aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

「素晴らしい日々」を過ごしております

https://youtu.be/7K_G1a_P12s?si=a39PW06XYGYX52LE

「君は僕を忘れるから、そうすればもうすぐに君に会いに行ける」。

→大切な人たちと疎遠になっていく。たくさん迷惑をかけたのに、支えてくれた人たちが私にもいた。会いたい人たちである。これ以上、彼らに自分の卑小な部分が記憶されるわけにはいかなかった。だから、彼らとは疎遠になった。お互いに忙しくなり、いま彼らに、会わせる顔はない。彼らが私のことを忘れる頃になれば、自分の根本部分とその開花を見せることができて、また楽しく会えるのかもしれない。なつかしい歌も、笑い顔も、すべてを捨てて、私は朝も夜も歌っている。文章を書き、勉強している。そのことによって、また彼らと笑い顔で会える日がくるかもしれない。最近は、力にあふれ、素晴らしい日々だが、すべてを捨ててもいる。自分の名前さえ捨てた。私の近況とは要するにそういう日々のことである。時々はぼんやりお世話になった人たちのことを考える。私が、彼ら最良の人たちとの人間関係を捨てたのは、彼らにいつかまた会うためである。彼らは私の全てであり、その全てを捨てて僕は生きてる。そうすることで彼らにまた会えるようになるだろうか。そう願っている。私には勿体無いほどの法外な優しさをくれた、懐かしい彼らに。

ルソーの思想における注意すべき点

僕は、企業は、ルソーの一般意志という概念を悪用して「一般意志モドキ」を作りがちだと思います。これが問題の根本だと思います。多数決に依らずに決まり、弱い個人の意志を大切にしながら、共同体みんなの利益を目指していくという一般意志という哲学の概念は、反資本主義の論理という看板でありつつ、実際には企業の重役たちこそが率先して取り入れてきた論理だと思います。例えば、企業は、社員に対して、「次の重役との面談までに、あなたのプランをあなた自身で作ってきてください。あなたの勤める会社なのですから、こういうミーティングに参加することは、あなたの義務であるだけでなく、権利でもあるのですよ。この企業であなたも責任感を涵養し、能力的にもあなた自身が成長できるのですから、この企業で働くことはあなたの義務(やらないといけないこと)であるだけでなく権利(やりたいしやれること)でもあるのです。」と毎月、言ってきます。それに対して、社員が「今日は自分なりのプランを作ってきました。結論から言うと、今月は100円しか稼げそうにないです。なぜなら、無理をしたくないからです。」と言うと、企業はそのプランは受理してくれません。それゆえ、「今月は100万円稼いできます。それが僕の考えたプランです」と言わざるをえなくなります。しかも、だんだんそれが自分の本当の意志なのだと思い込まされます。それで、そのプランを社員に事実上押し付けて、個人を抑圧しそれによって搾取しているにもかかわらず、会社の重役たちは「このようなプランを提出してきたのは社員たちの側だから、我々は個人たちを犠牲にして搾取などしていない。社員が過労で倒れたのは、社員が進んでそのプランを立てたからだ」と言います。会社の重役たちは、無理なプランを、社員みずから自分たちに発案させることによって、事業計画を考えるという労苦も「権利」という美名のもとで押し付け、さらにはそのプランが失敗したときの責任も個人に取らせます。さらに、社員たちには、10年先までキャリアプランを立てさせて、提出させることを通して、会社にとって不都合なことを社員が考えていないかを調査してきます。まさしく思想調査です。「成長」というのも、会社にとって有益な能力を身につけられるかどうかを基準に成長しているかどうかが判断され、会社の利益に繋がらない能力、料理とか歌唱とかボードゲームなどの能力を社員が身につけることは「成長」とは言われません。むしろ「退化」と言われるでしょう。まるで会社が自分の家のように、アットホームな会社と、自分個人とは運命共同体なのだと思い込ませ、会社に自分のプランを提出できることは義務であるだけでなく会社の構成員としての権利なのだと思わせます。そして、業績不振が続く社員を会社がついにクビにしたいときには、「提出させたプラン通りの自己都合の自主退職」であって、「会社都合の解雇ではない」ということにします。なぜなら、自己都合退職が出るのと会社都合退職が出るのとでは、今後の会社の評判が大きく変わるし、会社都合退職が増えると会社が今後、助成金をもらえなくなったりするからです。本当は会社都合であるのに自己都合に見せかけることによって、「公私の一致」が起きている良い会社であるかのように見せるのです。本当は単なる私性の抑圧であり、全体主義に過ぎないのに、それがみんなの利益であり一般意志の実現であるかのように偽装するのです。全体意志として多数決をしないぶんだけ、より欺瞞的とも言えます。企業において本当は個人の意見など軽視されているのに、その個人の意志が重視されているかのような印象を作り出すために、「一般意志」という概念は利用されているのです。一般意志という概念はまさに「ファルマコン(=薬局すなわちファーマシーの語源となったギリシア語であり、意味は、毒と薬のどちらにもなる)」であって、小規模なコミュニティにおいて正しく使えば、自分たちの街のことは自分たちで決め、しかもそれを多数決では決めず、ひとりひとりの意見を救い出そうとしながら、権利と義務の一体化を目指す責任感あるコミューンが作れます(=シチズンシップ教育)。しかし、悪く使えば、企業という共同体のために私の意見を捻じ曲げさせ、自分に嘘をつかせてでも企業のために「喜んで」働かせるような会社組織が作れます。毒と薬が全く同じ源泉となっている点で、一般意志はまさに「ファルマコン」と言えます。

