aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

カネコアヤノの『カウボーイ』に対する私の批評

0.【批評対象】
https://youtu.be/1dHrFFs6UDs

1.【礼讃批評宣言】
「批評は常に褒め言葉でなければならない」。これは、私がこれから一生、貫くと決めた信条である。これが私のテネットである。であるから、批評は私にとっていわゆる対象の「考察」のようなものとは無縁である。なんとなれば、考察とは本来、音楽家ならば音楽家が(思考の道具が言葉ではない場合の方が多いのであえてこう言うが)楽器を用いてするものなのであり、考察という高尚な芸当が批評家どもの仕事であるわけがないからである。考察というのは、厳密に言うならば芸術家の仕事なのである。繰り返すが、批評は思考のことではなく、常に褒め言葉でなければならない。どういうことか。批評は批評の対象に、一切の手を加えてはならないのだ。批評はひたすら対象を褒める。褒めるというのは対象に手を加えることではないし、対象を素材にしてそこから別の何かを作り上げるといった、まさしく冒涜的な営みのことでもない。そんなことをしたら褒める対象が変化してしまう。いつの間にか褒める対象がすり替わること、つまり、褒めたいものを批評家がこっそりと他から密輸入してくること、これが批評家にとって最もきたしてはならない蹉跌なのである。だから、批評の武器は書かれたものを対象にするならばせいぜい言語学であり、そしてテクスト分析しかやることはないのである。だから、批評家が参照する文学理論の類は、全てなんらかイデオロギッシュなものの密輸入であると思う。それらを密輸入することでしかうまく褒められないならばそれも必要悪なのだろうが、やはり無いに越したことはないのである。批評はそのたびごとに新しいものを素手で掴み取る営みである。日本の文芸批評の豊かな土壌がこれまで育ててきた、あまりにも長過ぎる伝統に訴えるようで恐縮だが、与えられたものの細部をよく観察するということ以外に、うまく褒める方法などあるはずはない。

2.【「礼讃」の理由】
では、なぜ褒めるのか。不意打ちになるかもしれないが、あえて断言すれば、対象に出会った時に、私が気持ちが良かったからである。作品に出逢って、気持ちが悪かったのに相手を褒める奴がいるとしたら、それは皮肉っぽいし、やはり趣味の悪いことだと思う。倒錯したことだと思う。また、あえて「礼讃」という言葉を用いたのには理由がある。「褒める」という言葉はどこか上から目線なところがあって、インテリくさいのである。「褒める」のはインテリであって、礼讃するのは古今東西、阿保と変態だけである。「教授が学生を褒める」という日本語は不自然ではないが、「教授が学生を礼讃する」という日本語は不自然である。かつて和室の陰翳を礼讃した者もいたし、古くは愚神を礼讃した者もいたが、私は彼らの態度こそ批評的であると思う。「褒め」はともすると歪曲するが、礼賛はどこまでも率直に相手を目指す。

3.【批評は補助輪並みに必要である】
批評は対象に対して、せいぜい宣伝文句のようなものでしかあるはずがない。作品とのダイレクトな出会いに向けて、読者たちを煽れればそれでいいのである。批評は読者にのぼられるや否やすぐさま捨て去られるべき梯子のようなものであらざるを得ない。だから、読者を文体で惹きつける諧調など、畢竟不要である。良い批評とは、乱調の檄文であり、乱調の檄文であった方がいいのである。もちろん、批評が激しく誰かや何かを罵ることもあっていいが、それは褒められるべきものが不当に貶められているのを見た時だけかろうじて正当化されるトリビアルな事柄に過ぎない。既に私は長年無数の批評を匿名で書き散らしてきたが、私のこの信念は、日増しにどんどん強くなった。「作品自体よりその批評の方が読み応えがあって面白かった」などと言われてしまううちは、まともな批評とは言えないのである。

4.【『カウボーイ』における凝縮について】
さて、カネコアヤノの『カウボーイ』という曲がある。この曲は『来世はアイドル』という、駒込在住の私がよく訪れている「一〇そば蕎麦(=いちまるそば)」という蕎麦屋のカウンターで不意に撮られたような、比類なきジャケットのアルバムに収録されている曲である。この曲は私が思うに、このままでは無数の凡庸なるものどものうちで埋もれてしまうと思われる。たった2分の曲であるが、この曲の中には、「恋」というものが最も輝く瞬間の楽しさが見事に閉じ込められていると思われる。これほどの凝縮力に私は滅多に出会うことがない。

5.【カネコアヤノについて】
カネコアヤノがあきらかに天才であることはいまさら言うまでもない。カネコアヤノは疾走するが、疾走しているのは彼女の悲しみではない。優しさである。カネコアヤノは愛のままで疾走できる、唯一の人であると思う。彼女は凡百の音楽が私のようなメンヘラに媚びてくれるなか、ひとり愛のままで駆け出していく。『やさしい生活』のなかにいみじくも顕現しているが如く、彼女は誰よりも哀しみに対して鋭敏な感性を持っていながら、カネコアヤノは決してそれに酔わず、颯爽と駆け出していくチャンスを常に伺っている。彼女は鋭敏過ぎて、悲愴に溺れるものが密かに味わう自己憐憫の不健康さにすら、勘づいているのだ。メンヘラになれるほど、カネコアヤノは鈍感な動物ではない。

