【問題意識】
私は子供のころから、「なぜ(WHY)」という疑問ばかりを大人に投げかけてきた。最初のうちは科学が私の問いに答えてくれた。しかし、あるときから、科学は「なぜ(WHY)」という問いよりはむしろ「どのように(HOW)」という問いに関心を禁欲的に留めていること、そしてそのことが大切なことであることを納得するようになった。しかし私の問いは亢進をやめなかった。究極の根拠のようなものが必要になってしまった私には、今の時代、神を信じることもままならず、「実体」と呼ばれてきたものにも無理を感じ、ついには、なにものにも基礎を見出せなくなった。日常がひとつの謎になってしまった。こうなると学問を成り立たせるものも謎である。学問への懐疑は、学問を成り立たせる知についての懐疑となり、その懐疑は知を形成する諸能力についての反省となり、これらの諸能力は、これを行使する<私>と結びつけて論じられなければならぬと思い至った。これらのことは、以下の2つの問いの形にまとめることができる。第一に、「そもそもこの<私>がいかなる存在者なのか」という問いであり、第二に、「その<私>はいったいどういう権利、あるいはどういう経路、どんな順序で、普遍的とすらされるあの知へとアクセスできるといえるのだろうか」、という問いである。まず、第一の問いであるが、我々は身体なくして世界に空間を占めることができないのであるから、<私>は身体とともにある存在者である。ゆえに、身体と私の意識との関係(現象としての身体)が問題になる。さらに、身体なくして私は世界にいかなる働きかけもできない以上、第二の問いを考える導きの糸になるのも、身体であり、その能力としての感覚にほかならない。では、まずこの<私>について語るための適切な視点が見出されなければならない。それがビラニスムだった。そしてこの視点が連れて行ってくれる先で、わたしは、我々が生きる通常の世界へと、ある程度の明晰さを維持したまま再浮上できるかもしれない。
我々は身体なくして世界に空間を占めることなどできないのであるから、身体は<私>と世界とを媒介する何ものかであると言ってよい。ならば、すべての<私>たちが宿らざるを得ない身体を、<私>と結びつけないで分析することによっては、この身体の、まさにそれによって身体を他の物体とは異質なものへとたらしめている当のものがこぼれ落ちてしまうだろう。<私>の分析は身体の分析なくしてありえない。また身体の分析は私の分析と結びついていなければならない。
すると、身体が<私>とどういう結びつきにおいてあるか、すなわち現象としての身体を適切に記述する視点がぜひとも必要になった。それがビラニスムである。そしてこの視点が連れて行ってくれる先で、わたしは、我々が生きる通常の世界へと、ある程度の明晰さを維持したまま再浮上できるかもしれない。
メーヌ・ド・ビランにとっての問題は、自我の認識、具体的な、感情に翻弄されつつもこれを統御しようとするこの<私>がいかなる存在者なのかを記述することであり、諸々の自然科学の認識なども、この問題の解決に貢献するものでなければならない。観念学は学知を提供するが、それを主体と結合させる、すなわち自我を記述するには至っていなかったので、ビランはある一定の距離を取った。観念学なりの「人間」像には納得がいかなかったのである。学問についての反省は学問を形成する諸能力についての反省へと展開し、これら諸能力は、これを行使するこの<私>と結びつけて論じられなければならない。そしてこの<私>について語るための適切な視点が見出されなければならない。
【身の用法】
まず第一に果実の実。これも身と同根であろうと言われている。「木の実」とか「おつゆの実」とか、中身の詰まった自然的存在や内容を意味する。第二には生命のない肉を意味する。「魚の切り身」とか「酢で魚の身をしめる」とか。第三に、生命のある肉体を意味する。「お臀の身」「身節が痛む」とか。第四に生きているからだ全体を意味する。「身持ちになってその結果身二つになる」とか。第五に、からだの様態を意味する。「半身に構える」とか「身もだえする」とか。第六に身に着けているものを意味する。「身丈」「身ごろ」「身ぐるみ」とか。第七に生命そのものを意味する。「身あってのこと」「身代金」とか。第八に社会的生活存在を意味する。「身すぎ世すぎ」「身売り」とか。第九に「身つから」「自ら」を意味する。「身がまま」「身のため、人のため」とか。第十に様々な人称的位置を取る。「身ども」は自称、「身が等」は複数一人称、「お身」は敬称二人称、「身身」は各人おのおのを意味する。第十一に社会化した自己を意味する。「身内」は血縁。「身の方(味方)」は一種の身内であり、血縁ではないが身内同然の者を「外身内」と言ったりもする。第十二に社会的地位役割を意味する。「身の程」は分際であり「身をたてる」は社会的地位の確立である。第十三に心を意味する。「身にしみる」「身をこがす」「身をあわす」とか。第十四に全存在を意味する。「身をもって知る」の場合全身全霊をもって知る。「身をもって示す」の場合、場合によっては生命の危険をかけても示すといった意味になる。「身」は「ボディ」や「からだ」に比べて成層的統合体という性格が強い。身は関係的存在としてあり、何との関係においてあるかということによって、身の在り方が決まってくる。屍体に対しては「生き身」を意味するし、他者に対しては自分を意味するし、社会的状況にたいしては自己の在り方を、敵に対しては味方を意味する。関係するものとの差異と対立によって身の在り方は生起する。カオスの語源は「あくび」である。「あくび」は長話によってつくられた秩序を混沌へと還すことであり、究極の批判形式である。
【身体を使った表現】
腹を割って話す・肝胆相照らす・臍下丹田に力を込めて気力を養う・頭者(おっちょこちょい)・頭でわかる(身体ではわかっていない)・教養が身につく(文化的身体)・どうしても身構えてしまう・苦界に身を沈める・身をつみて人の痛さを知れ(人生論的切実さ)・人の身になる(脱中心化)・身が知ることか・身をもって示す・身を立てる・背中で演技をする・身ごもる・身二つとなる(出産)
【身】
