以下の事例について考えてみたい。
<⑴泣き虫事例>
①よく泣くから泣き虫だ(≒よく嘘をつくから嘘つきだ)
②泣き虫だからよく泣く(≒嘘つきだからよく嘘をつく)
このふたつの命題対立に構造的に対応するものとして、
<⑵思考力事例>
①考えられるから思考力がある
②思考力があるから考えられる
などがある。さらに哲学的にこれを発展させると同型の問題として、
<⑶カント事例>
①因果が分かるから因果の概念がビルトインされている
②因果の概念がビルトインされているから因果が分かる
という問題もある。
さて、さらにこれを哲学的に発展させた同型の問題として
<⑷バークリ事例>
①物を感覚できるから物がちゃんとある
②物がちゃんとあるから物を感覚できる
という問題もある。
そしてこの①と②は、不思議な同型の対立関係になっている。そして次のような両立化さえできる。それが次の命題③。
【折衷案】
③物を感覚できるから、「②物がちゃんとあるから物を感覚できる」といえる状況が成り立っている
こういう対立構造を持った命題は他にもある。
<⑸ニュートン事例>
①リンゴが落ちるから万有引力がある
②万有引力があるからリンゴが落ちる
<⑹ホッブス事例>
①社会的行動ができるから社会契約がある
②社会契約があるから社会的行動ができる
などというのも、実は同型の対立と言えるだろう。
そこで、最初の<泣き虫事例⑴>にもどって、もういちど根本的に考えてみたい。
「あいつは、よく泣くから泣き虫なのだ。」とAさんが言ったときに、Aさんへの反論として、「いや、そもそもそいつがよく泣くのはもともと泣き虫だったからだよ」と言ってくるBさんというのが現れる。Bさんは、泣く行為よりも先にある実体として性格というものを実は創造しているのだ。実際、一度も泣いたことがない泣き虫とか、一度も嘘をついたことがない嘘つきとかを考えるのはおかしい。ここでBさんは、動詞的なものよりも先に名詞的なものがあったと言い張るひとつの発明をここでしていることになる。
つまり、泣き虫であることは、実は泣くことの結果であるのに、泣くことの原因の地位を僭称するのである。
だから、もっとまともな考え方、つまり【折衷案】としては、
【折衷案】
③よく泣くから、「②泣き虫だからよく泣く」といえる状況が成り立っている
と考えるべきではないのか。
同様に、<⑶カント事例>についても、
【折衷案】
③因果が分かるから、「②因果の概念がビルトインされているから因果が分かる」といえる状況が成り立っている
ことになるだろう。
では、問題中の問題である。
なぜ人には、因果がなんとなく、わかるのか。純粋悟性概念の発揮としてではないとしたらなぜか。
私はこの問題について、「そもそも人は、世界の事象を人の行為のように分解したり再結合したりしながら擬人的に捉えることをしていて、その行為の構造を抽象化したものを因果と呼んでいるだけだからだ」と答えたい。
つまり、実は世界を因果的に理解することに成功するとは世界を己が行為に擬えることに成功するということなのである。
無人島に漂着すれば、海水を熱するのが原因で結果はマミズになる。私が海水からマミズを取る行為に擬えて世界を再構成しているからである。塩業者ならば海水を熱するのが原因で結果は塩になる。私が海水から塩を取る行為に擬えて世界を再構成しているからである。
「純粋悟性概念よりも行為的理解が先にあり、行為的理解によって因果的理解が可能になり、因果的理解によって純粋悟性概念がすべての始原にもとからあることになった」
という順序があることがわかる。では行為的理解とは何を前提するか。これはなにかを選んで価値づけること、その価値に向かって肉体運動を積極的に組織していく力を前提する。ランダムネスに抗ってある方向を有意に選び取る、こうした極性のある力のことを私は生命力と呼びたい。ゆえに、行為は生命を前提する。そしてその生命はランダムな環境変動に翻弄されるがままになりがちな微生物でいいわけでもない。生命は、途方もなく長い時間をかけて行為のレパートリーや射程距離を増やしてきた。だから、単なる生命ではなく高等生命に至るまでの長い進化の過程を前提することになる。チーターくらいの高等生命にならないと、行為を環境のなすがままではない仕方で安定的に組織することはできないだろう。ゆえに、行為は生命とその進化を前提する。
ここからはまた違う角度から、この問題をさらに掘り下げてみよう。令和の日本では、本来は交互に腕を出して歩くということは日本の明治軍国主義教育の発明なのに、そんな発明自体存在せず、もとから交互に腕を出して歩いていたことになっている。少なくとも、そう思い込んでいる人は多いだろう。実際問題、多くの現代人はそう思っている。江戸時代からずっと同じように歩いてきたと思っている。つまり、本当に巧妙な発明というのは発明の事実自体に気づかせないようになっているんだと思う。
本当は社会契約論自体をある時代の社会思想家が発明したのに、「もともと社会契約というものがずっとあって、だからこそ社会契約論を唱えることができているのです」という態度を社会思想家はとっていると思う。社会的現実があるから社会契約ができたのに、社会契約があるから社会的現実があることになっている。「もともとこの子には泣き虫という形質があって、だからこそいま泣いているのです」というのと同じ。潜在的なものの発露として顕在化したものを捉えることにするという発明をしているんだが、実際にはその潜在性こそが、顕在を捉えるまさにそのときに発明されている。発明家が、自分の発明の事実自体を隠すという態度がここにはある。「潜在化していたものが顕在化した」ということが正しくなるように顕在を捉えるのである。社会契約論を唱えるとは、「社会契約がもともとあったから社会的現実がある」ということが正しくなるように社会的現実を捉えることであり、そのことは自分が社会契約というものの内実をそのとき密かに創案し発明しているという事実の隠蔽を含意している。なぜなら、社会契約は、もとからあったのであって、そのときその思想家によって作られたわけではないことになるのだから。
