aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

現象学ノート

 

【存在と存在者の区別】

存在するものは存在者(ダス・ザイエンデス)である。存在者を存在させるものが存在そのものである。何かを存在させるものが存在そのものである。存在させる者(=存在)によって存在する者(=存在者)は存在そのものではない。たとえば、子ネコは親ネコから産まれてくる。親ネコは子ネコを存在させるものである。では、親ネコが存在そのものなのかといえば、そうではない。親ネコも他に依存的である。存在そのものは自存(=それ自体で存在)するので、他のものに原因を持たない。存在そのものは何かを存在させるものである。存在者は存在によって存在するのである。

 


【「存在=神」という等式】

「存在=神」という伝統的な等式がある。この等式を論じるのを「存在神論」という。この等式が意味するのは、「存在そのもの(エッセ・イプスム)は神という存在者である」ということである。つまり、「存在は存在者である」ということである。この伝統的な等式を拒否しようとするのが、ハイデガーの哲学なのである。しかし、ハイデガーがこの等式をどこまで拒否できているかどうかは、実は不明である。

 


【「定義」とは何か】

定義とは基本的には、「種差+類」である。たとえば、「人間とは、言葉を話す動物である。」という定義をした場合に、「言葉を話す」というのが種差であり、「動物」というのが類である。種差というのは、同一類に属するある種を他のすべての種から区別する特定の徴表である。動物という類において、「人間」を他のすべての動物から区別している「理性」は種差である。つまり、定義というのは、類に属するものに対して種差を使って成されるのだから、最上位の類であるものとして存在を考えた場合、「存在」は定義できないのである。

 


【存在そのものは「定義」できない】

存在そのものは定義できないとされる。なぜ定義できないかというと、存在は最上位の類だからである。定義とは基本的には、「種差+類」であるから、最上位の類である存在については、「存在は、種差な類である。」という文を作ることができないのである。

 


存在論的差異

存在者と存在は違う。「Xは存在する」のXにはいろいろな存在者を入れることができる。しかし、そのXに、「存在」を入れることはできない。なぜなら、存在するのは存在者だけだからである。

 


【存在の意味を問うこと】

直ちに意味が理解可能な問いは、存在者に対する問いに過ぎない。しかし、「個々の存在者とは何か」ではなく、「そもそも存在とは何か」という存在の意味への問いはなかなか立てられるのが難しい。

 


【なぜ机という存在者を存在の意味の問いの手掛かりにできないのか】

問いを立てることで、問われていることを漠然とであれ理解しているものこそが手掛かりとしてふさわしい。「問いを立てることで、問われていることを漠然とであれ理解しているもの」のことを「現存在(ダーザイン)」という。昔、現存在は、意識や人間と呼ばれていた。我々は全員be動詞を使っている。be動詞の意味がわからない人はいない。それゆえ、我々は、存在の意味を漠然とであれ了解しているのである。現存在は、その漠然とした「存在了解(ザインスフェアシュテントニス)」を持っているのである。現存在は、「その都度私がそれであるその当のもの」である。「その都度私であるもの」が「現存在」である。

 


【時間性(ツァイトリッヒカイト)】

存在の意味を時間性から明らかにしようというのが『存在と時間』の前半部の主題である。

 


【現存在は世界内存在である。】

現存在は、インデアヴェルトザインである。そもそも、現存在は、内存在(インザイン)である。「ザインイン」と「インザイン」は違う。コップの中に水があったり、タンスの中に服があったりするのはザインインである。しかし、インザインは、常に既に住み着くことである。現存在が存在するならばその都度必ずそれは世界と切り離し難く関わって存在するのである。つまり、現存在はまず存在し、それからその次に、二次的に世界のうちに歩み入るのではない。現存在が存在するならば、それはそのままただちに、世界の内に在って世界と関わってしまっていることを意味する。人間にとって故郷(ハイマート)であるような場が世界なのである。

 


【現存在はその都度私のものであるところのものである】

存在への問いはダーザインをその手がかりとする。ダーザイン(現存在)は、イェー(その都度)マイネス(私のもの)である。しかし、多くの場合、現存在は平均的な日常性においては、むしろ固有(アイゲン)な自己を失ってウムアイゲントリッヒな在り方に頽落(フェアファーレン)しているのである。

 