身は自然的存在であると同時に精神的存在でもあり、自己存在(交換不可能)でもあるとともに社会的存在(交換可能)である我々の具体的かつ現実的なありようを的確に表現している。身は関係的存在としてあり、何との関係においてあるかということによって、身の在り方が決まってくる。身は固定したひとつの実体的な統一ではなく他なる者とのかかわりにおいてある関係的な統一である。われわれの身体は常識的には皮膚で表面を限られているわけだが、生きられる身体を考えた場合、内と外というのはいろいろなところに境界を置くことができる。たとえばある種の精神疾患の場合、自分の身体が自分のものとして感じられない。いわば身体が自分の外にある。逆に、身の境界が拡がったり、曖昧になることもある。自分と他者との境界がはっきりしなくなって、自分の身の拡がりの中にいわば他者も入ってしまう。われわれが道具を使うとき、道具が身についたものになるには、道具が身の内にならなければならない。道具の先端が身の先端になる。錯綜体を形づくる潜在的身体は、可能的身体・未来の身体・過去の身体・空間的には外なる身体でもある。)
【からだ】
日本語の「からだ」は籾殻の「殻」や枯れるの「枯」と同根の「から」と同義で、生命のこもらない形骸としての身体や屍体を意味する。
【人間の発達的順序の整理】
⑴胎内
最初の人間の状態は母親の胎内に身ごもられていて、羊水に包まれて浮かび、母親の身体によって外界から守られている。直接外部の環境に触れることはなく、いわば母親の内部環境につつまれている。孤立した主体としての意識はまだなく、いわば母親と共生している段階である。周りの世界との、広くは宇宙との対立もなく、自己と外部がほとんど合一した、調和のとれた状態といえる。宗教・芸術・恋愛・麻薬・退行現象にいたるまで、人間の求めている状態は多かれ少なかれこの最初の状態に似ている。これを胎内憧憬という。
⑵出産
出産は身二つとなって、肉体的・生理的に共生していた状態から、独立した存在になる人間にとっての最初の分離である。これは生み出される子供にとって暴力的な出来事と言える。安定していて暖かい闇の世界から荒々しく光が照射する冷たくて刺激の強い環境に移る。胎内音から直接音の環境に移る。出産は自らの意志によるものではない。われわれの存在には最初に、この出生に伴う偶然性がある。生まれようと意志していないのに気が付いたら取返しようもなく在ってしまったという不条理である。
⑶乳離れ
乳離れは第二の受動的分離である。ただし出産とちがって生理的な意味ではなく心理的な性格も強く持っている。というのも、出産には抵抗可能性がないが、乳離れには抵抗可能性があるからである。乳離れがうまくいかないと色々な退行現象が現れる。また乳離れの代償行為として、大きくなってからも、毛布やまくらや人形や肌着をいつまでも手放さず、かんだり吸ったりする。これらはせめて心理的にでも共生状態へ戻ろうとする逃避行動といえる。
⑷第一反抗期(3~5歳)
第一の能動的分離(中心化)として第一反抗期がある。初めての自我の目覚めである。人に見られることを恥ずかしがり、人見知りをするようになり、照れるようになる。他人から見られていると感じることで見られている自分を強く意識するのである。見ている他人を意識することで、逆に自分を意識する。まず他者から見られ、承認され、評価されることによって自己に気付くという意味では、他者の認識の方が自己の認識に先立つ。自我が目覚める頃、子供は言葉を習得する。ここで言葉を内面化することによって自己が形成されるという相互性がある。自己は言葉によって編まれているのだ。ともあれ子どもの最初の言葉は、母親の注意をひくための伝達の言葉である。しかしまもなく一種の独り言(ピアジェの言う自己中心的言語)が出てくる。女の子の人形遊びやお母さんごっこ、男の子のロケット遊びや積木遊びにもでてくるのがこの独り言である。これは自分の行為を描写するというよりも、言葉はまだ行為の一部なのである。成長すると無口になる子供でもこの時期にはとめどなくしゃべる。しゃべらないと考えられない。思考は頭の中で行動することであって、この時期の子供は半ば行動であって半ば観念であるような言語行為によって考えているのである。言葉と行為の二重性が生まれてはいるが、言葉はまだ行為から分離していない。しゃべることによって考えているから、考えることは外に漏れてしまう。嘘をつかないのではなくて嘘をつけない時期である。
⑸学齢期
独り言が急に少なくなる。行為としての言葉が内面化されて考える言葉すなわち内言になったのである。それとともに、外に向かって発せられる言葉すなわち外言からも、行為としての身体性が希薄になり、しだいに概念的意味を伝えるに過ぎなくなる。言葉は、物や人に働きかけて動かす呪術的な生命力を失ってしまう。そのかわりに論理性や思考能力に著しい発達が見られる。外言は自己が他者に関わる行為の一面であり、内言は自己が自己に関わる行為の一面である(内言は分節された音のイマージュである)。外言を通して自己は他者と関わり、内言を通して自己は再中心化される。この外言と内言の二つの関係の動的な統合の過程で自己が形成される。言葉はこの二つの関係(対称性)を演じることであると同時に、この関係を語り表現するメタ行為でもある。この言葉の発生とともに、身体的反省から意識的反省へと身の身に対する分節化の折り返しは深化する可能性をくみ取る。この時期になると社会が内蔵された自分だけの世界(内面的世界)が内言によって可能になり、嘘をつくことが可能になる。ただしこのころの内面世界はまだはっきりと意識され、反省される自己として確立されているわけではなくて、ただ反抗によって自分を主張しているだけで、親の言うことに対して自分の世界は別にあるのだ、と何にでも反抗するレベルにとどまっている。だから自分に対する不安や自己嫌悪は内面世界の中にはなく、基本的に自己肯定的な内面世界である。しかしこの内面的世界によって、子供は孤独を知ることができるようになる。
⑹第二反抗期
思春期の反抗は自覚的能動的な分離であり、3つのタイプの反抗を経験する。第一の分離は他者からの自己の分離である。母親や家族からの分離に留まらず、広くは宇宙から自己を分離する。分離は不安を伴い、しばしば自殺を考えるほどの絶対的な孤立を感じさせる。この分離の体験を通して、自分が何ものにも根拠づけられていないという絶対的な孤立の感情を強く抱く。しかし生まれつき孤立していれば、孤独の感情を抱くこともないはずだ。われわれ人間は最初共生の状態にあり、自己の意識は他者の意識に先立たれて生まれた。だからこそ孤独なのであり、孤独に安住することは難しい。それゆえ何かと合一し、孤独を克服したいという願望を抱く。その願望が他者へと向かう時、それは恋愛あるいは友情となる。
第二の分離は、自分の内面的な自己と外面的な自己との分離である。すなわちキャラクター(刻まれたしるし)とパーソナリティー(仮面)の分離である。ただ外面も内面も言語によって可能になったことを忘れてはならない。この分裂によって、自己の内面的世界に対する反省を促され、自己を他者の視点から見ることができるようになる。それが自己嫌悪に繋がることもある。
