aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

西洋音楽史

0.【クラシック音楽史がわかるリスト】

①構築的音楽の始祖にして至高のバッハ作曲「トッカータとフーガ」
②構築的音楽の始祖にして至高のバッハ作曲「ガヴォット」
③構築的音楽の始祖にして至高のバッハ作曲「主よ、人の望みの喜びよ」
④娯楽音楽の父ハイドン作曲「交響曲第100番「軍隊」」
⑤娯楽音楽の父ハイドン作曲「ピアノ・ソナタ第50番」
⑥メロディーメーカーモーツァルト作曲「歌劇「フィガロの結婚」序曲」
⑦メロディーメーカーモーツァルト作曲「アイネクライネナハトムジーク
⑧メロディーメーカーモーツァルト作曲「歌劇「魔笛」夜の女王のアリア」
⑨貴族のBGM職人ではない音楽家ベートーヴェン作曲「ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」」
⑩貴族のBGM職人ではない音楽家ベートーヴェン作曲「交響曲第6番「田園」」
⑪ピアノの詩人ショパン作曲「英雄ポロネーズ
⑫ピアノの詩人ショパン作曲「ノクターン
⑬ピアノの詩人ショパン作曲「幻想即興曲
⑭ピアノの魔術師リスト作曲「ラ・カンパネラ」
⑮映画サントラ音楽の始祖ワーグナー作曲「ワルキューレの騎行
⑯映画サントラ音楽の始祖ワーグナー作曲「歌劇「タンホイザー」序曲」
⑰音だけで何ができるかを追求する絶対音楽ブラームス作曲「交響曲第1番」
⑱音だけで何ができるかを追求する絶対音楽ブラームス作曲「交響曲第3番」
⑲国民音楽派のドボルザーク作曲「交響曲第9番「新世界から」」
⑳地域密着音楽のスメタナ作曲「交響詩モルダウ」」
ノルウェーグリーグ作曲「ピアノ協奏曲」
㉒ロシアのチャイコフスキー作曲「ピアノ協奏曲第一番」
㉓現代アンビエントジャズ音楽の始祖ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女
㉔現代アンビエントジャズ音楽の始祖ドビュッシー作曲「月の光」
標題音楽派のリヒャルト・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラはこう語った
標題音楽派の完成者コルンゴルト作曲「ロビン・フッドの冒険」

 


1.【アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)】
ヴィヴァルディ(1678-1741)の『春』は「リトルネロ」という形式が有名である。「リトルネロ形式」とは、ある旋律が曲の中で何度も繰り返される形式のことである。


2.【ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)】
ヴィヴァルディをモデルにして曲作りをしていたとされるのがヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)である。ただし、バッハは、それまでの伝統的な「グレゴリオ聖歌」以来のポリフォニー的音楽と、新しいプロテスタント的な「コラール」を融合していた点で、既にして同時代の中で圧倒的に異質であった。バッハは近代音楽の父であるとされるだけでなく、後世に何度もバッハのリバイバルが起きているほど複雑な構成を独自開発していた「原点にして至高の人」である。しかし、当時は「教会音楽をいまだにやっているなんて古臭い」とか思われており、同時代人的には、カール・フィリップエマヌエル・バッハというJ.S.バッハの息子の方が有名なくらいであった。このバッハと生没年がほぼ同じなのが8代将軍の徳川吉宗である。ヨハン・ゼバスティアン・バッハがどれほど複雑で奥が深いことをやっていたのかということは、むしろ死後に再評価が進む中でようやく理解されてきたのである。現代音楽にさえバッハは多大な遠隔的影響を与えている。


3. 【ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)】
バッハの次の世代が、ヘンデル(1685-1759)とハイドン(1732-1809)なのである。ヘンデルは、イギリス王室が絶えたので、イギリスにドイツのハノーファーから英語が喋れない王様(=一応親戚ではある王様)が連れてこらえたのだが、そのジョージ1世に連れられてロンドンにきた音楽家であった。ヘンデルは『メサイア』という大合唱の音楽を作った。


