【言語の根本特性は少なくとも5つ】
①「言語の超越性」とは、言語は時間と空間を超えて有効であることができることである。具体例は手紙などである。これは非言語メッセージでは実現が難しい。
②「言語の多産性(生産性)」とは、言語が様々な部品から成り立っていてその組み合わせで無限の事柄やまだ経験したことがないことや、不可能なことまでをも表現できることである。
③「言語の文化的伝承性」とは、言語が文化の一部として世代間で継承されていくことである。
④「言語の学習性」とは、言語が、生まれつき言語を身につけていくのではなく、試行錯誤の中で文法や使い方が学ばれていくことである。
⑤「言語の非必然性(恣意性)」とは、「「ある対象を指し示す言葉」と「その言葉が指し示している対象」との間を結びつける必然的な理由がないこと」である。具体例は、イスに座っているとき、その座っている何かを「イス」と呼ばなければならなかった必然性はない、ということである。また、「言語の非必然性」を理解する上で気をつけなければならないのは、「海」という言葉で「優しい父親と泳いだ特別な情愛と浜辺で寝転んで聞こえた波の心地よい音」を結びつけるのは「個人的な結び付け」であり、広辞苑に載っているような定義を結びつけるのは「公的な結び付け」であるという区別である。非必然的な結びつけの中にに、さらにこの2つの側面があることが見逃されやすい。「海」という言葉にも、あるいはどんな言葉にも、ひとりひとりの人間に独自の情感がこびりついており、この個人的な学習成果と、言語の文化的伝承性が結びつけ方を固定している共通の学習成果とが、どちらもあることを絶対に見逃してはならない。どちらの側面も非常に重要であり、どちらも揃って「海」という言葉の内容になっている。また、人が「海」という言葉を話すときには、どちらの内容も独自の仕方で活躍している。どんなささいな言葉の意味にも、「他人と共通の意味(=外延的意味、明示的意味)」と「個人的な意味(=内包的意味、暗示的意味)」の二つの側面があるのだ。そして、コミュニケーションにおいては、この「外延的意味」と「内包的意味」が常にズレているのだが、そのズレを許容しながらコミュニケーションが進行していくということにも注意が必要である。
【言語の「名付けの機能」】
言語における「名付けの機能」とは、名付けることによってその存在を認識させるという機能である。名付けられたものは、その存在が社会の中で認識されるようになる。たとえば、「セクハラ」や「アカハラ」や「パワハラ」や「マタハラ」の存在が認識され、それを問題化することができるようになったのは、それを表現する言葉ができたからである。 「夜遅く帰る夫が妻や義母をなだめるためのおみやげ」という言葉はドイツ語で、「drachenfutter」というのだが、この名詞が日本語にはないから、これを日本社会で認識するのは難しい。以上のことを別の言葉で言えば、「ある社会の中に存在しないものを指し示すような言葉はその社会には存在しない」となる。たとえば、「おせち」が無い社会には「おせち」という言葉は存在しない。また、「権力を理不尽に振りかざすのが当然である社会」にも、逆に「権力を理不尽に振りかざす人が完全にゼロ人であるような理想社会」にも「パワハラ」という言葉は存在できない。どちらも「パワハラ」とされている事態が問題化されえないからである。
【言語の「対象化機能」】
言葉にしていないことを言葉にすると「モヤモヤした気持ちを整理できる」という機能がある。
【デュシェンヌ・スマイル】
「作り笑い」とは区別されて、「本物の笑顔」と言われている表情は、フランスの精神内科医デュシェンヌが発見したことにちなんで「デュシェンヌ・スマイル」と呼ばれている。口角が上がっていて、目の端にカラスの足跡のようなシワができるのがこの表情であり、表情筋のうち、コントロールが難しい筋肉、眼輪筋が動いているのが「デュシェンヌ・スマイル」である。コントロール可能な筋肉しか動いていない作り笑いとこれを区別することができるとされる。ちなみに、悲しいことについて話す時に日本人が少し笑顔になることを「ミステリアス・スマイル」と表現した学者がいる。
【色とSD法、蛇口の色】
エスディー法(SD法)とは、商品やサービス、銘柄などの与える感情的なイメージを、「明るい – 暗い」、「人工的な – 自然な」など、対立する形容詞の対を用いて5段階または7段階の尺度で回答させる方法のことである。製品の印象評価の際に利用されることが多い。英語表記は、Semantic Differential Method(セマンティック・ディファレンシャル)である。蛇口の色において、暖かいお湯のほうが赤色で、冷たい水のほうが青色なのはSD法を使っている。
