aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

トマス・アクィナスについて

 
  1. トマスのエッセを「超形相」だと考えると、「超超形相」や「超超超形相」のようなものも考えることができるという意味で、無限遡行に陥る理論的危険性があるし、全ての存在者は神のなかで存在するという汎神論に接近するかもしれない。だから、トマスのエッセを「超形相」としてではなくて、トマスのエッセはむしろ「働き」(=ファンクション)なのであり、「働くものは存在する」と理解することにすると、どうだろうか。天使たちは純粋形相として働いているので存在するし、可能態にある質料は、形相と結合して現実的に働くので、そのようにして働く限りで存在すると考えることができる。ところで、質料を全く持たないがゆえに純粋形相である天使たちと、同じく質料を全く持たない純粋現実態である神のどこがちがうのか、いかにして神と天使とが区別されるのかというと、天使たちが働くのは神によってであるが、神は何によって働くのでもなく、ただ働く(ego sum qui sum)。だから、神は、自存するのである。自存するということは、他の何かにサポートされて存在するのではなく、何にもサポートされず存在するということだ。ただし、だからといって、神はスピノザのように自己原因というわけではない。なぜなら、もし神の本質が神の存在とまったく同一ではないとすると、スピノザ式に、神の本質から神の存在が出てくる(=神は自分で自分を存在させた)とか、あるいは、デカルト存在論的証明式に、神の概念は神が本質からして存在するということ抜きには理解することができない、というような、神理解になってしまうわけだが、自己原因的な神というのは、神が自分の原因でもありかつ結果でもあるというそもそも理解不能な考えなのであって、神であってもそれはできないのだとトマスは考えた。というのも、なぜこの自己原因という発想が理解不能かというと、原因という言葉を正しく使うためには、「AがBの原因である」と言うとき、「AとBとは同一のものではない」ということが前提されていなければならないからだ。そうでないと、つまり、もしAとBが同一であるという仕方で原因という言葉を使うと、「原因」という言葉を理解していないことになるのだ。それだけではない。スピノザの神は、自らが自らの存在する原因になれるような神なのであるが、この、自己原因としての神が問題なのは、スピノザからはなれて言えば、神が、ある日、存在するということを自分からやめてしまえば、神がいないという想定もできてしまうことにある。(ただし、スピノザの神はその本質からして存在するので、そんな想定はスピノザ体系の内部では不可能である。)そういうわけで、トマスにとっては、神が存在するのではなく神は存在なのだ。神はその本質の内に存在を含むのでもない。神は自存する存在それ自体(=ipsum esse subsistens)なのであって、自らが自らの存在の原因ではない。だから、神と天使は存在論的に水準が違う。天使は神にサポートされて存在する(=実際に働く)ので、自存的ではない。そうであるがゆえに、神=存在そのものと考えてよい。
  2. トマス哲学のキーポイントは、アリストテレスの「第一実体」と「第二実体」とのあいだには何かの差があるということ、もっと言えば、アリストテレスの「第一実体」には、「第二実体」にはない何かがあるということ、に目をつけたのが、トマスの見出した視座であったということでした。トマスがこじ開けようとした存在論的な領野はまさにここであり、そこをこじ開けることに、どんな旨みがあるのかというと、キリスト教の教義の中の、誰が読んでも説明を要するような厄介な部分(具体的にはイエス・キリストの両性説)を、なんとかうまく説明するための手がかりとしてここが使えそうだ、という旨みがあるのでした。では、そういう領野は、具体的にどういう存在論的ステータスがあることを示せば、開けてくるのかというと、「第ニ実体(ナチューラ)でこそないが、第一実体(ペルソナ)ではあるという存在論的な身分」があることを示せばよいのでした。そして、この「第二実体でこそないが、第一実体ではある」という身分は、少なくとも附帯性(アキデンツィア)ではないです。(なぜなら、附帯性は第一実体でも第二実体でもないから。)ということは、我々が是非とも欲しいのは、附帯性でもなく、第二実体(ナチューラ)でもないが、第一実体(ペルソナ)ではあるような性質のあり方ということになります。さて、イエス・キリスト両性説の理論的な難点は、そもそもどうやって生じてくるのかというと、今から約2019年前に起きたことになっている「受肉」の場面で、神のペルソナのひとつである「息子」(という神)にとって、これから合一することになる「ナザレのイエスの本質である人間性」は、附帯性ではありえないし、かといって、教義上、2つのナチューラ(神性と人間性)が融合するわけにも行かない(=完全な神性を不完全な人間性と融合させるわけにはいかないから)ということから生じるのでした。そこで、このイエス・キリストにおいて神性と人間性という二つのナチューラが、融け合わずに、しかし合一してはいるということを「ヒュポスタシス的合一」という概念を使って、トマスはうまく説明しようとしました。では、その「ヒュポスタシス的合一」とはいったい何でしょうか。例えば、ソクラテスにとって「目が見えるということ」は「人間であること」(=人間性)というソクラテスの本質(ナチューラ)には入っていませんが、しかし、目が見えないと困るので、これはソクラテスにとって附帯性ではありません。というのも、ソクラテスとして働くことがソクラテスというパーソン(=第一実体)として「ある」(=エッセ)ということなのだから、もしソクラテスの目が見えなくなったら、それまでのソクラテスとしてはもう働けないからです。ゆえに、「目が見える」ということは、ソクラテスの第二実体でこそないが、第一実体ではあるような性質です。また逆に、さっきまで目が見えなかったソクラテスが、たった今、目が見えるようになったとして、そこで付け加わった性質は、ソクラテスの附帯性ではありません。むしろそれは、ソクラテスの存在(エッセ)を新たな仕方で構成するようになるような性質です。上のソクラテスの例を、キリストの受肉に敷衍して考えてみると、どうでしょうか。つまり、「息子」(というペルソナとしての神)に、新たに、「ナザレのイエス人間性」が加わったという「受肉」にこの例を敷衍したらどうなるでしょうか。そうすると、イエス・キリストにとって、そこで付け加った人間性は、無いと困るので、附帯性ではありません。イエス・キリストが(イエス・キリストという第一実体として)実際に働くとき、「神であること」と「人間であること」という二つの本質は、どちらもなくてはならないものとして並存し、このイエス・キリストという第一実体(パーソン)において、ふたつは合一しています。このようにして、二つの本質が融合せずして合一するその仕方の名前が、「ヒュポスタシス的合一」だと私は理解しました。つまり、「ヒュポスタシス的合一」とは、なにかとなにかが、存在を共有するもの(共に働くもの)として、パーソン(=第一実体)において合一することです。ここまでの話をまとめると、イエス・キリストにおいては、(「息子」というペルソナとしての)神に「ナザレのイエス人間性」が附帯してくるという仕方ではなくて、イエス・キリストの第一実体(ペルソナ)において、第一実体の存在を共有するという仕方で、共に働く二つの本質が融合せずに合一するのでした。そしてこれは、キリスト教の教義の難所であるキリスト両性説の説明として有効だと思います。信仰箇条としてただ鵜呑みにするのよりも。
  3. アリストテレスの第一実体(個体)と第二実体(本質)の区別が、なぜキリスト教の複雑な教義を理解するのに役立つかというと、神を第一実体として考えた場合と神を第二実体として考えた場合とで分けて考えることができるからである。三位一体論を考えるときにはそれぞれのペルソナを第一実体として捉え、神は存在そのものだと考えるときには神を第二実体として捉えればよくなったのだ。こうしてキリスト教神学を整合的に理解できる。
  4. 神の力能には意志と知性がある。このことは、ライプニッツの『弁神論』の主題でもあるのだが、もし神の意志の働きが神の知性の働きに先立つのであれば、神は自らの行為を理由なく行うことが可能になるし、もし逆に神の知性の働きが、神の意志の働きに先立つのであれば、神の行いは全て必然的になる可能性が出てきてしまう。

