aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

『ものはなぜ見えるのか』からの引用

【ヒュームに対するトマス・リードの勝利】

ヒューム(1711-1776)「われわれが見ているテーブルは、それから離れるにつれて小さくなるように思われる。しかし、本当のテーブルはわれわれとは独立に存在するのであって、いかなる変化も被らない。それゆえ、精神に現前していたのは単なる像にすぎなかった。」(デイヴィッド・ヒューム著『人間知性研究』斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局、原著1742年、翻訳書2004年、142頁)

→こうしたマルブランシュ、バークリ、ヒュームらの論法に対し、敢然と異を唱えたのがリードである。リードの反論は、彼らに対する致命的な反駁になっていると思われるので、参照しておきたい。リードはヒュームに反駁する(これはマルブランシュへの反駁でもある)。

リード(1710-1796)「実在するテーブルが、千とおりの違った距離に次々におかれ、そしてまた、どの距離においても千とおりの違った位置におかれたとする。幾何学と透視法の規則によって、一つ一つの距離や位置において、その見かけの大きさや見かけの形がどうでなければならないかを、論証的に決定することができる。そのテーブルを次々に貴方の好きなようにこれらのさまざまな距離と位置に、もしくはそのすべてのおき方でおいてみてごらんなさい。眼を開けてごらんなさい。貴方は当然、その実在するテーブルがその距離で、その位置でもたねばならない見かけの大きさ、見かけの形を具えたテーブルを、正確に見て取るはずだ。このことは、貴方が見ているのは実在のテーブルだという強い論拠ではなかろうか」(Thomas Reid, Essays on the Intellectual Powers of Man(1785), Cambridge, Mass., The MIT Press, 1969, p.227.)

(木田直人著『ものはなぜ見えるのか マルブランシュの自然的判断理論』90頁より引用)

 

 

【空間の大きさに関するあらゆる単位は肉体の運動を前提する】

「マルブランシュの議論を離れることを承知で、この一トワーズの固定性の起源を問うてみよう。

結論から述べると、一トワーズとは、肉体のあり方に象られたものである。トワーズという単位が、もともと両腕を伸ばしたときの身体尺に由来するから、というだけではない。空間の大きさを表す単位そのものが、触覚、広く肉体の運動を前提せずば、想定しえないからである。このことはいっけん分かりづらいので、先のリードの発想を援用し、運動しない視覚のみの生命体を想定してみる。

(註128:運動しない資格の生命体の思考実験は、リード(リード[原書1764年]『心の哲学』朝広謙次郎訳、知泉書店、2004年、120-131頁)のみならず、バークリ(バークリ[原書1709年]『視覚新論 付:視覚論弁明』下條信輔植村恒一郎、一ノ瀬正樹訳、勁草書房、1990年、122-127頁)、コンディヤック(コンディヤック[原書1746年]『人間認識起源論上巻』、古茂田宏訳、岩波文庫、1994年、241-242頁)によって考察を与えられている。)

この視覚生命体にとって、まず、物体までの距離、物体の大きさが知りうるものなのかを検討し、ついで、視覚生命体が単位を理解しうるかどうか、考察してみたい。

まず、この生命体が物体までの距離を知ることは可能であろうか。もちろん、距離を述べることはできない。彼にとって、物体の接近とは色の拡大として、物体の遠隔とは色の縮小として、経験されるに違いなく、遠さと近さの概念は一切もちえない。では、焦点をあわせるための眼の筋肉の緊張が、物体の距離の徴表として利用できないであろうか。これまた不可である。なぜなら、筋肉の緊張を利用して距離を言うためには、予め知られた距離にこの筋肉感覚が結びついていることが必要なところ、距離はいかようにしても彼には知られていないからである。したがって、彼に距離を言う術はない。

次に、視覚生命体は、(見えの大きさではなく)物体の「本当の」大小を知ることはできるだろうか。長さの違う二本のリボンを想定してみよう。この生命体に両リボンの「本当の」大きさを判別することは、間違いなくできない。なぜなら、マルブランシュが述べていたように、両リボンを「手にとって互いに並べあわせて」みることはできないからである。しかも、注目すべきことに、「本当の」大小のみならず、視覚的大小すら判別することも困難になる。もちろん著しく見えの大小が異なるリボンであれば、その識別は可能であろう。しかし、見えの大きさが近似している場合、あるいは、このリボンのおかれた方向がバラバラな場合、さらには互いに離されておかれた場合、このリボンの大小を判定することは困難になる。すると、確実に見えの大小を判定するためには、視覚についての「単位」を発生させねばならない。

