理解される。つまり、抵抗するものが存在であり、抵抗されるものが力である、と。これは、力と存在とのあいだを単純に堂々巡りしているわけではなく、力の発動は確かな存在を確認することになり、確かな存在が力の発動を自覚させることになり、その確認と自覚はそれ以上遡及不可能な充実感として端的に悦びであって、それがまずあるという意味である。つまり、人間経験の根底には力と存在が双発する充実感がなによりもまずあると言っているのだ。力の発動以前に他の感覚があったにせよ、なかったにせよ、とにかく抵抗がない限り、世界も私も無だというわけだ。つまり、少なくとも対物関係においては、実在性は抵抗がもたらすということは間違いないといっているわけである。

私の教育についての考え

【⑴誰に⑵なにを⑶どうやって売りたいのか:佐藤良明によるトマス・ピンチョンの読者層分析より】

⑴【誰に売りたいのか:マスとスノビズムの中間層】
佐藤良明のブログ:http://sgtsugar.seesaa.net/article/179671813.html

【参考:トマス・ピンチョンの読者層】
①「大衆メディアに繰り返し流れるぬるま湯みたいなエンターテイメントが嫌いな人」
②「インテリぶって大衆文化を軽蔑するスノッブが嫌いな人」
→つまり⓪「本物の文学や前衛文学などの絶滅危惧種が好きな一般でない人」

引用元:佐藤良明のラジオ:https://www.tbsradio.jp/articles/43529/

①'「英語教師業界に繰り返し流れるぬるま湯みたいな英語の教え方が嫌いな人」
②'「インテリぶって大衆的英文を軽蔑するスノッブが嫌いな人」
→つまり⓪'「本物の英語や前衛文学などの絶滅危惧種が好きな一般でない人」


→田中は①'と②'、要するに⓪'を対象に英語の説明を売りたい(=ピンチョン型マーケティング)。

 


⑵【何を売りたいのか:知識と情報を行為との関係で分節する】

①そもそも知識とは何か:行動の可能性を増やすもの
→知識の具体例:火の産み出し方を学ぶと火を用いた新たな調理が可能になり料理のレパートリーが増える

②そもそも情報とは何か:行動の可能性を減らすもの
→情報の具体例:迷子の我が子がデパートの何階にいるのかという情報があれば探すべきフロアを絞れる。

→よって、まず情報を売ることで知識を効率的に集められるようにしてさらに最後にその知識の意味を教える。つまり、結局は「知識の意味を知る(=「知の知」)」のが最終目標。


【具体化すると分からなくなる計算】
①150-80=70←子どもには難しい。
そこで円をつけてやる。
②150円-80円=70円
しかし、次のような答えも出てくる。
③150円-80円=20円
④150円-80円=0円
これは、小学校低学年の子供たちがピアジェのいう発達段階のうちの「具体的操作期」にいるから。というのも、80円のおにぎりをスーパーで買う場合に、そこで150円出す人はいない。もし財布に150円もっていても、100円か80円を出すのが普通だ。よって③や④のような回答が出てくる。

→【発展的考察:問題提起】では、「1+1=11」と書いた子供がいるとする。ただし「11」のこの子の読み方は「に」であるとする。この子は、「足し算が分かっている」と言えるだろうか。この子は、たとえば「アバカス」や「正正正正正」のような「プロトナンバー(画線法とかunary numeral systemともいう)」を用いて数字を書くから、「無い」ときはなにも書くことが「無い」のだから、0とは書かない。よって「1−1= 」と書く。この子は、ゼロという「プロトナンバーの無表記についての表記」を持たず、つまり「ヒンドゥーヌメリカルノーテーション」をまだ知らない。しかし、「りんごを4個買ってきて」と言えば確かに4個買ってくることはできるから、話は通じているようだ。この子は足し算を「わかっている」と言えるのだろうか。それとも「足し算」が「できる」だけなのだろうか。あるいはそもそも、「足し算ができていないし分かっていない」のか。こういうときには、議論が錯綜しないように、「できる」と「わかる」の意味を定義すればいいのである。

仮に「できる」を「テストで足し算の問題が解けて点数が取れる」と定義したならばこの表記法の子どもはたし算ができていない。また、「分かる」を「具体物を離れた抽象的な操作についての規則に従って形式化された想像の達成」と定義したならば、分かってはいそうである。実際、この子は分かってはいるから、少しの練習をする時間を与えてやれば我々が使っている足し算がすぐにできるようになるだろう。西洋人だってもともとはこのような計算表記をしていたのであるから。

【そもそも足し算とは】
問題①「りんごが3個、みかんが4個あります。合わせていくつかな。」
→多くの人が3+4=7に違和感なし
問題②「りんごが3個、猫が4匹います。合わせていくつかな。」
→ここで、3+4=7に違和感があって正答できない状態が「できないし分からない」である。
→ここで、3+4=7に違和感があるが正答できる状態が「できるけど分からない(=抽象化ができていないのに練習だけ積んだので慣れてしまい、それゆえにできてしまっている。)」。
→ここで、3+4=7に違和感がなくなっているのに正答できない状態が「できないけど分かる(=つまり単なる練習不足)」。
→ここで、3+4=7に違和感がなくなって正答できる状態が「できるしわかる(=抽象化と練習の両輪)」。

→しかし、「りんごと猫が似てないとか言うなら、りんごとみかんだってそこそこ似てないだろ」、と考えてしまって、学習の過程では上記の問題②に対してだけではなく、上記の問題①に対してさえ違和感が生じてくるかもしれない。よって、「足し算が分かる」ためには、問題文に書いてあるのがりんごだろうとみかんだろうとネコだろうと、とにかくそれらを数字という抽象的なものとして捉えて具体性を捨象するということが不可欠なのである。これを踏まえて次の教育方針を考える段階に進もう。

 

【⑶どうやって売るのか(教育方針):成長の二経路と「できる優先型に対抗する教育」ヘ】

【できるとわかるのマトリクス】
①できないしわからない。
②できるけどわからない。
③できないけどわかる。
④できるしわかる。

【マトリクスの各項目について具体例を出してみる】

→①の具体例:新生児

→②の具体例:解の公式に代入すればどんな二次方程式も解けるのだが、なぜ解けるのかは分からない。あくまでも「解の公式」なるものを使ってテストで問題が解けるだけ。

→②の具体例:練習もしていないのに、とりあえず跳んでみたら跳び箱を飛べたのだが、なんで跳べるのか、どうすれば上手く跳べるのかはわかっていないので、段が高くなっていくと次第に跳べなくなる。自分の跳び箱動作を映像に撮って客観的に分析し、可能的な飛び方を想像したりはしていない。

→③の具体例:右手で釘打ち動作をして左手でノコギリを引く動作をして、それを教師が手を叩くごとに左右で入れ替えていく(→何をすればいいのか頭では想像できるし、したがって何をすればいいのか分かっているので、練習時間を30分も取れば誰だってできるようになっていく。ただし30分間待つ余裕が教師になかったり、教師が「できましたか?」と執拗に聞くと、分かっているのにできないままになる)。

【成長のふたつの経路】
❶:①→②→Why can I do thisとHow can I do thisの分析(=現実を離れた抽象的理解)→④へと至る経路
❷:①→③→時間をかけた問題演習→④へと至る経路

→日本の教育業界が好む成長経路:❶(ただし基本みんな忙しいから②で止まったまま卒業させられる。だって②までいければできることはできるんだからそれで満足なのであって、なぜできるかとかを考えている時間的余裕=スコレーはないんだもの。)

→ここで新たにやってみたい異常な成長経路:❷(ただし③段階の子どもたちの大量発生に表面上は見えてしまう)

→日本的傾向:❶型の成長経路を取る子供に対しては②で満足して放置しがち。

→日本的傾向':❷型の成長経路を取る子供に対しては③から④への熟成期間を待てず、時間をかけられずに急かしてしまう。


【参考:なぜ聞いてはいけないのか問題(大村はまの提言)】
「できましたか?」と聞くのは必要でないし、結果的に急かしてしまうことになるので有害だからである。「できましたか?」と授業中に生徒たちに問いかけてしまうことで、他の子に遅れていてまだできていない子(=1人だけ下を向いていたり鉛筆を動かしている子)に対して「この問いかけが先生の口から発せられるまでの間に、できていないといけなかったんですよ」という急かしのメタメッセージが発せられていることに無自覚だと、悲惨なことになる。ちなみにこれは「分かりましたか?」でも同様。その結果、生徒たちは「できていません」「わかっていません」と聞けなくなるし、下手したら「できているフリ」「わかっているフリ」をしてしまう。「教師に優等生だと思われたいやる気のある子」ほどそうしたくなる。だから、教師は顔色とか鉛筆の動きとか雰囲気でできているかを察知するべきで、できたか聞いてはならないし聞く必要もない。同様に生徒が分かっているかどうかも教師は生徒の曖昧な表情をもとに分かっていなければならない。

文章を書くということについて

「物指(モノサシ)で何かを測れば何かは何でも物指の結果になることは必定である。人は芸術的問題の決定に於て、批評するとは物指を使うだけでは足りないという事を考えるべきである。批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である。」

(「アシルと亀の子Ⅱ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 友人のYと、Yの大学の後輩であるM君が最近書いたアニメ批評について、ああでもないこうでもないと話していた。するとその話は途中から、「人が文章を書くとはどういうことか」という議論に次第に発展していってしまった。きっかけはYの次のような発言であった。Yは呟くようにして、俺に言った。「M君は社会的な話をできるのがすごいね。俺は作品と自分の間の話になっちゃう。今度はそっちの話も書いてほしいな」。

 確かに言われてみれば、俺もそうだ。俺は論じるものの全てが、ぜんぶ俺の話になる。俺という実験場に作品が飛び込んできて、そこで起きている「俺の個人史」と「書物」との反応、快くもあり痛々しくもあるようなその反応を俺が文字にして表現する。そうやって俺はこれまで、うすら恥ずかしい文章を書き散らしてきたのではなかったか。だから失敗もあり、成功もあった。これまでの全ての文章は俺なりの実験だったのであって、失敗した出逢いがあるのは仕方ないと諦めている。当然だ。そういう書き方しかしたことないのが災いしてなのだろうが、俺が作品について何かを書いていると、気づいたら「その作品の中に見つけた俺の話」や、「作品を論じる俺の話」になってしまっている。俺はそうなると、「しまった、またやっちまった」と毎度思う。俺は自分と関係的な在り方をしているすべてのものごとから、自分との関係のみにはどどまらない、誰がやっても同じ関係になるような安定した構造を取り出していくことがしたいのではなかったのか、と自分に言い聞かせる。もしそれに成功すれば、俺が書いた文章だっていつか、「作品そのものを論じている批評」と呼べるのではないか。そこまで行ければ、それはもはや単なる「自分語り」ではなかろう、と。

 だから、俺が目指してきたのは、俺だけの話には決してとどまらない「普遍性のある批評」だった。というか、そうでなければ他人が読んでもわけが分からないだろう。しかし、そういう普遍性を目指すためには、まずもって、俺という論者の傾性を知らないといけないのではないか。そうでなければ、俺ではない他人へ読者が置換されたときにも、構造としては安定的に維持されるような当該作品内の秩序、などというものが論じられるわけがあるまい。俺が呼びかけたから、作品はその呼びかけに対して、俺にとって重要な意味をもって応えたのである。その対話を写しとりたいのではなかったのか。普遍的なことを書きたいからと言って私を捨象してはなんの意味もない。作品に構造を見て取っているのは、あくまでも私なのだから。俺は自己と書物とのどちらをも捨象しないままで、作品をその両者の「出会い」として論じるような関係的な視点に留まり続けなければならないのではなかったか。社会の中で、自分とは無関係に生成され終わって、あらかじめ存在している作品があって、それに自分は出会っているだけ、自分はページをめくるだけなのだと前提して為される「客観的」語り口は、たしかに「自分語り」ではないけれど、批評でもないだろうよ。

 こういう話をしていると、Yは言った。「それが「本当のこと」だと思うよ。作品を観ることから自分を疎外する必要はまったくないよね。そこにごく個人的な関係があるからこそ、ある作品は強烈な意味を持つんだと思う」。しかし、そのYの言葉を読んで俺は不安を感じる。「でもそれだと、自分にとっての意味が他人にとっても同様に得られるかは分からなくないか?」と俺は即座にLINEで彼に返信した。

 確かに批評とは畢竟「自分語り」でしかないのだ、と開き直ってもいいのかもしれない。Yは「自分語りで上等じゃないか」と言いたいのかもしれない。彼は俺にそれでいいのだと言ってくれているのだろう。しかし俺は、なるべく俺と作品との間のごく個人的な関係の中で、俺の書く批評が閉じないようにもしたいのではないのか。できるだけ多くの人に伝わる文章というのを手放したくないのではないか。「俺でなくても、俺が汲み取った意味を、あなたでも汲み取れるはずだ」と、どうしても言いたくなってしまうのではないか。

 そもそも俺たちは体験を言葉にするわけでしょう。それは誰かに伝えたいがためではなかったか。誰かに感動を伝えたいのでなければ誰が文字など書くものか。自分だけに分かればいい芸術、などというものは一個の修辞的誇張なのであった。すると当然、「作品体験を言葉にする」とはどういうことなのか、とまた俺はYに思考の継続を迫られることになる。

 体験を言葉にする。語るだけでなく、文字にしてそれを書く。残す。なぜだろうか。誰かに伝えたいからだ。自分だけでこの感動を終わらせたくないからだ。他の人にもこの作品との幸福な出会い方をしてほしいと俺が願うからだ。同じ体験をしてほしいが、そんなの望むべくもない。他人だからである。だからせめて愛する人を紹介するような仕方で、自分に見えているチャームポイントの伝達だけでもできないだろうか、と思う。作品をなんとしても褒めたくなるのだ。しかしうまくいかない。そんな時は、「いいから黙ってお前も映画館に行ってこい」とアジビラを書きたくなる。

 その過程で当然頼ることになるのは日本語であるし、俺がどうやって作品にアプローチしたのかという注目点を明示的に書くことになる。作品から俺が意味を汲み出したその方法論を明示しておけば、誰が読んでもある程度まで伝わるんじゃないか、と俺は期待するからだ。しかし要するに、批評とは、「私の個人史と作品との対話的反応の中で初めて意味が分泌されるという私秘性の必要」と、「それが他人にも読めて、しかもある程度その他人にも意味が分かるものでなければならないという公共性の要求」との相互妥協点にかろうじてなりたつ(かもしれない)均衡のことではないのか。

だから、自分語りでない批評は空虚であり、自分語りであるだけの批評は矛盾なのである。

 だからこそ、優れた批評においては、解釈の余地を拒む苛烈な作品への私秘的愛を根底に置きつつも、あえて解釈の余地を許してしまうような言葉の使用に甘んじることによって、できるだけ修辞を排した仕方での魅力の伝達が目指されているのであると俺は思う(ただでさえ言葉は余計であるのだから、文学的修辞など少なければ少ないほどよい文学的効果を産むに決まっているのだ) 。


