aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

アメーバについて

①プリミティブな延長概念:肉体の運動が不貫入であるという経験が持続すること

②成熟した延長概念:体積があること

アメーバも空間を占めるので②の意味でならば延長しているのだが、②の延長概念は①の延長概念を拡張していく中で得られるもの。

では、アメーバに①の延長概念は獲得可能だろうか。経験科学でアメーバに対する実験をしなくても、原理的に無理であると言える。なぜなら、アメーバの肉体は運動をするが、剛体ではなく軟体であるため、ある対象と邂逅した際にその対象のほうへと貫入していくことがありえない。貫入があり得ないんだから不貫入性の経験などあるわけがない。まして、不貫入性の持続的経験などあるわけがない。

リンゴを目の前にして、それを砕こうとしても砕けないという経験が持続して初めて、ヒトの赤ちゃんは①の意味での延長概念を獲得する。

ところで②の延長概念は、①の延長概念では延長しているとみなされなかった空気などにも適用できる概念である。②は、①を典型として派生させた概念である。たとえば、空気であれば、風船のようなものに空気を詰めて人がそれを押せば、不貫入ではないにしてもある程度までは不貫入であるという状態を作れる。このようにして①が拡張されていったのだ。これはまるで、鳥の概念がツバメのような飛べるものから始まったくせにドードーとかペンギンとかカモノハシとかにも適用可能なものへと成熟していったのと同じ過程である。そういうわけで、②は①を前提する。

たとえばわれわれは水のような液体にも融通無碍に延長を認めるが、それはまず、石のような硬さを持った物の経験から得られた延長概念を応用しているからできることなのだ。まさに「硬い」物の経験をしないと、延長の原体験がもてないわけである。

ところで、アメーバだって、②の延長概念ではなくて①の延長概念獲得から出発するしかないわけだが、いま証明したように、①の獲得が原理的に不可能である。それゆえ②の獲得もないのだ。

第一性質と第二性質をめぐる哲学史の整理

 

⑴[ジョン・ロック:4つの区別をしよう]
 その4つとは、①物体の第一性質、②物体の第二性質、③物体の第一性質の観念、④物体の第二性質の観念、である。①と②は心の外側にあり、③と④は心の内側にある。そして、④と②は類似していないが、③と①は類似しているのだ。実際、コロナになったら味は変わるけれども、コロナになっても実際には四角形のものが球体に感じられたりはしないではないか。

⑵[マルブランシュ:2つの区別をしよう]
 その2つとは、❶心の外側にある観念(=心の外にあって神のうちにあるような叡智的延長の観念)、すなわち物体の広がりとして見えるものと、❷心の内側にある感覚、すなわち物体の色として見えるものである。ところで、物そのものと知覚内容には、法則的対応はあるけれど、物そのものが知覚内容としてそのまま見えているわけではないのだ。というのも、物そのものに色はないが、知覚内容に色はあるからである。

⑶[バークリーのロック解釈:ロックをマルブランシュ的に読もう]
 ロックの主張は次のようにマルブランシュ的に解釈されるべきである。すなわち、❶物体の第一性質は心の外側にあり、❷物体の第二性質は心の内側にある、とロックは主張していると解釈されるべきである。

⑷[バークリー:ロックの区別をやめよう]
 ロックは間違っており、❶物体の第一性質も❷物体の第二性質も本当はどちらも心の中のものである。だから、そもそもロックがふたつを区別していたこと自体がおかしいのだ。

