aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

キリスト教の教義について

 


⑴【三位一体論】

 

イエス・キリスト受肉は2019年現在、今から約2019年前に、時間的に生じた出来事である。それに対して、神におけるペルソナの発出は非時間的に生じている。では、その神の内なる発出とはどのようなものだったのか。そもそも、「父」としての神には①知性と②意志がある。そして神は①知性によって自己認識をする。そのときの理解内容が言葉(ミコトバ)であり、その言葉が「息子」(御子・ミコ・オンコ)である。神は自己認識したときのその内容(である「息子」)が生じるやいなや、自らの②意志によってその「息子」を愛する。「父」によるその愛が「精霊」である。これらの「父」と「子」と「精霊」が神の3つのペルソナであり、この3つの相互に区別される神のペルソナたちの本質はすべて同一の神である。「父」も「子」も「精霊」も、そういう3種類の名称で呼ばれるからには、区別される3つの対象なのだが、1つのものを3通りの仕方で対象化できるのでそうしているに過ぎない。そういうわけで、3つのペルソナはひとつの本質(=神であること)を持つので、位格が違うだけで、一体ではある。これが三位一体である。(このとき、精霊が神からだけでなく、子を経由しても発出するというのがフィリオークエ説である。東方正教会では精霊は父から発するとされるが、カトリック教会では聖霊は父から子を経由して発出するとされる点で、教義の相違がある。これを「フィリオークエ問題」と言って、トマスは「子からも発出する」という説を擁護するのだが、それは無根拠に信仰過剰として擁護するのでは全然なくて、合理的な根拠を示している。その根拠とはすなわち、神の位格は相互に「能動と受動」の対で区別されることによってそれぞれ別の位格として存立するのであるから(例えば、自己認識するものとしての「父」と自己認識されたその内容としての「息子」というような具合)、もし父から子を経由せずに精霊が発出するとしたら、「発出元」という新たな位格(あえて名付けるならば「第二の父」という位格)が必要になってしまうので、四位一体論になってしまうというのである。つまり、「父」と「第二の父」と「子」と「精霊」という4つの位格を神が持ちその全てが一体であることになってしまうので不合理だというのだ。ところで、神に備わる能力は、①知性と②意志なのであるが、なぜ知性であって、理性ではないのだろうか。トマスにとって、知性とは神的なものの直観能力であり、理性とは知性が不完全であるものが持ってしまう推論の能力であるからだ。つまり、トマスの「神」や「天使」は純粋形相なので、「理性」を持たない。神や天使は「知性」しか持たないのだ。トマスの「理性」というのは、人間の不完全性ゆえに必要とされてしまう人間の推論能力であって、知性を持っていれば神的なものを直観できるはずなのである。人間にも知性はあるにはあるが、不完全なので理性という推論能力が必要になった。

 

「ペルソナ」というと、「仮面」を思い出すひとがいるかもしれないが、位格と仮面は違う。神に3つの仮面があるというような話ではない。三位一体論は、位格が神の仮面だという話ではなく、それらの仮面が全てそのまま神なのだという話であるから、要するに、位格を仮面の比喩で理解するのは変だ。

 

⑵【キリスト論】

 

ところで、キリストについては、ナザレのイエスという人間の中に、(「息子」と呼ばれる神のペルソナとしての)言葉が入っていて、キリストは人間というナチューラと、神というナチューラの両方を持っているということになる。これをキリストの両性説という。キリスト教の正統派教義が、なぜ両性説でなければならないのか、言い換えれば、なぜ①キリストが神でしかないという説、あるいは②キリストは人間でしかないという説、あるいは③キリストは神と人間の融合物だという説ではダメなのか。まず、キリストが神でしかなく十字架にかけられたのは神が作ったホログラムのようなものだったとする(①)と、キリストの人間としての受難が受難ではなかったことになり聖書の記述と整合成が取れなくなる。神が人間に見えるように演技をしていたはずはない。また、もし神性が人間性とが溶け合い融合して「神かつ人性」とでも呼ぶべき本質をキリストが備えている(③)としたら、完全なる神性が不完全なる人間性によって汚されてしまうからダメである。また、イエスが人間であるとユダヤ教はそう考えているが、キリスト教の教義とはそれも整合しない。

