日本語の「普遍」は通常、「ユニバーサル」という言葉の翻訳語であり、そもそも「ユニバーサル」という語の祖先は、アリストテレスの造った「カトルー」というギリシア語である。「カトルー」という語は「カトリック」の語源であるから、カトリックは「普遍的な教え」という意味になる。
さて、そもそも『普遍』という語には以下のような6つの違う意味があり、それぞれ区別されている。
⑴論理学の全称的普遍
⑵類的普遍(一般的普遍)
⑶中世の共通的普遍
⑷自体的普遍
⑸構造主義的普遍
⑹存在(神)論的普遍
「普遍」というひとつの語には、このように6つの意味があり、それぞれ意味が違っている。だから、「普遍」という語を使うときには、この6つの意味のうちの、どれで使っているのかを、自分で自覚して使わねばならない。
⑴【全称的普遍】
全称的普遍とは、形式論理学で使われる普遍である。たとえば、『この教室のすべての生徒は赤い服を着ている』という全称命題(ユニバーサル・プロポジション)は、たまたま偶然にその教室にいた生徒たちの服がなぜか赤かったとしても、全称文としては真になる。赤い服を着ているという性質が偶然成立したのか、それともその存在者に即して必然的に成立したのかに関係なく、形式的に捉えられた普遍が全称的普遍である。これは、⑷の自体的普遍とは全く違う普遍性であるから気をつけなければならない。
⑵【類的普遍(一般的普遍)】
プラトン由来の類的普遍は、種との対比で使われてきた普遍である。一般的というのはジェネラルであるが、generalの語源はgenus(類)であり、この対義語がスペキエスspecies(種)である。スペキエスは、specialや、specificの語源である。類(genus)と種(species)は対概念として相互に対義語となることによって意味が理解されてきた。例えば、人間は種であるけれど、その類概念は動物ということになる。さらにその類概念は生物である。このように、分類に役立つのがこの普遍である。類は、種よりも大きな集団という意味で、種は類よりも小さな集団という意味で相互的に定義されるのである。(この類と種の対概念は、いま、一般と特殊という対概念に意味がズレてきている。)
⑶【共通的普遍】
共通的普遍(universals)は、中世の存在論における論争(普遍論争)で問題になった普遍概念である。これは、「複数の事物に共通する」という意味での普遍であり、例えば、机や椅子などが、それぞれ個別には違っていても皆おなじ机や椅子であると言われるときの普遍である。この普遍が、心が生み出したものであるという立場(唯名論:オッカム)と、実際に心の外側に存在しているという立場の対立が論争(実在論:スコトゥス)を引き起こした。ちなみに、この普遍がuniversalsと複数形になる理由は、りんごだったり、みかんだったり、犬だったりという、様々な共通本性があって、様々な共通本性があるということは、それらの共通本性は複数個あるからである。
⑷【自体的普遍】
この普遍は、他の普遍よりも強くて狭い普遍概念である。なぜなら、自体的必然性という意味だからである。この普遍概念が初めて定義されたのは、アリストテレスの『アナリスティカ・ポスティリオーラ(分析論後書)』という著作で、カタ・シンベベコース(=付帯的性質・偶有性)にたいして、カタ・ハウト(=自体的性質)として定義された普遍である。付帯性はラテン語ではペル・アキデーンスと呼び、自体性はラテン語ペル・セーと呼ぶ。付帯性というのは、「たまたまそのものがそのようになっている」という性質であり、自体性というのは、「もしその性質を取り去ったら、そのものがもはやそのものではなくなってしまうような、その性質がないとそのものだとは言えないような必然的な仕方でそのものに結びついている性質」である。例えば、「直角二等辺三角形の内角の和が二直角に等しい」という性質は、全称的な普遍性はあるが、しかし、自体的普遍性はない。なぜなら、他の三角形でも内角の和は二直角なのであって、直角二等辺三角形の内角の和が二直角であることは、「そうであるがゆえにその三角形が直角二等辺三角形と言えるような自体性質」ではないからだ。また、例えば、教師という存在者は自体性質として授業をするという性質があるし、授業をするがゆえに教師と呼ばれる。けれども、いままで見てきた全てのワインが赤い(全称的普遍)からといってワインという存在者が赤いという性質を自体的・必然的に持っているというわけではないし、赤いがゆえにワインと呼ばれるわけではない。それ自体に即してそうだと言える、という普遍概念が自体的普遍である。つまり、自体的普遍は、たまたま全員に当てはまるような全称的普遍では満足せず、中身にコミットするような普遍である。すべてのものについて、それ自体に即して必然的に成立しているがゆえに普遍的であるような性質が自体的普遍性なのである。
⑸【構造主義的普遍】
構造主義的普遍というのは、間地域的、通時間的な同一性とは、全く違う仕方で理解されている普遍性のことである。つまり、別のところに行けば別の仕方で現れる(置換される)のだけれども、基層の構造は一緒であるという仕方で捉えられている普遍概念である。そしてこの構造は不可視である。見えるのは常に表層の現れに過ぎない。そしてそれらの表層構造はそれぞれ異なっている。例えば、もし、重力が地球から月に行くと6分の1になるとしても、「だから重力などというものはないのだ」という話には決してならないだろう。同じ万有引力の法則(=構造的普遍性)が、月という、地球よりもずっと質量の小さい物体については、地球とは違う仕方で現れていると、人は理解するはずだ。それゆえ、万有引力の法則は、地域的な現れ方の差異にも関わらず、無傷に留まる。それと同じで、もし様々な風土や文化や習俗に、常に同一の法律や倫理や社会形態や考え方が貫徹されていないからといって、構造的普遍性を論駁し、構造的普遍性が存在しないことを証明したことにはまったくならない。なぜなら、表層ではそれぞれ違って見えることはむしろ構造主義者にとっては当たり前の前提なのであって、それらの各表層の現象間の相互置換を可能にする方法(規則・パターン)を調べることによって否定的な仕方で跡付けられる深層の構造は普遍的だと彼らは言っているのである。それゆえ、構造的普遍性を、ある単一のルールを世界中に無理矢理押し付けることで実現されるような単一性と取りちがえることは、絶対にしてはならない。「普遍的なものは不変的だ」という主張は、構造主義的普遍に関しては当てはまらない。なぜなら、様々な変換を通して初めてその跡が象られてくるような普遍性が構造主義的普遍だからである。
⑹【存在神論的普遍】
オント-テオ-ロジーというのは、水平的に、すべての存在者についてあてはまることを考えることと、垂直的に、すべての存在者の究極の原因を考えることによって推論される「不動の動者」であるところの「第一原因」を考えることとが、ピタリと一致すると考える立場であり、このような立場で考えられている普遍的な事柄が、存在-神-論的普遍である。「私は〜としてこれを見る」という限定を全て取り払って、存在そのもの考える超越論的な立場に立つとき、この普遍が問題になる。この普遍は形而上学的で、トランセンデンタールな普遍性である。