aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

オースティンの言語行為論

【言語行為論を俺が高校生に話した原稿】

エミール・バンヴェニストが「蜜蜂のダンス運動は言語ではない。それは言語未満の、コードに過ぎない」と主張する理由のひとつには、ハチは「音声」による伝達を行わないというものがあった。よって我々が「音声」を使うから暗闇でもコミュニケーションが取れるのに対して、ハチは暗闇ではダンスが見えなくなってしまうと彼は指摘するわけだ。しかし、バンヴェニストのこの主張に対して、我々は次のような疑問をもう一度呈することができる。「いや、身振りだって言語ではないか。そもそも、言語とは音声を発しながら為す身振りのことなのではないのか?」と。ミツバチと我々人間の言語の差異の記述を、片方は身振りでありもう片方は身振りでないという路線で進めるのを避けるために、人間の言語だってそもそも行為であるという立場の理論にも耳を傾けてみよう。

【「偽」と「不適切性」の区別】

真にも偽にもなりえないがその発話が不適切にはなりうるような文がある。以下の①〜⑦を見て欲しい。

①「この船をエリザベス号と命名します(I name)。」
②「彼を夫とすることに同意します(I do)。」
③「遺言です。私の銀時計を弟に譲ります(I give)。」
④「明日は雨である方に賭けるよ(I bet)。」
⑤「やあ、どうも。」
⑥「電気つけて」
⑦「ちょっとそこの醤油とって」

→これら①〜⑦は、真にも偽にもなりえないが「不適切」(インフェリシタスinfelicitous)にはなりうる。たとえば初対面の人に「やあ」と発話するのは「偽」というよりは「不適切」である。

(→このような「偽」と「不適切性」の区別から考えると、ミツバチは常に「適切な」行為しかできない。また伝えられることは「真」なことだけであるから、ミツハチには「嘘」がつけない。まして「皮肉」など言えるはずがない。よって、これから述べる言語行為論には、そもそも「人間の言語」についてのものであることが前提されていることになる。では、何が不適切とか適切とかを決めているのか。文脈である。後述するが、むしろ文脈が問題なのである。どちらも言語行為と言いうるハチと人間の言語行為を決定的に分けているのは、文脈の多様と文脈切り替えの自由ではないのか。というのも、しばしば人間の言語の根本特徴としてアンドレ・マルチネの指摘した「二重分節性」があげられるが、あれだって「ある単語を他の文脈においても適切に使いうる」という文脈の多様と文脈切り替えの自由の指摘とも言いうるからだ。)

→これら①から⑦のは全てパフォーマティブな発話ということができる。ではそもそも、コンスタティブ(constative)とパフォーマティブ(performative)とはどういう意味だろうか。

【コンスタティブとパフォーマティブ

⑧外は雨が降っています(事実確認的・コンスタティブな発話)
⑨明日は行くと約束します(パフォーマティブ・行為遂行的な発話)

→⑨は真でも偽でもない。⑨は文が事実と合致しているかどうかは問題になっていないのに、完全に有意味な発話である。

→では、⑧のほうは、純粋にコンスタティブ(事実確認的)なのだろうか。ここまでの話の流れだと、「⑨はパフォーマティブで⑧はコンスタティブだ」と言いたくなるけれど、本当にそうだろうか。⑧だって、「傘を取ってくれ」という意味とか、「外に出るのはやめよう」という行為を促すようなパフォーマティブな意味を含んでおり、完全に事実の記述とは言えないはずである。

→そうすると、「真」とは「適切性」のひとつの様態であり、「偽」とは「不適切」のひとつの様態であるに過ぎないのではないだろうか、という疑惑が湧いてくる。ためしに、「偽であるような文は、実はその大半が、不適切であるような文の特殊な場合だ」、というアイデアを検証してみよう。実際、⑧という真か偽かになりうる文が偽になる時、「その文は偽である」の代わりに、「その文は、不適切だった」とも言いうるのである。つまり、晴れているときに⑧を発話することは端的に「不適切」と言い換えて構わないように思えてくる。

【皮肉とは「偽だが適切な文」のことである】

→ただし、「偽な文であれば全て不適切な文か」というと、実はそうとも言い切れない。というのも、「偽だが適切な文」というものがありえるからである。たとえば、

⑩(相手が約束を守っていない場合に)「約束を守ってくれてありがとう」

とその人に言うのは「皮肉」である。皮肉は「偽であることを前提とした発話」であり、偽であることは話し手にとっても聞き手にとっても分かりきっているから、ここでも真偽は問題になっていない。皮肉は、相手を非難する意図を伝える文脈では「適切」であったり、逆の文脈では「不適切」であったりすることができる。我々は偽の文でさえ適切に使っているのだ。