利己主義の何が問題なのか

「エゴイズム(=利己主義)は悪い」というのはどのように正当化したらいいだろうか。そもそもエゴイズム(=利己主義)を倫理学はどう考えているのか。普通、倫理学において利己主義は良くないとされている。その理由を今から二つに分けて説明する。まず、⑴心理学的利己主義は「全ての人は全員実は利己的である」という現状分析的な考え方で、⑵倫理的利己主義は「みんなやろうと思えば利他的にもなれるけれども、あえて全ての人は利己的に行動すべきである」と考え方である。この二つのどちらも間違っていると言われている。例えば、災害ボランティアやチャリティーコンサートは利他的行為である。これすらも実は自己顕示欲を満たすためにやっているというのが、哲学者ホッブスの心理学的利己主義のような立場である。ホッブスは「慈愛(=チャリティ=カリタス=アガペー=無償で他人に与える愛のこと)」の利己性を暴露したことで有名であった。チャリティーライブとか24時間テレビのチャリティーマラソンなどのような事柄にホッブスは批判的である。これは、芸能人が、他人より能力があることを見せびらかしたいだけだとホッブスは考えた。チャリティーライブは、自分は人をこんなにたくさん動員できて、お金を集められるんだということを見せびらかしたいのが本心なのだとホッブスは考えた。ホッブスは、慈愛だけでなく「憐憫(=ピティ)」についても、酷い目に遭っている悪人には憐憫を感じないのだから、自分が次に酷い目に合わないように憐憫を感じているだけだと言っている。例えば、丸の内線と日比谷線と千代田線にサリンを撒いた人々が次々に死刑にされても同情や憐憫を覚えないだろう。なぜなら、自分たちが毒ガスを撒く側になるとは思えないからである。だから、毒ガスを撒いた人に憐憫を覚えないのである。だから、同情にも利己的選別が働いていて、自分と似たような人が酷い目に遭わないように、つまり「我が身可愛さ」のゆえに利他的行為をしているのだとホッブスはいう。さて、このホッブスの議論には問題点がある。要するに、「行為は利他的に見えるが動機は利己的」なものばかりで「行為も利他的に見えてその動機も利他的」なものなどは無いのだ、とホッブスは言っているわけだが、全員の芸能人がそうでは無いだろう。そういう自分の能力を顕示したいだけのアーティストもいるかもしれないが、そういうアーティストばかりでは無いだろう。そこに問題がある。ホッブスとは別経路での、心理学的利己主義の論証がある。自発性に注目した論証である。例えば、同じ5000円の使い方でも、「義援金を送る」のと「ゲームソフトを買う」のでは異なる。前者は利他的で後者は利己的である。しかし、どちらも自発的ではある。「自発的ということはやりたいということ」で、やりたいのだから、どちらも利己的だ、という論証である。しかし、歯医者に行くのはイヤイヤであるが自発的ではあるので、「自発的というのはやりたいことだ」と断じるのは間違っている。利他的行為をやっている人は、自発的にやりたく無いことをやっていると言えるのだ。自発的だからといって、やりたいことだと断じるのは間違っているというわけだ。自己顕示欲ではなく効果に注目した議論もある。「チャリティーライブをやると、みんなの笑顔を見て、主催者の気分が良くなる、だから主催者は利己的だ」という議論である。しかし、これもダメだと言われている。なぜなら、ここで芸能人は、初めから動機として「みんなの笑顔によって自分の気分が良くなること」を目指していたわけではなく、つまりそれはチャリティーライブの動機ではなく、思いがけないことだったからである。最初は本当に人々を笑顔にすることを求めていたかもしれないからである。そもそも、歯を磨くことは自分の利益になるが利己的なわけではない。喫煙だって、自分の利益になることは無いが、快楽の追求にはなる。ということは、快楽を追求しているからといって自分の利益を追求しているわけではないし、利益を追求しているからと言って利己的になるわけでもない。もう少し人間を記述するときには繊細な議論が必要なのではないか。それゆえ、⑴心理学的利己主義は現実に反しているということになる。上記とは異なって、⑵倫理的利己主義という立場があって、これは「たとえ利他行動が取れるとしてもなお、自分の利益を一番重視するべき」という立場で、その理由とされているものには3つある。①他人の考えていることはよくわからないので、人助けはよく失敗しがちで、「千羽鶴」なんかを被災地に送られても迷惑なのである。お酒を飲まない人にお酒を送るのは迷惑なのである。だからやめましょうという理由。②また、助けられる人の側では自分で問題をなんとかしようと思っていたり、あるいは他の人に頼もうとしていたかもしれないのに、そこへ頼まれてもいない援助をするのは「プライバシーへの介入」であるからやめた方がいいという理由。③さらに他人を慈愛の対象にすることは、その人を見下しているのではないか、自分の劣等感を埋めている、自己肯定感を得ているのではないか、という理由もある。ロバート・オルソンという倫理学者はそのように考えているようだ。つまり、「全ての人の利益を追求するためには自分の利益を追求する方がいい」というのがこの考えである。しかしこれはどこか利他主義的な匂いがすると批判されている。なぜなら、結局、全ての人の利益を考えたいという目的が最初にあるからである。それゆえこの立場にも問題があると言われている。「利他主義者は社会の生贄になっている」と考える利己主義者アイン・ランドもいる。しかし、アイン・ランドも利他主義の定義が極端すぎると言われている。「全財産を寄付して社会の生贄になる」という以外のちょっとした利他的行動、例えば100円を寄付するというのもあるからだ。まだまだ、⑵倫理的利己主義を擁護する論証がある。例えば、嘘をつき続けた場合には、誰からも信用されなくなる。同様に、利己的行為ばかりだと他人が離れていくだろう。利他的行為をたまに行うとみんなから捨てられないので、嘘をつかないことや利他行動が、結局は自分にとって有用だという考え方があり、これも、一般的なルールたちを利己主義によって正当化できる点で利己主義の優れた点だと言われる。しかし、他人に危害を加えることで自分の利益を導けることもあるではないかとして、これも批判されている。倫理的利己主義には問題が多いと言われるのはこういう理由である。それゆえ、⑴と⑵のどちらの利己主義を取るにせよ、利己主義を取ることには問題が多い。

資本主義の過酷さを緩和するために

こちらのブログでは、⑴換金、⑵分業、⑶成長という3つの僕の嫌いな概念を順番に批判しています。

 

