aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

相対主義と相関主義について

 

 


⑴【相対主義のバリエーション】


有名なプロタゴラスの人間尺度説や、相対主義とは何かについては、プラトンの『テアイテトスTheaithētos』が参考になる。


まず、相対主義には5つのこと(①ヒトを含めた生物種ごと・②社会、国家、共同体ごと・③言語ごと・④個人ごと・⑤文化ごと)に関する、2通り(❶事実・❷価値)の、全部で10パターンの相対主義が少なくともある。


注意しなければならないのは、世界は実在的には、絶対的かつ客観的に1つなのだが、認識の仕方が認識者ごとに異なるというのは相対主義ではなく、「認識には相対性あるいは相関性がある」ということを言っているに過ぎない。(これについては後述するが、それはただの客観的な相関主義に過ぎない。)


相対「主義」というのは、認識者の側でだけではなく、世界の側も認識者の準拠する単位集団(とそれに内在している概念枠組み)ごとに異なっているということを主張する立場である。個人ごとに、生きている世界ごと違っており、それらの単位集団や個人が共に根付いているひとつの世界(=共通の地平)というものの存在を認めないのが相対主義である。(さらにいえば、「世界の側」などという言葉をもはや使わず、認識者の側だけしかないとさえ言うかもしれない。これだと「独我論」におちいる。これについても後述する。)


まず、「相対主義」という言葉を聞くと、通常、何をイメージするだろうか。「みんな違って、みんないい」という文である。


しかし、「みんな違って、みんないい」という文は、どこかが奇妙である。どこが奇妙なんだろうか。みんな違っているならば、なぜみんなについて言及する視点に立てるのだろうか。ここがまさしく奇妙なのである。


本当にみんな違っているのならば、各個人は比類ないのであるから、それらを相互に比べたり、一望したり、全員に属している同じ「良い」という一義的な性質について語ったりはできないはずなのだ。


そこで、性質ということについてもう少し考えてみる必要がある。


⑵【性質についての考察】


ビーフステーキは、茶色い色をしている。また、ビーフステーキは、場所を占めている。この茶色いという性質や、場所を占めているという性質は、ビーフステーキの側に所属している。(だからこそ我々は、「ビーフステーキが茶色い」と言うのだから。)これは、ビーフステーキに関する事実判断である。一般に事実判断は相対性が低いとされている。もちろん、ビーフステーキを茶色ではないと言い張ることもできるし、この事実判断さえも関係的な性質だと言うには言える。(ただ、事実判断は、次の価値判断に比べたら、相対性がふつうは低い。)


このように、対象の側に属しているとされる傾向の強い性質がある一方で、その傾向が弱い、関係的な性質もある。


例えば、ビーフステーキというのは、老人にとっては、食べたら胃もたれするかもしれないので、健康に良くない。しかし、育ち盛りの若者にとっては、健康に良い(少なくとも悪くはない)。(こういう良いとか悪いとかいう判断を「価値判断」と普通はいう。)


この関係的な性質の価値判断は、以下のように定式化できる。


A is good for B

(ビフテキは若者にとって健康的)

A is bad for C

(ビフテキは老人にとって不健康的)


もっと一般的に言えば、

S is P for 変項X

という式に変形できる。


ビーフステーキが、健康に良いとか健康に悪いとかいう性質は、ビーフステーキの側に所属しているのではない。かといって、ビーフステーキを食べる側に所属しているのでもない。この性質は、関係的な性質である。この関係的性質は、ビーフステーキとそれを食べるひとの間にある。


ビーフステーキだけでは、まだ健康に良くも悪くもないし、食べるひとの側に「ビーフステーキを食べると健康に良い」という性質があらかじめ備わっているとも通常はいえない。


ビーフステーキを食べる人と、食べられるビーフステーキが出会った時、その人にとって健康に良いか悪いかどうかが原理的には客観的に決まる。これを相関性あるいは相対性という。

 

⑶【客観的相関主義とはなにか】


では、相関性が、客観的に決まるというのはどういう意味かというと、いま目の前に、ある男がいたとして、そいつが、今晩の夕食にビーフステーキを食べると健康に良いか悪いかどうかは、どうやって調べるのかはここでは置いておいて、とにかくデータが無限に手に入ると仮定すれば、原理的にはいつかどちらかに決まるという意味だ。また逆に、ビーフステーキを食べるのが健康的だと仮定したら、それがどんな人にとってまでならば真で、それがどんな人にとってからならば、偽になるのかという範囲も、無限に調べることができれば、原理的にはいつか客観的に分かるということである。


