aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

文章を書くということについて

「物指(モノサシ)で何かを測れば何かは何でも物指の結果になることは必定である。人は芸術的問題の決定に於て、批評するとは物指を使うだけでは足りないという事を考えるべきである。批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である。」

(「アシルと亀の子Ⅱ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 友人のYと、Yの大学の後輩であるM君が最近書いたアニメ批評について、ああでもないこうでもないと話していた。するとその話は途中から、「人が文章を書くとはどういうことか」という議論に次第に発展していってしまった。きっかけはYの次のような発言であった。Yは呟くようにして、俺に言った。「M君は社会的な話をできるのがすごいね。俺は作品と自分の間の話になっちゃう。今度はそっちの話も書いてほしいな」。

 確かに言われてみれば、俺もそうだ。俺は論じるものの全てが、ぜんぶ俺の話になる。俺という実験場に作品が飛び込んできて、そこで起きている「俺の個人史」と「書物」との反応、快くもあり痛々しくもあるようなその反応を俺が文字にして表現する。そうやって俺はこれまで、うすら恥ずかしい文章を書き散らしてきたのではなかったか。だから失敗もあり、成功もあった。これまでの全ての文章は俺なりの実験だったのであって、失敗した出逢いがあるのは仕方ないと諦めている。当然だ。そういう書き方しかしたことないのが災いしてなのだろうが、俺が作品について何かを書いていると、気づいたら「その作品の中に見つけた俺の話」や、「作品を論じる俺の話」になってしまっている。俺はそうなると、「しまった、またやっちまった」と毎度思う。俺は自分と関係的な在り方をしているすべてのものごとから、自分との関係のみにはどどまらない、誰がやっても同じ関係になるような安定した構造を取り出していくことがしたいのではなかったのか、と自分に言い聞かせる。もしそれに成功すれば、俺が書いた文章だっていつか、「作品そのものを論じている批評」と呼べるのではないか。そこまで行ければ、それはもはや単なる「自分語り」ではなかろう、と。

 だから、俺が目指してきたのは、俺だけの話には決してとどまらない「普遍性のある批評」だった。というか、そうでなければ他人が読んでもわけが分からないだろう。しかし、そういう普遍性を目指すためには、まずもって、俺という論者の傾性を知らないといけないのではないか。そうでなければ、俺ではない他人へ読者が置換されたときにも、構造としては安定的に維持されるような当該作品内の秩序、などというものが論じられるわけがあるまい。俺が呼びかけたから、作品はその呼びかけに対して、俺にとって重要な意味をもって応えたのである。その対話を写しとりたいのではなかったのか。普遍的なことを書きたいからと言って私を捨象してはなんの意味もない。作品に構造を見て取っているのは、あくまでも私なのだから。俺は自己と書物とのどちらをも捨象しないままで、作品をその両者の「出会い」として論じるような関係的な視点に留まり続けなければならないのではなかったか。社会の中で、自分とは無関係に生成され終わって、あらかじめ存在している作品があって、それに自分は出会っているだけ、自分はページをめくるだけなのだと前提して為される「客観的」語り口は、たしかに「自分語り」ではないけれど、批評でもないだろうよ。

 こういう話をしていると、Yは言った。「それが「本当のこと」だと思うよ。作品を観ることから自分を疎外する必要はまったくないよね。そこにごく個人的な関係があるからこそ、ある作品は強烈な意味を持つんだと思う」。しかし、そのYの言葉を読んで俺は不安を感じる。「でもそれだと、自分にとっての意味が他人にとっても同様に得られるかは分からなくないか?」と俺は即座にLINEで彼に返信した。

 確かに批評とは畢竟「自分語り」でしかないのだ、と開き直ってもいいのかもしれない。Yは「自分語りで上等じゃないか」と言いたいのかもしれない。彼は俺にそれでいいのだと言ってくれているのだろう。しかし俺は、なるべく俺と作品との間のごく個人的な関係の中で、俺の書く批評が閉じないようにもしたいのではないのか。できるだけ多くの人に伝わる文章というのを手放したくないのではないか。「俺でなくても、俺が汲み取った意味を、あなたでも汲み取れるはずだ」と、どうしても言いたくなってしまうのではないか。

 そもそも俺たちは体験を言葉にするわけでしょう。それは誰かに伝えたいがためではなかったか。誰かに感動を伝えたいのでなければ誰が文字など書くものか。自分だけに分かればいい芸術、などというものは一個の修辞的誇張なのであった。すると当然、「作品体験を言葉にする」とはどういうことなのか、とまた俺はYに思考の継続を迫られることになる。

 体験を言葉にする。語るだけでなく、文字にしてそれを書く。残す。なぜだろうか。誰かに伝えたいからだ。自分だけでこの感動を終わらせたくないからだ。他の人にもこの作品との幸福な出会い方をしてほしいと俺が願うからだ。同じ体験をしてほしいが、そんなの望むべくもない。他人だからである。だからせめて愛する人を紹介するような仕方で、自分に見えているチャームポイントの伝達だけでもできないだろうか、と思う。作品をなんとしても褒めたくなるのだ。しかしうまくいかない。そんな時は、「いいから黙ってお前も映画館に行ってこい」とアジビラを書きたくなる。

 その過程で当然頼ることになるのは日本語であるし、俺がどうやって作品にアプローチしたのかという注目点を明示的に書くことになる。作品から俺が意味を汲み出したその方法論を明示しておけば、誰が読んでもある程度まで伝わるんじゃないか、と俺は期待するからだ。しかし要するに、批評とは、「私の個人史と作品との対話的反応の中で初めて意味が分泌されるという私秘性の必要」と、「それが他人にも読めて、しかもある程度その他人にも意味が分かるものでなければならないという公共性の要求」との相互妥協点にかろうじてなりたつ(かもしれない)均衡のことではないのか。