4.【フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)】
ハイドンは「交響曲」を作った人でオーケストラの父でもある。そもそも「オーケストラ」とは何かということをざっくり言うと、①第一ヴァイオリンと②第二ヴァイオリンと③ヴァイオリンよりも大きいヴィオラ、④股に挟んで立てて弾くチェロ、⑤チェロよりさらに大きいコントラバス、⑥フルートが2つ、⑦オーボエが2つ、⑧クラリネットが2つ、⑨ファゴットが2つ、⑩ホルンが2つ、⑪トランペットが2つ、⑫ティンパニーが1つ、というような感じの楽器編成からなる演奏形態のことである。そしてこのハイドンの弟子がベートーヴェン(1770-1827)なのである。当時のハイドンはハプスブルグ帝国の宮廷音楽家としてはもう食べられなくなっていたので、ロンドンで稼いでいたのだが、その帰路にハイドンがボンを通った時、ボンに住んでいたベートーヴェンハイドンに弟子にしてもらいに会いに行くのである(ベートーヴェンはのちに、上記のような「オーケストラのハイドンによる楽器編成」の中に、大音量が出るので本来は野外で使っていたはずのトロンボーンという楽器を加えたことも覚えておこう)。このハイドンがかつて雇われていたのは、ハプスブルク帝国の大貴族であった「エステルハージ家」で、この家はもともとハンガリーオスマン帝国と戦う際に最前線に立つような「戦闘貴族」などと呼ばれた家系であった。ここに雇われ、専属のオーケストラを持って、エステルハージ家のために作曲するのが、ハイドンの前半の音楽家としてのキャリアだったのだ。しかし、このハイドンでさえ、晩年は市民の台頭により貴族の力が相対的に弱まってきたので、エステルハージ家からはもうお金がもらえなくなってしまう。ハイドン交響曲に『驚愕』というものがあるが、その曲の中にはロンドン市民が彼の曲を聴きながら寝ているので、彼らを起こそうとしているとされる部分がある。


5.【ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(1756-1791)】
ハイドンの次の世代が、モーツァルト(1756-1791)であった。モーツァルトの父親はレオポルト・モーツァルトで、ザルツブルク大司教に雇われた音楽家であった。このレオポルド・モーツァルトは、ヨーロッパのアンシャン・レジームが続くことを疑わず、息子もどこかの王や貴族、教会などからいずれ金がもらえるように、息子の就職活動などをしていた人であった。ヴィヴァルディとバッハの時代を「バロックの時代」と呼び、ハイドンモーツァルトベートーヴェン(と場合によってはシューベルト)の時代を「ウィーン古典派の時代」という(ちなみに、ブラームスショパンシューマンとリストとベルリオーズワーグナーなどの時代が「ロマン派の時代」である。さらにその後にはドビュッシーのような、ワーグナーの影響下にある音楽家たち、それもナショナリズムが台頭してくる時期の音楽家たちの時代が続いていくとざっくり覚えておくとよい)。バロック時代の特徴は前述した通り「リトルネロ形式」であり、古典派の時代の特徴は「ソナタ形式」である。「ソナタ形式」とは、「序奏→提示→展開→再現→結尾」という順番で主題が「提示部」と「再現部」とに現れるような形式である。前述した年上のハイドンは、モーツァルトのことを大尊敬していた。ハイドンの人生は完全にモーツァルトの35年間の人生を包含しているのも面白い。さて、モーツァルトは5歳でデビューした天才である。モーツァルトの第39番と第40番と第41番が「三大交響曲」である。交響曲の第41番『ジュピター』は軍隊行進曲で、オスマン帝国とちょうどまた戦争を始めた時につくっていて、軍楽が流行っていたのに合わせているとされている。モーツァルトはできるだけキャッチーに、流行に合わせて音楽を作るタイプである。当時のハプスブルク帝国は、プロイセンオスマン帝国に対抗して、軍の近代化を推し進めていて、国民国家を作ろうとしていたから、街は軍楽で溢れていた。モーツァルトはそのような時代の雰囲気を敏感に感じ取っていて、世俗的でウケるものを作ろうとしていたのである。トルコ行進曲もそのような狙いを汲み取ると理解しやすい。ハイドンは理詰めで音楽を作るタイプであったが、モーツァルトはもっと直感的で人を喜ばせるメロディーを次々にメドレーのように繋げて作るタイプであった。モーツァルトはイタリア語でやるのが普通であったオペラをドイツ語でやってしまったという点でも先駆性がある。具体的には、歌芝居に曲をつけた『魔笛』がそれである。そもそもオペラの歴史は1598年から始まる。フィレンツェの「カメラータ」という古代ギリシア劇の研究グループからオペラが生まれたと言われている(オペラといえばヴェルディプッチーニロッシーニなどであるがここでは関係ないので省略する)。しかし、オペラといえばイタリアオペラという固定観念があったのだ。なお、非常に有名なモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」という曲は、「セレナード」といって、これはあくまでも20世紀に見つかったものであり、同時代人はこの曲を知らなかったであろうと言われている。「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」は5楽章あったはずだが、そのうち1楽章分はいまだに行方不明である。第三楽章が有名なモーツァルトの「トルコ行進曲」の第二楽章の楽譜も、ごく最近発見されたばかりである。モーツァルトの時代、まだ音楽家は宮廷専属料理人くらいの地位だったから、楽譜が正確に残りづらいのである。いわば、モーツァルトの音楽は、その場かぎりでの「消え物」として消費されてしまっていた場合も多かったのである。