【マクドナルドが明るい理由】
ファーストフード店は暖色系の色を使うことでそこに滞在している時間の体感時間を長くして、結果的に店の回転率を上げている。暖色系の部屋には、そこで実際に過ごした時間よりも長くいた気分になるということである。たとえば、これと同じ論理で、休憩室に緑色を多くするとリラックスできるが、なかなか休憩から帰ってこなくなるとも言われている。
【デズモンド・モリスの一次ジェスチャーと二次ジェスチャーというジェスチャー分類】
「一次ジェスチャー」というのは、その動作自体が意味を伝える機能をもっているもので、「手招き」や「首を横に振る」「バイバイと手を振る」など。「二次ジェスチャー」というのは、「偶発ジェスチャー」ともよばれ、「クシャミ」や「頬杖をつく」など、一次的な意味は単に生理的・機能的な問題であるが、それを観る側が二次的に「風邪をひいたのかな」「昨日の疲れがまだ残っているのかな」とか「私の話が退屈なのかな」という意味を付与するもの。この区別は非常に重要である。気分が身体運動と連動してしまっている「二次ジェスチャー」は「気分ジェスチャー」とも呼ばれる。二次ジェスチャー(偶発ジェスチャーや気分ジェスチャー)は相手にも自分にすらも気づかれない場合さえある。一次ジェスチャーは言葉の代わりをするものがあるので、これを「エンブレム」とも呼ぶ。さらに、ジェスチャー分類で見逃されがちなのが、「例示的動作」である。これは、まだジェスチャーとして認知されておらず、名前もついていないのだが、「昨日釣った魚はこんなに大きかったんだよ!」とかいう時の手の動きや、海外の政治家が演説を熱心にする時に強調点に合わせて動く手の運動などがこれにあたる。強調ポイントで人差し指を立てながら話すのは「バトン信号」と呼ばれ、大統領選挙で多用されている。これによって、「自信」や「威厳」を示すことができるとされている。モリスによれば、バトン信号は、「話す言葉で表す思考のリズムに調子をつけるもの」と言っている。
日本では写真を撮る時に使われているピースサインは、フランスのレジスタンスの、勝利を意味する記号として使われていた。その後各地で平和の象徴として使われはじめた。手の甲を見せながらピースサインをするのは侮辱行為にあたるので注意が必要。
【人類学者エドワード・ホールの提唱した「モノクロニックタイム」と「ポリクロニックタイム」】
「モノクロニックタイム」とは、一本の時間直線の上にイベントを配置していくもので、ある時間にはひとつだけのイベントがあるひとつの空間で起きると考える時間の捉え方である。「スケジュール帳に書き込んでいく」ような時間の捉え方と考えてよい。だから、同じ時間に複数の予定を入れることはできない。それに対して、「ポリクロニックタイム」とは、ある時間において起きるイベントは複数あってよく、例えば19時にアポイントを取ってあったとしても、その時間にアポイントを取っていない人が現れるとその人との対話も同時に始まったりするような時間の捉え方である。モノクロニックに時間を捉えているひとからしたら、自分とのアポイントがある時間に、ポリクロニックに時間を捉えているその相手が目の前で違うことを始めたら嫌だろうし、「なぜ私に集中してくれないのか」と思うだろうが、ポリクロニックな時間概念を持っている人からしたら、ちょっと相手のところにふらっと立ち寄ったときに、「別の人とのアポイントが既にあるから出ていけ」とモノクロニックな時間概念を持った人から言われれば不快かもしれない。
【文化の定義は大きく2つ:文化はどこにあるのか問題】
文化の定義には、文化は人に対して外在的で、文化は人を取り巻いていると考える立場を取る定義と、人の脳内などに内在するという立場を取る定義とがある。文化の定義を論じた学者は様々いるが、たとえば①エドワード・タイラー(文化人類学の父で文化の概念を提唱した)、②クリフォード・ギアーツ(文化の外在的実在論を唱えた)、③ウォード・グッドイナフ(文化は脳内のプロセスだと考えた)、④西田ひろ子(文化スキーマ理論を2000年に提唱したことよって文化を脳内の実体とした)、⑤ヘーゼル・マーカスと北山忍(相互独立的自己観、相互協調的自己観の対比の提唱)などが有名である。
【文化スキーマ理論】
文化スキーマとは、「脳の中に保存されている繰り返しの体験から獲得される物事の共通点が一般化された汎用的な知識」のことである。
