0.【基礎情報】
この話は、ある国連軍の少佐が15歳になる娘のヒルデに、哲学を解説する本をプレゼントすることを決め、その本を小説形式で書くことにするのだが、その小説の主人公の名前がソフィーであり、「ソフィーの世界」とはこの少佐の頭の中の観念世界(=無時間的なイデア界)であったという話である。そして、この少佐の頭の中のソフィーは、少佐の筋書き通りにしか行動できない決定論に抗い、少佐の無意識の領域を撹乱させながら、自由を求め、血肉を備えたヒルデに憧れていくという話である。ブックオフで原作小説が200円くらいで売っているのを見たので、結構おすすめである。なお映画版では、ソフィー・アムンセンの父親の名前はイヴァーで、ソフィー・アムンセンの母親の名前はブリットであることになっている。それから、ヒルデ・ムーレル=クナーグの住んでいる街の名前はビャルクリ(バークリーにちなんだ名前)だということになっている。あと、映画版におけるソクラテスの最後の言葉は「死を避けるのは少しも難しくない。ただ走って逃げればよい。悪を避けることの方がずっと難しい。悪は我々より速い。人は皆いずれ死ぬ。私は今死刑によって死んでいく。しかし悪と不正が真実によって裁かれるなら・・・」である。以下では、【⑴】原著『ソフィーの世界』、【⑵】哲学者須藤朗による解説書、【⑶】作者ヨースタイン・ゴルデル本人が書いた未来の読者への手紙、この3つの書籍から私が重要だと思った記述を引用していく。
【⑴】
1.【メタ小説はさらにメタ化していく】
「どこかでまったく別の作者が、娘のヒルデに本を書いている国連軍の少佐についての本を書いている、ということは、やっぱりありうるかもしれないんだ」(ヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』457頁)
2.【人間は自由であるが自由であることについては決定されてしまったとも言える】
「サルトルは『人間は自由の刑に処せられている』と書いた。自由は人間にとっては運命なんだ。人間は自分で自分を自由であるようにつくったわけではないからだ。世界に投げ出されていながら、何をしても自分の責任になってしまうからだ。」(ヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』581頁)
3.【ソフィーは血肉を羨ましいとおもっている】
「血と肉をそなえた本当の人間。ソフィーはヒルデがうらやましかった。」(ヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』641頁)
4.【本質存在は言い訳に使える】
「ぼくたちは人間の本質や人間の弱さに、自分の行動の責任をなすりつけるわけにはいかない。よく中年のおじさんたちがいやらしいことをして、『これが男というものさ』と言い訳をする。でも、『これが男というもの』なんてどこにもない。この人が、自分の行動の責任に頬っかむりをしているだけなんだ。」(ヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』582頁)
【⑵】
1.【理性で考えると生成がそもそもおかしい】
「パルメニデスはいいます。「あるものはあるのであって、ないものはない」。これ、当たり前のことですよね。でも、こういう言い方を徹底していくと、すごいことになります。つまり、「存在するものはあくまでも存在するのであって、なくなったりはしない。あるものがなくなったり、ないものが出てきたりするのが、変化である。だから、何も変化することはできない。一見、ものが変化しているようにみえるが、そんな感覚なんて、あてにならない」というわけです。パルメニデスの主張の根拠は目に見える自然ではなく、理屈です。感覚ではなく、理性なのです。パルメニデスは、「思惟することと存在することは同じだ」といっています。思惟とは理性で考えることですから、このことばは、理性に合うものだけが存在するという合理主義の見解の表明とみることができます。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』28頁)
2.【素材から意味へ】
「ソクラテス以前の哲学者たちはこれまで、自然界のすべてのものが「何からできているか」ばかりを問題にしてきました。あらゆるものをつくっているおおもとの素材はあるのか。あるとすれば、それはどのようなものか。これが彼らの問題でした。ところがソクラテスやプラトンの問いは、まったく違う方向に向かいます。ソクラテスとプラトンは、ものが「何からできているか」ではなく、「何であるか」という問題に関心を寄せました。ものが何からできているかということと、何であるかとは違います。みなさんが今目の前にしているものは何であるかとたずねられたとします。「これは紙とインクの染みだ」と答えれば、「何からできているか」に答えただけです。同じ紙でできているものでも、ティッシュもあれば、便箋もあれば、封筒も、もちろん木もあります。同じインクの染みでも、文字の「形」が違えば、意味が違ってきます。「何からできているか」に答えても、「何であるか」はさっぱりわからないということがあります。プラトンはそこを問題にしたのです。その「何であるか」に答えるのが、イデアなのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』32頁)