⑸[ビラン:「第一性質の観念」は物体概念の典型であるから物体に類似するとやはり言える]
 バークリーは、「なぜ物体それ自体を経験しているわけではないのに、物体それ自体とその観念との間で成り立つ「類似」をロックは主張できるんだ」と、ロックを批判した。しかし、むしろ「第一性質の観念」であるところの「不貫入性」というのは、物体の諸性質の中でも「典型」として取り上げてもよいようなものである。つまり、人が物体だとみなすような存在は実は原初的には人の肉体が不貫入だとみなした存在、肉体の運動を阻害するものとしての外部の存在たちのことであり、それがまずは典型的物体だということになるのだから、「(典型的)物体」と、それと関係することで人が得る「第一性質の観念」である「不貫入性」とは、「類似する」と、胸を張って、言って構わないということになる。つまり、人が第一性質の観念を得るとき、人は、人が典型的物体と呼んでいる対象についての正しい把握に、十分到達していることになる。たとえば、ツバメを「鳥」の典型として定めてから、道でツバメを見つけたら、「私は鳥を見つけたのだ」と少なくともツバメについてはちゃんと胸を張って正当に言えるのと同様に、第一性質の観念(=不貫入性の経験)を得たら、人は物体を得たと胸を張って言って構わないのである。つまり、少なくとも典型的物体である固体については第一性質と類似すると主張することは正当である。この類似のゆえに、もちろん空気のように第一性質の観念が得られなくても物体とされるようなものも派生的に登場してきて、物体概念は後から複雑化していくにせよ、第一性質の観念が得られれば、少なくとも典型的物体については、正しい認識に到達したと常に言えるのである。

フランス語の冠詞について

フランス語の冠詞には、⑴特定冠詞と⑵おぼろ冠詞と⑶全体冠詞と⑷部分冠詞がある。
以下では、それぞれの説明をしていくが、そのまえに、⑴は特別なものを指し、⑵は典型イメージを指し、⑶はざっくり全体を指し、⑷は全体のうちの部分を指すと理解するとよい。


まず、⑴の特定冠詞は具体的で特別なものにつき、普通は特別なものはひとつだから「le」と「la」を使うことが多いが、複数のものが特別だという場合もあるので、その場合には「les」を使う。


→たとえば、「Je connais mal les parents de mon mari. 私は夫の両親についてはよく知りませんの」における「les」。


次に、⑵のおぼろ冠詞について。おぼろ冠詞は、個々の具体性を無視して人間が作る典型イメージのことで、具体性を捨象しているのだから「les」になるはずはなく「le」か「la」をつける。つまり必然的に不可算扱いとなる。典型となるイメージ自体が複数個あるわけがないし、輪郭もどうでもよいので、「les」というおぼろ冠詞は存在するわけがない。おぼろ冠詞は、個々のものどもの具体性を捨象して、典型イメージ、重要なところ(=エッセンス)だけを取り出したものにつけると考えるとよい。また、おぼろ冠詞はしばしば前置詞とペアになり熟語となると脱落することが知られている。


→たとえば、「Le cheval est un animal utile.」など。「Il est arrivé en voiture.彼は車で来た」における「voiture」は「おぼろ冠詞」がついて脱落している。また、「Il est sur pied à cinq heures du matin. 彼は5時には起きている」において、おぼろ冠詞のついている「pied」は、両足で立っているのに単数形であることから不可算だとわかる。


⑶の全体冠詞には、⑶-①可算名詞用のものと⑶-②不可算名詞用のものとがあり、前者が「les」で、後者が「le」と「la」である。個々のものどもを全て含めた全体集合を考えるときに、輪郭がはっきりしたものがたくさん思い浮かぶならば前者を使い、輪郭が一定しないものが大量に思い浮かぶならば後者を使う。


→たとえば「J'aime les églises. 私は教会が好き。」や「J'aime l'or. 私は金が好き」など。


⑷の部分冠詞には、⑷-❶可算名詞用のものと⑷-❷不可算名詞用のものとがあり、前者が「des」で、後者が「du」と「de la」である。さらに、部分冠詞には、⑷-❶'可算名詞の部分は部分でも、その部分が複数ではない場合というのがあり、その場合は数詞の「un」と「une」をつけることになる。そもそも部分冠詞というのは「全体のうちの部分を指す」ものなので、(数詞を使う⑷-❶'という例外を除いて)、まずは全体を⑶全体冠詞の「le」と「la」、または「les」で表してから、それに部分を示す前置詞の「de」をくっつけて作る。そして、「de + le = du」と「de + les = des」という縮約変化がおき、「de la」だけはそのまま残る。このようにして⑷は出揃う。