⑴.【換金の思想に抗して】

 現行資本主義にはある重大な人間に対する単純化がある。まず前提として、人間は、快楽ではなく意味を求める不思議な生き物である。意味さえあれば不快さえ欲するのが人間である。「断食」は苦痛であるが、神の教えに適うと言われればやりたくなる人もいるかもしれない。「切腹」は苦痛であるが、名誉ある行為としてみなされていればやりたくなる人もいたかもしれない。「自傷」は苦痛であるが、嫌いな自分を罰することでこの世界に正義を回復する営みとしてみなされれば、やりたくなる人もいるのかもしれない。スカリフィケーションだって、成人式とか出産経験とか戦歴の証だと言われれば、やりたくなる部族もいるのかもしれない。人間は事実として、そうやって生きている。人間は快苦の原理ではなく意味の原理によって生きている。この人間観の提示を私がしたところまでは、これ以上の具体例による証明はせずに、前提させてほしい。

 さて、ここからが、現行資本主義社会がやっている、人間に対するある重大な単純化を指摘する段である。人間が求めている意味を、現行資本主義社会は「換金」というやり方でしか人に認識させまいとしているのだ。どういうことだろうか。

 たとえば、こういうことが若者の間でささやかれているのを、私は聞いたことがある。「初任給をもらって本当に嬉しかった。なぜなら、収入があるってことは、私が社会から求められていて存在してもいいよって言われたという、証拠だから」と。この発言、裏を返せば、収入がないと、「証拠(=エビデンス)」がないので、自分には生きる意味がないことになりかねない、そういう構造の中で生きている、ということなのだ。この発言に対して普通は「初任給、貰えてよかったね」と人々は口々に言うのだろうが、私には「よかった」と言っていいのかどうかがわからなかった。
 
 大金持ちになれば、自分は世界で求められている有意義な人なのだと分かり、貧乏になれば、自分は無意味だとわかる。これはたしかに分かりやすいシステムではある。だから、前提としてあらかじめ述べておいたように、意味を求める動物であるところの人間は、このシステムを採用した。現代において、「意味」が欲しければ「金」を稼げばいいのだ。「世界に求められている」とか「自分には自己効力がある」とか、そんなふうに思いたければ、「金」を稼げばいいのだ。

 さて、ここで考えてみたい。人間はそんなに金持ちになりたいのだろうか、と。「人間が欲しいのはカネ以前に意味ではなかったのか?」という問いを私は立ててしまう。たとえば、詩作を例にとって説明してみよう。たしかに、誰にも読ませない詩をひとりで書き続けて、それでも豊かな意味世界を生きれるから大満足だという人はかなり少ないだろう(ただし、エミリー・ディキンソンという詩人は、生前ほとんど無名であり、40冊の詩作ノートは死後に親族に見つかって出版され、大詩人として有名になったわけだから、そういう詩人も確実にいるわけだけれども、こういう事例は少数派であることはやはり動かない)。しかし、じゃあ、人間は満足するためにその詩を換金したいだろうか、とさらに問うてみて欲しい。そこまでは不要であるとわかる人もいるだろう。流石に「不要」とは言わないにしても、「必然的」とまでは言えないはずだ。かくいう私も詩を書いたことがあるのだが、同居人に夕食のときに聞いてもらったり、批評してもらうだとかすれば、かなりの満足感を得られた。その体験は、とても有意味であった。あるいは、友達を集めて詩の朗読会をしたら楽しかっただろう。話を戻そう。私が言いたいのは、「意味が欲しいのはわかるけど、そんなにその詩を「換金」したいだろうか?」ということである。何度も言うが、100年弱の生の中で、人間がひたすら求めているのは「意味」である。意味がちゃんと濃厚な体験を通して感受されるならば、「カネ」という分かりやすい指標が与えられることは実は不要かもしれない。このように、丁寧に日常を分析してみれば、意味とカネの結びつきが実は必然的ではなく、恣意的であるのにもかかわらず、さも必然的であるかのように偽装するところに、現行資本主義の詐術というか飛躍があると私は指摘する。

 さらにもっと踏み込んだことを言えば、その詩を換金することで本当に意味づけはより濃厚になるのだろうか、と私は問いたい。たしかに、意味づけがより分かりやすくはなるだろう。たとえば私の書いた平凡な詩が一個100円で売れて、カネが入れば、どれくらい私の詩が社会にとって有意味なのかは多少分かりやすくなる。しかし、分かりやすくはなるけれども、人はとにかく意味を求める動物なのであるから、私はその100円をもらうより、直接その詩について誰かとコミュニケーションが取りたくなるのではないだろうか、と私は予想する。要するに、前述した通り「人は意味を求める不思議な動物」であればあるだけ、人は「カネなんかじゃ満足できない」はずなのである。100円をもらったら「カネなんかいらねえよ!バカにしてんのか!」と吐き捨てる詩人さえいるかもしれない。実はあらゆる生産物一般にこの詩作事例と一脈通じるものが、あるようだ。この件については後述する。

 ところで、2019年1月21日のニュースで、「世界の超富裕層26人、世界人口の半分の総資産と同額の富を独占」という見出しがあった。なぜこんなに富裕層はカネを欲しがるのか。それは前述の人間観からすると、富裕層も人であるから意味が欲しいからなのだが、ではなぜここまで求めるのかをさらに考えてみるなら、その意味を確認する方法が、カネをたくさん持つことによって確認するしかなくなっているからではないか。つまり、富裕層のこの26人の性格がガメツイからこんなにたくさんの冨を独占しているわけではないと私は考えている。おそらく彼らは性格的にはむしろ温厚で優しい人たちかもしれない。彼らは、現行資本主義のシステムによって、意味を確認する手段がカネによって表示される数字を見ること以外にはないと確信させられてしまっているだけ、なのではないか。私は現行システムの最上層にいる彼ら26人こそ、この換金の思想の最大の被害者であるという見方すら可能だと言っているのである。カネの動きを気にかけ、カネを掻き集めることを24時間やらねばならないとしたらそれは、彼らがそれほどの不安の中にいるということかもしれない。