→このように、文がたとえ偽であったところで、不適切でなければ我々はその言葉を使うのであるが、では、真偽が取り立てて問題になるのはどんなときか。それは、何かがどんなときも誰にとっても絶対確実でなければならないような状況である。後述するが、実はそんな状況はあまりない。学校のテストですら、そこまでのことが問題になっているかどうかは微妙なのである。

→ちなみに、⑩の発話を受けて、その聞き手は皮肉に気づかないこともありうる。つまり、「あれ、この人にとっては、自分は約束を守ったことになっているのかな?」と聞き手が思うこともありうる。さらには「皮肉に気づいているのに、皮肉に気づかないふりをする」ということすら可能である。


→我々は、例えば学校のテストで正誤判定をさせられるときなどを典型として考えているから、色々な場面で文の真偽がとりたてて問題になっていると思い込んでいるけれども、実は自分たちが思っているよりもずっと、真偽は問題になっていないのである。テスト中も実はそうである。たとえば、「ふだんの授業中に先生の話を聞き、それを受けて適切な仕方で解答できるかどうか」が問題になっているのが学校の定期テストであり、それは極めてタイムスピードが遅滞した形態で為される「緩慢なコミュニケーション」と呼び変えることができる。ふだんの会話は長くても5分で終わるが、それを100分に引き伸ばすと定期テストになるというわけだ。さらに、受験生たちが受ける模試で聞かれているのは、「高校生で学習を求められるのはこういったことだが、ではこう聞かれたらどう答えますか?」という少しだけ話し手も聞き手も、何遍も繰り返してきたせいで、メタになっているような部類の問いである。(というか、メタになっていないとしたらそれは受験勉強が足りていないのである。)つまり、これらのテストの対策というのは、その科目についての専門的な学びというよりは、むしろ、コミュニケーションとは何か、そしてその技法を学ぶことに属しているのである。そしてこの事実は、基本的に隠蔽されている。定期テストがコミュニケーションの勉強であることは、暴露されたくないが、全員が薄々気づいていることのうちのひとつだ。

→では、真か偽かがどうでもいいので、真か偽かを考えても仕方がないようなこれらの文①から⑩などについて、我々はどのように考えたらいいのだろうか。以下の3カテゴリーがその役に立つだろう。


【オースティン流言語行為の3大カテゴリー】

[⑴発話行為(locutionary act)]

→どんな言語も、それを使うとき何か(口、身体、他人、物)を動かさないことができるだろうか。できないのであれば、言語とはひとつの行為の一種であると考えてよいはずだ。そして、なんであれ発話する行為(以下「言語行為」と呼ぶ)の全般がまずは「⑴発話行為」にあたる。

→真偽が問題とならないパフォーマティブ(行為遂行的)な発話も、記述や報告に使われるコンスタティブ(事実確認的)な発話も、意味も分からず唱えた外国語の音読も、まずはこれに含まれるといったんは考えて、様々な文をまずは⑴に溶かし込むのである。


[⑵発話内行為(illocutionary act)]

→なにごとかを言うことにおいて(-in-)、なにごとかを行うその行為のことである。たとえば、「約束する」、「告白する」などの、「相手にこちらの意図が伝わればその時点で十分」と言えるような言語行為は「⑵発話内行為」にあたる。

→「⑵発話内行為」とは「発話内の力(illocutionary force)」を伴った言語行為であり、社会的な慣習や、習慣によって発話内行為とその効果との間の関係が緊密で安定している。たとえば上記の①〜④はこれにあたる。

[⑶発話媒介行為(perlocutionary act)]

→なにごとかを言うことによって(-by-)、なんらかの実際的で実効的な「発話媒介効果perlocutionary effect」を聞き手に及ぼし、その効果によってなにごとかを行うその行為のこと。

→「⑶発話媒介行為」は、発話の適切性が話し手の発話そのものによっては構成も保証もされないような言語行為であるという点で⑵とは異なる。たとえば、「怖がらせる」「確信させる」などは、「相手に意図が伝わればその時点で十分」と言えるような言語行為では全然なくて、その言語行為の「適切性」が聞き手に依存して変わってしまう。⑵に属する「約束する」の場合には相手に及ぼす実際的効果とは無関係にその言語行為を適切に達成することができたけれど、「おまえ、そんなことすると、どうなってもしらんぞ」と言うような言語行為の場合には、その効果によって相手がビビらなければこの言語行為を適切に達成することができない。

