aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

愉快な仏語1

 

  1. 言語学には、現象としては同じに見えることばが、実はその深層において種類が異なっているということを見極めるための、様々なテストがある。強調構文にしてみるとか、否定文にしても意味が変わらないかとか、様々なテストがあるのだが、文頭においてみるテストというのも存在する。例えば、①Elle est gravement malade.と、②Elle est sûrement malade.という二つの文は、副詞の位置が現象としては似ている。しかし、文頭に置けるかどうかテストしてみると、本当は違う種類の副詞であったことが分かる。実際にやってみよう。*Gravement,elle est malade.という文は誤文であるが、Sûrement,elle est malade.という文は誤文ではない。それゆえ、①と②の副詞の位置は、見た目上同じであるが、①は、副詞が動詞を修飾しており、②は、副詞が文全体を修飾しているということがわかった。
  2. La politique,Jacques la connaît.とか、Paul, il regarde Marie.という文は左方転移構文である。左方転移構文は主題化あるいは前提化(政治についてはね、ジャックがそれを知っている。)である。では逆に右方転移構文において、C'est beau,la Seine !という文と、Elle est belle,la seine !という文の違いは何だろうか。まず前提として、現代のセーヌ川というのは、ゴミが浮いており、濁っていて汚い。しかし、セーヌ川の周りの雰囲気は、セーヌ川河岸などの建造物なども含めて、結構美しい。Elle est belle, la seine !だと、セーヌ川そのものが美しい感じがするのである。これは、現代の多くの人が疑問を持つだろう。セーヌ川の水は汚いからだ。しかし、C'est beau, la Seine !の場合は、セーヌ川の周辺の美的な情緒と風情がわかる人ならば、同意する確率が高い。
  3. 自動詞と他動詞という文法用語は、範囲が広過ぎる言葉である。自動詞というのは、あくまでも、「直接目的語をとらないですよ」ということしか主張していないので、「argumentを取らない」ということまでは主張していないのだ。例えば、Je suis allé à Paris.という文のà Paris という部分はargument(項)と呼ばれる。argumentは、取り外しては文が成り立たないような要素である。つまり、allerは「自動詞であるから直接目的語を要求しないが、しかし、argument は要求するような動詞」ではあるのだ。逆に、同じà Paris でも、Je l'ai rencontré à Paris.という文のà Paris はargument ではないので、無くてもいい(rencontrerは他動詞なので、直接目的語を要求はする。間接他動詞については後述する。)。また、例えば、J'ai dansé dans cette salle.という文のdans cette salleという部分は、Complément circonstanciel (状況補語)と言って、なくても構わない(danserは自動詞なので、直接目的語も要らないということだ)。さらに、自動詞と他動詞というこの二分法を混乱させる要素に次のことがある。「他動詞なんだから直接目的語を常に取るだろう」と誰もが思うのだが、そうではないのだ。「間接他動詞」という、フランス語の第四文型を構成する特殊な動詞があり、例えば、①dépendre deとか②obéir à とか③douter deとか④resembler à とか⑤jouir de などがそうである。具体的には、cette feuille ressemble à un chapeau という文において、à un chapeau という部分は、動詞の間接目的語であり、この動詞は、この間接目的語を、ほとんどなくてはならないくらい強く要求している動詞なのだ。こうして作られる第4文型はフランス語においてポイントとなる。第4文型で使用する間接他動詞は「de」か「à」とセットで用いるわけだが、「de + 物」ならフランス語の難題である中性代名詞「en」や関係代名詞「dont」に代わり、「à + 物」なら中性代名詞「y」や関係代名詞「auquel」に代わるからだ。つまり、ここの理解が読解の精度に関わる。

  4. 異分析(metanalysis)という現象は、オットー・イェスペルセンが提唱した。例えば、現在はイアテュスを避けてmon ami(e)と書く名詞があるが、昔はm'amieと書いた。これとまったく同じメカニズムで、「君のおばさん」を昔はt'anteと書いた。これが現在のtante(=おばさんという意味の現代フランス語単語)の語源である。つまり、ta tante(君のおばさん)という表現は現代のフランス語では普通にありえることだが、これはta ta anteというふうにtaを二回言っていることになる。