6.【ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)】
ベートーヴェン(1770-1827)は「新しいモーツァルト」、つまり第二の神童としてデビューした。ハイドンの弟子でもあった。ただし、モーツァルトベートーヴェンは直接には会っていないそうだ。というのも、ベートーヴェンが22歳の時にモーツァルトが死んでしまうからである。モーツァルトはあくまでも職人として注文どおりに期待通りウケがいいものを作る人であったが、ベートーヴェンは「自分が作りたいように作る」というスタイルを確立してしまった。モーツァルトベートーヴェンの生まれた年はたった14年間しか違わないのに、そこで「音楽家」というものの立ち位置は完全に「職人」から「芸術家」にまで一気に上昇したのである。ベートーヴェンについては、「エロイカ的飛躍」という言葉が有名であり、ベートーヴェン交響曲第3番、いわゆる「英雄交響曲」から異常な天才性を見せることをこのように表現するのである。ベートーヴェン交響曲第五番が有名な「運命」である。ベートーヴェンがすごいのは、モーツァルトと違って素晴らしいメロディをたくさん思いついたりしないことであった。つまり、「ジャジャジャジャーン!」という唯一のモチーフの変奏だけでとてつもない大交響曲を作るようなタイプだったのである。モーツァルトが「無数の新鮮な素材で最高の料理を作るタイプ」だとすると、ベートーヴェンは、「素材にこだわり続け、大根1本でフルコースを作ってしまうようなひと」であった。そしてベートーヴェン交響曲第6番がいわゆる「田園」である。交響曲第五番の厳しい曲調のいわゆる「運命」を好むか、交響曲第六番のくつろいだ曲調の「田園」を好むかで、のちの音楽家の好みが分かれる大問題となった。この「運命交響曲」と「田園交響曲」は同じ時期に作られたがために「双子の交響曲」と呼ばれている。ベートーヴェンは9曲だけしか交響曲を作らなかった。その最後があの有名な「第九」である。作詞したのは大文豪フリードリヒ・シラー(=ゲーテと同じ時に同じ街に住んでいた大文豪)である。ロシアのバクーニンというアナキストでさえ、「第九は残すべきだ」と言ったという。「第九」は、最初から最後まで弾くと70分かかる長大な曲である。「CD」というものの規格の長さを決めるときに有名な指揮者のカラヤンが『第九』が入る長さにしてほしいと言ったため、74~75分のCDの長さの規格ができたという有名なエピソードもある。ベートーヴェン「第九」でも「①自由と②平等と③博愛」というフランス革命の精神がひたすら謳われており、18歳から晩年に至るまで、ベートーヴェンはひたすらフランス革命の子であった。実際、ベートーヴェンの作ったオペラ『フィデリオ』は、合唱のオペラであり、主役は完全に合唱に食われており、もはやそこでは、「群衆」が主人公になっているのである。「第9」だけでなく、『ミサ・ソレムニス』だって、大合唱を取り入れている。さらにベートーヴェンは演奏技術も大きく変えていった。例えば、ベートーヴェンが生きている時代の最大のヒット作といわれたのは『戦争交響曲 ウェリントンの勝利』で、これはナポレオン軍がスペインで負けた時のイギリスのウェリントン将軍をたたえ、その戦闘を描写した曲であるが、この曲では、「実際に鉄砲を撃つ」ことで鉄砲の音を使うことまで楽譜に指定しているのだ。ベートーヴェンの友人にメルツェルという技師がいて、メトロノームをつくったり、耳が聞こえなくなったベートーヴェンの補聴器をつくってくれていた。そしてメルツェルには機械じかけの自動楽器まで発明させていたのである。とにもかくにも、ピアノソナタ『悲愴pathétique』は必聴である。