 

 

 

⑶【トマス・アクィナスのこじ開け】

 

アリストテレスの第一実体と第二実体のあいだには何かの差がある。別の言葉でいえば、アリストテレスの第一実体と第二実体とは、完璧には重ならない。さらに別の言葉でいえば、「第一実体には第二実体にはない何かがある」と気づいたのがトマスの見出した視座であった。トマスがこじ開けようとした存在論的なステータスはここである。そこにどんな旨みがあるのかというと、キリスト教の教義中の、誰が見ても矛盾しているように見える厄介な部分を、整合的に理解するための手がかりとしての旨みである。では、そういう視座は、具体的にどういう存在論的ステータスを示せば、開けてくるのかというと、「第ニ実体(ナチューラ)でこそないが、第一実体(ペルソナ)ではあるという存在論的な身分」があることを示せばよいのである。

そして、この「第二実体でこそないが第一実体ではある」という身分は、少なくとも附帯性(アキデンツィア)ではない。なぜなら、附帯性は第一実体でも第二実体でもないからである。我々が是非とも欲しいのは、附帯性でもなく、第二実体(本質)でもないが第一実体ではあるようなあり方である。なぜそんなにそれが欲しいのか。それは、このようなステータスを認めなければキリストの中に神性と人間性が並存するという話(両性説)をうまく説明できないからだ。というのも、「子」と呼ばれる神のペルソナとして理解された神に到来してくる、「ナザレのイエスの本質である人間性」が、神にとって附帯性であるものか。いや、教義から言って、そんなはずはない。そこで、キリストにとって神性と人間性とが並存していることを「ヒュポスタシス的合一」として説明したかったのである。

 

 

 

⑷【ヒュポスタシス的合一】

 

では、その「ヒュポスタシス的合一」とはいったい何か。例えば、ソクラテスにとって「目が見えるということ」、「頭があるということ」は「人間であること」(=人間性)というソクラテスの本質(ナチューラ)には入っていないが、しかし、ないと困るので附帯性ではない。ソクラテスとして働くことがソクラテスというパーソン(=第一実体)として「ある」(=エッセ)ということなのだから、もし目が見えなくなったら、それまでのソクラテスとしてはもう働けない。ゆえに「目が見える」ということは、ソクラテスの第二実体でこそないが、第一実体ではある。もし、目が見えたソクラテスから「目が見えること」が奪われたとしたならば、働き方(=在り方=存在様態=存在論的ステータス)が変わってしまう。また逆に、目が見えなかったソクラテスが、目が見えるようになったとして、そこで付け加わったものはソクラテスの附帯性ではない。むしろそれは、ソクラテスの存在を新たな仕方で構成するようになるような第一実体である。このソクラテスの例を、キリストの受肉に敷衍して考えてみよう。つまり、目が見えなかったソクラテスに「目が見えるということ」が新たに加わって、目が見えるようになったとしたら、という話を、人間ではない神の位格であるところの「息子」に、新たにナザレのイエス人間性が加わったとしたら、という話に置き換えて理解してみよう。そうすると、付け加った人間性は、無いと困るものなので、神にとって附帯性ではないし、「息子」の本質(=神であること)でもない。しかし、キリストがキリストというパーソン(第一実体)として働くとき、「神であること」と「人間であること」はどちらもなくてはならないものとして並存し、この第一実体においてふたつは並存している。こうして二つの本質が並存するというその仕方の名前が、「ヒュポスタシス的合一」である。つまり、ヒュポスタシス的合一とは、なにかとなにかが、パーソン(=第一実体)としての存在を共有するもの(共に働くもの)として合一することである。

さらに、今述べたような「ヒュポスタシス的合一」は他のところでも役に立つ。例えば、キリスト教の教義がそう主張するように、もし人間の魂は不滅だとしても、身体の方はとにかく滅ぶので、最後の審判の日に身体の方が墓から蘇って、どこかでそれを待っていたアニマ・セパラータ(離在していた魂)たちと再結合することになる。そして、墓から復活したこの身体たち(ただし現代の人間たちと同じような身体組織や身体構造を持っているかどうかは分からない)は、アニマ・セパラータと再結合し、神の前に引き出され、裁かれることになる。ところで、このアニマ・セパラータにとって身体は附帯性だろうか。先ほどソクラテスの器官で考察した通り、魂たちの身体器官も魂たちにとって附帯性ではない。これも、「ヒュポスタシス的な合一」である。

