aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

哲学への導入に最適な題材

1.【平仮名を知らないひとから見た平仮名はどう見えるのか】
「右の「ぷ。」という文字、「ボーリングをしている人」と言われたら、そう見えてこないかな?」(永野潤著『キーワード哲学入門』16頁)

2.【心身二元論を取るなら腕を動かすことも超能力になる】
「念じた」だけで物質を動かす超能力はSFの世界にしかないが、しかし、念じただけで物質を動かすっていうことでは、腕を動かすことも同じだ。(永野潤著『キーワード哲学入門』46頁)

3.【心が何グラムかと尋ねるのは正義が何グラムかと尋ねるようなものだ】
「カテゴリー間違いとは、果物屋に「リンゴ」や「ミカン」とは別に「果物」というものが並んでいる、と考えるようなことだ。」(永野潤著『キーワード哲学入門』50頁)

4.【人格の同一性は記憶説も身体説もどちらも採用されているようだ】
スマホなどで用いられる指紋認証や顔認証などの生体認証は、同じ身体的特徴を持っている人を同一人物とする考え方にもとづいている。一方、パスワード認証は、本人しか知り得ない記憶を共有している人を同一人物とする考え方に基づいている。」(永野潤著『キーワード哲学入門』68頁)

5.【5億年ボタン】
「菅原そうたのマンガに登場する「5億年ボタン」という装置は、ボタンを押すと何もない異次元空間に転送され、眠ることも死ぬこともできずに5億年間過ごさねばならない、という装置だ。しかし、5億年がたった後、記憶を消されて元の世界に戻され、100万円が手に入る。5億年苦しんでいる私にとって、一瞬で100万円を手に入れた私は同じ私なのだろうか?」(永野潤著『キーワード哲学入門』71頁)

6.【シミュラークルとは何か】
サルトルは『聖ジュネ』という本で、次の様な寓話を紹介している。愛する王妃の似顔絵(イメージ)を戦場に持っていった王が、ほんものの王妃以上に似顔絵を愛するようになってしまう。戦場から帰った王はほんものの王妃に目もくれず王妃の似顔絵と部屋に閉じこもるようになったが、あるとき火災によって似顔絵が燃えてしまい、王は再び王妃を愛するようになる。このとき王は、王妃の似顔絵の「代わりに」ほんものの王妃を愛している。ここでは「ほんもの」の王妃とは、コピーのコピーでしかない。」(永野潤著『キーワード哲学入門』97頁)


7.【ジュネは現状の演技化によって実存の怪物性を暴露しようとする】
「ジュネは、浮浪児であるところの現にある自分を否定し王子であることを夢見る。彼は「王子のふり」をする浮浪児である。だがそれだけではなく彼はさらに「にせの王子」であることを夢見る。つまり「「王子であるふりをする浮浪児」のふり」をするのである。それによって、「ほんものの浮浪児である」ことそのものが演技に変容する。「ほんものの行為」が、俳優の「しぐさ」に変容し、現実そのものが虚構に変容するのである。演技は二重化し、あらゆるものが仮象(みかけ)に変容する。ジュネは仮象(みかけ)を選択することで、実在と仮象(みかけ)の境界をくずし、「存在」の世界に安住している善人たちに、「実在」や「本当の自分」など存在しないということ、そしてすべてが仮象(みかけ)であるということをつきつける。」(永野潤著『キーワード哲学入門』151-152頁)

 

8.【人は物語の中を生きていることがわかるなぞなぞ】

「路上で交通事故がありました。大型トラックが、ある男性とその息子をひきました。父親は即死しました。息子のほうは病院に運ばれました。病院の外科医は『この子は私の息子です!』と悲鳴を上げました」