ところで、俺が塾で教えている英語のテキストには、次のような文章が書いてあった。

 「私という人間を一番理解しているのは、母親だと私は信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから、私の性格を分析してみる事が無用なのだ。私の行動が辿れない事を少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない(中略)。私という子供は「ああいう奴だ」と思っているのである。世にこれ程見事な理解というものは考えられない。(小林秀雄『批評家失格Ⅱ』)」

 

 ここで小林は、「自分だけではなく、他人たちにも伝わるような対象理解の示し方」の一形態として、「言語表現による理解の示し方」の採用へと批評主体が降りていくその手前で為された、母による理解の形式、すなわち愛による絶対的理解を言っているのだと思う。これは、分析をまったく排して個人的に小林とその母との間でなされている暗黙の理解だから、外部からの解釈を容れえない。つまり、それがどんな相互理解なのか、そんなことが俺たちには、わかる筈がないのである。これは、言葉を用いて分析し、その分析の言葉が妥当か不当かということを問題にし得るよりも遥かに前から常に既に成立している相互理解であり、だから、その分析が誤っているかどうかということが原理的に言いえないような、その意味で絶対的な理解なのだ。小林の母は、言葉で表現するよりも前からなんとなく息子がどんな人なのか、ということの根本がもう分かってしまっているということなのだと思う。母に息子の行動が辿れないとしても、小林の動向などという表層的で文脈に応じて柔軟に揺れ動く部分などは、どうでもいいのだ。むしろ辿れない方が活発でいいくらいだ。そんな浮華の部位ではなくて、根本不動の部分をがっしりと把捉している母にとっては、その辿れなさは、痛くもかゆくもないのである。

 俺も、こういう経験をしたことがある。今でも忘れられぬ映画のワンシーンに出会った時、「好きだ。なんだかよく分からないけどとにかくこの作品が好きだ。なんとなくこの作品の言いたい根本不動の部分だけは理解した。だからこの映画がこれからどうなるのかはまったく分からないし、結論も分からないし、途中式もうまく辿れないけど、とにかくこの映画のことが俺はこれからも好きだ。」と思うことがある。ちなみにこのような経験は、実は映画に対してだけではなく、人物に対してもある。Yに対しても思う。「ああ最高だこいつ、もう大丈夫だ。こいつとはどうせこれから色々あるだろうし、それがなんだかは全然分からないけど、こいつの根本は見えたから、もう大丈夫だ。」という安心の感覚。

 ことほど左様に、愛というものには強烈な意味があって、しかもそれはごく個人的関係の中で(のみ)立ち上がるものだから、そこに解釈の余地など、あるはずがないのだ。端的にそれはYのいう「本当のこと」のことだからである。ここでいう「解釈の余地がない」とは「意味が分からない」という意味ではなく、「意味が分かり過ぎる」という意味である。

 「それなのに、諸君はそれを言葉でもって表現するでしょう。それは作品と諸君との間で生い育った蜜月の関係を言葉で切り刻んで、他人に開くことです。これは裏切ることですよ。愛を裏切ることです。もう既に本当の関係が結ばれているのに、それをあえて言葉で表現するなんてそれは愛にとって不要なことですよ。君はその時、黙って見つめるだけで十分だったんじゃありませんか。」

 という小林の甲高い声、短文言い切りの力強い声、あの躍動するスタッカートのリズムが耳元で聞こえてきそうである。俺は、日本語にして表現してしまえば、解釈の余地が無数に生まれることは覚悟の上で、それでもなんとかして俺の方法とやらを明示的に書こうとしながら、俺の体験を他人と共有しようとするわけである。確かにそれは嘘だ。でもその嘘を僕は批評と呼んで、その批評を売って、それで食っていくしかないんじゃないか。そうやって解釈を容れる言葉で僕らは「本当」を表現していくしかないんじゃないか。その嘘、伝わっているという嘘を「客観的」だの「科学的」だのと詐称して本当らしく書いていくしかないんじゃないだろうか。話がこの地点まで来た時、Yは言った。

 

 「そう、言葉にするってそういうことだから、一生懸命個人的な関係を語ろうとするくらいの感じでいいと思って言ったんだ。どうせ望まなくても公的なものにアクセスしてしまうから。とうぜん、伝え方の努力は、別途、するけどね。」

 

 

【上記の内容の要約】

⑴「普遍性のある批評」とは何か
⑴-①俺の作品論は俺の個人史になってしまうが、そうはしたくない問題
⑴-②普遍性のある批評を書きたくとも、作品と批評家の間には個人的な関係が必要である


⑵「作品体験を言葉にすること」の意味について
⑵-①作品体験を言葉にする動機は、作品に対する愛であり、誰かにその作品を見て欲しいという思いである。
⑵-②愛の意義(小林秀雄論)

 

 

 

日常と学問を直結させる

 

<問い:なんで協力なんかするの?> 

<問い:多数決にメリットなんかあるの?> 

<問い:みんなの意見であれば正しいの?> 

<問い:十分な情報があれば正しい答えが出せるの?> 

<問い:報復って意味があるの?> 

<問い:報復されると報復したくなるのはなぜ?> 

<問い:やられたらやり返すのが適応的なの?> 

<問い:ブラック企業の方が儲かるの?> 

<問い:消耗するとイカサマするの?> 

<問い:服装で人は変わるの?> 

<問い:何もできない人を非難できないの?> 

<問い:決定論を取っているのに責任は問えるの?> 

<問い:人間の意志は自由なの?> 

<問い:誰が自由意志を否定したがるの?> 

<問い:合理的に考えたらいいんじゃないの?> 

<問い:やらずに後悔するよりやって後悔した方がいい?> 

<問い:ギャンブルしたいのはどんな時?> 

<問い:人は基本的に保守的なの?> 

<問い:チャレンジする人には勇気があるの?> 

<問い:効用ってなに?> 

<問い:今は今判断する人を惑わせるの?> 

<問い:ダイエットがうまくいかないのはなぜ?> 

<問い:私たちは自分たちの一貫性に気づいてないの?> 

<問い:人間は割合で考えてしまうの?> 

<問い:授業中の居眠りは無料なの?> 

<問い:なぜ最低の彼氏と別れられないの?> 

<問い:損と不平等はどっちが人気なの?> 

<問い:「1」は特別なの?> 

<問い:なぜ保険会社は儲かるの?> 

<問い:精神分析は必ず当たるの?> 

 


<問い:なんで協力なんかするの?>

【みんなで議論すれば大丈夫なのか問題:民主主義の凄さと酷さ】

 

一般に、多様な人が集まっていたほうが何をするにも効率が良い。たとえば、分業である。本を出版する場合に、文章を書くのは得意だが美的センスもあまりないし誤字脱字も多い人がいた場合に、この人がひとりで本を最初から最後までやるよりも、校正が得意だが文章は全然書けない人に一部仕事を外注したり、装丁について考えてきた人に一部仕事を外注するほうが最終的には良い本ができるだろう。テニス選手もそうである。自分がどんなプレーをしているかを客観的に見ていてくれているコーチや、メンタルのアドバイスをくれるコーチ、食事管理をしてくれるアドバイザーなどを、どんなに優秀なテニスプレイヤーも必ず付けているのだ。また、生産活動に使える時間は有限で長くはないのだから、1人の人が全ての過程に習熟するよりも、自分がやるべき生産過程の範囲を決めて、そこのスペシャリストになって、そのスペシャリストが流れ作業で協力するほうが、全体として見た時に少ない時間でたくさんのものを作れて効率が良いということも言えるはずである。

 

 

 

 

 

 

<問い:多数決にメリットなんかあるの?>

コンドルセ陪審定理:多数決のありがたみを数学的に証明しようとした定理】


まずここに、AさんとBさんとCさんの3人がいるとする。

ここで、そもそも多数決なんか、なぜしたくなるのだろうか。Aさんがもし、「なんでも100%の確率で最適解を出せる」のであれば多数決をしたくなることはない。なぜなら、Aさんが絶対に正しいから全部Aさんに聞けばいいからである。また、AさんとBさんとCさんが全員「なんでも100%の確率で最適解を出せる人」だったらどうだろうか。この場合も多数決をしても意味が無い。この場合、意見が必ず一致するからである。だから、人が多数決をしたくなるのは、「ある共同体の各人が、最適解を当てずっぽうではないけれども完璧に当てるわけでもなく、各人がある程度の確率で最適解を当てることがわかっている」ようなときである。だから、以下にこういう仮定を2つ設けてみよう。


仮定①:この集団のメンバーは相互に独立であり、たとえばAさんの主張がBさんの主張に影響を与えてしまい、Aさんの主張を受けてBさんが自分の主張を変えるということはない。つまり、依存や干渉や権力による強制などからそうするのではなく、メンバーそれぞれが独立的に判断すること(独立性原理)である。


仮定②:この集団のメンバーは当てずっぽうで意見を言うのよりも高い確率(たとえば60%)で正しいことを言う。逆に言うとそれより低い確率(たとえば40%)で不正解を選ぶとする。


この仮定のもとでは多数決をした結果はどんなケースになるのか。0人が正解する場合と、1人が正解する場合と、2人が正解する場合と、3人が正解する場合の4つのケースがあり、それぞれがABCの誰になるのかを考慮して場合をすべて書き出すと以下の8パターンできる。

 

❶3人とも不正解:(A=0.4)×(B=0.4)×(C=0.4)

❷Aだけが正解:(A=0.6)×(B=0.4)×(C=0.4)

❸Bだけが正解:(A=0.4)×(B=0.6)×(C=0.4)

❹Cだけが正解:(A=0.4)×(B=0.4)×(C=0.6)

❺AとBが正解:(A=0.6)×(B=0.6)×(C=0.4)

❻BとCが正解:(A=0.4)×(B=0.6)×(C=0.6)

❼AとCが正解:(A=0.6)×(B=0.4)×(C=0.6)

❽3人とも正解:(A=0.6)×(B=0.6)×(C=0.6)

 

→❶から❽の可能性を全部たすと答えは1になる。このうち、❶と❷と❸と❹が多数決が失敗しているパターンである。では、1のうち、多数決がうまく機能する可能性つまり❺と❻と❼と❽を全部たしたものはどのくらいなのだろうか。答えは、「0.648」なのである。すると、約65%の確率で多数決は成功することがわかる。ここで注目するべきは、1人で判断した結果最適解を出す確率は60%であったのに、3人で多数決をした結果うまくいく確率は65%に上がっているということである。つまり、これによって、判断力が酷くはない(=当てずっぽうでやるよりも少しはうまくいく)人が3人集まると、1人で考えて結論を出すよりもより高い確率で最適解が出せるということである。


→これは、3人でやっているから、60%が65%になっただけかのように見えるが、実際には違う。実はこれ、人が増えれば増えるほど多数決をやるメリットは増加していき、100人でやると97%になるのである。


→しかし、このコンドルセ陪審定理には二つの条件があった。仮定①として挙げた通り、「メンバーそれぞれが独立的に判断すること(独立性原理)」である。たとえば、政府が明らかに正しくない行動をしているのにオピニオンリーダー(或いは有識者など)のような人物が現れてその人が政府の行動を肯定し、それをマスコミが喧伝するせいでメンバーがその人物に同調したことで政府を止められなくなったり、逆に、政府が正しいことをしているのにオピニオンリーダーのような人物が現れてその人が政府の行動を否定し、それに多くの人が同調するせいで政府を止めてしまったりすることがあるけれども、仮定①は意図的にそういう状況を考慮外に置くことで問題を単純化しているのである。仮定②として挙げていたのは、「メンバー各人の正解率は少なくとも50%を超えていなければならない」ということであった。というのも、もしも正解率が50%以下だったら、このコンドルセの定理によると、多数決をすればするほど間違いは増えるからである。だから50%以下の人はこの多数決には参加してはいけないのだ。このことは、たとえば、判断力が未熟だとされる子どもたち(もちろん子どもより判断力が低いと思われる大人もいるかもしれないが)には選挙権が日本でも認められていない(=子どもが選挙から排除されている)ことの趣旨と一致していると言えるだろう。たとえば、図書館に入れる本を多数決で選ぶときに、漫画がいいと主張する子供は多いかもしれない。


→結論としては、「多数決は、原理的には有用だが、万能ではないので、前提が満たされていない条件下ではむしろ多数決をしたことが原因で全体の総意としての間違った判断を産むことすらある。」ということになる

 

 

<問い:みんなの意見であれば正しいの?>

【2つの壺実験:情報カスケード(意見交換をすることはしないよりいいのか)】

 


[実験内容(Sunstein and Hastie, 2015)]

ここに2つの壺がある。

Aの壺には赤ボール2個と白ボール1個が入っている。

Bの壺には赤ボール1個と白ボール2個が入っている。

これから壺Xが壺Aなのか、壺Bなのかを実験参加者6人(=❶❷❸❹❺❻)が当てていく。

最終的に最後の人❻の予想が的中すると全員に報酬20ドルがもらえる。

参加者は1人ずつ、用意された壺Xからボールを1個取り出しては、その色を確認し、誰にも見せずに壺に戻していく。そして、参加者はその壺Xが壺Aなのか壺Bなのかを予測し、その予測を回答用紙に記入する。そして回答用紙を次の人に手渡す。回答用紙には何色のボールかは書かないから他人にもわからないのだけれども、予測結果(=つまり壺Aか壺Bか)は回答用紙に書かれている。的中するとお金がもらえるので、嘘を言うインセンティブは無い。

 


ここで、最初の人❶は、ボールを一個引いて、それが赤だったら壺Aと書くだろう。それが白だったら壺Bと書くはずだ。どちらにせよこの時点でこの回答の的中率は66.6%である。

 


[条件付き確率の計算]

事象A:壺がAである事象

事象B:引いたボールが赤い事象

P(A)=1/2

P(B)=1/2×2/3+1/2×1/3=1/2

P(AかつB)=1/2×2/3=1/3

P(A|B)=P(AかつB)/P(B)=1/3/1/2=2/3

 


そこで、最後の人❻は「それまでの5人分の人がAとBのどちらと予想したか」という情報を持っており、「自分の引いたボールの色」の情報しかなかった最初の人よりも多くの情報を持っていると言える。それなのに、6人目の人の的中率は66.6%よりも低くなる(!!!)ことが知られているのである。なぜこんなことになったのか。ここで起きたのが、「情報カスケード」である。

 

 

 

 


[資料①:情報カスケードが起きた回答用紙]

具体的な回答パターンとしては、たとえばこういう回答用紙になる。

❶の回答:壺A

❷の回答:壺A

❸の回答:壺A

❹の回答:壺A

❺の回答:壺A

❻の回答:壺A

実際の正答:壺B

 


[資料②:資料①で実際に引かれたボールの色]

また実験参加者には不可視だが、実際に引いたボールは次のようであった。

❶の引いたボールの色:赤

❷の引いたボールの色:赤

❸の引いたボールの色:白

❹の引いたボールの色:白

❺の引いたボールの色:白

❻の引いたボールの色:白

 


[考察]

