aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

倫理学の私的ノート ヒューム→アダム・スミス→カント


 
 
倫理学とはどのようなものか】
倫理学ethicsとは、規範normや価値valueに関する哲学の一分野で、「われわれはいかに生きるべきか、その理由はなにか」を体系的に理解しようとする学問。ただし「倫理」と「道徳」を区別する立場も存在する。
 
 
【狭義の倫理学
狭い意味では、生きていく上での様々な問題にわれわれが直面したとき、「どのようにすべきか」ということに関する指針を与えてくれるもの。「どうしよう?」という問いに対する指針の探求。
 
 
倫理学の三本柱】
⑴   徳倫理学(Virtue ethics):感情や性格(人柄)などに重点を置いて倫理というものを考える立場。 (アリストテレス、フィリッパ・フッド、アラスデア・マッキンタイアetc.)
⑵   義務論(Deontology):行為の評価は、その動機や意図が「義務」にかなっているかどうかで行なわれる。(カント etc.)
⑶   功利主義(Utilitarianism):関係者の幸福を総和して、その幸福の量が少しでも多くなる選択肢を選べとする。 (ジェレミーベンサム、ジョン・スチェアート・ミル、ヘンリー・シジウィック、リチャード・マーヴィン・ヘアetc)
 
 
【他の立場に対する差異を意識した三本柱の再規定】
⑴   徳倫理学:正しい行為というより、「よい人」を目指すべきだという考え方
⑵   義務論:幸福なんかよりも義務が大切だという考え方
⑶   功利主義:みんなが幸福になるようにするのが正しいという考え方
 
→一般に、道徳判断の対象が行為に向けられるのが義務論と功利主義(ただし動機功利主義などもある)。それに対して性格に向けられるのが徳倫理。
 
 
【代表的な対立軸:功利主義vs義務論(結果か動機か)】
→嘘をつくことで多くの人の命を救う場合、それは結果が良いのでその嘘をつく行為は良い行為なのではないか。ただし、義務論も、瞬間的で一回的な、「動機」だけを取り出してみて、それについて評価をしている。徳倫理学は性格という持続的なものに対して評価をする。
 
 
 
倫理学における方針:理性主義と感情主義】
倫理学における感情主義の代表:デイヴィッド・ヒュームアダム・スミス
倫理学における理性主義の代表:サミュエル・クラーク、ウォラストン、カント
 
 
【自律と他律】
他律の倫理学:ヒューム(人間は倫理の現場において他者の現存を何より重視する)
自律の倫理学:スミス(人間は称賛されることだけでなく、称賛されるに値する人であることをも求める)、カント(自分の頭で考えて自分で決める)
 
 
【真夜中の赤信号を無視するか】
「真夜中、車が来ておらず、しかも誰も見ていないとしたら、赤信号だけれども横断歩道を渡るかどうか。」
 
①    カントの場合
理由が何であれ、渡ってしまうのは義務違反。義務なのだからダメなものはダメなのであって、なぜ渡ってはいけないかと言えば、それが義務だからであり、それ以上の理由はない。道徳的行為であるためには、それが義務だから以外の理由があってはならない。理由がなんであれ赤信号で横断歩道を渡るのは義務違反なのでダメ。また、それが義務だからという理由以外によって為された行為はたとえ義務に合致していたとしても良い行為にはならない。
 
②    ヒュームの場合
車にひかれる危険性がないという利益を鑑みて、渡ってしまうかもしれない。
この時、その人の行為を観察する他人が周囲にいない、渡っても自身の評判に影響がないという点がとくに大きい(道徳における他者の重要性がとても大きい)。
理性は情念の奴隷なので、渡っちゃいけないことはわかっているけど、やめられない
(Cf.アクラシア:無抑制の問題: わかっちゃいるけどやめられないというアクラシア問題に対して、わかっているならやめられるはずで、それはわかってないからなんだという人もいる。)。
 
③    スミスの場合
胸中に「公平な観察者」が形成されているような人は、この時、横断歩道を渡らない。周りにその行為を見ている人がいなくても、「公平な観察者」が胸中にいて、その「公平な観察者」からの是認を求める気持ちと、その「公平な観察者」に否認されたくないという気持ちが、行為者に、横断歩道を渡らずに、立ち止まらせる。
 
 
 
 
 
【ヒューム前史:「道徳感覚学派Moral Sense School」】
⑴   第3代シャフツベリ伯Anthony Ashley Cooper; 3rd Earl of Shaftesbury (1671-1713):イングランドの道徳哲学者、美学思想家。徳と美の直観的能力として「道徳感覚moral sense」を重視。フランシス・ハチスンを教え、ジョセフ・バトラーなどにも影響を与える。祖父の侍医でもあったジョン・ロックに教育を委ねられ古典語に堪能であった。→浜下昌宏の研究が有名。
 
