aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

愛の思想史

【導入】

 

キリスト教における愛の流れと正義の流れ】

愛の流れは自他の区別をなくして共苦し、不合理にも自らのものを他者に惜しみなく与えようとする流れである。それに対して正義の流れは、応報思想であり、進化の産物であるような流れである。


【「自己愛なしに他人を愛せない」のか】

①「自己愛を捨てることが隣人愛につながる」というのがキリスト教的なアガペーの思想である。しかし、②「自己愛なしに他人を愛せない」ということもしばしば言われる。この矛盾をどう捉えたらいいのだろうか。「自己愛」には複数の意味がありうるということがこの矛盾の鍵である。②「自己肯定感がなければ他人を愛せない」という意味である。それに対して、①「自己愛を捨てることが隣人愛につながる」という時の「自己愛」は「自分が幸せになりたい」という意味である。この二つのレベルを区別すれば矛盾しているとは言えないはずだ。同一レベルで対立を解釈するから、矛盾しているような気がするだけなのである。


トマス・アクィナスは何をした人か】

トマス・アクィナスアウグスティヌスの思想(すなわちカリタスの思想)とアリストテレスの思想(すなわちフィリアの思想)を統合した人物である。では、アウグスティヌスは何をした人か。アウグスティヌスは、プラトンの思想(すなわちエロース思想)とイエスの思想(すなわちアガペー思想)を統合した人である。ということは、トマス・アクィナスは結局のところ、プラトンの思想(すなわちエロース思想)と、イエスの思想(すなわちアガペー思想)と、アリストテレスの思想(すなわちフィリアの思想)を統合した人ということになる。


【たくさんの愛】

愛と言っても色々ある。①エロース、②アガペー、③フィリア、④カリタス、⑤アモール、⑥アミキティアなどである。


【東洋思想と西洋思想】

東洋思想は「お釈迦様のさとりにどれだけ近づけるかゲームをしている」と言える。それに対して、西洋思想は、ソクラテスが悟っているとは言い難いし、西洋哲学では「言葉」を重視する。権威によって人を納得させようとするところが西洋哲学には少ない。死ぬ直前に永遠の命を主張する師匠に対して反論するのが西洋哲学なのである。東洋哲学が重視するのは「体験」である。体験の権威が東洋思想においては重視されているのだ。

 

 

 

 


プラトン(B.C.427-B.C.347)】

 

オルフェウス教】

オルフェウス教の教祖がピタゴラスである。劣った世界の背後に真実の世界があるという考えの源流。ディオニューソス的要素から発する霊魂が神性を有するにもかかわらず、 ティーターン的素質から発した肉体が霊魂を拘束することとなったという考え方。


【動物には善悪の概念がない】

動物は生物進化上、有利だったから、人間から見た時に善悪を気にしているかのように見える行動をするというだけで、動物に善悪の概念があると言うのは言い過ぎである。例えば、美しい声がするオスのほうへとメスが寄っていったりする行動は、人間から見て動物には「美」が理解できると思われる行動であるといえる。しかし、このことは動物行動学上の知見から十分に説明できてしまうのである。


【ザグレウス神話】

プラトンには人間の起源に関する神話がある。これがザグレウス神話である。


プラトンの『メノン』】

「お前はもう知っている」が想起説である。そして「真理の共同注視」こそが教育のポイントであるというのがソクラテスの考えであった。一辺が2プウスの正方形の面積の2倍の面積の正方形を奴隷に作図させるのが『メノン』におけるソクラテスである。


【神的狂気(マニア)においてイデアの記憶が蘇る】

イデアを見ると身体が震え、身体に翼が生えてくるべきところがうごめきだすという。エロースはこのように「下から上へと飛び立とうとする揚力」なのである。正気から狂気へと誘うものを恋愛とするのが一般的であるが、ソクラテスはむしろ、狂気から正気へと目覚めさせるものを恋愛としたのである。ソクラテスにおいて神的狂気は肯定されていたのである。同様に、ソクラテスは技だけで勝負していて、恋愛感情を強く持っていない、冷めた詩人たちは狂気の人々の死の前では霞んでしまうと言っている。レッドツェッペリンは自分の音楽にもう一度到達することが難しいほどに狂気の中で傑作を作っていたのかもしれない。


ギリシア神話において擬人化されたエロースは神でも人間でもない】

エロースはダイモーン(神霊)である。エロースは可死的存在者と不可死的存在者の媒介者である。上から下へと神自身が降りてくるアガペーに対して、エロースにおいては、エロース自身が媒介者であって、神自身が降りてくるわけではなく、エロースは神の命令と報償の伝達役を勤めるのである。


【エロースはポロス(術策の神)とペニヤ(窮乏の女)の子だとディオティマは語る】

ギリシア神話においては、エロースは伝統的にアフロディテとゼウスの間の子ということになっているが、ディオティマはソクラテスにそれとは別の出自を語る。エロースはポロス(術策の神)とペニヤ(窮乏の女)の子だというのだ。アフロディテの誕生パーティで酔い潰れたポロスを、人間の女ペニヤが逆レイプしたのである。それでペニヤが孕ったのがエロースである。だからエロースは神と人間の間の子なのである。ポロスは罠を作ったり奇術が使える貪欲で奸策家の神で、ペニヤも貧乏人なので貪欲である。「惜しみなく愛は奪う」は、有島武郎の発言であるが、これはエロースの本質を実はよく表しているのだ。アガペーは対象を選ばないが、エロースは対象を選ぶ愛である。アガペーは敵すらも愛するような愛なのである。


プラトンにとって恋愛は補助輪のようなもの】

プラトンにとって肉体の美しさを賛美する恋愛は補助輪のようなもので、スタート地点としてはいいが最終的には個別的な相手の肉体だけからさまざまな相手の肉体へと進み、最終的には一般的な美そのものに進まなければならないと考えた。アウグスティヌスのような新プラトニズムの影響下にある人はこのようなストーリーを前提して考えている。アウグスティヌスは、エロースとアガペーとの統合したである。トマス・アクィナスはエロースとアガペーとフィリアを統合した人である。キリスト教は基本的にどんどんギリシア化(=エロース哲学化)されていく歴史を持っている。「ギリシア哲学が滅ぶことをキリスト教が許さなかった」と発言したのがジルソンであった。キリスト教は非合理なイエスの思想をギリシア哲学を使って合理的に説明しようとしつづけたのである。


【補助輪とはそもそもどういうものか】

家を作るために足場が必要である。しかし、家ができてからも足場があったら変だ。これが足場というものの意味である。「医者が一人前になるためには100人の人を殺すことが必要だ」と言われる。しかし、これは「100人の人を殺せ」という意味だろうか。違う。「一人も殺すな」という意味である。しかし、「一人も殺さないようにするためには殺す経験が必要だ」という意味ではある。しかしこれは消極的肯定であって積極的肯定ではないのだ。

 

 

 

【イエス(1-33)とパウロ(B.C.10-60)】

 

アガペーは人を燃やす】

自分の命を投げ打ってでも人を愛するのがアガペーである。


【小聖書】

聖書の中の「ヨハネによる福音書」の第3章16節などは聖書の中の根本部分とされることがあり、「小聖書」と呼ばれることさえある。


【三位一体】

「イエスと神は別物でありながら同一である」という論理的には矛盾していることを受け入れるところからキリスト教はスタートする。だから、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ 3:16)」は「神の自殺」だと解釈することさえできることになる。聖霊は御父と御子の間をつなぐものである。


ユダヤ教が残ってきたのは律法が厳しいから】

ユダヤ教は律法を重視する。ユダヤ教の律法は極めて細かい。例えば「レビ記」には「生贄」の時のルールなど、たくさんの律法がびっしり書いてあるのだ(ただし「サムエル記」では精神的徳義があればよいとされ、生贄のルールの遵守義務が軽減されてはいるのだが)。だからこそ、これほど差別されているのに存続してきたと言われている。食事のたびに神様のことを考えるのがユダヤ教なのである。イエスは「律法によって人は救われるのではない」と考えた。イエスは人間はルールを守れたりはしないという人間観を持っていた。


パウロはイエスに直には会っていない】

新約聖書には、直弟子4人(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)が書いた福音書が入っている。そして、それ以外のほぼ全ての部分をパウロが書いている。そしてパウロは生身のイエスに会っているわけではない。キリスト教の教義を布教する上で最も貢献したのはパウロの功績である。直弟子4人は無学であったが、パウロは学問的訓練を受けた人である。だから、パウロの文章は素晴らしいのである。パウロはパリサイ人である。パリサイ人は律法主義の人々の中でも最も律法主義を強く実践する人々であった。パリサイ人はキリスト教弾圧のリーダーであった。


【ステファノ石打事件】

パウロを決定的に変えたのは「ステファノ石打事件」である。ステファノはイエス以降初めての殉教者であった。ここでパウロたちはステファノをリンチして殺す。これの帰り道、パウロはイエスからの声を聞く。「サウロ、サウロ、なぜお前は私を迫害するのか」という声を聞き、雷に打たれたようになる。そしてパウロキリスト教に一瞬で改宗するのである。このような瞬間的な改宗を経験した人は多く、①パスカル、②アウグスティヌス、③パウロ、④ルターなどである。ステファノ石打事件については、「フィリピ人への手紙」の第3章の4節から9節に詳しく書いてあるという。ここでパウロは次のように述べている。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法にかんしてはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。[…]キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。[…]私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリピ 3:4-9)」。ここでパウロのいう「義」とは、「神様が自らに忠実に人を救う」という意味であり、「救い」という意味である。キリスト教における「義」には、❶「法に忠実であること=正義」という意味と、❷「人を救う神様が自分に忠実であること=救い、恵み」という全然違う二つの意味があるので注意せねばならない。例えば、「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた」という時、「義」は「救い」という意味である。パウロアガペー理解は「ローマ信徒への手紙」に詳しく書いてある。パウロによれば、「悪人のために死ぬ」のがアガペーだという。例えば京アニの放火犯に対しても神様は愛を向けるのである。神は、罪人や不信心者や敵(=他宗教の帰依者)であっても愛するのである。なぜなら、アガペーは「誘因なき愛」であり、人を分け隔てなく愛する愛だからである。


神学者ニーグレン(Nygren)のアガペー分析】

神学者ニーグレンによると、①「誘因なき自発的愛であること」、②「功徳と無関係に与えられる愛であること」、③「無価値なものを価値あらしめる愛であること」、④「下降する愛であること」というこの4つがアガペーの特徴であるらしい。③については、「重度知的障害者に対してでも無限の愛を向ける神の愛を想定したらわかりやすい」とされる。「親の子に対する愛」を典型とするとアガペー概念を理解しやすい(ただし、自分の子どもでないと愛せない点で「親の子に対する愛」はアガペーとは異なることになる)。それに対して、「夫婦の愛」を典型とすると「エロース」を理解しやすい。①について少し補足すると、「キリスト教アガペー」と共同体の利益のために自己犠牲をするという「和の思想」は似ていない。なぜなら、「和の思想」には共同体のために、という誘因があるからである。 また、①については、「息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった」という「放蕩息子の比喩」の記述を参考にすれば理解できる。キリスト教の魂は、この非合理的なところにあるのだ。有名な放蕩息子の比喩だって、「やりたい放題やったもんがちで、弟のほうこそが救われている」という点で、つまり正直者がバカを見ているという点で不合理なのだが、これこそがキリスト教の真髄なのである。(このようなニーグレンの整理したアガペー概念の実践はむしろニーチェのいう超人の態度に近づくのではないかとすら思われるがどうだろうか。)


【イエスパウロの違い】

死んだ後の世界の存在の話をよくするのがパウロで、ほぼ強調しないのがイエスである。イエスはこの世での救いを考えていた可能性があるのだ。パウロは「頑張らないと地獄に行くぞ」という律法概念をイエスの思想に再び戻してきてしまったと考える研究者もいる。イエスパウロとは違って、パウロは死後の救いについてはほとんど語っていない。もちろんイエスは天国と地獄について言及しているが、それを動機とはしていない。パウロは目的に対する手段としてのアガペーを説いた。つまり、「今ここ」のアガペーの発動が「未来の救い」あるいは「未来の地獄行き」を動機としてなされることにさっそくなってしまっているのである。


【「アガペー」という名詞は福音書の中で2回しか出てこない】

①マタイ 24:12、②ルカ 11:42だけである。しかし、パウロは非常に愛を論じた人である。パウロは「Love of God」に関して「神が愛すること」を強調し(そして隣人愛を強調しており)、「神を愛すること」をほとんど強調していない。エロースとアガペーとの統合をしたアウグスティヌスは、実はパウロとは逆で、「Love of God」に関して「神を愛すること」を強調し、この意味でラテン語の「カリタス」を使っている。


悪人正機的なイエス

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみ(=まごころ=信じること)であって、生贄ではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:12-13)」とあるように、イエスは義人ではなく悪人をこそ救おうとしているのである。ちなみに信じることは行為(メリット=功徳)ではないので、イエスが信じることを人に要求してもそれはキリスト教が功徳思想(功績思想)に回帰していることにはならない。そして、浄土真宗の本尊は阿弥陀仏であるが、これはキリスト教における唯一神とよく似た地位を持っているのだ。


【「ユダヤ的生贄」と「キリスト教的生贄」の違い】

ユダヤ教において生贄は人から神への生贄であるが、キリスト教においては、神か人への生贄である。向きが完全に逆になっているのだ。キリスト教においては、あらゆる人の行動や行為に先立って、神の方が人に向かって自己犠牲をしてくるのである。


ニーチェの「謙遜」批判を批判する】

「自分自身を軽蔑する者は、軽蔑しながらも軽蔑する者としての自分自身を尊敬しているものだ」(ニーチェ善悪の彼岸』第4章) →このニーチェの指摘はどういうことを言っているのか。要するに、「私って本当にこういうところがクソですよね」と言ってくるような人は、「自分のどこがクソであるかをこんなに理解している私って本当に偉いですよね」という自慢を実はしており、内心ではほくそ笑んでいる、というのがニーチェの指摘なのである。つまり、謙遜をする者は自分を捨てているようでいて実は全然自分を捨てられていないというのだ。しかし、このようなニーチェの指摘はむしろユダヤ教的な「愛」の概念にこそ妥当する(=罪人である人が生贄を捧げるとその分だけ神は裁きをやめて下さる)もので、キリスト教の「愛」の概念(=神が自分自身を生贄として罪人である人へと捧げてくる)には妥当しないと思われる。神が自己を捨てたように、ちょうどそのように私が自己を捨てる、というキリスト教的な「(隣人)愛」の概念の典型場面は、「義人が罪人のために犠牲を捧げる(=神からの「アガペー」が人にもいわば乗り移って「隣人愛」として周囲にも無差別に燃え広がってゆく)」という不合理なものであって、「罪人が犠牲を捧げることでその分だけ実は得をしている」という合理的な愛にしか、ニーチェの謙遜批判は当たらないのではないか。それゆえ、キリスト教を批判しようとしたニーチェの発言は、キリスト教の愛の概念にクリーンヒットしているとはいえず、むしろキリスト教の愛の概念と両立可能でさえあると思う。キリスト教的なアガペーには、自分が実行した捧げ物という行為(=功徳)を誇りにしようという発想が全くなく、むしろ自分は無化されてしまうのである。キリスト教というのはそもそもニーチェの批判がヒットしてしまうような功徳の宗教を乗り越えて生まれたものなのであるから、このような帰結になるのは当然である。