→たとえば、「Vous aimez écouter de la musique chez vous? ご自宅で音楽を聴くのはお好みですか?」とか、「J'ai rencontré des étudiants japonais sur le campus. キャンパスで何人かの日本人学生に出会った」など。


そういうわけで、これらの冠詞をすべて整理すると以下のようになる。


【整理】
⑴:「le」と「la」と「les」
⑵:「le」と「la」
⑶-①:「les」
⑶-②:「le」と「la」
⑷-❶:「des」
⑷-❶':「un」と「une」
⑷-❷:「du」と「de la」

 

 

【補足:部分冠詞は前置詞から生まれた】
「部分冠詞の形は極めて単純です。部分を表す要素はdeという前置詞ですから、部分冠詞は<de+定冠詞>ということになります。したがって、音楽の一部はde la musiqueで表します(実際に耳にする音は「音楽」という広大な世界のほんの一部でしかありませんね)。母音で始まる不可算名詞の場合、男性名詞(芸術の一部はde l'art)でも、女性名詞(水の一部はde l'eau)でもde l'になります。ただし、子音で始まる男性名詞の場合の<de+le>はdu、可算名詞の場合の<de+les>はdesという形になり、この現象を冠詞の縮約とよんでいます。したがって、たまたま口にするワイン・水は一部(若干量)ですからdu vin, de l'eau、たまたま出会った日本人学生も一部(若干数)ですから、des étudiants japonaisというわけです。」 (西村牧夫著『解説がくわしいフランス文法問題集』13頁)

→西村氏が「un」や「une」や「des」を部分冠詞と呼んでいることが興味深い。 とくに、「des」を「不定冠詞の複数形」とオーソドックスに呼ぶよりも、「可算名詞複数用の部分冠詞である」と呼ぶほうが、分かりやすいかもしれない。その場合、「un/une」は、「可算名詞非複数用の部分冠詞である」と呼ぶことになると思います。

thatとitのちがいについて本気で考える

⑴.【「that」は一回的だが「it」は反復的】(by マーク・ピーターセン)

A:I like having a glass of limoncello after dinner.
B:I think it is a superb custom.


A:I’m thinking of having a glass of limoncello after dinner. What do you think?
B:That sounds great.

⑵.【「that」は未知情報だが「it」は既知情報】(神尾昭雄)

A:Overnight parking on the street is prohibited in Brooklyn.
B1:That’s absurd. (=ブルックリン在住ではない)
B2:It’s absurd. (=ブルックリン在住)


A:I won the lottery!
B:That’s amazing.

⑶【「that」は具体的で特殊的で指示的で感情的だが「it」は抽象的で主題的で非指示的で淡白】(by 高橋英光)

「that」を「it」で受け直すことができるが、「it」を「that」で指すことはできない。
もの⇄くだもの⇄いちご⇄あまおう
「いちごはものです」とは言えるが、「ものはいちごです」とは言えない。
「果物」を「いちご」で指すことはできないのと同様に、「it」を「that」で指すことはできない。
その証拠に、「仮主語のit」や「仮目的語のit」や「天気や時間を示す状況のit」を「that」にはできない。


A:Thanks for the tickets.
B:Oh it’s nothing.(=淡白であるがゆえに恩着せがましくない表現)

② Are you really going to marry that?(=感情的であるがゆえに軽蔑的表現)

③ He failed the exam. I can’t believe that!(=感情的)
④ He failed the exam. I can’t believe it.(=淡白)


A:Thank you for the ride, George.
B:Don’t mention it.


A:They hate each other.
B:Don’t mention that!