  5. 神は父とも呼ばれる。神は自分の内部で精神活動をしている。その精神活動の中で、神は言葉でもって自己認識をする。その認識内容(言葉)が息子と呼ばれる。神は全てを含むから、その自己認識を通して神は全てを通覧、通暁している。神は自己認識をするやいなや、その内容である子を愛する(自己愛する)のであるが、その愛は精霊と呼ばれる。こうしてすべて出揃った父と子と精霊は、それぞれ能動と受動の関係にある(子は父から出てきて、精霊は子から出てくる)ので、実在的に区別されるのではあるが、概念的な区別というのもある。概念的な区別とは、コンテクストに依存する区別のことであり、実在的な区別とはコンテクストに依存しない区別のことである。(例えば左右の区別は、見方に依存しているので概念的な区別である。神が父なのか子なのか精霊なのかということは見方に依存するので概念的にはこの3つは同一である。)すなわち、この3つはすべて神の本質である。神の内部での発出は発出者と被発出者が同一である。これを三位一体と呼ぶ。父と子と精霊は関係の名前である。量や質は基体に帰属してしまうので附帯性になってしまうが、しかし、関係はアクシデンタルではない。神を知性としての働きで見れば子が生まれ、意志としての働きとして見れば愛が生まれるという仕方で、これらの関係は神のひとつの本質だとしたのだ。