では、問題中の問題である、単位を発生させることはできるだろうか。

まずは長さの単位を検討してみよう。結論から言えば、視覚生命体が長さの単位を発生させることは不可能である。なぜなら、長さとは距離ないし「本当の」大きさのことであって、これを知りえないことは上で述べたとおりだからである。たとえば、彼にとって一トワーズは意味をなさない。なぜなら、一トワーズは生命体との距離に応じて、しかも透視角度に応じてその大きさを変じるからである。それゆえ、メートル法など、長さの単位はおしなべて利用することができないはずである。

では、彼は大きさについて単位を一切用いることができないのであろうか。否、そのはずはない。さきに、彼が二本のリボンの視覚的な大小の比較ができたのは、いずれか一方が他方の大小の基準になりえたということである。そうであるならば、特定のリボンをもってこれを視覚上の単位としうるのではないか。もちろん基準たりうるためには条件がある。それは、そのリボンが視覚にとって不動でなければならない、ということである。視覚世界が転変を繰り返すのはいっこうにかまわないが、基準自体が転変していたのでは話にならない。

そこで、けっして変化しない固定されたリボンが見えているとして、この不動のリボンの視覚的大きさを、一リボンと定義してみよう。この場合、二リボンとは何を表すのか。固定された原器としての一リボンを、空間上二倍の長さになるまで延長させて、それが視覚生命体に映じた大きさのことを指すのか。そうではない。なぜなら、空間のリボン二本分の視覚的な見えは、視界の辺境に位置するにつれ縮尺されてしまうのであるから、二リボンをリボン原器二本分をもって定義することはできない。では改めて問わねばならない。二リボンとは何か。

もちろんこのようなことに違いない。リボン一本分の視覚的大きさの二倍の大きさである。では見えの大きさは何によって定まるのか。月と十円玉がぴったり重なるとき、両者の大きさは同じである。そして、月と十円玉のあいだに気球がぴったり重なるとするならば、三者は同じ視覚的大きさとなる。つまり、対象の端と眼を結ぶ線分がなす角度の大きさこそが見えの大きさを定めるということになる。

つまり、視覚の大きさとは視角の大きさのことに違いない。

よって二リボンとは、一本のリボン原器に基づく視角の二倍を意味することになるだろう。これによって、視覚の「単位」はいっけん基礎づけられそうに思われる。

では、視覚生命体は、長さという資格での単位を得られなかったものの、視角という資格での単位を獲得できたことになるのか。問題はそう単純ではない。というのは、この角度の計測はどのようになすのか。この角度自体、この生命体が見うるものではない。この角度を見ることができるのは、リボンの片端から片端へと線分を結んで視角をつくるという肉体の操作、および、この視角を脇にまわって計測する、という二重の肉体の運動を要求する。すると、この生命体にとって、角度を計測しうる前提は消滅し、それゆえ一リボンという単位も無意味に帰する。彼にとっては、漫然と大小の印象を語りうるにすぎず、したがって、単位の概念を発生させることはできない。ここに、単位概念は、それが長さであるにせよ、角度であるにせよ、肉体の運動を前提にすることが明らかとなるのである。

さて、上の事柄を整理してみよう。第一、固定性が単位の基であること。第二、固定性に加え、操作性が単位の発生を可能にさせるということ。視覚の幾何学が、視覚の生命体によって確立されえない理由は、第一があっても、第二の操作性を欠くためである。けっきょく、空間の大きさに関するあらゆる単位は肉体の運動を前提するということが結論づけられる。

以上、マルブランシュのテクストから大きく逸脱したが、一トワーズという「延長そのもの」が触覚的、運動的経験を前提せねば観念しえないものであることが明らかになった。したがって、彼が一トワーズ云々の議論をするとき、間違いなく触覚が教えた経験を無自覚にも挿入しているということが明白になるのである。ではなぜマルブランシュは触覚についての洞察を欠いたのか。

マルブランシュにとって、不変のものとは、感覚に由来するものではありえなかった。どのみち触覚が不変的であったにせよ、触覚が不変であるわけではない。つまり、マルブランシュは数学的必然性を真理の模範とするあまり、いっけんは真理に漸近するものでさえ、一切合財、誤謬の機会原因として斥けたのである。つまり、真理の資格で語りえるものは、神の内なる叡智的延長、そして、これを淵源とする幾何学的真理のみであって、いっけん、不変不動を提供するかに見える触覚、肉体の運動