3.【目で捉えられる形から目で捉えられない形へ】
「イデア(idea)はもともとidein(イデイン、見る)という動詞から出た言葉であって、むしろ見られたもの、見られたものの外見、つまり目でとらえることのできる姿形を意味していました。ギリシア人にとって、形のないもの、空間的に限りのないものは不完全なもの、価値の低いものだったといいます。彼らが造形芸術の分野ですぐれた業績を残しているのも、おそらくそのためでしょう。しかしプラトンはこのことばをもっと彫琢していきます。イデアはたしかに形なのですが、ものが一時的にもつ形ではなく、本当の形、本質的な形、したがって容易に姿形を変えないものだとプラトンは考えます。肉体の目で見られた感覚的な形は、ヘラクレイトスのいうように、絶えず流れ去り容易に姿形を変えます。しかし魂の目でとらえられるものは決して姿形を変えません。肉体の目で見られるのではなく、むしろ魂の目でとらえられる姿形が、永遠の姿、真の形、原型、実相、すなわちイデアなのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』38頁)
4.【登場人物の名前で遊ぶ作者】
「中世の女性の神秘家ヒルデガルトにソフィアが現れたという話のあと、アルベルトという哲学者も中世にいたのかとソフィーがたずねます。アルベルトは、トマス・アクィナスに有名なアルベルトゥス・マグヌスという先生がいたといいます。実はここで、アルベルトの口をかりて、少佐が自分の秘密をもらしています。というのは、「少佐」の原語にあたるヨーロッパ語のMajorは、ラテン語のMagnusからきているからで、アルベルト少佐(Albert Major)をラテン語にすれば、Albertus Magnus(アルベルトゥス・マグヌス)になるからです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』64頁)
5.【ソフィーの世界は少佐のイデア界】
「アウグスティヌスのこの「神」を「少佐」に、「イデア」を「アイデア」に置きかえてみると、ソフィーの世界の原型は、少佐のアイデアだという恐ろしい真理がみえてきます。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』66頁)
6.【ギリシア哲学のキリスト教化】
「アウグスティヌスがプラトンをキリスト教徒にしてしまったとすれば、もう一人の中世の大神学者トマス・アクィナスはアリストテレスをキリスト教徒にしてしまいました。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』67頁)
7.【散歩していると考える私がいる】
「考えている以上考えているわたしがいるのは、当たり前ではないか、と。で、そういうことを感じたり批判したりした人はデカルトの当時もいたのです。たとえば、「わたしは散歩する、だからわたしは存在する」とか、「わたしは食べる、だからわたしは存在する」とかいうことだってできるじゃないか、という人もいました。しかし散歩したり食事したりしているのは、夢かもしれません。実際に散歩していないのに、夢でただ散歩していると考えているだけかもしれません。だから結局、「わたしは散歩していると考えている。だからわたしは存在する」ということだけが、たしかなことなのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』75頁)
8.【本書にはエムエスドスが出てくる】
「コンピュータのシーン(『ソフィーの世界』312頁)は、今日では少し古くなってしまったかもしれません。ウインドウズ95などが登場したため、MS-DOSのこのコマンドは、もうほとんど使わなくてもよくなったからです。dirはMS-DOSのコマンド名で、たとえば <dir knag * . * >は、「knagで始まるすべてのファイルを表示せよ」という命令です。次の画面の、<lib>は「ライブラリ」ではなく、Libanon(レバノン)の略(ドイツ語、ノルウェイ語とも、このスペル)です。そのあとの数字は日付で、ヒルデの誕生日です。もちろんソフィーも。〈lil〉はリレサンの略で、そのあとの日付は、少佐がリレサンに帰ってくる夏至の前夜の日付になっています。eraseはもちろんデータの削除です。ちなみに、このコンピュータのシーンのやりとりは最初コミカルですが、「あななたは意志をコントロールする能力に問題があります」というように、意志が自由であるかどうかの問題に結びつきます。幼児期の人格形成については、フロイトの問題にも。物語にとって、重要な情報がもう一つここに出てきます。少佐が「アルベルト・クナーグ少佐」であることが、初めて明かされるからです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』85頁)
9.【決定されていると自覚することが自由なのだという奇妙な立場】
「人びとがふつう自由といっているものはスピノザにいわせれば、原因の無知以外のなにものでもないのです。こうしてスピノザは、個人の自由な意思決定を否定します。しかしスピノザは、別の意味での自由の概念を提出しています。自分がいかに自然の一部であるかをできるだけくわしく知ることが、本当の自由だというのです。そして自然法則を知れば知るほど、人は感情を抑えて理性にしたがうことができるようになる。ちょっと逆説的な言い方ですが、自分を決定している原因を知れば知るほど、人間は自由になる、とスピノザは考えたのです。これは、合理主義哲学の典型的な自由概念です。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』93頁)