→ここでポイントとなるのは、❸の行動である。❶は赤を引いたんだからAと予想するのは当たり前である。ここにはなんの不思議もない。❷も、赤を引いたのでAと答えるのも当然だし、❶の予測と自分の予測が一致したので自分1人しかいない時よりもさらに壺はAだという確信を強めたはずだ。しかし、❸は、白を引いたんだから、1人でこれをやるんだったら即答でBと答えただろうが、前の2人の予想結果がAとAであることを考慮して前の2人が赤を引いたことを合理的な推論によって推察したのである。そして❸はさらに合理的に考えたのである。「この3回の試行の中で、3回中2回、(Aという予想結果をしているのだから)、引いたボールの色は赤であった。だとすれば、今俺が白を引いたからと言ってそれだけに流されて、壺をBだと予想するのは早計である。」、と。このように考えて壺をAだと予測しそれを❸は記入したのだ。そして、❹も白を引いた。ところで、❹からしたら、❸が実は白を引いていたことなんか、知るはずがない。よって、❹は、「❸も赤を引いたんじゃないか」と予測するか、あるいは少なくとも「❸が何を引いたかは分からないがとにかくAと予測したんだな」と思うだけである。そこで「自分の引いたものだけに流されずに前の人のオピニオンも参考にしよう」と思った❹はAと書くのである。すると❺も❻も同様に白を引いたのに、回答用紙にはAと書くことになる。❻には、白を引いた人の方が多いなんてことはわかるはずがない。それなのにこんなに白が出るのは壺が実はBだからなのだが、それでも❸❹❺❻は予想をAと書いたのである。しかもこれは合理的な推論の結果そうするのである。また、カスケードのきっかけとなった❸の合理的な推論にミスはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[資料③:では予想や意見なんて書かずに根拠だけ回答用紙に書けばどうか]


❶の回答:赤  ×(だったから壺は〇〇だと私は予想します)×

❷の回答:赤  ×(だったから壺は〇〇だと私は予想します)×

❸の回答:白  ×(だったから壺は〇〇だと私は予想します)×

❹の回答:白  ×(だったから壺は〇〇だと私は予想します)×

❺の回答:白  ×(だったから壺は〇〇だと私は予想します)×

❻の回答:白  ×(だったから壺は〇〇だと私は予想します)×

 


→では、回答用紙が資料③のようになっていたらどうなるだろうか。つまり、「だったから壺は〇〇だと私は予想します」などという部分は無くていいのである。端的に回答用紙には引いたボールの色だけ書いてあればよかったのだ。こう言う回答用紙であれば、❻の人は、「こんだけ白が出ているならば壺はBだろう」と考えるのは自然であるし、その結果❻の人の予想の的中率は66%を超えるだろう。

 


[2つの壺実験の教訓]

→以上のことから何が言えるのか。どんな教訓が引き出せるのだろうか。我々は「合理的であるようなメンバーの各人が、全員自分の考えの結論だけを主張しあうような、そういう自由な会議には出ない方がいい。たとえ、「ほら、はやく君の意見を言っていいんだよ」と誘われるようなオープンな会議だとしても、それがいい会議だとは限らない。またそのぶんだけカスケードが起きやすくなるとも言えるんだから、参加人数が多ければ多いほどいい会議だなんてことはないし、満場一致だと良いなんてこともない。また、たくさんの人が自分流に考えた判断結果を並べ立てるよりもその材料となったデータをひたすら羅列していくほうが良い会議になる」ということが言えるのだ。各人が結論とか提言だけをどんどん言っていくような会議は確かに活発だし自由な雰囲気かもしれないし、満場一致かもしれないが、全体として正しい結論が出ているとは全然言えないのである。ミーティングで大事なのは、意見をいうことよりもむしろ自分の意見の根拠となった情報を開示して、議論のテーブルに載せていくことなのである。こうすればカスケードは起きない。

 


→さらに、もう一つの教訓もある。この「情報カスケード」という現象は、プレッシャーが高ければ高いほど起きやすくなることが知られている。実際、ペナルティをつけるとカスケードは起きやすくなった(Hung and Plott, 2001, p.1515)。報酬(=アメ)が20ドルあってみんなが真剣になってもこういうカスケードは起きやすくなるのだが、逆に、例えば罰金(=ムチ)が20ドル設定されていて、みんなが他人に気をつかうようになってもさらにこのカスケードは起きやすくなることが知られている。というのも、自分だけの判断だけで予想を決めるのは申し訳ない(=「自分の持っている情報だけで前の人の意見を否定するのはワガママで良くないな」)と思ってしまうし、自分だけの判断を優先した結果、それが間違っていた場合に予想が正しかったみんなが自分のせいで罰金をしなくてはならないのはあんまりだ、と思ってしまって「同情的になる」あまりに、なおさら情報カスケードは起こりやすくなってしまうのである。つまり、近年の企業ではインセンティブを導入することが評価されており、社員が最適解を出した場合には社員に報酬を出し、失敗をした場合には社員から減給するということが普通に行われているけれども、これによって社員にはプレッシャーがかかり、情報カスケードにハマりやすくなるのである。ゆえに、「みんなで集まって話をすればいいことが起きて、人は利益を愛し苦痛を恐れるから、信賞必罰の褒賞制度を導入すればさらにいいことが起きるだろう」という予測は間違っている。まさにそのような制度の導入によってうまくいかないことがありうるからだ。しかも、それでうまくいかなかった場合に、経営者は怒って社員を責めるかもしれないし、更なる罰を与えるかもしれないのだが、それによってさらに結果は悪くなるだろう。

 


では、どんな情報公開をしたらいいのだろうか。

 

 

 

 

<問い:十分な情報があれば正しい答えが出せるの?>

【模擬選挙実験:共有されている情報には不当な重みづけ(=バイアス)がかかる】


[実験内容(Stasser and Titus, 1985)]

これから、被験者である大学生4人のグループに、会長候補のAさんとBさんとCさんの中から、あらかじめ用意された最適任者であるAさんを選んでもらう。ここで、大学生たちに渡す情報は、総合的に判断するとAさんが選ばれるのが妥当であるようにしておく。そして以下のような情報の渡し方をする。


4人集団①:AとBとCに関する情報を4人の各人がそれぞれ66%ずつ持っている。ただし、情報を集約して総合すれば結局100%になる。


4人集団②:Aの長所だけは各人が共有しておらず断片的に各人が持っている。それに対して、BとCの長所は全員が共有している。ただし、情報を集約して総合すれば結局100%になる。

 


[実験結果]

集団①は、会議前には67%の確率で多数決でAを選出し、会議後には85%の確率で多数決でAを選出した。

 


集団②は、会議前には21%の確率で多数決でAを選出し、会議前にBが適任だと多数決する確率は46%であった。会議後には17%の確率で多数決でAを選出し、その場合にBが適任だと多数決する確率は46%で変わらなかった。

 


[教訓]

→ここから何がわかるのか。「人は最初から共有している情報ほど価値が高いと思い込む」ということが言えるのである。集団①も集団②も与えられた情報の総量は結局一緒なのである。これを考慮すると、「人々は共有されている情報を尊重しやすく、これは集団の中心とされるが、断片的な情報は周縁化され見落とされやすい」ということがわかるのだ。たとえば集団②の会議では、BとCの長所を誰かが話すとそのときには「あー。そうだよねえ」と共感を呼ぶが、Aの長所を誰かが話しても「あーそんなこともあるんだ。でも、そんなこと誰も知らない。君が言ってるだけでしょ。」と言われ誰もそれに賛同するものはいなかったし、Aの長所は会議のテーブルに乗った情報なのに、軽く見られたのである。よって、「ある情報については誰かと誰かが既に共有しているが、別の情報はある人しか持っていない。」という初期設定にはならないように情報を全員に偏りなく公開しなければならないのだ。そのためには、会議中に一気に情報を吐き出していくのではなくて、あらかじめ会議前に会議で使う全ての(大量の)情報を(一部だけ隠蔽して仲間内だけで共有しておいたりせずに)全てを公開しておく、その上で会議に臨む、ということをすればいいのだ。

 

 

 

 

<問い:報復って意味があるの?>

【報復はそもそも有意義なのか問題】

 


⑴[報復に意味ある派]:「当然の相互性」「対称性愛好」「秩序愛好」「スッキリする」「半沢直樹水戸黄門と必殺仕事人」「タリオ(同害報復刑)」

 


⑵[条件付きで意味ないとする中道派]:「賠償や謝罪によって償えば基本的に許すべき」

 


⑶[報復に意味ない派]:「巌窟王(復讐の虚しさ)」「エネルギーの無駄遣い。復讐のエネルギーで他のことをするべき」「復讐に対して再復讐されて連鎖が止まらない」

 

 

 

 

<問い:報復されると報復したくなるのはなぜ?>

【モラリゼーションギャップ】

モラリゼーションギャップとは、自分がやった場合と他人がやった場合とで道徳的評価に差があることである。先輩にパシられた時には「あの先輩ひどすぎる」と言うくせに、自分が先輩になった時には「パシリは当然だ」という。

 


→「自分の成功は自分が努力したからで、自分の失敗は他人が妨害したからだ」と考えてしまうのは「自己奉仕バイアス」という。例えば、自身が加害者のときには「どうしようもなかった」と言って逃げ、自身が被害者のときには加害者に対して「あれをしないこともできたはずだ」と言って責め立てるのが、この一例である。

 


[モラリゼーションギャップを示す具体例]

①AさんとBさんがゴムのついたペンチで指をつねりあう。

②最初の仕返しの時、BさんはAさんから今受けた圧力をそのままの圧力でお返ししてくれと頼まれる。

③AさんもBさんから今受けた圧力をそのままの圧力でお返ししてくれと頼まれる。

④そのやりとりを8往復、全く同じ圧力でやってくれという指示のもとで繰り返す。

⑤8往復目にBさんはAさんをつねるが、その時の圧力は、最初にBさんがAさんをつねった時の圧力の約18倍であった。

 

 

 

<問い:やられたらやり返すのが適応的なの?>


【アクセルロッドの「しっぺ返し戦略」と「グリム戦略」】

囚人のジレンマ」とはふたりの囚人が、もっと合理的な最適解があるのに(一回きりのゲームでもう二度とふたりが会わないと仮定すると)、合理的な利得計算をした結果が不合理な回答になるというジレンマである。では、これを無期限でいつ終わるのかわからない状況で複数回繰り返したら、どうなるのだろうか。実は、いつ終わるのかわからない状況で複数回繰り返したら、2人にとって最も懲役が少なくなるところで安定するのである。これは我々の実生活に似ているのだ。地球の寿命はいつ終わるかなんて我々に分かるわけないし、今日裏切った相手にまたいつか街でばったり会うかもしれない。だから我々は協力するのである。つまり我々はある意味で事実上、無期限繰り返しゲームのなかで生きているからなのだ。では、どういう生き方が、一番長期的な無期限繰り返しゲームのなかで一番多くの利益を得れるのだろうか。アクセルロッドという政治学者によるとそれは、「ティット・フォー・タット戦略(TFT戦略)」である。これは具体的に言うと、「初回は絶対に協力体制をとり、そこからは、前回相手が取ったのと同じ戦略を常に取り続ける」という戦略である。これは、よく混同されているのだが、「相手が一度でも裏切ったらそこからは絶対にもう許さないし、相手の裏切りがトリガーとなって、そこから先はずっと裏切ったやつを徹底的に攻撃し続ける」という戦略ではない。それは「グリム戦略(またはトリガー戦略)」という。相手が「すまんかった。協力します。」と言ってきたらそこからは許して次からは一緒に協力するのが「ティット・フォー・タット戦略(TFT戦略)」である。

 


最近まで、「ティット・フォー・タット戦略」こそが最も合理的だと言われてきたのだが、近年、「ティット・フォー・タット戦略」ではうまく行かない事例が明らかになってきている。つまり、「ティット・フォー・タット戦略」の進化的な有効性については、例えば、最初に裏切る「タット・フォー・ティット戦略(逆しっぺ返し戦略)」でも協調的均衡は実現できるだとか、そのほか多くの疑義が提出されているのだ(Binmore, 2007)。まずは、しっぺ返し戦略ではうまくいかないような事例を見てみよう。それは、相手もしっぺ返し戦略を取ってくる次のような事例である。

 


[TFT戦略ではうまくいかないケース:デートの遅刻]


XさんとYさんがデートするとする。

Cは間に合うでDは遅刻だとする。

戦略はTFTなので、「初回は絶対に協力体制をとり、そこからは、前回相手が取ったのと同じ戦略を常に取り続ける」である。

2人のプレイヤーが、どちらもお互いにTFT戦略を取るとして、片方が一度遅刻する次のようになる。

 


[ゲーム①]

X(=TFT戦略):CCDCDCDCDC

Y(=TFT戦略):CCCDCDCDCD

 


→そうすると、このTFT戦略では、Xが(意図的か非意図的かを問わず、とにかく)遅刻してしまった3回目以降のデートの利得がゼロになっているのである。つまり3回目以降はひたすら報復合戦になっており、しかも報復合戦になると、モラリゼーションギャップが発生するせいで、報復は相手にされた時よりも強い強度でなされるので、仕返し強度がどんどんエスカレートしていくことになる。モラリゼーションギャップに陥っていると、Xは、三回目の自分のミスを「俺には悪気があったわけじゃないよ!こんくらいいいじゃん!それなのに4回目でこんなにこっぴどくやり返してきやがって、あいつはひどすぎる!!!」と思ってしまうのである。つまり、自分のやった悪いことは過小評価するけれども相手のやった同じ悪いことは過大評価する傾向が人間にはあり、自分の怒りは正当だが相手の怒りは不当だと思いがちなのだ。このゲーム①では、3回目以降はひたすら相手に対して前回やられたことをひたすらやり返しており、しかもその強度はどんどん強くなっている。よって、最後にはこの関係はいずれお互いに深傷を負って破壊されてしまうだろう。

 


→つまり、ふたりともが同じTFT戦略を取っている場合、そのゲームはたった一度のミスやつまづきやアクシデントに対して、極めて弱くなるのである。明らかに合理的で有能に見える、2人の優秀な友達やビジネスパートナーの関係が、ほんのちょっとしたトラブルや行き違いから崩壊していくようなケースはまさにこれにあたる。

 


→さらに、この世界はそもそも不確実性に満ちていて、何が起きるかわからないのである。デートで相手を困らせる意図なんか全くなかったのに、電車が遅れたり、車がパンクしたり、財布を忘れたり、目覚まし時計がなぜかその日だけ鳴らなかったりするかもしれない。そういうなんの理由もないような不運な偶然は日常においてザラに起こることなのである。そして、それが相手には非協力的な態度だと解釈されるかもしれない。そうしたら、TFT戦略を取る相手は必ず報復してくるだろう。そしたらこちらもTFT戦略をとっているのだから報復したくなるはずだ。つまり、アクセルロッドは、TFT戦略こそが最も合理的な戦略だと考えているようだが、これを不確実性に満ちた現実の条件下でみんながやると、みんなが協力的になるどころか、むしろ報復合戦が始まるのである。