第三の分離は、男と女の分離である。この時期に男女の性徴が明瞭になるため、異性を強く意識するようになる。異性に対して自分を恥ずかしいと感じ、隠したい気持ち(自己隠蔽)と、自分をもっと強く表現したいという気持ち(自己顕示)の間で引き裂かれる。
【独我論はなぜ間違っているのか】
独我論が間違っている理由は、発生論的に言って、自己は他者の把握に先立たれて成立するからである。たしかに他人は私を分かってはくれないし、他人が何を考えているかはわからない。他者が確実に実在するといえるためには、私が私をとらえるように、直接確実に他者を捉える、つまり他者を生きることが必要なのだが、もしそれが可能なら独我論などありえないはずだ。しかしこれは私が実質的に他者の身そのものになるということを意味していて、事実上不可能であるばかりか原理的に不可能なのである。ここに独我論が現れる余地がある。なぜ原理的に不可能かといえば、もし私が実質的に私が他者の身そのものになれるというなら、そのときそれは私であって他者ではない。他者という言葉それ自体が、「その存在者の気持ちが私には分からない」ということを意味として既に含んでいるからである。これは独我論が成立する一種のトリックである。普通の独我論者は、他者との通じ合いが不可能になるように他者を定義しておいて、他者との通じ合いは不可能であると言っているに過ぎない。むしろ、私が実質的には他者の身そのものにはなれないということが、まさに他者であるということの意味であり、恥ずかしさや照れを通してこのような主体としての他者を私は直覚している。もっと積極的に私が他者を把握するのは、他者と感応的に同一化し、感応・同調において他者の身になるときである。他者の身そのものにはなれないという交換不可能性と、構造的同調による交換可能性との動的統一において、我々は自己と他者を同時に把握する。われわれは他者を把握する深さに応じて自己をとらえ、自己を捉える深さに応じて他者を把握すると言える。自分で自分をくすぐってもくすぐったくない。しかし他人にくすぐられると非常にくすぐったい。生理的な触覚としてはほとんど同じ刺激を与えることができるはずなのに、この差はどこから来るのか。独我論者でもくすぐったいはずだ。触覚のような非常に原始的な感覚の中にも、すでに他なるものの直覚的な把握があるのだ。子どもが自分の身体を恥ずかしいという意識を持つときですら既に、他者の目を感じて恥ずかしいのではなくて、まなざしが恥ずかしいのであるということに注意すべきだ。このとき他者は目を持つ客体としてではなく、まなざす主体として捉えられているのである。
【心身二元論の問題点】
われわれは、実際には身体を通して世界と関わっているのだから、身体を自己から疎外するということは、世界を自己自身から疎遠なものにしてしまうということになる。世界の実在性が確かめられなくなってしまう。
【感覚の受動性】
われわれはいくら意志しても目の前にないものを感覚することはできない。また、いくら意志してもいま見えているものを、まぶたを開いたまま、見えなくすることはできない。感覚は、精神にとって、向こうから自分を押し付けてくるものとしてある。デカルトによる物の実在性の証明にも感覚のこういう受動性は使われた。しかし能動性の必然性がある感覚もある。
【述語的統合】
諸感覚の統合には、言語化以前の前述語的統合から、言語化以降の述語的統合、さらにより主語的統合へという成層的な統合性の高まりがある。視覚以外の感覚や情動や<気分>は述語的統合の性格が強い。述語的統合は、性質や関係や働きといった述語的なものの類似性や近接性にもとづいて、主語的なものが受動的にゲシュタルトとして浮き出してくる類比的癒合(場的な直観)の形式をとる。視覚も本当は述語的統合である。先天性盲人の開眼の例からも分かるように、対象は、最初からはっきり視覚的に分離したものとして捉えられるのではなく、対象に対する行動や操作と、その過程で視覚が諸感覚と統合され、照合されることを通して、分離され、対象化される。本当はそういう過程を経て、成人の場合は、目を開けるやいなや対象がはっきりとしたまとまりをもったものとして捉えられ、私に「対するもの」として対象化される。この意味で成人の場合、視覚は、より主語的な統合の面が強い。つまり、諸感覚相互の間にもより癒合的述語的な統合が強い触覚から、より分離的主語的な統合にいたる成層があるのだ。主語的な統合において初めて、主語の同一性を基本としながら、さまざまの述語により主語を規定し、他から弁別する分別的判断が可能になる。ヘレン・ケラーが水に触れながら手にかかれたwaterという名辞を理解したときの驚きは、述語的世界から主語的な世界へと飛躍し、ことばとそれが表す主語的な、すなわち対象化された「もの」をはっきりとまとまった形で発見し、理解した感動だと言える。名辞による主語的統合の、述語的統合よりも強い同一性・自明性は、「もの」を覆い隠す働きを持っている。順序的には、身の自己中心化→中心化にもとづいて外の対象を操るという操作的関心→行動が関わる対象の主題化→名辞化という順序を経る。
【近代的自我】
近代的自我は、それ自体関係化の一形態である(関係の項としてしか存在できない)ことを忘れた自己中心化によって、他の何ものにも依拠しない実体として自己を根拠付け、力である知によって「もの」を操作しようとした。操作ができるためには対象が自己同一的なものとして保存される必要がある。操作可能な保存性を獲得するという意味で、関係項が実体化されると、場的直観にもとづく述語的統合から、主語的統合への転換が強くうながされる。
【身分け】
身分けは判断以前の分節化であり、判断の前提になるものである。われわれの身があることによって、われわれの周りの世界がさまざまの形をなし、意味や価値をもったものとして現れる。身分けは身による世界の分節化であると同時に、世界による身の分節化を意味する。リンゴが冷たく硬いということは、我々が暖かく柔らかいものとして分節化されるのである。身分けは共起的な世界と身体の分節化である。身によって世界を分節化していくのと同時に、世界によって身自身が分節化されていくこと。われわれの身に無意識があるということは、無意識のレベルで分節化されている世界、たとえば反射的に反応してしまっている対象からなる世界もあり、それらによってもわれわれの身は養われているということである。
【自己組織化】