⑵   フランシス・ハチスンFrancis Hutcheson (1694-1746):18世紀アイルランドの道徳哲学者。『美と徳の観念の起源』(1725)では、ロックの認識論を踏まえつつ、「道徳感覚」を提唱し、「仁愛benevolence」という利他的動機を道徳的善と規定する。自然法学を踏まえた社会科学的な洞察は、ヒュームとスミスに批判的に継承され、スコットランド啓蒙思想の展開に大きな影響を与えた。ヒュームと交流をもち、アダム・スミスを教えた。「最大多数の最大幸福」という言葉を「最初」に用いた人物として有名
 
 
⑶  ジョセフ・バトラー Joseph Butler(1692-1752):イギリスの神学者、道徳思想家。道徳感覚学派を代表する一人。シャフツベリ伯の影響を受けて、ホッブズの快楽主義を批判し、人間には「自愛」以外に「良心」としての道徳感覚とそれによる支配原理が存在すると主張し、後者に前者を統治・規制する優位を与える。また、彼の利己主義の批判は有名で、利己主義は欲求の対象とそこから得られる満足との混同に由来すると説く。さらに、彼はシャフツベリの影響を超えて、人間本性を含む世界全体を、自然と道徳の合一を可能にする目的論的体系・制度と考える。著作に『説教15集』(1726)、『自然宗教と啓示宗教の自然の構成および運行との類比』(1736)などがある。
 
 
デイヴィッド・ヒュームDavid Hume(1711-1776)】
18世紀スコットランドの哲学者、歴史家。「輪転機から死産」することになる『人間本性論』(1739-40)の全3巻をフランスにて執筆した。のちに、『人間本性論』の第1巻の「認識論」にあたる『人間知性の探求』(1748)と、ヒューム自身が一番気に入っているらしき『道徳原理の探求』(1751)を刊行した。『イングランド史』(1754-62)は評判がよく、教科書にもなって広く読まれた。懐疑論、因果論、人格の同一性論で有名であり、カントを「独断の微睡み(ドグマティック・スランバー)」から目覚めさせ、哲学探究の全く新しい方向を与えたとされる。ヒュームはルソーに惚れ込んでいたがルソーの被害妄想ゆえにルソーに「裏切り者」扱いされて、ルソーを「悪魔」と呼ぶに至った。詳しくは、山崎正一串田孫一著『悪魔と裏切者: ルソーとヒューム(ちくま学芸文庫)』
 
【ヒューム倫理学の基本書】
Hume, D. [1739-40] A Treatise of Human Nature. Edited by Norton, David Fate. Norton, Mary J. 1st Ed Oxford University Press, 2000.
 
 
 
デイヴィッド・ヒュームの倫理思想の性格】
1.      【道徳の世俗化】
→その端緒はホッブスとも言える。
 
2.      【感情主義】
→道徳を感情に基礎付ける。ただしアダム・スミスと同じく「道徳感覚」は否定
 
3.      【道徳を二つに区別】
→自然的徳(親が子の面倒を見る)と人為的徳(法律、所有、約束)
 
4.      【理性主義的道徳説(サミュエル・クラーク、ウォラストン)批判】
「理性は情念の奴隷であり、かつ奴隷でのみあるべきであって、情念に仕え、それに従う以外のつとめを何か持っていると主張することは決してできない。」(『人間本性論』 第2巻、第3章、第3節、第4段落)
→つまり、理性は行為の動機付けの役割を担うことはできない。道徳とは実践的なものであるが、しかし、理性が人間を行為へ導いているのではなく、感情・情念が行為を引き起こしているのだ。カントの「実践理性」が行為を導くように、理性主義者は、理性によって行為が引き起こされると主張するのであるが、ヒュームに言わせれば、理性にあるのは、1.計算能力か、2.事実(「地球は丸い」「三角形の内角の和は二直角に等しい」)の認識能力か、3.(目的-手段の)関係の把握能力くらいなのであって、人を行為にまで導くほどの力はないのである。
 
5.      【理性は「ガイド」をするので追放はされない。】
カントが欲求や感情、そして幸福など(カントの「感性」にあたるもの)を、「道徳」から完全排除したのに対し、それとは対照的に、ヒュームは「道徳」に「理性は不要」とは言っていない。情念が単独では盲目だから、情念を導いてやる案内役(理性)が必要なのである。車で言えば、モーターが情念で理性はそのハンドルなのである。
 
6.      【道徳の非実在性 : 道徳とは観察者の外側に実在しているものではない】
 
「悪徳だと認められる行為、たとえば故意の殺人について考えてみよう。あらゆる観点から故意の殺人について検討して、「あなたが悪徳と呼ぶ事実、つまり実在するものを見出すことができるかどうか」考えてみよう。故意の殺人をどんな仕方で取り扱おうと、あなたはある種の情念、動機、意志の働き、そして思惟しか見出さない。この場合、それ以外の事実は一切存在しない。あなたが対象[のみ]を考察している限り、悪徳はあなた[の心の中]から完全に消えてしまう。あなたが自分の反省を自分自身の胸の内へと向け、 そして、自分のうちに生じ、この[故意の殺人という]行為へと向けられる否認(disapprobation)の感情を見出すまで、悪徳を見出すことは決してできないのだ。[確かに、]ここには事実がある。だが、この事実は感じ(feeling)の対象ではあるが理性の対象ではない。この事実はあなた自身の内にあるのであって、対象の内にあるのではない。それゆえ、あなたが何らかの行為や性格が悪徳であると宣言するときに意味しているのは、「あなたの本性の構造から、その行為や性格について熟慮することによって、非難の感じ、ないし感情を抱く」ということに他ならない。」 (『人間本性論』 第3巻、第1章、第1節、第26段落)
 