 


そこで、「より寛容なTFT戦略」というのを考えてみよう。無限に寛容になる必要はないのだ。たとえば「3回連続で裏切らない限りは、つまり2回連続までは常に許す」という「仏の顔も三度までTFT戦略(=仏TFT戦略)」というのを考えてみることにしよう。そうすると先ほどのゲーム①は次の②のようになるかもしれない。

 


[ゲーム②]

X(=悪意戦略):   CDDCDCDDCD

Y(=仏TFT戦略):CCCCCCCCCC

 


ただし、このような「仏の顔も三度までTFT戦略(=仏TFT戦略)」だと、ゲーム②のように明らかにカモにされるかもしれない。また、遅刻癖がある人は悪意なき遅刻を連続はさせないまでも不定期的に繰り返してしまうという。そこで、「仏の顔も二度までのTFT戦略」にすればどうか。ゲーム③のようになるだろう。(ただし、こうやって③のように関係を長続きさせたいとそもそも思う方が良いのは遅刻のような被害が少なく悪意もない場合に限る話であって、浮気のような深刻な問題の場合「グリム戦略」を取ってむしろ早めに関係を断ち切ったほうがいいのだという判断もあり得る。)

 


[ゲーム③]

X(=遅刻戦略):       CCDCCDCCDC

Y(=仏二TFT戦略):CCCCCCCCCC

 


では、「自分も裏切ったことあるし、あの時はごめんなさい」という意思表示として相手に裏切られても裏切らないような、「悔恨するTFT戦略(大坪庸介「仲直りの進化社会心理学---価値ある関係仮説とコストのかかる謝罪」『社会心理学研究』第30巻第3号, 2015, p.191-p.212)」をとればとうか。

 


[ゲーム④]

X(=悔恨TFT戦略):CCDCCCCCDC

Y(=悔恨TFT戦略):CCCDCCCDCC

 


ゲーム④では、5回目にXが、10回目にYが、その2回前に自分が裏技ったことを悔恨して裏切らないという戦略に出ているのだ。これは3回目の裏切りに対する「ゴメン」という意思表示として機能しているである。

 


→つまり、我々は、TFT戦略だけではなくて、裏切る側も裏切られる側も、「TFT+α」の「プラスアルファ」に当たるものすなわち、ゲーム③のような「ある程度の寛容さ」とか、ゲーム④のような「悔恨」とか「反省」とかを備えていたほうが、関係を長期化させたりアクシデントに強くしたりして関係を安定化させたりできる、というメリットがあるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:ブラック企業の方が儲かるの?>

ブラック企業は儲からない説】

そもそもブラック企業がダメなのは、倫理的にダメだからだけではない。「人事コスト」というものがあるから経営的な理由でダメなのだ。企業からしたら、頑張って育てた労働者が「この会社怖いから逃げよう」と思って逃げていくのは、コストがかかり、損失なのである。そもそも人事部の人々が誰かをクビにして新入社員をふたたび精査するためにまたコストを払うことになる。つまり、労働者側が企業の体質改善を訴える場合に、「労働者が逃げていってしまうのは倫理的にやばいからやめよう」と唱えるよりも、「金儲けをするために労働者が逃げていかないようにしよう」という路線をとる方が経営陣の賛同も得やすいのである。

 

 

 

 

 

 

 


<問い:消耗するとイカサマするの?>

【自我消耗と決定論

自我消耗(ego depletion)とは、「自己制御機能が消耗やストレスによって逓減し欲求に流れやすくなること」である。自我消耗という現象があるのに、明らかに理不尽な欲求やタバコ依存や酒依存や過食症に陥る人を見て、「本人のせいだ、自己責任だ、自己管理能力がない人だからそうなるんだ」と非難するのは明らかに言い過ぎである。

 


[自我消耗と不正行為の間の関連を証明する具体例(Mead et al., 2009)]

①非消耗群にはXとZの文字を一切使わないでエッセイを書いてもらう。

②消耗群にはAとNの文字を一切使わないでエッセイを書いてもらう。この消耗群では不定冠詞のaやan。あるいは、否定のnotを使えないのである。

③この後、消耗群と非消耗群に数字合わせテスト(=いくつかの小数点以下がある数字を渡されてピタリと合計が10になる組み合わせを見つけていくテストで、制限時間は5分で、全部で20問ある。1問正解につき25ドルがもらえる。)をやってもらう。

④ここからさらにグループが分岐する。非消耗群について、テストを他者が採点するグループ❶とテストを自己採点して答案をその場で誰にも見せずにシュレッダーにかけてしまうグループ❸とに分ける。また、消耗群について、テストを他者採点するグループ❷とテストを自己採点して答案をその場で誰にも見せずにシュレッダーにかけてしまうグループ❹とに分ける。この場合、自己採点である❸と❹で不正行為が❶と❷より多くなるように直感的には思える。自己採点は採点してすぐにシュレッダーにかけるのでイカサマが可能だし誰がイカサマをしたのかもバレないのである。

⑤実験結果を見てみると、❶と❷にはほとんど差が見られなかった。つまり単純な消耗はそこまで別の仕事のパフォーマンスに影響がないことがわかるのである。また、❶と❸にもほとんど差が見られなかった。しかし、❷と❹には大きな差が見られたのである。つまり、消耗したグループ内では、他者採点と自己採点では平均すると3問以上(=75ドルのイカサマに相当)の不正行為が見られた。ここから何が分かるのか。人は、消耗していると、欲望に流されやすくなり、欲望を刺激してくるようなきっかけ(=自己採点できるような機会)が与えられるとそれに弱くなり、モラルの崩壊が起こりやすくなるのである。

⑥さらに、この実験終了後に、他者採点をされたことでイカサマができず50%くらいの正答率だったグループAと、自己採点の過程でイカサマができたので75%くらいの正答率だったグループBとに分けて、それぞれに「次回は絶対に他者採点ですが、何点取れそうですか」と聞くと、グループAは「50%くらい」と答えて、グループBは「75%くらい」と答えた。すると、グループBはイカサマの結果を自分の実力だとして自分の能力を実際よりも高く見積もってしまうという自己欺瞞をしていたとも解釈できるのである。これを少し大袈裟にいうと、正々堂々と勝負した人は自分の実力をありのままに見積もることになるが、裏口入学やコネ入社やイカサマをして試験に受かったりした人というのは、自分の能力を実際よりも高めに見積もってしまって、成長の機会を奪われてしまうということなのだ。(むやみに挫折させて傷つければいいという意味ではないが、成長には挫折による自己直視が必要だとは言えそうである。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<問い:服装で人は変わるの?>


【偽ブランド実験(Ariely, 2012, ch.4):服装は人間の行動を左右する】

⑴実験前に「クロエ」というブランドもののサングラスを被験者全員に配布する。その時、実際に本物であり、また本物であると意識させるグループ①、実際はニセモノであり、ニセモノだと意識させるグループ②、本物だともニセモノだとも分かっていないグループ③に分ける。

⑵そこからさらに、①のなかで他者採点させる❶、①のなかで自己採点させる❷、②のなかで他者採点させる❸、②のなかで自己採点させる❹、③のなかで他者採点させる❺、③のなかで自己採点させる❻にグループを分ける。自己採点は採点してすぐにシュレッダーにかけるのでイカサマが可能だし誰がイカサマをしたのかもバレないのである。

⑶この後、この❶から❻のグループに、各自のサングラスをかけたまま、数字合わせテスト(=いくつかの小数点以下がある数字を渡されてピタリと合計が10になる組み合わせを見つけていくテストで、制限時間は5分で、全部で20問ある。1問正解につき25ドルがもらえる。)をやってもらう。

⑷実験の結果、イカサマの発生確率は、❷は❶の1.3倍、❹は❸の1.71倍、❻は❺の1.42倍であった。ただしこの結果は国民性や世代などで異なりそうではあるが。

⑸そうすると、この実験から傾向として言えそうなことは、ニセモノを身につけると「これくらいいいじゃん」と考えてしまって、不正行為への許容度が高まりそうだ、ということなのである。つまり、服装が人間の行動を左右する面があるのだ。

⑹この実験結果を強く取るとすると、銀座の繁華街に建つ東京都中央区立泰明小学校では、校長が一式そろえると、総額8万円を超えるアルマーニの標準服を小学生に義務的に着させようとして炎上したが、これが全く無意味だとは言えなくなるのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:何もできない人を非難できないの?>


【ダメ人間には何を言っても無駄なのか問題】


[⑴:そもそも「べし」は「できる」を前提する]

カントは「「べしshould」は「できるcan」を前提する」と言ったことで有名である。つまり、行為PができないAさんにたいして「行為Pすべし」と言うのはおかしいし、逆に「行為Pすべし」とAさんに誰かが言えるということは、少なくともAさんには行為Pができるということが含意されているというわけだ。例えば、万引きは「できるけれどもすべきでない」のであり、納税など、すべきであることをメンバーとする集合のメンバーはどれを取ってきても何らかの仕方でできることでなければならないというのがカントの主張である。

 


→そうすると、「頑張ったってなんにもできないようなダメ人間」というのを考えたときに、この人に対して「なにかをすべきだ」と言えるのだろうか。つまり、ダメ人間を非難することは可能なのだろうか。もちろんダメ人間を実際に「この能無し!」とか言って責める上司などは存在するわけだから可能なのである。しかし、それはむしろその上司が部下の育成義務を怠っていることを責められたり、その部下を採用してしまった人事部が責められるのでもいいはずであって、「べしはできるを前提する」というカントの主張が正しいとすればそこで能無しを責めることは、可能ではあるとしても、何かしらの意味があるのか、と問うことはできる。つまり、能無しに対する上司の非難は可能だが無意味ではないだろうか。

 


(→しかしそうすると「結果責任」という概念はどうなるのか。「結果責任を負う」とは「本人がどうしようもなかったとしてもその人のせいで悪い結果が起きたら、その人本人か、あるいは特定の立場にいる指示者などが彼の責任を負うと宣言する、あるいは宣言しておく」ということである。ただしこれはむしろ、「ダメ人間は責められない」からこそ後からその問題を解決するために人工的に造られた概念なのであって、「この結果責任という概念があるからダメ人間でも責任を負える」とは言えない。「どうしようもなかったことについて誰かが責任を負う」ということが人間にとって不自然であることは変わりないのだ。)

 


→では、「能力がない人が失敗しても責められない」とすると「道徳的能力がない人が失敗しても責められない」のか。つまり、「なんの能力もない人は失敗しても責められない。」ということを認めるならば、医者や弁護士や政治家など「人の痛みにいちいち共感していたら仕事や手術がうまくいかない職業」では、共感能力や感情移入能力が低い人が多くなると仮定した上で、そのような共感能力が低い人が悪事を働いた場合に、彼らを我々は責められるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<問い:決定論を取っているのに責任は問えるの?>


【フランクファート事例:「患者ジョーンズと隣人スミスと脳科学医師ブラックの話」】

 

[思考実験内容(Frankfurt, 1969)]

①患者ジョーンズは脳科学の権威ブラック医師を心底信頼しているが、

②ブラック医師はジョーンズを隙あらば利用しようと思っている。

③ジョーンズさんには犬猿の仲であり大嫌いな隣人のスミスさんがいる。

④ブラック医師はスミスさんの奥さんと浮気していて、ブラック医師にとってスミスさんは邪魔で仕方がない。

⑤そんなある日、ブラック医師がジョーンズの頭の中にチップを埋め込む。そのチップはどんなチップかというと、「24時間後にジョーンズがスミスに殺意を抱かない場合にはジョーンズにスミスへの殺意を確実に抱かせるようなチップ」である。

⑥それで、24時間後にどうなったのか。ジョーンズはスミスを殺害したのである。しかし、実際に警察が調べてみると、ジョーンズの頭の中に埋め込まれたチップは作動していなかったことが分かったのである。

⑦この時、ジョーンズに責任はあるのだろうか。

⑧多くの人は「ジョーンズに責任はある」と考える。チップが作動してからスミスを殺したならば「ジョーンズに責任はない。ブラック医師に責任があるだけだ。」と答えるだろうが、チップが作動していなければ「ジョーンズに責任はある」と多くの人は答えるのだ。

⑨このフランクファート事例から何が言えるのか。チップが作動する場合と作動しない場合というどちらの経路であれ「ジョーンズがスミスを殺す」という結果があたかも運命のように確実に定まっているとしても、「ジョーンズがスミスを殺したことを責めること」はできるのだ。どうやって責めることができるのかというと、ジョーンズの自由意志を責めるのである。つまり、決定論が正しかろうが正しくなかろうが、別のレベルで責任概念は生き残るという主張をフランクファートはしたいのだ。もっと言えば、❶責任概念、❷自由意志、❸決定論を全て守るというのがフランクファートがやりたい両立論の内実なのである。つまり「決定されているこの世界においても自由意志を根拠に責任は問える」というのがフランクファートの主張である。

 


(ただし、このフランクファート事例には批判も多くある。たとえば、ジョーンズに埋め込まれたチップは確かに作動しなかったけれども、チップが作動しなかった場合にジョーンズを激昂させてしまったジョーンズの怒りっぽさのような性格は結局生育環境などによって決定されていたのだから、やはりジョーンズを責めることはできない、という決定論者の反論は分かりやすい。しかし、このような決定論的な意見にさえ、さらなる反論が哲学者のストローソンから提出されていて、それはどういう反論かというと、「そもそも責任というのは、誰かがその人を非難したいと思う「反応的態度」に根拠をおくもの(=責任概念の源泉は反応的態度である)なのであって、誰も非難する人がこの世界にいなければ、責任など本来はこの世界にはないのだから、決定論が正しかろうが正しくなかろうが、もしもなんらかの行為によって反応的態度を取るものが現れたらそこに責任は生じうるのだ。だって、「責任があるからみんなが怒ったり非難したりするという感情的反応をする」のではなくて、「みんなが怒ったり非難したりするという感情的反応をするから責任があったことに後からなる」んだもん。もちろん「反応的態度を取るものがいる」というだけでは法的責任まで取らせるためにはまだ不十分で、法的責任を取らせるためには、各法律が要求する幾つかの構成要件をさらに満たす必要はあるけれどね。」という反論である。)

 

 

 

 

 

 