(註129:以上のことから、視覚のみの生命体を想定することによって、単位の発生には肉体の運動を要することが示されたのであるが、なぜ触覚ないし肉体の運動が特権的に固定性を提供するのだろうか。端的にその理由を述べれば、肉体自体が固体としてあり、それゆえ固定的であるからである。肉体の固定性を基軸にしてこそ、単位は発現したのである、この固定性を前提とした上で、道具を用いず肉体そのものを基準にしうるという利便性、また、他者との間で大差がないという共通性(実際、肉体以外で、大きさの共約性もたらすものは驚くほど見つからない)に基づいて、人類は、肉体そのものを単位として用いてきた。いわゆる身体尺である。たとえば、さきに述べた「トワーズ」(toise)も両手を伸ばした長さのことで、英語では「ファゾム」(fathom)、日本では「尋」が対応する。

ところが、肉体は絶対的な固定性を提供しない。いうまでもなく、身体は人それぞれに差異があるのみならず、特定の同一人の身体も、成長により変ずるし、また、厳密には一日のうちにも微妙に変化をしている。そこで、身体尺では精密な計測の必要を満たすことはできなくなり、より不変的な基準への探究が始まる。たとえばメートル法である。1メートルは最初「地球の北極点から赤道までの経線の距離の1000万分の1」として定義されたが、もちろん、地球とて厳密には相対的不動性しか提供しない。地球とても物体であり、物体に依拠した単位は、けっして絶対的固定性に辿り着けないのである。そこで現在においては、光速度不変の原理に基づいて「光が、2億9979万2458分の1秒間に真空中を進む距離」として定義されるにいたった。現代人は、ようやくマルブランシュが求めていた「延長そのもの」「絶対的な大きさ」に出会ったのであろうか。そう考えるのは拙速である。なぜなら、光速度不変の原理とは、相対性理論を支える一つの要請として導入されたものだからである。これを深追いするのは、もはやマルブランシュのテクストを過度に逸脱することになるので控えておきたい。)

は、真理への眼差しを曇らせるものとして、さらに激しい排撃の対象になった。そしてこのとき、すなわち、彼が真理の身分として語られねばならないはずの幾何学と感覚との紐帯を叩ききったとき、同時に、ユークリッド幾何学も、実は触覚的経験に根をもつ幾何学であるということを自覚する途が途絶えたのである。

その結果彼はあくまでも延長そのものの不動地点を、触覚や運動ではなく、神の視点に求めざるをえなくなる。それゆえ、その不動地点は絶対的なものでなければならない。いきおい相対的な不動性を提供するものとしての触覚や運動は排除されてしまう。だが、この排除は完全に成功しない。私の見るところ、この相対的不動性は、あたかも亡霊のようにマルブランシュの思考に憑いて離れない。この相対的不動性の位置づけの不定性は、マルブランシュの理論を次の点で危機に陥れる。すなわち、(次節で述べることになるが)「自然的判断」の訂正機能について、訂「正」されたものは真なのか、偽なのか、という問題である。自然的判断によって訂正されたものは、少しも絶対的不動性をもつものではない。つまり、彼はモデルを触覚の相対的固定性に仰ぎつつ、これに自覚的でないがゆえに、この「相対的な固定性」の位置づけに頭を悩ませるのである。他方、バークリは大きさや距離の起源が触覚経験にあることを洞察した。これによって、マルブランシュが対決しなければならなかった「自然的判断」の困難を回避することができたのである。逆にマルブランシュは、相対的固定性の位置づけをめぐり、自然的判断理論の最大の困難に立ち向かうことになる。後述するが(一三九頁、一四七頁参照)、彼はその位置づけを神に求めることになる。

以上、われわれは「延長そのもの」が指す内容を明らかにしてきた。マルブランシュが念頭におく「延長そのもの」とは、実際のところ二つあった。第一は無限を含む「被造物としての形而上学的延長そのもの」である(これは叡智的延長ではない)。第二は「触覚的延長そのもの」なのであるが、マルブランシュはこれについて無自覚なまま、神の視点から見た固定的・不動的延長であると考える。そしてこの無自覚は、マルブランシュに、経験論の維持の困難という闇と自然主義の発見という光を与えることであろ。それではようやく、初版における自然的判断に眼を向けてみよう。さきに述べたように、まずは第一性質に関わる自然的判断を、ついで第二性質に関わるそれを、概観する。」

(木田直人著『ものはなぜ見えるのか』p96-p102、中公新書、2009年)