アガペーと「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」は両立するのか】

「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエスの格言があり、これと自己愛的契機のないアガペー概念は矛盾していないのか。矛盾していない。なぜなら、そもそもこの格言は、人に自己愛があるのは端的な事実だと認定しているだけなのであり、この格言は別に「自分を愛しなさい」とは言っていないからである。つまりこの格言は、「アガペーが発揮される前であれば、みんな自分を愛してしまっている。これは端的な事実である。しかし、ここから出発して、アガペーを発揮することで、自分を愛するのと同程度に他人を愛する、あるいは自分を愛する程度以上に他人を愛するように変わっていきましょう」という格言だとして、差し引いて理解すれば矛盾はしないのだ。基本的にキリスト教思想は自己愛が消滅する方向へと進む傾向を持っていることは間違いないのである。「人は放っておいたら自分を愛するもので、他人を愛するなどということは、からっきしありえない。しかし、まことに不思議なことに、自分を捨ててでも他人を愛することが人にはできることがある。これはなぜか。なぜかというと、神からの「アガペー」が人にもいわば乗り移って「隣人愛」として周囲にも無差別に燃え広がっているからなのである。つまり、隣人愛の主体は各個人ではなく神なのである。」という思想あるいは「人間はそもそも邪欲(=concupiscence)の塊である」という人間観がキリスト教の根本にはあるのだ。


【動物は自分を犠牲にして他個体を救うという行動をむしろする】

カマキリのオスはメスのために自らを犠牲にする。動物行動学的には、知恵をつけた生命体はだんだん利己的になる傾向がある。だから、キリスト教は、進化論的な生命原理に回帰するように迫っているのである。人が命を捨てるときに、その人が異常な興奮を感じるということがもしあるならば、それは実は命を否定しているのではなく、むしろ先祖返りをしている、つまり命の本源に触れるということが起きているのかもしれないのだ。


【正直者はバカを見るという不合理が自然界の基本である】

ドードーという鳥は、天敵がいない環境で生きてきたので、人が来ても決して逃げない。そこへヨーロッパ人が犬や猫を一匹離しただけでドードーは食われまくった。こうしてドードーはすぐさま絶滅した。「相手を襲わない」という約束を前提に成り立っているシステムのフリーライダー(=犬や猫)にドードーは一気に食い殺されたのである。だから、自然界では基本的に正直者がバカを見る(=Honesty doesn’t pay)のである。そこで、自然界ではフリーライダーを決して許さないようなシステムが進化的に発達してきている。しかし、急激な変化にはやはり対応できないのである。だから、急に持ち込まれた犬や猫によってドードーは絶滅した。自然界では急激に変化した環境ではやはり正直者はバカを見るのである。つまり、約束を破り私利私欲で動く奴が得をするのが基本仕様になっているのが自然界なのである。


【エロースが単なる「自己愛」だけでは終わらないのはなぜか】

エロースは欠如を補完してイデアを目指す愛である。しかし、その愛はいずれ善への愛となるのであり、それは結局奪うだけではなく、善行として与えるようにもなるのだ。


【なぜ神のアガペーによって極悪人や異教徒が愛されるのか】

神のアガペーは完全に無差別なので、アガペーは「この人は極悪人だから愛そう」とか「この人は異教徒だからかわいそうなので愛そう」という誘因による愛ではそもそもないのである。だから「なぜ神のアガペーによって極悪人や異教徒が愛されるのか」という問い自体が無意味だということになる。この問いは悪人や異教徒には神によるアガペーを誘発する誘因が存在するという前提でその誘因はいったい何かと聞いているのだが、しかしアガペーに誘因など、ないからである。神は別に極悪人を優先的に選んで愛しているわけですらないのである。


【「コリントびとへの手紙」におけるパウロの「愛(=アガペー)の讃歌」】

夫婦間の愛は基本的にはアガペーというよりはエロースが主流である。しかし、そもそもエロースだけでは夫婦生活は決してうまくいかない。だから、結婚式ではあえて「コリントびとへの手紙」におけるパウロの「愛(=アガペー)の讃歌」が神父によって毎度、読み上げられているのである。


【神からのアガペーと救われるかどうかは別問題だという思想へとキリスト教は至る】

アガペーは異教徒にさえ常に神から降り注がれているのだが、そのアガペーを活かして救われるかどうかは信仰に委ねられており、救われるためにキリスト教を信じるという契機は必要だというのが現在のキリスト教の基本的な教義である。信仰とは何か。気づくことである。すでに神からの愛を人は受けており、それに気づいてちゃんと受け取るということが「信仰」なのである。


【神からの愛は神への愛にはならない】

アガペーは「神への愛」(=信仰 πιστιςピスティス)ではなく「隣人愛」につながっていく。


キリスト教は人間中心主義ではない】

そもそもが全員が極悪人である人間たちがどれだけ生贄を捧げても、そのような人の行為あるいは功徳は神からしたら大した差を産まない。だから、悪人だろうと善人だろうと無差別にアガペーによって愛されてしまうのは、それはキリスト教が人間中心主義ではないからである。


死刑廃止論キリスト教の愛敵思想の影響下にあると考えるべきでない】

そもそも死刑廃止論は「デュープロセスの思想(適正な手続きの保証)」から出てきた議論であり、このデュープロセスの思想は宗教戦争の反省から生まれたのである。「ひょっとすると自分もカトリックだったかもしれない」とか、「ひょっとすると自分もプロテスタントだったかもしれない」という発想から、被告人にも適正な手続きを保証したのである。だから、死刑廃止論キリスト教の愛敵思想の影響下にあると考えるべきでない。また、海外のクリスチャンがなぜ死刑廃止を唱えているのかというと、その多くの動機は、誤診の可能性が排除できないがゆえであって愛敵思想がゆえではない。


【1970年代前半生まれは就職氷河期世代である】

1970年代前半生まれの人は物凄い競争率で受験戦争を戦わされた挙句、いざ社会に出ると働き口が全然ないという不幸に見舞われた世代である。しかし、コロナ禍の若者は競争率も高くないし就職活動も売り手市場である。それゆえ1970年代前半生まれの人々は若者にもっと苦労しろという。それは最近生まれた若者が羨ましいからである。たとえ、彼らが現代の若者から就職口を奪っても日本全体の経済が縮小して1970年代前半生まれの人々が結局苦しむことになるとわかっていたとしても、それでも若者を甘やかすなという声はやまない。だから、不公正は本当に負の連鎖を生むのである。


【隣人愛の主体は人ではない】

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。(コリント二 4:7)」という言葉がある。これは重要である。人は所詮、土の器のようなもので、チリアクタのごときものなのである。しかし、そこにアガペーという宝が納まることではじめて隣人愛が可能になるのである。「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という道徳主義的にも聞こえるパウロの言葉はパウロに律法主義あるいは合理主義が回帰してきてしまったのか、とも思われるが、実はそうではない。これはあくまでも「結果」(=神に愛されていると気づいた人はどうなるかというその「結果」)を述べているのである。土の器にアガペーという宝が納まった人は結果的に隣人を愛するようになってしまうという意味なのだ。


【ブドウの木の比喩】

エスは次のように述べる。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。[…]わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。((ヨハネ 15:5-12)」この比喩を見れば明らかなように、「神に愛されていない人は善なんか何もできない」とイエスは考えているのである。イエスによればユダヤ教徒のように「律法」によって功徳を求め、裁きを恐れて善行を成したとしてもそれは単なる奴隷根性の発揮、あるいは自己愛の発揮であって、むしろそのような損得勘定を超えてひたすら敵に与えることこそが善なのであり、このような善行を人がそもそもごくたまに行うことができるのは、人が神のアガペーによってもう愛されているからなのである。「隣人愛は律法を完成させる」とか「愛は律法を全うするものです。(ローマ 13:8-10)」とよく言われるが、それは、どれだけ律法を守っていてもそこにアガペーの注入がなければ結局それは「善行」とは呼べないというイエスの考えのことを言っているのである。また、イエスがブドウの木の比喩で言っている「神に愛されているからこそ、つまり神にアガペーを土の器に注入されているからこそ隣人を愛することができ、神に愛されていない、つまり神にアガペーを土の器に注入されていなければ隣人を愛することがちっともできない」というのはこういう意味であって、たしかにこの比喩の中では、「掟」という言葉が使われているが、これは律法主義の回帰どころか、その逆である。有名なパウロ愛の讃歌の中に、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(コリント一13)」という記述があるが、これも、律法をいくら守っていてもそれが結局互酬原理に基づいていればただの自己愛でしかなく、それは善行とは言えないのだから、アガペーという神からの愛が注入されて初めて善行と言える(=「神からのアガペーつまり隣人愛が律法を完成させる」)という先ほどの教えの変奏なのである。


【①神からの愛と②隣人愛と③神への愛の優先順位】

「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです(ガラテヤ 5)」というパウロの言葉からも明らかなように、「神を愛しなさい」とパウロはあまり言わない。原始キリスト教においては、優先順位としては、①→②(→③)という順序になるのだ。下から上へと向かう愛をキリスト教に導入し統合したのはアウグスティヌスからなのである。ヨハネも、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した」(ヨハネ一4:7-11)と述べており、③の契機は原始キリスト教において明らかに希薄なのである。


【「愛さないならば神を知らない」の対偶】

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が、わたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛しあうならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネ一 4:7-11)」という言葉において、「愛さないならば神を知らない」の対偶を取ると「神を知るならば愛する」となる。つまり、降り注ぐアガペーに気づくとその人は自然に隣人を愛するようになると言っているのである。


【隣人愛を全うできない心配はない】

アガペーは無差別な愛である。そして、人が隣人愛の実践として無差別な愛を、あたかも神のように実践できるだろうかと不安になる必要は全くない。なぜなら、隣人愛の主体は神であって人ではないからである。神が私の中に入ってきてそれが隣人へと向かうだけなので、隣人愛は愛敵思想にもすぐさまなるし、敵を愛することができるだろうかと不安にならなくてもよいのだ。


ハンムラビ法典キリスト教が倒した箇所】

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(マタイ 5:38)」という箇所はハンブラビ法典をキリスト教が相手どった有名な箇所である。互酬原理を重視したアリストテレスの思想ともこの立場は両立しない。


【イエスから発する「愛の思想」の潮流はアリストテレスユダヤ教の「正義の思想」の潮流と対立する】

「人々は、悪にたいしては相応の悪を返すことを求める。もしそれができなければ、人々は奴隷状態におかれていると考えられるであろう(『ニコマコス倫理学』1132b)」という記述や、「わたしが報復し、報いをする 彼らの足がよろめく時まで。[…]わたしは苦しめる者に報復しわたしを憎む者に報いる(申命記 32:35-41)」という記述からも分かるとおり、イエスの愛敵思想はアリストテレス倫理学ユダヤ教とも相性が悪い。イエスの愛敵思想とは「正直者がバカを見る(=頑張ってもその分だけ報われたりしない)」思想であり、頑張ったらその分だけ報われたいし、頑張らなかった人は罰したいという自己愛を消滅させる方向に向かう思想であるから、これを放置すると社会ではフリーライダーが大量発生することになるだろう。つまり、頑張らずに私利私欲を発揮したものが一人勝ちする状況になる。これでは社会が崩壊する。だから、「社会運営的には互酬原理に基づく正義の思想を採用し、倫理的には愛敵思想を採用せよ」と説いたりするという、難しい判断が迫られることになるだろう。


【原始キリスト教とヘレニズムとの衝突】

実はイエスの愛の思想は、ヘブライズムだけでなく、ヘレニズムとも衝突することになる。ヘレニズムの代表はプラトンであり、プラトンの概念はエロースであった。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる(コリント一 8:1)」という箇所はパウロがヘレニズムを意識していると言われている。つまり、エロース主義=イデア主義とパウロが対立している箇所とされているのだ。プラトニズムあるいはヘレニズムのエロース思想では、エロースはイデアに向かって上昇していこうとするが、パウロのいうアガペーは無価値とされるものを有価値に、つまり愛すべきものにする創造的な愛なのである。この原始キリスト教プラトニズムの対立の解消を成し遂げ(てしまっ)たのはアウグスティヌスだった。実際、「彼ら(=新プラトン主義者たち)はほんのわずかの言葉と内容を変えることによって、近年我々の時代のきわめて多くのプラトン派の哲学者たちがそうであるように、キリスト教徒になることであろう。(『真の宗教』序 4, 7)」とアウグスティヌスはいう。エロース(=プラトニズム=ヘレニズム)とアガペー(=原始キリスト教)の邂逅そして結婚を成し遂げたのがアウグスティヌスであったわけだ。


【愛敵思想(≒非合理主義)の起源はキリスト教ではなくユダヤ教だとは言えない問題】

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる(『箴言』25:21-22)」。さて、上のような記述をもとにして、イエス的な愛敵思想の起源は、旧約聖書ユダヤ教の教えにもすでに見られるのだ、と主張する人がいる。しかし、ここに見られるのは、「敵に対してあえて情けをかけることで良心の呵責(=炭火を頭に積むこと)によって復讐する」という、より手の込んだ、つまりは「屈折した応報思想(≒合理主義)」である。有名な「放蕩息子の比喩」に見られるように、やりたい放題やったもんがちで、真面目な兄だけでなく放蕩した弟さえもが父に愛される(あるいは愛されていたことに気づく)というのがキリスト教の教えである。「やりたい放題やったもんがちですよ(=右の頬も左の頬も、どれだけでも殴っていいですよ)」という発言には、殴ってくる相手への報復を密かに狙っている自己愛どころか、それがむしろ滅却される傾きがある。そのような合理的な思惑すらアガペーは焼き払い、ひたすら燃える。だから、ここからさらに面白いことが言える。「「謙遜」や「愛敵」は、実は自己愛を隠し持っているのだ」というニーチェ的な指摘(=「自分自身を軽蔑する者は、軽蔑しながらも軽蔑する者としての自分自身を尊敬しているものだ」『善悪の彼岸』第4章)がクリーンヒットするのは、冒頭に引いたような「屈折した合理主義としての応報思想」だけではないのか。つまり、ニーチェの批判は、その宛先であるキリスト教には当たらないのではないか、ということである。