自己組織化とは意味のあるものとないものとのグラデーション(価値)で世界を分節化していくこと。人間の場合にはそれが文化的自己組織化にまで至る。感覚は自己組織化のための情報を提供する。
【他者の分節化】
他なるものの分節化、自己—非自己の区別は、すなわち身を自己として分節化することであり、これはものや動物との関係においてもあることである。しかし、人間はパンのみでは生きる=自己を組織化することができないので、文化的レベルでも様々な意味や価値が分節化される。
【身をもって知る=身知り】
われわれは自分一人で創生に立ち会っているわけではなく、すでに歴史的・社会的に分節化されてきた社会秩序と自然の秩序のある世界の中に生まれ落ちる。生まれて来た赤ん坊は、世界によって分節化されつつ、自分独自の分節化を世界のうちに織り込んでいく。メーヌ・ド・ビランのいう内的事実とは自我が身体運動を行使しつつ、同時にこれを認識する事態を言う。そして、この「内的事実」の領域において(のみ)、「私が手を動かすこと」と「私が手を動かしていると知っている」こととは完全に同一の事柄となり、知と行為は一致している。つまりこの領域においては知は実践的な意味を持つのである。言い換えれば、諸々の知識はこの領域においてこそ(本当の)(実践的な)「意味」をくみ取るのである。これが身をもって知ること、すなわち身知りである。身をもって知るというのは、直接世界に向かう「外部知覚」とは違うのである。
【身体感覚】
自己と関わりつつ世界と関わる身の在り方の基礎には身体感覚がある。身体感覚は内と外の経験のどちらともいえない。身体感覚は通常内部感覚とされているが、内部は外との関係において変動するわけだから、身体感覚は、私たちが生きる通常の世界においては、自分の感覚(この紙はざらざらしている)であると同時に世界の感覚(ざらざらしている紙だ)でもあるような、両義性を持った基層の感覚である。というのも、身体には世界に働きかけ、世界を変化させるという外部志向的な側面と、世界とのかかわりの中で自己自身を調整するという自己作用的な側面があるからである。つまり、身体が世界に関わる仕方には、世界を変えることによって世界との関わりを立てる仕方と、自己自身を変化させることによって世界との関わりを調整する仕方がある。後者も自閉的な働きではなく、世界とかかわる一つの仕方である。
【気分】
身体感覚は世界と自分が交叉している共通の根にかかわる根源的な感覚である。身体感覚はほとんど意識されることはないが、意識される身体感覚は気分という言葉がいみするものに近い。気分は単に自分の感覚ではなく、通常の世界(=心身合一時)で生起する感覚である。身体感覚を失うことは世界を失うことに繋がるのはこのためである。私が悲しいというよりも世界が悲しいというのが気分である。
【現実的統合と潜在的統合】
いま座ってしゃべっているというのが現実的統合だとすると、立ってしゃべることもできたし、沈黙しながらコミュニケーションを試みることもできた。現実化する可能性はあったが現実化しなかった可能的統合、あるいは現実的統合によって抑圧された可能的統合が潜在的統合である。現実的統合は潜在的統合との可能性において意味を持っている。たとえば病気が欠如態であると言えるのは、健康態という可能的な潜在的統合との関係においてである。病気だけだったらむしろそれはポジティブなものであって、潜在している統合があるからネガティブな意味を持つのである。このような可能的な統合はしばしば現実化した統合によって抑圧されて、無意識と化していることが少なくない。現実的統合と潜在的統合の双方を合わせた身の全体を錯綜体と呼ぶ。
【可能的統合】
可能的統合は、一度には実現はしないが、永遠の中では決定され、完結している、といった構造ではなく、たえず形成され、また失われる未決定の開かれた構造である。素質は未来に実現すべき可能的統合であり、病者にとっての健康は回復すべき可能的統合である。
【身体レベルでの反省:身が身に折り返す(身の二重化)】
対象として見えている手が、同時に主体として感じている手でもあるというのは、最初は不思議なことだったはずである。赤ん坊は自分の手を見つめたりしゃぶったりすることがあり、この不思議さを感じている。対象としての自分の手と内側から感じている自分の手がまだうまく統合されていないのである。動物も自分の身体が見えないわけではないが、前脚はそれを舐める行為や獲物を捕らえる行為の一部として見えているのであって、動物は足そのものを見ているのではない。手そのものを見て遊ぶ赤ん坊の手遊びは身が身に折り返す二重化の始まりであって、もっとも原初的な自意識の萌芽である。自分の自分に対する関係が反省だが、身体的レベルでの反省がこの二重感覚にはある。赤ん坊は手をくわえることによって、見える手を自己に同一化し、見える手(対象身体)と内から感じている手(内側から感じている身体=主体身体)の分裂を乗り越えるのである。この分裂の乗り越えこそが成長ということであり、対象身体への同一化というのは脱中心化である。また同時にそれは再中心化でもあるのだ。意識レベルでは身体ではなく構造のレベルでこれを行う。つまり相手の身になって考えるというのは脱中心化であり、同時にその自他の分裂をもう一段高いレベルで乗り越えて統合する再中心化である。
【自意識の起源】
身が身に折り返す身の二重化だけでは、まだそれは自己の把握とは言えない。自己の把握は「自分に対する自己」と同時に、「他者に対する自己」が捉えられたときに初めて確立する。まず、他者との関係においてある私の身体(対他身体)というものが抽象的な反省に先立ってある。それは、他人から見られた身体、他人によってとらえられた自分の存在の把握である。人見知りや照れや恥ずかしさは、原始、他人に見られている「我が身」について照れたり、恥ずかしがっているのであり、そこには他者の把握が既にある。恥ずかしさは次第に抽象的な自己を恥じるレベルにまで達するとしても、まず自分が見えたり見られたりするものであること、すなわち見える身体という仕方で空間を占めていること、に由来している。もし自分が肉眼で見えないものであったならば、人に対する恥ずかしさは生まれなかったはずである。このように、私自身の自己の把握の中にも、既に「他者に対する私の身体」の把握という他者性の契機が含まれているということを忘れてはならない。私自身の自己を把握するというだけでも、他者性と対他身体抜きにはできないのである。
【生きられる空間】
