aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

メルロ=ポンティ哲学 その可能性の中心

【「超越論的態度」は人間だけのものではない】
「世界の全てに意味を見出す」というのが人間特有の在り方である。全ての意識は世界を構成していく「超越論的態度」をあらかじめ取っている。そしてこの、超越論的態度を取る意識は、「志向弓(l'arc intentionnel)」の構造を持っている。志向弓とは、予め「力み」が生じているという意味であり、そのような構造を持つことを、「世界構成をしていく超越論的態度」と呼んでいるのだ。このような「意味を見出す構造」としての「志向弓」は、超越論的なのだから、意識にあらかじめそなわっており、しかし「悟性」に備わっているわけではないというのがカント哲学とメルロ=ポンティ哲学の違いである。そして、この意識は、「現実世界にそのまま届いている」というよりはむしろ、この構造が届いていない手付かずの「与件」とか「構造がこれからそれを整理していくところの現実世界」などというものがそもそも存在しないのである。それらの枠組みを当てはめられるべき「与件」などというものは「ほとんど無」なのである。この構造を経由して初めて「現象」が成立するのであるから。そして、この「かまえ(=超越論的態度=価値的没入=志向弓)」があるところに、いきなり「現象」から成立するのである。経験について記述するものは、常にこの「現象」から始めなければならないのだ。そして、「超越論的態度」は悟性に備わっているわけではなく、身体に備わっているのだから、進化論的に考えれば、「超越論的態度」が取れるのは人間だけであるはずがなく、人間は全てに意味づけを行えるが、動物は基礎的な世界構成しかできないというだけなのである。例えば、アメーバは全てを「結果」としてしか扱えないのだから、結局は何かを「原因」としても「結果」としても扱えていることにはならない。しかし刺激のあるものを重要なものとして扱う点で意味づけは行えているように思われる。また、ある種の生物は「赤」を認識しても「何の赤なのか」は問題にしない。つまり、結局は何かを「実体」としても「属性」としても扱えていることにはならない。それを問題にできるようになるためには、やはり「操作」ができるようになる身体が必要なのである。さてこのようにして、「超越論的態度」は微弱なものであれば動物の意識にも備わっていることがわかる。人間の「超越論的態度」は意味づけられるものの自由度が非常に高い(regard A as B のAとBがほぼ無限になりうる)のだが、しかし「意味づけない」ということは決してできない。この点で「人間は意味の刑に処せられている」のである。経験が成立するためには、AとBに何かを常に入れなくてはならないのである。

 

【人間は意味の刑に処せられている】

サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのに対して、メルロ=ポンティは「人間は意味の刑に処せられている」と考えた。