→「道徳的善悪(徳・悪徳)」は、「対象そのもの」や「対象間の関係」にあるのではなく、観察者の胸中で抱かれる情念・感情にある。これを道徳判断の主観主義という。ただし、個人的な好き嫌いで道徳判断が為されているという「単純な主観主義」ではない。
 
 
7.      【ヒュームにおける「道徳判断」の仕組み】
道徳判断とは、行為者の性格に対して下されるものであり、ほとんどの道徳判断には「共感」が関与している。そして、「共感」は身近な人ほど強力に働くから、その「共感」のブレ(えこひいき)を補正するための「一般的観点(general point of view)」という装置がある。
 
8.      【単純な主観主義ではない】
「ある性格が一般的に、われわれの個別利害に関わりなく考察される場合にのみ、その性格は、それを道徳的に善い・悪いと呼ぶような感じ・感情を引き起こす」(『人間本性論』第3巻、第1章、第2節、第4段落)
→「個別利害に関わらない」というのは、道徳判断を下す際に抱かれる感情は、判断を下す当人「の/に関わる」感情ではない。では、道徳判断を下す際に抱かれる感情はどこからきたのか。「共感」を通じて、他者から来たのである。では、「共感」とは何か。ヒュームによれば、「共感」とは、「他者の感情をコミュニケーションによって獲得する性向」(『人間本性論』第2巻、第1章、第11節、第8段落)である。そして「共感こ」そが、ヒュームの道徳哲学では、善悪の区別の主要な源泉なのである。( 『人間本性論』第3巻、第3章、第6節、第1段落)
 
9.      【ヒュームにおける共感sympathyは推測の能力である。】
共感とは、相手の顔つきや会話に表れる様子・態度から、その人の感情を推測し、その結果、相手と同じような感情を獲得する能力のこと。それゆえ、ヒュームの「共感」は哀れみや同情ではない。ヒュームの共感の問題点としては、共感は、判断を下す人の立場や状況の変化に応じて、当人に様々な感情を抱かせる。特に、赤の他人よりも家族や仲の良い友人に対して強く働く(えこひいき)。なぜなら①心理的な近さ、②距離的な近さ、③自分との類似性が共感に強く影響するから。たとえば動物倫理の文脈でヒューム倫理学を使うとすれば、イヌよりはサルの方により強く「共感」する。
 
10.  【他者との意見の対立→不快→一般的観点general point of view】
評価者個人に応じた観点から誰かある特定の個人の性格をそれぞれ自分なりに評価していても、評価者たちの意見はなかなか一致しない。だから評価者たちはどうするかというと、その評価されるものの周囲のナロウサークルに焦点を当てるのである。そしてそのナロウサークルにおいて優勢な評価に評価者は共感するのである。
 
「我々一人一人が性格や人物を、それらが個人の特殊な観点から、現れるままに考察しようとするならば、我々が合理的な言葉によって意見を交わすことは不可能であろう。それゆえ、そうした絶えざる不一致を防ぎ、事物についての一層安定した判断に至るために、ある不動かつ一般的な観点を我々は定め、そして自分達の目下の状況がどんなものであれ、我々が何かを考える際には、常に自分達をその視点に置くのである。」(『人間本性論』第3巻、第3章、第1節、第15段落)
→ヒュームの「不動かつ一般的な観点」というのは、普遍的な観点でもどこにあるのかも分からない理想的な観点でも偏らない観点でもない。
 
11.  【ナロウ・サークル:他者がいなければ道徳判断ができない】
「われわれは、人物の道徳的性格に関して判断を下すために、その人物が活動する、狭い範囲の仲間たちnarrow circleへと、自分の視線を限定する。」(『人間本性論』第3巻、第3章、第3節、第2段落)
 
ある人がナロウサークルでどういう風に評価されているか、そのナロウサークルの中で優勢な評価に観察者は共感する。
 
 
12.  【客観性が確保された道徳判断:ある程度偏りがないと客観性はない】
「各個人の快や利益は異なっているので、もしも彼らがある共通の観点を選択しないのならば、彼らの感情や判断において、合意することは不可能であったろう。この共通の観点から彼らはその対象を眺め、この観点によってその対象は、観察者全員にとって同じように見えるのである。」 (『人間本性論』第3巻、第3章、第1節、第30段落)
 