「なぜ人殺しをしてはいけないの?」と子どもに聞かれたら私はどう答えるか

まず、社会契約論というものの倒錯性から明らかにする必要がある。たとえば「富の再分配は、何もしていない子どもを対象にするのはやめて、頑張っている勤労者だけを対象にしよう」という発言を聞いたら誰もが転倒していると思うだろう。なぜなら、子どもを支援しなければ勤労できるような勤労者が生まれてくるわけがないからである。これと同様に、社会契約論も順序転倒的(=プリポステラス)なのであり、端的に誤りである。「個人たちが集まってみんなが武装解除の契約を結ぶことで社会を作ったという思想」が社会契約論であるが、そもそも社会がなければ約束が機能するわけはないのである。というのも、もしもある個人が武装解除をしたならば即座にその武装解除をしたやつは弱みを見せたのだから周りのやつに殺されるか、自分を武装解除させるためのワナだと思われて誰も後に続かないのが自然であって、そいつに連れ立ってみんなが一斉に武装解除をするなんてことがあるはずがない。そいつに連れ立ってみんなが一斉に武装解除をするなんてことがもし本当に起こるとしたらそれは社会がもう既に成立しているからであって、だとすれば、それはやはり順序転倒的(=プリポステラス)である。社会が契約によって成立したという話の最初に社会が出てきてはならないからである。つまり、契約によって初めて私たちは共に生きることを可能にしたのではない。逆に、契約が単なる言葉ではなく実際に可能となるためには、既に私たちが共に生きていたのでなければならないのである。契約というものを有意味にするような共同体と相互配慮が既に成立していたのでなければ、共同体と相互配慮を作るための契約などというものを結べたはずがないではないか。この点で社会契約は単なる転倒であり、嘘である。人間の自然状態にも、家族があって他者への配慮があって、愛があって憎しみがあって、自然状態は全然ニュートラルで透明なものではない。バナナを嫌いになりずらかったり、おぞましい人体破壊や奇形、タバコなどの刺激物に忌避を感じないことが難しいのも自然状態だ。そこには進化的な基礎があるんだね。こういう自然状態には、殺人を趣味の問題には還元できないような前反省的な判断が既に働いている。だから、人を殺してはいけないという規範がなぜあるのかを、各人が自分の事情によってその都度決められるようなそういう趣味問題によって正当化するのはおかしくて、この件は、趣味以前のベーシックな価値によって正当化するべきなんだ。社会が各個人に「人を殺してはならない」という規範を押し付けてくるが、それに対して各個人は趣味という足場を持っているので、その足場に立って各個人は社会からやってきた規範を受け入れるか受け入れないかを趣味に基づきその都度決めているという対立構図こそが捏造であって、実際には、多くの人が自分の個性が明確に働く以前から人殺しを忌避する方向に指し向けられているんだ。不殺傾向と殺人傾向には、どちらも進化的基礎があるけれども、それは非対称的になっていて、明らかに前者にあらかじめ比重が傾いているんだ(こうした重みづけを持たない透明な個人がみんなで契約をして、不殺規範を受けいれ、こうして平和な共同体を作っているとかいう話は、単なる嘘なんだ)。実際、成人までに人を殺すひとが多いヤノマミ族という部族は少数派だよね。そしてこのような非対称な重みづけ、傾きがあらかじめ存在するのは、それが人類の生存にとって有利だったからなんだよ。だからこのような非対称性が残ったんだ。つまり、これまで不殺傾向がベーシックな価値とされていることによって、けっこううまくやってきたということなんだね。逆に、殺人傾向の価値がそれほど広汎化しなかったのは、それではなにかしらの不都合があったのだろうね。たとえば、ひとりではできないことが色んな人がいればできるようになるのに、殺人傾向がある部族だと、強い個人が相互に警戒しながら勢力均衡しつつ残っていくだけになってしまって、そういう協力による明らかなメリットを得られにくくなる、とかね。それで、そういう殺人傾向がある部族はあまり繁栄できなかったというわけ。よって、「なぜ人殺しをしてはいけないの?」と聞かれたら私は「君の肉体が君の多様な趣味が花開いてくるのに先立って君にそのように思わせているからだよ。そしてそのことにはよく知識を仕入れてから考えて見れば気づけるし、そのようなあらかじめある内発的な方向づけと外発的で後付けの補強のどちらにも君は実はそれほどデメリットを感じてなどいない。だから、趣味問題として不殺規範を受け入れることを選ぶという段階があるように話を進めるような議論は実は捏造で、実際には自分が既にその規範の価値を内発させていることを確認するだけでいいんだよ。この件は各人それぞれの趣味で正当化されるような問題ではなくどんなひとにも周く共通のベーシックな価値から正当化されるべきことなんだ」と答える。

姜尚中氏からの引用集

1.【子どもと遊ぶために働いているのに働いているせいで子どもと遊べないような状況】
「そもそも国家の存在理由(レゾンデートル)とは何なのかと言えば、それは国民の生命と財産を保障するということに尽きると思います。ところがそれを果たさずして、国が国民に義務を果たせと言う。これは大きな倒錯です。」(姜尚中著『それでも生きていく』41頁)

 

