aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

反出生主義と「なぜ死んではならないのか」

【はじめに】

以下は、「反出生主義」と呼ばれる流行思潮に対してどう反論すればよいのかを私なりに考えてみた文章である。

 

⑴.【反出生主義は当為問題を事実問題化している】

そもそも、「生まれてこなかったほうがよかったのではないか」という反出生主義者が立てる問いは、問いの立て方が間違っている。なぜなら、生きることは事実問題ではなく当為問題だからである。人の生の内容が事実としてどうあれ、基本的には生きるべきだからである。

たとえば、いじめが起きた時に、ものすごく大雑把に分ければ、「いじめがあるような学校には行かなくてもいいんだよ(=死ぬ権利擁護型の優しい言葉)」と言うのか、「いじめをしたやつを退学させたほうがいいよ」と言うのか、というふたつのオプションがその関係者にはとりうる。雑に言えば、前者はいじめられっ子の退場を勧める立場で、後者はいじめっ子の退場を勧める立場である。

前者のオプションも、後者のオプションも退場を勧める立場である。しかし、前者のオプションをとる立場は「そもそも学校はいじめのないような楽しい場所であるべきである(=そう、これはただの素朴な「べき論」なのである)」という最初に前提されていたはずの価値を忘れたまま議論を展開していることがわかるだろう。事実としてある学校にいじめがあってそれが酷いものかどうか以前に言えることがあるのである。

後から提示された目の前の小さな価値(=いじめのある学校に行かなくてもよいという価値)に釣られてそちらを確保することにより、原始に承認・保証されていたはずの大いなる価値(=そもそも学校からいじめを撲滅してもらうことができるということの価値)をみすみす明け渡すわけにはいかない。だから、前提されていた価値の順序通りに粛々と物事を進めるならば、後者の立場を取るべきである。さて、このいじめの話を自死の件にも敷衍するとどうなるか。

死にたい人がいる(=その場から退場したい人がいる)場合には、その人に退場させてあげるのではなく、基本的には、社会の側を変えていくべきなのだ。つまり、社会のあり方をかえる(=いじめっ子を退場させる)べきなのである。なぜなら、「人はそもそも生きるべき」だからである。

(※もちろん、ここでいう「退場」というのは、極端なケースの話である。いじめっ子が問題の発覚により突如改心して、もういじめなくなるのであれば退場退場と言い立てなくてもよいはずだが、リアルに極端なケースを想定するなら退場も視野に入れなければならないだろう。また、「人はそもそも生きるべき」というこの発言自体が非倫理的だと糾弾される場合があるが、そのような特殊事例については後述する。)

では、肝心の問題だが、「そもそも学校はいじめのないような楽しい場所であるべきである」という価値がはじめに前提されていたのと同様に、「人はそもそも生きるべきである」と言えるのはなぜか。

つまり、人生が事実問題として生きるに値するかどうかを考えるのは問いの立て方が間違っていて、当為問題として、「事実はどうであれ生きるべきである(=人生は確かにクソだし、世界は戦争とか起きてて最悪かもしれないけど、それでも、人は基本的には生きるべきなのである)」のはなぜか。

以下に、少なくとも5つの理由を挙げる。まだまだあるだろうが、すぐに思いつくものだけを掲げる。

⑵.【人はなぜ生きるべきなのか】

①生物であることからくる理由:カマキリのオスが自己をメスに食わせることで、そのメスに結果的には栄養を与えるように、生物の無意識レベルでは自己否定が働くことがあるとしても、自己保存は意識を持つ生命の基本傾向であるから、実は生きたいはずだ。つまり意識の底では当人が生きていたいと思っているはずだ。

②技術的な理由:もう大多数のひとが生きてしまっているので、これから多くの人を無痛で殺したりすることは、まだできないから。そして、仮に無痛であったとしてもまだ大多数の既に生を受けた人間たちが死ぬことに大いに抵抗することは間違いない。ただし、他人たちの生を無痛で終わらせることまでは望んでおらず、自分の生が無痛で終わるのだけで十分だという場合にはこの理由はそれほどの効力はないだろう。技術がどんどん進歩しているからである。

③死にたいと唱える人が赤ん坊でないことからくる理由:自分ひとりが無痛で死んだりはもう技術的にできるけれども、放っておけば死ぬはずの赤ん坊がここまで育ってしまったということは、最初そいつの誕生を肯定し喜んで、言祝(ことほ)いだ周囲の人間が確実にいるのでなければならない、ということである。そうでなければ、既にその赤ん坊は死んでいるはずである。それほどホモ・サピエンスの原初形態としての赤ん坊は脆弱である。誰かがいま赤ん坊でないということは誰かに望まれた生であるということを強く意味するという構造が人間の生にはある。その証拠に、「お誕生日おめでとう」とか、「ハッピーバースデー」などと言われて喜ばない人は、ほぼいない。たとえ犯罪者でも刑務官や同房の人間に誕生日を祝福されることがあるだろう。