 ところで、「ベーシックインカムを導入すると、頑張っただけ損をするから、労働意欲がなくなるぞ。頑張ってないやつにもお金がいくのは不公平だ。」などという意見をしばしば目にする。しかし、この意見にもこれまでの議論を接続して、反論が出せる。まず、実際に社会実験をしてみた結果、「ベーシックインカムを導入すると、人々が何もしなくなる」などということはないということを示唆した実証研究は存在するわけだが、私はそのことを引用したいわけではない。「人間は快楽も苦痛も関係なく、とにかく意味を求めている」という前述の人間観からすると、そのような実験結果になるのは当然だから、引用する必要すらないと私は考える。そもそも、よほどのブルシットジョブをやらされているのでなければ、仕事はカネとしてのみ意味が表示される前から、その場その場で、現れては味わわれていくような、コンサマトリーな意味に満ちている。仕事はそこそこの創造性を持っているのである。つまり、人間は、ベーシックインカムが導入されようがされまいが、怠惰にはならず、すき好んで仕事をするのであるという結論が先ほどの人間観からは自然に出てくるのである。「ベーシックインカムを導入すると、頑張っただけ損をするから、労働意欲がなくなるぞ。頑張ってないやつにもお金がいくのは不公平だ」などという主張をするのは、その人が「仕事」というものを本当に無意味でしかないものだと前提しており、だからこそ「仕事をしなくても収入があるなら、誰も仕事をしなくなる」という主張にリアリティが感じられているのである。つまりこの主張をする人はブルシットジョブに苦しめられている被害者である可能性が高い。ここでもまた、現行資本主義システムの被害者こそがシステムを維持する側にまわっているのである。このように、「現行資本主義システムの被害者こそがシステム維持の急先鋒をやらなければならなくなる」という構造が資本主義社会の至る所に観察されるわけだが、これこそが、現行資本主義が延命していく構造であると私は指摘したい。再分配に消極的なトランプを支持する人の大半は、貧困層であり、もっとも再分配を必要とする人々である。

 

⑵.【分業の思想に抗して】

 ではなぜ、仕事というものが、これほど無意味に感じられてしまうのだろうか。仕事とはカネのためか、さもなくば空虚であるというその前提はどこから来たのか。それは、分業から生じたのだと私は思う。現代には、本来の仕事の充実感、愉しみを忘れさせ、仕事とは単なる苦痛でしかないものであり続けてきたし、そしてとにかく自分はその仕事を通してせめてカネが欲しいだけだと思い込ませるような分業の思想がある。そしてその分業の思想は次のように展開する。まずは、❶大量のカネを求めないとやっていられないくらいまで仕事の中身を非人間化させ、❷さらにそのカネさえあまりもらえなくさせ、❸そしてそんなヤバすぎるシステムへの反抗もできなくなるくらいまで手足をもぎ、❹手足をもがれたことでそれでもギリギリ生かしてもらえる現在の職場にむしろ感謝する(=やりがいがあり楽しい職場であるかのように自分の感情を騙しながら働く)しかなくなる、というように展開する。この❹が現在の状況なのだ。仕事は、巨額のカネがもらえるならギリギリ耐えられるようなものに成り下がり、そのカネさえだんだんもらえなくなってきたのが現状なのである。分業の思想の展開をもう一度、もっと詳しく見ていこう。

 

①労働者たちを分業させることによって、

②労働者の当人ですら何をしているか分からないような仕事が増え、単純作業も増えていき、

③その細分化されたあとの小さな仕事のことしか分からないから、製品を最初から最後まで1人で仕上げるスキルが身に付かず、

④分業体制が基本だから、職場内での人間関係にも細心の注意を払わないといけなくなり、分業を乱すようなやつは職場で嫌われるようにもなり、

⑤そこまで分業が進むと、「現在の会社に解雇されると、お前みたいに、うちの会社の分業システムに適応した単純作業しかできないようなやつは、他の会社では雇ってもらえないぞ」と脅されたときに、その言葉に労働者はリアリティを感じるようになり、実際に、いまの会社では他の会社でも使えるようなスキルが身についていくわけでもなかったりして、

⑥労働者はたとえ低賃金でも会社に継続的に雇ってもらえるように、楽しくもない仕事をひたすら続けるようになり、人間関係にも気を配りながら、(良い製品を作るというよりはむしろ)顧客や上司の機嫌ばかりを取ることを気にかけるような人間になっていき、

⑦しかも、分業によって自分のやっている作業が、機械や低賃金でも喜んで働くような外国人労働者でも置き換え可能なくらい単純になってしまったから、労働者たちは機械や外国人労働者に自分の仕事を奪われることを警戒するようになる。会社もそのように労働者を脅せば賃金を下げることができ、