【ツーハンデンザイン】

ハンマーを手にして、それで釘を打ち付けることができることが、ハンマーを知っているということである。世界にあるものの与えられ方は、そういうふうに与えられる。太陽は灼熱の物体である以前に我々を温めてくれる恩恵として与えられる。全てのものは、何らかの形で生に関わるものとして意味づけがされおわってから与えられるのだ。その意味で世界は我々に馴染み深いハイマートなのである。そして道具的存在者はひとつで孤立しているわけでは決してない。我々がハンマーを使えるためには板や扉や釘が必要で、そのハンマーが置かれた作業場が必要だ。ハンマーは道具連関の中でのみ働く。道具が働くのはそれがところを得ているからである。適所性(べバントニス)がなければ道具は働かない。世界が世界であるのは有意義性(ベドイトザームカイト)においてである。

 


【水車と川さえ人間化される】

水車がツーハンデンザインならば、川も、雨も道具連関の中で、ツーハンデンザインであることになる。大地はそこを踏みしめてどこかへ向かうための場であり、川はそこで人が身体を洗い身を清める場であるということになる。風は単に吹き過ぎて消えるのではなく風車を回し、それによって小麦を砕くツーハンデンザインである。これら全てが故郷としての世界を作る。それら全ては有意義性を持つ。大地は動かないのである。

 


【しかし大地は揺れる】

しかし、大地は動く。洪水が起きて人はそれに飲み込まれる。世界は人間のハイマートであるどころか、むしろ世界は人間とは異質でよそよそしい何かであると考えるのがレヴィナスであった。

 


【他者は不在においてさえ居合わせている】

岸に繋がれたボートは、そのボートで漕ぎ出ようとする誰か知人を指示し、他方また、見知らぬ(フレムトな)ボートであってさえも、そのボートは見知らぬ他人を指示する。このようなハイデガーの他者の取り扱いついて、ハイデガーが目の前に現前する個別具体的な他者の問題をあらかじめ置き去りにしてしまったとして批判するのが和辻哲郎レーヴィットである。和辻はハイデガーの死が「その都度一人称の私の問題であること(イェーマイニヒカイトJemeinigkeit)」を批判したのである。ハイデガーによれば、抽象的な他者というのは不在の現前として常に欠如的にも現れうる。しかし、そのような影の薄い他者や、欠如的にのみ現れる抽象的な他者に注目するのではなく、まさにいま目の前に居る個別具体的な他者に注目すべきであったというのがカール・レーヴィット和辻哲郎であった。レーヴィットの著作『Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen:共にある人間という役割における個人(共同現存在の現象学)』とは、むしろ世人の現象学なのであった。

 


【世人】

世人は他ならぬ自分の生の大部分をまるで他人事(ひとごと)のように生きている。ふつうの日常において、現存在は共同現存在である。共同現存在は、ほぼ世人である。世人は他者たちと共にあり、誰も自分自身なんかを生きてはいない。世人はウムアイゲントリッヒ(非-固有本来的)である。そう、アイゲンとは、固有という意味なのである。

 


【死すべきもの】

それぞれが現存在であり、それぞれが自己であるのに、その他ならない自己のあり方は多くの場合アイゲントリッヒ(固有本来的)ではないというのがハイデガーの分析だ。ではどうしたら、アイゲントリッヒになれるのだろうか。ハイデガーによれば、人は「死すべきもの」である限りで、もはやひとごとではない固有の生を生きざるをえないのである。全てがひとごとでありうるとしても、たったひとつだけ決してひとごととなりえない事柄がある。それが死だ。誰も私の代わりに死ねないし、私も誰かの代わりに死ぬことができない。だから私の死はアイゲンである。死一般ではなく、この私の死は、アイゲンである。ハイデガーは有限な生を、有限なままに内側から肯定しようとしているのである。

 


【なぜ有限的な生はわざわざ肯定されなければならないのか】

①生それ自体の肯定はまったく不必要かもしれないし、②あるいは、生それ自体の肯定をしようとしないどころか、有限的な生それ自体の意味を否定するような思想もありうるかもしれない。③あるいは、生の意味はと問うこと自体が贅沢な営みであるとするなら生を肯定する思想を言葉で表現しようとするのは贅沢な営みかもしれない。しかし、ややもすると生の意味の全面的な否定や絶望を組織するしかないような思想は思想として二級品である。それらが思想として二級品である理由は、思考の表現というものが持つ責任を果たしていないからである。生の意味の全面的否定を説く思想、たとえば自殺の美学を文章にして雄弁に説くというのは矛盾しているのである。旨いものを食いながら、他者に向けて生の意味を全面的に否定する思想、例えば「自殺の美学」などを言葉でもって語るというのは不健康である。思想というものはそういうものではない。我々が生きている限り、我々の身体は時々刻々と自分の生を肯定し続けているのに、その肯定を我々が自ら否定するというのは、思想としてどこかが一貫していないのである。身体である我々が生の肯定を意志しているのに、その身体がその否定を意志するのは矛盾しているからだ。

