aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

科学法則についてガチで考える

 

【「決定論」は否定できるか:否定できる】
西洋思想の中で、例えば、スピノザ決定論者である。スピノザ主義だけでなく、キリスト教の「摂理思想」も決定論である。「摂理」というのは「プロヴィデンス」という英単語で書くが、これは「前もってお見通し」という意味である。「決定論」の元祖はこの摂理思想(=神様が未来をお見通し)であるが、「たとえお見通しであっても、だからといって人間の自由は否定されない」という「中知思想」(=非常に優秀な教師は不良生徒がその後万引きをするかどうかをかなりの精度で言い当てることができるだろうが、だからと言って、「先生が見通したことが原因で不良生徒が万引きをした」とは言えないのと同様に、神様がお見通しであるとしても人間に自由がないことにはならないという思想)というものも思想史上にはある。しかし、現代に幅をきかせているのは科学的決定論である(神学的決定論に対しては、そもそも神の存在証明がこれまで提出されてきたもののどれもが、論理的にはまともな証明とは言えないと反論できるからトリビアル決定論に過ぎないと言えるだろう)。例えば、リベットの『マインドタイム』における議論のように、「ある人がこれから右手を挙げるか左手を挙げるかを決める直前にその人の脳内では「準備電位」が生じていることが実証実験で確かめられているから、実は物質的にどちらを挙げるかは事前に決定されていた」と考えるのが科学的決定論である(とはいえ、このような話を聞くと、意思決定の前に「脳波」や「準備電位」が生じていることが実証実験で確かめられたからといって人間に自由がないということにはならず、その実験から言えるのはたかだか、「人間が意志を決定する時に物理的前提として脳活動を無視することはできない」ということだけではないかという疑問もあるだろう)。さて、自由は幻想なのだろうか。つまり、決定論は正しいのだろうか。

【人の自由はどこへ行ってしまうのか:人の自由の守り方】
科学的決定論はなにを前提しているのだろうか。科学的決定論は科学法則を前提している。科学法則があるからこそ決定されているなどと主張できるのだ。では、その科学法則はなにを前提しているだろうか。実験室である。どんな実験室か。理想的実験室である。では、理想的実験室とはどんなところか。例えば自由落下の法則を取り出したいならば、空気抵抗のない完全な真空状態が実現されている実験室が理想的実験室である。では、「完全な真空状態」は実現できているのか。できていない。「完全な真空状態」を作るのは今まで無理だったからである。しかし、「完全な真空状態」を理想的に仮定して法則を作る、あるいは取り出すのである。法則を「取り出す」ときには、現実にはあり得ない、「人間にとって都合がいい状況(=恣意的な状況)」を「作り」出したと仮定して、それが世界を貫いていることにしているのである。そうすると、「実際には現実世界では作れないが、人間にとって都合のいい状況を作り出したと仮定し、その仮定されたありえない状況が現実世界全部を貫いている「とする(=と信じる)」」というステップが法則を取り出すときには入っていると言える。このステップには明らかに飛躍がある。「特殊を一般化(=「カラスは飛べる。スズメは飛べる。カッコウは飛べる。タカは飛べる。よって、全ての鳥は飛べる。」という誤謬推理)」することでさえ飛躍であるのに、その特殊があり得ないのであれば、なおさら一般化(完全に真空の状況で全ての物体は〇〇という仕方で落ちる)することには飛躍があると言わざるを得ない。ここには「そう信じる」という契機が明らかに入っている。ただし、「だから、この「落体の法則」は間違っていると言いたい」のではない。そうではなく、飛躍がある、と言いたくて、飛躍があるがそれで正当だと認められているのは、そこには人間の「狙った通りに物体(あるいは現象)を操作したい」という関心が隠れているからだ、と言いたいのである。