2.【市民と国家の関係が倒錯しているのは近代化が市民の手によるものではなかったから】
「そもそも家庭環境の変化によって家庭の教育力が低下した、という政権の主張も正しいとは言えません。研究者によれば、日本の家庭では、伝統的に子育ては放任で、むしろ家庭が子供の教育に力を入れるようになったのは、高度経済成長期以降だそうです。それ以前は、教育に使うお金も時間も日本の家庭にはありませんでした。結婚したら女性は家庭に入るのが日本の伝統的な家庭だというのも間違いで、1970年ごろまでは、農業や漁業など第一次産業に従事する人が多かったため日本の女性の就業率は欧米よりも高く、専業主婦が一般化したのは、いわゆるサラリーマンが増えた高度経済成長期です。しかし古きよき「伝統的な家庭」を取り戻すことができれば、国家も安寧だと、政権を中心とした保守系の人々は信じています。彼らが言うところの「伝統的な家庭」とは、3世代で暮らし、お年寄りの介護は家庭で面倒を見て、子供は母親がつきっきりで母乳で育てる⋯⋯というようなものなのですが、そうした伝統はそもそも存在しないのです。これはまさに「伝統の発明」と言っていいでしょう。そしてこの「伝統の発明」によって教育や介護など、国家が担うべき問題の責任が家庭に押しつけられ、女性は再び家庭に閉じ込められようとしています。このような考え方は、明治時代以降、根づいている日本特有の国家観が関係しています。日本では、「公共性=国家」という認識をもっている人が多いと思います。いわゆる「お上」という意識があって、官僚が偉くて、民間は、その下という認識を皆さん、もっているのではないでしょうか。しかしそれは本来の公共性とは違っています。人間の市民社会は、さまざまな人々で構成されており、他人同士の集まりですから、当然ルールが必要になります。これが公共性です。そして政府(内閣や中央官庁)は、そのルール作りの仕事を市民から委託された人々なのです。つまり公共性の根本は普通の人々にあって、政府はそうした普通の人々に仕える「公僕」ということです。ですから、社会においては国民一人ひとりが主人公であるわけですが、日本の場合、主役は国家になっています。「滅私奉公」という言葉があるように、個人が犠牲となって「公(国家)」のためにつくすという関係性になっている。だから「家庭教育支援法」のような法案が生まれてくるのです。しかし「子供が悪くなるのは親のせいだ」と親に責任を押しつけるやり方は、本来の公共性とはかけ離れています。子供が健全に育つように市民をサポートすることこそ、政府の役割だからです。市民と国家の関係がねじれてしまったのは、日本の近代化の歴史と関係があるでしょう。明治維新によって日本には近代国家が誕生しましたが、それは市民の手で成し遂げられたものではなく、上から与えられたものでした。それで「公共性」が国家に独占されてしまうことになりました。」(姜尚中著『それでも生きていく』128-130頁)

 