相関性あるいは相対性が比較的強く現れる上記のような価値判断だけではなく、事実判断についても相対性がある。


例えば、「イヌイットにとっては、雪が何十種類もあるけれども、日本人にとっては、雪は数種類しかない」とよく言われる。「虹は日本人にとっては7色だけれども、フランス人にとっては、5色である」とも言われる。


しかし、重要なことは、「相関性あるいは相対性があることをいくら言い立てても、相対主義が正しいということにはならない」ということだ。相関性があるのは、むしろ前提であり、当たり前なのであって、「なにごとにも相関性がある」「価値判断にも、事実判断にさえも相対性がある」からといって、「相対主義が正しい」ということにはならない。


例えば、重力が、地球だと月の6倍であり、月だと地球の6分の1しかないとしても、それがゆえに「重力なんてなかったんだ」ということには決してならないはずだ。


地球という、質量が月よりも大きな物体については、2つのものの間に働く引力はそのぶん強くなるし、月という地球よりも質量が小さい物体については、2つのものの間に働く引力はそのぶん弱くなる。そして、重要なことは、その引力がどれくらいの強さになるのかということは、万有引力の法則に具体的な値を代入すれば、それに相関して、客観的に決まる。これが、重力の「客観的な相関性」あるいは「客観的な相対性」である。場所に応じて強さが変わるので、重力には相関性あるいは相対性があるけれども、そうであるがゆえに、重力には普遍性がないということにもならないし、重力には客観性がないということにもならないし、重力の場所に応じた強さが客観的に決まらないということにもならないし、ましてや、重力というものがないということにもならない。


そもそも、ある概念が、それと相関する変項に代入を要求しており、それが代入されると具体的な値が客観的に決まるということを科学では「相対性」と呼んでいる。(「相対性」の他に、科学が扱える客観的な概念にはもうひとつ「傾向性」というのもある。)


これと同じことで、例えば、雪の種類は10種類だという民族(イヌイット)と、3種類だという民族がいたとしても、それは、毎日雪を見ているならば、ある日の雪と次の日の雪の違いは際立って見えてくるという「傾向性」があるだろうし、滅多に雪を見ない地域では、雪は全部同じようなものだと考える「傾向性」があるだろう。そしてこの「傾向性」は、雪をよく見るとか、滅多に見ないという条件に相関してかなりの程度、客観的に決まる。例えば、滅多に雪を見ないような地域で、雪の種類が20種類に分節化されているような文化をもつ民族が現れる「傾向性」は低いという結論は、かなり客観的に導けるだろう。


このように、環境や条件が違うのだから、雪の見方について、その条件に相関した相対性が出るのは、むしろ当たり前なのである。雪の種類や、虹の色の数や、魚の名前の数が、民族や文化によって違うからといって、相対主義が正しいということにはならない。相対主義が正しいことの証拠だとして取り上げられているもののほとんどが、せいぜい、相対性があることの証拠であるに過ぎない。


⑷【相対主義とは何か】


では、相関主義とそれが依拠する客観的相対性についての話はこれくらいにして、相対主義とはなんだろうか。


例えば、次のような文は相対主義的である。


「年寄りを敬うのは良いことだ、という命題は、このコミュニティの中だけでは真だ。」


↑この文は、あるコミュニティに内在する概念枠組みに相関して命題(=「年寄りを敬うのは良いことだ」)の真偽が決定されるという話をしている。

ところで、この文も結局S is P for 変項Xという形式に変形できる。次のようにすればいい。「S=年寄りを敬う」is 「P=良いこと」for 「X=このコミュニティ」。

 

⑸【客観的相関主義と相対主義の違いを定式化してみる。】


相対主義と相関主義(相対性主義)を区別する方法は、この定式化を利用して、次のようにやると良い。

 

相対主義

命題「A is good」(for B)

命題「A is bad」(for C)

このように考えるのが、相対主義である。つまり、なにかの命題(S is P)の真偽が、なんらかの概念枠組みが内在している単位集団(BやC)にのみ相関して決まると考える立場が相対主義である。これは依拠する概念枠組み自体が単位集団(準拠する集団=レファレンスグループ)に応じて変わり、それら単位集団相互に共通の地平は考えられてはいないので、客観的ではない立場である。つまり、ある単位集団に他の単位集団が介入してその集団のゲームの規則に変更を加えるということがとてもしにくい。簡単に言えば、「郷に入れば郷に従え」ということになる。これに対して、


【相関主義】

A is (good for B)

A is (bad for C)