【謙遜(フミリタス):人は「土の器」でしかないなら、地獄に行ってもかまわないのか】

「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞(=隣人)のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ローマ人への手紙 9:3)」とパウロはいう。だから、神が愛を注入してくれてそれで私が隣人に善行ができるならば、その後で、「土の器(うつわ)」としての私は神から見捨てられて、地獄に行っても構わないとパウロはいうのである。天国に行くために善行を積み重ねていこうという発想をパウロは取らず、そうやって救われるべき自己さえパウロは捨ててしまうのである。多くの合理主義的神学者たちは、「こういうことを言えているということはパウロは神から自分が見捨てられていないという確信があるのだ。そもそも人は天国に行けず地獄に行くにも関わらず敵に与える善行ができたりしない。人はそこまで自己愛を捨てられない。」としてこのパウロの箇所を掬い取ろうとするのだが、パウロはここで本気で自己愛はないのだから地獄に行っても構わないと考えているのである。

 

 


アウグスティヌス(354-430)】

 

【降ることによって上昇する:アウグスティヌスの原理的軸足はエロースにあるが、エロースだけでは不十分だと考えている】

アウグスティヌスは、神ヘと向かうエロースの完遂の手段としてアガペーが必要だと考えた。キケロの『ホルテンシウス』というプラトニズムが濃厚な本を読んでアウグスティヌスはこのアイデアを得たという。プラトニズムのエロースだけでは神に到達できず、キリストのグラティアの助けによって初めて神へと到達できるとアウグスティヌスは考えたのである。グラティアとはアガペーのことである。上昇するエロースではたどり着けない断絶を、下降するアガペーによって架橋するのがアウグスティヌスの基本方針である。「謙遜をしなさい」というということは一つのルールであり、アウグスティヌスは謙遜の美徳の提唱によって再び「正義」の思想を回帰させたともいえる。しかしアウグスティヌスは、「そもそも謙遜の美徳を実践できるように我々はできていない」という立場に立っている。つまりアウグスティヌスは人間は美徳が守れるようにはなっていないという思想的前提を持つ立場なのである。


アウグスティヌスによれば、なぜエロースでは神に到達するために不十分なのか:高慢になるから】

エロースでは高慢になるからである。エロースだけだと高慢(superbiaスペルビア)になり、高慢は自己満足にとどまり、自己愛にとどまるし、自己愛にとどまるのは、イエスのあり方とは異なるとアウグスティヌスは考えた。「どこから不義は優勢になってくるのか。高慢である。高慢を癒しなさい。そうすれば不義はなくなるであろう。それゆえすべての病の原因、つまり高慢が癒されるために、神の子は降り給い、謙虚となったのである。人よ、なぜあなたは高慢なのか。神はあなたのために謙虚となったのである。あなたはたぶん謙虚な人を模倣することを恥ずかしいと思うかもしれない。だが、少なくとも謙虚な神を模倣しなさい(『ヨハネによる福音書講解説教』25, 16)とアウグスティヌスは述べ、神を模倣することで自分の高慢を砕けと説いた。「昇らんがために、神にまで昇らんがために、降りてこなければならない。神に背いて昇ったために、落ちたからである。(『告白』4, 12, 19)」。


アウグスティヌスの基本的な考え方】

上昇するエロースで神に至ろうとするとだんだん「高慢(スペルビア)」になる。それによってまた、神から遠ざかる。だから謙虚にならなければならない。つまり、フミリタスの徳を発揮しなければならない。しかし、フミリタスの徳を発揮できない人もいるし、ほとんどの人間はそうである。どうしても人間はうぬぼれてしまう。また、フミリタスを発揮したとしてもまだ神に到達できない、その場合はどうするのか。「恩寵」が要るのである。


アウグスティヌス思想はギリシア起源のエロース基軸である】

アウグスティヌスは「へりくだれ」と説く。つまり、「徳の実践」を説く。「善をせよ」と説く。これは若干ユダヤ的に見える。というのも、そんな徳を自前で実践できるんだったら、神の愛なんか要らないはずだからである。そのような徳を実践できない人間について、つまり善もできない人間がどのように神に対して上昇したらいいのか。謙遜せよと言われたって謙遜すらできない人間がいるではないか。そこでアウグスティヌスが提示する概念が「カリタス」である。この概念は、日本語に訳すると、「アガペー」も「エロース」も「フィリア」も「カリタス」も「アモール」も「アミキティア」も「愛」になってしまうわけで、注意が必要である。


【「カリタス」とは何かカリタスの広狭二義】

カリタスとは、エロースを基軸にしながらアガペーを加えた概念である。広義のカリタスは、「幸福を求めること」である。幸福を求めるとは神を求めるということなのである。なぜなら、神は幸福を全て含み込んだ存在であるからである。神は幸福を全て所有しているのである。だから、幸福を求めるとは、すなわち神を求めているのと同義だということになる。ラーメンを食べるという行為も神を愛しているという行為だということになるのだ。これが広義のカリタスである。この広義のカリタスは神への愛であり欠如を補おうとする愛であるから、「エロース」とほぼ同義であるといえる。確認しておくと、「広義のカリタス」は「私が幸せになりたい」のだから自己愛であるが、この自己愛は否定されるどこかむしろ事実として肯定される。実際、アウグスティヌスも「私たちは神を愛すれば愛するほど自分自身を愛する」(『三位一体論』8, 8, 12)と述べている。このように自己愛を事実として肯定する論理をキリスト教の中に持ち込んだのはまさしくアウグスティヌスの功績であると言える。さらに、重要なのは「広義のカリタス」は倫理中立的であるということだ。つまり、蚊を殺せばそれは神を愛したことになるが、しかしそれは優れた人であるということにはならないのである。カリタスがあることそれ自体は善でも悪でもないのである。「カリタスは神を求めることであり、それは全員が行使していて善でも悪でもないが、その求め方によっては、それが倫理的に善になったり悪になったりする」というのがアウグスティヌスの考え方である。だから、良い求め方をする場合が良き愛(=狭義のカリタス)であり、悪い求め方をする場合が悪しき愛(=クピディタス=邪欲)である。だから、性欲もカリタスである(「犯罪、姦通、悪行、人殺し、あらゆる贅沢にも愛が働いているのではないか」(『詩篇注解』31, 2, 5)。しかし、性欲は神へ向かうはずの運動を個物に向け、個物で停止してしまうという点で、邪欲なのである。神だけが幸せを最終的にもたらしてくれるのだから、神に向かう運動をラーメンで停止させてはならないとアウグスティヌスは考えたのである。例えば、オートマ車はデフォルトの状態でブレーキを踏まない限りは前にどんどん進んでいく。しかし、そこに自由な人間が乗り、ハンドルを動かしてしまう。そして、その放っておけば「神」へ向かっていたはずのエネルギーを別の箇所(例えばラーメン屋)へとむけてしまう。これがカリタスの理解としてわかりやすいイメージである。「個別善へと愛を向けるのではなく個別善の背後にある一般善(=神)を愛しなさい」というのがアウグスティヌスの考えである。「下水道に流れる水を庭に注ぎなさい。世界にたいして持っている熱狂を、世界の創造者にたいしてもちなさい。あなたは何も愛していないと言われるだろうか。そんな馬鹿なことはない。もし何も愛していないのなら、怠惰で死んでおり、忌み嫌うべきであり、哀れである。(『詩篇注解』31, 2, 5)」とアウグスティヌスはいう。広義のカリタスがない人は死んでいるのである。


【カリタス概念がアウグスティヌスとトマスで異なるので注意せよ】

なお、トマス・アクィナスになると、カリタス概念の定義がアウグスティヌスのカリタスとは大きく変動するので注意が必要である。アウグスティヌスのカリタスはどちらかといえばエロースが主軸で、その前提としてアガペーがあるのだが、しかしトマス・アクィナスのカリタスはむしろ垂直と水平どちらにも向かえるフィリアが主軸で、その前提としてアガペーがあるものになっている。


アウグスティヌスからトマス・アクィナスになると「神」観が変わる:悲壮な神から幸福な神へ】

アウグスティヌスの神は「悲壮な神」である。しかし、トマスの神は「幸福な神」である。これはなぜかというと、アウグスティヌスが影響を受けているのがプラトンのエロース思想であるのに対して、トマス・アクィナスが影響を受けているのがアリストテレスのフィリア思想であるからだ。トマスの神の中には無限の幸福が充満しており(=新プラトン主義の影響=もののけ姫のシシガミ様は一歩歩くごとに草が生えてくるがまさにあのような生命の塊のような神)、それが外へと溢れ出していく。まさしく「友愛」によってトマスの神は見返りを求めずにどんどん人に愛をお裾分けしてくれるし、お裾分けされた方も愛が充満して隣人へと溢れ出していく。しかし、アウグスティヌスの神は我が子を生贄にしてまで人を救うのである。トマスの神が、アガペーの名においてなさるのはあくまでも「分かち合い」であるが、アウグスティヌスの神がアガペーの名においてなさるのは「生贄」なのである。いやいや犠牲になるのがアウグスティヌスの神で、喜んで犠牲になるのがトマス・アクィナスの神である。


【しかし我々はカリタスの方向を決められないことが多い:我々の自由は腐敗しており恩寵がなければ腐った自由を浄化できない】

アウグスティヌスによれば、人間には自由があるが、しかし腐っているという立場である。ルターやカルヴァンの予定説は、人間には自由がないという立場だが、アウグスティヌスは人間には自由があるが腐っているという立場で、それを清められるのがアガペーなのである。神様が、ラーメン屋へと向かおうとするハンドルを支えて元に戻してくださるのだ。このアガペーの力が「恩寵」である。神の恵みがあるおかげで我々は自由を回復することができるのである。


アウグスティヌスの自由は堕落にしか使えない】

「人は自由意志によって悪に走れるが、自由意志によってそこから抜け出すことはできない。神の恩寵は罪人の上にもっとも正しく課せられた悲惨さから、かれらを解放することができることを私は語った。なぜかというと、人は自由選択の意志によって罪に陥ることはできるが、しかしそこから自由意志によって立ち上がることはできないからである。(『自由意志論』修訂録)」。アウグスティヌスによれば、そもそもなぜ我々は自由なのにこれほど不自由になってしまったのかというと、それは原罪があるから(=人間は弱いから)ということになる。


アウグスティヌスの敵はペラギウス派である】

ペラギウス派は人間は強いので人間には自由がしっかりとあり、自由は腐っていないと考えた。アウグスティヌスはペラギウス派は人間の悲惨さが全然わかっていないと考えたのである。ペラギウス派の恩寵論は「①人間は自由意志をもち、つねに善を選ぶことができる。②善は、律法とキリストによるその模範の提示によって慈悲深くも示された。③にもかかわらず悪を選んだときに神が罪を赦すことにおいて恩寵が示される。(=行為の後に恩寵が後続する後続的恩寵論)」である。しかし、 アウグスティヌスの恩寵論は「①人間は自由意志をもつが、原罪後、著しくその自由は弱められた(=人の自由は既に腐っている)。②それゆえ何が善であるかが示されても善を選択することができない(=人はそもそも弱いものであるという人間観)。③そこで行為に先行するかたちで人間に恩寵が与えられる。(=行為の前に恩寵が先行する先行的恩寵論=行為に先立って神様は降りて来てくださっている)」である。よってこのふたつの恩寵論は対立するのである。アウグスティヌスによれば、ペラギウス派のいう律法は義務的なものに過ぎず、義務を果たすことのできない我々の能力の範囲外(=人の磁界の外)にあるので、全く役に立たないというわけだ。また、このアウグスティヌスのこの考えに限って言えば、このアウグスティヌスの考えは原始キリスト教の考え(特にアガペー概念)とそれほど対立するとは言えなくなる。行為に応じて神様が降りてきて恵みを与えるのではなく、なにもやらずとも、無償で、行為に先立って恵みが与えられることになるからである。アウグスティヌスは出家した後でも40代の時に12歳くらいの女の子と恋愛をしてしまっている。アウグスティヌスは邪欲を断ち切るのに本当に苦労した人間であった。アウグスティヌスの思想とペラギウスの思想の違いをわかりやすくボウリングで言うと、「人は基本的にストライクが打てるのだがガーターをした場合には支配人が許してくれる」というのがペラギウス派の考えで、逆に、「人は基本的にストライクがほぼ打てず基本的にすべてが投げた瞬間にガーターになるので、支配人がやってきて投げ方を毎回教えてくれる」というのがアウグスティヌスの考え方である。


【ではその恩寵はどうやって与えられるのか:神様が人間レベルの降りてきてくれる(=受肉)】

神様は人間レベルに降りてくることによって恩寵を与える。例えば羊をおびきよせる時には草がついた枝を見せる。少年を引き寄せる時にはクルミを見せる。ちょうどそのように神は人間を引き寄せるのである。神はラーメンに夢中になる人間に対して、ラーメンよりももっと甘いものを提示して人間を引き寄せるのである(=カウンターバランス)。神が感覚的存在化することによって降りてくるとはつまり受肉であり、それはつまりイエスの到来である。イエスがこの世界に到来することこそが受肉なのである。イエスが恩寵を振り撒いており、オートマ車のハンドルを支えてくれるのである。この行為に先立つ恩寵の助力によって初めて、人はエロースによって神へと迎えるのである。このアウグスティヌスの「カリタス」の考えを、「エロースがうまくいくようにアガペーを用いている(エロースに力点を置いた解釈)」とも取れるし、「アガペーが降りてきて初めてエロースの波にうまく乗れているにすぎない(アガペーに力点を置いた解釈)」とも取れるところが面白いのである。


【クピディタスをカリタスへと洗浄する方法:手段として愛する】

「体以上にあることを大切に思うからといって、人は自分の健康を重んじなくてもよろしいなどと言ってはならない。というのはどんなに貪欲な人で守銭奴であっても、自分のためにパンぐらいは買うものだ」(『キリスト教の教え』1, 26)。ここでは、貪欲に神を求めるとしてもそのための手段としてなら神以外のものを愛してもいいという話をしているのだ。


【隣人愛(=利他性)をアウグスティヌスはどう位置づけるか】

伝統的な隣人愛は次のような一直線の理路で説明することができる。つまり、「神からくだってきたアガペーは私の中で私を燃やし、その私の中に神のアガペーが宿り、隣人を私が愛するのではなく神が愛するというしかたで隣人愛が発動する」と整理すればよい。しかし、アウグスティヌスは主軸がエロースにあるので、隣人愛が神から直にやってくるアガペーだとは言いにくい。だからどうするか。隣人愛は、エロースによって神へと上昇する7段階目の第5段階目に位置付けられることになるのだ。つまり、神の恩寵(=神が降りてきてイエスとして受肉したことで振り撒かれたアガペー)によって正しい方向、つまり一般善(神)の方向へと向かえるようになったエロースの神へと向かう運動の第五段階に隣人愛があるのである。だから、アウグスティヌスにおいて、隣人愛は神へ上昇するエロースの手段になってしまっているのである。トマス・アクィナスはこうやってアウグスティヌスが隣人愛の位置付けにおいて難儀したことをよくわかっていたらしく、この隣人愛をアリストテレス由来の「フィリア」の概念によって基礎付けている。アウグスティヌスにおいて隣人愛(利他性)はエロースの手段だったのに、トマス・アクィナスにおいて隣人愛(利他性)はフィリアの発揮になっているのである。


