aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

経験論について

私は、自分のことを経験論者だと思っているが、経験論者というのは、経験に依拠して何かを語る人種などではなく、経験とは何かを語りだすような人種だと思っている。この違いを理解している経験論者はそう多くはない。

 

経験主義哲学は、事実という経験を集める学ではなく、経験という事実についての学だ。


経験論は、経験の構造を問題にするものだ。経験を神聖視して、すべての思索を経験に従わせることではない。世界の中での交渉において既にかたどられてしまっている経験の構造を自覚せんとする者のことを私は経験論者と呼びたいと思う。


そもそも、①電子も、②√2も、③一般的概念そのものも含めて、あらゆる経験したことのないことを想定して我々は生きているのだ。

 

経験という一本槍を、自明性の停止してしまった日常を失地回復する(=レコンキスタする)ための唯一の聖なる武器とし、経験を基準にして真理を探していたら、日常という奇跡的な場には帰ってこれないのだ。かつてルネ・デカルトがレス・コギタンス(=思惟実体)と明晰判明の原則を武器とした日常のレコンキスタに失敗したのと同じように、自明性の停止してしまった日常をもう一度経験的なデータだけで再現したり再構成したりすることはできないのだ。


もっといえば、何かを経験したことを特権視し、それを経験したことがない人や、構造的に経験ができない立場に置かれている人々を抑圧するような思想は経験論ではまったくない。それは帝国主義である。


British empirism(英国経験論)はBritish empire-ism(大英帝国主義)である。


この洒落は、単なる洒落ではない。

経験論というのは、経験に依拠することで何かを語るような、無反省な思想ではないのだ。それでは帝国主義になってしまうではないか。


さらに言えば、もし目の前の鉛筆が、観念だという人がいたら、諸君はそいつがなにかしらの狂気に陥っていると感じるだろう。経験論はまさしくそういう狂気に陥っている。観念論の狂気が経験論には取り憑いている。


観念の知覚が経験だと定義されたなら、様々なものが経験の対象ではないことになってしまうし、観念の世界から我々は外に出れないのだ。

 

そもそも「三角形」というのは、「同一直線上にない3点を線分で結んだ3つの角を持つ図形」であって、辺の長さについて規定はない。三角形は①二等辺三角形か、②正三角形か、③不等辺三角形のどれかでなければならない。ところで、もし、「一般的な三角形」というのがあるとすれば、①と②と③のどれであってもいけない。しかし、三角形は常に①か②か③でしかありえない。したがって、「一般的な三角形」というのがもしあるとしてもそれは三角形ではないということになる。これは矛盾である。それゆえ、仮定を撤回し、「一般的な三角形」なるものはないということになる。しかし、我々は明らかに、「一般的な三角形」というものに基づいて行動しているし、なんとしてもそれが欲しい。この問題については、「①と②と③」と「一般的な三角形」とでは、存在論的な階層が違うとして一階と二階で分けることによってこの問題を回避するバートランド・ラッセル的な回避方法もあるけれど、むしろ、「一般的な三角形」というのは、「三角形を集めてくるための作業規則、方針としての概念である」とする方がよい。たとえば、ルート2という平方根は、数字というよりも、「二乗したら2になるという作業規則」を示したものであり、ルート2も数字であるという人はプラトニストである。ルート2だけではなく、「無限小」(infinitesimal)もこれと同じであり、そもそも無限小というのは、「0ではないが、限りなくゼロに近く、いかなる実数よりも小さい量」なのであるが、これも微分法(ニュートンの場合はリューリッツ法)に関する作業規則としての概念である。観念と概念は違う。概念は、固定的に頭に思い浮かべられなくてもなんの問題もない。作業規則として機能し、何らかのリサーチの方針となればよい。「一般的な三角形」という概念は、個別具体的な三角形を集めてくる時の作業中の指針となればそれでよいのである。「一般的な三角形」を観念することができないからといって、「一般的な三角形」という概念がないことには全然ならない。したがって、バークリーは間違っている。お互いに知り合いであったニュートンジョン・ロックにとって「一般観念」というのは作業規則としての概念であるが、バークリーにとって「一般観念」は頭の中で思い浮かべることができないものであった。それゆえバークリーには一般観念は否定されることになった。