われわれが生きている空間には、地上空間には重力や日の出入りによる方向性があり、地形が形づくる異質性があるし、身そのものに異方性がある。前−後、左-右、上-下は均質ではなく、地上空間の異質異方性と身体空間の異質異方性が交錯しているのがわれわれの生きている空間である。横に引いた直線と縦にひいた直線、斜線や曲線は均質空間では特別の意味を持たないが、非均質的な生きられる空間では、身の分節化を規定したり、身によって分節化されたりすることによって、微妙な価値の違いを孕む。生きられる空間には場所概念があり方向概念がある。生きられる空間には常にここがありあそこがある。ここから彼方へという展望(パースペクティブ)があってその展望の背後には捉ええない広がりが拡がっていて、それをわれわれは地平と呼んでいる。生きられる空間はそういう意味で無限空間ではなくある有限性を持った空間であり、奥行きのある空間だ。「ここ」という場所性がなければ、ここからの「隔たり」も「距離」もありえない。レストランでも角から詰まっていく。それは食べるときには無防備になるからだろうか。「山のあなた」は憧れる空間だが、「底なし」は恐怖の空間である。上空間は大体聖なる空間であり、地上は俗なる空間であり、地底は逆に反聖性という意味で聖なる空間である。一般に、自分の身から遠いところ(「山のあなた=彼方」)は聖なる空間であり、近いところは俗なる空間である。沖や彼岸は聖なる空間である。沖縄の「ニライカナイ」は沖の彼方である。日本の神社では、神様は山からやってくる。ふもとには神社がありその奥に奥宮がある。参道は鳥居を使って奥を描いている。
【前後空間】
「前」空間は行動する方向であり、意識的な空間である。明るい空間であり、広がって開かれた空間である。「後ろ」空間は無意識的な空間である。後ろ暗い空間である。後ろを振り向くことはしばしばタブーとされる。この対立は表裏に転用される。前空間は不確定で自由な未来であり、後ろ空間は決定された過去である。宿命論や決定論が回顧的なものの見方になるのはそれが理由である。前後は私の前は向かい合った人の後ろであるから価値対立は中和されやすい。
【左右空間】
「右」はアイヌ語でも英語でも正しいである。「右に立つ」はより良いことであり、「左遷」「左前になる」は悪いことである。右は「男」「光」「聖」「正常」と結びつけられ、左は「闇」「俗」「女」「穢れ」と結びつけられる。しかし日本は左大臣が右大臣より偉い。左という言葉は日照りから来ているから、天照大神などの太陽神の方角だったらしい。価値の対立や区別があれば構わないのだから、当然逆転することもありうる。左右は向かい合った人から見れば逆になるから、価値対立は中和されやすい。
【上下空間】
いちばんアシンメトリックである。なぜなら日常的に逆立ちすることは少ないからである。また重力の方向を変えることも極めて難しい。重力には抗するか従うかしかない。重力に抗うことを価値としているのが西洋である。ヨーロッパの噴水はこれである。日本人はむしろ滝である。左右対称の体型の生物の身体軸は行動の方向である。ゆえに前は実用的で行動的な価値の方向である。人間も昔はそうだった。ところが人間は直立二足歩行することで、上下はもはや行動の方向ではなくなったから、行動的な価値がなくなる。これによって上下は非実用的価値すなわち精神的な価値を帯びるようになった。顔が上にあって脚が下にある。脚を昔は隠したのは、大地に接触するからであり、非常にエネルギッシュではあるが同時に闇に繋がるからである。また下は排泄の方向でもある。人間だけが排泄物を汚いと感じるのも、上下の方向(精神的な価値づけ)と関係がある。上は神・天国・天であって下は悪魔・地獄・黄泉と結びつけられるがいずれも実用的な価値とは違う価値である。下は必ずしもマイナスの価値ともいえず、むしろ反聖性という意味で聖なる性質を持つというべきである。たとえば地母神は、産むものであると同時にのみ込み破壊するものでもある。インドの女神であるカーリー神は腰の周りにどくろを付けている。地下世界を象徴するものは窪みとか渦、「湖の八百会」というのが祝詞にあるが、渦巻きが巻いていて海の底に通じているイメージ。
【間主体的空間】
脱中心化の極限としての無中心化された均質空間は考えることならできるけれども、われわれは決して無中心化することはできない。生きている限り、中心化し、自己組織化することなしには生きることはできない。つまり脱中心化は同時に再中心化に他ならない。だから間主体的空間というのも、生きられる空間としては、決して均質空間ではなく、やはり質的な違いのある空間である。つまり社会的に共有された異質性を持っている。そしてこの異質性は空間自体の性質としてとらえられるようになる。たとえば建物の正面をフロントという。正面玄関とか表玄関とかファサードという言い方も出てくる。後ろは裏口とか、裏庭とかバックヤードとかいう。「左近の桜、右近の橘」という場合も、脱中心化を経てから間主体的空間になるので、玉座からみた左右になっている。表通りは明るくて政府機関やオフィスや銀行やデパートがあるが、裏通りはバーとか飲み屋といった私的な店がある。都市空間はそこに住み、務める人々の共同幻想によって成り立っている。
【身の統合の契機】
身は関係化という契機と実体化という契機を持つ。身は関係化と実体化をたえず繰り返しながら自己形成していく。身は関係的存在だが、実体のように固定した統一ではなくてたえず統一がやりなおされる危うい統一であるから、他との関係においては多極分解する可能性、人核分裂、多重人格化の可能性を持っている。あるいは身の在り方のひとつに偏極的に統一し続ける可能性も持っている。身の統合の局面には、自己中心化、脱中心化、共生化、超中心化、無中心化、自閉的中心化(関係化の拒否による実体化)、過同調(関係化への偏重による自己喪失)などがある。
【中心化】
自己中心化には、自己を相対的な意味で実体化するという側面がある。そのような相対的な実体化は多極分解を防ぎ、脱中心化を通して次のより高度な段階へと自己形成していくための自己防衛的役割を持っている。
【自己中心化】
中心化は関係化の否定ではなくて関係化の一面であり、他なるものとの関係において中心化が行われる。自己中心化とは身が自己組織化することによって自己を中心にして世界と関わることで、それに応じて自然も差異化され、意味を持ったものとして、分節化されてくる。脱中心化を一度経由した自己への再中心化で人間は自己を形成を行っていく。このダイナミックな過程のなかで、自他の人称的・役割的な交換可能性と、つねに<いまここ>である原点としての身の交換不可能性との双極的な把握において自己が自覚され、形成されてゆく。
【癒着】