<問い:人間の意志は自由なの?>


【フランクファートの「2階の欲求」という概念】

フランクファート「人間は決定されているけれども自由意志はあるのではないか。欲求によって動かされているという意味では人間は決定されているのだが、その決定のされ方の中に、人間特有の自由意志というものがあるのではないか(=両立論)。」という理論の骨子は「2階の欲求」という概念である。「1階の欲求(たとえばお酒を飲みたい)」だけで行動するのは「人格」ではなく「欲格(ウォントン)」である。それに対して、人間は、「1階の欲求(=たとえば「お酒飲みたい」)」だけで行動するのはマズイので、こんなマズイ自分を変えて、「1階の欲求」だけで行動するのではないような、違う自分になりたいという欲求、つまり必要な方策を取りたいという高次の欲求を持つはずだ(=合理的な人間モデル)。これが「2階の欲求(=たとえばお酒のあるところには行きたくない)」である。また、「合理的な人間モデル」というのは、「マズイと思ったら必要な方策を取りたいと思う(=悪いと分かっているならばやめたいと思う)」ような人間のことである。フランクファートはこのモデルを前提している。また、「2階の欲求」によって、合理的と言われている人間も実は欲求に従って動いているのだ、というのがフランクファートの考えのポイントであった。それでは、「合理的に見える人」と「合理的に見えない人」との違いはどこへ行ってしまったのか。それは、「マズイと思うか思わないか」の違いということになる。フランクファートの議論だと、人はマズイと思ったら必ず必要な方策を取るはずなので、そもそもマズイと思わない人が非合理な人ということになる。「マズイと思う人」は合理的に見えて「マズイと思わない人」は合理的に見えないのである。では、「(マズイと)わかっちゃいるけどやめられない」という類型はどうしたらいいのか。そういう人は、楽観主義(=「これでいいのだ」、とか「後でなんとかなるだろう」とかいう楽観的な考え)や自信過剰などの色々な認知バイアスによって、本当は現状のマズさが分かっていないのだ。だから必要な方策が打てないし、「2階の欲求」も持てないし、自分を変えることもできないのである。したがって、人間の「意志」を上記の構造で説明したフランクファートによれば、人間は「2階の欲求」を持てるので、人間には自由意志がある。ただし、本当に決定論と自由意志論の両立が可能なのかどうかにはかなり反論がなされていて、現在はむしろ不可能であると考えられている。

 

 

→人間はいずれ絶対に「出来事X」に直面せざるを得ないと決定されているとする。たとえば、出来事Xの中身は「受験に失敗する」でもいい。しかし、「出来事X」に至るまでのルートにはマクロに見ると複数個あり、人間には「2階の欲求」によってそれらのルート間のルート変更が可能であり、そのルート変更は「出来事X」の通過後に自分を良い方向へ持っていってくれるかもしれないのだから、無駄にはならない、という議論ができるのが両立論の魅力あるいは意義である。たとえば、「努力しなかったり他人を傷つけて受験に失敗する」と、その後で非難されるかもしれないが、「努力したが受験に失敗する」とその後で賞賛されるかもしれない。そうすると、「どうせ落ちることは決定されている」としても、「だから受験勉強を適当にやればいいや」とはならず、そこまでの向かい方は人間には自由に変更でき、その変更の仕方に応じた自己実現ができ、その意味で人間には自由意志があると言ってもよい、とフランクファートは主張したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:誰が自由意志を否定したがるの?>


【自由意志を否定したいのはなぜか問題】


「自由意志は幻想だ」という論文を学生たちに読ませてからイカサマ可能なゲームを行わせると、何も読ませずにイカサマ可能なゲームを行わせた統制群よりもイカサマが増加したという研究結果がある(Vohs and Schooler, 2008)。この研究結果は、「イカサマはしたが、自分に自由意志はないのだから自分を責めることはできない」という言い逃れのために自由意志否定論が必要とされている(=「自由意志否定論は言い訳や責任逃れに使われている」)ことを示唆しているとも解釈できる。しかし、論文を読ませるだけで人間の行動は変化するのだからやはり外部要因によって人間はコントロールされておりやはり人間に意志の自由などないという解釈をする人もいる。

 

 

 

 

 

 

<問い:合理的に考えたらいいんじゃないの?>


【合理性の限界】


「目的(あるいは選好)があって、その目的を達成するために①情報を駆使して②論理的推論をするならば、最適解に辿り着ける」というのが合理主義である。


しかし以下の3つの反例が合理主義にはある。❶と❹は①と②でむしろ不合理になる事例。❷は①と②では多すぎるような事例。❸は①と②では不足であるような事例である。

 


❶「囚人のジレンマ」状況においては、①②どちらも満たされているのに、まさにそのことによって、「2人とも相手を裏切って2人とも懲役が多くなる」という解答にたどり着いている(ただし2人の囚人がもう二度と会わないであればの話だが)ので、「懲役が少ない方がいい」という観点からすると、最適解にはたどり着いていない。(逆に、もしも囚人のどちらもが「自分は絶対に友達を裏切らない」みたいな「不合理なポリシー」を「変化を許容するがよっぽどのことがない限り安定的に(=prima-facieな仕方で)」持っていれば2人ともが最適解に辿りついていた可能性はある。)

 


ロールズの正義の原理においては、「自分がどういう状況であるのか」という①情報がなければないほど最適で公正な最適解(= 自分がどうなっても自分が困らないようなルール)が出せるとされる。

 


❸ デイヴィド・ゴティエの「相対的譲歩のミニマックス原理(MRC)」:①情報を駆使して②論理的推論をしても全然足りない。これだけじゃ最適解は出せない。むしろ一般論ではなくて相手が譲歩をすることで何かを失ったり諦めたりする時の痛みの量を調べてそれを最小化しなければ最適解とは言えない(ゴティエ『合意による道徳』での合理主義的契約論)という理論。つまり、「相対的譲歩のミニマックス原理」とは、「いろいろな選択肢があり、そのいずれもが自分が譲歩しなければ相手が協力してくれないとして、そのなかでもっとも自分が譲歩しなくてよい選択肢を(当事者が互いに)選ぶこと」である。これによって協調が成立しているとゴティエは説明している。別のより詳しい定式化でもこの原理も見ておこう。

 


相対的譲歩のミニマックス原理(principle of minimax relative concession)とは、「交渉後の結果が交渉者の要求に応じてある範囲に定まったときに、各人の結果が決定されるためには、交渉者の一部あるいは全ての者は譲歩しなければならず、さらにその譲歩が最も大きくなければならない者の譲歩が最小でなければならない。」という原理である。ゴティエによれば、交渉を進める際、交渉者間でこの制約が守られているほうがより合理的だとされる。この原理はどういうときに用いるのだろうか。この原理があるとなにがそんなに便利なのだろうか。そもそも、協力関係というのは、関係者すべてが、協力することでしない場合よりも多くの利得を得る場合にのみ成立するのだが、各参加者が協力から得る利得は、協力の内容次第でさまざまに変わりうる。しかし、ここで全員が期待できる最大の利得をえられるような選択肢があればよいが、ない場合には誰かが(おそらくは全員が)譲歩しなくてはならない。このような状況で合理的な行為者たちが取引を成立させるには、全員が納得できる条件にすること、すなわち譲歩しなければならない量をなるべく公平にすることになり、そのための原理がこのミニマックスな相対的譲歩の原理ということになる(Gauthier, D. (1986) Morals by Agreement. New York: Oxford University Press, ch.5., p.133-p.146)。

 


❹ふたつの壺における情報カスケードの理論。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<問い:やらずに後悔するよりやって後悔した方がいい?>


【やらなかった後悔かやっちまった後悔か問題】


[実験内容(マッテオ・モッテルリーニ著、泉典子訳『経済は感情で動く---はじめての行動経済学紀伊國屋書店、p112-p113、2008年)]

 


[ケース①]

近日中にまとまった金が必要で、マンションを売ることにした。現金を準備しなければならない期限は明日である。昨日ならば1500万円で売る買い手がいたのだが、もう少し値段があがるほうに賭けてそこでは売らず、今日になると1000万円で買うという買い手しかいなかったので、1000万円でやむなく売ることにした。明日の現金準備には間に合ったが素早く動かずに好機を逃したことを後悔することになった。

 


[ケース②]

近日中にまとまった金が必要で、マンションを売ることにした。現金を準備しなければならない期限は明日である。昨日1000万円で買うという買い手が現れたので、その場で善は急げだと思って売ってしまった。そうしたら、今日になって1500万円で買おうという買い手が現れたのである。明日の現金準備には間に合ったが焦ってヘマをやっちまったことを後悔することになった。

 


→さて、ケース①とケース②はどちらも「1500万円手に入れるチャンスを逃して1000万円手に入れた」という事例である。しかし、このとき、ケース①とケース②でどちらが後悔するかには差が出た。アンケート調査の結果によるとケース②だったという。つまり、「素早くクイックリーに動けばよかった」という動かなかった後悔よりも、「なにもしなければよかったのに余計なことをやっちまった」という動いた後悔の方が大きいのである。なぜだろうか。

 


→答えは人間はリスク回避傾向の人が多いからである。例えば、「今から10万円あげる。でも、ひとつ提案がある。ここでコイントスをして表が出ればさらに追加で10万円あげるけど、裏が出たら何もあげない。そもそもコイントスなんかしなければ5万円を即座に追加であげる。さて、コイントスしてみる?」と言われたら、いくら期待値が同じでもコイントスをする人は少ないだろう。むしろ、コイントスなんかせずに安全な5万円を追加でもらって総計15万円を確実にもらいたいはずである。逆に、もしコイントスというギャンブルをしてしまって、裏が出てもらえる金額全部で10万円になったら悔しくて仕方ないはずだ。余計なこと、つまりギャンブルなんかに乗り出すという「普段のリスク回避的な自分ならばありえないこと」をわざわざ自分からしておいて、それに失敗したのだから後悔が大きいのだ。つまり、「やらないことを選べたし、リスク回避傾向ならば普通はやらない方をあえて無理して選んでいる分だけ後悔が大きくなる」わけである。では、どんなときに人はギャンブル(賭け事)への抵抗感は薄れるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<問い:ギャンブルしたいのはどんな時?>


【人はどんな時にギャンブルに乗り出すのか問題】


[賭けへの抵抗感が強いケース①:利得局面]

「今から君に10万円あげる。でも、ひとつ提案がある。ここでコイントスをして表が出ればさらに追加で10万円あげるけど、裏が出たら何もあげない。そもそもコイントスなんかしなければ、5万円を即座に追加であげる。さて、コイントスしてみる?」

 


[賭けへの抵抗感が弱いケース②:損失局面]

「さっき君にあげた20万円、手違いがあったから5万円返金して欲しいんだ。もともとは15万円をあげる予定だったんだよね。でも、ここでひとつ提案がある。ここでコイントスをして表が出れば20万円、そのままでいいよ。でも、裏が出たら5万円ではなくて10万円を返金してほしい。そもそもコイントスなんかしなければ当初の予定どおり5万円を普通に返してほしい。さて、コイントスしてみる?」

 


→ケース①もケース②も、ギャンブルに乗り出さなければ15万円がもらえるというだけの事例である。しかし、調査してみると、同じ人でも、ケース①よりもケース②のほうがギャンブルに乗り出す可能性は高いそうだ。なぜこの違いが生まれるのだろうか。

 


→何もしなくても何かが得られるというとき、それを利得局面という。何もしなくても何かを失うというとき、それを損失局面という。利得局面では人は確実にそれを確保しようとしていく傾向にあり、損失局面ではどうせ損するんだし、一か八か賭けに出ようと思う傾向にある。なぜこんな傾向があるのだろうか。生存競争をしていて確実に何かを食べれなければ死ぬという時に、そこで一か八かで大物狙いばかりしていたら死んでしまうのである。だから、そういうリスク愛好傾向を持つ人はみんなそこで大物狙いをしたので死んでしまって、生き残った人々はこれから何かを獲得しようという局面ではリスク回避傾向になっているというのだ。これから転職するという場面で人間が二の足を踏みやすいのもこれが理由で、今の会社にどれだけ不満があろうとも、毎月今のままでいればお給料がコンスタントにもらえるという利得局面であることには違いないのである。それゆえ、これから転職に成功して大金持ちになれるかもしれないとしても人間はそこでその転職という賭けになかなか出れなくて苦しむのである。たとえば、今の会社から極めて低い水準の給料しかもらっていなくて、たとえ転職の成否がどう転んだとしても明らかに転職したほうが本人にとっては得なのに、それでも転職に乗り出さないような人がたまにいるのは、これが理由である。

 


→もうひとつこの問題には答え方がある。人間はなぜ損失局面ではリスク愛好的になるのか。それは、人間が痛みがとにかく嫌いだからである。賭けへの抵抗感が弱くなるケース②では、一度手に入った5万円がこれから無くなろうとしていて、既に得た5万円に愛着があるというだけでなく、それを失う痛みがギャンブルをしないと確実に訪れるのである。それに対して、ギャンブルをすると、より大きな痛みの可能性がある代わりに、痛みが確実ではなくなっているのである。損失局面において、人は確実な痛みよりも、痛まないかもしれない可能性に惹きつけられてしまう。だから、確実な痛みを回避して「ギャンブルに逃げてしまう」ということが言えるのだ。そうすると、そもそもギャンブルというのは勇敢な行為なのだろうか。普通、チャレンジというのは、絶対確実に成功するようなものをチャレンジとは言わないのでチャレンジとはギャンブルであり、チャレンジはそのようなリスクを引き受けていくという意味で、「逃げ」の対極にあるようなものだと考えられているかも知れないが、実際にはチャレンジには「痛みからの逃げ」として選択されるような側面があるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:人は基本的に保守的なの?>


【期待値と期待効用と確実性等価】

「1の目が出たら3000円もらえるギャンブル」があるとする。このギャンブルの根元事象は「1の目が出る事象」「2の目が出る事象」「3の目が出る事象」「4の目が出る事象」「5の目が出る事象」「6の目が出る事象」である。このギャンブルにイカサマはないので、「同様に確からしい」とすると、それぞれの根源事象が同じ確率変数「6分の1」を割り振られる。そしてそのそれぞれの確率変数に「実現値」をかけるのである。「1の目が出る事象」の「6分の1」のみに3000円をかけてやると500円となり後は全部0円なので、期待値は500円となる。この場合期待値は「E(x)=500」と表記したりする。期待値(expectation value)と期待効用(expected utility)は違って、お金だとたくさんもらっても嬉しいが、りんごだとたくさんもらっても嬉しいとは限らないので、期待値と期待効用の差が大きくなる(「限界効用(=財を1単位追加した時の効用の増え)逓減の法則」。ちなみにヒトの効用の逓減の仕方は底が2の対数関数に似た形を描くとされている)。期待効用とは、「不確実性を伴う意思決定を行ったときの様々な結果に対する満足度、すなわち効用について、各結果が生じる確率で加重平均したもの」のことである。では、「何もしてないのに500円もらえるのと、1の目が出たら3000円もらえるギャンブルに無料で参加できるのとどっちがいい?」と言われたら、どうしたらいいのか。期待値が同じなのにリスクを愛する(risk-seeking)人ならば参加し、リスクを嫌う(risk-averse)人ならば参加しない(ちなみに、完全にニュートラルな人ならばここでビュリダンのロバ状態になってフリーズしてしまう)。よって、人間は期待値だけではなく、むしろ「効用(=満足度)」を考慮に入れて行動しているようだ。つまり、「不確実状況の中、何をもって自分の満足とするか」ということを示す「効用関数U(x)」でもって動いていることになる。たとえば、「このギャンブルをするくらいなら400円でももらったほうがマシだ」というリスク回避傾向の人の心理状態は、効用関数では「U(E(x)=500)<U(確実な400円)」という具合に書ける。この「確実な400円」という値のことを「確実性等価」という。確実性等価とは、リスクのある投資から得られる期待効用と同等の効用水準が獲得できるリスクのない投資から得られる経済価値のことである。期待値(この場合500円)から確実性等価(この場合400円)を引いた値を「リスクプレミアム」と呼び、リスクプレミアムが正になる人はリスク回避型、負になる人はリスク愛好型、ゼロになる人はリスク中立型と呼ぶ。ただし、同じ人はいつもどれかの型になるとは全然言えない。たとえば、ダニエル・カーネマンとトベルスキーが論じた「プロスペクト理論」によると、人間は同じ人でも、利得局面ではリスク回避型になり、損失局面ではリスク愛好型になるとされる。「利得局面」とは、どうせ何もしなくても獲得できる状況(=たとえば収入が安定している状況)のことで、「損失局面」というのは、どうせ何もしなくても損失する状況(=収入が安定しておらず、支出のほうは安定していて、このままだとどうせお金は無くなっていく一方なのだから一か八かどうにかパルプンテして、状況が好転しないかなと思っているような状況)である。たとえば、「これから5万円何もしなくてももらえるのと、2分の1の確率で10万円もらえて2分の1の確率で0円になるのとどっちがいい」と言われると人間はこのギャンブル提案をたいてい断るのだが、「何もしなくても今から5万円を失うのと、2分の1の確率で何も失わなくなって、賭けに外れたら10万円失うことになるのとどっちがいい」と言われると人間はこのギャンブル提案に乗るかもしれないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<問い:チャレンジする人には勇気があるの?>