→一般的観点はナロウサークルの中で作られていくものである。しかしナロウサークル、つまり身近な人々の観点はやはり偏っているのではないか。偏っているのである。偏りのある観点を調べてからでないと客観性が確保できず、信用できないのである。(かたよりの倫理学)。評価されている人の道徳的性格(人柄)の影響を一番善く受けていて、評価される人のことを一番善く分かっているのは、評価される人の周りにいる「人々」に他ならないという考えがヒュームにはある。(他律(ヘテロノミー)の倫理学
 
 
 
 
13.  【ヒュームの道徳の4つの源泉】
①  判断されることが他者にとって有用(useful)/不利益であるかどうか
→(例).約束を守る、遅刻しない、誠実である
②  判断されることがその人自身にとって有用/不利益であるかどうか
→(例).仕事が機敏、勤勉である
③  判断されることが他者にとって快適(agreeable)/有害であるかどうか
→(例).ウィットに富む、息が臭い
④  判断されることがその人自身にとって快適/有害であるかどうか
→(例).快活さ、陽気さ、朗らかさ
 
だから、評価される人のことを道徳的に一番よくわかっているのは、これら4つの道徳の源泉の影響を一番強く受けるナロウサークルの人々なのだ。
 
 
14.  【ヒュームの倫理思想のまとめ】
ヒュームにおける「道徳判断」とは一般的観点から性格を眺めたときに是認・否認の感情を抱くことである。そして、「ナローサークル」で実際に下されている判断が、その道徳判断の基準(一般的観点general point of view)となる。ヒュームの倫理学は、普遍的基準や理想的基準や偏らない基準を求めない倫理学なのである。また、道徳判断を下すために「他者」は非常に重要である(他律の倫理学)。なぜなら、第一に、他者との意見の対立が不快であることを客観的判断に至るための原動力にするのだからである。第二に、道徳判断を下すためには自分の外のナロウサークルの他者の感情を基軸にするのでなければならないから、である。
 
 
15.  【ヒューム倫理思想の問題点】
①  倫理・道徳の範囲が狭い。つまり、道徳性の論理的要件として、R. M. ヘアは「普遍性」を挙げるのだが、それがない。
②  多数者の専制を容認するかもしれない。結局全部、多数決で善悪がきまるのか。たとえば、「同性愛者は不徳なので死罪にすべきだ」という人が多数派のコミュニティで、その判断は道徳的に正当化されるかもしれない。また、トクヴィル、J. S.ミルらが懸念したように、多数者の利益の貫徹によって少数者が抑圧されるのではないか。冤罪の危険性もある。
 
 
16.  【ヒューム倫理学は、信念・欲求モデルと整合する】
メタ倫理学における「信念(理性が取り扱う)—欲求(感情の領域に含まれる)モデル」はヒュームの枠組みと整合的である。たとえば、「喉が渇いたのでサイダーを飲もうと、おもむろに冷蔵庫に手を伸ばした」という行為について、「信念—欲求モデル」によれば、その行為が遂行される際には、「冷蔵庫にはキンキンに冷えたサイダーが入っている」という「知識or信念」と、「何か冷たいものを飲みたい」という「欲求」があったということになる。ここで注目すべきは次の二点。まず、①「信念-欲求」モデルにおける「信念」は、それ自体が単独で行為を動機づけることはできなくて、何かを飲みたいという「欲求」がなければ、冷蔵庫を開けるという行為には決して至らないということ。それゆえ、「信念」は客観的ではありえても、動機付けの力は持たないものとなる。次に、②行為を引き起こすときに不可欠とされる「欲求」は、「世界がどうなって欲しいかor世界がどうあるべきか」を表す心理状態とされる。そのため、実際の世界のあり方に照らして「欲求」というものの真偽が決まるわけではない。その意味で、行為を引き起こす「欲求」は主観的なものだということができる。現代における「メタ倫理学」という領域では、ヒュームに由来するとされる「信念—欲求モデル」でもって行為者の心理状態を捉える、というのが一般的。
 
 
 
 
アダム・スミスAdam Smith (1723-90)】
18世紀スコットランド啓蒙思想の中心的人物で、道徳哲学者にして、古典経済学の父とされる。『道徳感情論』(1759)と、『国富論(諸国民の富)』(1776)が二大主著。アダム・スミスは、 グラスゴー大学の学生時代にヒュームの『人間本性論』をこっそり読んでいるところを見つかって怒られたらしい。『人間本性論』は宗教批判書でもあり禁書だったのでスミスが処分された記録が残っている。『国富論(諸国民の富)』の出版年は1776年であり、これはヒュームの死んだ年である。アダム・スミスは当時進行中だったアメリカ独立戦争の行く末を見届けてからこの本を出版しようとしていたのだが、胃癌だったヒュームからスミスに「読みたい」という手紙が届いて、それでヒュームが死ぬ5ヶ月前にアダムスミスはこの本を刊行することにしたのである。
 
近代イギリス道徳哲学における自己愛と利他心について言えば、ホッブズらの利己主義的人間観とハチスンらによる利他心優位の人間観の対立を、アダム・スミスは調停したとされる。彼は『道徳感情論』で利己心と共感に注目する。彼は、共感から生じた是認による利己心の制御を,道徳の成立として見て取った。また『道徳感情論』第6版で、スミスは「想定された公平な観察者」という概念を作り、道徳判断の客観性を確保したとされる。
 
