aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

私の世界観

【私の世界観】

 

【現れとは何か】

 「現れ」とは、人と世界との相互作用のことであり、身体を備えた<私>が、この現れの中に観点を取ることで、そこに価値と意味とを見出す。<私>が現れの中に価値と意味とを見出すとは、即ち、時間や空間などをその代表とするような、もろもろの秩序を切り出すということである。まさにこのことでもって、現実性の概念が準備される。そして、この現れの現実性の概念こそが、存在の概念を形成し、存在の概念にその中身を充填する。すべての現れは、前景化しているものから後景に退いているものまで、多かれ少なかれ、すべて意識作用の対象となっており、だから意識作用の対象にあたるものとは何かと言えば、要するに、<私>への現在の現れの総体のことである。ところで、<私>が意識する作用それ自体も<私>に現れる様々な現れのうちのひとつとなりうるのである。この、「意識作用自体に意識作用が向かうこと」を「反省」という。そして、現れる意識作用のなかでも、もっとも現実的な意識作用が、固有身体へと向かう意識作用である。というのも、現れるすべての意識作用は「身体の状態がどのようであるか」という固有身体に向かう意識作用を常に同時にその一部に含みながら、作用するからである。例えば、目の前の茶碗。これに意識作用が向かう時、この茶碗は硬く冷たいと意識される。この時、意識の作用は茶碗に向かっている。しかし同時に、茶碗へ向かう意識作用にはもう既に、茶碗を触る固有身体への意識作用が含まれている。何かへ向かうあらゆる意識作用は、常に同時に固有身体へと向かう意識作用を引き連れてでなければ作用できないのだ。

 

(0)【現象主義】

 なるほど真に存在の名に値するものは意識の外側にあって経験されぬ物自体ではなく、時間的な現象以外にはないのだから、現象主義を取るべきである。しかし、我々の探求は、まずは知覚と行為から始めなければならない。透明な意識が出てくるのは幾重にも基本的秩序の捨象を経たその最後においてであって、哲学的探求の最初においてであってはならないのだ。我々は、我々が生きる日常的な経験から始めなければならない。その日常的な経験とは知覚レベルの経験のことである。知覚レベルに身体運動によって統合された頑強な秩序があるのは当然として、知覚と区別された言表以前の、前注意レベルの感覚にさえ、秩序がある。空間規定もそれを使った時間規定も秩序である。この前意識レベルにおいてさえ、感覚器官固有の運動によって既に切り出され終わった秩序があり、本当にあるもの(=実在)としての物どもを、さらに下支えして、既に確保しているのだ。人間が生物である限り、生物は秩序を切り出し、意味を見出し続ける。生物は操作可能で反復可能であるものとして、輪郭を切り出し、境界線を引き、明晰さを欲し、切り出すこと自体に快楽を見出すのである。そしてこのような、淡さを欠いた強固な秩序に支えられてあるものは、「現象」ではなくむしろ「物」と呼ばれるべきなのである。

 

(1)【透明な意識への直接与件としての現象】

 感覚レベルでの根本的な秩序、たとえば空間の秩序や時間の秩序の切り出しのさらにその手前に、概念としてのみ想定できる透明で非身体的な意識の次元を措定し、そこに与えられる直接与件として、①全てが一回きりの印象だけで満たされ、いかなる同一性の措定にも先立つのにもかかわらず常なる「変動」のただなかにあると言いうるような純粋感覚や、②純粋経験、あるいは③主客身分の現れ、④誰への現れでもない現れと意識主体との美的一体化(=直観)といったことを想定することはできるのだが、その次元に上記の全ての秩序を還元することはできない。それらは我々の通常の在り方や現に生きているということを捨象したあとで想定される実在性を欠いたものに過ぎないからである。

 

(2)【手つかずの自然】

 認識には余剰あるいは外部があるはずだが、これは少なくとも仮説として認められるに過ぎない。ただしこのような認識の外部にあるものを我々がそのまま感覚・知覚するということはありえず、またそれは無意味なのであって、無意味ならば、端的にこのような「物自体」なるものは、無いとさえ言いうる。しかし、そのような人間が絶滅した後も残るのでなければならないような何ものかを、「無ではない何か」と呼んで想像することはできるだろう。しかしそれはあくまでも二番手として、後から想像されたものに過ぎない。だからこれを「実在」と呼ぶのはおかしいのである。

 

(3)【概念の非実在

 概念は時間的な限定や空間的な限定をもたない抽象的なものである。よって、概念は実在しない。

 

(4)【概念の存立】

 概念は存立する。例えば「トンカチを持ってきて」と言われて、「どの会社でいつ作られたどのトンカチなのか」は聞かずに、私は「something to nail」(たとえば石でもいい)を持ってくることができる。その意味で概念は日常的であり、実効的であり、現実的である。時間的な変化のただ中にあっても一定の安定性を保って超時間的に存続していく、人間が切り出した諸秩序は、概念の別名でもある。


(5)【概念の由来】

 「概念が存立する」とは、主体が生得的に備えて生まれてくる諸概念の範型のような概念(能動ー受動、原因ー結果、実体ー属性、生物ー無生物、動くものー動かぬもの、直接ー間接、コントロール項ー被コントロール項など)のうち、主体が成長していく過程で主体の関心に応じてその中身(例えば、「乳を出す動くもの」としての「母」)が細かく分類されていき、新たに切り出され、新たに名づけられて、世界の整理の仕方が増えていくことである。そのとき言葉は大きな役割を果たす。


(6)【知覚】

 主体の関心に応じて切り出さていく諸概念を使って、既に整理されおわった経験を我々はしている。というのも、たとえば知覚には既にして空間規定があるし、注意が向く項にも既に生得的な傾向性がある。我々は概念を使って知覚する。したがって、価値的な整理がされ終わったものが経験として我々に提示されているのであり、そのことを指して我々はもっぱら「経験」と呼んでいる。だから、「現象をそのままで経験する」ためには、「経験」の意味をずっと広く拡張せねばならない。それが純粋経験である。純粋経験は時間的な現象全体の経験なのであり、通常の経験とは似ても似つかない。知覚の対象は、あくまでも実体としての物体である。

 

(7)【実体をはじめとする概念の範型としての身体】

実体は身体運動の対項である。実体を操作することによって間接的に操作できるものが属性である。さらにその諸実体の運動は、身体運動を範型にして因果的に整理される。さらに、心の概念は、身体を動かす際の「「力」とその「抵抗」との同時的現れ」としての「実効感」がまずあって、そのうちの「力」の方として、切り出される。

 

(8)【経験の構造の探究】

経験論を徹底することで経験論から脱するのがビラン哲学である。ビランは、経験を可能にする構造さえも、経験的な仕方で反省しようとする。経験の中から経験の構造を取り出すその仕方の名前が、「反省的抽象」である。経験を可能にする生得的な能力の発揮が、全ての経験には既に論理的に前提されているということを、思弁的にではなく経験の中で確認しようとするのがビランの形而上学である。それに対して松永は、ビランが反省的抽象によって経験から取り出した経験の構造を、さらに「エレメント」という時間的変化を許容する非必然的な条件へと溶かし直す。