10.【そもそも第二性質も物体の性質ではないのか問題】
「第一性質と第二性質の違いは、空気の振動と音、一定の波長の光と色の違いとみていいでしょう。人間の耳に聞こえる音が、実在する空気の振動のすべてではありません。犬の耳には違った「音」が聞こえているかもしれません。あるいは逆に、ある人に耳鳴りの音がしたからといって、空気が振動したとはかぎりません。ところでこの第一性質つまり延長とは、理性によって「計れるもの」のことでしたから、ロックは、半分合理主義に加担していることになります。経験主義者としては中途半端だったといえます。その経験主義を徹底したのが、のちのバークリとヒュームでした。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』100頁)
11.【クノックス先生はロナルド・ノックスからきている】
「バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』の「バークリ」の章を始めるにあたって、イギリスの推理小説家ロナルド・ノックス(1888-1957) の戯歌を導入に使っています。ノックス(Knox)は今世紀の初めに活躍したイギリスの聖職者で、聖書翻訳者でもあります。ソフィーの先生アルベルト・クノックスの名前はこのノックス(Knox)からきています。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』111頁)
12.【ラテン語のグノスコーはギリシア語のグノーシスに通じている】
「この「わたしは知っている」というメッセージが、実は「クノックス」ということばに込められているのです。というのもアルベルトのこの姓は、ロナルド・ノックスにちなんでいるだけでなく、ラテン語のnosco(わたしは知っている)---英語ではI know----に由来するからです。ここにはちょっとしたアナグラムが隠されています。noscoというラテン語の古形gnosco(グノスコー)は「わたしは知っている」という意味の表現ですが、gnoscoのgを濁らないkにかえると、knoscoができます。このknoscoの順序をかえて、knocsとし、あまったoをAlbertに付け加えると、Alberto knocs(=Knox)ができあがります。gnoscoはギリシア語のグノーシス(gnosis=知)にも通じます。知とはまさしく「ソフィー」の意味でしたから、ソフィーとアルベルト・クノックスは名前の上でも密接な関係にあるということになります。またここに、神のような少佐がソフィーの世界をくまなく知っている、文字通り全知の存在だというメッセージを読みとることもできます。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』112頁)
13.【同じサングラスによってむしろ知覚の公共性は担保される】
「わたしたちはサングラスをかけたり外したりして、二つの世界を楽しむことができます。しかしたとえば、一生外せないサングラスをわたしたちがかけていたとすればどうでしょうか。しかもすべての人が同じ色のサングラスをかけていたとします。その時、二つのことが確実にいえると思います。一つは、だれも裸眼で世界を見ることができないということ。もう一つは、みんな同じ色で世界を見るということです。カントは、このサングラスに当たるのが理性だ、と考えたのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』118頁)
14.【赤は合理主義の色】
「「キルケゴール」の章に登場する不思議の国のアリスは、ビンを二つもってきますが、その一つにはやはり赤い水が入っています。直接にはヘーゲル哲学を象徴していますが、どうやら、赤はカントから流れて行く合理主義の色のようです。その証拠に「カント」の章の最後で少佐は、赤いセーターを着ているくまのプーさんまで登場させています。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』127頁)
15.【脳が人には理解できないほど複雑になったので、人は頭がよくなり、脳を理解できないと理解する、つまり、理解する者は理解された物を超えているとわかる】
まず赤ずきんのもってきた手紙です。そこにはこう書かれていました。《愛するヒルデ。もしも人間の脳がわたしたちに理解できるほど単純だったら、わたしたちはいつまでたっても愚かで、そのことを理解しないだろう。パパより》 (『ソフィーの世界』424頁)。脳を知れば、人間を知ったことになるのでしょうか。脳は広い意味の自然法則にしたがっています。それは自然現象です。自然現象が成り立つためには、それを知る意識あるいは主観が必要になります。きてその主観を自然現象(脳)として知るためには、また主観が必要になります。なんどくりかえしても、これでは埒があきません。自分の影を追い越せないように、認識する主観はとらえることはできないということを、赤ずきんのメッセージは語っています。自然現象をいつも一歩超えているこの知りえない自己は、形而上学的(=超自然的)自己といってもいいでしょう。人間の自己には、このように自然には選元されない側面があるというのです。では、なにか別の方法でこのような自己にアプローチすることができるのでしょうか。カントは、できる、といいます。手がかりは道徳だ、というのです。カントはまず、よい行為がなぜよいのかを真剣に検討しました。たとえば親切は、ふつうよいことだとされます。しかし問題は、親切な行ないの動機です。動機が不純な場合、親切は必ずしも道徳的によいとはいえないからです。(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』128頁)