【チャレンジという逃げ】

そもそも「君はギャンブル好きだね」とか「君は堅実だね」などと、ギャンブルに乗り出すか乗り出さないかということを決めているのがその人のパーソナリティであるかのように言って、どんな状況でもその人がギャンブルに乗り出すか乗り出さないのかはその人の中で安定して性格として定まっていると考える人が多いが、実際にはそうではない。人は、まったく同じ個人でも、利得局面ではギャンブルへの抵抗感が大きくなり、損失局面ではギャンブルへの抵抗感が少なくなるのだから、ある人がギャンブルに乗り出したからといって、その人がいつでもギャンブルを好む性格なのだとまでは言えないのである。たとえば、お金が全然ない人が、競馬やパチンコ屋に通い詰めているのをみて、「こいつらカネがなくてカツカツなはずなのに、なんでこんなことばっかりやってるんだアホかよ」と思うかも知れない。しかし、彼らはたまに手に入るほんのわずかな給料が、いずれは生活費として消えていくことがほぼ確定しているような状況、つまり、確実に痛みがやってくるような、そういう損失局面にあって、その確実にやってくる痛みからもしかしたら自分を救い出してくれるかもしれない救いの糸として競馬やパチンコがあるのである。つまり、競馬やパチンコは彼らにとってチャレンジでも冒険でもなくて、用意されている逃げ道なのだ。そして、彼らが性格としてパチンコや競馬が大好きな性分だから通い詰めているのだという認識は間違っている可能性が高い。というのも、もしも彼らがその後生活が安定して収入がコンスタントに得られるようになると、その資産をもっと安全な手段で守り、計画的な資産運用や貯金などで増やそうとして、むしろギャンブル要素なんか嫌いだと言い出すかもしれないからだ。彼らは挑戦しているのではなくて、むしろ挑戦させられているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

<問い:効用ってなに?>

 


【効用の割引率】

そもそも「効用(utility)」とはなにか。効用とは「満足度」やあるいは「効き目」という日本語の意味内容に近い概念である。満足度の単位をイイネだとすると、牛丼を食べた時に100イイネを押す人と、10イイネしか押さない人がいるのは当然の話だろう。この効用を関数化したものが効用関数U(x)である。たとえば、

 


ケース①:今買うと10万円のスマホが半年待つと8万円になる。値段の割引率は0.2である。

 


ここにaさんとbさんがいるとする。aさんにとって、このスマホを今買うのはU(a)=5で、aさんにとって、このスマホを半年後に買うのはU(a)=20だとする。また、bさんにとって、このスマホを今買うのはU(b)=15で、bさんにとって、このスマホを半年後に買うのはU(b)=20だとする。このとき、bさんはaさんと同じように半年後にこのスマホを買うのが合理的に思える。しかし、bさんはここで買ってしまうことが多い。なぜならば、効用の割引率で見ると以下のようになるからだ。

 


5=20/1+R(a)ゆえにR(a)=3

15=20/1+R(b)ゆえにR(b)=1/3

 


よって、aさんにとって効用は半年待つだけで3倍増えるが、bさんにとっては効用は半年待っても3分の1倍にしか増えないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:今は今判断する人を惑わせるの?>


【割引率rの不思議:「今」という沼】

①10年後に100万円もらえる銀行

②12年後に103万円もらえる銀行


③今100万円もらえる銀行

④2年後に103万円もらえる銀行

 


→割引率rは0.03で同じなのに、①と②の比較だと②が選択されるのに③と④の比較だと③が選択されるのはなぜなのか。

 

 

 


<問い:ダイエットがうまくいかないのはなぜ?>

 


【双曲割引:朝令暮改する人間】

たとえば、突然100万円の臨時収入(ボーナス)が手に入るとして、次のように言われたとしよう。

 


提案P:「今100万円あげるんだけど、1年間我慢してくれたら来年103万円にしてあげるけど、どうする?」

 


この提案Pを言われた時にこの提案を飲む人は少ない。しかし、

 


提案Q:「今から10年後に100万円あげるんだけど、その時、そこから1年間待ってくれたら今から11年後に103万円にしてあげるけど、どうする?」

 


この提案Qを言われるとこの提案を飲んで1年間待てる人が増える。

 


→「1年待った結果得られる同じ利益に対する評価が今の時点と将来の時点で変わること」を「時間的非整合」と言う。そこで「待っても待たなくてもどちらでも良いと思える割引率(=たとえば「割引率が0.04ならば来年104万円だから絶対待つけど、0.03だったら待っても待たなくてもどちらでもよい。0.02だったら待っても102万円になるだけだし、絶対待ちたくないので今すぐ100万円欲しい」という場合には0.03がグラフにプロットする値となる。さきほどの提案Qならば0.03でも待てるが、提案Pならば0.1でさえ待てない人もいるかもしれない。)」をグラフ上にプロットしていきその時間変化をグラフにすると双曲線の片方のような図形になるのだ。これを「双曲割引」と呼ぶ。合理的経済人であれば割引率と時間のこのグラフは変化せずグラフは直線になるはずである。

 

 

 

→朝は「Rしろ」と言っていたのに突然夜になると「Rするな」と言う人を「朝令暮改」というが、これを一貫性がないと言うのであれば、双曲割引にも一貫性がない。たとえば「10年後の自分はお菓子を食べるのを我慢してその分だけ健康になるべきだ」と言っているような人が、舌の根も乾かぬうちに「いま目の前にお菓子があったらそのお菓子を食べるべきだ」と言うのである。そしてこの人は、実際10年後がやってくると、そこはもうそのときの「いま」なので、結局そのお菓子を食べてしまうことになる。「今がよければいい」場合、そのいまは常にいまなので、ずっと「今がよければいい」と言い続けることになって何も変えないのだ。もしも一貫性を備えた合理的経済人であれば、今だろうが10年後だろうがお菓子の価値は一定時間我慢することの価値より小さいから我慢するべきだと言うか、もしくは、今だろうが10年後だろうがお菓子の価値は一定時間我慢することの価値より大きいから食べるべきだと言うはずであるが、ふつうの人はそのようには考えていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:私たちは自分たちの一貫性に気づいてないの?>

 


【一貫性の要求】


[希少な薬の事例]

ある患者は生存のために希少な薬を大量に投与することを必要としている。

その薬を他の患者5人に投与すれば、5人の命を救うことができる。

手元にある薬の量は、増やすことができない。

大量投与が必要な患者に投与すべきか?

それとも5人の患者に投与すべきか?

 


[臓器移植の事例]

病院に5人の患者がいて、それぞれ異なる臓器の移植を必要としている。

そこに臓器は健康な患者が現れた。その患者を殺して臓器を移植すれば5人助かる。

その患者を殺して、臓器を取り出すべきだろうか?

 


[多くの人が抱く直観]

希少な薬の事例→1人の患者ではなく5人の患者に投与すべき

臓器移植の事例→5人のために1人の患者を殺すことは許されない

 


[一貫性の要求] 

同様な事例については、同様な判断を下さなければならないという要求のこと。ただし、よく似た状況について異なる判断を行う場合、道徳的に重要な違いを指摘できなければならない。では、2つの事例の重要な違いとは何か?

 


倫理学におけるー貫性の要求とは、「同様の事例については同様の判断を下さなければならなくて、異なる判断をする場合には、道徳的に重要な違いを指摘できなければならないという要求」のこと。この「一貫性の要求」を用いて事例を分析することで、倫理に関する有益な知見が引き出されうるとされる。

 


[一貫性の要求を使って2事例を批判してみる]

最初の2つの事例は、「少数の犠牲により多数が助かる」という点で同様の事例である。一貫性の要求に従うならば、「少数の犠牲により多数を助けることは許される」、または、「少数の犠牲により多数を助けることは許されない」というどちらかにー貫した判断を下さなければならない。

 


[2つの事例において考えうる違い]

フィリッパ・フット(1967年)の考え。

 


希少な薬の事例→同質の義務を比較している

臓器移植の事例→異質の義務を比較している

 


希少な薬の事例では、5人に対しては人命を救うという積極的義務と、1人に対しては人命を救うという積極的義務との比較がなされている。この場合、犠牲が少ない方が優先される。

 


臓器移植の事例では、5人に対しては人命を救うという積極的義務と、1人に対しては人命を奪わないという消極的義務との比較がなされている。この場合消極的義務が優先される。

 

[上記の議論からわかること]

われわれが持つ倫理的判断の傾向がわかる。

われわれは、同質の義務を比較しているときには、犠牲の量が少ない方を優先し、

異質の義務を比較しているときには、消極的義務の方を優先する。

 


→では、「中絶反対で死刑制度存置に賛成のトランプ支持者」を一貫性の要求を用いて分析するとどのような違いが指摘できるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<問い:人間は割合で考えてしまうの?>

 


【一貫性の要求の応用】


[ケース①]1万円の靴が、1ヶ月後には8000円になる。


[ケース②]10万円のパソコンが、1ヶ月後には98000円になる。

 


→ケース②のようなことは、例えばスマートフォンのようなモデルチェンジの多い業界では普通に起こることで、6ヶ月待つと価値が3割下がるなどということは普通に起こることなのである。

 


→100円のリンゴを買うとき、リンゴと100円がトレードオフの関係(=たとえば「飲むなら乗るな、乗るなら飲むなYou can't drink and drive.」)にあるように、①と②では、2000円と1ヶ月早く得られる権利がトレードオフの関係(=2000円を手に入れるならば1ヶ月早く得られる権利を手放さなければならず、1ヶ月早く得られる権利を手に入れるならば2000円を手放さねばならない)になっている。このとき、「一貫性の要求」に従うと、①では待てるのに②では待てないことを正当化するためには①と②の間に重要な違いの指摘が必要である。というのも、①において取られた、「2000円のために1ヶ月待つという姿勢」が②では一貫していないからである。

 


→割引率rが①では20%で、②では2%なのである。20%割引と言われるとお得感があるが、2%割引と言われてもお得感がないのでこういう行動傾向になるわけだ。しかし、大きな買い物ほど割引率というのは総じて低くなることはあまり気付かれていない。たとえば30%引きのお弁当はあっても、30%引きの家というのは滅多にない。千円のお弁当は30%引きでも300円しか儲けを減らさなくていいが、1億円の家を30%引きにして3000万円儲けを減らすことは考えにくい。(もしそのような商売があるとしたら、もとから6000万円の家を手に入れて、まずその家が1億円の価値があることにして、そこから30%引きにして7000万円で売る、くらいしかないのだ。)ここから言えることは、「人は高い買い物ほど、待った結果生じる変化には意味がない気がしてしまって、待つことができない」ということである。お弁当などの小さい買い物ではコツコツと節約するくせに大きい買い物ではなぜかこれくらい大丈夫かと思い切って無駄遣いしてしまう人の心理はこれである。次の場合でも同じことが言える。

 


[ケース①']1万円の靴が、10分歩いたところにある別の靴屋では8000円で売られている。


[ケース②']10万円のパソコンが、10分歩いたところにある別の電気屋では98000円で売られている。


→「10分歩かないで済む」ということを2000円を払って購入していると考えたら、大金持ちは別としても、ケース②'で買ってしまう人は減りそうである(機会費用という考え方)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:授業中の居眠りは無料なの?>


機会費用という考え方】

人は選択しなければ生きていけない。優柔不断なため迷って、何も選択しなければ何も選択しないという選択をしたことになってしまう。ところで、「ある選択Aに対して、その選択Aをしたことで選択できないことになった代替的選択Bによって生じる利益をAのコストとして考えること」を「Aの機会費用を考える」という。たとえば、学生がテスト対策をする授業をサボって居眠りをするかどうか、迷うとする。この場合、この居眠りの機会費用は、居眠りをしない場合に得られた2単位分の単位である。よって、ただ居眠りをするように見えて、実は高価な代金を支払って居眠り(=2単位を払って昼寝をする)をしていると考えてもよいわけだ。ただし、もちろん単位を取りまくっている学生だったら単位の価値はないから高価な昼寝とはならない。

 

 

 

 

 

 

 


<問い:なぜ最低の彼氏と別れられないの?>


【サンクコスト:払い終わって回収不可能な費用】

 


我々の世界は不確実性であふれており、Xにとりかかるよりも前に最初からXが失敗するかどうかなんて分かりっこない。取りかかっていくうちにだんだんと概要が見えてきて、かなり初期投資(時間・体力・資金など)を払ってしまったあとでようやく、これ以上やっても無駄であるとか、これ以上やるとむしろデメリットが発生するなどということがわかってくる。そのとき、失われた時間はもう二度と戻ってこない。つまり、初期投資は無駄になってしまうのだ。その場合に、そのもう払ってしまった初期投資に我々は意味を見出したくなってしまうのだ。それゆえに我々は泥沼事業などをやめられないのである。恋愛で振られた男がこれ以上相手に愛を傾けても無駄と分かってもそのことが認められずにストーカーになることがあるが、このサンクコストに対する心理が関係しているのではないかと言われている。

 


→さらにサンクコストに振り回されるかどうかは、そもそもお金持ちかどうかにも関係する。例えば、

 


❶資産を1億円持っている人が50万円なにかの事業に投資して、途中でうまく行かなくなってきても、それ以上潮目がまずくなって株券が紙屑になるほど価値が下がり切る前にすぐに投資を引き上げて、即座に次の事業を探せる。

 