  5. pour ce faire(それをするために)という表現が今も残っているが、このことから分かるのは、ceは今やêtreとの組み合わせ、もしくは関係代名詞でのみ使われるようになったが、昔は動詞の目的語として動詞の直前に出たりしていたということだ。ちなみに、昔のcelaの縮まった言い方がçaである。だから昔はcela est〜.という文が普通にあった。
  6. ラテン語のad(〜へ)とab(〜から)という二つの前置詞が、フランス語では混同されてàになってしまった。だから、剥奪系動詞déroberは、dérober quelque chose à quelqu'un という風に、「○○さんから」の部分が、à で表現されることになる。
  7. 「魚の切り身を食べた時は部分冠詞のduだが、魚をまるまる一匹食べたら、*J'ai mangé un poisson と言っていいんだよ」というフランス語教師がいるかもしれないが、このへんの事情はそんなに単純ではない。なぜなら、日本人がサンマを焼いて食べるときのように、たとえ魚をまるまる一匹食べた場合でも、J'ai mangé du poissonと言うからだ。この部分冠詞du不定冠詞unの違いというのは、部分と全体という区別でもあるが、「それに続く名詞のイメージが食べ物として量的に捉えられているか、生物としての統合を保って生きものとして捉えられているか」という区別でもあるからだ。それゆえ、焼かれた焼き魚まるまる一匹は、まるまる一匹であるが、生命ではなく食量である。それゆえ、胃の容量的にそんなことができるホモ・サピエンスはいないと思うが、牛を例えまるまる一匹食べた場合でも、J'ai mangé du bœufと言う。un bœuf とは言わない。
  8. ところで、J'aime le bœuf という表現は、「牛肉を食べるのが好きだ」という意味であり、J'aime le poisson は、「魚肉を食べるのが好きだ」という意味である。それゆえ、J'aime le chienと自己紹介で流暢に言ったアジア人風の青年は、「犬を殺して食べるのが好きな人」だと勘違いされる可能性がある。だから、アジア人が自己紹介で「犬が好きです」と言いたいなら、J'aime les chiens と言ったほうがいい。J'aime les bœufsだと、牧場にいるような牛たちの群れが好きですというようなイメージだし、J'aime les poissons だと水族館で魚たちを見ているようなイメージだ。
  9. フランス語の「鍵」という単語は辞書で引くと、正式に認可された正書法が2つある。1つめは、cléであり、もう1つは、clefである。どちらも「クレ」と読む。なぜ、こんなことになってしまったのかをこれから説明する。そもそも、「鍵たち」は、13世紀までの古フランス語でclefs(クレス)だったんだが、「sが続くfは読まないんだからスペルからも消しちゃえ」となって、でも消しちゃうとcles(クルス)になってしまって、eのあとに子音がひとつなので「エ」とは読めなくなって「ウ」と読むようになってしまったので、アクサンテギュをつけてclés(クレス)とした。ちなみに、13世紀までは古フランス語なので、複数形でもsを声に出して読むので、「クレ」ではなくて「クレス」になる。これを単数形に直したらcléになってしまって、clefsの単数形clefと合わせて、正書法が2つになってしまった。clefでもcléでもよくなってしまった。ちなみに、「sに続くfは読まなくていいんじゃね」っていう考え方は、bœufbœufsにおいても、œufœufs の関係においても現れているが、しかし、これらにおいては、「読まなくていいなら書かなくてもいいんじゃね」という鍵みてぇなことにはならなかったので、fは残ったのである。
  10. 「そんなこと一ミリもねぇよ」って言う表現は、nepasで挟んで否定をするフランス語とまったく同じ経緯をたどっている。ちなみに、「寸毫も悪意はない」などという表現は日本にも古来からあったので、nepasで否定というのは、フランス語のみの話ではまったくない。フランス語は、別に他の言語と違った特殊な否定の仕方をしているわけでは一ミリもない。しかも、過去の英語においては、I don't sayに相当する言葉をI ne seye not.と書いて、neとnotで動詞を挟むことによって表現していた時期もある(neとnaで挟む時期もあった)のだから、neとpasで挟むやつがそこまで不思議なわけでもない。
  11. Supérette という「小型スーパー」という単語がフランス語には存在する。しかし、そもそも、マルシェを大型にしたものがsupermarchéなので、それを小型にしたものがsupérette になるのは非常に面白い単語である。さらに面白いことに、フランスにはhypermarché という単語が存在しており、意味は「大型スーパー」である。