7.【ヨハネス・ブラームス(1833-1897)】
ベートーヴェン以降」が、「ロマン派」である。ロマン派はベートーヴェンの運命交響曲と田園交響曲のどちらをモデルにするかという問題で激論を交わしていた。運命交響曲は抽象的で理屈っぽくて構築性の高い音楽であった。それを模範としたことで、「絶対音楽派」と呼ばれたのがブラームスであった。ブラームスベートーヴェンを意識しすぎて初めて交響曲を書いたのは40歳を過ぎてからであった。ブラームス交響曲第1番は、あまりにもベートーヴェン交響曲第5番に似ていたため、「ブラームスの第1番はベートーヴェンの第10番である」とまで言われてしまったのである。しかし、ウィーンにいたブラームスがエキゾティシズムから「ハンガリー舞曲」を作るというのはこの時期にハプスブルク帝国の内部での民族意識の高揚を示している。このような流れから、チェコだったらドヴォルザークスメタナが出てくるし、ハンガリーだったらエルケルといった作曲家が出てくるのである。


8. 【エクトル・ベルリオーズ(1803-1869)】
ブラームスのような「絶対音楽派」に反して、ベートーヴェン交響曲第六番である田園交響曲を重視したロマン派すなわち「標題音楽派」の代表が、ベルリオーズ(1803-1869)であった。代表作は『ファウストの劫罰(ごうばつ)』とか『ロメオとジュリエット』などである。ベルリオーズはあるメロディとその意味とを対応させる「固定楽想」という手法を考案したことで有名である。要するに、ある曲調とある感情とを対応させていったのである。例えば7月革命に刺激されて作られたベルリオーズの『幻想交響曲』の第4楽章では、ギロチンが落ちて首が飛ぶようなシーンまで音で描く。『幻想交響曲』には、今述べたように第4楽章「断頭台への行進」という場面があるのだが、続く第5楽章は「魔女の宴会」としてつくられており、これはまさに革命暴動であり、無秩序と大混乱の音楽である。このアヘン中毒を思わせる大混乱の音楽が、後にムソルグスキーボロディンなどの「ロシア5人組」に影響を与えていくのである。このようなベルリオーズの曲作りを可能にしたのは、ゴセックやドヴィエンヌ以来、フランスで発達していた管楽器の伝統であった。実際、現代でも「パリ音楽院」は今でも管楽器が看板部門である。