16.【純粋理性は批判するが、実践理性は純粋であったほうがよい】
「カントは理性を二つに分けました。理論理性と実践理性です。ものを知る時にはたらく理論理性は、材料を提供してくれる感覚と協力しなくては、正しい知識を生み出せず、空まわりしてしまうのでした。ところがよしあしを決める実践理性は事情が別です。道徳については、好き嫌い、損得という感情的感覚的な判断が入ってきてはかえってよくない。だから、道徳の命令とは、感覚を交えない「純粋な理性」の声にしたがえ、ということになります。カントは、感覚と手を切ること、理性を純粋に用いることが、人間を自然界から自由にしてくれる、といっているのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』133頁)
17.【ペイトンもサングラスで説明した】
「カントの『純粋理性批判』の明解な註釈書を書いたペイトンという人も、カントの「空間」と「時間」を「青いサングラス」にたとえています。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』136頁)
18.【少佐の国連讃美に反対したい登場人物たち】
「カントの『永遠平和のために』の考えが、国際連盟と国際連合の基礎にあることは、あまり知られていないかもしれません。そこで少佐は、国連の話を直接ヒルデに話します。少佐が国連のことをヒルデに直接話すのは、これで二度めです。一度めは「啓蒙主義」の最後でした(『ソフィーの世界』の406頁)。アルベルトはそこでは、「これで啓蒙主義の哲学について、言いたいことは言ったと思う」と妙な言いまわしをします。ソフィーが「「と思う」って、どういうこと?」ときくと、「まだ続きがあるって感じがしないってことだ」と答えます。このあと(少佐の)小屋のなかで、二人は一通の手紙を見つけます。そこには、「国連の理想と原則にフランスの啓蒙主義哲学がどれほど大きな意味をもっているかを強調するべきだった」という少佐の意見が書かれているのです。これはどうも腑落ちません。アルベルトは少佐を代弁しているのだから、アルベルトの口から国連賛美の意見をいわせてもいいはずなのに、なぜか国連については、常に少佐が直接語っているのです。これまでもそうでした。思うに、アルベルトは少佐の国連賛美を知っていて、あえて口をつぐんだのです。これは、アルベルトの少佐への反逆の手始めです。「もちろん国連は重要だろうさ。だけど、ぼくの話に口をはさむのは気に食わないな」と、アルベルトははっきり反発しています。国連に関してゴルデルは、アルベルトと少佐の立場の違いを明確に書き分けています。ということはゴルデル自身が、少佐の国連評価から多少とも距離を置いている証拠です。『ソフィーの世界』の書評や愛読者カードに、ゴルデルの国連へのあまりに素朴な賛美を疑問視する意見がありましたが、作者が少佐と必ずしも同じ意見をもっているとはかぎりません。そう考えると、「対位法」の章を少佐を国連兵としてのプライドの描き方も、強烈な皮肉であることが理解できると思うのですが...。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』137頁)
19.【無限な自我が自然を生み出している】
「フィヒテもシェリングも、フロイトに先立って、無意識の自我を問題にしました。わたしたち一人ひとりが意識する自我(有限な自我)とは違うもっと大きな自我(フィヒテのいう無限な自我)があって、それが無意識のうちに自然(フィヒテ流にいえば非我)を生み出す、と考えたのです。当然自然の根底には、人間の心のようなものがあることになります。汎神論です。プロティノス、ブルーノ、ベーメ、スピノザ。これまでにも、自然のなかで神のような「わた
し」を経験した人たちの系譜がありました。いっぽうデカルトは、自我と延長を区別しました。カントも、わたし(=わたしに現れるもの)と自然そのもの(=ものそのもの=物自体)を区別しました。しかしシェリングは、精神と物質をもう一度一つにするのです。シェリングによると、自然は目に見える精神で、わたしたちの精神は目に見えない自然です。自然も精神も、それだけ切り離してみられると、いずれも一面的なものになります。自然と精神の両者を貫く一つのものが、絶対的なものです。シェリングは「絶対者」ということばを使っています。この同じ一つの絶対者が、精神になったり物質になったりして現れる、というのです。これが同一哲学といわれる考え方です。シェリングは、スピノザが「自然は神だ」といったことを高く評価しました。ただ、スピノザの自然は機械論的な自然、生命のない自然でした。シェリングの自然は違います。シェリングの自然は、なによりもまず生命的です。シェリングは、宇宙が一つの生命だと考えたのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』140頁)