アウグスティヌスにおける愛のまとめ】

アウグスティヌスにおける愛は次のようになっている。まず①「広義のカリタスとしての自己愛=神への愛」は肯定される。なぜなら、みんながそれぞれ何かしら幸福を求めていることは否定しようがない事実だからである。たしかに「不幸を求めている」と嘯くこともできるが、それはそれが楽しいからであり、それは結局幸福を求めていることになってしまう。そしてこれは結局自分が幸福になりたいのだから、神を求める愛も自己愛であることになる。次に、②「クピディタスとしての自己愛」は否定される。なぜなら、そのような愛は神という一般善へ向かう①を停止させて、ラーメンなどの個別善で滞留させてしまうことで偽りの幸福を与える自己愛、あるいは自己満足だからである。このような意味での自己愛はアウグスティヌスにおいて、高慢であるとして否定される。そして、人は弱く原罪によって自由が腐っているのでしばしば一般善を目指すことができない。だから、エロースだけで十分かというとそんなことはなく、神が受肉したイエスが振りまく恩寵の助力(アガペー)があってはじめて狭義の「カリタス」となるのである。次に、③「洗浄されたクピディタスとしての自己愛」は肯定される。これは、上昇のための手段だからである。いくら一般善を愛するべきだからとはいえ、何かを食べなければ死んでしまうからである。次に、④「隣人愛」も肯定される。但し、隣人愛は、アガペーという他力の助力によって歩み始めた道のりの第五段階として肯定されるに過ぎないし、しかも、聖書に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ(PならばQ)」と書いてあり、且つ「自己愛がある(P)」ということからの論理的帰結(Q)にすぎない。そして最後に、⑤「神による愛」は肯定される。但し、エロースの上昇の道にとって、絶対になくてはならない手段としてエロースに従属するものという位置にアガペーが置かれることになったのである。


【そもそもなぜ人は神へ向かうのか:神へ向かう目的は何か】

「神へ向かう目的は何か」という問いはアウグスティヌスからすると疑似問題である。この問いは、「目的があって神に向かおうとしている」という前提に立っている問いだから疑似問題なのである。我々は神へ近づこうなどという意図はなく、とにかく問答無用で神に近づこうとしているのである。それは、我々が事実として幸福を求めているからである。人が幸福を求めること、つまり幸福を所有する神を求めることに、理由はない。アウグスティヌスにとって問題なのは幸福追求の目的ではなく、方法なのであった。

 

 

アリストテレス(B.C.384-B.C.322)】

 

アリストテレスと自己愛】

まともな人ならば自己を愛し、自己を愛さないならばロクデナシである、というのがアリストテレスの考えであった。アガペーもエロースも垂直関係の愛であったが、フィリアは水平関係の愛であることに注意が必要である。また、アリストテレスの自己愛にも二種類あって、エゴイズムとしての自己愛のほうはアリストテレスは否定するので注意が必要である。例えば、「品位ある人はだれよりも自己を愛する人である(『ニコマコス倫理学』1168b)」とアリストテレスがいう時ここでいう自己愛はエゴイズムのことではない。


アリストテレス哲学において最高の徳である正義でさえフィリアを必要とする】

「善なるがゆえに愛する」というのがアリストテレスによれば真正なる友愛で、「快なるがゆえに愛する」とか「有用なるがゆえに愛する」というのは不完全な友愛である。なぜかというと、快と有用性は「相手がもとの同じ状態にとどまっていなければ容易に解消されうるもの」に過ぎないし、「相手に徳があるがゆえに愛する」という完全な友愛が実現すれば相手から快も有用性も得られるからである。では、アリストテレスのいう「善」とはなんだろうか。善とは幸福である。幸福とは「エウダイモニア」のことである。「エウダイモニア」とは「徳に基づく魂の活動」である。つまり、「善なるがゆえに愛する」というのは「徳なるがゆえに愛する」という意味である。だから、「完全な」友愛とは徳に基づいて互いに似ている善き人々「どうし」の友愛である。つまり徳を持った人が徳がある人のことを愛するのが完全なる友愛なのである。なお、友愛の条件に「相互性」も入っているから、「物体」を対象とする愛や「片想い」は「友愛」にはならない。人と理性を持たない動物の間には「善なるが故に愛する」という友愛は存在しないとアリストテレスはいう。


アリストテレスの人間観】

アリストテレスは徳を人間が実践しうると考えているのだから、「人間は強い」という人間観を持っていることになる。アウグスティヌスの人間観とは全然逆なのである。


【フィリアは自己愛を肯定するのか否定するのか】

「立派な人にかんして言えば、彼が友や祖国のために多くのことをなし、必要な場合には、友や祖国のために死ぬこともある、というのは真実である(『二コマコス倫理学』1169a19-20)。」とある。フィリアとは結局は「徳を持った人を愛すること」である。そうすると、立派なもののために自己を放棄するというのは肯定されることになる。また逆に、自己が立派な時、これは自己愛にもなりうる。つまり立派なもののために立派な人が死ぬ時、それは自己を否定したようでいて、実は自己を肯定したことにもなるわけである。アリストテレスは、魂には①感覚(≒植物)的部分、②意志(≒動物)的部分、③理性(≒人間)的部分の三水準があると考えている。そして、自己は非理性的部分(①+②)、理性的部分(③)にわかれることになる。そして、後者の自己を愛する自己愛は肯定され前者の自己を愛する自己愛は否定されることになるわけだ。つまり、魂の理性的部分を愛すると優れた人(=エピエイケース)になり、魂の非理性的部分を愛するとエゴイスト(=フィラウトス)となるわけだ。エピエイケースは美を求めて自死するが、フィラウトスは快を求めるがゆえに自殺する。アリストテレスによれば、エピエイケースは徳に基づいて人々や国家のために死ぬのだが、フィラウトスは、邪欲のためにろくでもない行為をたくさんなして人々から嫌われ、それで生きることから逃れようとして自殺をするのである。


【とはいえアリストテレスが一緒くたにしている感覚と感情は全然違うぞ問題】

「感覚」は身体性が重要で、外的な物体を知覚するのと同時に生じるもののことである。しかし、「感情」はそういうものではない。感情は知覚から独立している。感情は知覚と無関係である。何を見ていようが何を臭おうが、悲しいし、嬉しいのである。だから、感情は肉体的なものではなく、精神的なものである。感情こそが、人間を人間たらしめている最も高貴な部分であって(=ホモ・アシエンス説)、アリストテレスのように理性を特権視するわけにはいかないのである。


アリストテレスは異性間の間にも友愛は成立するという】

アリストテレスは夫婦の間にも友愛は成立するという。快楽を求めるだけではないような男女間の在り方が異性間にはあり、相手を人格として愛するという愛し方が異性間にもあるというのだ。


【フィリアは自分へのフィリアから始まる:チャリティービギンズアットホーム】

「自己を肯定することができて初めて、他者を肯定する論理というものが発出する」とアリストテレスはいう。実際、「これらの(友愛)の特徴のどれをとってみてもかならず善き人の自分自身にたいする関係に当てはまる。(1166a)」といい、結局は自分を愛する愛し方が友への愛に広がるのだとアリストテレスはいう。アリストテレスによれば、優れた人は自己にたいして友愛をもつ。その友愛が他人へと広がるというのだ。アリストテレスのいう優れた人間は、自分とともに時を過ごすことを望む。つまり、自己の記憶への満足と未来への期待を持っていて、後悔したり不可能な未来を妄想したりしないのである。つまり、アリストテレスは後悔を嫌うのだ。「低劣な人間は後悔に満ちている」(1166b23)とアリストテレスはいう。


【フィリアは論理的には自足できるので友人は要らないのではないか問題】

フィリアは自己へのフィリアとして始まるのであった。であれば、そもそもフィリアが外へ向かう必要などあるのだろうか。フィリアには驚くべきことに友人が不要なのではないか。実は必要とするのである。


アリストテレスにおける善とは幸福である】

アリストテレスによれば善とは何か。善とは幸福である。では、幸福とは何か。エウダイモニアである。エウが良いという意味で、ダイモンは守護霊である。つまりエウダイモニアとは守護霊によく守られている状態のことを指す。そして重要なことに、エウダイモニアとは活動である。例えば船乗りにとっての幸福は船に乗ることである。竪琴を弾く人にとっての幸福は琴を弾くことである。つまり、幸せとはその人が持っている機能(=エルゴン)を最大限まで十全に発揮することである。つまり、アリストテレスは「金があること」や「名誉があること」や「快楽があること」を幸福とはしなかった。なぜならそれらが「静的だから」である。アリストテレスによれば幸福とは「エネルゲイア(=発揮)」である。幸福は動的なのである。幸福とは活動であるというのがアリストテレスの考えであった。目的に達しているのが幸福なのではなく、その目的へと向かう動的な過程そのものが幸福であるとアリストテレスはいうわけである。では、「船乗り」にとってではなく、「人間一般」にとっての幸福はなんだろうか。「人間だけが持っている能力の発揮」である。「人間だけが持っている能力」とはアリストテレスによれば「理性」であるということになる(←ここでアリストテレスは「それは感情である」とは言わなかった)。では、理性を最大限まで十全に発揮する場面とは一体どこだろうか。数学の問題を解いているときだけではない。中庸がどこだかを判断するとき(=フロネーシスするとき)がそうなのである。


【なぜ「有徳」であることは「理性的であること」になるのか】

「徳」とは善であり、「徳」とは「中庸に基づいた習性」である。そして、「何が中庸であるか」を判断するフロネーシス(=知性のひとつのあり方)を発動させていて初めて有徳になる。つまり、有徳であるためには理性の発揮・発動が必要なのである。要するに、エウダイモニアとは、「エルゴンの発揮」であり、人間にとって「エルゴンを発揮する」ことが、「徳がある」ということになるのだ。だから、徳を発揮することで人は幸福になる。「無謀」と「臆病」とを避けてその中間である勇気の徳を発揮することは、理性的な活動となるし、人は幸福となるというわけだ。つまり、以上述べてきた諸概念の関係をまとめると、「善」とは「幸福」であり、「幸福」とは「エルゴンの発揮活動」のことであり、人間における「エルゴンの発揮活動」とは「理性の発揮」のことであり、「理性の発揮」とは「フロネーシスによって判断された中庸に基づく習性の発揮」がその代表であり、それは「徳の発揮」である。それゆえ「幸福」とは「徳に基づく活動」ということになる。では、これで「なぜ友達が必要なのか」という問いに対して答えたことになっているだろうか。なっていない。幸福な人は有徳であるのは良いとして、なぜそいつが友達を持たなくてはならないのか。


【幸福な人は友達を必要とするのか問題】

アリストテレスによれば、徳のある人は自己の理性的部分を愛し、自己の非理性的部分を嫌うのであった。すると、このような自分に対する友愛があれば、友達なんか不要ではないのか。まず、アリストテレスによれば、①相手がいることによって初めて「相手のために善いことを願う」という徳が実行しやすくなる。そして重要なのは次のことである。自分に対してフィリアをもつ人でも友が必要な理由は、人は②他者というものがないことには、知性的活動(=人間の徳に基づく行為)ができないからである。つまり、人が立派であるためには他人が必要だ、とアリストテレスは考えていたのである。ある意味でこれは日本の「恥」の文化にも似ていないだろうか。


【なぜ有徳であり幸福であるために他人が必要なのか:私と他人の善き部分は同じだから】

「至福な人は、品位ある自分に固有の行為を「観る」ことを意図するが、友である善き人の行為というのは、品位ある性質のものである」とアリストテレスは述べている。つまり、立派な人は自分の立派さを見たくなるのだが、そのような自分の立派さは、むしろ自分の周りにいる立派な人を見た方が見やすいのである。では、なぜ自分の周りにいる立派な人と、自分の立派さは「同じだ」と言えるのか。それは、知性(=ヌース)が誰にでも一般的に備わっているものだからである。つまり、私の知性を愛することは、友の知性を愛することと必ずイコールになるのである。これはつまり、「ポリスの構成員全員を、あたかも自分であるかのように愛する」ということになる。実際、「友とはもう一人の自分である」(1170b8)とアリストテレスは述べている。アリストテレスにとって「知性(≒理性)」とは「かすがい」なのである。


【私が知性的でないならばそれは真の私ではないし、知性的である真の私は「われわれ」でもある】

「「私」というものは、「他人」がいなければ真に私とはいえない。」とアリストテレスはいう。まさしく、「小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善(ふぜん)をなす」なのである。「人は周りに他者がいてはじめて、今までできなかったことができるようになってきて、そちらこそ真の自分なのだ」というのがアリストテレスは考えた。


アリストテレスの逡巡:友は論理的には要らないが、いた方が明らかに良くなる】

化粧は自分ひとりでできないことはない。しかし、よりよい化粧をするには、化粧がうまい人と定期的にあったり周りの人と関わっていた方が持続的に化粧がうまく行き続けるだろう。「正しい人は、自分が正しい行為をすべき相手や、その行為を一緒にしてくれる仲間を必要とする[…]だが、知恵ある人は自分自身だけでも観想することができるのであって、彼に知恵があればあるほど、いっそうそうなのである。もっとも、知恵ある人にもおそらく、仕事仲間がいたほうがよいが、しかしそれにもかかわらず、彼はもっとも自足的なのである(1177a30)。」と述べるアリストテレスは明らかに逡巡している。迷っている。「立派な人は、ひとりでも確かに立派で、ひとりだけでも自分自身の善き部分を観想することができてしまうのだが、周りに人がいなくなるとだんだん不善をなすようになってしまうのである」、とアリストテレスはここで考えているのである。例えば、コロナ禍になるとだんだん人間は人に会わなくなる。それでも大丈夫なのである。むしろ気持ちいいのである。非理性的(=感情的)な部分で滞留していてもそれはそれで楽しいのである。しかしだんだんロクデモナイことをするようになること、これは間違いないのではないか。会いたくないけれどもたまには会わねば自分がダメになってしまうという洞察がアリストテレスにはあったのだ。「プライベートな自分だけでひたすらうずくまるというのは快適だが、やはり不幸だ」とアリストテレスは考えたことになる。実際、アリストテレスは、「自分だけで持続的に活動することは容易ではなく、他の人々とともに、そして他者との関係において活動するほうがたやすい(1170a6)」と述べている。論文はたしかにひとりで書くものだが、しかし学会にたまには行くことで自分を律することができて自分も嬉しい、というキャラクターとパーソナリティの分裂が人間にはあるのである。キャラクターが分厚くある人は、学会など嫌であるに決まっている(→キャラクターとは「刻印」であり、それは生まれながらの「先天的刻印」であると同時に生まれてからの習慣・趣味・欲望によっても形成されていく「後天的刻印」でもある。これはいわゆる「プライベートな自己」であり、これがないと自己肯定感を維持するのは難しい)。しかし、そのような人にも「他人から認められる自分でありたい」というパーソナリティ、つまりふたつめの自己、社会的自己が存在しており、そのようなふたつめの自己が、「学会に行きたい!学会に行きたい!」と叫ぶのである。このふたつめの自己の方こそが人間の真の姿だとアリストテレスは考えたことを指して、「人間とはポリス的動物である(=人間は社会的存在である)」と考えたのである。アリストテレス以外の倫理学者には、キャラクターの方をむしろ重視する人もいたが、パーソナリティの方を重視したのがアリストテレスだったのである。アリストテレスによれば、「引きこもりの病理とはフィリアの病理である」ということになる。