  6. 全ての存在者はなにものかである。なにものかでないものはない。その存在者がバラバラにされたら、当の何者かではなくなる。机が解体されならば、それはもはや材木であって机ではなくなる。材木は材木として存在し、もはや机ではないから机は存在しなくなる。ただし、材木は材木として統一がある。だから、なにかが存在するということと、なにかがひとつの統一体であるということには置き換え可能な関係がある。3という数は多である。しかし、3というひとまとまり性をもっているという意味では統一である。トロワ・ユニテ(複数形のs)であるとともに、それ自体がユニテ(単数形)である。だから、3という数は、ユニテ3つと単数のユニテとのユニテである。たとえば、時計を、バラバラに分解して、無数の歯車に戻すと、もはや時計として存在しなくなる。しかし、それらの歯車はひとつひとつ、歯車としては存在しており、歯車ひとつを単位(ユニット)として、歯車がふたつ、歯車がみっつ、歯車がよっつ....という仕方で数えていくことができます。ところで、フランス語のユニテ(unité)にも、①「統一」という意味と、②「単位」という意味があります。この語に二つの意味があるのですから、二つの意味を我々は区別することができます。しかし、この二つの意味の「からまり合い」を、では、まったく切り離して、この語を使うことはできるかというと、それはできません。つまり、一(unum)には、①ひとつであるということ(unitās)と、②1という自然数(principium numeri)という二つの区別可能な意味があるのだが、この二つは相互に互換可能であり、その二つを完全に分離することはできない。例えば、②「時計がひとつある」という時、必ずや①「時計が時計としてのひとつの統一であること」が既に背後で前提されていて、①と②をはっきりと峻別することはできないということが言える。バラバラに分解されてしまえばもはや時計ではない。それゆえ、「ひとつの時計が存在する」という言明はいわば既にして冗語であって、「時計が存在する」という文だけで「時計がひとつである」ということが既に言われてしまっている。このとき、「存在する」は「ひとつであるということ」と相互互換可能になっていると考えてよい。

  7. 神が存在するのではなくて、神というのは存在のことなのだが、だからといって、ここに存在するペンは神であるということにはならない。このペンが存在するからといって、このペンは神であるということにはならない。なぜなら、神に対して使われる存在は排除を伴う概念(「お前なんか単なる動物だ」)であり、ペンに使われる存在は排除を伴わない概念(「人間は動物だ」)だからである。つまり、ペンの方は共通存在なのだ。

  8. 私はあの有名な殺人鬼が誰かを知らない。しかし、私は隣のおじさんを知っている。このことから、ゆえに隣のおじさんはその殺人鬼と同一人物ではないという結論は導けない。それなのに、人間は神の本質を知ることができないが、人間は神の存在を知ることができるからという理由で、神の本質と神の存在とは同一ではないという解釈を導いているのは背理である。