人称代名詞には交換可能性があるが、僕ちゃんには交換可能性がない。私に癒着している。視点の相互交換が可能になったとき、初めて人称代名詞が使えるようになる。視点の相互交換とは脱中心化のことである。自分が他人とのかかわりの中で、主体的であると同時に対他的でもあるものとして把握されるようになったことを意味する。この学びを典型的に示すのが「ごっこ遊び」である。ロールテイキングを通して脱中心化を学ぶのである。脱中心化とは、他人になり切ってしまえばそれは他人ではないのだから、他人の身そのものになってしまうことではなく、視点を仮設的に交換して、より広い視点から自己を再組織化し、再中心化することである。
【非中心化】
脱中心化をオーソドックスなものとして、それに共生化と超中心化を合わせて非中心化と呼ぶ。
【脱中心化】
脱中心化とは、他人になり切ってしまえばそれは他人ではないのだから、他人の身そのものになってしまうことではなく、視点を仮設的に交換して、より広い視点から自己を再組織化し、再中心化することである。自分の身の原点が<いまここ>であるが、中心化だけであれば<いまここ>以外はないというより、<いまここ>すらも成立しない。その<いまここ>に癒着した視点を他なるものに仮設的に変換することによって、別な時・別な場所も<いまここ>になりうるという交換可能性が把握される。このことを前提として時間・空間の把握も可能になる。自己はまず他者の視点に身を置くことによって、他者との関係の中で自己を再組織化し、さらにまた自己に再中心化する。その往来の中で身の統合は複雑になっていく。ただこの用語は、感応的同一化で語るような他者の視点になるという関係化も含んでいる。脱中心化の理想形態として、その極限として考えられたものが、無中心化が前提された均質空間である。均質空間はどこの座標に原点をとってもいいのである。逆に言えば中心はない。これはいわば神の視点である。脱中心化は知的な操作であるという性格がある。
【共生化】
われわれは自他未分化の共生状態に最初はあり、またたえずそういう集合的な共生状態の中へと自己を溶解しようとする傾向を持つ。胎児の頃はまだ母体との共生の状態にある。出産とともに生理的にはほとんど母体から分離して中心化するが、心理的にはまだ共生の状態にある。ここから共生からの脱出として自己に中心化し、そこからは知的操作としての脱中心化と再中心化のプロセスに入る。しかし中心化を再び脱して、何らかの仕方で共生へ戻ろう、あるいは共生を再現しようとする非中心化がある。これが共生化である。個人の退行現象や集団の共同体的ユートピア志向はこれである。嫉妬の感情も実は共生化が深くかかわっている。自分と他人を分離できれば嫉妬は起こらないのだが、自他の区別なき共生化の局面では、共生的に他人を含めて中心化してしまう。だから自分のものではないのに、それが他人に奪われたと感じて嫉妬をするのである。集団心理や群集心理も共生的である。古層のレベルの感情的つながりが一挙に噴き出してくる。
【超中心化】
生きられる空間にある深い森や大きなくぼみや大きな岩などの異質地点をさらに注連縄で囲ったりすることを超特異化と呼ぶ。聖木は西洋にもあるし、日本では伊邪那美命と伊邪那岐命が天の御柱の周りをまわって国生みをする。天の御柱とは、天地がまだ分かれていないときに天地をつないでいた柱である。それが切れるのが聖と俗の分離であり、世界の成立であり、楽園の終わりである。それを再びつなごうとしているのが聖なる木であり、聖なる山である。超特異化された中心によって世界の再編成が行われる。すると我々は、自己が中心なのではなくて、そういう超特異化された聖なるものを中心にして世界が秩序づけられていると感じる。神話的な質的空間の誕生であり、これが古代におけるコスモスである。超特異化されやすいのはだいたいそびえたつものである。
【無中心化】
生物は、中心化なしに生きることはできない。我々は多かれ少なかれ中心化しているから価値とか意味とかが生じる。中心化がなくなってしまえば、木を見ても、それがなんであるか分からない。木としてのまとまりや分節すら危うくなるのである。物事を客観的に見たいという知的欲求から、あるいは執着を離れたいという実践的欲求から、あたかも自分には中心化がないかのようにみなす疑似的な無中心化が起こることがある。その理想的なイメージが「神の目」であり、神の目を通してみるということは、まったく中心化がない無観点の観点から、いかなる偏りもなしに世界を見るという理想的な認識である。ヘレニズム期のように、社会変動の激しい時期には、無感動の哲学と呼ばれるものが出てくるがこれもその一種である。何事にも感動しない、まるで人ごとのようにすべてを眺める、そういう哲学が一種の逃避として現れる。
【自閉的中心化と疎隔された脱中心化】
中心化と非中心化の往来すなわち自己形成のダイナミズムが凝固してしまい、両者の往来がなくなると、非中心化を拒むことによって、世界に脅かされない形で自己の安定性を確保しようとする自閉的な中心性が生じる。また逆に中心化を拒むことによって、情緒的には無感動の安定を得て、認識的には無中心の神の目に達しようとするありえない脱中心化が生じる。この両者がともに現実感覚の喪失を引き起こすのは、それは両者が結局、関係化の拒否を共通点としているからである。中心化も非中心化も関係化の一局面なのである。
【同調】
芸術作品や他人は多元的重層的な曖昧性をもっている。これは一種の錯綜体である。だからこそ我々は芸術作品に対する場合、身をもって知るようなとらえ方をしなければならない。身の錯綜体でもって、錯綜体としての芸術複合体に感応しなければならない。その感応を同調という。同調は自己を中心としたパースペクティブから外へ出て、脱中心化することである。人の行動を見ている時、われわれは無意識のうちに他人に同調している。いわば、人の身になって自分を捉える。他者理解もこのような移調を含んだ構造的感応によって可能となる。この同調的感応が芸術作品に対する身知り的な把握を可能にすると言える。相手がにっこりとすると、思わず私もにっこりとする。これは相手が微笑んでいるからこちらも微笑みかえさなければ礼儀上悪いと思ってにっこりするわけでは本当はない。そこには、科学が扱うような客体的な身体ではなく、表情を持った身体に対する、身体的レベルでの他者の主観性の把握と、私の応答がある。もしこうした間身体的な場の共有がなければ、言葉しか通じなくなってしまう。これは生き身が、単なる対象としての身体ではなく、互いに感応し、問いかけ、応答する表情的身体だからこそ可能なのである。者も実は表情的である。茫洋たる海を前にしたときと、峨峨たる山を前にしたときには、身の在り方自体が異なる。風景とか風土も表情を持っていて、それが我々の身の感応の仕方を制約している。個人の自己形成や民族の性格形成にとって、風景や風土を無視することはできず、それらは物理的環境というよりも、それ自体表情的環境として身と同調し、身の在り方と深く入り交っているのだ。