3.【憲法改正、その現実味(2013年8月)】

憲法9条のことは、皆さんもよくご存じだと思います。戦争の放棄や戦力の不保持を規定した、いわゆる平和憲法です。しかし現実には、日本には防衛力としての自衛隊が存在していたことから憲法との不整合が問題となり、自民党は結党以来、憲法改正を党の網領に掲げてきました。さらにここにきて、中国の領土問題や北朝鮮の軍事的挑発などがあり、第9条第2項を改正して自衛隊を正式の軍隊として憲法に明記すべきだとか、集団的自衛権を認めるべきだとする声が政府・与党や野党の中からも勢いを増すようになったわけです。現在の自民党が掲げる「日本国憲法改正草案」の中では国防軍の設置が公約されています。では、憲法改正において何が争点となっているのか。まずひとつは自衛権の問題です。そもそも自衛権には個別的自衛権集団的自衛権があります。個別的自衛権とは、他国から武力攻撃を受けた時、自国を防衛するために必要な武力を行使する権利です。一方、集団的自衛権とは、同盟国や友好国が他国から攻撃を受けた時、武力援助をする権利のことです。国連憲章において、この2つの自衛権は認められているので、国連加盟国の日本はどちらの自衛権も保持しています。ただ一方で、日本は憲法9条によって戦争の放棄を定めています。そこでこれまで時の政権は、「個別的自衛権としての必要最小限度の武力行使は、憲法で許容されているものの、集団的自衛権については憲法が認める自衛権の限度を超える」と解釈して、これまでずっと集団的自衛権違憲だとしてきました。なぜそのような解釈になったかと言えば、憲法上の問題だけでなく、やはり過去の歴史があったからです。侵略戦争をした反省から、簡単に戦争には踏み込めない道を選んだのでしょうし、周辺国家もそれを望んでいたと思います。もっとプラグマティックに考えて、日本が集団的自衛権を行使した場合と禁止した場合、戦後の日本の平和と繁栄のためにはどちらが有利だったのかといえば、間違いなく禁止していたがゆえに、日本の発展があったと言えるでしょう。もし集団的自衛権を認めていたら、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争への参戦もありえました。イラク戦争の時には、当時の小泉政権ブッシュ・ジュニアのために「非戦闘地域」なるものを作り出し、戦闘地域ではないから自衛隊を派遣できるという苦肉の策を考え出したわけですが、非戦闘地域だったからこそ、自衛隊員はひとりも命を奪われず、ひとりの命を奪うこともありませんでした。つまり、集団的自衛権が認められていたら、日本は今のような形の国ではありえなかったということです。韓国のように徴兵制度が敷かれていたに違いありませんし、その結果、経済的な発展が遅れていたかもしれない。ですから、よく改憲派の人は「集団的自衛権を認めるのが普通の国なんだ」という言い方をしますが、大事なことは普通かどうかではなくて、日本にとって何が平和と安定に資するかを考えることだと思っています。このような話をすると、改憲派の人たちは「軍隊がなくて国が守れますか?」「この憲法は時代に合っていない」と言います。「人まかせにして、どうして日本が守れますか?」「まわりの国はそんな善意の国ばかりでしょうか?」と。でも、憲法とは、私たちは「そう決意した」ということであって、現実は厳しくても「こうありたい」という国民が向かっていくべき理想の極北の星を示しているのです。そこへ向けて、1歩でも2歩でも近づこうと。特に憲法前文と第9条2項は、その意味合いが大きい。だから、ほかの憲法を見ても、現実と必ず一致するわけではありません。例えば日本国憲法で男女平等を謳っていても、日本の実社会はまだまだ男性優位です。でも「現実に合わないから」と男女平等を憲法からなくそうとは誰も言いません。それがなぜ平和憲法だけが「現実的でない」と問題になるのか。「いや、これでは国は守れない」と改憲派は言いますが、今まで守れたわけです。そしてそれで自民党も大成功を収めてきました。「今は状況が変わった」というのもよく聞く言いわけですが、冷戦時代のソビエトのほうが今よりもっと脅威でした。北海道が侵略される可能性だってあったし、核戦争の可能性だってありました。でも、平和憲法でやってこられたわけです。それに日本には今、憲法改正より目を向けなければならない問題がたくさんあります。東北の復興、原発の問題、経済の回復⋯⋯⋯。それをやらないで、なぜこの時期に憲法改正なのか。政策の優先順位が間違っている気がしてなりません。そもそもこれほど憲法9条の改正にこだわるのは、「安全保障」の概念が、軍事優先という伝統的な考え方から脱却できていないからです。安全保障というのは、単に軍事力の問題だけではありません。原発の安全性が損なわれたら、近隣諸国に戦争以上の惨禍をもたらす場合もありますし、中国のPM2.5のように、公害の問題が他国に甚大な被害をもたらす場合もあります。日中韓の結びつきは密接で、一方が滅びれば他方もあやうくなるような唇歯輔車の関係にあります。ですから軍事以外のところでも、協力関係を密にしなければならないわけですが、今はそれがないがしろにされています。「中国は何をするかわからないから軍事力が必要だ」という人も、中国の原発についてはほとんど触れません。もちろん中国脅威論を私は否定しません。でも軍事的脅威だけをことさら強調するのは逆に非現実的です。今の政府には戦争当事者はもはやひとりもいません。何十年も実戦から遠ざかっている中で、政治家の口から戦争についての非常に軽はずみな発言が飛び出してくるのは、戦争についての想像力がどんどん麻痺し、リアリティが欠如しているからでしょう。そしてその感覚は今や多くの人に広がりつつあります。思い出してください。3・11の原発の事故が起きた時、国民は本当のことをまったく知らされませんでした。まして戦争が起きたらどうなるか。それは先の戦争のことを知れば、よくわかるはずです。そしてその犠牲になるのは、いつも庶民だということを忘れてはならないと思います。憲法とは、現実は厳しくても「こうありたい」という国民が向かっていくべき理想の極北の星を示しているのです。施行から75年、戦争によって誰も殺さず、誰も殺されなかったことがどれほど尊いことか。今こそ平和憲法の功績を再確認すべきです。」(姜尚中著『それでも生きていく』33-37頁)

 

4.【人間というベーシックなところでの議論に持ち込むことの利点】

「ある女性アナウンサーの言葉が、日本の女性がおかれているつらい立場をよく表していました。「子供を産まなければ産まないで「生産性が低い」と言われ、産んだら産んだで「離職する可能性が男性より高く困る」と入試で差別され、女性はどうしたらよいのか」と。でも、そこから女性たちに気づいてほしいと思います。女性であるだけで差別されるように、ほかにもさまざまなアウト・インの境界線が存在しているということを。「女性蔑視」というところだけにとどまらず、男女を超えて人間としての尊厳を問うことが大事だとわかってほしいのです。そうしないと、女性対女性の構図にもっていかれたり、分断を図られたりすることにもなります。「女性として」でなく、「人間」というベーシックなところでの議論にしていくことで、男性にとっても、LGBTにとっても生きやすい社会になるのだと思います。」(姜尚中著『それでも生きていく』188頁)