6.【テクストの引用】
↓以下に当該の詩を載せる。

走る蹄の音
止まらぬ速さで恋は進む
君はまるで草原に吹く風 風

青い空に囲まれてこれからどこに行こうか?
どこまでも 君が 案内してよ

君と居るのが楽しいカウボーイ
それだけじゃダメかしら?
明日を夢見る二人の鼓動
風のように軽やかに

土煙まきあげ
小高い丘 なんのそのと 登る
君はまるで荒野を抜ける風 風

星座たちに囲まれて今日はそろそろ帰ろうか
家までは 君が 送ってよ

君と居るのが楽しいカウボーイ
それだけじゃダメかしら?
なにも知らない二人の行動
少し眩しすぎるでしょ

青い空に囲まれてこれからどこに行こうか?
どこまでも 君が 案内してよ

君と居るのが楽しいカウボーイ
それだけでもいいよね
明日を夢見る二人の鼓動
風のように軽やかに

7.【「カウボーイ」とは誰か】
まず、「カウボーイ」とは誰か。これは私が思うに「私」である。作品中に「ふたり」と「君」という言葉が登場する。しかし、「私」という語は登場しないから、「「ふたり」から「君」を引いて残るもの」と言っても良い。この「カウボーイ」は、「走る蹄の音」という表現からもわかるように、「馬」に乗っているのだが、「騎乗」から連想される肉欲的なところが、この騎乗には一切存在しない。「馬」という形象さえ肉欲と全く結びつかない。しかし、女(ただし、あくまで厳密に言えば「私」は性別無規定なのであって、「ボーイ」であるからなんならボーイッシュなのであるが)が常に上なのである。家まで送るのはあくまでも「君」なのである。この構図はいくら強調しても、したりない。

8.【「君」とは誰か】
では、「君」のほうは、誰だろうか。これは、作中にも登場する「恋」である。しかし、「恋」はそれ自体が「進む」のであるから、「馬」でもある。つまり、この「カウボーイ」は「恋」である「君」という「馬」に乗って疾走しているのである。この物理的な構造が、この作品の全体を支配し、その上に豊かな意味世界を分泌しているのだ。この構造は、とてつもない発明である。万障を繰り合わせの上でまず褒めなければならないものこそ、この構造なのだ。整理しておくと、「恋」と「君」と「馬」という三つの名詞が三位一体となって、未分化・未分節のままで使われ、その三つの名詞が表す対象に、「私」が乗って進むという構造を、私は指摘している。だから、お気付きだろうが、この未分化な三名詞が相互に互換可能であるとすれば、①「私は君に乗っている」のであれば、同時にそれは②「私は恋に乗っている」ことになるのであり、またさらに③「私は馬に乗っている」ことにもなる。このことを素直に解釈するならば、「私」にとって「君」は①気の合うひとなのであり、②そのこと自体がウキウキするのであり、そして③時に「君」は「私」に使役されてもいることになる。

9.【「君」である「恋」に「私」が「乗る」ことは可能か】
なお、「恋」が「人」を意味できるということが、英語においては既に実現されている。以下の例文を見てほしい。特に、第5例を見てほしい。第5例における「love」はどう見ても「汝」、つまり目の前の二人称を志向している。

①She is the love of my life.
彼女は私の最愛の人だ
②Who was your first love?
初恋の人はだれですか.
③He was her first love.
彼は彼女の初恋の人だった
④She was really a little love.
あの娘は実にかわいい子だった
⑤Good morning, love!
あら、おはよう

上記からわかるとおり、「私」が「君」である「恋」に乗って疾走しているという解釈はそれほど突飛なものではない。

10.【構造から必要十分に出力される恋】
さて、「何も知らないふたり」は「鼓動」だけを共有している。しかし、上に乗るのが「私」であるにも拘らず、先導するのは常に「君」である。「私」は「君」に乗っているのだから、受動的に「君」の行きたいところに行くしかない。そう、「君はまるで草原に吹く風」のような「止まらぬ速さ」で、「私」を振り回しているのである。しかし、それが私にとって、「楽しい」のだ。そして、「それだけでもいい」のである。これ以上に明確で、必要十分な「恋」の表現があるだろうか。「土煙巻き上げ、小高い丘をなんのそのと登る」くらい力強い君は、結局「私」を家まで送る羽目になっている。「君」が駆け抜けることでそれに乗る「私」を振り回していたはずが、いつからか、「どこまでも君が案内」するようになり、最後は「家まで送る」のである。この何も知らない二人の、ごく自然な力関係の転倒を当然の如く諒解しつつ進むドタバタした行動、土煙を巻き上げて進むふたりの行動の全体が、「少し眩しすぎる」のである。これほどまでに構造的なテクストがあるだろうか。たった2分で、恋の構造を彫琢しそれこそ「風のように軽やかに」終わってしまうこの曲であるが、これほど細部まで計算が行き届いているのはなぜだろうか。「カネコアヤノは内奥の感情をぶちまけるパンク少女である」という凡百の評価に抗して、我々の「礼賛批評」は、彼女の技巧的で構築的な側面、つまりほとんど無自覚な設計主義を礼賛せざるを得ないのだ。「パンク少女」という役割を彼女に押し付けるのを私が懸命に躊躇った反動なのであろうが、どうも私には、カネコアヤノのこの曲が、この上なく知的に思えてならぬ。