【感応的同一化】
同調は関係化であり、その中でも他者の身の統合との間で起こる関係化である。これを感応的同一化と呼ぶ。「人の身になる」はこれである。共感と同調は違う。共感は身の構造的同一化としての同調を前提としている。同調あっての共感である。いつのまにか人の癖が自分に移っていたりするのが同調である。
【同型的かつ顕在的同調】
テレビの悲しい場面で悲しそうな表情をすること。
【応答的かつ顕在的同調】
音楽のアンサンブル、ジャズのかけあい、チームプレー。
【同型的かつ潜在的同調】
表面は静かでも身体的レベルでの同調が内面的に起こっている。老人がレスリングを見ていて脳溢血で倒れる。へたな仕事を見ているとムズムズしてくる。なにか人の話を理解するのにも最小限の同調が必要なのだから、観念やイメージのレベルで同調している。
【応答的かつ潜在的同調】
相手の発言に対する応答を心の中で考える。
【過同調】
関係化を拒否すると自閉的中心化や疎隔された脱中心化に向かうが、逆に関係化に偏ってしまうことでこれは過同調に繋がって一種の自己喪失を引き起こす。
【向性的統合】
反射のような非意識レベルの統合、また意識化しうるのだけれども、当面は意識に上っていない前意識的な分節化の働き。あるいはさまざまに変形された形で意識レベルに影響を与える抑圧された無意識的なものの働きなど意識されないレベルでの統合。無意識は志向的レベルとの関係において抑圧されている。向性的統合は志向的統合の在り方を方向づけるけれども、決定するわけではない。情動は向性的統合のひとつであり、情動は常に生理的な動転をともなう。生理的動転は意識レベルでの知性的な世界の見方、分節化の仕方を流動化する。かっとなってものの見境が付かなくなる。生理的動転は志向的統合の特定の在り方を可能にしたり、方向付けたりするが、決定しはしない。向性的統合は志向的統合との関係で構造化されている。
【志向的統合】
志向的統合は意識レベルでの統合である。身は世界との関わりにおいてあるが、同時に世界に関わっている身自身に関わる。つまり、身は世界に関係すると同時に、身が身に関係するという関係の二重性を通して次第に意識レベルが高まっていく。われわれは机にさわるように自分の身に触ることができる。その場合、触るものと触られるものとが同時に統合される。このような身が身に折り返す二重化は意識化のごく原初的な可能性だろう。志向的統合は仲立ちされた統合との関係で構造化されている。志向的統合は向性的統合をコントロールするが、細部まで決定するわけではない。その決定はいわば図式的決定であり、図式内部の統合は向性的統合のレベルに委ねられている。言おうとするだけで舌や声帯をどう動かすかまで意識しなくても言えるし、見ようとするだけで虹彩のピントは合う。歩こうとするだけで片側の筋肉を縮め、反対側の拮抗筋を適当に緩めることは意識せずとも歩ける。意識的存在であることに人間の価値があり、自由がある、というのも最もな考えだが、心臓の鼓動も血管の膨張収縮も汗腺の開閉もホルモン分泌調整も、それらのすべての意識的統合は限界がある。むしろ、大枠の図式的決定をすれば、それを実現するための細部の調整は意識下の向性的統合に任されていることが、過剰な選択肢を排除して選択の自由を可能にしているのである。身のこうした階層構造によって、生存のための基礎的な働きは自動作用に委ねられるのである。トフラーが言うように、チャンネルキャパシティーを超えた過剰選択はわれわれを不自由にしてしまう。すなわち錯乱状態に陥るか、そうならないために自閉するかである。
【人間の意識の自由はいかにして可能か】
意識は環境の刺激から相対的に自由である。ある刺激に対して決まった反応しかできないのではなく、選択可能性を持つことである。しかし選択可能性は、ある程度選択肢が多いと過剰選択になり、選択不能という非自由に転化する。向性的統合は細部まで意識がコントロールできないし、コントロールしなくてよい。しゃべるときには言おうとすることを考えるだけでよくて、舌の動きとか声帯までコントロールしているわけではない。見る場合も目の虹彩の絞りまでコントロールすることはできないし、しなくてもよい。向性的統合のレベルの身の働きまでコントロールすることが意識の自由ではない。そのようなところまでコントロールしなければなないとすれば意識は意識レベルまで高まることはできず意識は不可能になる。むしろそのようなコントロールの不可能性が図式的決定を可能にしているのだ。
【心身二元論の起源】
こうした身の多重性は意識の自由を可能にすると同時に、完全にコントロールすることはできないという意味での心身のいわゆる分離を生む。したがって心身の分離は向性的構造に基づけられながら向性的構造をそのうちに統合している志向的構造との働きのずれであって、精神と物体といった存在論的な分離ではない。
【自己作用的と外部作用的】
意識下の自動調節作用の一つを、身が身自身に働きかけて、自分の状態を変え、それによって世界の意味を変える自己作用的調節と呼ぶ。たとえばホメオスタシスは、生存可能性の範囲を拡大する。恒温動物の体温の自律平衡作用は、変温動物より活動可能な時期と範囲を飛躍的に広げた。外気温自体は変わっていないのだが、ホメオスタシスによって、その意味が変わるのである。外界の意味ではなく、外界そのものの状態を変えてしまうエアコンディショニングは外部作用的な活動である。服を着るのも、家を建てるのも、ストーブを付けるのも外部作用的である。意識上での自己作用的な働きが情動と想像力であり、意識下での外部作用的な活動が反射である。反射は行動可能性を保証する。
【反射】
反射は意識下の外部作用的な活動であり、行動可能性を保証する。たとえば姿勢である。姿勢は世界に対する身構えである。姿勢は意識レベルでの行動の準備態勢をととのえ、行動可能性を保証し、拡大する。学校の椅子や会社の椅子や電車の運転手席が硬くて座り心地が良くないのは意識水準を上げるためである。試験をうけるとき姿勢は前かがみになり、腕を内側に曲げ、怒っているときにはこぶしをにぎり、腕を内側に曲げる。正座をすると意識レベルが上がる。試験が終わって寝るときや、誰かと抱擁するときには、大の字になり、腕を広げる。「内転と屈曲」が対象化とその対象への意識の集中の姿勢であり、「外転と伸張」は受容と融和の姿勢である。