「that」は指示的なので、注目させないと伝わらないような対象(=非主題)を指す
「it」は非指示的なので、注目させなくても伝わるような対象(=主題)を指す
A:I don't see why the company would want to pay for first-class travel.
It's just a wider seat and better food service.
B:○ Oh, it's a lot more than that.
B:× Oh, that's a lot more than it.


⑷.【「that」は抽象的だが「it」は具体的】(by 多くのネイティブ)

→目の前にありすぎると、わざわざその目の前の物体を指示するとしつこくなるから、具体物に「it」を使うこともある。

→遠くに物体がある状況ならば「that」はその遠くの物体を指していると解釈されるが、目の前に物体があるのにも拘らず「that」を使うと、その「that」が目の前の物体をわざわざ指しているとは考えにくいので、なにかしら注意を向けるべき事態が別にあるのだろうと推定されてしまうのだ。こうして多くのネイティブスピーカーは、「that」は抽象物を指し、「it」は具体物を指すなどと、ここまでの話とは全く逆の、一見これまでの理論とは矛盾しているような説明をするのである。しかし、実は文法理論家の説明と、ネイティブスピーカーの説明は、観点が違うだけで、どちらも間違っていない。


A:I'll have my hair cut tomorrow.
B:That’s nice.
(→初めて知った一回的な思いつきにはthatを使っている)


A:I had my hair colored!
B:It’s nice.
(→目の前にある髪の毛を指示するのはしつこいのでitを使っている)


A:How was the interview?
B:It was fine.
(→かねてからの話題である面談にはitを使っている)


A:I lost my suitcase at the airport.
B:That’s terrible.
(→初見の事態には驚きの感情を込めてthatを使っている)


A:How would you advise him?
B:That’s an interesting question.
(→初見の質問にはthatを使っている)


A:How was your date?
B:That's a good question. It was good.
(→初見の質問にはthatを使い、かねてからの話題である面談にはitを使っている)


A:You have to eat!
B:I know that!
(→突然のアドバイスに苛立ちの感情をこめてthatで答えている。自分が痩せすぎているからもっと食べないといけないことは承知していたけれども、そのことは、ここまでの話題の中心であったわけではなく、いまポッと相手の口から出てきたので、thatで指している)


⑸.【では「that’s it」とはなんなのか】


A:Is this what you are looking for?
B:Yes that's it!

「that's it!」の意味は、
「今目の前に現れた「that」で指示されるべきもの」

「ずっと念頭に置いていたので指示する必要のない主題「it」」
なのだよ!
という意味である。

プレゼンテーションの終わりの挨拶でも「that's it!」ということがあるが、これは「いま話したあのこと(=that)がこのプレゼンで証明した結論(=主題=it)です」という意味で、これはつまり、「スクリーンに映っているあれがみなさんに冒頭で証明するとお約束していた結論です」というような意味である。

英語のプレゼンでは最初に結論を提示してその結論が最終的に正当化されることを予告してから話しだすのが定石であるため、このひとことが終わりの挨拶としては非常に適切だということになる。

だから、「that's it!」は「それがそれです」と訳すというよりは、「あれがそれです」と訳すとかなりいい訳になる。


⑹.【まとめ】


Steve:Kate, will you marry me? We were made for each other.
Kate:That's quite a line, Steve. You mean fate brought us together?
Steve:That's exactly what I mean. We are the perfect couple.
Kate:We've had a few nice dates. But marriage is a big commitment.
Steve:Sure it is. But I'm ready to take the plunge.