  9. トマスのエッセ=神=存在=一を特徴づけるとしたら以下の4特徴においてである。①現実性、②完全性、③個別性、④本質との強い連関(強い連関というのは、附帯性ではないという意味である。たとえば、いくつもの可能世界の中からひとつの可能世界だけを現実化させるためにつけ加わるようなものがエッセではないということだ)。これを存在の4基本性格という。

  10. トマスは神は実体ではないという立場であるが、スピノザは神は実体であるという立場である。

  11. トマス・アクィナスについて学ぶときには、講談社学術文庫の『トマス・アクィナス』(稲垣良典)と、山田晶による『世界の名著(続5)』に収録されている序文が必読である。
  12. 山内得立と高田三郎山田晶の京大時代の先生だった。
  13. トマス・アクィナスの師匠アルベルトゥス・マグヌスは全科博士と呼ばれていた。
  14. トマスのいたドミニコ会は説教と学問を重視したのに対して、フランシスコ会は、清貧と労働を重視する。
  15. トマスは、天使的博士(ドクトル・アンゲリス)と呼ばれたこともあるが、異端宣告を受けたこともある。
  16. 神学大全』は、第一部が神論、第二部が人間論、第三部がキリスト論の三部構成になっている。
  17. そもそも、トマスの時代、アリストテレス哲学の再流入に際して、アウグスティヌスの伝統的神学の内に閉じこもるのが保守派だった。1210年にはアリストテレスの自然学を読むのが禁止されたのである。
  18. ブラバンのシゲルなどのラテン・アヴェロエス派は、理性の真理(アリストテレス)と信仰の真理(アウグスティヌス)という2つの異なる真理の体系を認めて折衷案(二重真理説)を取った。つまり、アリストテレスの説と信仰の教えとが一致しない場合は前者が偽であるとするのではなく、それぞれがそれぞれの仕方で正しいと考えたのである。
  19. 雑種的なラテン・アヴェロエス派のように両立させるのではなく、別の仕方でアリストテレスキリスト教と融合させようとしたのが、フランシスコ会ドミニコ会である。
  20. フランシスコ会の代表がアレクサンデル・ハレンシス(1170-1245)、ボナヴェントゥラ(1221-1274)、ドミニコ会の代表がアルベルトゥス・マグヌス(1200-1280)、トマス・アクィナス(1225-1274)である。フランシスコ会は、アリストテレスの見解を神学の根本概念を規定するほどまでには採用せず、彼らは本質的な点において、アウグスティヌスの忠実な弟子にとどまったと言える。例えばアリストテレスの考える世界の永遠性に関する説は、フランシスコ会は拒否する。
  21. プラトン主義やアヴェロエスの能動知性単一説から、ただちにアリストテレスが信仰に反することにはならない。
  22. トマスはアリストテレスから新プラトン主義的解釈を拭い去ったわけでも、アリストテレスをアラビア人の手から再び奪い取ってキリスト教の洗礼を施したわけではない。
  23. トマスの存在は全存在である。全存在とは、実体と付帯性の全ての存在を自らのうちに包含する、丸ごとの存在である。つまり、それによって個々の事物が個物として存在しているその全存在である。花瓶であれば、割れて欠ければ全存在とは言えない。アリストテレスの存在はそれとは違って、実体としての存在を根本とし、それとの関係において付帯性としての存在が語られる。
  24. 1つあることと、ひとつであることは違う。ここはキーポイントである。
  25. トマス・アクィナスにとって、普遍的な能動知性が裁かれるというアヴェロエスのデアニマ解釈(アヴェロエス的普遍知性説)が、キリスト教の啓示と矛盾した。啓示によれば、人間の魂は不死であり、世の終わりには身体を伴って復活し、神の審判を受けるはずである。ところで、このように不死であり、復活し、審判される魂は当然個人の魂でなければならない。神によって審判されるのは、自己の行為に対して責任を負うべき主体として、個々の人間でなければならないからである。ところで、イスラーム世界経由のアリストテレスの魂論の解釈によると、人間には能動知性と受動知性とがあり、受動知性は各人の肉体と結合して個別的(受動知性は身体と結合している!)なれども、能動知性は万人に共通して普遍的かつ、ひとつである。そして、死によって受動知性は結合している肉体とともに滅びるが、能動知性はそれ以降も存続する。しかし、この説によれば、不死であるのは個人の魂ではなくして普遍的知性であり、それは人類に共通であるのみならず、神の知性に由来するものとして神的である。よって普遍的知性が神によって審判されるようなことはあってはならない。それゆえ、この解釈はキリスト教の信仰に反していた。よってトマスは、個々の人間の有している能動知性の独立性と不滅性を、アリストテレスの可能的解釈として、アヴェロエスとは違う仕方で、導いた。
