aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

私の実利主義

私のブログは、誰かに読んでもらうことを第一義として書いてはおりません。何かの主義主張を広めたりするつもりも全くありません。

 

私の死後も世界は全く何事も無かったかのようにただ在り続けると思いますが、そこに何かを残したりすることも、ここで他人に私が評価されたりすることと同じく、少なくとも私のこのブログの目的ではないのです。

 

私のさしあたりの目的は、今ここにある、目の前に広がるこの現実を理解し、その限りで肯定していくことです。私が言う「肯定」とは、この現実を楽しみ、噛み締め、そしてこの世界に再び深く根付き直すことです。

 

だから、何かを知った時には、学問としての意味だけでなく、自分の人生にとってのその知識の意味を汲み取らなければ何にもならないと私は考えています。知識は、私の切実な問題を理解できるためのものでなければならないのです。知識は、他人にとっても、この私にとっても、何らか実利的なものであり、価値がなければなりません。私は私の知識に対してどこまでも価値を、実利を問うてゆきます。

 

だから私は、私が人生の中で巡り会い、切り取り、知ったことを、結局私がどう使ったのかということだけをここに書いてゆきます。

 

だから私の文章はとても主観的に思えるかもしれません。でも、少なくとも私の人生にとっては何らかの仕方で役に立ったのです。そのことだけは約束します。だから私のような仕方で愚直に実利を追う人には、私の書くことは実はむしろ主観的ではないと思えるかもしれません。私の主観的で切実な必要に根ざす思想は、私と似たような関心を抱える誰かにも届くかもしれません。これは不思議なことです。私の切実な必要性から生まれた文章なのに、そうであればこそ、他人にも伝わってしまうというのは、不思議です。

 

繰り返しになりますが、自分が盗み取ったある知識が知識としての意味があるかどうかは、たった一度きりのこの私の人生の中で、自分がそれをどう意味付け、どこに実践的な生かし方を見つけてやり、それによってどの程度現実を理解でき、その限りでそれを「肯定」できたか、ということにかかっているのだと私は思います。

 

なるほど私の存在を可能にする条件は他者の存在ですから、私はもちろん他者に先立たれて初めて存在し始めます。しかし、そのように理解するのが私であるということからはいつまでたっても脱出できません。どこまでいってもこの私でしかなく、私であることを生きている限りはやめられない、というのは不思議です。

 

私が生きるとは、他者に先立たれつつも現に孤独であるということです。だから私は、自分と和解し、現実を理解し、私の生を肯定するために、本を読んでみようと思います。そして私と同じように考える一部の人にとっては私の文章は役にたつかもしれません。だから、書き残します。