aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

姜尚中氏からの引用集

1.【子どもと遊ぶために働いているのに働いているせいで子どもと遊べないような状況】
「そもそも国家の存在理由(レゾンデートル)とは何なのかと言えば、それは国民の生命と財産を保障するということに尽きると思います。ところがそれを果たさずして、国が国民に義務を果たせと言う。これは大きな倒錯です。」(姜尚中著『それでも生きていく』41頁)

 

2.【市民と国家の関係が倒錯しているのは近代化が市民の手によるものではなかったから】
「そもそも家庭環境の変化によって家庭の教育力が低下した、という政権の主張も正しいとは言えません。研究者によれば、日本の家庭では、伝統的に子育ては放任で、むしろ家庭が子供の教育に力を入れるようになったのは、高度経済成長期以降だそうです。それ以前は、教育に使うお金も時間も日本の家庭にはありませんでした。結婚したら女性は家庭に入るのが日本の伝統的な家庭だというのも間違いで、1970年ごろまでは、農業や漁業など第一次産業に従事する人が多かったため日本の女性の就業率は欧米よりも高く、専業主婦が一般化したのは、いわゆるサラリーマンが増えた高度経済成長期です。しかし古きよき「伝統的な家庭」を取り戻すことができれば、国家も安寧だと、政権を中心とした保守系の人々は信じています。彼らが言うところの「伝統的な家庭」とは、3世代で暮らし、お年寄りの介護は家庭で面倒を見て、子供は母親がつきっきりで母乳で育てる⋯⋯というようなものなのですが、そうした伝統はそもそも存在しないのです。これはまさに「伝統の発明」と言っていいでしょう。そしてこの「伝統の発明」によって教育や介護など、国家が担うべき問題の責任が家庭に押しつけられ、女性は再び家庭に閉じ込められようとしています。このような考え方は、明治時代以降、根づいている日本特有の国家観が関係しています。日本では、「公共性=国家」という認識をもっている人が多いと思います。いわゆる「お上」という意識があって、官僚が偉くて、民間は、その下という認識を皆さん、もっているのではないでしょうか。しかしそれは本来の公共性とは違っています。人間の市民社会は、さまざまな人々で構成されており、他人同士の集まりですから、当然ルールが必要になります。これが公共性です。そして政府(内閣や中央官庁)は、そのルール作りの仕事を市民から委託された人々なのです。つまり公共性の根本は普通の人々にあって、政府はそうした普通の人々に仕える「公僕」ということです。ですから、社会においては国民一人ひとりが主人公であるわけですが、日本の場合、主役は国家になっています。「滅私奉公」という言葉があるように、個人が犠牲となって「公(国家)」のためにつくすという関係性になっている。だから「家庭教育支援法」のような法案が生まれてくるのです。しかし「子供が悪くなるのは親のせいだ」と親に責任を押しつけるやり方は、本来の公共性とはかけ離れています。子供が健全に育つように市民をサポートすることこそ、政府の役割だからです。市民と国家の関係がねじれてしまったのは、日本の近代化の歴史と関係があるでしょう。明治維新によって日本には近代国家が誕生しましたが、それは市民の手で成し遂げられたものではなく、上から与えられたものでした。それで「公共性」が国家に独占されてしまうことになりました。」(姜尚中著『それでも生きていく』128-130頁)

 

