こちらのブログでは、⑴換金、⑵分業、⑶成長という3つの僕の嫌いな概念を順番に批判しています。
⑴.【換金の思想に抗して】
現行資本主義にはある重大な人間に対する単純化がある。まず前提として、人間は、快楽ではなく意味を求める不思議な生き物である。意味さえあれば不快さえ欲するのが人間である。「断食」は苦痛であるが、神の教えに適うと言われればやりたくなる人もいるかもしれない。「切腹」は苦痛であるが、名誉ある行為としてみなされていればやりたくなる人もいたかもしれない。「自傷」は苦痛であるが、嫌いな自分を罰することでこの世界に正義を回復する営みとしてみなされれば、やりたくなる人もいるのかもしれない。スカリフィケーションだって、成人式とか出産経験とか戦歴の証だと言われれば、やりたくなる部族もいるのかもしれない。人間は事実として、そうやって生きている。人間は快苦の原理ではなく意味の原理によって生きている。この人間観の提示を私がしたところまでは、これ以上の具体例による証明はせずに、前提させてほしい。
さて、ここからが、現行資本主義社会がやっている、人間に対するある重大な単純化を指摘する段である。人間が求めている意味を、現行資本主義社会は「換金」というやり方でしか人に認識させまいとしているのだ。どういうことだろうか。
たとえば、こういうことが若者の間でささやかれているのを、私は聞いたことがある。「初任給をもらって本当に嬉しかった。なぜなら、収入があるってことは、私が社会から求められていて存在してもいいよって言われたという、証拠だから」と。この発言、裏を返せば、収入がないと、「証拠(=エビデンス)」がないので、自分には生きる意味がないことになりかねない、そういう構造の中で生きている、ということなのだ。この発言に対して普通は「初任給、貰えてよかったね」と人々は口々に言うのだろうが、私には「よかった」と言っていいのかどうかがわからなかった。
大金持ちになれば、自分は世界で求められている有意義な人なのだと分かり、貧乏になれば、自分は無意味だとわかる。これはたしかに分かりやすいシステムではある。だから、前提としてあらかじめ述べておいたように、意味を求める動物であるところの人間は、このシステムを採用した。現代において、「意味」が欲しければ「金」を稼げばいいのだ。「世界に求められている」とか「自分には自己効力がある」とか、そんなふうに思いたければ、「金」を稼げばいいのだ。
さて、ここで考えてみたい。人間はそんなに金持ちになりたいのだろうか、と。「人間が欲しいのはカネ以前に意味ではなかったのか?」という問いを私は立ててしまう。たとえば、詩作を例にとって説明してみよう。たしかに、誰にも読ませない詩をひとりで書き続けて、それでも豊かな意味世界を生きれるから大満足だという人はかなり少ないだろう(ただし、エミリー・ディキンソンという詩人は、生前ほとんど無名であり、40冊の詩作ノートは死後に親族に見つかって出版され、大詩人として有名になったわけだから、そういう詩人も確実にいるわけだけれども、こういう事例は少数派であることはやはり動かない)。しかし、じゃあ、人間は満足するためにその詩を換金したいだろうか、とさらに問うてみて欲しい。そこまでは不要であるとわかる人もいるだろう。流石に「不要」とは言わないにしても、「必然的」とまでは言えないはずだ。かくいう私も詩を書いたことがあるのだが、同居人に夕食のときに聞いてもらったり、批評してもらうだとかすれば、かなりの満足感を得られた。その体験は、とても有意味であった。あるいは、友達を集めて詩の朗読会をしたら楽しかっただろう。話を戻そう。私が言いたいのは、「意味が欲しいのはわかるけど、そんなにその詩を「換金」したいだろうか?」ということである。何度も言うが、100年弱の生の中で、人間がひたすら求めているのは「意味」である。意味がちゃんと濃厚な体験を通して感受されるならば、「カネ」という分かりやすい指標が与えられることは実は不要かもしれない。このように、丁寧に日常を分析してみれば、意味とカネの結びつきが実は必然的ではなく、恣意的であるのにもかかわらず、さも必然的であるかのように偽装するところに、現行資本主義の詐術というか飛躍があると私は指摘する。