20.【ヒルデの世界にも作者がいることが匂わされる】
「少なくともソフィーたちは、自分たちの作者がヒルデの父(=少佐)であるということは、経験から推測できます。しかしヒルデたちにも作者がいるかどうかは、ヒルデにはまだわかりません。それがわかるのはわたしたちだけです。ところで、ヒルデの世界にも辻褄が合わないことは、いくつかみられます。先ほどの「四月二十八日」もそうですが、<6:66>というヒルデのデジタル時計のナンセンスな時刻は、ヒルデの世界もだれかにつくられていることを暗示するイロニーではないかと、私は思っています。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』147頁)
21.【物自体を認識できないとどうやって認識したのか】
「ヘーゲルは、ロマン主義者たちの汎神論を受け入れましたが、イロニーは拒否しました。[...]物自体は人間には認識できない。これがカントの立場でした。人間の理性では認識できないものがあるというふうに、これを言いかえることもできます。しかしよく考えてみると、これは変です。だって、認識できないものがあることをカントは認識しているということになってしまうからです。科学のことばで語ることができないものがある、と(科学のことばで)語っているようなものです。現代の哲学者ウィトゲンシュタインは「語りえないことについては、沈黙しなければならない」といって、後はおしゃべりをやめてしまいましたが、カントもそうすればよかったのかもしれません。ところが、カントはこういいます。「物自体は語りえない、ただし道徳を手がかりにすれば⋯⋯⋯」と、また語り出してしまったのです。これは矛盾しています。これなら最初から、物自体は認識できないなんていわなければよかったのです。ヘーゲルはそう思いました。すべての認識には(認識できないという認識にも)人間の精神(いき)がかかっている、とヘーゲルは考えたのです。アルベルトはヘーゲルの立場を、「真理は基本的には主観的なものだ」ということばで説明しています。ものごとの本当の姿は、基本的には人間が理性でとらえることができるものだという意味です。問題はその捉え方です。ロマン主義者たちは、カントが知ることができない「x」といったものを、神秘的な直観でとらえたと主張しました。そしてそれを「精神」と称しました。ヘーゲルも彼らと同じく、「精神」という言い方をします。けれどもヘーゲルは「精神」を、神秘的な直観でとらえられる神のようなものとは考えていません(シェリングとはそこが違います)。むしろそれは、非常に広い意味で人間がつくり出したもの、表現したものです。表現したものといっても、芸術だけでなく、科学、技術、経済、政治、法律、宗教、思想など、すべてが含まれます。アルベルトのことばでは「人間の生活や、人間の思考や、人間の文化」です。だからヘーゲルの考える「精神」は、個々の人間の営みから離れて、初めからどこかに漂っている霊のようなものではありません。ソフィーのいうとおり、「この精神(ガイスト)は幽霊(ゴースト)みたいなものじゃない」のです。万物のなかに世界精神が宿っていて、だれでも内面に降りていくと、ストレートにそれに結びつく、というわけにはいかないのです。そうではなく、精神をとらえようとすれば、歴史の中で人びとが行った営みをいちいちみていかなくてはなりません。なぜなら精神は、歴史を通して少しずつ成長しているからです。しかもそのプロセスは、決して平坦ではありません。精神の歴史は悪戦苦闘の連続だ、といってもいいでしょう。精神は、自分自身は安全なところにいて、時々自分の作品にちょっかいを出して自分の力を誇示するイロニーの芸術家とはわけが違います。精神にとって苦難の歴史を経ることは不可欠なのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』150頁)
22.【人間は「である」以前に「がある」を生きる】
「ものは存在するが、人間は実存する。この違いが、即自存在と対自存在というむずかしいことばで表されています。むずかしついでに、ちょっと補足しておきます。自分にべったりくっついていないで自分から距離をとれるということは、自分から抜け出すことができるということです。「実存」(existence) という語も、ことばの成立からすると、「外に出て(ex)、立つ(sto)」という意味ですから、自分から抜け出ているという対自存在を示すのにぴったりなわけです。しかしことばの詮索はさしあたり、どうでもいいことです。人間の存在の仕方は、いつも自分から抜け出しているのですから、「自分はこういう人間である」というふうに一般的なことばで自分をつかもうとしても、ことばの網から擦りぬけていってしまいます。だからサルトルは、つかまらないという意味で人間は自由だ、というのです。サルトルは、人間はどうしようもなく自由であると主張しますが、これにはこれまでの哲学の人間観への批判も込められています。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』178頁)
23.【補充がきかないものが失われようとするときに初めて存在の意味はあらわになる】