3.【憲法改正、その現実味(2013年8月)】

憲法9条のことは、皆さんもよくご存じだと思います。戦争の放棄や戦力の不保持を規定した、いわゆる平和憲法です。しかし現実には、日本には防衛力としての自衛隊が存在していたことから憲法との不整合が問題となり、自民党は結党以来、憲法改正を党の網領に掲げてきました。さらにここにきて、中国の領土問題や北朝鮮の軍事的挑発などがあり、第9条第2項を改正して自衛隊を正式の軍隊として憲法に明記すべきだとか、集団的自衛権を認めるべきだとする声が政府・与党や野党の中からも勢いを増すようになったわけです。現在の自民党が掲げる「日本国憲法改正草案」の中では国防軍の設置が公約されています。では、憲法改正において何が争点となっているのか。まずひとつは自衛権の問題です。そもそも自衛権には個別的自衛権集団的自衛権があります。個別的自衛権とは、他国から武力攻撃を受けた時、自国を防衛するために必要な武力を行使する権利です。一方、集団的自衛権とは、同盟国や友好国が他国から攻撃を受けた時、武力援助をする権利のことです。国連憲章において、この2つの自衛権は認められているので、国連加盟国の日本はどちらの自衛権も保持しています。ただ一方で、日本は憲法9条によって戦争の放棄を定めています。そこでこれまで時の政権は、「個別的自衛権としての必要最小限度の武力行使は、憲法で許容されているものの、集団的自衛権については憲法が認める自衛権の限度を超える」と解釈して、これまでずっと集団的自衛権違憲だとしてきました。なぜそのような解釈になったかと言えば、憲法上の問題だけでなく、やはり過去の歴史があったからです。侵略戦争をした反省から、簡単に戦争には踏み込めない道を選んだのでしょうし、周辺国家もそれを望んでいたと思います。もっとプラグマティックに考えて、日本が集団的自衛権を行使した場合と禁止した場合、戦後の日本の平和と繁栄のためにはどちらが有利だったのかといえば、間違いなく禁止していたがゆえに、日本の発展があったと言えるでしょう。もし集団的自衛権を認めていたら、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争への参戦もありえました。イラク戦争の時には、当時の小泉政権ブッシュ・ジュニアのために「非戦闘地域」なるものを作り出し、戦闘地域ではないから自衛隊を派遣できるという苦肉の策を考え出したわけですが、非戦闘地域だったからこそ、自衛隊員はひとりも命を奪われず、ひとりの命を奪うこともありませんでした。つまり、集団的自衛権が認められていたら、日本は今のような形の国ではありえなかったということです。韓国のように徴兵制度が敷かれていたに違いありませんし、その結果、経済的な発展が遅れていたかもしれない。ですから、よく改憲派の人は「集団的自衛権を認めるのが普通の国なんだ」という言い方をしますが、大事なことは普通かどうかではなくて、日本にとって何が平和と安定に資するかを考えることだと思っています。このような話をすると、改憲派の人たちは「軍隊がなくて国が守れますか?」「この憲法は時代に合っていない」と言います。「人まかせにして、どうして日本が守れますか?」「まわりの国はそんな善意の国ばかりでしょうか?」と。でも、憲法とは、私たちは「そう決意した」ということであって、現実は厳しくても「こうありたい」という国民が向かっていくべき理想の極北の星を示しているのです。そこへ向けて、1歩でも2歩でも近づこうと。特に憲法前文と第9条2項は、その意味合いが大きい。だから、ほかの憲法を見ても、現実と必ず一致するわけではありません。例えば日本国憲法で男女平等を謳っていても、日本の実社会はまだまだ男性優位です。でも「現実に合わないから」と男女平等を憲法からなくそうとは誰も言いません。それがなぜ平和憲法だけが「現実的でない」と問題になるのか。「いや、これでは国は守れない」と改憲派は言いますが、今まで守れたわけです。そしてそれで自民党も大成功を収めてきました。「今は状況が変わった」というのもよく聞く言いわけですが、冷戦時代のソビエトのほうが今よりもっと脅威でした。北海道が侵略される可能性だってあったし、核戦争の可能性だってありました。でも、平和憲法でやってこられたわけです。それに日本には今、憲法改正より目を向けなければならない問題がたくさんあります。東北の復興、原発の問題、経済の回復⋯⋯⋯。それをやらないで、なぜこの時期に憲法改正なのか。政策の優先順位が間違っている気がしてなりません。そもそもこれほど憲法9条の改正にこだわるのは、「安全保障」の概念が、軍事優先という伝統的な考え方から脱却できていないからです。安全保障というのは、単に軍事力の問題だけではありません。原発の安全性が損なわれたら、近隣諸国に戦争以上の惨禍をもたらす場合もありますし、中国のPM2.5のように、公害の問題が他国に甚大な被害をもたらす場合もあります。日中韓の結びつきは密接で、一方が滅びれば他方もあやうくなるような唇歯輔車の関係にあります。ですから軍事以外のところでも、協力関係を密にしなければならないわけですが、今はそれがないがしろにされています。「中国は何をするかわからないから軍事力が必要だ」という人も、中国の原発についてはほとんど触れません。もちろん中国脅威論を私は否定しません。でも軍事的脅威だけをことさら強調するのは逆に非現実的です。今の政府には戦争当事者はもはやひとりもいません。何十年も実戦から遠ざかっている中で、政治家の口から戦争についての非常に軽はずみな発言が飛び出してくるのは、戦争についての想像力がどんどん麻痺し、リアリティが欠如しているからでしょう。そしてその感覚は今や多くの人に広がりつつあります。思い出してください。3・11の原発の事故が起きた時、国民は本当のことをまったく知らされませんでした。まして戦争が起きたらどうなるか。それは先の戦争のことを知れば、よくわかるはずです。そしてその犠牲になるのは、いつも庶民だということを忘れてはならないと思います。憲法とは、現実は厳しくても「こうありたい」という国民が向かっていくべき理想の極北の星を示しているのです。施行から75年、戦争によって誰も殺さず、誰も殺されなかったことがどれほど尊いことか。今こそ平和憲法の功績を再確認すべきです。」(姜尚中著『それでも生きていく』33-37頁)

 

4.【人間というベーシックなところでの議論に持ち込むことの利点】

「ある女性アナウンサーの言葉が、日本の女性がおかれているつらい立場をよく表していました。「子供を産まなければ産まないで「生産性が低い」と言われ、産んだら産んだで「離職する可能性が男性より高く困る」と入試で差別され、女性はどうしたらよいのか」と。でも、そこから女性たちに気づいてほしいと思います。女性であるだけで差別されるように、ほかにもさまざまなアウト・インの境界線が存在しているということを。「女性蔑視」というところだけにとどまらず、男女を超えて人間としての尊厳を問うことが大事だとわかってほしいのです。そうしないと、女性対女性の構図にもっていかれたり、分断を図られたりすることにもなります。「女性として」でなく、「人間」というベーシックなところでの議論にしていくことで、男性にとっても、LGBTにとっても生きやすい社会になるのだと思います。」(姜尚中著『それでも生きていく』188頁)

 

5.【交換価値化できない自分だけにしか語りえない時間を味わえるかどうかが人生の満足を決める】

「交換価値にまったく還元されない時間というものがほとんどなくなりかけています。でも、実は私たちが人生において必要なのは、そういう時間です。何ものにも交換価値化されない自分だけの時間。いつか人生を振り返る時、そういう時間をもてた人ともてなかった人とでは、人生の奥行きがずいぶんと違ってくるに違いありません。」(姜尚中著『それでも生きていく』240頁)

 

6.【不幸なことも含めて存在の神秘を抱きしめる】

「まあ、僕も息子を亡くしたり、いろいろありましたけれど、最後は不幸なことも含めて抱きしめて生きていくという感じでしょうか。朝起きて、雨かなと思うと日が差してきて、そして紅葉がなんてきれいなんだろうと思いながら、日々の小さなことに幸せを感じる。平凡ですけど、この年になると、そういう時間が愛おしく感じます。」(姜尚中著『それでも生きていく』160頁)