【実験室は、狙ったものだけを遮断しないことによって成り立つ】
 実験室は「外界と遮断する(=外界の影響を受けないようにする)」とは言いつつ、全てを遮断できているわけではない。「落体の法則」を取り出すならば、重力は決して遮断しない。いい実験室であればあるほど、重力以外は遮断する(=例えば外界の気温や気圧の影響が実験室内に及ばないようになっている)だろうが、重力は遮断しない。それはなぜかといえば、「落体の法則」を取り出そうとしている人は、そもそも重力に関心を持っていて、重力に着目し、重力以外を捨て、重力だけを使って、狙った仕方で物体を操作する装置を作っているからなのだ。つまり、実験室は、重力によって生じる現象を狙った通りに引き起こしたい(=操作したい)という操作的関心を前提しているのである。この操作的関心を前提しなければ、「重力だけを遮断しないことで実験室を作る」ということがそもそも起こり得ないのである。これを縮めていえば、「操作的関心なくして実験室なし」と表現できる。そういうわけで、実験室という精巧な装置(=ある目的にまずは関心を持ち、その狙った目的を達成するという精巧な装置)を作った人間の自由を前提しなければ、科学法則はあり得ないということになる。それなのに、その科学法則が人間の自由を否定するということは正当だろうか。正当なはずがない。そもそも人間に自由があったから実験室を作れて、その実験室があったから科学法則が作れたのに、その科学法則によって人間に自由がないということにできるはずがない。同様に、人間に自由がないということを証明する科学実験というのが仮にあったとすれば、人間に自由がないかのように人間を操作できるような、精巧な実験室を作る人間の自由を保障してしまうことになるだろう。科学法則は人間の自由の落とし子なのである。

【塩業者と遭難者の比喩】
ある南洋の島に塩業者がいるとする。彼の関心は塩にある。だから彼は「海水を加熱することによって塩を作る」という因果関係を設定し、そのための技術を標準化し、海水を温めたことの塩以外の様々の帰結を無視する。たとえば、水ができてもそれは結果とは呼ばずに無視して捨ててしまう。また、彼は塩業のための機械を作る。新たな機械を発明するとは、新たな因果関係を発明することであるといってもよい。というのも、意図された結果を実現するような原因となる動作は必ずしも自明なものではなく、「あっ!」と思い付かれるようなものだからである。そうやって思い付かれるのが機械なのである。「機械」とは、関心を前提して思いつかれたはずの原因(となる動作)の標準化と没人称化との別名である。この話は少し後に再び取り上げる。

ここでもう一度、強調しておくが、意図や目的が、加熱の様々な帰結から一つを選んで切り出してきて、そこに因果関係を設定するのである。その証拠に、ある南洋の島に遭難者がいるとしよう。彼は関心が水にある。だから彼は「海水を加熱することによって水を作る」という因果関係を設定する。このとき、遭難者と塩業者でやっていることは同じなのであり、どちらも加熱によって塩と水を手に入れている。けれども、片方は塩が結果だといい、もう片方は水が結果だといい、結果として選ばれなかったほうの加熱の帰結を無視するのである。以下に定式化しておこう。

塩業者:加熱が原因で塩が結果と主張する
遭難者:加熱が原因で水が結果と主張する

ところで、この「機械」というものは面白い。これが物理法則というものの内実だからだ。

例えば、落下の法則について考えてみよう。落下の法則的理解においては、単に落下を観察して、その落ち方を分類することが問題なのではなくて、様々な物体の様々な落ち方を再現するためにはどうすればよいかと考え、その再現は、花びらであれ何であれ、とりあえずまっすぐに落としてみようとするところから、まず、はじまる。

しかし、花びらを真っ直ぐに落とすことはうまくいかない。それがうまくいかないと、たとえば風のない室内に花びらをわざわざ運んできて、そこで花びらを落としてみる。それでも、やはりうまくいかない。ではどうすればよいか、と考えて、だんだん大がかりな実験装置が必要になり、ついにその花びらが落ちるのは日常とはかけ離れた真空容器(←ただし完全なる真空は存在しない)の中になったりする。こうして、花びらをまっすぐ落とすという行為が成功するために必要な条件が分析され、ついには法則が定式化される。ただしこのとき問題になり、考慮されているのは、花びらに関係のあるものの全てではなく、花びらをまっすぐ落とすという行為が成功したと実験者全員に思えるために必要な条件の全てであることには注意が必要である。