⑧そして、海外から来た労働者に対するヘイトが煽られることになる。ヘイトは資本主義ではなく海外からの移民に向けられ、

⑨このように労働者の立場を細分化して分断しておけば、労働者間で一致団結することも少なくなる。労働者間で嫉妬しあい、足の引っ張り合いをするようになる。

 さて、ここで重要なのは、分業によって転職ができないくらいにまで業務を細分化され手足をもがれた労働者たちが、その労働を好きだと発言してしまうということである。この件を研究した実験を紹介する。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーが1959年に「1ドルの報酬実験」という認知的不協和の存在を実証するために設計された実験を行った。この実験は、退屈な単純作業をさせ1ドルの報酬を与えるグループと20ドルの報酬を与えるグループに分け、その作業の面白さを最後に質問するという内容だった。そして、その実験内には退屈な単純作業を終えた被験者が、次にその作業をする人に対し「この仕事は面白くてやり甲斐がある」と実際の感想とは反対の発言をするように強制されることが含まれていた。要するに、単調な作業を強制的に了承させて「面白かった」という発言をさせられた後に、1ドルあるいは20ドルの報酬を受け取るという手順を踏んで「この作業は面白かったですか?」という質問を最後に改めて受けるという実験だった。この場合、1ドルよりも20ドルの報酬を貰ったグループの方が「面白かった」と回答しそうだが、結果は反対。1ドルの報酬のグループの方が「面白かった」と答える人の割合が高かった。20ドル報酬グループの被験者は「面白くない作業を面白いと強制的に言わされる認知的不協和の状況が20ドルの報酬で正当化された」ので面白くないという本心を維持することができたが、1ドル報酬グループの被験者は、「面白くない作業を面白いと強制的に言わされる認知的不協和の状況を1ドルの報酬では正当化できなかった」ので、面白くないという本心を維持したままでいることができなくなってしまったのである。つまり、低賃金だと、面白いと自分を思いこませないとやっていられないが、高賃金だと、まだ本心では面白いと思っていないという苦しみに耐えられるということ。そうだとすれば、低賃金にした方が、労働者は血の涙を流しながらも表面上は「喜ぶ」ということになる。ここから分かるのは、「やりがい」にも2種類あるということ。もはや現代では、①仕事がつまらないのにも関わらず、②低賃金であるため、そうであるがゆえに、むしろ③やりがいが発生していると考えられる。このように極限状況で生じる「血だらけのやりがい」ではなく、仕事それ自体に自己実現の余地があるからこそ生まれる「本来のやりがい」というものを、たとえ低賃金・低効率の職場でもいいから、地道に感受していったほうがよいのではないだろうか。この件について次節ではさらに掘り下げて考えていきたい。

 

⑶.【成長の思想に抗して】

 では、どうすればよいのか。我々は成長主義をやめるべきなのである。ロボットを導入すればいいと言う楽天的な人がいるが、それは間違っている。非人間的な仕事を肩代わりしてもらうためにたくさんのロボットを導入したところで、職場自体が成長主義をやめない限り、その空白となった空いた時間に、上司から別の仕事をさらに詰め込まれるだけなのである。もっといえば、ロボット導入によって生じたロボットの管理などの別の仕事を詰め込まれるだけである。だから、我々は働く愉しみを味わえるような、昔ながらの素朴な仕事のやり方に戻るべきであり、そうであるならば必然的に、成長主義を諦めざるをえないのである。

 では、成長主義をやめるとはどういうことかというと、要するに、収入を増やすんじゃなくて、支出を減らすということだと思う。人間はジモティーとか使いまくれば、収入がそんなになくても、支出自体が減るから生きていける。平均家賃が月20万円を超えるようなファミリーマンションに住まなくても、郊外に同じ広さで6万円とかで住める。そうやって、収入を求める暮らしから脱却していけばいい。支出を減らせば、収入が少ないが健全でまともな職場はいくらでもあるのだから、そこで楽しく働けるようになる。私は資本主義じたいを辞めればいいなどとは全く思わない。過酷ではなくユルユルの資本主義、緩慢な資本主義に戻ればいいと単に考えているだけなのだ。そういうことを言うと、「お前はいつも他人の古着を着ていて、みすぼらしい。身の回りには中古品ばかりだし、いつも水道水を飲んでいて、飲み会にも来ない。家具もリサイクルセンターで拾ってきたものばかりじゃないか。」ってあなたに言ってくる人が現れるかもしれない。そういう人の価値観のほうが時代遅れだと思う。そういう無礼なひとには、「水道水の良さが分からないなんて、お前の方が可哀想だ」と開き直って、言い返してみてほしい。我々の周りは、もう成長しなくてもいいくらい、充実している。今日もひなたぼっこをしていると、優しいそよ風が肌を撫ぜる。紅葉が綺麗だとみとれる。四季折々の花の香りにおぼれる。子どもたちと野原を駆け回り、歌を唄う。疲れたらぐっすりと眠る。この無上の価値が、無料である。我々はこうした価値を守るために社会をつくった。社会がもっと成長するためにこの価値を味わう時間を捨てろと言ってくるならば、変わるべきは社会のほうである。

哲学への導入に最適な題材

1.【平仮名を知らないひとから見た平仮名はどう見えるのか】
「右の「ぷ。」という文字、「ボーリングをしている人」と言われたら、そう見えてこないかな?」(永野潤著『キーワード哲学入門』16頁)

2.【心身二元論を取るなら腕を動かすことも超能力になる】
「念じた」だけで物質を動かす超能力はSFの世界にしかないが、しかし、念じただけで物質を動かすっていうことでは、腕を動かすことも同じだ。(永野潤著『キーワード哲学入門』46頁)

3.【心が何グラムかと尋ねるのは正義が何グラムかと尋ねるようなものだ】
「カテゴリー間違いとは、果物屋に「リンゴ」や「ミカン」とは別に「果物」というものが並んでいる、と考えるようなことだ。」(永野潤著『キーワード哲学入門』50頁)

4.【人格の同一性は記憶説も身体説もどちらも採用されているようだ】
スマホなどで用いられる指紋認証や顔認証などの生体認証は、同じ身体的特徴を持っている人を同一人物とする考え方にもとづいている。一方、パスワード認証は、本人しか知り得ない記憶を共有している人を同一人物とする考え方に基づいている。」(永野潤著『キーワード哲学入門』68頁)

5.【5億年ボタン】
「菅原そうたのマンガに登場する「5億年ボタン」という装置は、ボタンを押すと何もない異次元空間に転送され、眠ることも死ぬこともできずに5億年間過ごさねばならない、という装置だ。しかし、5億年がたった後、記憶を消されて元の世界に戻され、100万円が手に入る。5億年苦しんでいる私にとって、一瞬で100万円を手に入れた私は同じ私なのだろうか?」(永野潤著『キーワード哲学入門』71頁)