  12. 「いくつかの」と訳出することになっているフランス語の冠詞desは、不定冠詞ununeの複数形ということになっているらしいが、むしろ「部分冠詞の複数形」ということで理解してなんの問題もないし、そちらの方が整合性が高い。なぜなら、この冠詞が伝えたい名詞のイメージというのは、「数えられるものたちの集合の中の一部分」という意味だからである。そもそも、部分冠詞というのは、deという前置詞とleという定冠詞で作ったものであって、duはその縮約形であるし、部分冠詞の女性形de laはそれがそのまま残っている。だから、desという冠詞は、deという前置詞とlesという定冠詞複数形の縮約形であるから、部分冠詞の複数形という方が正確な理解である。されど、「不定冠詞の複数形」と言う呼び方にもメリットがあって、「まだ特定されていない複数のものというニュアンス」は込められる。しかし、desは、数えられるものどもとして捉えられた複数の個物の集合の一部分を指しているのだ。ただ、複数個物の集合の一部分は特定の個物ではないので、もし仮に「部分冠詞の複数形」という名称だったとしても、「いくつかの」と訳すことはできるはずだ。ちなみに、このdesは前置詞deの前で省略される。*Le ciel est plein de des(=de+les)étoiles.ではなくて、Le ciel est plein d'étoiles.となる。エトワールが星々という複数の個物の集合(les)として捉えられ、それが部分化(de)されたものが冠詞desである。ここまでの話をまとめておくと、通常、部分冠詞の複数形というのは無いことになっているが、しかし、部分冠詞の複数形desというのはありうる、と言うこともできて、というのも、数えられるものの全部をlesで表し、数えられるものの一部分をdesで表し、数えられるもののひとつをunで表し、数えられるもののひとつのうちの一部分をduで表し、数えられないものの全部をleで表し、数えられないものの一部をduで表し、数えられないものをあえてひとつのものとして捉えるときにはunで表すのだから、「数えられるものの一部分をdesで表す」といま私が言ったとき、それは部分冠詞の複数形のdesであるということもできるのではないだろうか、ということが私の言いたいことである。「部分冠詞の複数形」が本当に文法用語として残っているラテン語派(ロマンス語派)もあるのだから、この説はべつに擁護できるのである。
  13. 感嘆文というのは、以下のような作り方がある。①〜④までの文は全て、「なんて美しいんだ!」という意味である。①Qu'est-ce que c'est beau ! Comme c'est beau ! Que c'est beau ! Ce que c'est beau ! なぜ④のような感嘆文の作り方があるのかというと、ce queというのは、フランス語ではqueを間接疑問文にしたときにおける疑問詞はce queだからである。Ce qu'il est doué !なんかはこれである。さらに、以下のような作り方もある。⑤Est-il bête ! N'est-il pas bête ! これらは、どちらも「なんて愚かなのかしら!」という意味だが、なぜ否定形にしても感嘆文では意味が同じなのかというと、Vous n'auriez pas une pièce de deux euros ?(=2ユーロ紙幣をおもちではありませんか?)というときの否定形である。これは、「持ってますか?」と意味が同じである。このように、日本語でも否定形にして丁寧にする表現は存在する。
  14. フランス語の一般原理は、旧情報あるいは低価値・既知情報あるいは前提が前で新情報あるいは高価値・未知情報あるいは焦点が後ろということである。情報価値の高いもの=聞いたことのないようなものほど後ろに置くのである。これはたとえば、代名詞目的語を動詞前に置くのとかがこの原理の働き。前は軽く大雑把で、後ろは重く詳細にである。これを分析的という。逆は統合的である。だから、フランス語は枠組みをまず述べて、詳しいことは後から述べるのを好む。文の先頭の方で、言いたいことをまず述べるというよりも、文の先頭の方で、言いたいことの大枠をまず述べるというべき。その詳しい内容すなわち言いたいことは、後回しになるのだから。それゆえ、前提とは文のテーマ(主題)だと言うことができる。それに対して、遅れて相手に伝えられる焦点とは文の内容であると言うことができる。英語でもそうで、He put on itが誤文であり、He put it onにしなくてはならない理由というのは、何を指すかが自明なイットにもはや情報価値はなく、それを脱ぐ(off)のではなく着る(on)のだというところに情報価値があるからである。そして、価値の高いものは後ろに置かれる。
  15. フランス語でdesのうしろが複数形でありしかも前置形容詞が付いているとdeになるのは、直後の前置形容詞の情報価値を高めるため。