 
 
国富論の世界】
国富論』(1776)の有名な文句は「神の見えざる手」であり、この本はたしかに、政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することで豊かで強い国を作るべき(自由放任主義)だと唱えている。ただし、堂目 卓生『アダム・スミス道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008年)によれば、『道徳感情論』におけるスミスの人間観と社会観を再考察し、その上で『国富論』を検討することによって、これまでとは異なったスミス像を示すことができるらしい。その『道徳感情論』の鍵概念とはヒュームとは違った、アダム・スミス独自の、「共感」に基づく道徳感情説と、「想像上の立場交換」、そして「公平な観察者」である。
 
【アダムスミス倫理学の基本書】
Smith, A. [1759] The Theory of Moral Sentiments, edited by Raphael, D. D. and Macfie, A. L.,
Oxford: Clarendon Press, 1976
 
 
 
 
【人と共感するか状況に共感するか】
⑴   人と共感するヒューム
→お葬式で身内を亡くした人がヘラヘラしている場合、その人の感情と同じ感情を抱く
 
 
⑵   状況に共感するアダム・スミス
お葬式で身内を亡くした人がヘラヘラしている場合、その人の感情と同じ感情を抱かず、その状況に着目して、その態度は場違いなものだとして否認する。そうすると相手は不快になる。人は不快を避けて快を求める。よって彼は是認を求めて態度を改めるかもしれない。そもそもアダム・スミスの共感論は、以下のスリーステップになっている。⑴まず、観察者が行為者と想像上の立場交換(imaginary change of situation)をして感情を獲得した後に、⑵「想像された自分の感情」と、「実際に観察される他人の感情」とを比較する。観察者は、「自分の感情(想像)」と「他人の感情(実際)」とを比べてみた結果、両者がほぼ一致する場合には、他人の感情を「適切なもの」として「是認」し、一致しない場合には「不適切なもの」として「否認」する。⑶さらに、相手の感情との「比較」を通じて観察者が獲得した「是認」の感情が相手に伝わると、相手は自分の感情や行為が自分以外の人に認められたことを知って快い気持ちになる。)
 
→「共感は、情念[そのもの]を見ることからよりもむしろ、その情念が引き起こされる立場を見ることから生じる」(『道徳感情論(1759)』第Ⅰ部、i篇、1節、10段落)
 
→たとえば、苦労して返済不要の奨学金をもらっても全く喜んでいない学生がいたとして、もし彼が友人に「君がその状況で大喜びしていないのは不適切だ」と否認された場合、彼は友人に否認されるのが不快であり、是認されて快感を得たいがために、態度を改めるかもしれないのである。(否認(不快)を避けて是認(快)を求める人間観)
 
→われわれは、他人から是認されることを願う結果、自分の感情や行為を、他人が是認できるものに合わせようとする(我々は、他人の目線を気にする)。では、誰の目線を気にするのか(=道徳判断の基準はどこにあるのか)。ヒュームのように、身近な人の視線ではない。インパーシャルスペクテイターの目線を気にするのである。
 
 
 
 
【ヒュームとアダム・スミスの共感は、何が違うのか】
ヒュームの場合:「共感」する相手と、同じような感情を獲得する。
 
アダム・スミスの場合:想像上の立場交換で獲得する感情は、相手の感情と一致するとは限らない。
 
 
 
アダム・スミスの倫理思想の性格】
 
1.      【アダム・スミスの共感ステップ①:理論の前提と想像上の立場交換による感情の獲得】前提とされるスミスの人間観:人間はみな、他人の境遇に関心をもつ。
前提とされるスミスの人間観:人間はみな、他人と同じ感情を自分も抱こうとする。
前提とされるスミスの人間観:人間はみな、不快を避けて快を求める。
→しかし、他人の胸中は直接覗き込めない
→そこで、想像上の立場交換imaginary change of situationをする。われわれは道徳判断を下すとき、想像の中で、自分を他人の状況に置いてみる。つまり、「自分がその人と同じ状況下にいたら、どのような感情を持つだろうか?」「そういう状況で自分はどのような行為をするだろうか?」と想像する。
→スミスの人間観:人は自分自身を含めて誰しもが、たとえ自分との利害関係がない人に対してでさえも、関心を持つ。そして、その他人と同じ感情を自分も抱こうとする。ただし、他人の感情を直接見ることは出来ないので、「想像上の立場交換」(共感)をする。
 
 
2.      【アダム・スミスの共感ステップ②:「想像上の自分の感情」と「観察された他人の感情」との比較】
「想像上の立場交換」をして感情を獲得した後、「想像された自分の感情」と、「実際に観察される他人の感情」とを比較する。ふたつを比較して、両者がほぼ一致する場合は、他人の感情は「適切なもの」として「是認」されるが、ふたつを比較して、両者が一致しない場合は、他人の感情は「不適切なもの」として「否認」される。この「是認」と「否認」の感情が、アダム・スミスにおける「道徳感情」である。
 