 


【人間は世界内存在である限り常に何らかのシュティムング(気分)のうちにある】

人間がジッヒ・ベフィンデン(=どこかにあること)するからには、必ずベフィントリッヒカイト(情態性)を持たざるをえない。人間の在り方には常にベフィントリッヒカイト(情態性)がまとわりついているのである。では、人間にとって最も基本的なベフィントリッヒカイトとは、一体何だろうか。それが不安(アングスト)である。

 


【なぜアングストがもっとも基本的な気分なのか】

なぜアングストがもっとも基本的な気分なのか。我々には被投性があるからである。我々はその都度存在している。しかし、我々は生まれることに同意した覚えはないし、世界は私が作ったものでは全然ない。我々は、我々がどこから来てどこへ立ち去って行くのか、何のために生きるのか、それがあらかじめ分からないままで、とにかく、とりあえず存在しているからである。我々には我々や世界が存在する理由や根拠が分からないからである。だから、現存在はこのアングストという特異な情態性(ベフィントリッヒカイト)に根本的に常に拘束されており、それを何かに夢中になることによって忘れることはあれど、結局基本的にはいつもこのアングストは潜在しており、この情態性からは決して逃れられないのである。人間の基本設定はアングストなのである。このような不安に囚われたとき、世界はもはやウムハイムリッヒ(よそよそしくて不気味なもの)なものとなる。不安に囚われたとき、世界はもはやハイム(家)でもなんでもなくなるのである。こうなってしまったとき、世界はそれ自体としては剥き出しの不気味さを持っているのではないか。世界が馴染み深いものとしてあるという根付きの気分は、いつまでもこの生が続くという素朴な思い込みを前提とした錯覚だったのではないか。

 


【死はエンデでありグレンツェである】

死はその人がどんな信仰(天国、輪廻転生など)を持っているかに関わらず、「この生」の「終わり(エンデ)」であり、「限界(グレンツェ)」である。境界というのは、そこまでがそのものであるような目印である。死は、その死を含んで、その死までの生を生の全体として定めるような、そういう目印である。死をまだまだ先のものとしていつまでも繰り延べていると、この生の全体をまさに自分に固有なものとして生きることができない。全体的な生、また全体的であるがゆえに、固有である生を生きるためには、必ず到来する死を引き受けなければならない。死へと先駆することは、この生の全体を定めて、この生を固有なものとすることなのである。

 


【死は不可能性の可能性である】

死は「そこに至るとすべての可能性が失われて一切が不可能(ウンメッグリッヒ)になるようなもの」である。死は、その都度、現存在自身が引き受けなければならない、最も固有で、交渉を欠いた、追い越しえない、不可能性(ウンメグッリカイト)の可能性(メックリッヒカイト)である。

 


【先駆的決意性(フォアラウフェンデ・エントシュロッセンハイト)】

死に向かって自分の全体としての固有な生にあらかじめ先駆けていく(フォアラウフェンド)ようなあり方が先駆的決意性である。このありかたにおいて初めて人は自分の生の全体を我がものとし、固有なものとすることになるのである。つまり、「死に関わる存在(ザイン・ツム・トーデ)」であることを引き受けることにおいて、初めて人は自分の有限的な生そのものを残りなく自分の手にすることになるのである。それはまるで、旅に出て、「旅にはいずれ終わりが来ることを知っている」というまさにそのことによって、あらゆる日常的な風景や旅先での親切がたった一回きりの代替不可能で反復不可能なかけがえのないものに思えてくるように、である。我々の人生だって、実際には旅のようなものなのである。すべての旅が、その終わりを区切られることによってまさにその旅、固有なその旅となるように、全ての生も、それが終わりを持つことによってまさに限りあるその生(閉じた一個の全体であり固有なその生)となるのである。旅の一日一日が二度と戻ってこないかけがえのないものであるならば、生きられた日々がなぜそうだとはいえないのか。たしかに、死を直視すれば絶望するだろう。前線の兵士は絶望しているだろう。しかし、「今年の花を来年もまた見れるとは限れない」というそのことのもつまさにその一回性において、全ての経験のそれぞれが輝きだすということは、じゅうぶんにあり得ることである。

 