→ 「⑶発話媒介行為」も、社会的な慣習や習慣によって言語行為とその効果の間の関係が比較的安定してはいるが、その場その場での即興性もあり、「⑶発話媒介行為」が及ぼす「発話媒介効果」は文脈次第でどのようなものでもありうる。例えば「結婚しよう」という発話媒介行為が相手に及ぼす発話媒介効果は何だろうか。文脈によっては相手が笑い出すかもしれないし、泣き出すかもしれない。即興性があるため安定しないのである。

→では、そのあらゆる言語行為の適切性を根本的に下支えしていると思しき、「文脈」というのはいったいなんなのか。結局のところ、言語行為論が重視しているのは、状況にあった言語行為をなしているのかどうか、すなわち文脈(context)に合った言語行為ができているかどうか、ということにならざるをえない。言語行為論の核心は文脈論なのである。


【言語行為論における文脈の最終的重要性】
人間の全ての言語行為(speech-act)は以上の3つのカテゴリーのうちのどれかに定まるということには結局ならないし、まったく同じ発話でも文脈が変われば⑴と⑵と⑶のどれに分類されるのかは変わる。以下に3つの具体例を挙げる。

[具体例❶]
まず、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「Aさんったら、これから何をするかわからないなんて、変なの!うふふ」とBさんが思った場合をまずは考えてみよう。この時、そもそもAさんが発話に込めた「発話内の力(illocutionary force)」がBさんに伝わってさえいないので、これは「⑵発話内行為」として判定するならば「不適切」であり、これは「⑴発話行為」でしかない。

(→この場合、「⑵発話内行為」として、不適切なのはAさんの発話だろうか?オースティンの議論構成としてはそうなのだが、受け取るBさんの側が、「受け取ること」に失敗しているとも言えないだろうか?)

[具体例❷]
次に、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「そんなこと言われてもちっとも怖くないぞ!」とBさんが思った場合はどうか。この時、Aさんが発話に込めた「発話内の力」はBさんに伝わってはいるのだが、Bさんが実際に怖がってはいない。よってこれは「⑶発話媒介行為」として判定するならば「不適切」であり「⑵発話内行為」でしかない。


[具体例❸]
最後に、Bさんを怖がらせようとしたAさんが「私は何をするかわからないぞ」と発言したことについて、「怖い!」とBさんが実際に思った場合はどうか。この時、Aさんの発話は、Bさんに「発話媒介効果」を及ぼしている。つまり、「発話内の力」がBさんに伝わっていて、かつ、Bさんが実際に怖がっている。この「発話媒介効果perlocutionary effect」を聞き手に及ぼし、まさにそのことによってなにごとかを行うその行為こそが「⑶発話媒介行為」なのである。



【参考文献】
ジョン・ラングショー・オースティン著、坂本百大訳『言語と行為』(1978年、大修館書店)

 

 

【参考:言語ゲーム

言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)とチェスのゲームとは全く違う。チェスは調べようと思えばすぐに調べられるような明示的な規則があるけれども、言語ゲームは明示的な規則がどこかに書いてあるのではない。言語ゲームのルールには、(共同作業の中で言葉の誤りが訂正されたりするのだから)規範性はあるのに、ルール自体が言語の実践的使用の中で更新されてゆくこともまたありえて、しかもそれらは明示的ではない。言語ゲーム概念は、言語実践が普通のゲームとは違って明示的な規則には従っておらず、生活の流れの中でその言葉の意味は供給されているのであって、言葉の意味はその言葉が喚起するイメージなどではない、ということを主張しようとして作られたものなのだ。

 


【発展】

家族的類似性=共通の本質に基づかない類似性

マイケル・ダメット反実在論と反クワイン全体論と分子論的言語観

ポール・グライスの会話の含みの理論

1980年代のデイヴィドソンの言語の非存在論

 

【規則のパラドクス】

自然数列は無限に続く。たとえば、「0から順に2を足す」という言葉は、それだけでは、どういう風にその指示を遂行するべきかを決定できない。そのことは、どれほど指示に言葉をつけたそうとも、具体例を何個つけて示そうとも同じである。たとえば、「1000」から先は4ずつ足し続けると解釈されるかもしれない。