6.【シミュラークルとは何か】
サルトルは『聖ジュネ』という本で、次の様な寓話を紹介している。愛する王妃の似顔絵(イメージ)を戦場に持っていった王が、ほんものの王妃以上に似顔絵を愛するようになってしまう。戦場から帰った王はほんものの王妃に目もくれず王妃の似顔絵と部屋に閉じこもるようになったが、あるとき火災によって似顔絵が燃えてしまい、王は再び王妃を愛するようになる。このとき王は、王妃の似顔絵の「代わりに」ほんものの王妃を愛している。ここでは「ほんもの」の王妃とは、コピーのコピーでしかない。」(永野潤著『キーワード哲学入門』97頁)


7.【ジュネは現状の演技化によって実存の怪物性を暴露しようとする】
「ジュネは、浮浪児であるところの現にある自分を否定し王子であることを夢見る。彼は「王子のふり」をする浮浪児である。だがそれだけではなく彼はさらに「にせの王子」であることを夢見る。つまり「「王子であるふりをする浮浪児」のふり」をするのである。それによって、「ほんものの浮浪児である」ことそのものが演技に変容する。「ほんものの行為」が、俳優の「しぐさ」に変容し、現実そのものが虚構に変容するのである。演技は二重化し、あらゆるものが仮象(みかけ)に変容する。ジュネは仮象(みかけ)を選択することで、実在と仮象(みかけ)の境界をくずし、「存在」の世界に安住している善人たちに、「実在」や「本当の自分」など存在しないということ、そしてすべてが仮象(みかけ)であるということをつきつける。」(永野潤著『キーワード哲学入門』151-152頁)

 

8.【人は物語の中を生きていることがわかるなぞなぞ】

「路上で交通事故がありました。大型トラックが、ある男性とその息子をひきました。父親は即死しました。息子のほうは病院に運ばれました。病院の外科医は『この子は私の息子です!』と悲鳴を上げました」

「なぜ人殺しをしてはいけないの?」と子どもに聞かれたら私はどう答えるか

まず、社会契約論というものの倒錯性から明らかにする必要がある。たとえば「富の再分配は、何もしていない子どもを対象にするのはやめて、頑張っている勤労者だけを対象にしよう」という発言を聞いたら誰もが転倒していると思うだろう。なぜなら、子どもを支援しなければ勤労できるような勤労者が生まれてくるわけがないからである。これと同様に、社会契約論も順序転倒的(=プリポステラス)なのであり、端的に誤りである。「個人たちが集まってみんなが武装解除の契約を結ぶことで社会を作ったという思想」が社会契約論であるが、そもそも社会がなければ約束が機能するわけはないのである。というのも、もしもある個人が武装解除をしたならば即座にその武装解除をしたやつは弱みを見せたのだから周りのやつに殺されるか、自分を武装解除させるためのワナだと思われて誰も後に続かないのが自然であって、そいつに連れ立ってみんなが一斉に武装解除をするなんてことがあるはずがない。そいつに連れ立ってみんなが一斉に武装解除をするなんてことがもし本当に起こるとしたらそれは社会がもう既に成立しているからであって、だとすれば、それはやはり順序転倒的(=プリポステラス)である。社会が契約によって成立したという話の最初に社会が出てきてはならないからである。つまり、契約によって初めて私たちは共に生きることを可能にしたのではない。逆に、契約が単なる言葉ではなく実際に可能となるためには、既に私たちが共に生きていたのでなければならないのである。契約というものを有意味にするような共同体と相互配慮が既に成立していたのでなければ、共同体と相互配慮を作るための契約などというものを結べたはずがないではないか。この点で社会契約は単なる転倒であり、嘘である。人間の自然状態にも、家族があって他者への配慮があって、愛があって憎しみがあって、自然状態は全然ニュートラルで透明なものではない。バナナを嫌いになりずらかったり、おぞましい人体破壊や奇形、タバコなどの刺激物に忌避を感じないことが難しいのも自然状態だ。そこには進化的な基礎があるんだね。こういう自然状態には、殺人を趣味の問題には還元できないような前反省的な判断が既に働いている。だから、人を殺してはいけないという規範がなぜあるのかを、各人が自分の事情によってその都度決められるようなそういう趣味問題によって正当化するのはおかしくて、この件は、趣味以前のベーシックな価値によって正当化するべきなんだ。社会が各個人に「人を殺してはならない」という規範を押し付けてくるが、それに対して各個人は趣味という足場を持っているので、その足場に立って各個人は社会からやってきた規範を受け入れるか受け入れないかを趣味に基づきその都度決めているという対立構図こそが捏造であって、実際には、多くの人が自分の個性が明確に働く以前から人殺しを忌避する方向に指し向けられているんだ。不殺傾向と殺人傾向には、どちらも進化的基礎があるけれども、それは非対称的になっていて、明らかに前者にあらかじめ比重が傾いているんだ(こうした重みづけを持たない透明な個人がみんなで契約をして、不殺規範を受けいれ、こうして平和な共同体を作っているとかいう話は、単なる嘘なんだ)。実際、成人までに人を殺すひとが多いヤノマミ族という部族は少数派だよね。そしてこのような非対称な重みづけ、傾きがあらかじめ存在するのは、それが人類の生存にとって有利だったからなんだよ。だからこのような非対称性が残ったんだ。つまり、これまで不殺傾向がベーシックな価値とされていることによって、けっこううまくやってきたということなんだね。逆に、殺人傾向の価値がそれほど広汎化しなかったのは、それではなにかしらの不都合があったのだろうね。たとえば、ひとりではできないことが色んな人がいればできるようになるのに、殺人傾向がある部族だと、強い個人が相互に警戒しながら勢力均衡しつつ残っていくだけになってしまって、そういう協力による明らかなメリットを得られにくくなる、とかね。それで、そういう殺人傾向がある部族はあまり繁栄できなかったというわけ。よって、「なぜ人殺しをしてはいけないの?」と聞かれたら私は「君の肉体が君の多様な趣味が花開いてくるのに先立って君にそのように思わせているからだよ。そしてそのことにはよく知識を仕入れてから考えて見れば気づけるし、そのようなあらかじめある内発的な方向づけと外発的で後付けの補強のどちらにも君は実はそれほどデメリットを感じてなどいない。だから、趣味問題として不殺規範を受け入れることを選ぶという段階があるように話を進めるような議論は実は捏造で、実際には自分が既にその規範の価値を内発させていることを確認するだけでいいんだよ。この件は各人それぞれの趣味で正当化されるような問題ではなくどんなひとにも周く共通のベーシックな価値から正当化されるべきことなんだ」と答える。

