aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

コミュニケーションについて

感情に流されるのはよくない。盲目的に感情の虜になるのはよくない。しかし、「そんなことをしたら感情論になってしまう!」とか、「感情抜きに理論を構築するべきだ。」などという主張を聴くと、私は空虚さを感じる。私はそういう時、「むしろ感情論をしよう。感情論をやらないからダメなんだ。」と心の中で思う。学問が、古来より感情論を避けてきたことが、人間が感情に流されやすくなってしまった原因である。なぜ、感情論を避けてきたかといえば、感情論は難しいからである。なぜ難しいかといえば、感情こそ人間の根本の存在様態だからである。感情によって我々は自己の存在やその意味を開示されているからだ。感情によって意味を彩られることのない世界もないし、感情によって意味を盛られることのない言葉もない。逆にいえば、どんな言葉も、それが結びついていた感情と実際に出会われたとき、初めてその言葉の意味が汲み取られるのだ。『悲しみよ、こんにちは』という小説は、ある少女とある感情との、その「出会われ」の経緯(いきさつ)を閉じ込めているから、あれほど瑞々しいのだ。

 

知識人が感情論を避けてきたのは、計算的理性でものを考える方がずっと簡単だからである。公理と有限個の推論規則を立て、あとはそれを機械的に適用していけば定理を導けて、結論までたどり着けるというのは、ライプニッツから現代のコンピュータまで続いている人類の一大プロジェクトであるが、これは人間がひとえにラクをしたいのである。考えなくても問題に答えが出るなんて、とても便利であり、慣れてくれば疲れることもない。日常で出会う大抵の問題には、一義的な答えなど存在しないのにも関わらず、その答えをシステムが出してくれるなんて、素晴らしいではないか(!)。Siriが埋め込まれた携帯に、我々は次にやるべきことを教えてもらうようになっているし、いずれは人体に埋め込まれるかもしれない。しかも、一貫性があるように作ってあるのだから、一貫性がある。そして実際にラクができるのだから、このコンピュータの技術(=計算的理性の技術)というのは便利なこと、この上ない。しかし、人間にとって根本的な問題というのはむしろ感情論である。感情論の問題には一貫性はないし、しばしば異なる価値が矛盾錯綜し、対立するし、複数の矛盾した答えが出る。感情論は難しい。それゆえ、しばしば知識人はこの問題を考えるのをやめてしまう。しかし、感情論をしっかりやらないと、感情がどんなものか分からないものだから、感情に流されるということになる。感情論をどんどんやってこなかったせいで、人間の感情は荒廃し、暴走したのだ。その証拠に、現代の民主主義は人々の感情によって動かされている。理系がコンピュータ科学を研究するのは人間にとっての便利さやラクさや価値を追求してきたのが理系であるから当然のことなのだが、文系というのはその当の人間を知るための学問である。感情論なくして人間の学はないと私はここに自分への戒めを込めて、書いておくことにする。ここまでの話をまとめると、すぐに感情的にならない方法は、感情について考えることである。考えるといっても、その方法は、日々の自分や他人の感情を、つぶさに観察し、実際に感情とともに生きてみることによってである。そのとき、現代のテクノロジーや技術やコンピュータの力を借りることは全然問題ない。なぜなら、便利だからである。

ところで、多くの人が勘違いしていることだが、コミュニケーションの本質というのは、感情の擦り合わせの行為であって、情報交換や情報伝達や情報授受や知識伝達では全然ない。情報交換をコミュニケーションの口実にしたり、情報交換をコミュニケーションの隠れ蓑にしたりする場合はあるが、そこで実際に為されているのは情報の交換などでは決してない。「情報交換でもしようぜ」と言って会話を始めたりする場合もあるかもしれないが、それはあくまでも誘い文句であり、タテマエに過ぎない。というのも、もし、よほど重要な情報で、正確に情報を伝達したいのであれば、紙に書いて相手に渡したりするほうがずっと正確だし、その際には、一字一句文章や指示を推敲したり、誤解されないように事前に表現を工夫したりもできるし、さらに、文字で書いてあれば、相手から来た手紙を言質(げんち)として取っておいたりすることもできるから、確実性は更に増すことができるからだ。よく考えれば考えるほど、「情報伝達」やよく言われる「言葉のキャッチボール」というのはコミュニケーションの本質では全然ないということが分かる。「情報伝達なら会話より正確な手段があるのに、わざわざ会話するのはなぜなのか」と考えてみるべきだ。むしろ、コミュニケーションというのは、感情的にお互いが納得できるような落着点を探したり、落着点を新たに見出したり、落着店を新たに創出するような営みなのである。もっと正確にいえば、コミュニケーションというのは、「『私たちは、こないだ(紙に書いたりして)(文面上は)同意したことについてお互いにとってお互いが同意していると思ってるよね』ということについてそれぞれが(感情的に)同意する」という、会話による感情の共有行為なのである。だから、最終的にお互いの言いたいことはまったく同じ事柄なのに、それぞれが別の表現でそれを言っているので、延々と口論している二人組などがしばしばいるが、では彼らのコミュニケーションは双方の結局の結論が論理的に同値なのだから意味がないのかというと、そういうことには決してならないのだ。結論はもうすでに論理的には同じになっているのだからこそ、口論している彼らが目指しているのは、結論が同じになることではまったくなくて、「この結論に対してお互いにとっての相手が同意しているよね、ということについて知り、(感情レベルで)同意すること」なのだ。これがコミュニケーションの本質である。これを整理して言えば、【ある同意についてお互いにとっての相手が同意していると同意すること】がコミュニケーションなのである。つまり、結論がもう出ている時ほど、したがって、伝達すべき情報がもう伝達されていたり、そもそも伝達すべき情報が存在しないときほど、コミュニケーションの本質はいっそう明らかになり、そのコミュニケーションは真の意味で意義深いものになるのだ。この点を、多くの人が言語化できていない。

 

【以下、余談】

ちなみに、「知識」の本質というのは、行為の可能性を増やすことであり、「情報」の本質というのは行為の可能性を減らすことである。たとえば、ある料理のレシピという「知識」を知っていればナスやニンジンやジャガイモなどを使ってできる行為の可能性をその料理人は増やすことができる。料理人の行為の可能性を前より増やすもののことを「知識」と呼ぶ。それに対して、例えば、迷子になっている自分の息子を探している父親が、今自分の息子がいるのはそのデパートの二階であるという「情報」を得ると、父親が探すべき場所の可能性からデパートの一階と、三階と、屋上が除外される。このようにして父親の行為の可能性を減らすもののことを「情報」という。「情報」と「知識」はこのようにまったく違う身分の概念なのであるが、この区別は、ほとんどの人間に言語化されていない。そして、「コミュニケーション」というのは、「知識」や「情報」を他人に伝えるようなものではまったくない。それは、コミュニケーションにしばしば付随するが、本質ではないのだ。