aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

「超越的」と「超越論的」のちがい

【「超越的」と「超越論的」の区別:カントにおける「私」とは肉体のことではないため、経験されることはない】

「カントにとって「私」は「自己意識」と言い換えられるものでした。経験することは人それぞれであっても、自己意識の構造は誰にとっても同じなので、すべての人々はみな同じ「私」なのだとカントはいいます。「自己意識」といっても、自分のセルフイメージのようなものではありません。「私」が自分をどのような存在として意識しているかということでいえば、その「自己」の意識のあり方は、人それぞれでしょう。「自己意識」における「自己」とは、セルフイメージとして捉えられた「自己」ではなく、そのセルフイメージをもひとつの「対象」として見ている側の「私」を指しています。「私」は、さまざまなことを経験し、「自己」ですらひとつの対象として捉えるのです。しかし、それらを経験する「私」が、時間を経ても変わらないものとして存在していなければ、そもそも「経験」と呼びうるものを考えられないだろうとカントはいいます。「経験」という日本語には「経る」という時間的な観点が入っていますが、時間を経ても残されるものでなければ「経験」とはいえません。しかし、その「経験」はどこに残るのでしょう。次々に「経験」される物事が常に同一の「私」に刻まれていなければ、「経験」は「経験」にならないとカントはいうのです。時間を通じて変わらない「私」は、それ自身としては見ることも聞くこともできないものです。「自己意識」としての「私」は、それ自身としては決して経験の対象になりません。では、そのように誰も経験したことがないものが、どうしてあるといえるのでしょうか。「それはそういうものなんだ」と頭ごなしに決めつける議論は、根拠なく超越的に語られます。ロックにはじまるとされる経験主義は、経験されるものだけを手がかりにして客観的な議論をしようとするものだったので、経験主義的な立場からすると、そうした頭ごなしの超越的な物言いは拒否されます。では、カントのいう「自己意識」もまた、超越的な語り方で「自己意識」の存在を言い立てているのでしょうか。カントは超越論的という新しい形容詞をわざわざ作って、「超越的」と「経験的」の間を埋めました。自己意識としての「私」は、それ自身経験の対象にはならず、決して経験的なものではない。しかし、だからといってそれを超越的と決めつけるのとも違う。時間を通じて同一な自己意識は、それ自身経験されるものではなく、むしろ「経験」を「経験」として可能にするための条件になっている。それゆえ、その存在は超越論的に要請されなければならない――そうカントは主張しました。「超越論的」という言葉は、そのように経験を可能にする条件を示すものとして、以後の哲学の鍵概念になっています。このように考えれば、「私」は誰でも「私たち」だということになります。すべての人間は、超越論的に要請される「自己意識」をもっていて、誰でも同じ「私」であるからこそ「人それぞれ」といわれるような経験も可能になっているというわけです。どんな人間でも同じ「理性」を共有しているはずだというカントの主張は、そこから導かれます。それぞれ経験することは異なっていても、同じ「理性的存在者」として、人々は互いに対話する基盤が最初から整えられていると考えられることになるのです。」(荒谷大輔著『使える哲学』160-162頁)

 

→カントへの疑問:しかし、とはいえ、私は常に感知されているのではないだろうか。というのも、「ものが見えてはいるが誰の見えなのかは分からない」というような経験をしたことがあるという話は聞いたことがない。やはり誰でも内奥では自らであるところの肉体を常に感知しているのではないかしら。だからこそ我々は時にそれを反省できるのでしょう。「経験」という概念を大幅に拡張してみてはどうかしら。