このように考えるのが、相関主義(相対性主義)である。ある概念Aには、何らかの限定句(for Bやfor C)があらかじめ要求されており、その限定句に具体的な値が代入されると、その値に相関して、原理的には客観的に、その普遍的な概念のその場合における値(goodやbad)が決まり、客観的なことが言えると考えるのが相関主義(相対性主義)である。

 

⑹【相対主義の問題点】


そして、以上のように整理したとき、相対主義には次のような問題点があることを具体的に確認してみたい。相対主義者が次のように言ったとしよう。


「『女性が男性よりも低い地位にあるのは良いことだ』という命題は、このコミュニティの中だけでは真だ。」


↑このようなことがまかり通るコミュニティがあったとして、このコミュニティに外部から介入するのは難しい。なぜなら、前述した通り、命題の真偽が、コミュニティに内在する概念枠組みにのみ相関して決まるのだから、「郷に入れば郷に従え」と言われてしまえば介入の余地が薄くなるからだ。相対主義者は、このようにして、客観的で普遍的な立場からの介入を拒絶する場合がある。


他の例を出そう。


「『ビフテキを食べるのは、健康に良いことだ』という価値判断(命題)は、ワシの国の概念枠組みに照らせば真だ。」と主張する老人に対しては、医者が、いくら客観的な立場からそれが健康に悪いことであるということを教えても、医者が老人の国のルールに介入することを正当化する方法は少なくなるだろう。

 

ビフテキを医者の助言を無視して食べようとする老人と、その老人の国の外部にいる医者とでは、相対主義者からすると、依拠する概念枠組みごと違うことになるものだから、介入することが難しくなる。


⑺【相対主義者との戦い方】


ただ、相対主義者と闘うときに、介入するための突破口がまったくないわけでもない。というのも、その国の構成員が全員一枚岩である可能性が極めて低いので、そこを突けば良いからだ。例えば、その国の構成員の誰かが、実は「葛藤」を持っていたりするかもしれない。というのも、1人が常に1つの立場に常にいるというわけではないからだ。たとえば、社員が自分が属する会社の不正を内部告発することは、その会社にとっては「悪い」ことだが、社会にとっては「良い」ことであり、その社員が養うべき家族にとっては「悪い」ことだったりする。また、その社員は、社長のことが死ぬほど嫌いだが、同僚の社員のことは好きなので、会社が潰れて同僚たちが路頭に迷うとしたらそれは「嫌」なのかもしれない。このように、人間の中には複数の概念枠組みがあって、それによって、同じ命題が真にも偽にもなるがゆえに葛藤している可能性が高い。つまり、ビーフステーキを食べることが健康に良いということになっている老人たちの国には、その国を内部告発をしたいと願っている価値的な越境希望者がいるかもしれない。このグローバル化の時代に、世界には越境者(ツーリスト)が増えてきた。このことは、あるコミュニティの閉鎖的で相対主義的な価値観が、内部から複数化していくことを意味し、相対主義を使って不正義を肯定したりする人と戦うための突破口になるかもしれない。

 

⑻【強い相対主義個人主義


ただし、ここまでの話は、相対主義相対主義でも、弱い相対主義(=マイルドな相対主義)についてであったが、実は、非常に強い相対主義というのも考えることはできる。今、例として挙げた「ビフテキ老人」は、ある国に所属していたが、老人の国の構成員がたったひとりになったらどうだろうか。「強い相対主義」(=個人主義)は、先ほどの定式化で表現すると次のようになる。


【強い相対主義


S is P (for me)

これである。ちなみに、このfor meという限定句は、むしろ無い方が自然なのであるが、これについても後述していく。


この立場(個人主義)の人は、相対主義を徹底した結果、依拠する概念枠組みであるfor以下がもはやコミュニティではなく私だけ、もしくは、「私しか構成員のいないコミュニティ」(?)なので、for以下をつける必要が次第になくなってしまい、ある命題が真理かどうかを決めるときに参照するべき枠組み(ガイドライン)などなくなってしまって、間違えることが不可能になってしまった人である。このひとは、間違えない人であり、間違えることができないひとであって、infallibilism(無謬主義)という立場であることになる。これについてもう少し詳しく検討してみよう。


相対主義者を外側から記述する仕方で相対主義を定義した次のような定義がある。「相対主義とは、ある範囲における主張が、真あるいは偽でありうるのは、何らかの概念枠組みに相関してのみであるという理論である。」(Relativism is the thesis that statement in a certain domain can be correct or incorrect only relative to some framework.)(Richard Bett,Phronēsis 1989)という定義だ。

この定義におけるonlyという副詞が重要で、相対主義というのは、徹底すると、自分の命題の真理は自分の依拠するframeworkにのみ依存して決まるんだから、他のframeworkなんか考える必要はないという考え方に至る。