進化・無限責任・サイコパスについて

責任には、以下のような三階層がある。

【責任の三階層】
①法的責任(=数量化可能な責任)
②道徳的責任(=他行為可能性に応じた応分責任)
③宗教的責任(=無限責任)

暴力を振るわれる他者の顔を見てしまったら、無限の責任を感じて暴力を止めに入るべきということになる(=他者の顔をみたものは殺人者として無限に有責となる)のがレヴィナスの思想であるが、他方で、世の中には上記の図式のうち③のみならず、②すら理解できず、①がギリギリ理解できるかどうかの「サイコパス」という類型も存在しているらしい。つまり、暴力を振るわれる他者の顔をいくら見ても、そもそもなんの責任も感じず、そこを素通りできる人たちである。

 

実際に、①法的責任は、その踏みにじられる他者を見てそこを素通りする人たちに対して問うことは、できない。なぜならば、「犯罪とは何か」というと、「構成要件に該当する有責な行為」であり、では「構成要件とは何か」というと、❶実行行為と❷結果と❸因果関係によって定義されているからである。しかもこの因果関係というのは、条件因果関係説(=〇〇がなければ⬜︎⬜︎がなかったという定式化によって言える因果関係)ではなく相当因果関係説(=常識に照らして妥当な因果関係)によって定められている。それで、素通りすることはそもそも❶実行行為にすら該当しないので、「犯罪」になるわけがないのである。

ところで、その素通りする人々に対して、②道徳的責任ならば問えるけれども、道徳的責任というのはその素通りした人から「私はちょうどそのときお腹が痛くて、暴力を止めようにも止められないと思ったんです。だから、止めたかったけど止めに入れなかったんです。」と言われてしまえば消去されてしまう程度の応分責任に過ぎない。そうすると、彼らに問えるのは、③無限責任だけだということになる。たとえどれほど法的にも道徳的にも免責されたとしても、近くを通りかかって、踏みにじられるひとの顔を見てしまったということだけから発生する無限責任ならば、彼らに問えるかもしれない。しかし、サイコパスはこの無限責任すらも感じないというのだ。サイコパスというのは、 「惻隠の情」をもたない人々なのだという。 

先ほどの例でいえば、「止めたかったけど止めに入れなかったんです」と言える人はまだ「止めたい」と最初に思えているのだが、 「止めたい」とすら最初に思えない人がサイコパスなのである。

ところで、ヤノマミ族という部族がいる。ヤノマミ族というのは、サイコパス集団だということになるのだろうか。というのも、ヤノマミ族は目の前で喧嘩が起きていてもそれを止めない部族だそうだから。「ヤノマミ族の成人のうち二人に一人が殺人を経験している」という話もあるそうだ。

では、ここで、サイコパスとなる人も無限責任を感じる人も、どちらも進化的にポップアウトしてきていて、たまたま今の社会はヤノマミ族的な社会ではないため、無限責任を感じる人のほうが評価されているだけなのであると考えてみてはどうだろうか。むしろヤノマミ族の集落であれば、無限責任を感じる人のほうこそが異常者扱いされていただろう。つまり、レヴィナス無限責任論にもサイコパスにも、どちらにも進化的な基礎がある、ということになる。つまり現代の日本社会でサイコパスと呼ばれているひとたちは、今後ヤノマミ族の集落のような環境が現れたときには、普通のひとになるということである。このように考えてみてはどうだろうか。今後の環境変動に対してあらかじめ準備できる進化的余裕として、そういう変異(=サイコパス)も常に生まれてきているということになる。

このように考えてみると、逆に、レヴィナス無限責任論を正当化する際に、「神」などという超越的なものは不要で、進化的に①と②だけでなく③すらも感じるように、我々は進化してきたと述べるだけで十分なのである。このように考えていくことは、とても面白いアイデアではないだろうかと私は思う。

モノの論理は必然論だが非決定論でもあるとはどういうことか

【必然論だけど非決定論でもあるようなスピノザ主義だったらば、私は賛同できるのかもしれない】

モノはモノの論理に従ってガチャガチャと進んでいく以外にはないのだが、しかしそのガチャガチャの中に確率論で記述されるような偶然性があるので、モノの論理というのは非決定であるという、神秘的物質観がありえると私は思う。

こういう解釈というか物質観を、もしもスピノザ哲学からひねり出してくることができるならば、スピノザ哲学は魅力的といえるのかもしれない。私はスピノザをあまり詳しく読んだことがないからわからない。

