aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

知覚の構造について

【言語の本体は形式ではなく意味で意味の本体は対話】


解釈されるのを待っている蠢きとして、促しは潜在的にある。
(「今日みたい映画があるんだ」)


そこへ受信者の態度決定が起こる。
(「今日は仕事で忙しいから見に行けないかも」)


それによって発信者の発言の意味が、そのような促しとして前からあったことになる。
(つまり、最初の発言が「一緒に映画観に行こうよ」という促しだったことに、あとから、なる)


「そういう意味じゃなかったよ」と言えば前からあったことにされていた促しは消えてしまう。しかし、また別の態度決定がなされれば、そのような促しが前からあったことになる。
(最初の発言は「解釈されるのを待っている蠢きとして潜在的にある促し」に戻ってしまい、顕在化した促しとしては消えてしまう)

→知覚もそうなっている。こちらが態度を取るのと同時に向こう側からの促しが発生してきて、そのような促しがあったからこそ私がそのような態度を取れたように思える、という循環がそこで発生する。これが知覚の構造である。

ロールシャッハテスト】
ロールシャッハテストでいろいろな意味に見えたり、なににも見えなかったりすると異常。

現象学形而上学は両立する】

物体にさえ生命があると考える形而上学的な立場でもかまわない。そうだとしても、現象学者はそのような物体から見た世界の一人称的記述が重要であって、そのような形而上学的世界像は知覚世界の成立した後から作られたものだと主張するだろう。まずは知覚という名の構造化された現れ(=作用の始点や終点が分節される手前にある相互関係)がなによりも最初にあって、私の態度決定とまったく同時に、(因果的ではなく)、まったく同時に現れるのが私と世界であり、そのあとで「私がいなくても世界はあったし、私がいなくなっても世界は残る」などという信念や因果的な世界像も成立するのである。まずは、知覚という名の構造化された現れ(=作用の始点や終点が分節される手前にある相互関係)がなによりも最初にあるのだ。