9.【リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)】
ベルリオーズからさらに進んでワーグナー(1813-1883)は、「つるぎ」に対応するメロディ、「不機嫌」に対応するメロディなど、意味と対応する音楽を作っていった人である。実際、恋人が出てくるオペラ上の場面で「兄妹」の音楽をあえて流すことで、実際には恋人たちが兄妹であることを暗示したりできるわけである。「ワルキューレの騎行」のシーンにおいては、9人姉妹の女性騎士軍団の「馬のギャロップ」の音楽をかけている。このようなワーグナーの発明は現代においては、ダースベーダーが出てくると「ダースベーダーのテーマ」が流れるというような、そういうスペースオペラの走りだといえる。このような技法をライトモチーフ(示導動機)という。また、ワーグナーは何調だか分からない曲を作ること、つまり「調性からの離脱」というのを成し遂げてしまった。つまり、何調か分からない曲(=いつまで経ってもイ短調へと収束していかないので煮え切らない曲)を『トリスタンとイゾルデ』の最初において作り始めたのである。これは現代音楽的な「無調」というものへの入り口であった。ちなみにこの『トリスタンとイゾルデ』を作曲中、ワーグナーはスイスにいたヴェーゼンドンク夫人と不倫をしていた。これはトリスタンとイゾルデが敵同士であったのに媚薬のせいで恋愛関係にあるという、煮え切らない悶々とした設定とシンクロしていた。全体的に、ワーグナーの音楽は非常に油っぽい。また、ワーグナーのオペラは当時パリのオペラ界を席巻していたユダヤ人のジャコモ・マイアベーアのオペラに対する反動という側面が一定程度ある。例えば、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』というオペラは4夜連続で見なければ終わらない長大な作品である。こういう作品を、パリのオペラ座みたいなところでやると、街中にあるから、そばにおいしいレストランがあるので、途中で食事をしにいってしまう。マイアベーアならそれでも良しとするかもしれないが、ワーグナーはそんなことは許せない。だから、ご飯を食べにいけないところでやることにした。それで、山奥の「バイロイト」でやることにしたわけだ。つまり、ワーグナーは、マイアベーアのようにコスモポリタンなものを目指したりはせず、ドイツ人のためのドイツのオペラ、「民族性が凝集された芸術」が、ドイツ語でつくられることを目指したのである。ワーグナーは、パリとマイアベーアがコスモポリタニズムに結びつけた「グランド・オペラ」を、ユダヤを仮想敵にしつつドイツ語による「グランド・オペラ」へと方向転換させたのである。ワーグナーのオペラは、遅れて近代化を目指すドイツがドイツ帝国として束ねられなければならないという要請に応えたものだったといえる。ワーグナーのオペラはドイツ・ナショナリズムを喚起し、ドイツ帝国を生み出す原動力となろうとしていたのである。このような事情は同時代のヴェルディのイタリア・オペラの誕生経緯においても同様であった。ワーグナーはどんな作品を作ったのかというと、例えば、ユダヤ人の金融資本のメタファーである「書記」たちをドイツの「親方歌手」たちがやっつけるという筋のワーグナーの喜劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』などである。この作品は、特にナチスと結びつくことになった(この時ナチスが退廃芸術としたのがジャズでああった)。このワーグナーに続いた音楽家は、ブルックナーマーラーであった。


10.【グスタフ・マーラー(1860-1911)】
前述した「標題音楽派」の系譜の末裔がユダヤ人のマーラー(1860-1911)であった。当時のハプスブルク帝国の都ウィーンでは、スロバキア語、ハンガリー語チェコ語バルカン半島から来たセルビア語やクロアチア語ルーマニア語が飛び交っていた。当時のウィーンは、多文化主義が隅々まで浸透しているような都市だったのである。そんな中で作られたマーラー交響曲は、国際感覚が豊かであり、ハプスブルク帝国的な部分、つまり色々な地域の民族のポリフォニー的なところがある。マーラーは、交響曲の中に民謡や歌を取り入れていた。マーラーの音楽は、ワーグナーが、ドイツ・ナショナリスティックであったのと対照的に、むしろハプスブルグ帝国的なパッチワークのような構成になっている。世界の色々な要素を一つの交響曲に「全部のせ」にして入れてくるのが、第1次大戦前の人間にとっては自然に感じられていたということなのだ。マーラー交響曲はとにかく「人間の持つ感情のすべてが込められている」とされ、例えば第八番の交響曲は「千人の交響曲」といわれている。初演したときに1000人ちょっとの人数が必要だったらしいからだ。実際には150人くらいだったというが、それでも凄まじい数である。今、クラシック音楽といえば圧倒的に人気なのはマーラーである。ちなみに、マーラーは精神的に不安定になり、ウィーンにいたフロイトの診断を受けに行ったこともある。


11.【フランツ・リスト(1811-1886)】
史上最高のピアニストといえばリスト(1811-1886)かショパンであると誰もがいうだろう。リストの「愛の夢」の第3番などは有名である。ベートーヴェンの第6番の田園交響曲から現れた3人が、ワーグナーベルリオーズとリストであったと言ってよい。リストの業績は「交響詩」というものを作ったことである。リストは交響曲に詩までつけてしまったのである。ただし交響詩は歌われたりするようなものではないので注意。