ここまでの話をまとめると、イエス・キリストにおいては、(「息子」というペルソナとしての)神にナザレのイエス人間性が附帯してくるという仕方ではなくして、イエス・キリストの第一実体(ペルソナ)において、第一実体の存在を共有するという仕方で、共に働く二つの本質が並存するのである。そしてこれはなんと、キリスト教の教義の難所である両性説の説明として、かなりの程度うまくいっている。このようにして、第一実体と第二実体とのあわいに新たな存在論的ステータスを認めることによって理解可能になる教義があるから、このような「ヒュポスタシス的合一」の理説は、とても便利であり、また正当教義の基礎づけにとって必要でさえある。

 

⑸【トマスの神(としてのエッセ)はエッセのイデアなのか】

 


パルメニデスは、「あるもののみがあり、あらぬものはあらぬ」と述べ、この世界のすべてを「ある」というひとつの属性で説明した。そして、真にあるものは運動せず変化もせず永遠にあり続けると考えた。しかし、そうだとすると、全宇宙のすべてのものは「ある」の中に溶けてしまい、個物ごとの在り方に区別はなくなってしまう。パルメニデスのいう「ある」という仕方とは別の仕方で個々のものそれぞれがあるということができない。さらに、プラトンのいうイデアや、パルメニデスの言う「あるもの」がもしもどこか違う世界にあるとしたら、そのような本質的な存在とは別に、なぜこの世界があるのかがわからない。そのため、アリストテレスは「存在は多様に語られる」(『形而上学』第 4 巻 1003a33)と述べて、パルメニデスのいう存在の一義性を否定した。ではどうしたか。私たちは普通、現実性とは世界の側に与えられたものだと考える。この世界が現実としてあるから、スマホも山も他人も現実に存在すると。しかし、トマスは現実性を、世界にではなく、個物に与える。スマホが持っている現実性と山が持っている現実性は異なり、それらの集合体が現実世界なのだ。たしかにこうすれば、すべてのものが「ある」という仕方でのみあるだけの、パルメニデス的な世界にはならない。トマスは、神が存在するのではなく、神は存在なのであり、神とは「存在」そのものであると述べており、かつ、神以外のものは「存在」を分有するものとして存在するとしている箇所がある。ということは、トマスは神を個物の存在の根源として、つまりは神を「存在(エッセ)のイデア」(超形相)として捉えていた(個々の個物が存在しているのは神という存在のイデアにあずかっているから)という解釈もある。(この、「エッセであるトマスの神はエッセのイデアなのか」という問いは、スマホを質料とし、そのスマホを実際に働かせるアプリを形相(information)とし、さらにそのアプリを動かすOSが超形相(エッセのイデアすなわち神)だと考えてみるとよい。)しかし、もしも神において存在がひとつの本質として成立しているのであれば、今度はなぜそのような存在が、この世界という自らとは異なる存在があることを許すのかというパルメニデスに対する疑問が復活する。どうやらエッセのイデアが神だという筋は無理筋かもしれない。

 

 

⑹【アリストテレスの第一実体がトマスのエッセか】

 