姜尚中氏からの引用集

1.【子どもと遊ぶために働いているのに働いているせいで子どもと遊べないような状況】
「そもそも国家の存在理由(レゾンデートル)とは何なのかと言えば、それは国民の生命と財産を保障するということに尽きると思います。ところがそれを果たさずして、国が国民に義務を果たせと言う。これは大きな倒錯です。」(姜尚中著『それでも生きていく』41頁)

 

2.【市民と国家の関係が倒錯しているのは近代化が市民の手によるものではなかったから】
「そもそも家庭環境の変化によって家庭の教育力が低下した、という政権の主張も正しいとは言えません。研究者によれば、日本の家庭では、伝統的に子育ては放任で、むしろ家庭が子供の教育に力を入れるようになったのは、高度経済成長期以降だそうです。それ以前は、教育に使うお金も時間も日本の家庭にはありませんでした。結婚したら女性は家庭に入るのが日本の伝統的な家庭だというのも間違いで、1970年ごろまでは、農業や漁業など第一次産業に従事する人が多かったため日本の女性の就業率は欧米よりも高く、専業主婦が一般化したのは、いわゆるサラリーマンが増えた高度経済成長期です。しかし古きよき「伝統的な家庭」を取り戻すことができれば、国家も安寧だと、政権を中心とした保守系の人々は信じています。彼らが言うところの「伝統的な家庭」とは、3世代で暮らし、お年寄りの介護は家庭で面倒を見て、子供は母親がつきっきりで母乳で育てる⋯⋯というようなものなのですが、そうした伝統はそもそも存在しないのです。これはまさに「伝統の発明」と言っていいでしょう。そしてこの「伝統の発明」によって教育や介護など、国家が担うべき問題の責任が家庭に押しつけられ、女性は再び家庭に閉じ込められようとしています。このような考え方は、明治時代以降、根づいている日本特有の国家観が関係しています。日本では、「公共性=国家」という認識をもっている人が多いと思います。いわゆる「お上」という意識があって、官僚が偉くて、民間は、その下という認識を皆さん、もっているのではないでしょうか。しかしそれは本来の公共性とは違っています。人間の市民社会は、さまざまな人々で構成されており、他人同士の集まりですから、当然ルールが必要になります。これが公共性です。そして政府(内閣や中央官庁)は、そのルール作りの仕事を市民から委託された人々なのです。つまり公共性の根本は普通の人々にあって、政府はそうした普通の人々に仕える「公僕」ということです。ですから、社会においては国民一人ひとりが主人公であるわけですが、日本の場合、主役は国家になっています。「滅私奉公」という言葉があるように、個人が犠牲となって「公(国家)」のためにつくすという関係性になっている。だから「家庭教育支援法」のような法案が生まれてくるのです。しかし「子供が悪くなるのは親のせいだ」と親に責任を押しつけるやり方は、本来の公共性とはかけ離れています。子供が健全に育つように市民をサポートすることこそ、政府の役割だからです。市民と国家の関係がねじれてしまったのは、日本の近代化の歴史と関係があるでしょう。明治維新によって日本には近代国家が誕生しましたが、それは市民の手で成し遂げられたものではなく、上から与えられたものでした。それで「公共性」が国家に独占されてしまうことになりました。」(姜尚中著『それでも生きていく』128-130頁)

 