さらにもっと踏み込んだことを言えば、その詩を換金することで本当に意味づけはより濃厚になるのだろうか、と私は問いたい。たしかに、意味づけがより分かりやすくはなるだろう。たとえば私の書いた平凡な詩が一個100円で売れて、カネが入れば、どれくらい私の詩が社会にとって有意味なのかは多少分かりやすくなる。しかし、分かりやすくはなるけれども、人はとにかく意味を求める動物なのであるから、私はその100円をもらうより、直接その詩について誰かとコミュニケーションが取りたくなるのではないだろうか、と私は予想する。要するに、前述した通り「人は意味を求める不思議な動物」であればあるだけ、人は「カネなんかじゃ満足できない」はずなのである。100円をもらったら「カネなんかいらねえよ!バカにしてんのか!」と吐き捨てる詩人さえいるかもしれない。実はあらゆる生産物一般にこの詩作事例と一脈通じるものが、あるようだ。この件については後述する。
ところで、2019年1月21日のニュースで、「世界の超富裕層26人、世界人口の半分の総資産と同額の富を独占」という見出しがあった。なぜこんなに富裕層はカネを欲しがるのか。それは前述の人間観からすると、富裕層も人であるから意味が欲しいからなのだが、ではなぜここまで求めるのかをさらに考えてみるなら、その意味を確認する方法が、カネをたくさん持つことによって確認するしかなくなっているからではないか。つまり、富裕層のこの26人の性格がガメツイからこんなにたくさんの冨を独占しているわけではないと私は考えている。おそらく彼らは性格的にはむしろ温厚で優しい人たちかもしれない。彼らは、現行資本主義のシステムによって、意味を確認する手段がカネによって表示される数字を見ること以外にはないと確信させられてしまっているだけ、なのではないか。私は現行システムの最上層にいる彼ら26人こそ、この換金の思想の最大の被害者であるという見方すら可能だと言っているのである。カネの動きを気にかけ、カネを掻き集めることを24時間やらねばならないとしたらそれは、彼らがそれほどの不安の中にいるということかもしれない。
ところで、「ベーシックインカムを導入すると、頑張っただけ損をするから、労働意欲がなくなるぞ。頑張ってないやつにもお金がいくのは不公平だ。」などという意見をしばしば目にする。しかし、この意見にもこれまでの議論を接続して、反論が出せる。まず、実際に社会実験をしてみた結果、「ベーシックインカムを導入すると、人々が何もしなくなる」などということはないということを示唆した実証研究は存在するわけだが、私はそのことを引用したいわけではない。「人間は快楽も苦痛も関係なく、とにかく意味を求めている」という前述の人間観からすると、そのような実験結果になるのは当然だから、引用する必要すらないと私は考える。そもそも、よほどのブルシットジョブをやらされているのでなければ、仕事はカネとしてのみ意味が表示される前から、その場その場で、現れては味わわれていくような、コンサマトリーな意味に満ちている。仕事はそこそこの創造性を持っているのである。つまり、人間は、ベーシックインカムが導入されようがされまいが、怠惰にはならず、すき好んで仕事をするのであるという結論が先ほどの人間観からは自然に出てくるのである。「ベーシックインカムを導入すると、頑張っただけ損をするから、労働意欲がなくなるぞ。頑張ってないやつにもお金がいくのは不公平だ」などという主張をするのは、その人が「仕事」というものを本当に無意味でしかないものだと前提しており、だからこそ「仕事をしなくても収入があるなら、誰も仕事をしなくなる」という主張にリアリティが感じられているのである。つまりこの主張をする人はブルシットジョブに苦しめられている被害者である可能性が高い。ここでもまた、現行資本主義システムの被害者こそがシステムを維持する側にまわっているのである。このように、「現行資本主義システムの被害者こそがシステム維持の急先鋒をやらなければならなくなる」という構造が資本主義社会の至る所に観察されるわけだが、これこそが、現行資本主義が延命していく構造であると私は指摘したい。再分配に消極的なトランプを支持する人の大半は、貧困層であり、もっとも再分配を必要とする人々である。
⑵.【分業の思想に抗して】