ところで、物の側にもともとある非決定性を人間は実験室をつくることで制御して、物の動きを決定していく。このような人間による決定のことを自由とも呼ぶし、そのように人が自然を制御することを「科学の営み」とも呼べるだろう。

そもそも、私の考えでは、進化論も量子論もどちらも偶然主義なんだから、偶然主義で生きていかざるをえないと思う。現代において、決定論を取ることは端的にありえないと私は思っている。たとえば突然変異という概念は偶然性を認めることなしには使いえない。そして進化論は突然変異なしにはありえない。物体だって、最新科学の成果によればランダムネスを含む論理に従って、ガチャガチャと、必然的に(=ランダムネスを含みこんだ物体の論理に従う以外にはない仕方で)動いているという。

だから、形而上的には物質の論理による必然論を取り、形而下的(=実践的・経験的)には非決定論を取り、人間には決定論的状況(=モノの動きをあらかじめ予測できるような状況)を設立する自由があることを私は主張したい。そもそも物質が必然的に従っている物質の論理自体が量子論的偶然と切り離せないものなのだ。

物質の動きにはランダムネスが含まれている。そして生命はそういう物質について言える確率論的決定性(=統計学的には、ランダムネスを必然的に含むモノの動きも、膨大なデータがあれば、だいたいは予測ができてしまうこと)にさえも支配されずに、ぜんぜんランダムではない統合的な決断を下していくことができる。生命は物の論理を裏切り、物の論理を打ち破りながら独自に動く。生命はモノの論理に従ってランダムに動くのではなく、極性を携えて動く。生命は無差別の原理で動くわけではないからビュリダンのロバのように立ち尽くしたりはしない。生命には極性がある。生命には、ランダムネスに抵抗する独自の力がある。

たとえば、細菌は、光に引き寄せられたり、酸素を嫌って、一定の方向に動く。細菌ですら、物質の論理に従って動いているわけではなく、一定の方向を選び取って動いているのだ。生命はランダムに(=無差別に)動かない。生命は物質の論理に逆らって、好ましいものだけを選び取ることができる。ここに自由(と意識)の最初の萌芽がある。

そして、生命でさえ自由なのだから、生命のなかでも特に進化している生命であるところの人間は、モノの論理に従ってランダムに行動しているわけでは全然ない。人間は生命がもつ極性にさえも逆らって動ける。赤ちゃんが従っている生命の論理によれば全ての赤ちゃんによって忌避されるはずのコーヒーも、大人は好んで飲むことができる。実際、私はすべての赤ちゃんがコーヒーを嫌うにもかかわらず、そのような極性に逆らって、コーヒーを好む自由を発揮している。

ここまでの話をまとめよう。⑴物質の論理の中に既にある非決定性が、⑵生命として芽吹き、⑶人間に至って、ついに花開くのである。ことほど左様に、私は⑴物質と⑵生命と⑶人間とを連続的に考えつつも、自由度があまりに違うから同じ論理では語れないと考えていることになる。

たとえば、札幌雪まつりで、すべての芸術作品は雪だから、すべてが雪と同じように扱えると言ってしまうのは変である。それと同様に、全ての人間は動物だから動物と同じように扱えると言ってしまうのはおかしいし、全ての動物も物体だから物体と同じように扱えると言ってしまうのはおかしい。だから私は⑴物質と⑵生命と⑶人間とを、一方では連続的に考えつつも、他方で、人間がそれらについて語るときには、違う論理で、つまりそれぞれ別の仕方で扱うべきだと考えていることになる。

ポイントを繰り返すが、⑴物質のランダムな生成変化の中から偶然に自己組織化した秩序が、⑵既に自由なる生命であり、その生命の進化の過程(=突然変異の繰り返し)の中で残ったのが、⑶さらに自由なる人間なのである。実際、周囲が氷点下になれば即座に動けなくなったり危機に陥る微生物に対して、人間は暖房をつけにいくことができる。まわりの環境によって決定されるのみでないことは、まわりの環境によって決定されてしまうことよりも、生存に有用だったのだ。だから人間は自由であるし、その自由は進化の過程の中で、淘汰されなかったのである。