①事実・概念スキーマ(事実スキーマの例は「日本には47都道府県がある」などで、概念スキーマの例は、「机には4本の脚があり、その上に読み書きできる平面の板が乗っている」などである。たとえば「こたつ」などは日本人でないと持っていない概念スキーマだろう。)
②状況スキーマ(「教室とはどんなものかという知識」、「病院とはどんなものかという知識」。たとえば、日本で育っていない人が「寿司屋」を「バー」と認識しうるように、これも生まれ育った地域での経験を前提すると言える。)
③手続きスキーマ(病院の受診と支払いや寿司屋での注文の手順が学習されていること)
④方略スキーマ(問題解決の仕方についての知識。たとえば遅刻しそうなときにタクシーに乗る方が早いか、電車に乗るほうが早いか、自転車の方が早いかなどがその土地の人間ならすぐに分かるようになっているが、引っ越してきたばかりだとそれがわからない)
⑤自己スキーマ(自分の名前、性別、出身地、所属機関など。日本人はアメリカ人と比べて自己を否定的に評価する傾向があることが北谷忍らによって明らかにされている)
⑥人スキーマ(友人がどんな人かについての知識、「彼は運動部だから礼儀正しい」とか)
⑦役割スキーマ(「彼女は女性だから控えめだ」とかそのような役割に関する後天的な知識。偏見に繋がることも非常に多い。)
⑧情動スキーマ(感情表現に関する知識。例えば「この表情と仕草は歓びを表す」とか。相手の表情を見て「いますこし機嫌が悪そうだな」と思えるのはこのスキーマがあるから。)
⑨言語スキーマ(慣用表現や文法や語彙やジョークの面白さの前提となる知識。例えば「よろしくお願いします」という言葉の意味は理解されにくいし翻訳もしにくい。「Please take care of me」と翻訳するわけにもいかないがしかし、なにもお願いしていないわけではない。)
⑩非言語スキーマ(表情、ジェスチャー、話し方、声色に関する知識。日本だと普通でも海外だと失礼にあたるジェスチャーなどがある。)
がある。
①〜⑩は特定の文化の中で繰り返されることで経験的に獲得されると考えられている。
【記憶の分類】
記憶はまず、「感覚記憶」、「短期記憶」、「長期記憶」に分けられる。
「感覚記憶」は、各感覚器官で瞬間的に保持され、意識され注意を向けられることがなければ速やかに消失していく。これは、意識されない記憶である。
意識される記憶には、「短期記憶」と「長期記憶」とがある。「短期記憶」は海馬体で保持され、長期記憶は大脳新皮質で保持される。
「短期記憶」の保持可能時間は約30秒以内と言われており、たとえば携帯電話番号などは記録しないとすぐに忘れてしまう。短期記憶は、海馬体に一時的に保持されるが、その短期記憶が脳の一番外側にあって脳の一番新しい部位、すなわち大脳新皮質に移されて固定化されると長期記憶となる。
「長期記憶」の中には、意識的に想起され言葉で説明できる記憶である「宣言的記憶(陳述記憶)」と、無意識的に獲得・想起され言葉では説明できない記憶である「非宣言的記憶(非陳述記憶)」とがある。非宣言的記憶は、無意識に獲得されて想起されるので、人は通常これを「記憶」とは呼んでいないことに注意すべきである。
さらにその、「宣言的記憶(陳述記憶)」の中には、出来事や想い出に関する記憶である「エピソード記憶」と、言語や知覚できる対象の意味(概念)の記憶である、「意味記憶」とがある。たとえば、「いつどこで誰が何をしたか」といういわゆる「おもいで」の記憶は「エピソード記憶」であるが、「机には4本の脚があり、その上に読み書きできる平面の板が乗っている」という貯蔵されている知識は「意味記憶」である。
逆に、「非宣言的記憶(非陳述記憶)」のほうには、以下の4つの下位区分がある。
ひとつめが、「手続き記憶」であり、これは自分では意識することがほとんどないが保持されている自分の技能に関する記憶である。例えば「自転車の乗り方」「ピアノの弾き方」「キーボードのブラインドタッチの仕方」「母語文法の操作」は「手続き記憶」である。
ふたつめが、「知覚の記憶」であり、これは知覚に関する記憶である。これはいわゆる「慣れ」とも呼ばれている。例えば「外の道路工事の大きな音にもだんだん慣れて気にならなくなっていくこと」は「知覚の記憶」である。
みっつめが、「習慣の記憶」であり、こちらは端的に「習慣」と呼ばれているものである。例えば「食前に手を洗うことが自然と想起される」「家に入る時靴を脱ぐ」のは「習慣の記憶」である。