ではなぜ、仕事というものが、これほど無意味に感じられてしまうのだろうか。仕事とはカネのためか、さもなくば空虚であるというその前提はどこから来たのか。それは、分業から生じたのだと私は思う。現代には、本来の仕事の充実感、愉しみを忘れさせ、仕事とは単なる苦痛でしかないものであり続けてきたし、そしてとにかく自分はその仕事を通してせめてカネが欲しいだけだと思い込ませるような分業の思想がある。そしてその分業の思想は次のように展開する。まずは、❶大量のカネを求めないとやっていられないくらいまで仕事の中身を非人間化させ、❷さらにそのカネさえあまりもらえなくさせ、❸そしてそんなヤバすぎるシステムへの反抗もできなくなるくらいまで手足をもぎ、❹手足をもがれたことでそれでもギリギリ生かしてもらえる現在の職場にむしろ感謝する(=やりがいがあり楽しい職場であるかのように自分の感情を騙しながら働く)しかなくなる、というように展開する。この❹が現在の状況なのだ。仕事は、巨額のカネがもらえるならギリギリ耐えられるようなものに成り下がり、そのカネさえだんだんもらえなくなってきたのが現状なのである。分業の思想の展開をもう一度、もっと詳しく見ていこう。
①労働者たちを分業させることによって、
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②労働者の当人ですら何をしているか分からないような仕事が増え、単純作業も増えていき、
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③その細分化されたあとの小さな仕事のことしか分からないから、製品を最初から最後まで1人で仕上げるスキルが身に付かず、
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④分業体制が基本だから、職場内での人間関係にも細心の注意を払わないといけなくなり、分業を乱すようなやつは職場で嫌われるようにもなり、
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⑤そこまで分業が進むと、「現在の会社に解雇されると、お前みたいに、うちの会社の分業システムに適応した単純作業しかできないようなやつは、他の会社では雇ってもらえないぞ」と脅されたときに、その言葉に労働者はリアリティを感じるようになり、実際に、いまの会社では他の会社でも使えるようなスキルが身についていくわけでもなかったりして、
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⑥労働者はたとえ低賃金でも会社に継続的に雇ってもらえるように、楽しくもない仕事をひたすら続けるようになり、人間関係にも気を配りながら、(良い製品を作るというよりはむしろ)顧客や上司の機嫌ばかりを取ることを気にかけるような人間になっていき、
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⑦しかも、分業によって自分のやっている作業が、機械や低賃金でも喜んで働くような外国人労働者でも置き換え可能なくらい単純になってしまったから、労働者たちは機械や外国人労働者に自分の仕事を奪われることを警戒するようになる。会社もそのように労働者を脅せば賃金を下げることができ、
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⑧そして、海外から来た労働者に対するヘイトが煽られることになる。ヘイトは資本主義ではなく海外からの移民に向けられ、
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⑨このように労働者の立場を細分化して分断しておけば、労働者間で一致団結することも少なくなる。労働者間で嫉妬しあい、足の引っ張り合いをするようになる。