  26. トマス・アクィナスにとって世界に時の始めと終わりがあるというキリスト教の信仰が、アリストテレスの自然学における世界の永遠説と矛盾した。しかもこのことは、アヴェロエスアリストテレス解釈との矛盾などではなくして、アリストテレスの世界観そのものとの矛盾だったのでいっそう深刻であった。アリストテレスにおける世界の永遠性と不生不滅性が、キリスト教における世界の創造説と矛盾するのである。トマス・アクィナスは、アリストテレスの世界観は偽であると無下に棄却することも、ラテン・アヴェロエス派のような二重真理説を取ることもしなかった。(アリストテレスの説を、理性的な立場での絶対的真理として盲従することもしなかった。)では、どうしたか。トマスによれば、質料もまた神からその存在を与えられて存在するもの、すなわち創造されたものであるから、もしも神が、質料をも含めたこの世界を、始まりも終わりもない永遠において存在せしめたのだとすれば、世界が永遠的に存在するというアリストテレスの見解は正しい。世界に始まりも終わりもないというアリストテレスの主張はこのような前提から発せられたものである。しかしそれは絶対的な真ではなくて、オプションとして真なだけなのである。もしも神が質料をも含めたこの世界を永遠においてではなく、時の始めを有するものとして創造したとするならば、この世界は時の始めを有することになる。すなわち、神はアリストテレスの言うような世界にすることもできたが、そうはしないオプションを取ったこともありうるというわけである。ただし、最終的にどちらのオプションを神が選択したのかということは我々人類に取って絶対的に知ることはできないので、「世界に始めがある」ということは信仰箇条ということになる。つまり、無理矢理信仰箇条にしているわけではなく、アリストテレスの見解もキリスト教創造説の見解もどちらも蓋然的な真理とし両者とも相対化したうえで、創造説の方を信仰箇条としたのである。またこのことは、ラテン・アヴェロエス派のようにアリストテレスの見解を理性の真理として信仰の真理とは別立てで認めるのとも異なっている。なぜなら、トマスは、アリストテレスの理性といえども、理性を超える問題については絶対的に真なることを語り得ず、ただ蓋然的に真なり(正しいことが可能であるが確実ではない)と推論しうるに過ぎないと考えているからである。トマスにとって、理性と信仰との区別は、同一次元の異なる領域では全くなくして、次元を異にする違う領域である。だから、同じ次元にアリストテレスの立場と、キリスト教信仰の立場というものがあって、理性の立場では正しいが信仰の立場ではそうではないという話では全くなくて、アリストテレスの理性を持ってしても、世界の永遠性や有限性について確実なことは言えないと限界を策定しているのである。
  27. トマスには、「神が御自身について有している知」と「神について人間が有しうる知」という2つの「神の知」があるが、この2つが天国において一致するというのがトマス神学である。トマスの神は、御自身を知る神である。神の知の内容は、神自身である。神は神自身を知っていることによって、神によって創造され、創造されうるいっさいのものも知っている。神においては、神が有する神についての知と、神についてを知る神の知とは完全に一致する。また、天国において神を直観する至福者たちは、神において全てを見る。したがって、神において神の知を見るという仕方で、神の知を神と共有する。それゆえ、天国で人間は神に似た者となるのである。また、恩恵の量と人間の自由度は比例関係にあるので、恩恵が増せば増すほど人間の自由度と罪は増していく。天国の至福において、人間は神に似た者となり、最大の自由度に到達する。
