aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

罰を与えてはいけない理由は7つある


【子どもや犬のしつけ等で罰を使用してはいけない理由は全部で7つある。】

 

→まず確認しておこう。オペラント条件付けとは、「弁別刺激(例えば青信号)」をきっかけにして生じるオペラント行動(=随意運動)である「オペラント反応(例えば「アクセルを踏む」)」の結果として提示される「強化刺激(例えば車の発進)」によって、当該の「オペラント反応」が「オペラント強化」されるような、学習過程のことである。

→例えば、笛を吹いたら「おすわり」をすることを、おやつを使ってイヌにオペラント条件付けするとしよう。この場合、笛の音は「①弁別刺激」であり、おすわりをすることが「②オペラント反応」であり、それに後続しておすわりをしたことの結果として理解されるべきものとして提示されたおやつが「③強化刺激」である。そして、この①と②と③が全て揃っていることを「3項目随伴性」と呼ぶ。

→ところで、そもそも「罰」は「罰を与える側にとって望ましくない行動」をすぐに減少させることが多い。これが「正の強化刺激」となって、この「罰を与える」という行動は「オペラント強化」される。つまり、罰を与える側の罰を与える随意運動は「オペラント強化」されやすい。そのため、人はついつい、「しつけ」において「正の罰(嫌悪刺激の提示)」や「負の罰(報酬の剥奪)」を使いがちになってしまうという構造がある。では、「罰」を使うことの何がそんなにいけないのか。以下の7つの問題があるからである。

⑴第一に、罰は、身体的、精神的に学習者を傷つけることにつながり、倫理的な問題を引き起こしやすい。また罰が倫理的な問題を引き起こしやすいことがよく知られているため、罰を与える時に弱い強度の罰からスタートされやすい。

⑵第二に、罰は、「望ましくない行動をさせないようにする」のには有効だが、「望ましい行動をするように導く」のには有効でない。というのも、罰は「何をしてはいけないか」を指示はするが、「何をすればよいか」は指示できない。よって、罰を与えられることによって学習者は積極的な行動が取りにくくなるかもしれない。

⑶第三に、罰は、繰り返すとその効果が弱くなっていくことが多く、同じ効果をあげ続けるには罰を強くしていかなければならない。しかもその際に、段階的に罰の強度を高めていくと、かなり強い強度の罰でさえも効かなくなる。倫理面への配慮から、人はついつい最初は弱い強度の罰でスタートしてしまいがちなのだが、それは罰に対する学習者の慣れを生んでしまう。そこからさらに、更なる倫理面への配慮から、罰の強度を一気に上げず、徐々に罰の強度を高めていくということもまた起きやすい。そうすると、学習者には罰への慣れがかなり高い強度まで生じえてしまう。弱い罰からはじめて徐々に強度を上げていくと、かなり強い罰でも効果を持たなくなる場合がある。これを防ぐには、最初から非常に強い強度の罰を与えればいいのであるが、そのような強度の設定は誰にとっても容易なことではない。

⑷第四に、罰が来なかった時、学習者にとっては、「望ましくない行動をしなかったから罰が回避できたのか」、それとも、「もう罰は来なくなったのか」がわからないということである。そのため、学習者は再び同じことをしてしまうことが多い。例えば、子どもが何か先生にとって望ましくないことをすると、罰として先生がその子どもにビンタをする教室があるとして、ある日子どもが遅刻をした時に、先生がその子どもにビンタをしないと、子どもからしたら「遅刻は先生にとって望ましくない行動ではなかった(もしくはなくなった)からビンタが回避できたのか」、それとも、「遅刻は先生にとって望ましくない行動ではあるがビンタはもう来なくなった」のかがわからない。だから、遅刻することが先生にとって今はどういう行動であるのかを知ろうとして同じ行動は再び繰り返される場合がある。

⑸第五に、罰が来る場面には、先生や親の存在など、はっきりした弁別刺激が伴っていることが多い。それゆえ、たとえ罰を与えることによって望ましくない行動がみるみるうちに減ったとしても、それは弁別刺激があるときだけに限られる場合が多い。弁別刺激がないところでは、望ましくない行動をするかもしれない。つまり、コソコソと隠れて悪事を働くようになるかもしれない。

⑹第六に、罰は、学習者に学習にとって好ましくない行動を引き起こしがちである。例えば、罰でしつけられた犬の場合には、ストレスから、「テイルチェイシング」のような、「自分の尻尾を追いかけてうなる行動」を取ることが多くなる。人間の子どもの場合も、「顔をピクピクと動かす」というチック症に似た症状が出ることがある。これらの嫌悪的な反応は、望ましい行動の出現を妨害する可能性がある。

⑺第七に、学習者は罰を回避するために、罰を与える仕掛けを壊したり、罰を与える訓練者を攻撃したりする可能性がある。学習者にとっては、これは究極の解決策になっており、学習者からしたらそのことが合理的な行動だと思えるかもしれない。また、そのことによって訓練者も損害を被る。


以上のように、罰を使用する学習は非常に難しく、罰を使用する学習に熟達するよりも、罰を使用する学習自体を避ける方が賢明である。