aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

どうして悲しみは心地よいのか

「どうしても僕には、犬や猿には感情があるような気がするのですね。基本的な感情ならあるとも言えると思います。でもそれは原始感情であって、人間基準でのいわゆる「感情」とは呼べないものなのかもしれません。たとえば飼い主に怒られて悲しそうにしている犬を僕は見たことがあります。ただ、感情とは「想像力の発揮による価値の感受」のことだと定義すると、飼い主に叱られている犬は単にその場で叱られたことを悲しんでいるだけで、自分がやってしまったことや叱られていることがどういう意味をもつのかを想像して悲しんでいるようには見えない、つまり、自分が怒られているという事態を何らかの価値(=というよりはむしろ意味と言うべきでしょうが)をもったものとして構成してその意味を感受しているという感じはしないです。」

「この点で僕の念頭にあるのは「悲しみはいつも心地よい」ということです。犬が怒られて悲しい、と表現することは可能だとは思いますが、悲しみが享受されているのかというと、おそらく享受のステージがすっとばされて直接的なのでしょう。意味を経由するとしても、その意味は人間のような一般性も象徴性も経由することのないような生物学的レベルでの意味だと思います。人間は喜怒哀楽、いずれにも享受のワンクッションがあります。衝動で人を刺してしまうような怒りに心地よさはないでしょうが、意味を経由するという点で言えばやはり間接的です。犬のしょんぼりは可愛いですが、それはアルファオスに威嚇された劣位個体のありかたと同じようなものだと思います。」

「「悲しみはいつも心地よい」ってなんとなく分かるようでいて、分かりにくいです。これは具体例なしに、それ以上の正当化も不要で、当たり前に人々に是認されるような命題ではなくないでしょうか。「悲しみはいつも心地よい」ということがよく分かるような、具体例とかって、ありますか?」

「確かにそうですね。「悲しみはいつも心地よい」ことを説明するときに具体例は必要ですし、心地よさというプラスの感情ではないようなマイナスの感情もここに含まれているというのが混乱のもとだと思います。ポイントは感覚と感情の対比であってプラスの感情とマイナスの感情の対比ではありません。「悲しみはいつも云々」の言葉は感覚の絶対性と感情の間接性・相対性の対比としての表現だとするとまだ許容できませんか。ちなみにこの言葉には歴史があって、アリストテレスカタルシス論に淵源をもちます。好き好んで悲しさを経験しようとする人間観察があったのでしょうね。ただ、僕にはこの言葉はリアリティがあります。あまりに悲しくて泣けない、涙がこぼれてやっと泣ける、という経験をしたことがあるからです。直接的な経験は動物的経験で、涙もこぼせません。救いとしての涙が到来するとき、確かに悲しみは心地よかったです。」

「なるほど、救いとしての涙が到来する、ですか。つまり、「悲しみが大好物であるような不思議な人間たちの余裕の秘密は、自他の区別である。役者に自分を投影しつつも他人事として役者を見てもいるから、観客は悲劇でさえ楽しめるんだ。劇中で、あるキャラクターが裁かれたとしても、それは自分によく似た他人であるから、人々は余裕を持って見ていられるんだ」というアリストテレスの見解を、「悲しみが大好物であるような不思議な人間たちの余裕の秘密は、感覚と感情の区別である」と修正したのがマルブランシュだったわけですね。マルブランシュからすれば、大恋愛してから失恋した直後のひとはボス猿に脅されてパニックに陥り、なにもできなくなった子猿のように、感情として悲しむということがまだできていない。とにかくショックで、怯んで、何もできないのだから、ごはんも食べられない(=冷静でいられなかったり、無気力になったり、混乱しているせいで情緒がうまく定まらなかったりする)。しかし、そこでもし何かのきっかけ(=例えば踏み切りを見ること)によって、「この踏み切りのように、一時代が終わったのだ」という意味づけが与えられれば、やっとのことで、その衝撃は、めでたく「悲しみ」となる。悲しみは、どうすればいいのかわからないという感覚ではなく、泣けばよいということが分かっている感情なのである。そしてその悲しみには、余裕がある。どんな余裕かというと、意味上の解釈の余地があるという余裕である。つまり、解釈次第でどうにでもなるという余裕がある。「一時代が終わってしまった」と意味づけられる距離が事態とのあいだに生まれたとき、「次の時代に進むための重要なステップだった」という解釈がその事態に対してできるようになるための距離も同時に確保されているのだ。感情には余裕があるから心地よく、その余裕の中で、泣けばいいことなのだとも分かっていることが心地よいのである。さっきまで、どうすればいいのか分からなかったのに、いまや泣けばいいのだから。そしてさらに、この余裕は、最終的には悲しみをたくましい(=ふてぶてしい?)自己肯定へと変えてしまう。なぜならば、たとえ悲しみが「自殺をするべきような失恋だ」という強烈な意味づけを帯びていたとしても、その意味づけは瞬間的なもの、一過性のもの、より強い言葉で言えば「思春期的なもの」、後発的なもの、でしかなく、次第に、生命の先発的価値である生きることの肯定という大原則に適うような別の意味づけに場所を譲っていくからである。こうして、「次のステージに進むために必要な失恋だ」という別の意味づけが生まれてくる。だんだん(感覚にはなかった)感情の「余裕」は、「心地よさ」へと繋がっていく。だから、「悲しみはいつも心地よい」のである。こういうことですかね。そして、アリストテレス発祥の「悲しみはいつも心地よい」という表現に類似の言葉として、⑴「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」(松尾芭蕉)とか、⑵「生きている中、わたくしの身に懐かしかったものはさびしさであった。さびしさの在ったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった。」(永井荷風「雪の日」)とか、⑶「苦悩の感情においても人は少なくとも自己を感じ、自己を所有する。このことだけでも、すでにそれ自身によって、自己感情の絶対的な欠如よりも幸福なること無限である」(フィヒテ)というようなものを見つけました。個人的には、⑴が一番ピンと来ました(⑶はすこし大袈裟な表現だと感じます)。わざわざ悲しみを構成してその意味を味わうというようなことが、僕にもあるし、そのことは無意味な動物的衝撃に苦しむときよりも、人生を豊かにする余地に僕が恵まれていくということなのかもしれません。「感傷に浸る/ふける/おぼれる」という言葉はネガティブな価値づけを孕んでいますが、そのことが人間の生を豊かにもしているとも言わなければ片手落ちのような気もしてきますね。」