3.【憲法改正、その現実味(2013年8月)】

憲法9条のことは、皆さんもよくご存じだと思います。戦争の放棄や戦力の不保持を規定した、いわゆる平和憲法です。しかし現実には、日本には防衛力としての自衛隊が存在していたことから憲法との不整合が問題となり、自民党は結党以来、憲法改正を党の網領に掲げてきました。さらにここにきて、中国の領土問題や北朝鮮の軍事的挑発などがあり、第9条第2項を改正して自衛隊を正式の軍隊として憲法に明記すべきだとか、集団的自衛権を認めるべきだとする声が政府・与党や野党の中からも勢いを増すようになったわけです。現在の自民党が掲げる「日本国憲法改正草案」の中では国防軍の設置が公約されています。では、憲法改正において何が争点となっているのか。まずひとつは自衛権の問題です。そもそも自衛権には個別的自衛権集団的自衛権があります。個別的自衛権とは、他国から武力攻撃を受けた時、自国を防衛するために必要な武力を行使する権利です。一方、集団的自衛権とは、同盟国や友好国が他国から攻撃を受けた時、武力援助をする権利のことです。国連憲章において、この2つの自衛権は認められているので、国連加盟国の日本はどちらの自衛権も保持しています。ただ一方で、日本は憲法9条によって戦争の放棄を定めています。そこでこれまで時の政権は、「個別的自衛権としての必要最小限度の武力行使は、憲法で許容されているものの、集団的自衛権については憲法が認める自衛権の限度を超える」と解釈して、これまでずっと集団的自衛権違憲だとしてきました。なぜそのような解釈になったかと言えば、憲法上の問題だけでなく、やはり過去の歴史があったからです。侵略戦争をした反省から、簡単に戦争には踏み込めない道を選んだのでしょうし、周辺国家もそれを望んでいたと思います。もっとプラグマティックに考えて、日本が集団的自衛権を行使した場合と禁止した場合、戦後の日本の平和と繁栄のためにはどちらが有利だったのかといえば、間違いなく禁止していたがゆえに、日本の発展があったと言えるでしょう。もし集団的自衛権を認めていたら、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争への参戦もありえました。イラク戦争の時には、当時の小泉政権ブッシュ・ジュニアのために「非戦闘地域」なるものを作り出し、戦闘地域ではないから自衛隊を派遣できるという苦肉の策を考え出したわけですが、非戦闘地域だったからこそ、自衛隊員はひとりも命を奪われず、ひとりの命を奪うこともありませんでした。つまり、集団的自衛権が認められていたら、日本は今のような形の国ではありえなかったということです。韓国のように徴兵制度が敷かれていたに違いありませんし、その結果、経済的な発展が遅れていたかもしれない。ですから、よく改憲派の人は「集団的自衛権を認めるのが普通の国なんだ」という言い方をしますが、大事なことは普通かどうかではなくて、日本にとって何が平和と安定に資するかを考えることだと思っています。このような話をすると、改憲派の人たちは「軍隊がなくて国が守れますか?」「この憲法は時代に合っていない」と言います。「人まかせにして、どうして日本が守れますか?」「まわりの国はそんな善意の国ばかりでしょうか?」と。でも、憲法とは、私たちは「そう決意した」ということであって、現実は厳しくても「こうありたい」という国民が向かっていくべき理想の極北の星を示しているのです。そこへ向けて、1歩でも2歩でも近づこうと。特に憲法前文と第9条2項は、その意味合いが大きい。だから、ほかの憲法を見ても、現実と必ず一致するわけではありません。例えば日本国憲法で男女平等を謳っていても、日本の実社会はまだまだ男性優位です。でも「現実に合わないから」と男女平等を憲法からなくそうとは誰も言いません。それがなぜ平和憲法だけが「現実的でない」と問題になるのか。「いや、これでは国は守れない」と改憲派は言いますが、今まで守れたわけです。そしてそれで自民党も大成功を収めてきました。「今は状況が変わった」というのもよく聞く言いわけですが、冷戦時代のソビエトのほうが今よりもっと脅威でした。北海道が侵略される可能性だってあったし、核戦争の可能性だってありました。でも、平和憲法でやってこられたわけです。それに日本には今、憲法改正より目を向けなければならない問題がたくさんあります。東北の復興、原発の問題、経済の回復⋯⋯⋯。それをやらないで、なぜこの時期に憲法改正なのか。政策の優先順位が間違っている気がしてなりません。そもそもこれほど憲法9条の改正にこだわるのは、「安全保障」の概念が、軍事優先という伝統的な考え方から脱却できていないからです。安全保障というのは、単に軍事力の問題だけではありません。原発の安全性が損なわれたら、近隣諸国に戦争以上の惨禍をもたらす場合もありますし、中国のPM2.5のように、公害の問題が他国に甚大な被害をもたらす場合もあります。日中韓の結びつきは密接で、一方が滅びれば他方もあやうくなるような唇歯輔車の関係にあります。ですから軍事以外のところでも、協力関係を密にしなければならないわけですが、今はそれがないがしろにされています。「中国は何をするかわからないから軍事力が必要だ」という人も、中国の原発についてはほとんど触れません。もちろん中国脅威論を私は否定しません。でも軍事的脅威だけをことさら強調するのは逆に非現実的です。今の政府には戦争当事者はもはやひとりもいません。何十年も実戦から遠ざかっている中で、政治家の口から戦争についての非常に軽はずみな発言が飛び出してくるのは、戦争についての想像力がどんどん麻痺し、リアリティが欠如しているからでしょう。そしてその感覚は今や多くの人に広がりつつあります。思い出してください。3・11の原発の事故が起きた時、国民は本当のことをまったく知らされませんでした。まして戦争が起きたらどうなるか。それは先の戦争のことを知れば、よくわかるはずです。そしてその犠牲になるのは、いつも庶民だということを忘れてはならないと思います。憲法とは、現実は厳しくても「こうありたい」という国民が向かっていくべき理想の極北の星を示しているのです。施行から75年、戦争によって誰も殺さず、誰も殺されなかったことがどれほど尊いことか。今こそ平和憲法の功績を再確認すべきです。」(姜尚中著『それでも生きていく』33-37頁)

 

4.【人間というベーシックなところでの議論に持ち込むことの利点】

「ある女性アナウンサーの言葉が、日本の女性がおかれているつらい立場をよく表していました。「子供を産まなければ産まないで「生産性が低い」と言われ、産んだら産んだで「離職する可能性が男性より高く困る」と入試で差別され、女性はどうしたらよいのか」と。でも、そこから女性たちに気づいてほしいと思います。女性であるだけで差別されるように、ほかにもさまざまなアウト・インの境界線が存在しているということを。「女性蔑視」というところだけにとどまらず、男女を超えて人間としての尊厳を問うことが大事だとわかってほしいのです。そうしないと、女性対女性の構図にもっていかれたり、分断を図られたりすることにもなります。「女性として」でなく、「人間」というベーシックなところでの議論にしていくことで、男性にとっても、LGBTにとっても生きやすい社会になるのだと思います。」(姜尚中著『それでも生きていく』188頁)

 

5.【交換価値化できない自分だけにしか語りえない時間を味わえるかどうかが人生の満足を決める】

「交換価値にまったく還元されない時間というものがほとんどなくなりかけています。でも、実は私たちが人生において必要なのは、そういう時間です。何ものにも交換価値化されない自分だけの時間。いつか人生を振り返る時、そういう時間をもてた人ともてなかった人とでは、人生の奥行きがずいぶんと違ってくるに違いありません。」(姜尚中著『それでも生きていく』240頁)

 

6.【不幸なことも含めて存在の神秘を抱きしめる】

「まあ、僕も息子を亡くしたり、いろいろありましたけれど、最後は不幸なことも含めて抱きしめて生きていくという感じでしょうか。朝起きて、雨かなと思うと日が差してきて、そして紅葉がなんてきれいなんだろうと思いながら、日々の小さなことに幸せを感じる。平凡ですけど、この年になると、そういう時間が愛おしく感じます。」(姜尚中著『それでも生きていく』160頁)