12.【クロード・ドビュッシー(1862-1918)】
普仏戦争に負けたことで、パリのマイアベーア的なコスモポリタニズムは廃れ、むしろ「次にドイツと戦争した時には勝たなければならない」という思潮が現れる(余談だが、このような国民意識の形成の役割をロシアで担ったといえるのはチャイコフスキームソルグスキーボロディンリムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』→ラヴェルの『ダフニスとクロエ』という系列だろう)。こうしてワーグナーの影響を強く受けた「印象派」が生まれる。彼らにとっては常に、「ワーグナーをフランス化するにはどうしたらいいのか」ということが問題になるのである。ワーグナーの絶大な影響下で育まれ、やがてワーグナーの影響を「フランス的軽さ」の発見によって乗り越えようとしたのがドビュッシー(1862-1918)である。代表作は、「牧神の午後への前奏曲」と、オペラ『ペレアスとメリザンド』などである。ドビュッシーは、ワーグナーに見られるような「ゲルマン的・北方的で土くさい感じ」を離脱し、フランスに伝統的なグノーやマスネのように「地中海的な音楽」を作ろうとした。こうしてドビュッシーは「フランス・ナショナリズム」の人になるのである。また、ドビュッシーインドネシアの「ガムラン音楽」に衝撃を受ける。パリの万国博覧会で出会ったのである。西洋音楽の規則がこうして乗り越えられていくことになる。メロディがなくても音楽が作れるのだとドビュッシーは気づいてしまったのである。ドビュッシーは貧しい家庭の生まれであったが9歳の時に家庭教師の手ほどきを受けるとみるみる上達し、たった10ヶ月練習しただけでパリ音楽院のピアノ科に受かってしまったというような大天才であった。同時代をいきた詩人ヴェルレーヌ(1844-1896)の詩によって霊感を与えられて作った「月の光」という作品などがドビュッシーの天才を余すところなく伝えてくれる。


13.【20世紀の音楽の諸潮流】
20世紀には第1次大戦前から既にシェーンベルクウェーベルンストラヴィンスキーなどの前衛音楽の流れが起こっていた(この流れは冷戦における東側の「ジダーノフ批判」を皮切りにむしろ冷戦中の西側で加速していくことになる)。例えば「無調音楽」である。しかし、このような前衛化の流れがある一方で、クラッシック音楽は、同時に「わかりやすさ」を求められるようになっていった。例えば、ロシアのクラシック音楽はどうだったか。ロシア革命後のソビエト連邦を象徴する作曲家はショスタコーヴィチである。ショスタコーヴィチは当初非常にヨーロッパ的でアバンギャルド的であったりモダニズム的な曲を書いていたのだが、戦後はロシア共産党からの「ジダーノフ批判(=極端にいえば「チャイコフスキー的な音楽を作っていけばよい」として前衛芸術家を批判したものである。これは「社会主義リアリズム」と呼ばれる)」があり、わかりやすい革命讃美曲などをひたすら書かされるようになった。プロコフィエフも同じような事情で革命歌をたくさん書くことになったのである。日本でもナショナリズム高揚にクラシック音楽が動員された。実際「皇紀2600年」ということで西暦1940年に山田耕筰(やまだこうさく)がオペラをつくり、信時潔(のぶとききよし)がカンタータをつくった。清瀬保二(きよせやすじ)や伊福部昭(いふくべあきら)などによって、「日本の民族的シンフォニー」を謳い文句にする作品の制作が試みられた。アメリカにおいても、コープランドバーンスタインが、南北戦争の頃の民衆歌や黒人霊歌を取り入れ始めたのである。こうしてクラシック音楽が大衆化した結果、全ての文化は一度大衆文化として一旦は平準化されるという事態となり、クラシック音楽が何か特別なものであるという意識はもはや失われていったといえる。むしろ現代は、一部のロックやアイドル音楽の方が、クラシックよりもよほど難しいハイコンテクストで知的とされる音楽となっているかもしれない。また、国民の動員という観点から見ても、クラシック音楽を使うよりアイドルグループを使う方が効率的であろうと思われる。さて、最後に余談だが、平成天皇陛下の在位10周年の時、X JAPANYOSHIKIがピアノ協奏曲を作曲して、天皇陛下に捧げたということがあった。あれは一旦全ての文化が共通の平面に一度置き直され、もう一度クラシックの価値が新たに、そして率直に再発見されていくという現象として解釈できるのではないか。