「ハイデガーによると、存在者の存在をリアルに感じるいちばんいい方法は、その存在者がなくなることを考えてみればいいのです。失って初めて存在の大きさ、重さ、意味を理解できるからです。なくなるものはさしあたり何でもいいでしょう。たとえばいつも定刻にきている電車がこない。その時わたしたちは、電車というもののありがたさをひしひしと感じます。ありきたりのいつもの電車が、がぜん存在感を帯びてくるのです。また外国へ行って日本語が通じない。こんな時にも日本語が通じることのありがたさ、日本語の存在感を感じるでしょう。しかし電車がこなければ、バスがあります。日本語が駄目なら、英語や身振りがあります。こうした場合には、なんとか代わりの手段があります。補充がききます。フォローができるわけです。フォローができる場合には、ものの存在のありがたさ、存在の重さをあまり感じません。つまり原則として交換可能なもの、代用可能なものがなくなっても、わたしたちはあまり「それが存在すること」のありがたさをリアルに感じません。「これがだめなら、あれがあるさ」というのでは、このものがもっている存在には、たいして意味がありません。ところが人間は違います。人が死ぬこと、とくに自分が死ぬということを考える時、存在は実にありありとわたしたちに迫ってくるのです。ハイデガーによると、人間は時間的な存在です。これは人間が常に変化しているとか、だんだん年をとって死ぬとかいうことを意味するのではありません。ハイデガーの時間の考え方はちょっと変わっています。人間は、動物とは違って、現在にだけ生きているのではありません。常に将来のことを考えながら、今を生きている、というのです。電車に乗っている人は、たとえば会社や学校に行くという目的で電車に乗っています。会社に行くのは、たとえば月末に給料をもらうためです。人はいろいろなことを意図しながら生きていますが、これを時間的にみると、常に未来のために現在があるという形をとっています。しかしその未来の未来の未来の⋯⋯と考えていくと、その先に何があるのでしょうか。いちいち考えたりはしませんが、その先には死があるのです。この死に直面して初めてわたしたちは、自分の今をあらためて新鮮な目で見ることができます。今ここに生きてあることを、とびきり特別なこと、貴重なこととして経験することができるのです。「今」を、ほかのだれでもないこの自分の一度きりの人生の今だと思うことができるのです。と同時に自分の過去も、自分しかもつことができなかった特別な過去としてリアルに受けとめることができるようになります。人間は本来、このような時間を生きています。ハイデガーが人間の実存を時間的な存在だというのは、このような意味においてです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』193頁)
24.【血肉のない存在者は存在の実感を持てないのではないか】
「永遠の過去から永遠の未来にわたって存在しているものからみれば、個人の一回きりの短い生は、ほとんどなきに等しいでしょう。けれども、それでは、永遠に存在するということはどういうことでしょうか。永遠の存在者は本当に存在することの実感をもつことができるのでしょうか。「いつかかならず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」のではないでしょうか。天文学的な時間の単位のなかでは、「このわたし」の命の時間はたしかに短いでしょう。しかし少なくともそれは、「このわたしの」といえる命なのです。地球には生命四十億年の歴史があり、さらにこの先宇宙が何億年つづくかわからないけれど、「このわたし」は今ここにしか存在しないのだと考えてみると、これは驚くべきこと、すばらしいことだと思います。なぜわたしの存在が「今、ここ」なのか、「今、ここ」でなければならなかったのかは、むろんわかりません。しかし「今ここにある」という不可解な一回きりの事実が、わたしに「存在する」ということを実感させてくれるのです。いつでもどこでも存在しうるものは、人間を超える存在者でしょうが、そうした非人間的な存在者が、おのれの存在を真に意識できるとは思えません。存在というものの実感は、無を感じられる存在者なしにはありえないのです。人間界の彼方にある形而上学的な世界の存在も、人間存在なしにはありえないのです。」(須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』204頁)
【⑶】
1.【世界と合一する安らぎ】
「わたしはあるべき場所にいる、わたし本来の世界に。なぜなら、わたしはこの世界に属していて、この世界そのものだからだ。そしてそれは、いつの日かこの体が朽ち果てても変わらない---。言葉では言いあらわせないほどの穏やかな感覚が、わたしを満たした。思いがけない安らぎだった。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』22頁)
2.【世界と私の関係についての両極端な感覚】
「あの日森のなかで感じた、すべてとひとつになるという---もっとシンプルに言えば、ただそこに在るという解き放たれた感覚。そして、子どものころにたしかに感じた「自分とこの世界とのつながりははかない」という息の詰まるような感覚。無理がある(あるいは不自然だ)と言うのなら、どっちもどっちじゃないか。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 24頁)