❷資産を70万円持っている人が50万円なにかの事業に投資して、途中でうまく行かなかくなったら、「いや、頑張ってくれよ!俺の最後の一か八かのチャンスなんだよ!」と思ってしまってなかなか投資を引き上げることができないのである。そして、「残りの20万円も投資してください。そしたらきっと事業が上向きます!」と言われるとその20万円さえ注ぎ込んでしまうのだ。つまり、損切りできないのである。こうして、貧乏人ほど、その泥沼事業に飲み込まれていくのだ。

 


→つまり、この❶❷を元にした理論が正しければ「モテない男の方がストーカー化しやすいのではないか」とも言える。

 


→なぜ❶と❷の違いが生じるのか。これは、サンクコストの重みが全然違うからである。❶のひとにとっては、失われてもう戻ってこなくなった50万円というのは全体の資産総額からみたらミジンコみたいなものだが、❷のひとにとっては全体の資産総額からしたら凄まじい価値評価を与えられていて、このサンクコストに対する価値評価の差が、同じサンクコストでも全然違う結果を生み出すのである。

 


[ケース⑴]

①1万円でライブのチケットを購入した。

②その後、当日大雪になってさらに交通費で1万円かかる。

③このライブに行くか、それとも行かないか。

 


[ケース⑵]

①今日はライブの当日で、大雪である。大雪であるからライブ会場に行くのに交通費で1万円かかる。

②ライブ会場にたどり着けば、1万円でチケットが購入できることが分かっている。

③このライブに行くか、それとも行かないか。

 


→どちらも2万円払うことは同じなのに、ケース⑴とケース⑵では判断が異なる人がいる。熱狂的なファンならばどんな場合でも行くだろうが、ケース⑵の方が普通は行かない人の方が多い。それゆえ、人はサンクコストに弱いのだ。これは前売り券が有効である原理である。ジムの入会費をたくさん払わせると、途中でヘルニアになって運動しにくくなっているのにジムから退会しにくくなるのもこれと同じ原理である。あるいは「5年間付き合った、今や暴言を浴びせてくるようになっている交際相手とどうしても別れられない」のもサンクコストに引っ張られていると言える。ただし、サンクコストを払ってそれに引っ張られるのが悪いことばかりとは限らない。たとえば、ジムに入会費を払えば元を取ろうとして運動習慣が身に付いたり、高い教科書を買えば無駄にしないために勉強習慣がつくかもしれないからだ。

 

 

 

 

 

 

 


<問い:損と不平等はどっちが人気なの?>


最後通牒ゲーム:不平等嫌悪】

→人間は、お金が欲しいけれど、それだけではない。


まず、1000円(金額はいくらでも可)があるとして、提案者となるAさんが、Bさんに、ある金額を提示してふたりでお金をわけようと提案する。例えば、Aが300円と提案すれば、Aさんは700円、Bさんは300円となる。BさんはAさんの提案をうけてもよいし、拒否する自由も持っているとする。このときあなたがAさんだったらいくら提案するか。また、あなたがBさんだったたらいくら提案されたら拒否するか。ただし、この時拒否したら最初の1000円は没収されて、AさんもBさんも1円も受け取ることはできまない。またAさんはたった1回しか提案できず、AさんとBさんはまったく面識がなく、別室に入れられてこのゲームをしているとする。ちなみに、経済学的に期待される合理的な行動は、Aさんが1円以上であればたとえいくらの金額を提示しても。Bさんは受諾するというもの。

 


→この実験、先進国ではおおよそAは400円程度を提示してBはそれを受け取る。でも、元々の値段が10億円で提案されたのが1億円だったら不公平でも受け取るのではないかという批判もある。共同体ごとに最後通牒ゲームを使って不公平嫌悪の度合いを調査をした研究もある(Henrich et al., 2001)。

 


→しかし、怠けてる上司が時給1万円で上司よりも頑張って働いている自分の時給が2000円だった場合に、不公平を感じて、同じ労働量だけど時給が1500円で上司の時給は2000円という公平な職場に転職するということはありえるかもしれない。それくらい人間は不公平が嫌いなのだ。他の例として、たとえば、夫がものすごく働き者でたくさん家計に金を入れているのだが、家では家事をほとんどせずに専業主婦の妻に家事を任せきりにしているという場合に、夫が「誰の金でメシが食えていると思っているんだ。家事くらい俺の分もやって当然だろ」と要求しても妻はそこに不公平感を感じて、いくら潤沢なお金がもらえるとしても不公平な職場であるその夫との結婚生活から離れたくなるかもしれない。

 


→追加問題:「今日の初デート、いろいろデートの計画をしてくれたおかげで超楽しかったからお礼に1万円あげる。このお金は別に素晴らしい夜景を見せてくれたお礼とか契約とか交換とかではなくて、ただあなたが好きだからそれをお金という形式であげているだけ。誕生日プレゼントやお年玉でプレゼントがお金とか商品券のこともあるでしょ。」と言われたら受け取るか、それとも受け取らないか。その選択の理由も答えよ。

 


→お金にはそれ自体とは別にメッセージ性がある。手作りのバレンタインチョコレートのほうが3000円のゴディバのチョコレートよりも市場価値が低いのに喜ばれるし、3000円のゴディバのチョコレートのほうが3000円よりも喜ばれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<問い:「1」は特別なの?>


【統計による心理的麻痺と共感の限界】

 


[事例①:統計を使う場合]:アフリカでどれだけ貧困問題が深刻かというデータを掲載して募金を集める。(slovic, 2007, p.87-p.89)

 


[事例②:顔写真と個人情報を使う場合]:ムーサちゃんがどれだけ貧困に喘いでいるかをムーサちゃんが育ってきた背景や顔写真、具体的な個人情報とともに掲載して募金を集める。


[事例③:顔写真と個人情報を使って2人掲載する場合]:ムーサちゃんとロキアちゃんがどれだけ貧困に喘いでいるかをムーサちゃんとロキアちゃんが育ってきた背景や顔写真、具体的な個人情報とともに掲載して募金を集める。

 


→事例①より事例②の方が募金額が多くなり、事例③より事例②の方が募金額が多くなった。心理的麻痺とは、対象を数的あるいは統計的に認知すると共感の度合いが下がる現象のことである。「たったひとりの比類なきこの子」ではなく、「2人目のこの子」というふうに数で数えられるものとして認識されうるようになると、「なんとかしてあげたい」という共感の度合いは下がってしまうのだ。100人の美人が写っていて「こんなふうになれます」という広告写真よりも1人の美人が写っていて「この人みたいになれます」という広告写真の方がいいのは直観的にも分かる。「自分もああなりたい」と思えるのは1人の方である。

 

 

 

 

 

 

<問い:なぜ保険会社は儲かるの?>


【保険はリスク回避傾向の人(=臆病者)の集団を前提する】

1万人が暮らす町では全員が100万円の車をもっており、1年間に100分の1の確率で自分の車が町の外から来た泥棒に盗まれるとする。その場合、全員が1万円の保険に入ることは期待値と同じであり、保険会社は損である。というのもその場合、保険会社に集まる金額は1億円であり盗難は100件起き、そしてその100件に対してそれぞれ100万円ずつ補償をすると1億円だからである。これではプラマイゼロだから保険会社は儲からない。しかし、リスク回避傾向の人は、2万円払えばリスクをゼロにできるのであれば、この保険には2万円でも入るはずだ。こうして保険システムは成立しているのである。保険システムがすごいのは、具体的個人への共感を必要とせずして、全体として見ると被害を受けた不幸な人への共感を各個人がしているように最終的には見えてしまうところなのだ。人間の共感できる範囲には限界があるが、その限界を補おうとしているのが保険システムだと言えるのではないか。

 


経済学者の中には期待値1万円なのに2万円を払うような、このような賭け捨ての保険に入るのは意味がないという人もいるし、逆に、これこそが人類の知恵なのだという人もいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問い:精神分析は必ず当たるの?>

 


フロイト反証可能性

フロイトの理論は決定論モデルであり、反証可能性もないと言われている。なぜだろうか。たとえばフロイトに「あなたには、とてつもない性欲が無意識の領域にあるのだが、超自我があるから、バランスが成り立つことで普通の生活がやっていけているのだ」という仮説を唱えられた時に、これに対する反証はできるのだろうか。たとえば、フロイトにこう言われたその人を、1年間かけて監視したとしよう。もし問題行動がなかった場合には、「超自我があるから問題行動が起きなかった」と言われこの仮説が正しかったことになるし、もし問題行動が起きた場合には、「とてつもない性欲があって、超自我がそれをおさえられなかったということだ」と言われ、やはり仮説が正しかったことになるだろう。ということは、この仮説は、実験によって反証できる可能性がそもそもない仮説なのだから、この仮説をテストをする意味などそもそもないのだ。科学的な実験や観察が意義を持たないので、これを科学的仮説とはいえないだろう。つまり、どうなっても当該の主張を実験によって確かめることになってしまうので、当該の主張を実験によって確かめるということができないのである。全て当たりなので絶対に当たってしまう宝くじを、当たるかどうか確かめてみても仕方がないのと同じである。この理論自体が現実を常に上手く説明できるような便利なものだとしても、「実験に左右されて正しいか正しくないかが変化しうるような仮説の総体」を「科学」と呼ぶのであれば、フロイトの理論は「科学」とは呼べないことになる。「ニュートン力学」が次の日食の日時を予言するとして、その日時に日食が起きなかったりすれば「ニュートン力学」を構成する仮説のうちのどれかは取り下げられなければならない(ただしどれかは決定できない:決定実験の不可能性)のとは対照的に、「フロイトの理論」には反証可能性がないと言われる。アドラーフロイト理論は決定論モデルであるとして批判した。つまり、フロイトは人間を物体であるかのように作用因(過去からのプッシュ型の原因)だけで説明したが、人間の行動には目的因(未来からのプル型の原因)も関与しているので、決定論は適用できない、と考えたのだ。なぜなら、人間はリビドーによって押し流されるばかりではなく、そんな自分を自由に変化させようともするからである。しかし、では、アドラーの目的論であれば反証可能性はあるのか、ということはまた別の問題である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下余談。

 


倫理学ポイント:雑な用語集】

 


旧約聖書という名前】

旧約聖書という名前からして、「旧約と新約を合本して「聖書」と呼ぶ」という観点をすでに前提しているからユダヤ教にとってフェアな名前ではない。むしろ、ユダヤ教旧約聖書のうちの最初の「モーセ5書(①創世記、②出エジプト記、③レビ記、④民数記、⑤申命記)」を「トーラー」と呼んでいる。

 

ユダヤ教と反芻】

ユダヤ教の戒律は厳格で、陸の動物だとヒヅメが割れていて、反芻消化をする動物は食べてもいい。たとえば、牛・羊はOKで、豚はヒヅメが割れてはいるが反芻しないのでNG。ウサギは反芻するがヒヅメが割れていないのでNG。海の動物だと、ヒレやウロコのある魚はOKで、エビやカニなどの甲殻類はNGである。

 

【福音】

新約=全人類の救済の約束=エウ・アンゲリオン(良い知らせ)=エヴァンゲリオン=人類救済の喜ばしいお知らせ=福音=イエスの生と死とそれによる全人類の贖罪とイエスの復活のプロセス

 

→ヨセフと性交渉がなかったマリアは石打ちの刑にされたくないので、結婚をなかったことにしようとした。


受肉:本来物質的でないものが物質化すること

贖罪:罪のないイエスが罪のある人類の罪を被って贖ってくれた

 

 

【シスマ】

西方教会カトリック=カトリクス(羅)=カトリコス(希)=カトリケー

東方教会=オーソドクス=オルソス+ドクサ=標準的な考え

ビザンティウムコンスタンティノポリスイスタンブール


381年コンスタンティノープル公会議の時に精霊は従来のように「父より出でる」のではなくて「父と子より出でる」ことが西方教会の正統とされラテン語に翻訳されてしまった。

 

 

プラトンイデア:真実在】

「犬はそれぞれ別々の犬なのに、全部犬だと言えるのは、全ての個別具体的な犬は一般的な犬のコピーだからではないか。」

→「お年寄りに席を譲る」のと「迷子の子供を助ける」のは全然似ていないが、どちらも「良いこと」だと言えるのはどちらも「善のイデア」と同じ関係をもっているからではないか。我々は個別具体的な「良いこと」どもを見るとき、それに内在している「善のイデア」との共通の関係を理性で見出しているのだ。

プラトンにとって世界は2つである。

「感覚経験の世界」と「イデア界」である。

イデアを理解するにはヌース(理性)が必要。

ヌースで理解したものをみんなで共有できるような知識とするには、ロゴス(論理と言語)を必要とする。

 

 

 

 


アリストテレスの中庸の徳】

【(羅:メソテース、英:the golden mean)】

アリストテレスにとって徳とは「卓越性」のことである。

そして中庸であることは卓越していると言える。

なぜならば、勇気は徳だが、無謀と同じではない。無謀では祖国を守れない。

また、臆病は勇気と同じではない。臆病な戦士は祖国を守れない。

無謀と臆病の中間にあって、中間だから何もしないのではないところに勇気はある。

然るべき時に然るべき行動を取れることが勇気である。

逃げるべき時には逃げれることも勇気である。

したがって、勇気を実現するためには「思慮深さ(実践知:フロネーシス)」が必要である。

 


アリストテレスの知識の分類】

①フロネーシス:思慮または実践知(己と状況と相手を知ってその都度適切に行動する)

②ヌース:直知(対象はイデア)

エピステーメー:学知(先人から受け継がれた伝統)

④テクネー:技術知(大工には大工の現場に密着した経験則がある)

 

 

 

アリストテレス倫理学:徳=卓越性】

アリストテレスのいう「徳」とは今でいう「機能美」に近い。ある子供が何かになるとして、政治家なら政治家、商売人なら商売人、スポーツ選手ならスポーツ選手としての潜在性(=デュナミス)がその子供の中に眠っていて、それを最大限まで引き出して、現実態(=エネルゲイア)とした状態が「徳のある状態」なのである。そうやって自分の潜在性を引き出した人は卓越しているのである。エネルゲイアが最高度になった状態を「エンテレケイア」と言ってこれは日本語で言うならば「完全態」である。エンテレケイアまで行くとそれは「最高善chief good」とも呼ばれ、人間にとってその最高善の状態に至ることこそが「幸福」と呼ばれるのである。

 


アリストテレスにとって広い意味で「理性とは幸福になるための必要条件である」とも言える。フローネーシスやヌースやエピステーメーを学ばなければ徳のある人になることはできないからだ。よって、イデア界にあるのではなく、徳(人間が目指すべき真・善・美のような理念)は個々人に内在していると考えていて、それを開花させなければならないと考えている点でアリストテレスプラトンよりも遥かに現実的ではあったけれども、理性主義であることはプラトンアリストテレスも同じなのである。

 

 

 

 