 

5.【交換価値化できない自分だけにしか語りえない時間を味わえるかどうかが人生の満足を決める】

「交換価値にまったく還元されない時間というものがほとんどなくなりかけています。でも、実は私たちが人生において必要なのは、そういう時間です。何ものにも交換価値化されない自分だけの時間。いつか人生を振り返る時、そういう時間をもてた人ともてなかった人とでは、人生の奥行きがずいぶんと違ってくるに違いありません。」(姜尚中著『それでも生きていく』240頁)

 

6.【不幸なことも含めて存在の神秘を抱きしめる】

「まあ、僕も息子を亡くしたり、いろいろありましたけれど、最後は不幸なことも含めて抱きしめて生きていくという感じでしょうか。朝起きて、雨かなと思うと日が差してきて、そして紅葉がなんてきれいなんだろうと思いながら、日々の小さなことに幸せを感じる。平凡ですけど、この年になると、そういう時間が愛おしく感じます。」(姜尚中著『それでも生きていく』160頁)

 

「超越的」と「超越論的」のちがい

【「超越的」と「超越論的」の区別:カントにおける「私」とは肉体のことではないため、経験されることはない】

「カントにとって「私」は「自己意識」と言い換えられるものでした。経験することは人それぞれであっても、自己意識の構造は誰にとっても同じなので、すべての人々はみな同じ「私」なのだとカントはいいます。「自己意識」といっても、自分のセルフイメージのようなものではありません。「私」が自分をどのような存在として意識しているかということでいえば、その「自己」の意識のあり方は、人それぞれでしょう。「自己意識」における「自己」とは、セルフイメージとして捉えられた「自己」ではなく、そのセルフイメージをもひとつの「対象」として見ている側の「私」を指しています。「私」は、さまざまなことを経験し、「自己」ですらひとつの対象として捉えるのです。しかし、それらを経験する「私」が、時間を経ても変わらないものとして存在していなければ、そもそも「経験」と呼びうるものを考えられないだろうとカントはいいます。「経験」という日本語には「経る」という時間的な観点が入っていますが、時間を経ても残されるものでなければ「経験」とはいえません。しかし、その「経験」はどこに残るのでしょう。次々に「経験」される物事が常に同一の「私」に刻まれていなければ、「経験」は「経験」にならないとカントはいうのです。時間を通じて変わらない「私」は、それ自身としては見ることも聞くこともできないものです。「自己意識」としての「私」は、それ自身としては決して経験の対象になりません。では、そのように誰も経験したことがないものが、どうしてあるといえるのでしょうか。「それはそういうものなんだ」と頭ごなしに決めつける議論は、根拠なく超越的に語られます。ロックにはじまるとされる経験主義は、経験されるものだけを手がかりにして客観的な議論をしようとするものだったので、経験主義的な立場からすると、そうした頭ごなしの超越的な物言いは拒否されます。では、カントのいう「自己意識」もまた、超越的な語り方で「自己意識」の存在を言い立てているのでしょうか。カントは超越論的という新しい形容詞をわざわざ作って、「超越的」と「経験的」の間を埋めました。自己意識としての「私」は、それ自身経験の対象にはならず、決して経験的なものではない。しかし、だからといってそれを超越的と決めつけるのとも違う。時間を通じて同一な自己意識は、それ自身経験されるものではなく、むしろ「経験」を「経験」として可能にするための条件になっている。それゆえ、その存在は超越論的に要請されなければならない――そうカントは主張しました。「超越論的」という言葉は、そのように経験を可能にする条件を示すものとして、以後の哲学の鍵概念になっています。このように考えれば、「私」は誰でも「私たち」だということになります。すべての人間は、超越論的に要請される「自己意識」をもっていて、誰でも同じ「私」であるからこそ「人それぞれ」といわれるような経験も可能になっているというわけです。どんな人間でも同じ「理性」を共有しているはずだというカントの主張は、そこから導かれます。それぞれ経験することは異なっていても、同じ「理性的存在者」として、人々は互いに対話する基盤が最初から整えられていると考えられることになるのです。」(荒谷大輔著『使える哲学』160-162頁)

 

→カントへの疑問:しかし、とはいえ、私は常に感知されているのではないだろうか。というのも、「ものが見えてはいるが誰の見えなのかは分からない」というような経験をしたことがあるという話は聞いたことがない。やはり誰でも内奥では自らであるところの肉体を常に感知しているのではないかしら。だからこそ我々は時にそれを反省できるのでしょう。「経験」という概念を大幅に拡張してみてはどうかしら。