【「人間はポリス的動物である」というアリストテレスの有名な発言は「牛や羊やシマウマのように人間も群れる」という意味では全くない】

「事実、人間の場合には、言葉や思考を共有する(κοινωνειν)という意味で、ともに生きる、ということが言われているように思われるのであり、その共生の仕方は、牛たちが同じ牧草地で草をはむのとは、わけが違うのである(1170b12-13)」とアリストテレスはいう。「真の私」は「われわれ」の意識によってはじめて成立するということが言いたいのが、「人間は社会的動物である」という言葉の意味である(実際、「プライバシー」の語源は「欠如」であり、動詞の「ディプライブdeprive」と同根である。人間であるために必要な社会性を奪われ、欠如の状態にあることを「プライベート」というわけだ)。他者の存在がロゴスを鎹として自我の存在そのものに根源的に食い込んでいると言いたいのだ。「我々が存在するとは考えること」(1170a33)というのはこういう意味で理解した方がよい。


【逆にキャラクターという意味での自己だけを解放していればいいのだろうか】

確かに、パーソナリティを強調する哲学は息苦しいだろう。しかし、キャラクターだけを重視して、あるがままで生きろ、裸で生きろという哲学もどうなんだろう。実はこれも同様に息苦しい。キャラクターの解放を唱える哲学は結局、他者との交流を避けること、つまり「引きこもり」の肯定あるいは推奨にしかならず、これは結局、「仮面を被らせてもらえる場所を奪われている」という気持ちにずっとなるだろう。「才能に恵まれている人々がずっと深夜バイトをしている」という状況、つまり才能を発露させる場を全然もらえないという社会も、ロクなものではないはずだ。キャラクターの解放を強調しすぎる社会も、パーソナリティを育てて活躍することを推奨する社会もどちらも同程度に息苦しいのである。


【パーソナリティ主義は危険か】

ただ、アリストテレスのパーソナリティ主義では結局、「ポリスのために命を捨てる」ということすら「徳」だとみなされうるので、現代においては若干危険にも見える。マイノリティの圧殺に向かいかねないように見えるからだ。しかし、「アリストテレスは目的として共同体のルールを守ろうとしている」というわけではない。やはり目的は幸福(=エウダイモニア)になることであって、その手段が徳の実践なのだ。そして、その徳の実践とは、「他者が〇〇だから尊重する」ということではなく、「□□くんが人格だから□□くんとして尊重する」ということなので、マイノリティの圧殺に直結はしないとも言える。


【知性的部分に定位して初めて真の「私」になるというアリストテレスの考え:ありのままで良いわけがない(=パーソナリティ主義)】

私を規定するのはキャラクターとパーソナリティである。パーソナリティとは「仮面」である。「自分のダメなところを隠すことではじめて本当の自分(=人格者)になる」というのがアリストテレス的な考えである。


アリストテレスにおける隣人はどこからどこまでか】

アリストテレスによれば友愛の及ぶ範囲は、高貴な人々の作る共同体(=ポリス)である。しかし、イエスが隣人の定義について語ったところを見ると、イエスにとって隣人とはどんなろくでなしをも含めた全範囲の人々である。これは「善きサマリア人の例え」を見ればわかる。


アリストテレスの利他性】

アリストテレスによれば「友とはもう一人の自分である」(1170b80)から、他者を肯定/否定することと自己を肯定/否定することは同じということになる。だから、自己を愛(=フィリア)するならば他者を愛さねばならない。つまりフィリアとは、自尊心と利他性の共生原理なのだ。知性をもつ人は中庸を保ち徳を実践する。つまり、知性をもつ人は人格(=パーソナリティ)的な活動をする。だから知性を持つ人は徳を尊重するので、徳を持った他者をも人格として尊重するのだ。


アリストテレスは利他的だが誰でもほめるわけではない:エピエイケイア】

「相手を喜ばせるためにすべてを誉め、何ごとにも逆らわない人、相手に苦痛を与えてはならぬと考えている人は、調子のよい人である。反対に、何ごとにも逆らい、相手に苦痛を与えていささかも意に介さない人は、気難しい人である。この両者とも非難さるべきであり、これらの中間の生き方が賞賛されるべきことは明らかであるが、それは、受け容れるべきことを受け入れ、怒るべきときに怒るという生き方である。この生き方には特別な名前がないが、ほとんど友愛といってもよいように思う。なぜなら、このように生きる人がエピエイケイアを体現した友なのだから(1126b12-21)。」とアリストテレスは述べる。タバコをポイ捨てした友達に不快感を与えないようにするのは「調子のり」であってダメである。やはりそこでのフィリアの発揮とは怒ることなのである。逆に、オラオラ系で誰に対しても怒り、褒めるべきところで褒めないのはフィリアの発揮とは言えない。フィリアの発揮とは友の徳のない行動には怒り、友の有徳な行動には褒める。これがエピエイケイア(= アリストテレス研究者の岩田靖夫によれば、伝統的な概念だと「仁」か「慈しみ」が近い)の体現者だということになる。「エピエイケイア」は、「法的正義よりもすぐれた正義」であり、「正義と異なるたぐいのものではないが、正義よりもより善いもの」(1137b)であるという。また、「人間は、それぞれがもっともすぐれた意味では知性であり、エピエイケースはこの知性をもっとも尊重する人である」(1169a2-3)という。「仁」は「ひとがふたりいる」と書く。そして「仁」も「愛」であり、そのような愛が厳しさと優しさを併せ持ったフィリアとよく似ているのであり、このフィリアに則って生きることをエピエイケイアというのだ。このフィリア(またはエピエイケイア)は硬直しがちな正義の欠点を補って完成させるものだという。「ちょうど「レスボス建築」に用いられる鉛の定規(=相手の石の材質に合わせて少しだけ形が変わるやわらかい定規)がそうであるように」(1137b27-32)フィリア(≒仁)は正義や律法の杓子定規であるような欠点を補完するのである。では、律法を完成させるものであるという点でフィリアとアガペーは同一視してもいいかというと、それはダメである。なぜなら、フィリアは正義が前提でその欠点を補完するものであるが、アガペーはそもそも正義を前提せずに敵を愛する「愛敵思想」というところまで到達するからである。つまり、フィリアのうちには「愛敵思想」がないのである。


【エピエイケイアに基づいて生きる人は謙遜するのかどうか問題】

実は、仮面をかぶって、真の自己となって生きるエピエイケース(≒人格者≒仁者)は、堂々としている。しかし、腰は低い。エピエイケースは決して自己否定はしないが、しかし、徳に基づいて我欲は抑制する。フィリアに基づいて生きる人は、へこへこはしないが、「謙遜をしているように見える」とも言えるだろう。なぜなら徳を重視するからである。だから、報酬を人より多めに取ってしまったりはしないし、自分の快楽を求めて不正行為をしたりは絶対にしないし、無礼にもならないのである。エピエイケースは、堂々としているし、自信があるけれども、だからといって無礼なことはしないのである。アリストテレスは、法を作ったそもそもの意図という意味での「実質」と、その実施のために必要な「形式」を、どちらも最重要なものとして重視した。だから、形式を貫徹する法(形式主義)と「(その場その場に応じて優しくも厳しくもするような)適正さ」を勘案するフィリア(実質主義)が、どちらもアリストテレス倫理学の中には生きているのである。それが「正義とフィリアの二本立ての仕立て」なのだ。


アリストテレス倫理学のまとめ】

そもそも大前提としてフィリアによる自己愛とは「自己の理性的部分を愛すること」である。まず、①フィリアは、自己の理性的部分(知性)への愛であるという意味で「自己愛」を肯定する。また同時に、②フィリアは、自己の非理性的部分(感覚・情念)への愛ではないという意味で「自己愛」を否定する。そして、何より重要なことに③真正なる「自己」とは知性の活動(思考)のことであり、そしてその「思考」は他者の存在によってはじめて成立する(=他人向けの仮面をかぶって、他人を意識してはじめて本当の私になれる=パーソナリティ主義= 「我々が存在するとは考えること」(1170a33)という考え方)。そして最後に、④フィリアは、各人に共通の理性的部分への愛であるから、自己と他者の人格の尊重を論理的にもたらし(その意味で「自己愛」の肯定)、しかし同時に、自己の我欲の部分を抑制する(その意味で「自己愛」の否定)ことにもなる。

 

トマス・アクィナス(1225-1274)】


アウグスティヌスプラトンの継承者だが、トマス・アクィナスアリストテレスの継承者として抑えるとよい】

12世紀にアリストテレスルネサンスが起きて、それまでプラトンが主流であったキリスト教哲学にアリストテレスの思想が一気に流入する。こうして13世紀人であったアクィナスはアリストテレス思想を自身の神学に取り入れ、中世の神学思想をひとりで総合し、大成してしまったのである。トマス・アクィナスは、①エロース(≒(アクィナスの言い方では)アモール)、②アガペー、③カリタス、④フィリア(≒(アクィナスの言い方では)アミキティア)を全て、無理のない仕方で統合してしまったのである。特に、(アリストテレスはイエスよりも前の人物であるのに)、アリストテレス由来のフィリア(=神様とは関係なかったはずのフィリア概念)という概念をキリスト教の中に溶かし込んだのがトマス・アクィナスの功績である。


【アクィナスはどうやって4種類の愛を統合したのか】

①アモール(≒エロース)だけでは不十分であって、②アガペーがどうしても必要だという結論に至る点では、アウグスティヌスとアクィナスはよく似ている。だから、「①エロースだけで神へと上昇することはできない。だから、神の②アガペーが発揮され、受肉によって下降してきてくれた神が、「愛」を注入してくださることになる。その時に神が注入してくれるアモールとは別の愛(=②アガペー)の内容が③カリタスなのであり、その③カリタスの内容が、④(アクィナスの言葉では「アミキティア」と呼ばれているところの)フィリアなのである(!)、そしてその④フィリアこそが隣人愛を基礎付けるのだ」という仕方で、アクィナスは、上記の4種類の愛を統合したのである。実際、アクィナスは、「交わり・分かち合いの基礎のうえに成立した愛とはカリタスである。(ST II-2, q. 23, a. 1)」と述べ、つまりは「フィリアとはカリタスのことである」と述べている。神は友愛(=フィリア)としての愛を注入してくださるのだ。


【自己愛をどうアガペーと折り合わせるか】

そもそもアガペー概念には元々「自分を愛しなさい」という教えに発展しうる要素は全くない。それなのにアリストテレスは「自分(の理性的部分、他人との共通部分、フロネーシスが発揮されて成り立つ有徳なる部分)を愛しなさい」と高らかに言う。だからアクィナスによる調停が必要だったのである。


【トマスはディオニュシオスからもアイデアを得ている】

アウグスティヌスがかつて処理に苦しんでいた「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(マタイ19:19)という金言は、アリストテレスの「自分に対するフィリアを典型にして他人に対するフィリアが育つ(= 隣人との友愛関係は人間の自分自身にたいする関係から発出する)」という考え方とよく似ているのである。こうした類似を足がかりにして、アクィナスはどんどんアリストテレス哲学をキリスト教にとりこんでいった。その時の理論装置として、トマス・アクィナスは新プラトン主義のディオニュシオスからもアイデアを得ていた。


アリストテレスの人間観はキリスト教とそもそも相性がわるい:トマス・アクィナスにおけるアリストテレスが提唱する「理性による徳」でどこまで行けるか問題】

アリストテレスの考え方は、そもそも人間観として、「善なんて一個も出来やしない」というキリスト教の人間観とは真逆である。だから、そのような人間観は人間としての倫理に範囲を絞るならばキリスト教の中に受け入れ可能なのであるが、「「救い」にとっては役に立たない」というふうに考えねばならなかった。そこで具体的には人間観をどう処理したのか。「人間的な世界の中の人間的秩序においては人間は善(=有徳なこと)ができる(=人間には「万引き」をしないことができる)。しかし、救い(=神の国に入ること)のためには人間は善ができない(=万引きをしなかったからといって神の国に入れるわけではない)」という人間観を打ち立てたのである。つまりトマスが作った人間観は、「救いにおいては弱く、人間世界においては強い人間観」である。トマスは、これについて「理性はもろもろの人間的徳の場合とは違って、愛にとっての規則であるのではない。むしろ愛は神の知恵によって規制されているのであり、それは『エペソ人への手紙』第三章「人知をはるかに超えたキリストの愛」によると、人間理性の規則を超え出ているのである(ST II-II, q. 24, a. 1)」と述べる。つまり、理性による徳では出来ないことを神からの愛が担当するのである。もちろん、このあとでトマスは「そもそも友愛が行えるのは神からの愛の注入があるからだ」という仕方で、フィリアをもう一度神様と関連させるのだが、しかし「自己と他者の理性的部分を愛するフィリアによって人は功績を積みそれで救われるのだ」と言う功績思想はいったん完全に退けるのである。


トマス・アクィナスの「アモール」という言葉をどう理解したらいいのか】

そもそも「アモール」はラテン語である。ということはローマの言葉であり、トマス・アクィナスローマ教皇の下で仕事をした人だから当たり前である。アモールはカリタスとどう違うかと言うと、アモールはカリタスを含むのである。でもカリタスがそもそも色々なものを含んでいた。カリタスはそもそも神を愛し神が所有する幸福を目指す運動一般を指していたはずだ。だから、「アモール」という言葉は、「人間が個別善を愛する」とか、「人間が被造物を愛する」とか、「人間が神を愛する」とかいう場合だけではなく、さらに広く、「動物が牧草を愛する」とか「物質が地面を愛する」というのも実は「アモール」になるのである(=①物質はまず地面に呼びかけられて、②物体は地面に接近し、③物体は地面という対象を享受する)。ただし、ここで言われる「アモール」の全ての根本にあるのはプラトンの「エロース(欠如を補うために神を求める愛)」であるとしてざっくり理解しておいた方がいい。人間の意志は、実は全て、(神から神の自己愛として流出して)神へ向かって戻ろうと上昇しとうとする愛(=アモール)のことなのである。人の魂は神のところで憩うまで落ち着くことがなく、何をしようとそれはひたすら幸福を求めているのであり、幸福を求めているとはつまり神を求めているのである。