3.      【アダム・スミスの共感ステップ③:是認感情の伝達(感情の相互交流)】
さらに、相手の感情との「比較」を通じて観察者が獲得した「是認」の感情が相手に伝わると、相手は自分の感情や行為が自分以外の人に認められたことを知って、快い気持ちになる
 
4.      【他人の評価から、自分の評価へ】
自分には、他人への関心がある(人間観の前提より)
⇒だから、他人に対する道徳判断を下す。
他人にも、自分への関心がある (人間観の前提より)
⇒だから、他人も自分に対して自分と同じように道徳判断をしているはずだ。
では、自分は他人の目にどう映っているんだろうか。
「では、自分は他人に道徳的にどう判断されているんだろうか。」
 
このように問いを発展させたアダム・スミスは、評価対象の重点を他人から自分自身へと移していく。われわれは、他人から是認されることを願う結果、自分の感情や行為を、他人が是認できるものに合わせようとする(我々は、他人の目線を気にする)。では、誰の目線を気にするのか(=道徳判断の基準はどこにあるのか)。その「他人」が誰でもいいわけではない。では、誰の基準に合わせる(べきな)のか。この時、アダム・スミスは、ヒュームと同じ客観性確保の問題を抱えているわけだが、その問題解決の方向性は、ヒュームのように、身近な人に注目するのではない。アダム・スミスは、親や友人など、親しい人は、私に対して愛着や好意を持っているから偏っていて不適切として退けるし、また逆に、自分に対して明らかな敵意をもっている人もその判断が公平さを欠いたものであるから不適切として退ける。そして、偏りのない「インパーシャル・スペクテイター」による「是認」に対する「共感」を、自分の過去の行動を自分が「是認」する時の基準にするのである。では「インパーシャル・スペクテイター」とは何なのか。
 
5.      【 「公平な観察者impartial spectator」は第三者の立場である】
自分に対する適切な判断の基準を与えてくれるのは、自分と利害関係にない、そして自分に対して特別な好意や敵意をもたない第三者、すなわち「公平な観察者」たちだけ。「それらの対立する利害について何らかの適切な比較をなしうるにはまず、われわれは自分の位置を変えなければならない。われわれは、自らの場所からでも、他人の場所からでもなく、また、自らの目でも、他人の目でもなく、どちらとも特別な関係を持たず、両者の間で公平に判断する、第三者の場所から、第三者の目で、それらの利害を眺めなければならない。」『道徳感情論(1759)』第Ⅲ部、1、6)
 
6.      【公平な観察者impartial spectatorの特徴】
①    個人的利害にとらわれない
②    個人的感情にとらわれない
③    関連する事情に通じている(well-informed)
 
「公平な観察者」は、「内なる人」、「人類の代表者」、「胸中の半神(デミ・ゴッド)」、「神の代理人」、「良心」などと呼ばれる。
 
7.      【ヒュームの「一般的観点general point of view」と「公平な観察者」との違いは何か】
 
【→胸中にいるかどうか】
われわれは、観察者としての経験、そして判断される当事者としての経験を通じて、自分が所属する社会において、「公平な観察者」たちが、実際に他人の感情や行為をどのように評価するか、どう判断するかを学んでいく。その結果、 「公平な観察者」の基準が胸中に形成される。つまり我々は、経験を通じて「公平な観察者」の基準を胸中に獲得していくのである。
 
8.      【自分に対する道徳判断:裁判との類比】
自分に対する道徳判断は、自身を2人の人物に分割した上で、自分の感情や行為を判断することでなされる。その2人の人物としては、行為者である裁判を受ける被告と、観察者である裁判官である。
 
9.      【自分に対する道徳判断:「良心」の創出、安心と不安】
「自分が行為した同期を振り返り、それを、利害に関心のない観察者が調べるような見地で調べる場合、この想定された公平な裁判官の是認に共感することで、自らを賛美する。」 (『道徳感情論[1759]』第Ⅱ部、2篇、2節、4段落)
 
人は、「想定された公正な裁判官」の是認に対する共感によって、自分の過去の行動を是認する。 (『道徳感情論[1759]』第3部、1、2)
 
われわれの胸中には、公平な観察者としてのもう一人の自分がいて、自分の感情や行為が適切なものか否かを判断する。われわれは、常に胸中の公平な観察者の判断に従うわけではないけれど、その判断を気にしないではいられない。自分の感情や行為に対して、胸中の公平な観察者から是認を受ける場合には安心するし、否認される場合には不安になる。
 
 
10.   【ヒュームとスミスの倫理思想の比較:「共感」と「道徳感情」】
ヒュームとスミス、ともに「共感」を通じて、「道徳感情を獲得」するという、大きな枠組みは一緒である。しかし、「共感」ということで意味されている内容と、「獲得される道徳感情」に関して、大きな違いがある。ヒュームの「共感」は、相手の様子から相手の感情そのものを推測すること、あるいはその推論能力である。それに対して、スミスの「共感」は、状況に焦点を当てて想像上の立場交換をすることである。また、ヒュームの道徳感情は、推論の失敗がない限り、相手と同じものである。それに対して、スミスの道徳感情は、相手と一致するとは限らない。
 