そして、framework が集団に内在していればまだ間違えられる(=可謬的である)のだが、これが私しかいない集団とピッタリと一致してしまうことがある。これを個人主義という。個人主義は、相対主義を極端に徹底した考えであり、「単位集団」に構成員がひとりしかいないという考え方である。命題が依拠する概念枠組みという考え方を徹底すると、「概念枠組み」という言葉自体が必要ではなくなるのだ(ディヴィドソンの論文にこのような記述がある。)。この個人主義の問題点についてもう少し検討してみよう。


個人主義(=強い相対主義)の問題点というのは、It appears to me that P,so it is true that P.という極限的な相対主義だと、自分の依拠する概念枠(framework)の在り処(ありか)が、自分とまったく一致してしまうので、何かについて自分が間違った主張をしているということがありえなくなるということだった。

つまり、自分の主張が依拠する概念枠が自分以外の人も所属する社会や文化や言語集団に内在していれば、その概念枠に照らしてのみ、自分が正解したり、間違えたりすることができるのだが、その概念枠が個人まで狭まると、その個人はもはや間違えることができないということだった。

 

この強い相対主義者(=個人主義者)はその内部を生きている人からすると、他の考え方を認めないということだ。もし「他の考え方を認める視点のある個人主義者」などという者がいるとしたら、その人はもはや個人主義者であるとは言えない。なぜなら、自分と他人の考え方を比べる視点に立っている時点でその視座は個人主義者が取ってはならない、自らに禁止した視座だからだ。


それゆえ、強い相対主義者は、相対主義を内側から記述する場合、自分の概念枠組み以外の概念枠組みがあるということをそもそも想定していないので、「概念枠組み」という言葉は使わないということになるし、使えないし、使う必要もない。相対主義は、その外側から、つまりはマイルドな相対主義者によって記述されるときのみ、「概念枠」という言葉を使って記述されることができるということだ。

  

つまり、ある相対主義者について、その人がどんな人かを記述するときに、「概念枠組み」という言葉を使えるのは、相対主義者を外側から記述したときの言葉遣いのみであって、そのときその記述者は、少なくとも強い相対主義者ではないということになる。


ここまでの話をまとめよう。強い相対主義者は、むしろ、その内部を生きている人自身からすると、frameworkという言葉は必要ないし、使うことができないし、「僕にとって真だ」と言うときの「僕にとって」という限定句は、「君にとって」とか「彼女にとって」という視点などないのだから余計なのであり、無い方がむしろ自然なのであり、「僕にとって」をつける人はむしろ相対主義として不徹底なのである。なぜなら、「僕にとって」という限定句をつけるのは、「君にとって」という限定句を付けられるかのような物言いだからである。そういう視座には決して立たないのが個人主義だからだ。ひとりひとりが比類ないほど違っているのだから、それらを比べる視点には立つことはできないはずなのだ。


つまり、徹底的な相対主義者は、他の考え方がある可能性を認めない。徹底的な相対主義は、様々な考え方があるよね、と考えるような立場ではない。(そしてこのような立場に本当に立てる人がどれほどいるのか?この立場は本当に徹底可能なのか?)

また、もし仮にこの強い相対主義者(個人主義者)がいたとしても、①そいつは自分が他人と比較して、「君と違って、僕は強い相対主義者なのである」ということを表明できる立場には立てないし、②強い相対主義が他より正しいということを主張できないし、③コミュニケーションがそいつとは取れないだろうし、④自分が強い相対主義者であるということを誰か他人に教えようとするモチベーションがそいつにはないだろうし、⑤自分が強い相対主義者であるということを誰かに訴える必要も感じていないはずだし、⑥「相対主義は真理だ」という文は相対的ではなく絶対的なのではないか、などという、様々な自己矛盾をきたしそうなので、この強い相対主義は持続可能な立場ではない。


⑼【結論】


結論としては、以下の通り。


⑴強い相対主義(=個人主義)というのは徹底することがほぼ不可能である。


⑵強い相対主義は無理でも、マイルドな相対主義ならばまだ可能だが、それに抵抗するためには個人の複数性を利用すればいいということ。


相対主義ではなく、客観的相対性の方は現にあるに決まっていて、客観的相対性をいくら言い立てたところで、相対主義者になれているわけではないということ。


相対主義が正しいことの論拠として取り上げられていることのほとんどが相関主義が正しいということの論拠でしかないということ。つまり、相対主義的だとして、言い立てられているようなものは、実は、かなり多くの場合、限定句に相関的な具体的値の変化が客観的にあるだけでしかないということ。