【アモールの三要素】

まずアモールが発動する時、①対象からの呼びかけがある(=相手が「おいしそうだな」と思う)。そのあと、②対象への接近(=ラーメン屋に入る)、③対象の享受(=食べてうまいと思う)。これが動物でも物質でもそうなのだというのがアクィナスの思想である。このようなアモール概念の基礎にあるのは、アリストテレスの世界観なのである。「物それ自体が目的に向かって、つまり一定の方向に向かって動いている」というアリストテレスの世界観は、この後でデカルトによって否定されてしまう。デカルトは「この世界は機械的に動いているだけだ」と考えたのである。デカルトが嫌ったのは、物体とか動物とかの中に「愛の原理」が潜んでいるというのは胡散臭いと言ったのである。世界は機械的に物体が反応しているだけなんだと考えたのである。物体も動物も機械であって、そこに愛の原理が潜んでいるわけではないとデカルトは考えた。例えば、「ものを落とす」と地面に向かうが、これはアモールで説明すると「①物質はまず地面に呼びかけられて、②物体は地面に接近し、③物体は地面という対象を享受する」ということになる。しかしこれはデカルトからすると胡散臭いのである。しかし、昆虫はどうか。「走光性」がある。「①光に呼びかけられ、②光に近づき、③落ち着く(=光ではなく火の光であれば昆虫は③において焼けて死ぬのだが)」と考えるとわかりやすい。要するに、トマス・アクィナスは、「この世界の運動の原理はアモールなのだ」と考えていたのである。これは、端的に言えば「生命に満ちた世界観」である。デカルトの「機械的な世界観」の前は、アリストテレスの「生命的な世界観」だったのである。そして、トマス・アクィナスは、アリストテレスの「生命的な世界観」に依拠していた。


【アモールは三段階で発展する】

①第一段階:自然本性的欲求(←受動的でしかなく認識もしない。典型は物体。火は空中を愛し、物体は地面を愛するが、そこに認識はない。ただ働きかけれて動くだけ。)、②第二段階:感覚的欲求(←受動的でしかないが、認識はする。しかしまだ自由はない。典型は動物。ザリガニはチーカマを認識し、チーカマを愛するが、しかし別のチーカマと比較したりスルメと比較したり、自由な選択ができたりはしない。そもそもチーカマに手を出さないという選択もできない。)、③第三段階:知性的欲求(←受動的なだけでなく能動的で認識だけでなく選択もする。自由があるが、しかしアウグスティヌス以来の伝統的理由で、その自由は腐敗している。恩寵がなければまともな選択はできないのである。)という順序でアモールは発展する。自然本性的欲求により、外部(=神)から目的へと方向づけられる自然物と動物に対して、人間は自由意志によって自ら目的を設定して動くのである。しかし、この理論の細部に注目すると、もっと面白いことが読み取れる。「愛にはやはり動機が必要だ」ということである。これが面白い。この理論は、どこまでアモールが発展したとしても、「やはり相手からまず呼びかけられないことには愛せない」ということが言われていると解釈してもよいのである。実際、好きになる努力をいくらやっても好きになれないというこのなのである。なぜなら、「嫌いなものを、好きになろうとして「好きになった」と思えた時に、嫌いだった記憶と好きになろうとした記憶がその愛を妨げるから」である。例えば、逆に好きなものを嫌いになろうとした時を考えてみよう。「こんなダサいもの聞くな」と音楽の師匠が言うが、しかしどうしてもその音楽がかっこいいと思ってしまう。そんな時「好きなものを嫌いになろう」とする。しかし、結局、気になってしょうがなくなるのだ。その場合、結局その対象をどんどん好きになるかもしれない。


【猫は自由なのか問題】

「猫は自由気ままに生きている」とよくいわれるが、トマスの考えでは「猫は不自由である」ということになる。なぜなら、猫は環境の奴隷であるからである。そして、環境と感覚の強い相互連携を考えると、結局は「猫は感覚の奴隷である」ということになる。「人間こそが奴隷だと思っていた」と言うだろうが、しかし人間は自由で猫は不自由だというのが西洋的な考え方なのである。


【トマスにおいても自由は腐っているので神の啓示が必要:「自然の光」から「恩寵の光」へ】

トマスによっても自由は腐っている。確かにラーメンにするかソーメンにするか冷麺にするかうどんにするか、そういった個別善について人間は自由に選べる。しかし、人間はそれらの個別善の背後にある神へと向かうことをほぼ選べない。人は人にのみある理性によって、人間的善は何かを理解できるが、しかし、神の国に入るためにどうしたらいいかについては、理性では完全に盲目なのである。だから、アモール(=自然的愛≒エロース)では全然ダメで、不十分なのである。そこで、神様が信仰を神の啓示によって注入してくださるのである。「救いに関して何が善なのか」は人間の理性によってではなく啓示によって認識せねばならないというのがトマスの言い分である。実際にトマスは、「人間救済のためには、人間理性をもって探求されるところの哲学的諸学問のほかに、なお神の啓示にもとづくある種の教えの存することが必要であった。そのゆえは第一に、人間は第一に神をある自己のある目的として、これにむかって秩序付けられているものなのであるが、この目的たるや、理性の把握を超えている。[…]だが、人間は自己の意図や行為を目的に向かって、みずから秩序付けなくてはならないのであるから、目的はあらかじめ知られていることを要する。かくて、人間理性を超えたある種のものごとが、神の啓示をつうじて人間に知らされるということが、人間にとってその救済のために必要であった。(ST. I, q. 1. a. 1 c)」と述べている。だから結局、「自然の光から恩寵の光へ」というスローガンはどういう意味かというと、「アリストテレスが人間の中に存在しているとした(適切な判断力としての)理性の発揮では(たしかに有徳になることができ人間世界の中ではある程度幸福になれるとしても、やはり一番重要な神の国へと上昇して救われたいという)「アモール(エロース)」がうまくいかず、神へと上昇していくアモール(エロース)のハシゴが、途中で途切れてしまう。だから、人間理性を超えた啓示によって、(自由が腐っていることから盲目になっている)アモールの向かう先を、個別善(=ラーメン)から一般善(=ラーメンよりも遥かに強力な救いの力を持つ神)へと向けてもらわねばならない」という意味なのである。「自由が腐っているから人間のアモール(=エロース)では神へ向かうには不十分である。だから、別の愛を注入してもらわねばならない。それがカリタスである。しかし、そのカリタスの内容とは実はフィリアなのである」というのがトマス・アクィナスが用意した思想の筋書きであった。


【では「希望」という対神徳は不完全なのか問題:近代自己愛論争】

「希望」とは「私が幸せになりたい」ということである。そして、「私が幸せになりたい」というのは「私が利益を求めている」ということになる。「利益のために神を愛する」というのはアクィナスにとっては「不完全な愛」ということになる。しかし、対神徳には、「信仰、希望、愛」がある(ちなみに、プラトン以来の「知恵・勇気・節制・正義」の加えてキリスト教では7つの徳を重視してきた)。しかし、「希望」とは「幸せになりたい」と願うことであるから、これは「アモール(=エロース)」に属する。だから、トマス・アクィナスからすると、「希望」は不完全ということになるのだ。希望はエロースだから、「奪う愛」である。欠如を補って埋め合わせようとするからである。そして、「奪う愛」というのは「自己愛」である。だから、希望は自己愛なのである。この自己愛(=自分が幸せになりたい)をどう評価するかはトマスにとって問題であった。これを放置するわけにはいかず、トマスは「不完全」と評価したわけだ。「希望」には自己愛的動機があるから不完全だとトマスは喝破したのである。神から与えられる愛は完全だが、人間が漠然と傾向性として神を求めようと言う愛は希望であり、それはアモールなので不完全だとトマスはいう。そこで、アクィナスは希望を完全に捨て去れと主張することはしなかったまでも、「希望(≒アモール≒エロース)はカリタス(≒アガペー)にたどり着くまでの補助輪、つまりはいずれ捨て去られるべきハシゴである」として消極的に体系内に位置付けるにとどまったのである。これが「近代自己愛論争」の発端となった。マルブランシュはアウグスティヌス的に、幸せを求める希望は事実だから肯定せざるを得ないと考える。しかし、キエティスト(静寂主義者)のひとりであったフェヌロンは、トマス・アクィナス的に、幸せを求める希望自体を抑えないといけないと考えた。フェヌロンは「希望を求めてはいけない」と主張する。つまり、フェヌロンの考えは「自分は地獄に落ちたって構わない」と考える原始キリスト教におけるパウロの考えによく似てくるのである。しかし、マルブランシュは「自分はやっぱり幸せになりたい」というこの打算的動機だけは神に対する愛の中から捨て去りようがないので人の存在の深層と結合したものとして、つまりいくら理論上否定しようとしても否定できない事実として肯定しましょうと考えた。これはアウグスティヌス的な発想である。教皇庁は結局、議論の末に、キエティスム(=静寂主義)の方を異端としたのである。マルブランシュの次のような主張が象徴的である。「もし我々を快くさせずに、神が善であることを味わわずに、あるいはすくなくとも我々がいつか快とともに──すなわち我々の魂の内に神の実体が生み出すであろう活き活きとした甘美なる知覚とともに──神を所有するであろうという確たる希望なしに神を愛するのだと主張するとすれば、我々は不可能を主張している(マルブランシュ『神愛論』)」。これがマルブランシュのキエティスム批判であった。


トマス・アクィナスのカリタス論:カリタスがアモールの限界を補うのだ】

神様が受肉によって人間界に下降し、「神を愛するための愛(=人間の腐った自由を洗浄して神へ向かうことができる良質な愛)」を注入してくださった。こうして我々は自然的で人間的な徳では行き着けない幸福に行き着くことができるようになった(=愛すべきものを愛しそれに向かうことができるようになった)のである。聖霊(=ホーリースピリット)は神の第三格であり、神の愛を司どる側面である。この聖霊(=自然的ではないもの=聖霊とは神様が降ってきて土の器でしかない人間の心に神様を愛する心自体を植え付けてくださるのだが、そのように植え付ける者のこと)がカリタスを我々に注入して下さるのである。実際、聖書にも「神の愛は、我々に与えられた聖霊によって、我々の心に注がれている」(『ローマ人への手紙』5:5)とあるのをトマス・アクィナスは意識している。


【カリタスはなんとフィリアである】

カリタスとは、神が人間を愛してくれたということに基づいて、人間が神を愛することができるようにしたものである。だから、カリタスは英語で表現すれば「Love of God」であるが、これを素直にとれば「神への愛」である。しかし、そのような「「神を愛する心(=カリタス)」自体が神からの愛(=アガペー)によって授けられている」ということがポイントであった。そしてトマスは、「カリタスは神にたいする人間の一種の友愛である」(ST, II-2, q. 23, a. 1 et a. 5)と述べている。そもそも原始キリスト教によれば、神が人に「神へ向かう愛」を与えてくださるのだが、この愛は人の中に充満し、隣人愛に「結合する(=そのまま結びつく)」のであった。問題なのはアウグスティヌスの教えである。アウグスティヌスは「神へ向かう垂直的上昇の第5段階」としてなぜか水平的な隣人愛をも位置付ける(=苦行としての隣人愛という位置付けになってしまっている)が、トマス・アクィナスはそうではなく、「神から授けられた愛そのものが、実はフィリアなのである」としたのである。だから、「カリタスは神にたいする人間の一種の友愛である」(ST, II-2, q. 23, a. 1 et a. 5)のだから、人の愛は神へも友愛として向かう(=だからアリストテレスの「フィリア」の定義より「希望」は利益という打算的動機があるゆえにフィリアとは言えなくなっていたし、しかもトマスによればカリタスはフィリアなのだからカリタスとも言えなくなっていた)のだし、隣人へも即座に「友愛」として向かうのである。トマスの隣人愛はエロース修行の手段ではもはやなく神から授けられたことで可能にしてもらった愛(=カリタス)そのものなのである。というのも、カリタスはフィリアだからである。だから神からアガペーを受けた人は、神と隣人をどちらも即座に「友」として愛するのである。そういうわけで、トマス・アクィナスにおいて、神から人に贈られてきたアガペーの内容とは「狭義のカリタス(=神へ向かえるようになった愛)」であり「狭義のカリタス」の内容とはフィリアなのである。


【人間と動物の差は何か】

自己認識課題をクリアできる動物はいるので自我を持つということでは連続性しか言えない。では、動物と人間の決定的断絶はどこからくるか。ふたつのファクターからくる。①時間意識と②言語能力である。チンパンジーにも微弱な時間意識はあるが、言語能力は圧倒的に人間が優れている。人間の言語能力には二重分節構造があるため、無限の語彙が作れるが、チンパンジーの語彙は限られている。50音があるだけでも、50の50乗の語彙が作れるのだ。


【ケーラーのチンパンジー

チンパンジーは箱を「イス」として使うことも、箱を「踏み台」として使うこともできる。しかし、チンパンジーは、友達のチンパンジーが既に箱を「イス」として使っている場合、その箱を「踏み台」としてはもう使えなくなるという研究がある。つまり、チンパンジーは世界の中に箱があらかじめ「イス」として現れた場合、それを新たに「踏み台」としては使えなくなってしまうのだ。つまりチンパンジーには「みなしの自由」がなくて、チンパンジーの世界は、ただ一方向にのみ貼り付けられ終わってしまうのだ。チンパンジーの世界の中のものは、一度ある方向に方向づけられると、それをキャンセルできないのである。イヌやネコにとっては世界が確定していて、不安定ではないのである(=動物の世界は一義的である)。しかし、人間の世界は不安定で、人間は不安なのだ(=人間の世界は多義的である)。


【神的善は共通善として社会性を有する:「教会」の成立と存在の根拠】

前述の通りトマス・アクィナスアリストテレスのフィリア概念によって「隣人愛」に非常に盤石な理論的基礎を与えた。だから、これは神の愛が所謂「チャリティー」として社会性を帯びたと言ってもよく、これが「教会」の存在根拠となった。


トマス・アクィナス倫理学のまとめ】

①自己の理性的部分を愛すべきという点で自己愛は肯定される(←アリストテレスからの影響)。②自己の感覚的部分を愛すべきでないという点で自己愛は否定される(←アリストテレスからの影響)。③自己犠牲の徳への愛は、自己愛と隣人愛を両立させる(←アリストテレスは自他の区別を無意味にするから)。④一般的にアモールとしての愛は不完全な愛すなわち自己愛として否定される。⑤「希望」としてのアモールはカリタスに引き継がれてこそ完全な愛(非自己愛=清らかな心=快楽や利益のゆえにではなく相手のために善なることを願うがゆえに愛する心=フィリア)となる。⑥カリタスはその中身が実は友愛(フィリア)であることによって、神への愛(=狭義のカリタス)と隣人愛の根拠となる。
 