 
11.   【ヒュームとスミスの倫理思想の比較:「客観的な視点の違い」】
ヒューム、スミスともに「共感」の偏りを問題視した。その結果、両者ともに、「客観性」を確保する視点を導入した。両方とも、経験を積むことで、徐々に獲得されるものであるけれども、その具体的内実は驚くほど異なっている。ヒュームの「一般的観点general point of view」は、被評価者を取り巻く「身近な関係者narrow circle」の視点である。ヒュームの「一般的観点」は、観察者の外にある実際(real)の観点。それに対して、スミスの「公平な観察者impartial spectator」の視点は、胸中に形成される「利害・感情にとらわれていない、事情に通じた人」の視点である。アダム・スミスの「公平な観察者」は、観察者の内にある理想的(ideal)な観点である。
 
→また、ヒュームではどちらかというと、他人と意見が合わないことの不快感を原動力に客観的な道徳判断に向かうのだが、アダム・スミスではインパーシャル・スペクテイターに是認される快感を原動力に客観的な道徳判断に向かうのである。
 
 
12.   【まとめ】
ヒュームにおける有徳な人:情念の闘争(他者由来の感情)のうちにある他律的存在
スミスにおける有徳な人:良心によって自己を反省し、良心の統制に従って行為する自律的存在→カント倫理学への接近
 
 
イマヌエル・カントImmanuel Kant (1724-1804)】
純粋理性批判』(1781/87)
『道徳形而上学の基礎付け』(1785)
実践理性批判』(1788)
判断力批判』(1790]
 
【カント倫理学の基本書】
Kant, I. [1785] Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, Hrsg. von Karl Vorländer. Hamburg: Meiner, 1994
 
 
イマヌエル・カントの倫理思想の性格】
1.    【人間観】
人間とは、理性的存在者でありながら、常に同時に感性的刺激にも晒されている存在。
→理性だけしか持たないのが神や天使や精霊。感性だけに支配されているのが動物。人間は理性と感性にまたがって存在しているがゆえに道徳が必要になる。
 
2.    【「道徳」から「感性的要素(欲求・関心・幸福)」を完全排除】
カントは、仮言命法(「もし~したいなら…せよ」)よりも定言命法(端的に「…せよ」)を重視する。仮言命法とは、感性が命じる命法であり、それには以下の2種類がある。「熟練の規則(各自の欲求や関心に基づく個々の具体的目的に到達するための行為を指示)」と「怜悧の助言(誰もが求める一般的目的である幸福に至る行為を示すもの。)」である。「熟練の規則」が道徳たりえないのはなぜかというと、欲求や行為の目的は多様で個別的だからで、「怜悧の助言」が道徳たりえないのはなぜかというと、幸福も人によって様々で、自分を幸福にする行為が必ずしも他の人に幸福をもたらすとは限らないから。
 
3.    【道徳における普遍性(ユニバーサリティ)の重視(普遍主義)】
→道徳には、いつでもどこでも誰にでも妥当する普遍性が必須。
 
4.    【理性の自己律法、自律(オートノミー)、「自己決定」の倫理学
→人間にとって「道徳的に行為する」というのは、感性に流されることなく自分の理性の自己立法によって定められた「道徳法則」に従って行為すること。
→「汝の格率が、普遍的法則となることを、その格率を通じて自分が同時に意志できる格率に従ってのみ行為せよ」(『道徳形而上学の基礎付け』宇都宮 芳明 訳、以文社、2004年、p.42 / IV421)
→人が自分の意志決定をするための主観的規則(=格率)が、同時に普遍的法則になることも彼が意志できるような、そういう法則に従ってのみ、人は行為すべきである。
→すべての理性的な人が、すべての人に適用されることを望み、かつ自分も同意できるような、そういう規則に従ってのみ、人は行為すべきである。
 
5.    【厳格主義】
→「それが義務だから」という理由でなされる行為だけが道徳的に善いので単に「義務にかなっている」だけではダメ!たとえば「友情」ゆえに為した優しい行為は道徳的に善くはならない(←直観と合わない)。
 
6.    【人格の尊厳】
人格は「目的」にはなれど「手段」とされてはならない。
 
【カント倫理学の問題点1.(義務同士の衝突) :「ハインツのジレンマ」】
ローレンス・コールバーグ(米の心理学者)のたとえ話。ハインツの妻は病気で、ある薬を飲まないと死んでしまうのだが、その薬を持っているのは町のとある薬屋だけであり、薬屋は強欲で、ハインツにはとても払えないような大金を要求している。ハインツは手を尽くしたがそんな大金は集めることはできなかった。ハインツは薬屋に忍び込んで薬を盗む。さて、この盗みは許されることなのだろうか?
→このジレンマは、「他人のものを盗んではならないという義務」と、「自分の妻の命は助けなくてはならないという義務」とが衝突している。(原典はLawrence Kohlberg, “Stage and Sequence: The Cognitive-Developmental Approach to Socialization,” in D. A. Goslin ed., Handbook of Socialization Theory and Research, Rand McNally, 1969)
→ある「義務」と別の「義務」がぶつかった時、それを裁くもう一つ上の原理が必要になるのだろうか。しかし、カントの倫理学には理性から出てくる「義務」が最下層の基盤のはずである。
 