要するに、私は、①リベラリスト(=自由主義者)で、②マテリアリスト(=唯物論者)で、③アテイスト(=無神論者=内在主義者)なのであるが、そういうスピノチズムがありうるならば問題なく受け入れ可能である。

とはいえ、「物体はランダムネスを含みこんだ論理に従う以外にはどうしようもない仕方で(=必然的に)、ガチャガチャと動いていく」という神秘的物質観を私は持っていることにはなる。このような物質観がスピノザにあるのだろうか。これが私にとって疑問である。

そもそも、スピノザをテキストに密着して文字通り解釈するならば、「人間は自由だ」とスピノザは決して言わないのであろうから、上記の①の点で私の立場とはやはり両立しないのかもしれない。しかし、②と③の点でならば分かり合えるのかもしれない。

そして、私の師匠の言葉を借りれば、『神学・政治論』で理想の政治体制を語るスピノザだって、私と同じく、人間は自由だと、実は考えていたのではないか、と私は疑ってしまう。だって、自由を前提しない政治論も倫理学も、私にはなんのことだかわからないから。おそらく私があまりに無知で愚かだから、こういうことを疑ってしまうのだろう。私は、自由が大好きなのだ。

どうして悲しみは心地よいのか

「どうしても僕には、犬や猿には感情があるような気がするのですね。基本的な感情ならあるとも言えると思います。でもそれは原始感情であって、人間基準でのいわゆる「感情」とは呼べないものなのかもしれません。たとえば飼い主に怒られて悲しそうにしている犬を僕は見たことがあります。ただ、感情とは「想像力の発揮による価値の感受」のことだと定義すると、飼い主に叱られている犬は単にその場で叱られたことを悲しんでいるだけで、自分がやってしまったことや叱られていることがどういう意味をもつのかを想像して悲しんでいるようには見えない、つまり、自分が怒られているという事態を何らかの価値(=というよりはむしろ意味と言うべきでしょうが)をもったものとして構成してその意味を感受しているという感じはしないです。」

「この点で僕の念頭にあるのは「悲しみはいつも心地よい」ということです。犬が怒られて悲しい、と表現することは可能だとは思いますが、悲しみが享受されているのかというと、おそらく享受のステージがすっとばされて直接的なのでしょう。意味を経由するとしても、その意味は人間のような一般性も象徴性も経由することのないような生物学的レベルでの意味だと思います。人間は喜怒哀楽、いずれにも享受のワンクッションがあります。衝動で人を刺してしまうような怒りに心地よさはないでしょうが、意味を経由するという点で言えばやはり間接的です。犬のしょんぼりは可愛いですが、それはアルファオスに威嚇された劣位個体のありかたと同じようなものだと思います。」

「「悲しみはいつも心地よい」ってなんとなく分かるようでいて、分かりにくいです。これは具体例なしに、それ以上の正当化も不要で、当たり前に人々に是認されるような命題ではなくないでしょうか。「悲しみはいつも心地よい」ということがよく分かるような、具体例とかって、ありますか?」

「確かにそうですね。「悲しみはいつも心地よい」ことを説明するときに具体例は必要ですし、心地よさというプラスの感情ではないようなマイナスの感情もここに含まれているというのが混乱のもとだと思います。ポイントは感覚と感情の対比であってプラスの感情とマイナスの感情の対比ではありません。「悲しみはいつも云々」の言葉は感覚の絶対性と感情の間接性・相対性の対比としての表現だとするとまだ許容できませんか。ちなみにこの言葉には歴史があって、アリストテレスカタルシス論に淵源をもちます。好き好んで悲しさを経験しようとする人間観察があったのでしょうね。ただ、僕にはこの言葉はリアリティがあります。あまりに悲しくて泣けない、涙がこぼれてやっと泣ける、という経験をしたことがあるからです。直接的な経験は動物的経験で、涙もこぼせません。救いとしての涙が到来するとき、確かに悲しみは心地よかったです。」