<⑺「青い鳥」事例>
【もっとも巧妙な発明は発明がある日なされたこと自体を隠蔽し、元々そうだったことにする】
「たとえば、人にうまくだまされたりして自分は幸福だと思いこんでいた人が、だまされていたことに気づいたとき、そのとき不幸になるんじゃなくて、もともと本当は不幸だったって思うようになるだろう?つまり、たんに「気づいたときに不幸になった」わけでもなければ、たんに「もともと不幸だった」わけでもなくて、「気づいたときに<もともと不幸だった>ことになった」ってわけだ。「青い鳥」の場合はどうだろう?そうか、「青い鳥」の場合はその逆なんだ!子どもたちは、そのときに幸福になったわけでも、もともと幸福だったわけでもなくて、(引用者註:故郷に帰ってきて家にいた鳥を見た)そのとき<もともと幸福だった>ってことになったわけだ。」(永井均著『子どものための哲学対話』98頁)
<⑻キャプテン翼事例>
①経験するから概念がある
②概念があるから経験する
【折衷案】
③経験するから、「②概念があるから経験する」といえる状況が成り立っている
→概念は経験から生まれるし、経験がなければ概念なんて生まれられるわけがないのに、概念の方が先にあるようになった状態で、日々の新しい経験は行われています。たとえば、僕らは机の上のランプを見るときに、「ランプとはどういうものか」という概念を前提しながら、そのランプを見ていて、そういう概念が先にある状態でなければ通常のランプ経験なんてありえないようになっています。だからこそ、突然そのランプがある仕掛けでジャンプしたとしても、そのジャンプに全く気がつかないような人がいます。たとえば、僕がもし読書中に、机の上でランプが静かに数秒間浮いたとしても、僕はそれに気づかないと思います。それは、そのようなランプについての概念があらかじめある状態になっているからです。さらに、その概念の方が人間にとって大事になっていることがわかる事例というのがあります。それが、『キャプテン翼』です。主人公の大空翼くんは11頭身ですが、それは「サッカー選手とは足がとても長いものである」というサッカー選手の概念を表現したものだからです。そして、人は何かが重要になればなるほどそれについて高いリアリティを感じますから、実際のサッカー選手の頭身数よりもサッカー選手の概念の頭身数の方がリアルだと感じることがあります。そして、11頭身のサッカー選手を描いた漫画のほうが、短足のサッカー選手を描いた漫画よりもハラハラドキドキして、面白いとも感じます。それで、多くの漫画は、人がサッカー選手について持っている概念を表現しているのです。そして、人は『キャプテン翼』の翼くんの11頭身を見ても違和感を感じないのです。人は「目の前のサッカー選手に似ているもの」よりも、「目の前のサッカー選手に似ていると他人が言うもの」の方を描いており、前者を無視して後者を描くということは対象を分かりやすく単純化したり誇張したり象徴的に表現するということであり、それがデフォルメするということです。その対象に似ていなくてもその対象に人々が与えている意味さえ分かればいいということは、人々が生きる意味世界の一員であることが重要だということです。つまり、リアリティとは重要性のことですが、通常のリアリティを作っているのは、こうした概念なわけです。通常の経験は、その人がもともと持っている状態になったところの概念に浸されながらしか生じません。我々は重要な概念を毎日経験していると言ってもよいでしょう。しかし、哲学的な訓練をした人の経験というのは、その経験の及ぶ範囲を大幅に拡大することができます。どういうことかというと、そうした概念を使って人が知覚している、その知覚作用自体の内的経験にさえ、経験の範囲が及ぶことがあるのです。これを「覚知」と呼びます。そして、「いま覚知されているこの僕は、この概念を使いながら現象の構成をしているんだな(ところでこの概念ってどこから僕のところにやって来たんだっけ?たとえば、原因の概念って意図をもつ存在にしか扱えないんじゃない?)」というような経験をすることさえ、できるようになるわけです。こういう、覚知された私による概念を駆使した現象の構成を文脈ごとに分けて分析していくような経験のことを「反省」といいます。だから「覚知」は「反省」を可能にします。哲学とは、実はこの「反省」をすることで概念の由来について考える営みなのです。反省を方法とする哲学のことを「反省哲学」といいます。自分がどんなふうにして世界を立ち上げているのか、つまり、経験の構造、世界の枠組みはどういう順序で自分が立ち上げているのかということを自覚していくのが哲学という営みです。こういう営みをわざわざやるメリットは、世界と自分の関係が、もはやよそよそしいものではなくなるということです。同じことを、「世界を私に手懐けること」ができるようになることだと言ってもよいでしょう。そして、この「反省」が自己目的化してもいけません。反省はあくまでも覚知された自分と、その自分に感受される諸価値との関係を自覚するためにやっていて、ものごとの軽重を見誤らないためにやっているのですから、ひとときの反省が終わったら、すぐにまた生活へと戻っていかなければなりません。このとき、反省している自分と、反省されている自分とを別の者と考えて反省をいたづらに累進させたところで、無限後退にしかなりませんし、その差異は喫緊の生活の課題からすればどうでもよいものです。
<⑼脳科学事例>
①意図するから脳科学で見つかる法則がある
②脳科学で見つかる法則があるから意図する
【折衷案】
③意図するから、「②脳科学で見つかる法則があるから意図する」といえる状況が成り立っている