  28. 人間を神のもとに連れ戻すために神の側から人間にそそがれる恩恵は、いかにして人間に与えられるのかというと、それは人間イエス・キリストを通してである。イエス・キリストとは、神の御言が受肉し、真の人間となったものである。人間を罪から救い出すために、天なる父からこの世に遣わされた神の子である。イエス・キリストは、人間の罪の贖いのために生け贄となり、苦しみ、死に、復活することによって償いの業を完成し、このことによって人間の犯したすべての罪は赦された。それのみならず、キリストは、人間をして神のもとへと引き戻して行く具体的・現実的な恩恵の源泉である。キリストは人間が神のもとに戻るための道である。
  29. 理性による神の知は、「全存在を与えられて、無から在らしめられて在る者」と、「在らしめている者」の間の「存在のアナロギア」によって成立する。これに対して、有限なる存在者と有限なる存在者との間になりたつ関係は「存在者のアナロギア」(アナロギア・エンティス)に過ぎない。他方で、啓示を与える神と、その啓示を受け取るか否かの意志的決断に迫られる人間の間に成り立つ応答の関係が「信仰のアナロギア」(by カール・バルト)である。
  30. 「神について人間が有しうる知」には2つの認識源がある。ひとつは理性であり、もうひとつは、啓示である。そして、前者は後者に先立つ。つまり、まさにこの、「理性による神についての知」が「啓示による神についての知」に先立つということが、信仰が信ずる者の意志による決断に委ねられる余地を生むのである。ここから、理性によって得られた神の知の前提のうえに、啓示としての神の知を受けるか否かを決断する余地が生まれるのである。
  31. 神によって創造された人間は被造物である点において他の全ての存在者と共通であるが、他の全ての被造物と異なる独自の性格は神と同様に知性と意志を有し、自由な行為の主体であるというこの点である。この神との共通性ゆえに人間は神の似姿と呼ばれる。
  32. トマスにおける三位一体論。神が神御自身を認識することに即して、御自身のうちに御自身の言(ことば)がうまれる。言を生むものとしての神(=御父)と生まれた言としての神(=御子)との間に、意志に基づく「愛」(=精霊)が発出する。こうして、神の内なる三つのペルソナ(位格)成立の根拠は、神の知と意志のうちにある。
  33. 絶対無という思想は、キリスト教神学の内に昔から存在している。エリウゲナEriugenaのディオニシオス偽書における否定神学theologia negativaがそれである。エリウゲナ曰く、神はその卓越性のゆえにいみじくも無nihilと呼ばれる。真に存在するものはむしろ無と呼ばれるのである。通常の個々の存在者はエンスens=id quod estに過ぎない。しかし、真に存在するものはesse ipsumであって、それは神だけである。ただ、このことは、トマス哲学が否定神学に似ていることを意味しない。トマスはアナロギアを用いて神について語る。
  34. 究極原因が存在するというのは、フレーゲに言わせると、「究極原因である」という述語をFとしたとき、集合Fには少なくともひとつの要素があるので、空集合でないという意味になる。

  35. 神においては、本質が存在そのものである(Esse=Essentiaなのである)が、神以外のすべての被造物においては、その存在とその本質が分離されている。ensは存在者で、esseが存在で、essentiaは本質であるが、esse=essentiaが神で、esseとessenceが別々なのがensということになっている。ens=esse(essentia)という論理式になっており、「esseとは、本質をアクチュアライズするような機能である」と言える。また逆にens=essentia(esse)という論理式にすることもできて、「essentiaとは、esseを制限するような機能であるとも言える。」

  36. トマス・アクィナス存在論は、存在と本質の区別が実在的か概念的かどうか」ということと、「存在の認識は直観なのか判断なのかということ」が散々議論されてきた。これはスコラ哲学を賑わせた問題である。