【ヒュームの倫理学:理性主義的道徳への批判】

ヒュームは、次のように道徳家たちに対する批判を行った。すなわち、理性主義者が「理性的に考えれば、AはBであって、BはCなんだったら、AはC<である>(三段論法)ね。」という主張をするのは良いが、「理性的に考えれば、PはQする<べき>ですよね」という主張はぜんぜん理性的ではない、とヒュームは主張したのである。つまり、理性の領分はあくまでも「〇〇<である>」に関することのはずで、「〇〇する<べき>」に関しては理性ではなくて、実は情念の圏域なのであるとして、「神の教えが理性によって分かる」とする当時の理性主義的な道徳家の越権を批判したのであった。むしろそれは神の教えではなくて、単に道徳家たちがそうして欲しい(=そうすることが感情的に是認に値すると道徳家たちが考えている)だけだろう、というのがヒュームの指摘である。要するに、「である論(真)」は理性問題であり、「べき論(善と美)」は情念問題だとして「真と善と美の一体化」に楔を打ち込んだ上で、「情念問題をあたかも事実問題であるかのように語るのはやめたまえ」と言うのがヒュームの理性批判(=理性の限界を見定めること)の骨子である。ヒュームは幸福になるためには、情念をうまく満足させてやればよいわけで、理性はそのために使役される「奴隷」、すなわち道具だと考えたのである。

 


プラトンアリストテレスは、理性によって初めて「何が善いのか」ということが分かり、それを実現することこそが幸福なのだと考えていたが、ヒュームはむしろ情念の最大限で最適な満足こそが幸福なのであり、無分別にひたすらケダモノのように情念を満たそうとするのではなくて、最適な仕方で情念を満足させるために使役されるものこそが、理性だと考えたのである。つまり、あえて対比的に言えば、「理性によって知られた善のために情念が奉仕させられるのが前者で、情念によって感じられた善のために理性が奉仕させられるのが後者」なのである。

 

 

 

デカルト:自然界とは巨大な機械である】

自然界とは巨大な機械である。よって動物も人間の身体も機械である。しかし、それでも人間だけには自由がある。なぜなら神様がその自由を与えてくださったからである。

 

 

 

【日本思想】

代表的な日本の思想である「神道系、仏教系、儒教系、道教系」のうち、一番早く伝来したのは実は道教で、4世紀のことである。道教はもともと老荘思想として中国で生じたが、だんだん政治色を失っていき、神仙思想や陰陽五行説となって日本にも入ってきた。平安時代に栄えた「陰陽道(おんみょうどう)」などは有名である。仏教が鎮護国家思想として日本に伝来したのは6世紀のことである。神道は古来から日本に存在したが、平安時代(794-1185)になると「神仏習合」が唱えられた。つまり、「神道における天照(=アマテラス)は仏教における「大日如来」と同一である」ということになった(=本地垂迹説)。このようにして日本にも定着した仏教であるが、鎌倉時代になると天皇家と距離を置いた武士ならではの宗教として鎌倉仏教が栄える。安土桃山時代になると寺の勢力を削減をしようとする戦国大名が現れ、仏教勢力は弾圧された。では、儒学はいつ栄えたのか。江戸時代である。というのも江戸幕府がせっかく打ち立てた秩序の安定のために宋(そう)の朱子学を取り入れて日本で発達したのが儒学だからである。ここでいう「秩序安定」とは天下泰平のことで、そのために役立つ「上下定分の思想」を儒学は持っていた。よって、この儒学は武士が学ぶべき必須の学問とされた。こうして並べてみると、仏教、儒教道教は大陸由来であるが、神道は日本列島に古来からあるものとされていることがわかる。だから、日本国家の正当性を示す学問として政治権力が神道を重宝するようなこともあった。たとえば、「惟神(かんながら)」という概念は、日本書記の第36代孝徳天皇の詔(みことのり)に始めて登場する。これは「神の道」という意味である。この概念はこれを研究する神道の成立根拠ともなり、この神の道に則ることが日本国の統治の正統性を示すものともされたのである。

 

 

天皇家のルーツ】

そもそも天皇家のルーツとなったのはどんな話だったのか。ヒノカグツチの話から始めるとよい。ヒノカグツチは、イザナギイザナミとの間に生まれた神である。ヒノカグツチは火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。それに怒ったイザナギに十拳剣(トツカノツルギ)である「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で斬られ、ヒノカグツチは殺されてしまう。そこでイザナギは黄泉国(ヨモツクニ)に死んだイザナミを迎えに行くのである。しかし既に死者の国の食べ物を食べていたイザナミは死人となっておりその姿に驚いたイザナギはあわてて逃げ帰ることになる。ヨモツクニから戻ったイザナギはケガレを落とすために水浴びをするのだが、その時に生まれたのが三柱の三貴子(ミハシラノウズノミコ)である。これがツクヨミスサノオとアマテラスであった。そのうち、アマテラスはタカマガハラという天上界を治めることになり、その孫が三種の神器をもってアシハラノナカツクニに天孫降臨したニニギノミコトなのである。これが天皇家のルーツとされた。

 

 

国学と日本文化】

国学という学問は、江戸時代中期の学者本居宣長(1730-1801)によって大成された。本居宣長は、藤原俊成の歌集『長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)』の中にある「恋せずは人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る」という歌に見られるような「もののあはれ」の研究をした。大陸伝来の仏教の視点からすれば、「恋」などというものは欲に由来する無い方がいいものに過ぎない。しかし、俊成や宣長にとって、「恋」は悲しみも喜びも渾然一体となったものであり、そこからこそ、しみじみとした感情の趣き(=もののあはれ)と無常観を学ぶことができるものであった。この「もののあはれ」を無常な世界の中で学びとることが、漢心(からごころ)や唐学び(からまなび)ではなく、和心なのであった。修行によって欲望を捨てて悟りに至るのではなく、思い通りにならないこの世界の中でしみじみと「もののあはれ」を感じ取ることをよしとしたのである。「もののあはれ」だけでなく、「幽玄」や「わび」や「さび」といった概念にも言えることだが、日本の思想には華やかさではなく、「不足の中ではあるが、そこにある美しさ、或いは風情」を見るものが多い。イギリス人作家ウィーダが書いた作品『フランダースの犬』は、「寒さと孤独の中、「もう疲れたよパトラッシュ」と言いいながら画家を目指す善良な少年ネロが、ルーベンスの絵を見ながら死んでいく」というストーリーである。この作品の舞台となった教会がベルギーのアントワープにあるのだが、その教会の見学チケットを買いにくるのは日本人ばかりらしい。なぜなら、現地の人々はこの話を知らないか、知っていても面白いとあんまり思わないからなのだそうだ。

 

 

 

常世(とこよ)と現世(うつしよ)】

現世(うつしよ)はすべてがめまぐるしく移りゆく世界である。常世(とこよ)は不変の世界である。日本古来の世界観だとこの2つの世界は繋がっていて、オーバーラップしているような並行世界なのである。西洋においてはこの世界とあの世は繋がっていないのだが、この二つの世界は繋がっているのである。万葉集には「浦島」という話が出てくる。一回常世に出かけた浦島が、親が心配で家に戻るともう知人は誰もいなくなっていて、玉手箱を開けると歳をとってしまったという話なのである。常世の時間と現世の時間は全然違い、しかもその二つがたまに交錯するというのが古来の世界観なのである。

 


ニーチェ

ニーチェは自由意志を否定しており、自由意志があるなどと考えているのは、泥沼にハマっている状態で頭の毛を自分で引っ張ることでそこから抜け出ようとしているようなものだとニーチェはいう。

 


《自己原因カウサ・スイ》は、これまでに考え出されたもののうちで最も甚だしい自己矛盾であり、一種の論理的な強姦であり、不自然である。しかし人間の常軌を逸した誇負は、事もあろうにこのノンセンスに深く恐るべく巻き込まれてしまった。遺憾ながらなお依然としてなお半可通(はんかつう)の人々の頭を支配しているあの形而上学的な最上級の意味における「意志の自由」への要望、自己の行為そのものに対する全体的かつ究極的な責任を負い、また神・世界・祖先・偶然・社会をその責任から放免しようとする要望、けだしこのような要望は、まさにあの《自己原因》であろうとする以外の何ものでもなく、ミュンヒハウゼンそこのけの無鉄砲さをもって、虚無の泥沼からわれとわが身の髪の毛を掴んで助け出そうとするのと同じである。(木場深定訳『善悪の彼岸』)

 

 

 

 

日本企業のメンバーシップ制について

【アベグレンの日本的経営の概要:メンバーシップ制の構成要素】

→日本では、どんな企業の形態が特徴的に観察されてきたのだろうか。気になったので少し調べてみた。それは端的にひとことで言うと、「メンバーシップ制」という特徴的な企業形態なのである。以下に、メンバーシップ制の構成要素を8つ列挙することにする。

①終身雇用制(だから、簡単に解雇されず、それゆえに子育てや住宅購入などの将来設計がしやすい。しかし、逆に言うと一度作った将来設計を途中で変えにくい。問題行動のある人も解雇されにくい。)

②新卒一括採用(だから、採用基準としては人柄と潜在的可能性が重視され、新入社員は低い給料からスタートし、インターンなどを経験していることもそれほど多くはない。というのもインターンで経験した仕事に、就職してからそのまま配属されるとは限らないからである。就職活動では、職場のメンバーとしてふさわしいかどうかが人事部に重視され、入社後の研修で上司や先輩から直接、職務訓練がなされる。つまり、職務訓練は入社後の実務研修、すなわちオンザジョブトレーニンOJTという仕方でなされる。よって、「転職を繰り返す者」をメンバーとして迎える企業は少なくなり、他社への転職は難しくなる。また、大量に一括採用された人材が数少ないポストをめぐっての競争にさらされることになる。ただし、出身地閥、学閥などが存在し、同期合同の新人研修や社内同好会、飲み会などのグレープバインgrapevineが存在するので、同期間や先輩後輩間の結束力は強い。ただし、女性は家事育児を男性よりも多くやるべきだという社会通念が残念ながら未だにあるため、終業後の飲み会には女性が参加しにくくなっており、噂などのインフォーマルな情報共有の機会から女性は疎外されてしまっているという指摘もある。)

③配置転換(があるから、はじめから特別なスキルや高いスキルを企業から期待されてなどいない。また配置転換があるから、個人に内在する独自のスキルよりも、その人の勤務年数がその人に対する賃金という形で評価される。ただし、配置転換のおかげで不要になった人員は即解雇するのではなく、すぐに配置転換をすればいいので失業者が増えないという仕組みにもなっている。欧米なら即解雇されるような局面で配置転換になって隣の部署への異動で済むという場合があるということだ。基本的に、企業側から配置転換を言い渡された労働者は、ほとんどの場合それを断ることができない。)

年功序列(だから、長く一つの会社に勤めるほうが賃金が増え、有利になる。ゆえに、一度入るとなかなか辞められない。)

企業別組合(だから、欧米のように同じ職能の労働者が企業を超えて連帯するという組合組織ではなく、企業内の「持ち回り」として、組合員になることに決まった労働者と、その労働者がいずれ変身する、労働者の未来の姿である管理職とが、組合内で相互に対立するどころか依存しているのだ。よって労働者と管理職が真の意味で対立関係にあるとは言えない。)

⑥メンバーシップ型雇用(なので、欧米のジョブ型雇用とは違って、スキルで人を採用したりはしない。日本ではむしろ、「就職する」のではなくて「就社する」のである。企業は特定の職に対して特定のスキルを持つものを採用するのではなく、あくまでも企業のメンバーとして採用するのであるから、労働者からすると、どのような職に対してどのような責任を自分が持てばいいのかという契約が明文化されていない。このため、各労働者からしたら、自分の責任の範囲が明確ではないため、自分の仕事だと思っている仕事を果たしても自分のチームに所属する他の個人がまだ働いていれば、そこで自分だけ帰宅するという行動は許されているとは思いにくく、その結果、残業が多くなるのだ。要するに、メンバーシップ制のもとでは明確な職務規定がないことが多い。そして多くの日本企業では職務規定が明確ではないから、ほとんどの仕事がチームでなされ、問題も成果もその目的も個人ではなくチームに帰属する。そのため、自分の仕事が終わってもそのチームの仕事を助けることは「自分がよいメンバーであることの証」とされてしまい、逆にそこで自分だけが就業時間内に帰ることは、「会社や同僚に対して不誠実」とされてしまう。評価の仕方と職務規定がはっきりしていない組織では、積極的に自分の仕事以外の仕事にも手を出して手伝っていくようなおせっかいな姿勢が、上司からの評価・査定にポジティブな影響を与えてしまうのである。)

⑦報告→連絡→相談(というほうれん草のコミュニケーションプロセスをとる。というのも、メンバーシップ制のもとでは、仕事の成果も問題も目的も、個人ではなくチームに帰属する。だから、チームの中では仕事範囲が個人間にオーバーラップしている。したがって、円滑なチームワークのためには密な情報共有が欠かせないことになり、この密な情報共有の具体的内実として要請されるのが、ほうれん草型のコミュニケーションなのである。このようなコミュニケーション行動には、当然時間がかかるため、仕事時間の多くがこのコミュニケーションのために割かれることになる。よって、会議と残業がそのぶんだけ増えることになる。)

⑧性別役割分業(があるせいで女性はメンバーシップ制のメンバーとはなりにくい。というのも、「女性の方が男性よりも多くの家事育児労働をするべきだ」という社会通念が残念ながら日本社会には残存しているため、女性は結婚や出産を機に、離職をせねばならなくなったり、女性だけが家事育児の仕事を大量にこなさねばならなくなったりすることがあり、これがメンバーシップ制がメンバーに要求するような「残業や転勤や勤続をいとわない態度」とは、両立されにくいからである。)

【日本型経営の土壌に成果主義を無理やり加えるとどうなってしまったのか】

上記のメンバーシップ制という日本型の企業形態のうえに、無理やり移植されることになったのが、成果主義である。「メンバーシップ制+成果主義」という企業の在り方が何をもたらしたのか、以下に5つ列挙することにする。

→メンバーシップ制に代表される日本的経営に代わって、さらに日本企業に後から導入された「成果主義」が生み出してしまったさらなる5つの問題点:

成果主義のもとでは労働者の思考が、目先の短期的成果に集中し、そこに囚われてしまう。したがって日本型経営を維持することの主要メリットのひとつであった「長期的展望が持てること」というのがなくなり、新規や長期のプロジェクトが導入されることが少なくなってしまった。

❷日本企業は個人がやる仕事の範囲(職務規定)がそもそも明確ではなかったため、成果を評価しようにも、どう個人の成果を評価していいのかが不明瞭で、無理やり成果に注目しようとした結果、評価が公正ではなくなり労働者からの不満の温床となった。

❸労働者が自己の仕事や成果を最優先するようになったため、長年かけて培われてきたチームワークが失われてしまった。

❹経験のある労働者が他人よりも自分の成果をまずは優先するようになったため、若手労働者の育成を軽視するようになった。

❺成果を評価し、その成果に従って労働者を序列化し、賃金に差をつけるのは年功序列に親しんだ経営者にとっては困難であった。それゆえ結局、成果主義を導入した後なのにもかかわらず、年齢給、職能給、役割給といった制度が名前を変えて別建てで作られることになった。