言語起源論をやってみた

言葉にするってのは価値を認めるということだよね。それで、動作は反復されるよね。それで、反復するものは一個への価値が希薄化する。だから、固有動作はすぐに捨象されて、いきなり抽象的な動詞スタートで発生になるんだと思うな。だから固有動詞というものは存在しない。それに対して、固有名詞は反復されないから、具体レベルでのスタートになるんだと思うよ。順序を整理すると、まず反復する肉体動作があり、その次に抽象動詞が作られ、その重要な動作にとって重要な相手になるものとして切り出されてくるのが抽象名詞(大地とか樹木とか)だと思う。その次に、その抽象名詞の中から自分の動作の相手としてのみ重要になるのではない特権的な対象が固有名詞(ポチとか)として切り出されるんだと思うな。こういう順序での言語発生を描けると思う。そして肉体動作から抽象動詞へのステップで重要になるのはオノマトペ(ノスノスする、ガラガラペする、チンする)とかだということになるだろう。

理論は経験の結果であるのに、経験の原因の位置に就こうとする

以下の事例について考えてみたい。

<⑴泣き虫事例>
①よく泣くから泣き虫だ(≒よく嘘をつくから嘘つきだ)
②泣き虫だからよく泣く(≒嘘つきだからよく嘘をつく)

このふたつの命題対立に構造的に対応するものとして、

<⑵思考力事例>
①考えられるから思考力がある
②思考力があるから考えられる

などがある。さらに哲学的にこれを発展させると同型の問題として、

<⑶カント事例>
①因果が分かるから因果の概念がビルトインされている
②因果の概念がビルトインされているから因果が分かる

という問題もある。

さて、さらにこれを哲学的に発展させた同型の問題として

<⑷バークリ事例>
①物を感覚できるから物がちゃんとある
②物がちゃんとあるから物を感覚できる

という問題もある。

そしてこの①と②は、不思議な同型の対立関係になっている。そして次のような両立化さえできる。それが次の命題③。

【折衷案】
③物を感覚できるから、「②物がちゃんとあるから物を感覚できる」といえる状況が成り立っている

こういう対立構造を持った命題は他にもある。

<⑸ニュートン事例>
①リンゴが落ちるから万有引力がある
万有引力があるからリンゴが落ちる

<⑹ホッブス事例>
①社会的行動ができるから社会契約がある
②社会契約があるから社会的行動ができる

などというのも、実は同型の対立と言えるだろう。

そこで、最初の<泣き虫事例⑴>にもどって、もういちど根本的に考えてみたい。

「あいつは、よく泣くから泣き虫なのだ。」とAさんが言ったときに、Aさんへの反論として、「いや、そもそもそいつがよく泣くのはもともと泣き虫だったからだよ」と言ってくるBさんというのが現れる。Bさんは、泣く行為よりも先にある実体として性格というものを実は創造しているのだ。実際、一度も泣いたことがない泣き虫とか、一度も嘘をついたことがない嘘つきとかを考えるのはおかしい。ここでBさんは、動詞的なものよりも先に名詞的なものがあったと言い張るひとつの発明をここでしていることになる。

つまり、泣き虫であることは、実は泣くことの結果であるのに、泣くことの原因の地位を僭称するのである。

だから、もっとまともな考え方、つまり【折衷案】としては、

【折衷案】

③よく泣くから、「②泣き虫だからよく泣く」といえる状況が成り立っている

と考えるべきではないのか。

同様に、<⑶カント事例>についても、

【折衷案】

③因果が分かるから、「②因果の概念がビルトインされているから因果が分かる」といえる状況が成り立っている

ことになるだろう。

では、問題中の問題である。

なぜ人には、因果がなんとなく、わかるのか。純粋悟性概念の発揮としてではないとしたらなぜか。

私はこの問題について、「そもそも人は、世界の事象を人の行為のように分解したり再結合したりしながら擬人的に捉えることをしていて、その行為の構造を抽象化したものを因果と呼んでいるだけだからだ」と答えたい。

つまり、実は世界を因果的に理解することに成功するとは世界を己が行為に擬えることに成功するということなのである。

無人島に漂着すれば、海水を熱するのが原因で結果はマミズになる。私が海水からマミズを取る行為に擬えて世界を再構成しているからである。塩業者ならば海水を熱するのが原因で結果は塩になる。私が海水から塩を取る行為に擬えて世界を再構成しているからである。

