aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

私の教育についての考え

【⑴誰に⑵なにを⑶どうやって売りたいのか:佐藤良明によるトマス・ピンチョンの読者層分析より】

⑴【誰に売りたいのか:マスとスノビズムの中間層】
佐藤良明のブログ:http://sgtsugar.seesaa.net/article/179671813.html

【参考:トマス・ピンチョンの読者層】
①「大衆メディアに繰り返し流れるぬるま湯みたいなエンターテイメントが嫌いな人」
②「インテリぶって大衆文化を軽蔑するスノッブが嫌いな人」
→つまり⓪「本物の文学や前衛文学などの絶滅危惧種が好きな一般でない人」

引用元:佐藤良明のラジオ:https://www.tbsradio.jp/articles/43529/

①'「英語教師業界に繰り返し流れるぬるま湯みたいな英語の教え方が嫌いな人」
②'「インテリぶって大衆的英文を軽蔑するスノッブが嫌いな人」
→つまり⓪'「本物の英語や前衛文学などの絶滅危惧種が好きな一般でない人」


→田中は①'と②'、要するに⓪'を対象に英語の説明を売りたい(=ピンチョン型マーケティング)。

 


⑵【何を売りたいのか:知識と情報を行為との関係で分節する】

①そもそも知識とは何か:行動の可能性を増やすもの
→知識の具体例:火の産み出し方を学ぶと火を用いた新たな調理が可能になり料理のレパートリーが増える

②そもそも情報とは何か:行動の可能性を減らすもの
→情報の具体例:迷子の我が子がデパートの何階にいるのかという情報があれば探すべきフロアを絞れる。

→よって、まず情報を売ることで知識を効率的に集められるようにしてさらに最後にその知識の意味を教える。つまり、結局は「知識の意味を知る(=「知の知」)」のが最終目標。


【具体化すると分からなくなる計算】
①150-80=70←子どもには難しい。
そこで円をつけてやる。
②150円-80円=70円
しかし、次のような答えも出てくる。
③150円-80円=20円
④150円-80円=0円
これは、小学校低学年の子供たちがピアジェのいう発達段階のうちの「具体的操作期」にいるから。というのも、80円のおにぎりをスーパーで買う場合に、そこで150円出す人はいない。もし財布に150円もっていても、100円か80円を出すのが普通だ。よって③や④のような回答が出てくる。

→【発展的考察:問題提起】では、「1+1=11」と書いた子供がいるとする。ただし「11」のこの子の読み方は「に」であるとする。この子は、「足し算が分かっている」と言えるだろうか。この子は、たとえば「アバカス」や「正正正正正」のような「プロトナンバー(画線法とかunary numeral systemともいう)」を用いて数字を書くから、「無い」ときはなにも書くことが「無い」のだから、0とは書かない。よって「1−1= 」と書く。この子は、ゼロという「プロトナンバーの無表記についての表記」を持たず、つまり「ヒンドゥーヌメリカルノーテーション」をまだ知らない。しかし、「りんごを4個買ってきて」と言えば確かに4個買ってくることはできるから、話は通じているようだ。この子は足し算を「わかっている」と言えるのだろうか。それとも「足し算」が「できる」だけなのだろうか。あるいはそもそも、「足し算ができていないし分かっていない」のか。こういうときには、議論が錯綜しないように、「できる」と「わかる」の意味を定義すればいいのである。

仮に「できる」を「テストで足し算の問題が解けて点数が取れる」と定義したならばこの表記法の子どもはたし算ができていない。また、「分かる」を「具体物を離れた抽象的な操作についての規則に従って形式化された想像の達成」と定義したならば、分かってはいそうである。実際、この子は分かってはいるから、少しの練習をする時間を与えてやれば我々が使っている足し算がすぐにできるようになるだろう。西洋人だってもともとはこのような計算表記をしていたのであるから。

