aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

クワイン、デイヴィドソン、オースティン

クワイン

概念枠相対主義を批判した概念枠絶対主義者。内在的な全体論者。感覚と経験を重視した人。カルナップの弟子である。


【経験主義の2つのドグマ】

【ドグマ①要素還元主義】

感覚的経験によって真偽の判定を受けるのは個々の命題ではなく数多くの命題の集合全体である。外的世界についての我々の言明は個々別々にではなく一個の全体として感覚的経験の裁きに直面する。感覚的経験の裁きを受けるのは個々の命題ではなく数々の命題の全体である。

【ドグマ②分析性と総合性の峻別】

数学や論理学の分析命題とされてきたものの改訂の可能性もある。相対性理論を真とすることは、ユークリッド幾何学に修正をうながした。


【概念枠相対主義批判】

N.R.ハンソンによる「観察の理論負荷性論」や、T.S.クーンの「パラダイム間共約不可能論」をクワインは批判した。彼らは感覚的経験という証拠の役割を軽視した認識論的ニヒリズムだというのである。そもそも、概念枠相対論者たちはどの立場から相対性を語っているのだろうか。つまり、もし仮に相対性の真理を主張するのであればそれは自己論駁であるし、もし逆に相対性の主張自体も相対的であるとするならば、今度は逆に自己言及的な無限後退に陥る。クワインは概念枠相対主義に一貫して批判的であり、「我々の知的活動を可能にしている枠組みの外側に出るような<宇宙的亡命>は存在しない」と彼は力説している。クワイン曰く、我々の命題体系ないし信念体系の全体というのは、港の見えない海上に浮かぶ船のようなものであり、この船はドックに入って船の外から船体を修理してもらうようなことはできず、我々は、大海原で内側から船を修理しつつ航海を続けなければならないような、そうした船乗りなのである。これを<ノイラートの船>の比喩という。このような比喩をつかって、クワインは概念枠相対主義を否定し続けた。この船の乗組員たちにとって船の最重要な骨組みとなるような構造材、例えば<竜骨>はそう簡単に取り替えるべきではないが、しかしそれを取り替えなければ乗り越えられないような嵐が来たら、取り替えることもできる。そういう竜骨のような非常に大切な命題として論理学や数学の命題を捉えることによって、分析性と総合性の区別をクワインは意図的に曖昧にさせたのである。そして、大海原で我々は船から降りることはできない。それは宇宙的亡命だからである。


ドナルド・デイヴィドソン

デイヴィドソンクワインを批判している。具体的にはクワインの「感覚的経験の裁き論」を批判した。クワインは証拠の役割を軽視する理論を認識論的ニヒリズムとして批判して全体論を唱えた。しかし、感覚的経験の裁きという契機をクワインが要請する限り、クワインは知識の獲得=信念の正当化に関するある深刻なジレンマを抱えているとデイヴィドソンは指摘する。印象、刺激、センスデータ、感覚の多様などは従来、所与と呼ばれてきた。しかし、例えば、「このテーブルは白い」という命題が正しいことの証拠として白さの感覚的経験、つまり所与がその証拠だという場合に、その白さの感覚(所与)は命題的内容を持つのだろうか。もし、命題的内容を持たないのであれば、「このテーブルは白い」という命題を正当化することは不可能である。もし、命題的内容を持つのであれば、その命題にも別の正当化が必要である。つまり、「もしも所与が単なる原因なら、それはその結果として生じる信念を正当化しない。他方、所与がなんらかの情報をもたらすなら、その情報は嘘である可能性がある。これは、W.S.セラーズの<所与の神話の崩壊論>とよく似ている。感覚的経験はそれだけでは、ある信念を正当化する証拠にはなりえないのである。「正当化された真なる信念(Justified True Belief)」として知識が伝統的に定義されてきたことを考えると、「感覚がそれだけでは信念を正当化する証拠にはなりえない」ということを彼が言っていることの意味は分かり易い。ただし、デイヴィドソンは概念枠相対主義を批判した概念枠絶対主義者のクワインを批判したが、だからといってデイヴィドソンは概念枠相対主義者だということではなく、概念枠と内容の二元論それ自体の批判者なのである。デイヴィドソンによれば概念枠とは個々の言語を超えた言語それ自体を指す。そういう概念枠は存在しないと彼は言っているのである。「複数の概念枠が存在するということが間違いだからといって、言語を話す全ての人類は共通の概念枠を共有するという素晴らしいニュースを公表するのが正しいということにはならない。」このようにデイヴィドソンは、枠組みと内容の二元論それ自体を批判した。デイヴィドソンは、この枠組みと内容の二元論こそが現代の経験論の第3のドグマだというのだ。


【J.L.オースティン】

紅茶のプロの鑑定人に対して、素人が次のように言ったらしい。

 

「私にはこれらふたつの銘柄を区別できた試しが一度もないので、このふたつの銘柄に差異は存在しません。」

 

すると、鑑定士は次のように応答した。

 

「あなたにこれらふたつの銘柄の区別できないからといって、これらふたつの銘柄が同じだということになるはずがない。」

 

この話の構造と同様に、もし、蜃気楼の水たまりと実在する水たまりとが区別できないからといって、そのふたつが同じだということになるはずはない。

 

それなのに、数多くの哲学者たちは、この錯覚と実物の区別ができないということを以って、我々が錯覚を見ているときと実物を見ているときで、見ているものは同じだ、つまり同じセンスデータなのだという錯覚論法を使ってきた。この錯覚論法を批判したのがJ.L.オースティンである。