 こうしたことから、法則の定式化とは、現象を再現するための、すなわち実験を遂行するための技術の標準化のことであるといえる。さらに、一度法則が定式化された後で、標準からずれた現象が観察されたならば、その「ずれ」の理由が説明されなくてはならなくなることも重要である。法則の定式化がなされるまでは法則からズレた実験結果が得られても、それについての事情説明は要求されなかったのに、定式化の後では説明が要求されるのである。このことは、法則的に何かを理解するということが、「法則が事実を規定する(のだから、法則を学べばまったく同じ事実は再現できる)」という仕方で現象を理解する(したい)ことであるということを既にして暴いている。

また、技術が標準化されるということは、誰でもそれができるということと一体であるから、法則的理解は、それを理解する者の主観や個人的実験技能ではなく、「客観的なもの」という身分を持つようにもなる。そしてさらに、法則的理解が特定の実験状況から切り離され、つまりは具体的な行為の場面から切り離されることで、法則が支配する出来事を開始させたのが、実験を行う人間の行為だったことが忘れ去られる。法則から、現象を開始させる原因の概念を排除し、条件の概念だけで事足りると思い込まれ、法則は現象の推移を方程式によって記述したものだと見られるようになる。実験もまたひとつの行為である以上、実験操作と実験結果との間には因果関係を我々が読み取ってしまわざるを得ないのに、科学法則の定式化が達成されたあとでは、原因概念は追放されねばならず、条件概念で事足れりとされ、現象の因果関係ではなく推移を記述する方程式という地位に、科学法則は据えられるのである。

つまり、実験者がある現象を再現するという目的を持って、発明のごとくに機械を作り出し、その機械を標準化することで没人称化が達成されたものが科学法則なのだとはもはや誰も思わずに、法則は、人間の行為を前提した関心とはまったく無関係に現象を生起させ、幾つかの条件(←ただしその条件として選ばれるものの数は奇妙にも限定されているのだが)さえ整えばかならず同じ現象を生起させる世界の統御原理であり、それが実在すると考えられるようになるのだ。なぜか。なぜかといえば、法則は人間が樹立したものではあるが、それは世界の側に元からあったものを我々が写しとっただけなのであり、そこに恣意性はないと、人々は考えたいからである。

ここまでの話をまとめておこう。科学法則の定式化というのは、実は、実験という行為を遂行するための機械を標準化することなのであり、機械の標準化とは没人称化のことなのであり、科学法則はいちど定式化されると、人間の関心とは独立に実在し、人間が作り出したものではないという地位を僭称することになる。またそれだけではなく、人間がそこに原因と結果の関係を読み込むことも拒否するのである。これが科学法則が樹立されるということの意味である。現象の推移の規則を科学法則と呼び、それが実験の条件とのみ相関的に実在しそこに恣意性はない、と主張するためには、「人間が実験操作をしたから実験結果が起きたと再び考えられてしまっていることの不可避性」とか「実験の条件というのは結局人間が実験結果をコントロールできる原因として選んできたものだ」という恣意性の自覚は、排除されねばならなかったのである。

結論を言うと、科学法則は客観的であると言われるが、その実、背後に「物体の運動を再現したい」というたぐいの関心が隠されており、その関心を見えなくさせ、誰がやっても同じ結果を引き起こせるような仕方で思い付かれ設定された原因が「機械」であり、新たな機械を作るときには、落下の再現という目的達成のために必要な条件のみが問題になり、落下物と関係しているあらゆる相関項は問題にならず、選択的に幾つかは考慮されるが他は無視される。ことほどさように、科学法則は人間の側の恣意性を前提しなければ作り出すことはできないし、客観的に見えるけれども、客観的ではない。