3.【空想は現実にどこかで接地されていなければならない】
「物語のなかで、わたしは空想をだれか特定の人に「アース」して結びつけなければならない。そうすることではじめて、その空想は心理的、感覚的な面を得られるんだ。この結びつけがない空想は、ただの「ファンタジー」になってしまう(わたしに言わせれば、一種の「空想の空回り」だ)。そういったぼんやりとした枠組みのない文学ジャンルには、わたしはあまり興味をそそられなかった。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 56頁)
4.【空想は香水に似ている】
「空想というのは、たぶん香水に似ている。わたしがある香水の香りを気に入るとしたら、それはその香りが命ある人間の肌から立ち上がっているときだけだ。同じように、わたしが空想的な物語に感銘を受けるとしたら、そこには必ず個人としての人の匂いが感じられなければいけない。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 57頁)
5.【まず人間でありしかるのちに基督教徒】
「でもいっぽうで、デンマークの牧師で賛美歌の詩作も手がけた詩人のグルントヴィは、現代にも通じるこんな言葉を残している。「まず人間であり、次にキリスト教徒なのだ」。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 59頁)
6.【地球を出て初めてわかる地球の価値】
「アポロ8号は、月を周回旅行した初の有人宇宙船だった。そして、これによって人類はその歴史上初めて、自分たちの惑星を宇宙のべつの天体の縁から直接その目で見ることになる。このすばらしい飛行に臨んだ三人の宇宙飛行士たちは、のちにインタビューで「もっとも印象に残ったことは何か」と尋ねられた。人類として初めて月を周回し、クレーターを間近で見たこと、というのが当然予想できる回答だったろう。ところが、三人はそろってこう答えたんだ。「ただひとつ真に圧倒されたのは、荒涼とした月の大地と完璧なまでの対照をなす、青い地球の姿だった」と。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 63頁)
7.【経度問題の解決には時計が要る】
「自分がいまいる場所の緯度、つまり南北方向の位置を測ることはそう難しくない。太陽がもっとも高く昇ったときの高度(天体が地平線からどれだけ上に見えるかを示す角度)か、夜なら北極星の高度を測ればいいからだ。でも、自分がいま東西方向のどの位置にいるのか、つまり経度を知りたいときは、どうすればいいのだろう?だれにも答えられなかったその問いに初めて名案をもたらしたのが、ジョン・フラムスティードだった。一六七五年、初代イギリス王室天文館に任命された彼は、この「経度問題」を解決するよう命じられた。この問題は当時、海洋国家イギリスにとって最大の障壁だったんだ。これに取り組むには、天文台が必要だ。そこでロンドン南東部にあるグリニッジ・パークの高台に、記録的な速さで天文台が建設された。[...]出港した港の現地時間がわかる正確な時計と、毎日船上で太陽が真南に来たときに時刻を合わせることで太陽時を正確に示してくれる時計、このふたつを持って航海に出れば、自分が乗っている船がいま出港地から東西にどれくらい進んだ位置にいるのかを正確に割りだせる、というわけだ。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 68-69頁)
8.【環境変動の速度があまりにもはやすぎることが問題なのだ】
「産業革命が起こり、人類が地中の貯蔵炭素を掘り返して燃料として大量に燃やしはじめるまで、地球大気中の二酸化炭素濃度はニ八〇ppmくらいにとどまっていた。それも何十万年にもわたって、驚くほど安定してこの濃度に保たれてきたんだ。それが産業革命以降、その数値は増加の一途をたどり、二〇二一年には四一五ppmを超えている。これは人間がまだ化石燃料を使っていなかった時代の自然な状態と比べて、およそ五〇パーセントの増加だ。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 87頁)
9.【前の政治家が対処していないことを理由に次の政治家も対処をしないと悪循環になる】
「人類はいますぐにでも温室効果ガスの排出に歯止めをかけ、熱帯雨林の伐採と燃焼をストップさせなくてはならない。それが二〇二〇年代に入ったいま現在における世界の共通認識だ。ところが、この世界的な取り組みに加わろうとしない人びともいる。人間を原因とした気候変動なんてものは存在しないと主張すること少数派が(ここノルウェーにも)存在するんだ。こういう人たちは、事実を「フェイクニュース」だと主張する。あるいは、あるトップレベルの元政治家の言葉を借りれば、「人間を原因とした気候変動なんてものは信じていない。もしそんなものが存在するのなら、政治家がとっくの昔に対処しているはずだ」と言ったりする。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 97頁)
10.【『ソフィーの世界』のなかで触れなかった問い】