「純粋悟性概念よりも行為的理解が先にあり、行為的理解によって因果的理解が可能になり、因果的理解によって純粋悟性概念がすべての始原にもとからあることになった」

という順序があることがわかる。では行為的理解とは何を前提するか。これはなにかを選んで価値づけること、その価値に向かって肉体運動を積極的に組織していく力を前提する。ランダムネスに抗ってある方向を有意に選び取る、こうした極性のある力のことを私は生命力と呼びたい。ゆえに、行為は生命を前提する。そしてその生命はランダムな環境変動に翻弄されるがままになりがちな微生物でいいわけでもない。生命は、途方もなく長い時間をかけて行為のレパートリーや射程距離を増やしてきた。だから、単なる生命ではなく高等生命に至るまでの長い進化の過程を前提することになる。チーターくらいの高等生命にならないと、行為を環境のなすがままではない仕方で安定的に組織することはできないだろう。ゆえに、行為は生命とその進化を前提する。

 

ここからはまた違う角度から、この問題をさらに掘り下げてみよう。令和の日本では、本来は交互に腕を出して歩くということは日本の明治軍国主義教育の発明なのに、そんな発明自体存在せず、もとから交互に腕を出して歩いていたことになっている。少なくとも、そう思い込んでいる人は多いだろう。実際問題、多くの現代人はそう思っている。江戸時代からずっと同じように歩いてきたと思っている。つまり、本当に巧妙な発明というのは発明の事実自体に気づかせないようになっているんだと思う。

本当は社会契約論自体をある時代の社会思想家が発明したのに、「もともと社会契約というものがずっとあって、だからこそ社会契約論を唱えることができているのです」という態度を社会思想家はとっていると思う。社会的現実があるから社会契約ができたのに、社会契約があるから社会的現実があることになっている。「もともとこの子には泣き虫という形質があって、だからこそいま泣いているのです」というのと同じ。潜在的なものの発露として顕在化したものを捉えることにするという発明をしているんだが、実際にはその潜在性こそが、顕在を捉えるまさにそのときに発明されている。発明家が、自分の発明の事実自体を隠すという態度がここにはある。「潜在化していたものが顕在化した」ということが正しくなるように顕在を捉えるのである。社会契約論を唱えるとは、「社会契約がもともとあったから社会的現実がある」ということが正しくなるように社会的現実を捉えることであり、そのことは自分が社会契約というものの内実をそのとき密かに創案し発明しているという事実の隠蔽を含意している。なぜなら、社会契約は、もとからあったのであって、そのときその思想家によって作られたわけではないことになるのだから。

 

<⑺「青い鳥」事例>

【もっとも巧妙な発明は発明がある日なされたこと自体を隠蔽し、元々そうだったことにする】

「たとえば、人にうまくだまされたりして自分は幸福だと思いこんでいた人が、だまされていたことに気づいたとき、そのとき不幸になるんじゃなくて、もともと本当は不幸だったって思うようになるだろう?つまり、たんに「気づいたときに不幸になった」わけでもなければ、たんに「もともと不幸だった」わけでもなくて、「気づいたときに<もともと不幸だった>ことになった」ってわけだ。「青い鳥」の場合はどうだろう?そうか、「青い鳥」の場合はその逆なんだ!子どもたちは、そのときに幸福になったわけでも、もともと幸福だったわけでもなくて、(引用者註:故郷に帰ってきて家にいた鳥を見た)そのとき<もともと幸福だった>ってことになったわけだ。」(永井均著『子どものための哲学対話』98頁)

 