  16. フランス語は、受身文が非常に嫌いであって、積極的な表現にしたがるがゆえに、代名動詞や非人称構文が発達した。英語もそうで、作家ジョージ・オーウェルは、文章作法について「能動態で書ける文章は受動態で書くな」と指導している。それに対して、日本語では、目的語の無い自動詞すらもどんどん受動文にする(英語では他動詞でないと受身にできない)。例えば、雨に降られた、私は夫に死なれた、などの文がそうである。これは「被害受身」という特徴的な文である。日本人はある行為や現象は人間のコントロールを超えたところでなされると考える傾向が強いので、⑴日本語は自己を中心=主語にして、⑵ものを主語にはしないで、⑶自己を目的語にしないような受身文を作る。これが被害の受身である。被害の受け身の代表は、「雨に降られた」「妻に死なれた」などがそうである。「財布に落ちられました」は違うし、アクセプタブルですらない。
  17. Paul,il regarde Marie のような左方転移構文は、主題化であり、左方転移するからそれはすなわち旧情報化である。主題化とは旧情報化である。ポールは主題であり、形式である。ポールの実際にやった内容がそのあとに続くのだ。フランス語では、大枠(形式)内容という語順が好まれるのだ。
  18. Il est gentil,ton chien.はきみの犬を焦点化する右方転移構文であり、右方に転移されると情報価値を高める効果があるから感嘆文になる。左方転移文が解説的で、右方転移文をは感嘆的である。
  19. なぜ否定冠詞のdeが数量の否定文のみに使われるかというと、そこで不定冠詞を使うと、数量の肯定(少なくとも1コはあることになっちゃう。1コもないぜって否定したいのに!)となって、文内で矛盾するからである。不定冠詞には数量の肯定という意味の方向性があるのだ。
  20. 疑問文のエスクは、【セック主語プラス動詞構文の倒置】である。つまり、エスクの疑問文は、「それはすなわち○○ということだ。」という断定の強調文セックに戻せるということだ。ここがキモなのである。
  21. Peut-être le sait-il.彼は多分それを知っているという文の後半が倒置しているのは、倒置によって文の自律性・自足性・断定性を欠如させ、後半部が前半部の判断副詞に従属していることを表現しているからだ。このように、倒置はその文に【なにか足りていない感じ】を付与する効果がある。だから、疑問文に倒置が使われるのである。何か足りていない感じを埋めさせるインフォメーションギャップがコミュニケーションを起動させるからである。また、倒置を使えばいい仮定文も作れる。Le président fait-il une proposition,les journalistes le critiquent.は、「大統領が提案するや否や、記者たちは批判する」という文だが、これは、前半部が倒置によって、「まだ文が終わらないよ、これは断定ではないよ、仮定だよ、」というニュアンスが付与されている。接続詞を使わずに倒置によって仮定や条件を付けることができるのだ。
  22. 「春、日本はとても美しいです。」という文を、Au printemps から始めて、フランス語作文をすると、とてもまずいことになる。なぜなら、それを読んだフランス人は、夏と秋と冬の日本は汚らしいということ(もしくは美しいと対比される性質)を読み取るからである。日本における諸季節間の比較をするような文のフランス語化ならば、Au printemps から始めて問題はないのだが、他の季節との比較なしに、ただ春の日本を描写する場合、適策でない。しかし、このようにフランス人が理解してしまうことについての説明として、「フランス語では文頭におかれると強調されてしまうので、その強調の効果によって他との対比のニュアンスが生じてしまうのだよ。」と説明するその説明の仕方には疑問がある。文頭に出ることによって強調されるというよりはむしろ、会話の場における自明の前提となるようなフレームを構成すると言った方が適切ではないだろうか。つまり、なにかの図を浮かび上がらせるための地面となるのが文頭ではないだろうか。その場合「強調」という語は、図なのか地なのか、どちらを対象としているともいえてしまう。そもそも、「文頭=強調」というフランス語の教え方が明らかに偏っている。何が問題かというと、まず、「強調」という言葉それ自体が曖昧だからである。なんとなれば、古い情報を強調することだってあるのだから、強調と新情報であることとは別の概念だからであり、強調の方は意味の範囲が広すぎるからだ。(それゆえ、言語学は「強調構文」ではなく、「分裂文」と言っている。)では、「文頭=強調」ではないとすると、なんと言うべきなのか。フランス語の一般規則として、「新情報から始めたくないというコミュニケーション上の配慮から、何かを文頭に倒置をする」というのがある。日本語でも、「ドアに何がかかっていましたか?」という質問に対して、「張り紙がドアにかかっていました」と答えるのは、何かがおかしい。それよりはむしろ「ドアには張り紙がかかっていました」と答えるほうが日本語として自然なはずだ。日本語の場合は、コミュニケーションにおける旧情報を助詞の「は」で示す。