④例外と原則の対比からくる理由:たしかに、脳腫瘍ができて毎秒頭をハンマーで殴られるように痛いという人にたいして、それでも「人はそもそも生きるべきだ」などとと説くのは間違っている。実際、自死の是非が議論されるような深刻な精神的病とされるものの多くは、そのじつ、よく調べてみれば身体に症状があったり、脳の異常であったりする(=なぜなら、心身二元論は変だからで、心身は常に相互作用しているからである)。だから、そのような事例(=不可逆的な身体症状を伴う事例)には安楽死が適用されるべきである。しかし、身体の異常----価値の問題としては扱えない具体的な次元における異常----がない場合、それらは価値の問題として扱い、別の価値文脈に置いてやれば人生が素晴らしいと思うことは常にできるはずの問題である。だから、これらの例外事例には安楽死が適用されてよいとしても、原則としては適用されてはならない。なお、ここでいう「別の価値文脈に置く」とは単に人生を価値づけるために必要な文脈を変えるという話で、なにも特別なことを意味してはいない。母親がワンサイズ上の服を買ってきたとして、それを「あなた太ったわね」という意味だととるか、それとも「あなたには実家ではゆったり過ごしてもらいたいのよ」という意味だととるか、それは自由であり、こうした文脈設定の自由、意味づけの自由を人は保持している。

⑤青年期の典型的な振る舞いとして見れるという理由:近年、名前は伏せるが某大学でアンケートを取ると「過半数の回答者が人類は絶滅すべきだと答えた」などという統計結果が出て、倫理学徒を驚かせることがあるという。これは「そのように斜に構えた態度を取ることが、たそがれていてかっこいいと思っている」というような青年期の典型的振る舞いとして説明することができなくはない。このように説明すること自体が非倫理的だという意見も必ずあるだろうが、このような「斜に構えた態度に対する斜に構えた説明」にも一考の余地はある。ゆえに、そもそも反出生主義が近年支持されてきているという主張の根拠となるデータ自体が、母集団が青年に偏っているがゆえに怪しいと考えることもできる。

⑥神秘的理由:そもそも生まれてみたら地球というものがあり、しかも、なぜかその地球のうえのアメーバではなく、地球のうえの人間であったということ自体、とてつもない自由とその発揮の可能性があるということである。この文章があなたに読めているということは、なぜだかわからないが、とんでもない奇跡が起きていると言ってもいい。そのような奇跡は、ありがたいものとして大切に扱うに値する。神様が授けてくれたからこの生が尊いのではなく、神様が授けてくれたのかどうかすらわからないがとにかくなぜかこの生が現にあるというこのことが、尊いのである。

 

⑶【どう生きればよいかの手前で生きることそれ自体がよいとはどういうことか】

「人は、大きな事故に遭う、大病をする、大事だと思う人間関係が全くうまくゆかない、失業し、その後に仕事に有りつけない、自分の大切な人が不幸であるように思え、その人をその境遇から抜け出させたくても自分には何もできない、酷い孤独感を覚える、無力感ばかり覚える、何もしたくない、何のために生きているんだろうと問うてばかりいる、自分のことを認めてくれる人は誰もいない等々に、人生の過程で見舞われないとは限りません。そのとき、それでも生きるとはよいものだと思えるし、そう思うことで新しい一歩が踏み出せる、それを可能にするのは何かを私は考えていて、そこに希望を託しています。どういうことかというと、そのような現実が生まれる理屈を理解することで、新しい現実を引き寄せる術を手に入れ得るのだということです。物事を理解するとは、その物事がなぜそのようなものとしてあるかを理解することで、すると、あらゆる事柄は理由あってあるものだから受け入れるしかないと、このように保守的な営みであるかにみえます。しかし、そうではないのです。それら生まれているものに関してその生まれた理由と生まれ方とが分かれば、それらに対してどのような態度を取るのが自分にとって望ましいかが分かってくる、こちらの方にこそ要点があります。また、その生まれ方を転用して別の事柄が生じるようにし向けることもできます。そこで私は本書で、人の生き方を規定するものとしてどのようなもの(A、B、Cなど複数のもの)がどういうわけで生まれたかを、それらA、B、C••••••の生まれ方と、それらの間の関係の有り方を含めて、簡単な見取り図を描こうと努めました。」(松永澄夫著『生きること、そして哲学すること』p.308)


→事実問題としてではなく当為問題として「生きることはよいことであるべきだ」と言いたい。なぜかというと、見取り図をみれば分かるが、人はこんなにも自由で、内面的幸福をも含めた様々な経路で幸福になれる。だから、ぼくやあなたのような各個人がどういう人生を送っていて、それが事実問題としてどれほど悲惨な人生であったとしても、それでも僕やあなたのような各個人を含めた人一般の生が続いていくということ、つまり生きることは、かけがえがなく、有り難く、奇跡的な良いことと言えるし、良いことであるべきだ。様々な生き方の中のどのような生き方が良いのか以前に、生きることそのこと自体が良いことであるべきだ。僕やあなたにとって生きることが良いことには思えないという事実があるとしても、それはそのように思わせない何かに問題があるということになるだけであって、「生きることはよいことであるべきだ」という至上の価値自体に問題があることにはならない。

 

⑷【参考文献】

①デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』小島和男・田村宣義訳、すずさわ書店、2017年

森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』筑摩書房、2020年

③『現代思想』2019年11月特集「反出生主義を考える」

川上未映子『夏物語』文藝春秋、2019年