よっつめが、「情動の記憶」であり、これは情動に関する記憶である。例えば、過去に体験した喜びの情動は学習され保持される。注意すべきなのは、「小学生のときに読書感想文が入賞して嬉しかった」という記憶における「嬉しかった」は「エピソード記憶の一部」ともいえて、「情動の記憶」そのものではないということである。もちろん両者は連携して作用する。例えば思い出の曲を聴くとその頃の思い出のエピソード記憶が想起されるだけでなく、再び当時の感情が蘇りジーンとするという場合に両者は連携して働いているのだが、それでも両者は区別できる。ポイントとしては「嬉しいと感じたことが分かる」ことを可能にするのが情動記憶であり、情動記憶は脳の扁桃体に保持されると言われている。例えば、「心拍数や血圧の増加など体内の生理的な情動反応が起きた時に、それ以前にもそのような一連の情動反応を繰り返してきたのを無意識に情動記憶として憶えていることで、自分が今感じている情動は、「嬉しい」という言葉でラベリングされている経験なのだ、と即座に分かる」のが「情動記憶」である(逆に言えば、急に涙が出てきたときのような突然の情動反応の場合や、複雑な情動反応が起きた場合には、そのような情動反応は十分に繰り返されてはおらず、たくさんの経験が貯蔵もされていないため、それがどういう言葉で表すべき感情なのかが分からないことがある)。また、「なぜ嬉しいと分かったのか」は言葉では答えにくいことから、「情動記憶」は「非宣言的記憶」に分類されている。
なお、「文化」とされるものの多くが、個人的ではなく、他の人とも共通の体験をしたことの非宣言的記憶が担っていると考えられており、宣言的記憶も協力して文化を担っていることから、これらをまとめて「文化長期記憶」と呼ぶ場合もある。
【「基本情動」と「社会的情動」】
基本情動は生得的な基盤を持つとされ、他の生物(霊長類やネズミ)でも観察されることを根拠に人類に普遍的とされることがある。
定説とされてよく挙げられる基本情動はおよそ6つある。①よろこび、②怒り、③かなしみ、④おどろき、⑤恐怖、⑥嫌悪などがそれである。
それに対して、社会的な生活の中で、12歳ごろまでに基本情動が細分化されていくことで獲得・学習されていく「後天的情動」あるいは「社会的情動」とされるものには、①自尊心、②罪悪感、③嫉妬、④敵意などが、よく挙げられる。また基本情動が細分化された情動概念は文化によってかなりそのあり方が異なるとされる。
【セルフエンハンスメント文化とセルフイフェイスメント文化】
アメリカでは、「私の息子は〇〇大学に通っていてそこの名誉学生だMy child is an honor student at X University」というようなステッカーが車に貼ってあったりする。日本人は「フランス語がお上手ですね」と言われれば「言語は奥が深いのでまだまだです」などと答える。アメリカ人は「Thank you」と答えるだろう。自分を強化する文化なのか自分を消去する(self-effacement)文化なのかという対比があると言われている。
【ニスベット:木を見る西洋人、森を見る東洋人】
日本人とアメリカ人が視覚から入った情報を認知するスタイルが異なることを証明した有名な研究がある(Masuda & Nisbett, 2001)。これはどういう実験かというと、水面下で魚やカエルなどの生物が動くアニメ映像を見た後、何を見たかを説明する時に、日本人は背景的または周辺的な情報にまず言及する傾向があり、また、「カエルが海藻によじ登っている」という具合に、周辺にある物との関係性に注目しながら、生物の行動に言及する頻度がアメリカ人より明らかに多かったのである。その次に、前に見た生物の絵を同じ絵だと確認できるかの記憶力テストをしたところ、日本人は背景の絵を変えると正解率が下がってしまった。一方で、アメリカ人は映像について説明する際、背景や周辺情報に言及することは日本人より少なくて、背景の情報は無視し、生物だけに注目し「魚が3匹いる」などと言及する傾向が強かった。したがって、たとえ絵の背景を変えて記憶力テストをしても、変化した背景の絵には影響されにくい(逆に言えば背景の変化には気づきにくい)ため、日本人よりテストの正解率が高かった。これらの実験結果は、日本人は物を見る時に背景や周辺情報と合わせ、全体的に物を見る傾向が強いのだが、アメリカ人は、物を見る時に背景情報には注目せず、そこにある最も顕著なものに注目する傾向が強いことを示す。同じ映像を見せられても、両者の認知スタイルが異なるのは、各自がそれぞれに特徴的なものの見方を繰り返し経験し、そのようにものを認知する傾向性が無意識に獲得・学習・貯蔵されているためだと考えられる。