さて、ここで重要なのは、分業によって転職ができないくらいにまで業務を細分化され手足をもがれた労働者たちが、その労働を好きだと発言してしまうということである。この件を研究した実験を紹介する。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーが1959年に「1ドルの報酬実験」という認知的不協和の存在を実証するために設計された実験を行った。この実験は、退屈な単純作業をさせ1ドルの報酬を与えるグループと20ドルの報酬を与えるグループに分け、その作業の面白さを最後に質問するという内容だった。そして、その実験内には退屈な単純作業を終えた被験者が、次にその作業をする人に対し「この仕事は面白くてやり甲斐がある」と実際の感想とは反対の発言をするように強制されることが含まれていた。要するに、単調な作業を強制的に了承させて「面白かった」という発言をさせられた後に、1ドルあるいは20ドルの報酬を受け取るという手順を踏んで「この作業は面白かったですか?」という質問を最後に改めて受けるという実験だった。この場合、1ドルよりも20ドルの報酬を貰ったグループの方が「面白かった」と回答しそうだが、結果は反対。1ドルの報酬のグループの方が「面白かった」と答える人の割合が高かった。20ドル報酬グループの被験者は「面白くない作業を面白いと強制的に言わされる認知的不協和の状況が20ドルの報酬で正当化された」ので面白くないという本心を維持することができたが、1ドル報酬グループの被験者は、「面白くない作業を面白いと強制的に言わされる認知的不協和の状況を1ドルの報酬では正当化できなかった」ので、面白くないという本心を維持したままでいることができなくなってしまったのである。つまり、低賃金だと、面白いと自分を思いこませないとやっていられないが、高賃金だと、まだ本心では面白いと思っていないという苦しみに耐えられるということ。そうだとすれば、低賃金にした方が、労働者は血の涙を流しながらも表面上は「喜ぶ」ということになる。ここから分かるのは、「やりがい」にも2種類あるということ。もはや現代では、①仕事がつまらないのにも関わらず、②低賃金であるため、そうであるがゆえに、むしろ③やりがいが発生していると考えられる。このように極限状況で生じる「血だらけのやりがい」ではなく、仕事それ自体に自己実現の余地があるからこそ生まれる「本来のやりがい」というものを、たとえ低賃金・低効率の職場でもいいから、地道に感受していったほうがよいのではないだろうか。この件について次節ではさらに掘り下げて考えていきたい。
⑶.【成長の思想に抗して】
では、どうすればよいのか。我々は成長主義をやめるべきなのである。ロボットを導入すればいいと言う楽天的な人がいるが、それは間違っている。非人間的な仕事を肩代わりしてもらうためにたくさんのロボットを導入したところで、職場自体が成長主義をやめない限り、その空白となった空いた時間に、上司から別の仕事をさらに詰め込まれるだけなのである。もっといえば、ロボット導入によって生じたロボットの管理などの別の仕事を詰め込まれるだけである。だから、我々は働く愉しみを味わえるような、昔ながらの素朴な仕事のやり方に戻るべきであり、そうであるならば必然的に、成長主義を諦めざるをえないのである。
では、成長主義をやめるとはどういうことかというと、要するに、収入を増やすんじゃなくて、支出を減らすということだと思う。人間はジモティーとか使いまくれば、収入がそんなになくても、支出自体が減るから生きていける。平均家賃が月20万円を超えるようなファミリーマンションに住まなくても、郊外に同じ広さで6万円とかで住める。そうやって、収入を求める暮らしから脱却していけばいい。支出を減らせば、収入が少ないが健全でまともな職場はいくらでもあるのだから、そこで楽しく働けるようになる。私は資本主義じたいを辞めればいいなどとは全く思わない。過酷ではなくユルユルの資本主義、緩慢な資本主義に戻ればいいと単に考えているだけなのだ。そういうことを言うと、「お前はいつも他人の古着を着ていて、みすぼらしい。身の回りには中古品ばかりだし、いつも水道水を飲んでいて、飲み会にも来ない。家具もリサイクルセンターで拾ってきたものばかりじゃないか。」ってあなたに言ってくる人が現れるかもしれない。そういう人の価値観のほうが時代遅れだと思う。そういう無礼なひとには、「水道水の良さが分からないなんて、お前の方が可哀想だ」と開き直って、言い返してみてほしい。我々の周りは、もう成長しなくてもいいくらい、充実している。今日もひなたぼっこをしていると、優しいそよ風が肌を撫ぜる。紅葉が綺麗だとみとれる。四季折々の花の香りにおぼれる。子どもたちと野原を駆け回り、歌を唄う。疲れたらぐっすりと眠る。この無上の価値が、無料である。我々はこうした価値を守るために社会をつくった。社会がもっと成長するためにこの価値を味わう時間を捨てろと言ってくるならば、変わるべきは社会のほうである。