トマス・アクィナスのペルソナは、アリストテレスの第一実体(これ性)から来ていて、トマス・アクィナスのナチューラは、アリストテレスの第二実体(なに性)から来ていると考えることができる。アリストテレスの第一実体とは、個体性あるいは個性のことであり、もはや「これ」としか言えないもののことであり、パーソンのことであり、ヒュポスタシスであり、「あってもなくてもいいような附帯性」をすべて取り去っても残るような「これ」としか言いようのないものであって、主語にはなるが述語にはならないようなものである。それに対して、アリストテレスの第二実体というのは、ナチューラであり、本質であり、本性であり、「何であるか?」に対する答えであり、何性である。これ性というのは、パーソンとしてのソクラテスさんのようなあり方である。ソクラテスさんの本質は人間であり、ソクラテスさんは、彼の本質として人間性というのを持ってはいるが、それは彼のナチューラであって、ペルソナではない。ソクラテス人間性以外の性質もたくさん持っている。ソクラテスさんには、彼の附帯性として、つまり、「あってもなくてもいいタマネギの皮」のようなものとして、たくさんの附帯性を持っている。附帯性はナチューラでもなければ、ペルソナでもない。ソクラテスに属するものは、ソクラテスというペルソナにおいて合一している。要するに、第一実体は、現代の言葉で言えばまさしくパーソンであり、まさにこれだという性質のことであり、これは附帯性ではない。例えばソクラテスの鼻がどんな感じであるかということは、「ソクラテスさんとはまさにこれである」という時のソクラテスの重要な性質ではない。トマス・アクィナスのエッセの4性格とは、①現実性(現に働いていること)、②完全性、③個別性(意味が個物ごとに違うということ)、④本質(≒第二実体)との強い連関があるということの4つであるが、これは今述べたような、アリストテレスの第一実体を下敷きにしている。

 

そもそも、アリストテレスが危惧したのは、存在が実体だとすると、パルメニデス的な存在の一義性(=すべてのものが同じ意味であるということ。スマホも机も髪の毛も、すべての個物が存在する意味は同じだということ。)の餌食になるということである。パルメニデスによって実体化された存在とは、一義的な「存在」という実体形相によって成立するような実体である。これに抗して、アリストテレスは、「存在」という実体形相を認めないことによって、存在の多義性を主張できた。ものが「ある」ということにもさまざまな意味があるのだ。(それを端的に示すのがアリストテレスの10のカテゴリーである。)トマスの「存在(エッセ)」は、アリストテレスが想定したようなある種の本質ではなく、本質の現実態、様相論理の言葉で言えば現実様相である。(現実様相とは、Pという式が、ただ「Pである」(これだと命題論理・述語論理)というだけでなく、「現実世界でPである」ということ、つまり「Pであることが可能」というのではなく、「現実にPである」を意味するということである。(属性は、この世界の中で成立する性質であり、形容詞や動詞などの述語で表現されるのに対して、様相は、この世界がもつ性質であり、「現実に」「必然的に」などの副詞で表現される。したがって現実性は、「たんに可能的にPではなく現実にP」という文で理解されるが、「たんに可能的でなく」の部分が、なんらかの属性として世界内にあるわけではない。それは、この世界内部に見いだされるような属性や性質や関係ではなく、この世界を、この世界ではないところから見たときに現れる様相である。))

 

⑺【ナチューラとペルソナ】

いかなるものについても、「本質」(ナチューラ)がふたつあるものというのは考えにくい。というより、実は、人が「本質」という言葉を文法的に正しく使えるためには、その意味に「それはひとつしかない」ということが含まれているということをその人が知っているという要件があるかもしれない。例えば、ペンの本質は、「書くもの」であり、ソクラテスという存在者の本質は「人間である」ということであって、ソクラテスやペンがが他の「本質」も持っているということや、ソクラテスが複数の本質を持つということは、通常、考えにくい。「ソクラテスの本質(ナチューラ)はPとQである。」という文は何か不自然な気がする。言葉を正しく使えていないように思う。およそ、あるものは、その「本質」を「ひとつだけ」持っているような感じがする。本質は、そこにおいて諸性質をまとめあげているような円の中心のようにイメージされ、それがもしも二つあると、楕円の焦点のようになってしまう感じがする。しかし、イエス・キリストは本質をふたつ持っている。その2つとは、「人間であること」と「神であること」である。イエス・キリストという存在者だけは存在論的なステータスが他と違う。しかも、その2つの本質たちは、切り離し可能なものとして別々にあるのではなく、イエス・キリストというひとつのパーソンの下で、統一されている。アリストテレスの区別に従えば、パーソンは「第一実体」であり、ナチューラは「第二実体」である。そしてここが重要なのだが、もし、二つの本質(ナチューラ)のうちのひとつでもかけたら、イエス・キリストというパーソンとしては「あれ」なくなる。また、神性というナチューラしか持っていなかった存在者に、人間性というナチューラが新たに加わったとしたら、そこで加わったナチューラは、新たに「イエス・キリスト」という存在者のパーソンの存在(=現実的な働き)を構成するようなものであって、接着されただけの、別に無くてもいいような附帯性ではない。人間性というナチューラが、神性というナチューラと並存して初めて、イエス・キリストというパーソンとして統一され、現実に働く。ここまでの話をまとめると、どうやら、①本質であることと、②ひとつだけあることと、③イツであることと、④あること、⑤現実に働くこと、には複雑な関係がありそうだ。ところで、3という数は多である。しかし、3という「ひとまとまり性」をもっているという意味では統一でもある。スリー・ユニッツ(トロワ・ユニテtrois unités*1であるとともに、3それ自体がユニティー(ユニテunité*2である。だから、3という数は、ユニット3つと、ユニティー(統一)とのユニティー(結合)である。3は、3つのunités(自然数単位)とunité(統一)とのunité(結合)である。