【情動】
情動は意識上での自己作用的な働きである。「こんな試験など人生にとって何するものぞ」といって解答用紙を引き裂くとき、それは意味の変形によって問題を解決するという一種の魔術的かつ象徴的な解決である。そういう魔術的な意味の変形は理性的判断に立っていてはできない。怒りに駆られて、カッとなっていなくてはならない。自己自身の状態に作用して、カッとなるという心理的動転が必要である。心理的動転は生理的動転を伴う。カッとなっているときには心拍が高まり、顔は赤くなり、相手の顔さえ見えなくなることもある。知覚的な認識の構造が流動化しているのである。つまり分別がなくなるのである。日常的な分節が流動化する。心理的にも生理的にも自己自身の身の在り方を変えることによって、世界の意味を変えてしまうのである。これはある意味、ホメオスタシスと同じく、世界そのものではなく、世界の意味を、自分の身に働きかけることで変えているのだ。行動的解決に情動が伴う場合には、大体において行動を補助し、強化するような仕方で自分自身の状態を変えるのである。たとえば、相手が私にとってマイナスの価値であるという知的な価値判断だけでは、攻撃行動には出にくい。相手が憎らしいという情動的な価値づけが行われて初めて、激しい攻撃行動が可能になる。生理的レベルでも攻撃行動に出る準備としてのアドレナリン分泌や血管膨張、心拍の上昇、反射としての姿勢が攻撃行動の条件としてある。
【想像力】
想像力も自己作用的である。身が自己自身を刺激することによって自由に像を表象させる。人間は手段と目的を切り離し、間違い可能性まで持つことによって、いまここにないものまで、表象できる。この像(妻の浮気)は情動(怒り)を刺激するのに十分なだけの現実性を持っている。さらに想像と情動は悪循環を起こす。想像から情動が生まれ、情動はその自己作用によって想像(妻の密会のイメージ)が展開するのに好都合な土壌(嫉妬)を育てる。
【仲立ちされた統合】
仲立ちを介して拡大する身体は、仲立ちへと外面化された自己のはたらきを対象化することによって自己自身へと折り返す。環境内存在は、環境を把握するだけではなく、環境内存在であること自身を把握する世界内存在となる。こうして外面的拡大は、内面的拡大を伴いつつ、より高次の意識形態を生む。記号・言語・道具・機械・制度といった仲立ちは、身が世界に関わる関わりの構造を外面化し、対象化することによって、意識化への可能性をひらく。仲立ちによって人間が関わる世界は内面的にも外面的にも拡大する。言語は世界のすべてについて語ることができるだけではなくてその言語自身についても語ることができる。そういうような広汎な対象記述の能力とメタ言語化の働きによって身と世界との関わりを関わりとして主題化することによって意識性を高める。単にコミュニケーションとしての言語ではなくて自分自身とのコミュニケーションとして内言化される。内言化によって思考が行為から相対的に分離し、内面的世界が形成され、意識化のレベルが飛躍的に高まる。外面的世界の拡大は、裸身では関わることのできないような世界と用具が関わらせてくれることによって拡大される。用具の身への組み込みは、同時に、身が用具の論理に組み込まれるという側面もある。用具はわれわれの身体の外部にある。だからこそ用具の構造と働きを、人間の身体の構造とはたらきから分離して、自由に変形して、精錬することができる。用具の構造とか論理があって、それに乗っ取らなければ、用具は使えない。ハサミの使い方を子供に教えるのが非常に難しいことからも分かるように、我々はむしろハサミに使われている。身の働きを強化・拡大する用具以外の仲立ちは記号である。
【身体と記号】
身体は記号やシステムの母胎でありながら、記号やシステムのように自由にはならない両義的存在である。からだ以外のものは、からだのように自由に動かせない。これは他者の発見である。それは同時に自己の発見でもある。記号を身の働きに組み込むことによって、われわれは表現機能を拡大してきた。人間は言語を使うことで、生活世界そのものを拡大してきた。われわれが言語を持たないとすれば、全く直接的な身体表現レベルの伝達しかできないだろう。知識を長く保持することも困難である。われわれは言語を持つことによって経験を蓄積し、共有することができる。われわれの経験を振り返ってみても、言語や記号を媒介にした情報経験が大部分である。それによって人間は、現に自分が経験している世界だけでなく、誰かが経験している世界、誰も経験していなくてもありうる世界、かつてあった世界、未来にあるだろう世界にまで自分の世界を拡大した。記号、ことに言語は、われわれに内在しているかにみえるほど。身体化されているが、言語を身体化し、組み込むことは、逆に言えば、我々が言語の統辞論的構造や論理によって支配され、組み込まれるということである。
【理りではなく事割り】
身体は単なるロマンティックな熱い肉ではなく、システム化し、記号化していく面がやはりある。そのことによって身体のあり方が明晰化される。しかし明晰化されるというのは、論理的なもので割り切るというのではなく、現実の姿を単に曖昧な言葉であらわすのではなく、より明らかな形にするということである。それは合理化することとは少しだけちがって、事の性質に従って分けるということである。事態をより明らかにしていくことは必ずしもその論理化ということではなくて、記号自体を、肉体を持ったものを表現しうる方向へと近づけていくことである。人間が最初から媒介された世界に生まれ、文化的歴史的身体として存在する限り、媒介されたものから出発する間接的認識論を欠くことはできない。いわゆる生の事実そのものが、すでにして文化によって媒介されている。その意味で間接的認識論は、われわれにとって、二次的な認識論ではなく、第一次的な認識論なのである。間接的認識論によって、初めて、言語や象徴、道具や機械、習俗や制度が、人間の認識にとってもつ積極的な意味が明らかになる。しかし生の事実が言語その他によって媒介されているからといって、論理に合った分析が合理的認識であるということにはならない。物事の「事割り」を明らかにすることは、石工が石の目を辿るように、物事の筋目に沿ってゆくことである。筋目を横断するような人工的な切り口の意味が明らかになるのは、その後である。
【結論】
メルロ=ポンティの哲学のように、身体は宇宙を内蔵しない。モナドロジーもホログラフィーパラダイムが予感する照応関係も望みえない。身体は全体を内蔵しない断片である。