aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

「なぜ人殺しをしてはいけないの?」と子どもに聞かれたら私はどう答えるか

まず、社会契約論というものの倒錯性から明らかにする必要がある。たとえば「富の再分配は、何もしていない子どもを対象にするのはやめて、頑張っている勤労者だけを対象にしよう」という発言を聞いたら誰もが転倒していると思うだろう。なぜなら、子どもを支援しなければ勤労できるような勤労者が生まれてくるわけがないからである。これと同様に、社会契約論も順序転倒的(=プリポステラス)なのであり、端的に誤りである。「個人たちが集まってみんなが武装解除の契約を結ぶことで社会を作ったという思想」が社会契約論であるが、そもそも社会がなければ約束が機能するわけはないのである。というのも、もしもある個人が武装解除をしたならば即座にその武装解除をしたやつは弱みを見せたのだから周りのやつに殺されるか、自分を武装解除させるためのワナだと思われて誰も後に続かないのが自然であって、そいつに連れ立ってみんなが一斉に武装解除をするなんてことがあるはずがない。そいつに連れ立ってみんなが一斉に武装解除をするなんてことがもし本当に起こるとしたらそれは社会がもう既に成立しているからであって、だとすれば、それはやはり順序転倒的(=プリポステラス)である。社会が契約によって成立したという話の最初に社会が出てきてはならないからである。つまり、契約によって初めて私たちは共に生きることを可能にしたのではない。逆に、契約が単なる言葉ではなく実際に可能となるためには、既に私たちが共に生きていたのでなければならないのである。契約というものを有意味にするような共同体と相互配慮が既に成立していたのでなければ、共同体と相互配慮を作るための契約などというものを結べたはずがないではないか。この点で社会契約は単なる転倒であり、嘘である。人間の自然状態にも、家族があって他者への配慮があって、愛があって憎しみがあって、自然状態は全然ニュートラルで透明なものではない。バナナを嫌いになりずらかったり、おぞましい人体破壊や奇形、タバコなどの刺激物に忌避を感じないことが難しいのも自然状態だ。そこには進化的な基礎があるんだね。こういう自然状態には、殺人を趣味の問題には還元できないような前反省的な判断が既に働いている。だから、人を殺してはいけないという規範がなぜあるのかを、各人が自分の事情によってその都度決められるようなそういう趣味問題によって正当化するのはおかしくて、この件は、趣味以前のベーシックな価値によって正当化するべきなんだ。社会が各個人に「人を殺してはならない」という規範を押し付けてくるが、それに対して各個人は趣味という足場を持っているので、その足場に立って各個人は社会からやってきた規範を受け入れるか受け入れないかを趣味に基づきその都度決めているという対立構図こそが捏造であって、実際には、多くの人が自分の個性が明確に働く以前から人殺しを忌避する方向に指し向けられているんだ。不殺傾向と殺人傾向には、どちらも進化的基礎があるけれども、それは非対称的になっていて、明らかに前者にあらかじめ比重が傾いているんだ(こうした重みづけを持たない透明な個人がみんなで契約をして、不殺規範を受けいれ、こうして平和な共同体を作っているとかいう話は、単なる嘘なんだ)。実際、成人までに人を殺すひとが多いヤノマミ族という部族は少数派だよね。そしてこのような非対称な重みづけ、傾きがあらかじめ存在するのは、それが人類の生存にとって有利だったからなんだよ。だからこのような非対称性が残ったんだ。つまり、これまで不殺傾向がベーシックな価値とされていることによって、けっこううまくやってきたということなんだね。逆に、殺人傾向の価値がそれほど広汎化しなかったのは、それではなにかしらの不都合があったのだろうね。たとえば、ひとりではできないことが色んな人がいればできるようになるのに、殺人傾向がある部族だと、強い個人が相互に警戒しながら勢力均衡しつつ残っていくだけになってしまって、そういう協力による明らかなメリットを得られにくくなる、とかね。それで、そういう殺人傾向がある部族はあまり繁栄できなかったというわけ。よって、「なぜ人殺しをしてはいけないの?」と聞かれたら私は「君の肉体が君の多様な趣味が花開いてくるのに先立って君にそのように思わせているからだよ。そしてそのことにはよく知識を仕入れてから考えて見れば気づけるし、そのようなあらかじめある内発的な方向づけと外発的で後付けの補強のどちらにも君は実はそれほどデメリットを感じてなどいない。だから、趣味問題として不殺規範を受け入れることを選ぶという段階があるように話を進めるような議論は実は捏造で、実際には自分が既にその規範の価値を内発させていることを確認するだけでいいんだよ。この件は各人それぞれの趣味で正当化されるような問題ではなくどんなひとにも周く共通のベーシックな価値から正当化されるべきことなんだ」と答える。