ドアについて話していることは既に共通了解されているから、ドアという名詞に助詞の「は」をつけるのだ。同じく、フランス語でも、「ドアには何か貼られていましたか?」という問いには、sur la porte, un écriteau est accroché.「そのドアにはね、張り紙が貼ってあったんです。」というほうがいい。これは、①「昨日映画に行きました」と②「昨日は映画に行きました」の違いである。昨日について話していることが旧情報(=既に共通了解となっている会話のフレーム)の場合、名詞の昨日に「は」を付けるので、「昨日は何をしましたか?」に対する答えとして適切なのは明らかに②なのだ。フランス語ではどうなっているのかもっと詳しく見ていこう。例えば、je suis allé au cinéma hier.という文は、❶相手にとって全単語が新情報であることを伝えるような響きがある(つまり話題提供としての文章の先頭に来る一文の場合)か、もしくは、❷hierという単語だけが新情報であるような響きがある(つまり、「いつ映画に行きましたか?」という疑問文に対する答えの場合)。それに対して、Hier, je suis allé au cinéma.という文は、Hier以外のすべてが新情報であると伝えるような響きがある。これは、「昨日は何をしましたか?」という疑問文に対する答えであることを匂わせている。つまり、全てフランス語で書けば、je suis allé au cinéma hier.は、Quand êtes-vous allé au cinéma ?という問いに対する答えであるかのようであり、Hier, je suis allé au cinéma.というのは、Qu'est-ce que vous avez fait hier ?の答えであるかのようだ。他にも例を出そう。Qui a cassé ce verreに対して、*Paul a cassé ce verre はおかしい。「*」がついている文は、非文法的な文(=非文)である。C'est paul qui a cassé ce verre.と答えないとおかしいのだ。英語では新情報であることをストレス(=そこだけ強く発音すること)で示すので、who broke the vase ? に対して、Paul broke the vase で問題ない。英語の場合は非文にならないということだ。他の例を出そう。価値ある情報や新情報が事故の発生にある場合、Un accident de voiture est arrivé.ではなく、Il est arrivé un accident de voiture.のほうがコミュニケーション上の利便性が高い。後ろの重要情報を聞き入れやすくなる喋り方は明らかに後者だ。(というのも、突如発声される文頭の言葉は聞き入れるのが難しいからだ。)ところで、倒置によって初めて可能になる構文があるというモチベーションによって駆動されることで実際に生じてくる倒置もある。例えば、Au loin passe un train.がそれである。この倒置によって、Un train passe au loin.では不可能だった表現、すなわちAu loin ne passe qu'un train.が可能になっている。(もちろんseulやseulementを使えば倒置しなくても可能だったが、それだと肯定文になっている。否定文で「〜だけ」を言えるneとqueとで挟む構文は倒置しないと可能ではない。ちなみに電車を代名詞化して、*Au loin passe-t-il.とすると、これは非文である。)たとえば、「ポールしか来なかった」という文を、フランス語にしたいとき、「neとqueとで挟んで作れ」と言われたらどうするだろうか。Paul est venu.を変形して、「ポールだけが来た」と限定的に表現したいときには、Seulementを付けるよりも、Il n'y a que Paul qui soit venuとするのがよい。
  23. 言語において、タイムとテンスは一致しない。タイムは時間であり、テンスは時制である。ちなみにアスペクトというのもある。たとえば、Il la fini dans huit jours は、テンスは複合過去形でタイムは未来完了である。
  24. 現在は、書き言葉における単純過去形は話し言葉において複合過去形で代用する。しかし、単純過去形は昔は話し言葉でも使われていた。その頃、複合過去形は英語と同じように現在完了の意味で使われていた。そして、単純過去形は現在とは無関係な過去の出来事を表した。しかし、話し言葉においては、過去の出来事は現在につながっていることの方が多いので複合過去形の使用頻度がとても高くなって単純過去形を吸収してしまった。だって、ビンタされた刺激が今もほっぺたにジワジワ残っていたりするのが複合過去形なんだから、会話文ではむしろ現在に影響がある過去のことを話す方が絶対に多いじゃん。もし現在に残響が残ってないんだったら、なんでそれを今わざわざあえて話すのかわからなくなっちゃうよ。