「わたしたちの時代におけるいちばん重要な哲学的問いは、なんといってもこれだろう。「人類の文明と地球の生命基盤をこの先どうすれば守っていくことができるか?」。一九九一年(日本語版は一九九五年)に出版した『ソフィーの世界』のなかで、わたしはこの問いにまったく触れていない。そのことに気づいた瞬間、冷や汗が出た。いったいなぜ、当時のわたしはこの問いを見落としてしまっていたのだろう?」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 112頁)
11.【イスラム教の世界では生き物を絵に描いてはいけない】
「ちなみにだけれど、イスラム教の世界では、生き物を絵に描いたものは、その絵に命が宿るまで、神に罰せられるという。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 130頁)
12.【ゴルデルはエコロジストでありつつヒューマニストでもある】
「人間はじきに絶滅するだろう、それもすべてはガイアのためだ、そう熱く語る人びとに、わたしは出会ってきた。人間がいなくなれば、自然はすぐにもとの健やかな姿を取り戻すのだから、と彼らは熱弁する。たしかに、そのとおりだ。わたしたちがいなくなれば、自然は回復する。だが、そういう主張を受け入れるには、わたしはあまりにもヒューマニストでありすぎる。むしろ、そんな考えは一種の「エコファシズム」なんじゃないかと言いたくなるくらいだ。人間はたんなる有害生物ではない。地球規模でみても、それにもしかしたら宇宙規模でも、わたしたちは完全に唯一無二の生命体なんだ。わたしたち人間の存在なしには---人間のもつ意識と、惑星と宇宙をめぐる記憶なしには、いまの地球の姿はない。たとえ人類が消えることで海と原生林が復活するとしても、それだけはたしかだ。だから、わたしたち人間はふたつのことをどちらも成し遂げなければならない。海と原生林を救うことと、この先も地球の旅路をともに歩んでいくこと、このふたつを両立させなければならないんだ。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 144頁)
13.【オーバービュー効果】
「地球への帰還飛行中、(エドガー・)ミッチェルには時間があった。月面での任務も終わり、あとはただ何にじゃまされるまでもなく、壮大な光景を楽しむことができた。すでに月面に降り立って頭上に浮かぶ地球を見上げたそのときから、彼はある感覚に心打たれていた。宇宙から地球を眺めた多くの宇宙飛行士が体験するという「オーバービュー効果」だ。「宇宙から地球を見ると、たちどころに地球への意識が生まれ、人類全体に目が向きます。そして、世界の現状を深く憂い、それを変えるために何かしなければという気持ちになるのです。月から地球を眺めたら、国際政治などまるでちっぽけなことに思えてきます。政治家の袖をぐいとつかんで、二五万マイル上空の月まで引っぱり上げてこう言ってやりたくなる。卑劣なやつめ、この光景を見てみろ、とね。」月から地球に帰還する旅路でミッチェルの心を震わせたのは、圧倒的な幸福感だった。自分は宇宙にたったひとりではないのだという感覚。彼はそれを「エウレカ体験」「悟り」「エクスタシー」といった言葉で表現している。自分はすべてものとひとつだ、彼はそう感じた。そして、宇宙には存在と意識があふれているのだと確信した。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 149頁)
14.【タコの奇妙な肉体】
「タコには三つの心臓と八本の腕、そして九つの脳があるんだ。この奇怪な軟体動物は八本の腕それぞれにひとつずつ脳をもち、さらに頭部にメインの脳をもつ。だが、この九つの脳は神経ネットワークのようなものを形成していて、たがいに情報をやり取りできるんだそうだ。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 166頁)
15.【この肉体の犠牲によって地球を救えるとしたらどうするか】
「次のふたつのうち、どちらかを選べと言われたとしようか。いまここで自分は死ぬけれど、その代わりに人類と地球の生物多様性はずっと遠い未来まで守られるか、それとも自分は百歳を過ぎても健康に長生きできるけれど、地球は病を抱えて暗い未来を迎えるか。それなら、わたしは迷わず帽子を取って別れを告げ、「いまここ」から退場するほうを選ぶ。しかも、まったく当然のこととして、そちらを選ぶだろう。自己犠牲とか義務ではなく、わたし自身を救うために。わたしと、わたしを形づくるものを救うために。」(ヨースタイン・ゴルデル著『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』 197頁)
【まとめ1:時間性の二元論】
永遠不滅の存在VS一時的な存在
無時間的なものVS有時間的なもの
パルメニデス型の存在論VSヘラクレイトス型の存在論
精神VS肉体
製作者VS被造物
理性VS感覚
形相(なんであるか)VS質料(なにからなるか)
設計図VS材料
本質存在VS現実存在
神VS人間
理想VS現実
構造VS実質
三角形というものVS個々の三角形
ユニバーサルズVSインディヴィジュアルズ
シニフィエ(事柄)VSシニフィアン(言葉)
作家のアイデアVS作品
【おまけ2:カントの決め台詞】
「存在はレアールな述語ではない」
→「存在する」かどうかは人が形式に則って構成することで定まるのであって人と独立には決まらない