 

トマスのエッセの4性格は次の通りでした。①現実性、②完全性、③個別性、④本質との強い連関。(そして、トマスのエッセを「超形相」あるいはOSのようなものではなくて、むしろ「働き」だと解釈する。)このエッセの4性格に、⑤第一実体との関係を加えて、「白い時計」を比喩として使う。具体的には、上記の①〜⑤のそれぞれについて「働き」との関係を考察してみました。トマスのテキストから離れることになりますので、うまくいっていなかったり、的外れかもしれません。 (ここで比喩として使っている「白い時計」の本質は、「チクタクと時を刻むこと」です。)

 

①【現実性と働き】 この白い時計が現実的なのは、機能するからです。もし、機能しない時計があったとしたら、その時計が現実的だとは誰も認めないでしょう。時計は働く限りで現実的であると言えます。また、頭の中で時計をいくら思い描いたとしても、その時計は働いていないので、現実的ではありません。逆に、材質はなくても、働いているもの(天使、神、プログラム)は現実的と言えます。

 

②【完全性と働き】 もしこの白い時計の部品が欠けてしまったら、もう働きません。つまり、時計は完全でなくなったら働きません。働くのであれば、何らかの意味で完全なのだから、その意味で、働く時計には完全性が顕現していると言えます。

 

③【個別性と働き】 時計が働く単位は個別の時計においてであって、それぞれの時計は、それぞれの仕方で働いています。仮に複数の時計がたまたま同じ時刻を指していたとしても、個々の時計の働き方はそれぞれで違います。またもし仮に、設計は同じでも材質は異なるので、赤い時計の働き方と、白い時計の働き方は異なります。だから、それぞれの時計が一義的な仕方で働いているわけではありません。ゆえに、一個一個の時計で働き方はそれぞれ異なり、一通りではありません。だから、働きには個別性があります。

 

④【本質連関と働き】 白い時計は、「白み」を失ってもまだまだ働けますが、「時を刻む」という本質を失った時計は働けません。この意味で、時計の本質(第二実体)と時計の働きには強い連関があると言えます。また、秒針が折れてしまったせいで機能不全に陥っていた時計があるとして、その秒針が修理され、いま接着されたとしたら、その時に付け加わった性質は、その時計の存在を新たに構成するような性質です。このことから、ある時計が働いていることに大きく関係する性質は、働く時計の存在と強い連関があるといえます。

 

⑤【第一実体と働き】 この白い時計は、もしバラバラに分解されてしまったら、無数の歯車たちになってしまって、もはやひとつの統一された個物としては存在しなくなります。しかも、バラバラにされると時計は働かなくなります。だから、この時計の存在は、時計が個(第一実体)として統一されているということと連関しています。また、折れていた秒針が修理されて十全に働くようになった時計というのを考えた時に、そこで付け加わった性質は、時計のヒュポスタシス(第一実体)において時計の働きを共有する仕方で受容されるので、単なる附帯性ではありません。

 

*1:この場合は複数形のsがつく

*2:この場合は単数形