【そもそも足し算とは】
問題①「りんごが3個、みかんが4個あります。合わせていくつかな。」
→多くの人が3+4=7に違和感なし
問題②「りんごが3個、猫が4匹います。合わせていくつかな。」
→ここで、3+4=7に違和感があって正答できない状態が「できないし分からない」である。
→ここで、3+4=7に違和感があるが正答できる状態が「できるけど分からない(=抽象化ができていないのに練習だけ積んだので慣れてしまい、それゆえにできてしまっている。)」。
→ここで、3+4=7に違和感がなくなっているのに正答できない状態が「できないけど分かる(=つまり単なる練習不足)」。
→ここで、3+4=7に違和感がなくなって正答できる状態が「できるしわかる(=抽象化と練習の両輪)」。

→しかし、「りんごと猫が似てないとか言うなら、りんごとみかんだってそこそこ似てないだろ」、と考えてしまって、学習の過程では上記の問題②に対してだけではなく、上記の問題①に対してさえ違和感が生じてくるかもしれない。よって、「足し算が分かる」ためには、問題文に書いてあるのがりんごだろうとみかんだろうとネコだろうと、とにかくそれらを数字という抽象的なものとして捉えて具体性を捨象するということが不可欠なのである。これを踏まえて次の教育方針を考える段階に進もう。

 

【⑶どうやって売るのか(教育方針):成長の二経路と「できる優先型に対抗する教育」ヘ】

【できるとわかるのマトリクス】
①できないしわからない。
②できるけどわからない。
③できないけどわかる。
④できるしわかる。

【マトリクスの各項目について具体例を出してみる】

→①の具体例:新生児

→②の具体例:解の公式に代入すればどんな二次方程式も解けるのだが、なぜ解けるのかは分からない。あくまでも「解の公式」なるものを使ってテストで問題が解けるだけ。

→②の具体例:練習もしていないのに、とりあえず跳んでみたら跳び箱を飛べたのだが、なんで跳べるのか、どうすれば上手く跳べるのかはわかっていないので、段が高くなっていくと次第に跳べなくなる。自分の跳び箱動作を映像に撮って客観的に分析し、可能的な飛び方を想像したりはしていない。

→③の具体例:右手で釘打ち動作をして左手でノコギリを引く動作をして、それを教師が手を叩くごとに左右で入れ替えていく(→何をすればいいのか頭では想像できるし、したがって何をすればいいのか分かっているので、練習時間を30分も取れば誰だってできるようになっていく。ただし30分間待つ余裕が教師になかったり、教師が「できましたか?」と執拗に聞くと、分かっているのにできないままになる)。

【成長のふたつの経路】
❶:①→②→Why can I do thisとHow can I do thisの分析(=現実を離れた抽象的理解)→④へと至る経路
❷:①→③→時間をかけた問題演習→④へと至る経路

→日本の教育業界が好む成長経路:❶(ただし基本みんな忙しいから②で止まったまま卒業させられる。だって②までいければできることはできるんだからそれで満足なのであって、なぜできるかとかを考えている時間的余裕=スコレーはないんだもの。)

→ここで新たにやってみたい異常な成長経路:❷(ただし③段階の子どもたちの大量発生に表面上は見えてしまう)

→日本的傾向:❶型の成長経路を取る子供に対しては②で満足して放置しがち。

→日本的傾向':❷型の成長経路を取る子供に対しては③から④への熟成期間を待てず、時間をかけられずに急かしてしまう。


【参考:なぜ聞いてはいけないのか問題(大村はまの提言)】
「できましたか?」と聞くのは必要でないし、結果的に急かしてしまうことになるので有害だからである。「できましたか?」と授業中に生徒たちに問いかけてしまうことで、他の子に遅れていてまだできていない子(=1人だけ下を向いていたり鉛筆を動かしている子)に対して「この問いかけが先生の口から発せられるまでの間に、できていないといけなかったんですよ」という急かしのメタメッセージが発せられていることに無自覚だと、悲惨なことになる。ちなみにこれは「分かりましたか?」でも同様。その結果、生徒たちは「できていません」「わかっていません」と聞けなくなるし、下手したら「できているフリ」「わかっているフリ」をしてしまう。「教師に優等生だと思われたいやる気のある子」ほどそうしたくなる。だから、教師は顔色とか鉛筆の動きとか雰囲気でできているかを察知するべきで、できたか聞いてはならないし聞く必要もない。同様に生徒が分かっているかどうかも教師は生徒の曖昧な表情をもとに分かっていなければならない。