【カント倫理学の問題点2.(感情・欲求の位置):美しき魂schöne Seeleの問題】
シラーによるカント批判。「カントの厳格な道徳律は人間に、結局は感性や傾向性を考慮することなくもっぱら理性の原理に従うことを要求する。これに対してシラーは、完全な人間の理念をこれら二つの原理が調和した心の状態に求める。これが「美しき魂」である。それは、感情の赴くままに自発的に行なわれた行為が、同時に意志の命令に合致するような境地である。」(有福、坂部 編『カント事典』弘文堂、1997)
 
【カント倫理学の問題点3.形式主義の問題】
例外を作らない代わりに、具体性や内容は欠如しがちなので、道徳的ジレンマに出会ったときの指針として使いづらい。具体的にどうしたらいいのかが分かりづらい。
 
【おまけ】
 
【女性倫理学者フィリッパ・フットの「トロッコ問題」】
⑴   スイッチを押すと線路が切り替わって、1人死んで5人助かる。
⑵   歩道橋からひとりを線路上に突き落とすと、1人死んで5人助かる。
 
→⑴のとき多数派はスイッチを押すほうを選び、⑵のとき多数派は突き落とさない方を選ぶことが知られている。帰結主義的に考えれば、帰結が同じなら同じ選択をするはずなのに、なぜ⑴と⑵で違う選択をするのか。
 
 
 
 
【フットの答え】:二重結果説(ダブル・エフェクト・セオリー)
⑴   の場合は5人助けようとして、ひとりが死ぬことを許容している。
⑵   の場合はひとりが死ぬことを許容するだけでなく、意図している。
→⑴のほうは、ひとりを殺すことが許容されるが、直接意図はされていない。
→⑵のほうは突き落とされたひとりが死ぬことは許容されるだけでなく、直接意図もされている。
→「ひとりが死ぬ」結果を直接意図して5人を救うのが⑵で、5人を救おうとすると1人が死んでしまうのが⑴。「ひとり死ぬ」という結果が直接意図されたかどうかが⑴と⑵は違う。⑵はひとりを殺そうとしているが、⑴はひとりが死んでしまうことを許容している。フットは、我々は「⑴許容される結果」と「⑵意図される結果」を分けていると考えた。⑵のほうはひとりを5人を救うための「手段」としているのである。
 
 
 
【フットの結論】
ある行為によって結果A(5人助かる)と結果B(ひとり死ぬ)が生じるときに、結果Aの善さは結果Bの悪さを凌駕し、Bが直接意図されたものでないならば、その行為は「善い」あるいは「許容される」。
 
 
 
 
【ジョシュア・グリーンのループ実験】:「手段」としてひとりを殺すスイッチの実験
⑶   暴走トロッコの進む路線を、スイッチを押すと切り替えることができる。スイッチを押すと、トロッコの進む路線は、ひとりを殺す路線に切り替わり、5人のところに到達するまでに、そのひとりを轢き殺したせいでスピードが落ちて停止する。
→⑶のとき、多数派は、「スイッチを押す」方を選ぶことが知られている。しかしこれは、フットの「二重結果説」と矛盾する。明らかに⑶はひとりが死ぬことを5人を助けるための「手段」として意図しているからだ。よって⑶は「二重結果説」だと説明できない。ということは、「二重結果説」など単なる後付けの正当化だったのではないか。
 
 
 
【ジョシュア・グリーンの答え】二重過程理論(ダブル・プロセス・セオリー)
「突き落とす」という直接的な行為が嫌なだけではないのか。私たちの道徳的意思決定は内臓レベルの反応(進化の過程で獲得した自動的な過程:「習慣」)と、それに遅れて働き「後付けの正当化」をしたり調整を行う推論レベルの知的反応とから構成されているという説。これを「二重過程理論」という。たとえば、「近親相姦がなぜダメか」と言われて、「家族制度の崩壊につながる」という正当化は、コンドームをつければいいだけの話であって、それは知性が後付けした理屈である。実際、コンドームをつけても近親相姦は嫌だし、コンドームを付ければ子どもは生まれないので家族制度の崩壊にはつながらない。実際には内臓レベルの反応として、「なんとなく生理的に無理である」に過ぎないのだ。
 
 
 
 
【ジョシュア・グリーンの結論】
義務論的(カント的)な道徳判断は進化の過程で獲得した自動的反応に過ぎない。また多くの道徳理論は、そうした反応を後から正当化したものに過ぎない。