 

 


スピノザ(1632-1677)】


スピノザ:冷たい外見の中に温和な自己肯定感の思想を秘めた思想家】

トマス・アクィナスまでの倫理学は超越神なしで成り立つものとは到底言えないが、スピノザ倫理学は超越的な神様をとりあえず前提しなくても成り立つのである。近代哲学の中で現代まで一番強い影響を与えている哲学者はスピノザである。三角形の内角の和は公理→定理へと推論していけば誰がやっても180度であるのと全く同様に、一切のものごとは必然的に生ずるとスピノザはいう。スピノザの思想には偶然が入り込む余地が一切ない。それなのに、スピノザのこの仮借なき必然の思想は、実は結構優しいのである。


スピノザの世界観:バウムクーヘンの比喩】

「この世界に「本当にある物」はひとつだけである。それは、神である。そしてその神は人格神ではない。人格神ではないから、人を憐れんだり愛したりするような神様ではない。池に小石を落とすと波紋ができる。一つ目の波の輪っかはふたつ目の波の輪っかの原因である。ふたつ目の波の輪っかは一つ目の波の輪っかの結果であるが、しかし同時に、ふたつ目の波の輪っかは三つ目の波の輪っかの原因でもある。このような具合に神(=自然)は因果系列を作りながら因果的に作用をしているのである。そしてそのような輪っかを真上から見るのではなくピザのように切り分けて、断面図で見る。つまり、この池を複数のピースに切り分けていく。そうすると、精神のピースや物体のピースなどができ、そこにできた波紋は両隣のピースと完全に同期している。ピース(=神の「属性」)どうしに影響関係はないのだが、しかし、同じ因果系列の一断面を切り出したものという意味では神の作用という同じものを意味していることになる。そして、これらの因果系列の全体をスピノザは神と呼んでいるのである。心とからだの関係は直接の因果関係はないが並行しているのである。」というのがスピノザの世界観である。


デカルト心身二元論と心身平行論は何が違うのか】

心身二元論とは人間の心と身体は別ですとデカルトはいう。これは比較的納得されやすい。しかし、ではなぜ両者は相互作用するのだろうか。ところで、ペンにどれほど意志を発揮してもペンは動かない。それはなぜかといえば、「精神によって物体は動かせない」からである。もしこれができるならば念力(サイコキネシス)をそのひとは持っていることになる。しかし、念力を持っているのではないか。なぜなら、我々は、精神によって腕を持ち上げると主張するからである。というのも、腕は、物体である。電子顕微鏡で調べれば腕が物体からできていることは誰にでもわかるだろう。だとすれば、「意志しても物体は動かない」のだから、意志によって腕は持ち上がらないはずではないのか。しかし、もち上がる。これはサイコキネシスを持って、それを刻々と使っているということになるのでないとしたら、何なのだろう、という疑問が生じる。これが心身問題である。デカルトは松果腺(パイニールグラウンド)が脳の奥にあることからこの心身問題を解決できると主張したが、これは物わらいの種になった。なぜなら、精神には空間規定がなく(=ひろがりがなく)、物体には空間規定がある(=ひろがりがある)が、この架橋は松果腺という「点(=空間規定がありつつないものとも言える)」がやっていると主張したが、顕微鏡で見たら松果腺にだって空間規定があり、ひろがっているのだからこの立論は成り立たないわけで、そこを後世の哲学者が指摘したからである。それに対して、心身問題をスピノザはどう解決したか。「心身は全然違うのに、どうやって心身は影響を及ぼし合うのか」というのが心身問題だが、スピノザは「そもそも心身は影響を及ぼしあっていない」と主張した。つまり心とからだは神という同じものの別の側面でしかないのである。心身は相互に因果関係はなく、精神は精神の中で閉じており、物体は物体の中で閉じており、横の因果関係はなく縦の因果関係だけがあり、それぞれの(属性の)縦の因果の連鎖は同じ神のふたつの表れとして対応部が同期しているだけなのである。そしてここに偶然性が入る余地はないのである。


【心身平行論の帰結】

人間の精神は肉体と平行で、それを超えたあり方はできないので、精神は肉体に支配されているかのようになり、ということは感情に支配されているかのようになるだろう。しかし、それで終わりではなく、「感情を理解する」という方策がスピノザ哲学には残されている。しかも「感情を理解する」と「能動感情」というまた別の感情が発生する。そうすると、結局のところ、今度はある意味で「感情を人が支配する」という形にもなるのだ。ただし「うつ病を自力で治せますか」と聞くとスピノザはそれは不可能なことをしている」と答えるはずではある。人は数学においてくらいでしか、「AということからBということが必然的に導かれる」というのは見通せない。日常生活だと、「独身者だったら妻がいない。これは必然だ」というようなことはあるが、見通せる範囲はある程度までである。人間は日常生活ではある程度までしか必然性の連関を見通せない。しかし、神はもうすでに全ての因果連環をたどり終えているのである。


【「精神は身体の観念である」(『エチカ』第2部定理19)とはどういう意味か】

「精神は身体の観念である」とは、「精神は身体のあるあり方に対応している観念のことである。」という意味で、これと同様に、「感情とは身体の変状の観念である」(第3部定義3)も「悲しみも身体のあるあり方に対応している」という意味である。


スピノザにおいて「個別的な精神実体」というものはない】

各人の思考は実は神の思考なのであり、それに対応する物体、つまりシナプスの興奮があるが、そのシナプスの興奮も神の中で起きていることである。各人の思考も各人の思考に対応する身体の興奮も、結局は神という因果系列のひとつなのである。だから、各人ひとりひとりの個別の実体があるわけではなくなるのである。では、ティッシュペーパーに対応している精神もあるのか。あるのである。ティッシュペーパーも何らかの思考をしていると考えてもいいのだ。植物も動物も、それに対応する精神を持っていると考えてよい。つまり教室にもしたくさん人がいたとしても、そこにいるそれぞれの人物の精神はスピノザ哲学において実体的なものではないのである。そういうわけで、スピノザ哲学において、各人の精神はその人の身体を支配できたりはしないのである。因果系列はすでに必然的に決定されているので、精神がそれを決定する余地はないからである。


【ではスピノザによれば人間の身体は各部分が精神を持っていることになるのか:なる】

スピノザによれば、心臓は心臓で精神を持っており、肝臓は肝臓で、腸は腸で、独自の精神を持っていることになる。人間という生物は脳まで持っているので、それらの精神が統合された全体が意識されている。しかし、人間に意識されている部分はこの全体だけであって、個別個別の組織のもつ精神は意識されないのである。これがスピノザの考え方である。動物はかなり複雑だから、かなり高度な精神を持つことになる。しかし、人間は動物よりもはるかに複雑で進化の中で生み出された異常な存在者としての脳を持っているから、「理性」というものが可能になるほどに高度な精神をもつ。これがスピノザの考えである。


スピノザにおいて創造はどうなるのか:神は創造しない】

スピノザの神は因果の系列のことである。そして、結果は常に原因を辿れるのだから、ビックバンすらその前の原因を言える。だから、「世界の最初」というものは考えようがないのである。だから、「池に小石を投げ込む」という波紋の比喩は最初の一撃が想定されているという点で実は説明として間違っているのである。神は自然を創造しない。だから、神はどこにいるのかというと、自然そのものなのである。「神の現れ」としてペンやティッシュペーパーや太郎や花子はあるのである。そしてペンやティッシュペーパーや太郎や花子は物体の中の因果の系列の中にある一つとして生じているだけなのである。「無から有が生じる」という因果の破綻(=最大の奇跡=創造)をスピノザは許さないのである。


デカルトスピノザの違い】

デカルトは真理さえそれを世界の外部にいる神に保証してもらわねばならないと考えたが、スピノザは真理だけあれば世界の内部だけで保証は十分だと考えた。「明晰なものはそれ自身で明らかであり、それがどうして明晰と分かるかと問うことはナンセンスである。それをさらに明晰にするいかなる明晰性もありえないからである。したがって真理は同時にそれ自身と虚偽とを顕示する。真理は真理によって、すなわちそれ自身によって明晰となる」(『小神論』2)とスピノザは述べるが、これはもし三角形がどういうものかを定義したらそこから内角の和が必然的に定まるように、つまり定義から定理が出てくるとき、その外部からの保証は不要であるように、先立つイベントが定まれば、その後にくるイベントは必然的に定まり、そこに超越的な神様の保証は不要だと考えたのである。


スピノザにおける奇跡の否定】

エスは聖書の中で何度も奇跡を起こしている。ハンセン病の人を治したり、盲人が目が見えるようにしたりである。そして「私のことを信じなくていいから、私の起こす神からもらったワザを信じなさい」と発言するのである。しかし、因果系列の破綻としての奇跡をスピノザは否定するのである。そして最大の奇跡として無から有を産むという創造さえスピノザは否定するのである。受肉(インカーネーション)も奇跡であるからスピノザは否定するかもしれない。


スピノザにおける自由意志の否定】

アウグスティヌスは、「我々は本来自由なのだが、その自由は原罪によって汚れて腐ってしまったので、我々はその自由をほぼ発揮できなくなっている。だから、受肉(インカーネーション)した神であるイエス・キリストが振りまく恩寵があって初めてその自由を十全に発揮できる」と主張した。これはどういうことかというと、人はそもそも自由だからこそ、その自由を回復するイエスに意味があるということなのである。しかし、人がそもそも自由ではないとすると、スピノザはイエスの存在意義すら否定したことになるのだ。トリエント公会議においてカトリック教会は人間の自由意志を正統教義として決定的に認めているので、自由意志を否定するスピノザは伝統的なカトリックとも両立しない主張をしていることになる。では、なぜスピノザは自由を否定するかというと、愛憎関係に巻き込まれたくないからである。例えば、津波愛する人を失うと、「かなしみはあれど憎しみはない」だろう。なぜ憎しみはないかというと、「津波を憎んでも仕方がない(=しょうがない)」と思うからである。ではなぜしょうがないと思えるかというと、津波は自然現象だからである。では、凶悪犯によって愛する人を失うと、「凶悪犯を憎んでも仕方がない(=しょうがない)」とは思えない。なぜなら、凶悪犯は自由意志があった(=他行為可能性があった)と思うからである。しかし、スピノザによると、この「凶悪犯」は「津波」と同じような現象なのである。もしも、人間には到底見通しにくいその凶悪犯が生まれてくるまでの因果の系列とその必然性を見渡せれば、「かなしみはあれど憎しみはない」という状況になれるとスピノザは考えたのである。つまり、スピノザは、自由を信じなければ「憎しみ」を減らせると考えたのである。普通の倫理学は自由を前提するが、スピノザ倫理学はまず自由を否定するという異常な倫理学である。だから、「自由によって邪欲を抑制しましょう」というようなことを『エチカ』にはかけない。『エチカ』にはあらゆる「べき論」はかけず、「である論」しか書けない。だから、スピノザ倫理学というのは「である」ということをひたすらみなさいという話になっているのである。「因果関係の連鎖、必然性の連鎖を、全部は無理でもできる限り見通してみなさい(←というのも「何かを変えろ」とスピノザが言うのはおかしくて、スピノザによればそもそも人にそんな自由はないのだから、「「何も変えられない」ということを理解しなさい、何も変えられないがそれをひたすら見つめなさい(ただし、人にどこまで理解できるかということも決定されているのではあるが)」という教えになる)」というのがスピノザ倫理学なのである。


スピノザにおける善悪の消滅】

スピノザ倫理学において善悪すら消滅してしまう。世界の中で必然的に生じる「物」や「事」は、どれほどそれが人間の感覚にとって醜悪であろうとも、全ては神の完全性から必然的に生じるので、それ自体では「良い」とか「悪い」とかはないのである。例えば雑草や障害は良くも悪くもなければ、不完全でもないのである。ただしこれは、スピノザ哲学の中には、「ただ生きること」と「よりよく生きること」の区別が失われてしまっているという意味でもあるから注意が必要である。


スピノザにおける「目的」という概念の否定】

目的とは何か。目的は何のためにあるのか。それは、何かをやったりやらなかったりしないようにならないためである。つまり、目的がなければ、人は何かをやったりやらなかったりしてしまうが、目的があれば、やる方向に人は向かいやすくなるのである。だから目的というものがあるのである(←目的は自由を前提する。そもそも、「そうしないこともできるのにそうしようとする」という時に出てくるのが目的概念だからである。何かが起こることが決定されていないからこそ、その何かが起こる方向へと向かわせるための目的というものが存在する意味があるのである。目的は自由を前提するから、自由がないならば通常の意味での目的もないはずである)。しかし、目的があろうとなかろうと、他の様にはならないのであれば、目的をもつ意味はなくなってしまう。神様がある目的に向かって被造物を引っ張るというトマス・アクィナスの「アモール論」を思い出そう。アモール論では、被造物さえ目的に向かって動いていた。しかし、スピノザは、人が生まれたその目的なんてものはないと考えている。もし神が「人を救おう」という目的を持ったとすると、スピノザによれば、「目的をもつことそのものが不完全性のあかし」なのだから、神の定義からしてそれは変だというのだ。今が不完全で欠如態にあるからこそ、人は何かに向かおうとするわけだが、神は定義より完全なはずだから、目的を設定するのはおかしいとスピノザは主張したのである。ところでこのような考え方は、現代の進化論の考え方と相性がよい。現代進化論によれば、生命体は無目的にひたすらうごめいているだけで、そこに目的はないからである。キリンの首が長くなったのは「高いところに届くため」という目的があったわけではないのだ。キリンの首の長さは、「①突然変異」と「②自然淘汰」という二つの原理で説明されるので、「なぜか知らないけど突然変異で「奇形」の首が長いキリンが生まれ、しかしその個体が環境にうまく適応したので、もはや「奇形」とは呼ばれなくなり、その子孫が増えた」という説明になるのである。そういうわけで、「スピノザによれば私たちは神様の思惑通りに行動しているということになるのか」というと、そうはならないということになる。なぜなら、スピノザの神様は因果系列のことであって目的はないから、思惑などないからである。「自分には短所があるから悩んでいる」という人に対してスピノザならば「あなたは神の無限知性の中から必然的に生み出されたものだから、あなたはそのままで完全だ」と言うだろう。