<⑻キャプテン翼事例>
①経験するから概念がある
②概念があるから経験する

【折衷案】
③経験するから、「②概念があるから経験する」といえる状況が成り立っている

→概念は経験から生まれるし、経験がなければ概念なんて生まれられるわけがないのに、概念の方が先にあるようになった状態で、日々の新しい経験は行われています。たとえば、僕らは机の上のランプを見るときに、「ランプとはどういうものか」という概念を前提しながら、そのランプを見ていて、そういう概念が先にある状態でなければ通常のランプ経験なんてありえないようになっています。だからこそ、突然そのランプがある仕掛けでジャンプしたとしても、そのジャンプに全く気がつかないような人がいます。たとえば、僕がもし読書中に、机の上でランプが静かに数秒間浮いたとしても、僕はそれに気づかないと思います。それは、そのようなランプについての概念があらかじめある状態になっているからです。さらに、その概念の方が人間にとって大事になっていることがわかる事例というのがあります。それが、『キャプテン翼』です。主人公の大空翼くんは11頭身ですが、それは「サッカー選手とは足がとても長いものである」というサッカー選手の概念を表現したものだからです。そして、人は何かが重要になればなるほどそれについて高いリアリティを感じますから、実際のサッカー選手の頭身数よりもサッカー選手の概念の頭身数の方がリアルだと感じることがあります。そして、11頭身のサッカー選手を描いた漫画のほうが、短足のサッカー選手を描いた漫画よりもハラハラドキドキして、面白いとも感じます。それで、多くの漫画は、人がサッカー選手について持っている概念を表現しているのです。そして、人は『キャプテン翼』の翼くんの11頭身を見ても違和感を感じないのです。人は「目の前のサッカー選手に似ているもの」よりも、「目の前のサッカー選手に似ていると他人が言うもの」の方を描いており、前者を無視して後者を描くということは対象を分かりやすく単純化したり誇張したり象徴的に表現するということであり、それがデフォルメするということです。その対象に似ていなくてもその対象に人々が与えている意味さえ分かればいいということは、人々が生きる意味世界の一員であることが重要だということです。つまり、リアリティとは重要性のことですが、通常のリアリティを作っているのは、こうした概念なわけです。通常の経験は、その人がもともと持っている状態になったところの概念に浸されながらしか生じません。我々は重要な概念を毎日経験していると言ってもよいでしょう。しかし、哲学的な訓練をした人の経験というのは、その経験の及ぶ範囲を大幅に拡大することができます。どういうことかというと、そうした概念を使って人が知覚している、その知覚作用自体の内的経験にさえ、経験の範囲が及ぶことがあるのです。これを「覚知」と呼びます。そして、「いま覚知されているこの僕は、この概念を使いながら現象の構成をしているんだな(ところでこの概念ってどこから僕のところにやって来たんだっけ?たとえば、原因の概念って意図をもつ存在にしか扱えないんじゃない?)」というような経験をすることさえ、できるようになるわけです。こういう、覚知された私による概念を駆使した現象の構成を文脈ごとに分けて分析していくような経験のことを「反省」といいます。だから「覚知」は「反省」を可能にします。哲学とは、実はこの「反省」をすることで概念の由来について考える営みなのです。反省を方法とする哲学のことを「反省哲学」といいます。自分がどんなふうにして世界を立ち上げているのか、つまり、経験の構造、世界の枠組みはどういう順序で自分が立ち上げているのかということを自覚していくのが哲学という営みです。こういう営みをわざわざやるメリットは、世界と自分の関係が、もはやよそよそしいものではなくなるということです。同じことを、「世界を私に手懐けること」ができるようになることだと言ってもよいでしょう。そして、この「反省」が自己目的化してもいけません。反省はあくまでも覚知された自分と、その自分に感受される諸価値との関係を自覚するためにやっていて、ものごとの軽重を見誤らないためにやっているのですから、ひとときの反省が終わったら、すぐにまた生活へと戻っていかなければなりません。このとき、反省している自分と、反省されている自分とを別の者と考えて反省をいたづらに累進させたところで、無限後退にしかなりませんし、その差異は喫緊の生活の課題からすればどうでもよいものです。

 

<⑼脳科学事例>
①意図するから脳科学で見つかる法則がある
脳科学で見つかる法則があるから意図する

【折衷案】
③意図するから、「②脳科学で見つかる法則があるから意図する」といえる状況が成り立っている

 

「①数学の快楽」と「②肉体の快楽」の先後関係について

ある日、大学のゼミ内で「①数学の快楽」と「②肉体の快楽」との位置関係が問題となっていました。それで少し考えてみたのですが、もしも我々が直立二足歩行していなかったら、直角三角形があれほどまでに注目されて、三角比などの様々な性質が分析されたでしょうか。我々は直角三角形に対して他の三角形とは比べ物にならないほどの美、価値、快楽などを感じると思いますが、それは我々が直立二足歩行するからだと思います。もしも猿のように79度立歩行とかで、すこし傾いて歩いていたり、軟体でウネウネ歩いていたりしたら、79度の三角形やらはたまた全然別の三角形やらが特権的な地位を得たに違いないと思います。我々は直立二足歩行しているから、❶三角比と❷影と❸分度器を使えば、他人の身長を求めたりすることができます。地面の影を測り、分度器で仰角を求めたら、あとはタンジェントをかけるだけで求まります。遠くの地面から直立したビルもこれと同じやり方で高さを求めることができますが、このビルが曲がっておらず直立しているのが気持ちがいいのも、我々の直立二足歩行に理由があると思います。もちろん、生まれたての赤ちゃんに対して、世界は一挙的に現前してきますから、①と②は同等であって、同じ「快楽」という言葉を当てはめてよいと主張する功利主義者や、②より①が根本的だと言い張る数学者(またはプラトニスト)なども生まれてくるかもしれませんが、事柄の順序としては①より②が根本的です。そういう変なことを言う人がいることを否定はしませんが、①より②が根本的であり、①は②から派生したものに過ぎないということが見失われない方が良いと思います。つまり、からだによって感じる快楽を抽象化したものが、数学において感じられている快楽の正体だと思います。