  25. 英語と日本語には、厳密な意味での未来時制というのが存在しない。日本語の「だろう」や「つもりだ」は推量や意志の現在形表現であって、未来時制ではない。それに対して、フランス語の単純未来形は未来時制である。フランス語には未来時制というものが比較的厳密な意味で存在している。
  26. もともとラテン語から分化したjai la lettre écrite という文章があって、それがjai écrit la lettre となっていった。それゆえ、直接目的語が動詞の前に出ると、過去分詞は性数一致するというルールが今もあるのだ(Je lai écrite)。これは、もともとの形Jai la lettre écrite では性数一致してたからである。
  27. 話し手はすべての文を、それが表現する事柄をどう捉えているかを決めてから出ないと発することができない。もしそのような態度決定が不定の場合ですら不定法という叙法を取らざるを得ない。これは冠詞の構造とよく似ている。冠詞は、話し手がその名詞が表す事柄をどう捉えるかを表す標識だからである。それがない場合は無冠詞になるが、英語と違ってフランス語でそんなことはほとんどない。その文バージョンが叙法である。直説法は現実であること、条件法は想像であること、接続法は非現実・非確実・未現実であること、あるいは、「事実ではないと思えるほど嬉しかったり悲しかったりする異常性、予想の裏切り」を表す標識である。想像と非現実のなにが違うのかと思われるから、これから説明する。条件法は知的であるが、接続法は感情的である。なぜなら、条件法は、ありえないという想定のうえで、しかし条件が整えばどうなるかを論理的に述べるが、接続法は、ありえないし、実現しないでほしいという感情的・主観的なニュアンスがあるからだ。
  28. 「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」という文章は、日本語の誤りだといって指摘されることがあるが、過去形が心的距離の記号となって丁寧語に使われるのは自然なことではないだろうか。フランス語の半過去だって丁寧語に使われることがある。
  29. ローマ人が入って来る前にガリアにいたガリア人とはケルト人のことである。ローマ人たちはケルト文化を押しのけた。
  30. そのローマ人たちを押しのけてガリアに入ってきたゲルマン民族のクローヴィスを始めとするフランク人は、なぜかラテン語文化に寄り添って、自分たちのゲルマン文化を逆に引っ込めた。ローマ人は自分たちの文化をケルト人=ガリア人に押し付けたけど、フランク人はそうじゃなかった。だから、フランス語は結構ラテン語に似ているのである。
  31. ケルト20進法である。だから、フランス語の数は20進法のところがある。
  32. 喉音のRはフランスの上流階級における18世紀の流行に過ぎなかった。だから南仏ではむしろ未だに巻き舌っぽくなる。
  33. ストレスアクセントとピッチアクセントは違う。
  34. フランス語発音には三子音の法則というのがある。
  35. 日本語の「春雨」はリエゾンであるというと怒る人がいるかもしれないが、リエゾンであると私は言いたい。
  36. 非生物と外来語は、ラテン語においてはかつて中性名詞だった。
  37. Une jeune personne は女性だが、une personne jeune は若い人になる場合が多い。後置すると客観的になる。
  38. ラテン語とフランス語はオで終わると男性で、ラテン語はアで終わると女性。
  39. ミュゼ(美術館)とアンサンディ(火事)は、男性名詞である。eで終わるけどね。
  40. フランス語においてくだものの名前はほとんど女性名詞。しかし、木の名前は男性名詞である。
  41. LOdile mystérieuse はミステリアスなときのオディールだが、la mystérieuse Odileはあのミステリアスなオディールになる。
  42. 魚の切り身のことを英語では無冠詞でフィッシュという。フランス語では部分冠詞を使う。
  43. フランス語では後置修飾の形容詞は、実は品質形容詞のみで、他は全て前置修飾である。
  44. 性数一致があると、「賢い少女と少年」という日本語文のような解釈の混乱を招くことがない。だからとても便利である。
  45. アラビア語ヘブライ語ケルト語は動詞から始まる。目的語で始まる言語はスターウォーズ映画のみとされてきたが、最近ニューギニアで見つかった。
  46. 日本語における助詞とは言語学でいう後置詞のことである。
  47. 疑問文には全体疑問文と特殊疑問文しかない。前者は文の真偽を聞いていて、後者は文の一部を埋めさせようとしている。
  48. Vatuに対する命令文なのに、アルファベットのエス(s)が脱落している。ちなみに、これで行為を促したり、なだめたりする。おそらく命令文で主語がないため、活用を主語に一致させる意識が失われたためにエスが落ちたのだ。
  49. Il la fini dans huit jours は、テンスは複合過去形でタイムは未来完了である。