スピノザの「個体」概念:無目的なランダムの流れ(=自然)の中からでも「個体」は育つ】

生命に目的がないのになぜ人間は地球を支配しているのか。「風」は無茶苦茶に、ランダムに流れる。風の中の空気分子には目的などあるわけがない。しかし、ランダムなくせに、ある山に風がぶつかったときに、その山を迂回するような流れと方向が生じる。そして、その山の周りにくるくると旋回する渦巻きのようなものが生じる。鳴門海峡のいわゆる「渦潮」と一緒である。こうした「渦」の塊がスピノザのいう「個体」である。個体は、「実体」ではないが、周りから相対的に独立して動き出すのである。さらにその独立性が強まると「台風」というものになってあたかも自ら生きているかのように動き出す。台風は移動する。川の水も、雪も、個別的に分子レベルで見ているとランダムなはずなのに、それが「結晶」を作ったり、それが安定した秩序を作ったりする。つまり、無目的なうごめきの中にも、「塊」ができ、そこに秩序が現れ、その秩序が周りから独立して動き始めるということがある。「鍾乳洞」がそうである。鍾乳洞は、どんどん時間の中で秩序を作りながら成長していくのである。ではあれは「奇跡」かというとそうではなく、化学反応によって石灰が無目的に動いているのである。つまり、鍾乳洞だって因果系列の破綻とは言えないのだ。台風、水の渦、雪の結晶、鍾乳洞、コロイド、DNA、アメーバ、これらは全て因果系列の中で独立性と安定性、つまりは秩序を得て行った「個物」である。このような流れの先で、人間が生まれたのである。つまり、無目的な自然の偶然の多方向的な流れの中から人間は無目的に生まれたのである。知性とは、非常に困難な、そして無目的な、自然の強い淘汰圧の中で、その淘汰をすり抜けて、残ったものが、結果的に「知性」と呼ばれているのである。知的になろうなろうとして知性ができたのではなく、残ったものが知性と呼ばれているのである。生命は生き残ろうとはしていない。生き残ろうとしたのではなく、無目的に動いていて、その中である形質を身につけたものが残って、その形質が褒められているというだけなのである。つまり、無目的なランダムの流れの中からでも「個体」は育つのだ。


【「突然変異」と「スピノザの思想」は両立するのか:人から見た「偶然」と無限知性である神から見た「必然」とは表裏一体だから両立する】

突然変異とは「無目的に、ランダムな変化が起きる」ということである。突然変異は常に起きている。それがたまたま環境に適応するならば「進化」と言われるだけで、適応したものでなければ、それは「奇形」などと言われるだろう。では、突然変異は因果の秩序の破綻だろうか。いやそんなことはない。ランダムな突然変異だって、スピノザからしたら無目的に、かつ、因果的に起きているのである。例えば、宇宙の中には、隕石が無方向にたくさんばら撒かれている。それがたまに千葉やロシアに落ちる。そしてそれが人にぶち当たるとする。すると、そのぶち当たって怪我をした人にとっては「すっごい偶然たまたま当たった」と思うだろう。つまり、「偶然だ」ということになる。しかし、無限知性である神からしたらその隕石がそこに落ちることは、因果の連鎖を辿ればそうなるようにしかならなかった「必然だ」ということになる。つまり、ミクロには偶然のように思えることも、マクロには必然であるということがあるのだ。「偶然」とか「必然」とかいう言葉はどういう観点で使われている言葉なのかを整理すれば実は否定と肯定が両立することがあるので注意が必要なのである。「因果系列が破綻すること」を「奇跡」と呼ぶとすると、「突然変異」はマクロに見れば奇跡でもなんでもないということになる。だから奇跡を否定するスピノザの思想と突然変異は両立するのである。

 

【スピノチズムと突然変異を認める進化論の相性はなぜ良いのか】
無目的かつランダムに物体が動いていて、その中から個体として生命が突然現れた。そしてここで重要なのは、突然変異というのは、因果の破綻ではない、ということである。突然変異は常に起きていて、「因果の自然的仕組み(=スピノザのいう「神」)」に則って、しかしランダムに動いていく。例えば宇宙の中に隕石が無目的にばら撒かれているとしよう。実際宇宙ではものすごい量の隕石が無目的に四方八方へと飛び交っている。そしてその隕石が落ちてきて、千葉県の習志野市を歩いている人物Aにぶつかったとしよう。このとき、このAさんからすると、自分に隕石が落ちてきたのはまったくの「偶然」であり、隣のBさんに落ちてきてもよかったのに自分に当たったのはまさしく偶然だ、ということになるだろう。しかし、宇宙全体の中で、その隕石がそこに落ちることには、人間によってその自然的仕組みが解明されているか否かにかかわらず、必ずそうなる原因(=例えば、その隕石がそのAさんの頭上へと向かう方向に進む原因になったような、別の隕石との衝突の繰り返しなど)が常にあり、宇宙全体から見れば、「なるべくしてそうなった」からむしろ「必然」だったということになるのだ。つまり、人間の有限知性からみて「偶然」なことも、無限知性からしたら「必然」となるのである。だから、「生物進化の世界には突然変異というものがあるから」と言って「必然論」を論駁できたことにはならないのだ。


スピノザ哲学で確率はどうなるのか】

スピノザにとって「確率は無知の証拠」ということになる。もしも因果系列を無限知性のレベルで見通せれば「確率」はそもそも消滅するとスピノザは考えるのである。


スピノザは既存の善悪概念を一旦は肯定する】

そもそもスピノザは既存の善悪概念を否定するが、スピノザ哲学というのはそもそも決定論であり、そうした既存の善悪概念も必然的に生じたものとして肯定するべきではないのだろうか。なにせスピノザは「〇〇である」ということは言えても「既存のを否定し、それを変更して△△にすべきだ」とは言えないはずだからである。それに関してスピノザは、人間には「第一種認識」というものがあるから、人間が既存の善悪でもって物事に判定を下してしまうのは必然だとまずは認めているのである。例えば「太陽が200フィート先に見える」とか「太陽が10円玉の大きさに見える」というのは間違いであるがこうした見え方が生じるのは必然である。しかし、こうした判断を別の判断でもって訂正して理解することはできるのである。つまり、既存の善悪概念が生じるのは必然であると一旦スピノザは認めるのである。


【ではスピノザは善悪をどう再定義するのか:コナトゥス】

全ては自然の中で必然的に生じているのだから、そこには善も悪もないのである。存在は神の必然性から生み出されるのである。では世界の中でランダムに、無目的にものが動きながら一つの塊を形成するようなものが現れてくる。台風、水の渦、雪の結晶、鍾乳洞、コロイド、DNA、アメーバのような順序で複雑性が立ち上がっていく。原核生物から真核生物となり、ミトコンドリアと共生したり、ミミズレベルになると「神経」というものを得る。こうして最後は脳までいくわけだ。それぞれのレベルにおいて現れる「塊」がスピノザのいう個物である。このそれぞれの「塊」は、周囲にあるものと常に影響を及ぼしあって相互作用しているわけだが、その周りからの影響に逆らってひとつの「塊」であろうともするわけだ。これは「個物はひとつのまとまりを維持しようとしている」と考えてよい。この本性的に自分の存在を維持しようとする個物の性質が「コナトゥス」である。人間身体における代謝は「コナトゥス」である。「各々の物は自分の存在を除去しうるすべてのものに対抗する。したがって、各々の物はできるだけ、また自分の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。(第3部定理6)」とスピノザはいう。コナトゥスとは、自己保存の努力であり、「活動する神の能力を或る一定の仕方で表現するもの」(第3部定理6)なのである。なぜなら個物も神の一部であり、コナトゥスも神の現れだからである。この考えは、「人は常に生きよう生きようとしている。人は自殺を嫌がるようになっている。事実としてそうなのだ」という考えである。


【コナトゥスから目的が生み出されてしまう】

「目的とは衝動のことである」とスピノザはいう。次の記述を見てほしい。「我々をしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する」(第4部定義7)。衝動は人をプッシュするが、目的は人をプルする。この違いをスピノザは消してしまう。また、「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである。(第3部定理9)」とスピノザはいう。つまり、「衝動は、生の形では意識に上らず、目的を伴った欲望に加工されてから、経験される」のである。だとすると、スピノザの体系の中で居場所がないはずの目的の概念は、実は仮象だったのである。つまり、目的よりは衝動が根源的で、先行しており、目的は衝動が生み出したものに過ぎないとして、目的はスピノザの体系内で消極的位置付けを与えられているのである。つまり、目的というのは、人間が自由に設定するものであるどころか、人間が衝動を満たして衝動を解消するために無理やり(必然的に)作り出されたものである、ということになるのだ。「目的(=end)」は衝動(=コナトゥス)が人に対して「終局地点(=end)」として見せかけているだけであって、実は終局地点でもなんでもないのである。つまり、「これまでの善(あるいは目的)の概念はコナトゥスが見せている幻影に過ぎず、実は実体のないものなのである」というのがスピノザの喝破であった。


【善の再定義:スピノザにおいて、善とはコナトゥスの最大化である】

目的や自由をベースにした善ではなく衝動をベースにした善を考えねばならないとスピノザはいう。それゆえ、スピノザにおいて、善とはコナトゥス(=生存欲求)の最大化である。そして悪とはこのコナトゥス(=生存欲求)を妨げるもののことなのである。そしてこの時代のスピノザにとって「コナトゥス(=生存欲求)の解放を邪魔するもの」こそ、キリスト教道徳における最重要の徳、つまり「謙遜」であった。つまり、スピノザは自己否定の哲学ではなく、自己肯定の哲学を目指したのである。


【では「やりたいようにやること」がコナトゥスの最大化だろうか】

本当に自由な人というのは外部の影響を受けてしまう人のことではなく、自分自身の原理(=コナトゥスの必然性)に則って必然的に生きている人のことである。感覚的刺激に左右されて揺さぶられることがコナトゥスの最大化にはならない。だから、例えば「コナトゥスの最大化だー!」と心の中で叫びながら万引きをすることはコナトゥスの最大化ではないのだ。スピノザは、「強さ」の徳を強調して、「勇気(対自的 Fortitudo):自己の存在を維持しようとする理性的欲望→節制・禁酒・沈着」の徳と、「寛容(対他的 Fortitudo):他者を援助し交友を結ぼうとする理性的欲望→礼譲・温和」の徳を提唱するが、これは「こうした徳を持ちましょうね」と言っているわけではない。そうではなくて、「コナトゥスを最大化しようとしている者は必然的にこういうふうになる」という事実を記述しているのみなのである。例えば「酔っ払い」は実は自分のコナトゥスの増大を妨害していることになるのである。また、他人と喧嘩をすると自分のコナトゥスを最大化できなくなるので、コナトゥスを最大化しようとする人は温和な人に必然的に、おのずからなるのだ(←人間にとって人間ほど有益なものはないから)。コナトゥスの最大化とは要するに生き生きと生きることであり、そのためには万引きが有効なわけがなく、むしろ万引きをしないことのほうが有効な場合が多いのである。


スピノザによれば基本感情には3つありその組み合わせで感情は増殖する】

基本感情は①欲望、②喜び、③悲しみの3つである。そして「喜び」の感情は自分の存在感情が高まった状態のことである。そして喜びの最大化がコナトゥスの最大化なのである。そして②喜びを増やし、③悲しみを減らすと自己を肯定することになる。そして①欲望はコナトゥス(衝動)が意識されたものである。コナトゥスが増大すると喜びが生じ、萎むと悲しみが生じる。そして「〇〇のおかげで」という原因の観念を伴う喜びが「愛」である。そして「〇〇のせいで」という原因の観念を伴う悲しみが「憎しみ」である。スピノザによれば、「謙遜(フミリタス)」は悲しみをもたらし喜びをもたらさないので「徳」ではない。スピノザによれば、「後悔」は他行為可能性を前提している考え方なので「徳」ではない。つまり、スピノザは悔い改めたりしない。人間が理性的でない大半の時にはキリスト教のいう「謙遜」や「後悔」や「希望」や「恐怖」も役には立つ。しかし、理性で考えればそれらは不要だとスピノザはいう。そもそもスピノザからしたら自己卑下(アブイェクティオ)はおかしい。もしもしっかり自分を理性的に見つめたら自分は存在しているんだからダメなところなんかないはずである。しかし、なぜ自己卑下する者は自分をダメだというのかといえば、それは他人と比べて自分を相対的に見て自分を評価しているからである。自己卑下者は、自己評価を他人との比較によって決めるから、すぐさま自分よりダメなやつを見つけて高慢に陥る。だから、自己卑下するものはすぐさま自慢屋に転じるのだ。だから自己卑下はダメなのである。他人と比べるのをもうやめよう。そうしたら自卑も高慢も同時になくなるのである。自卑と高慢はどちらも「自分を他人と比べて自己評価を下すこと」という悪しき習慣から生まれた兄弟なのである。


【どうすれば自己肯定(=コナトゥスの増大=よろこび)を最大化できるのか】

主体の中で起こってくるさまざまなネガティブな感情を、それを固定化しようとする「自己卑下」あるいは「謙遜」などの伝統的でキリスト教的な徳にとらわれずに、ひたすら理解すればよいのだ。「なぜ「憎しみ」や「怒り」が出てきたのか」を理解すればいいのである。そして、『エチカ』において「受動の感情は、その感情についての明瞭・判明な観念を形成すれば、ただちに受動の感情ではなくなる。(第5部定理3)」と述べられているように、もしも外部からやってくる受動感情を人が理解するならば、そこへ別の感情が、その「理解」に伴って発生するのである。この、主体の外部の原因からではなく主体の内部の原因(=「理解したこと」)から発生する感情は、コナトゥスの増大であるから「よろこび」である。そうやって、受動感情の理解(認識)に相伴って発生する感情が能動感情なのである。受動感情の方は外部が原因だが、能動感情は理解という自分の内部の原因で生じる感情である。どちらも神の必然的因果性によって生じる感情だが、受動感情は原因が外部からくるが、能動感情は原因が内部からくるので、この言葉のスピノザ的な意味で「自由」なのである。この自己の内部の認識を原因にして自己の内部に生じる感情が能動感情なのである。能動感情は内部のコナトゥスの増大であるから「喜び」の感情である。そしてこの、理性に従う人ならばその人の中に必然的に生じることになる「能動感情」は、その人の中に先行して生じていた「受動感情」を圧倒するのである。例えば、ある人の愛する人が殺されたとする。その時、必然的に怒りの感情がその人の中に生じる。しかし、その人がいくつかのファクターを見通すとどうなるか。全てを見通すならばその人は神だが、しかしいくつかのファクターならば、その人にも見通せるはずである。そしてその「見通し」を原因として、その人の中に能動感情が生じることになる。そしてその能動感情によって受動感情は幾分か抑えられるのである。まさに、感情をもって感情を制するのである。そしてこの理解こそが理性の発動として、コナトゥスの最大化につながるのである。ここでいう「理解(=必然的連関を見通すこと)」こそがスピノザのいう「第二種認識」である。そして、第二種認識こそが能動感情を呼び起こすのである。「科学を学ぶよろこび」というのは、「第二種認識のよろこび」なのである。


【三種類の認識】

「第一種認識」は因果連関の結果だけを認識することである。それに対して、「第二種認識」は理性知と呼ばれ、この第二種認識自体が、能動感情の原因となる。そして第二種認識は、事物の必然的連関をとらえることである。「第三種認識」は「精神と全自然との合一性の認識に伴う喜び」であり、神の自己愛の一部となることである。