【時間性の変換:「未来」から「将来」へ。そして「過去」から「既在」】

死への先駆けを考えることがなぜ画期的なのかといえば、そのことが時間性の捉え返しを含むからである。「過去は過ぎ去ってもはやない、そして、未来はいまだない。その過去と未来の間に挟まれて、わずかな現在がある。」という日常的な時間性は、「死はまだ当分やってこないだろう」という考えと非常に親和的である。しかし、「未来」ではなくて、「まさに来たらんとするもの、ある意味では、既に今、半ば現前しているもの」として「将来」を考えて、そして、生の全体を自分がとらえるべきなのであるから、「既に自分がそうであったものとして今、引き受けられたあり方」として、過ぎ去らない「既在」を考えられるのである。時間がこういう構造をもつことで我々は生の全体をとらえることができるというのがハイデガーの議論のもう一つのポイントである。

 


ハイデガーユダヤ人】

興味深いことに、ハイデガーの周辺にはユダヤ人が数多くいた。ハイデガーが最も高く評価した最初の弟子カール・レーヴィットも、「愛人」だったとされることもあるハンナ・アーレントも、レヴィナスユダヤ系の学生であった。レーヴィットナチスの台頭とともに、ローマに亡命し、そのあと仙台に、そしてアメリカに亡命した。それに対してレヴィナスは、一兵士として従軍し捕虜収容所に囚われた。出身地リトアニアカウナスにおいて、レヴィナスの近親者はほとんど虐殺されていることが分かった。

 


【無(ネアン)の不可能性としての痛み】

生の意味を取り返す経験が死への先駆だけとは限らない。世界のうちでむしろ無こそがありえないことを端的に表示する経験が「痛み」の経験であるとレヴィナスはいう。「痛み」の経験がむしろ生を見つめる機会となるのである。「痛み(souffrance)」は無の不可能性をこそ告げる。ハイデガーとはこの点で対照的である。ハイデガーは、「無(Nights)→不安(Angst)→死(Tod)」という系列で思考している。不安は、何についての不安でもない、対象を欠いた漠然とした気分なのであるが、強いていえば、無を前にした不安なのである。そして、その無は、そうと気付かれているかどうかは別として、「死」なのである。しかし、レヴィナスは「決して無ではありえないことこそ問題にされるべきではないか」と問う。身体的な痛みこそ、無の不可能性(L’impossibilité de néant)を明かすのである。「この痛みさえ消えてくれるならば世界全部と引き換えにしてもいいと思っても現にその存在を主張し続ける」のが「痛み」なのである。「世界よ、痛みごと消えてくれるなら無であって構わぬ」といくら願ったところで、痛みはその存在を執拗に主張してくるのである。ハイデガーは無を強調するが、レヴィナスはより切実な問題でありうるような「無の不可能性」をこそ強調するのである。死ではなくむしろ痛みの経験において生の意味は取り返されるのではないかと、問いを立て直したのがレヴィナスである。生の意味が取り返されるのが痛みの経験だけとは限らない。食事の経験であってさえ、よいのではないか。

 


ハイデガーの死の捉え方の一面性に対する批判】

ハイデガーは死への先駆を強調することで、あくまで能動性(activité)において死を捉えようとする。疑いようもなく、死へと先駆けていくことは、確固たる「主体性(主人maître性)」と「能動性」を前提する。しかし、「死」とはそういうもの、それだけのものなのだろうか。「死」というのはむしろ端的に、我々が究極的には「受動的」であることをこそ明かすのではないか。ハイデガーは死を、ある種の「雄々しさ(virilité)」に覚醒する契機として捉えているようにも見えるが、むしろ死は我々の受動性(passivité)をこそ明かしているのではないだろうか。死において、我々はもはや主人(maître)たりえないのである。

 


ハイデガーが取りこぼした「他者の死」という論点】

ハイデガーにとって主要に問題だったのは、あくまで「自己の死への先駆による自己の生の固有な全体の獲得」であった。しかし、「自己の死」と「他者の死」とを並べて単純に比較したとき、「自己の死」のほうが「他者の死」よりも問題であることの根拠はどこにあるのだろうか。日常的に言えば、「傍ら(ダーバイ)にある他者の死」のほうが「自己の死」よりも重大で切実な問題であることは十分に考えられることである。「一人称の死」を重視するあまり、「二人称の死」を棚上げにしてはならなかったはずだ。人というのは、場合によっては、それが叶わぬ望みであるとしても「他者の死」よりもむしろ「自分の死」を選び取ることさえありえるような動物なのである。我々は「他者/に対して/のために/の代わりに/ある一者(l'un-pour-autrui)」なのである。我々はある局面で、ハイデガーがそんなことは不可能だというのに反して、「他者の代わりに死ぬ」ということがありうる。私にとって、最も切実な問題が、自分の死ではなくて、他者の死であってなぜ悪いだろうか。