だから、自分語りでない批評は空虚であり、自分語りであるだけの批評は矛盾なのである。

 だからこそ、優れた批評においては、解釈の余地を拒む苛烈な作品への私秘的愛を根底に置きつつも、あえて解釈の余地を許してしまうような言葉の使用に甘んじることによって、できるだけ修辞を排した仕方での魅力の伝達が目指されているのであると俺は思う(ただでさえ言葉は余計であるのだから、文学的修辞など少なければ少ないほどよい文学的効果を産むに決まっているのだ) 。


ところで、俺が塾で教えている英語のテキストには、次のような文章が書いてあった。

 「私という人間を一番理解しているのは、母親だと私は信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから、私の性格を分析してみる事が無用なのだ。私の行動が辿れない事を少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない(中略)。私という子供は「ああいう奴だ」と思っているのである。世にこれ程見事な理解というものは考えられない。(小林秀雄『批評家失格Ⅱ』)」

 

 ここで小林は、「自分だけではなく、他人たちにも伝わるような対象理解の示し方」の一形態として、「言語表現による理解の示し方」の採用へと批評主体が降りていくその手前で為された、母による理解の形式、すなわち愛による絶対的理解を言っているのだと思う。これは、分析をまったく排して個人的に小林とその母との間でなされている暗黙の理解だから、外部からの解釈を容れえない。つまり、それがどんな相互理解なのか、そんなことが俺たちには、わかる筈がないのである。これは、言葉を用いて分析し、その分析の言葉が妥当か不当かということを問題にし得るよりも遥かに前から常に既に成立している相互理解であり、だから、その分析が誤っているかどうかということが原理的に言いえないような、その意味で絶対的な理解なのだ。小林の母は、言葉で表現するよりも前からなんとなく息子がどんな人なのか、ということの根本がもう分かってしまっているということなのだと思う。母に息子の行動が辿れないとしても、小林の動向などという表層的で文脈に応じて柔軟に揺れ動く部分などは、どうでもいいのだ。むしろ辿れない方が活発でいいくらいだ。そんな浮華の部位ではなくて、根本不動の部分をがっしりと把捉している母にとっては、その辿れなさは、痛くもかゆくもないのである。

 俺も、こういう経験をしたことがある。今でも忘れられぬ映画のワンシーンに出会った時、「好きだ。なんだかよく分からないけどとにかくこの作品が好きだ。なんとなくこの作品の言いたい根本不動の部分だけは理解した。だからこの映画がこれからどうなるのかはまったく分からないし、結論も分からないし、途中式もうまく辿れないけど、とにかくこの映画のことが俺はこれからも好きだ。」と思うことがある。ちなみにこのような経験は、実は映画に対してだけではなく、人物に対してもある。Yに対しても思う。「ああ最高だこいつ、もう大丈夫だ。こいつとはどうせこれから色々あるだろうし、それがなんだかは全然分からないけど、こいつの根本は見えたから、もう大丈夫だ。」という安心の感覚。

 ことほど左様に、愛というものには強烈な意味があって、しかもそれはごく個人的関係の中で(のみ)立ち上がるものだから、そこに解釈の余地など、あるはずがないのだ。端的にそれはYのいう「本当のこと」のことだからである。ここでいう「解釈の余地がない」とは「意味が分からない」という意味ではなく、「意味が分かり過ぎる」という意味である。

 「それなのに、諸君はそれを言葉でもって表現するでしょう。それは作品と諸君との間で生い育った蜜月の関係を言葉で切り刻んで、他人に開くことです。これは裏切ることですよ。愛を裏切ることです。もう既に本当の関係が結ばれているのに、それをあえて言葉で表現するなんてそれは愛にとって不要なことですよ。君はその時、黙って見つめるだけで十分だったんじゃありませんか。」

 という小林の甲高い声、短文言い切りの力強い声、あの躍動するスタッカートのリズムが耳元で聞こえてきそうである。俺は、日本語にして表現してしまえば、解釈の余地が無数に生まれることは覚悟の上で、それでもなんとかして俺の方法とやらを明示的に書こうとしながら、俺の体験を他人と共有しようとするわけである。確かにそれは嘘だ。でもその嘘を僕は批評と呼んで、その批評を売って、それで食っていくしかないんじゃないか。そうやって解釈を容れる言葉で僕らは「本当」を表現していくしかないんじゃないか。その嘘、伝わっているという嘘を「客観的」だの「科学的」だのと詐称して本当らしく書いていくしかないんじゃないだろうか。話がこの地点まで来た時、Yは言った。

 

 「そう、言葉にするってそういうことだから、一生懸命個人的な関係を語ろうとするくらいの感じでいいと思って言ったんだ。どうせ望まなくても公的なものにアクセスしてしまうから。とうぜん、伝え方の努力は、別途、するけどね。」

 

 

【上記の内容の要約】

⑴「普遍性のある批評」とは何か
⑴-①俺の作品論は俺の個人史になってしまうが、そうはしたくない問題
⑴-②普遍性のある批評を書きたくとも、作品と批評家の間には個人的な関係が必要である


⑵「作品体験を言葉にすること」の意味について
⑵-①作品体験を言葉にする動機は、作品に対する愛であり、誰かにその作品を見て欲しいという思いである。
⑵-②愛の意義(小林秀雄論)