「なるほど、救いとしての涙が到来する、ですか。つまり、「悲しみが大好物であるような不思議な人間たちの余裕の秘密は、自他の区別である。役者に自分を投影しつつも他人事として役者を見てもいるから、観客は悲劇でさえ楽しめるんだ。劇中で、あるキャラクターが裁かれたとしても、それは自分によく似た他人であるから、人々は余裕を持って見ていられるんだ」というアリストテレスの見解を、「悲しみが大好物であるような不思議な人間たちの余裕の秘密は、感覚と感情の区別である」と修正したのがマルブランシュだったわけですね。マルブランシュからすれば、大恋愛してから失恋した直後のひとはボス猿に脅されてパニックに陥り、なにもできなくなった子猿のように、感情として悲しむということがまだできていない。とにかくショックで、怯んで、何もできないのだから、ごはんも食べられない(=冷静でいられなかったり、無気力になったり、混乱しているせいで情緒がうまく定まらなかったりする)。しかし、そこでもし何かのきっかけ(=例えば踏み切りを見ること)によって、「この踏み切りのように、一時代が終わったのだ」という意味づけが与えられれば、やっとのことで、その衝撃は、めでたく「悲しみ」となる。悲しみは、どうすればいいのかわからないという感覚ではなく、泣けばよいということが分かっている感情なのである。そしてその悲しみには、余裕がある。どんな余裕かというと、意味上の解釈の余地があるという余裕である。つまり、解釈次第でどうにでもなるという余裕がある。「一時代が終わってしまった」と意味づけられる距離が事態とのあいだに生まれたとき、「次の時代に進むための重要なステップだった」という解釈がその事態に対してできるようになるための距離も同時に確保されているのだ。感情には余裕があるから心地よく、その余裕の中で、泣けばいいことなのだとも分かっていることが心地よいのである。さっきまで、どうすればいいのか分からなかったのに、いまや泣けばいいのだから。そしてさらに、この余裕は、最終的には悲しみをたくましい(=ふてぶてしい?)自己肯定へと変えてしまう。なぜならば、たとえ悲しみが「自殺をするべきような失恋だ」という強烈な意味づけを帯びていたとしても、その意味づけは瞬間的なもの、一過性のもの、より強い言葉で言えば「思春期的なもの」、後発的なもの、でしかなく、次第に、生命の先発的価値である生きることの肯定という大原則に適うような別の意味づけに場所を譲っていくからである。こうして、「次のステージに進むために必要な失恋だ」という別の意味づけが生まれてくる。だんだん(感覚にはなかった)感情の「余裕」は、「心地よさ」へと繋がっていく。だから、「悲しみはいつも心地よい」のである。こういうことですかね。そして、アリストテレス発祥の「悲しみはいつも心地よい」という表現に類似の言葉として、⑴「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」(松尾芭蕉)とか、⑵「生きている中、わたくしの身に懐かしかったものはさびしさであった。さびしさの在ったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった。」(永井荷風「雪の日」)とか、⑶「苦悩の感情においても人は少なくとも自己を感じ、自己を所有する。このことだけでも、すでにそれ自身によって、自己感情の絶対的な欠如よりも幸福なること無限である」(フィヒテ)というようなものを見つけました。個人的には、⑴が一番ピンと来ました(⑶はすこし大袈裟な表現だと感じます)。わざわざ悲しみを構成してその意味を味わうというようなことが、僕にもあるし、そのことは無意味な動物的衝撃に苦しむときよりも、人生を豊かにする余地に僕が恵まれていくということなのかもしれません。「感傷に浸る/ふける/おぼれる」という言葉はネガティブな価値づけを孕んでいますが、そのことが人間の生を豊かにもしているとも言わなければ片手落ちのような気もしてきますね。」