aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

クワイン、デイヴィドソン、オースティン

クワイン

概念枠相対主義を批判した概念枠絶対主義者。内在的な全体論者。感覚と経験を重視した人。カルナップの弟子である。


【経験主義の2つのドグマ】

【ドグマ①要素還元主義】

感覚的経験によって真偽の判定を受けるのは個々の命題ではなく数多くの命題の集合全体である。外的世界についての我々の言明は個々別々にではなく一個の全体として感覚的経験の裁きに直面する。感覚的経験の裁きを受けるのは個々の命題ではなく数々の命題の全体である。

【ドグマ②分析性と総合性の峻別】

数学や論理学の分析命題とされてきたものの改訂の可能性もある。相対性理論を真とすることは、ユークリッド幾何学に修正をうながした。


【概念枠相対主義批判】

N.R.ハンソンによる「観察の理論負荷性論」や、T.S.クーンの「パラダイム間共約不可能論」をクワインは批判した。彼らは感覚的経験という証拠の役割を軽視した認識論的ニヒリズムだというのである。そもそも、概念枠相対論者たちはどの立場から相対性を語っているのだろうか。つまり、もし仮に相対性の真理を主張するのであればそれは自己論駁であるし、もし逆に相対性の主張自体も相対的であるとするならば、今度は逆に自己言及的な無限後退に陥る。クワインは概念枠相対主義に一貫して批判的であり、「我々の知的活動を可能にしている枠組みの外側に出るような<宇宙的亡命>は存在しない」と彼は力説している。クワイン曰く、我々の命題体系ないし信念体系の全体というのは、港の見えない海上に浮かぶ船のようなものであり、この船はドックに入って船の外から船体を修理してもらうようなことはできず、我々は、大海原で内側から船を修理しつつ航海を続けなければならないような、そうした船乗りなのである。これを<ノイラートの船>の比喩という。このような比喩をつかって、クワインは概念枠相対主義を否定し続けた。この船の乗組員たちにとって船の最重要な骨組みとなるような構造材、例えば<竜骨>はそう簡単に取り替えるべきではないが、しかしそれを取り替えなければ乗り越えられないような嵐が来たら、取り替えることもできる。そういう竜骨のような非常に大切な命題として論理学や数学の命題を捉えることによって、分析性と総合性の区別をクワインは意図的に曖昧にさせたのである。そして、大海原で我々は船から降りることはできない。それは宇宙的亡命だからである。


ドナルド・デイヴィドソン

デイヴィドソンクワインを批判している。具体的にはクワインの「感覚的経験の裁き論」を批判した。クワインは証拠の役割を軽視する理論を認識論的ニヒリズムとして批判して全体論を唱えた。しかし、感覚的経験の裁きという契機をクワインが要請する限り、クワインは知識の獲得=信念の正当化に関するある深刻なジレンマを抱えているとデイヴィドソンは指摘する。印象、刺激、センスデータ、感覚の多様などは従来、所与と呼ばれてきた。しかし、例えば、「このテーブルは白い」という命題が正しいことの証拠として白さの感覚的経験、つまり所与がその証拠だという場合に、その白さの感覚(所与)は命題的内容を持つのだろうか。もし、命題的内容を持たないのであれば、「このテーブルは白い」という命題を正当化することは不可能である。もし、命題的内容を持つのであれば、その命題にも別の正当化が必要である。つまり、「もしも所与が単なる原因なら、それはその結果として生じる信念を正当化しない。他方、所与がなんらかの情報をもたらすなら、その情報は嘘である可能性がある。これは、W.S.セラーズの<所与の神話の崩壊論>とよく似ている。感覚的経験はそれだけでは、ある信念を正当化する証拠にはなりえないのである。「正当化された真なる信念(Justified True Belief)」として知識が伝統的に定義されてきたことを考えると、「感覚がそれだけでは信念を正当化する証拠にはなりえない」ということを彼が言っていることの意味は分かり易い。ただし、デイヴィドソンは概念枠相対主義を批判した概念枠絶対主義者のクワインを批判したが、だからといってデイヴィドソンは概念枠相対主義者だということではなく、概念枠と内容の二元論それ自体の批判者なのである。デイヴィドソンによれば概念枠とは個々の言語を超えた言語それ自体を指す。そういう概念枠は存在しないと彼は言っているのである。「複数の概念枠が存在するということが間違いだからといって、言語を話す全ての人類は共通の概念枠を共有するという素晴らしいニュースを公表するのが正しいということにはならない。」このようにデイヴィドソンは、枠組みと内容の二元論それ自体を批判した。デイヴィドソンは、この枠組みと内容の二元論こそが現代の経験論の第3のドグマだというのだ。


【J.L.オースティン】

紅茶のプロの鑑定人に対して、素人が次のように言ったらしい。

 

「私にはこれらふたつの銘柄を区別できた試しが一度もないので、このふたつの銘柄に差異は存在しません。」

 

すると、鑑定士は次のように応答した。

 

「あなたにこれらふたつの銘柄の区別できないからといって、これらふたつの銘柄が同じだということになるはずがない。」

 

この話の構造と同様に、もし、蜃気楼の水たまりと実在する水たまりとが区別できないからといって、そのふたつが同じだということになるはずはない。

 

それなのに、数多くの哲学者たちは、この錯覚と実物の区別ができないということを以って、我々が錯覚を見ているときと実物を見ているときで、見ているものは同じだ、つまり同じセンスデータなのだという錯覚論法を使ってきた。この錯覚論法を批判したのがJ.L.オースティンである。

 

論理学の私的メモ


【論理学用語の私的メモ】


【論理学の基本略語】

     自然演繹   推件計算
古典論理   NK     LK
直観主義論理 NJ     LJ


【略語の導入】
論理学においてまず覚えたほうがいいのは、ゲンツェンの業績と用語法である。ゲンツェンの主要な業績は、自然演繹であるNK, NJとシークエント計算であるLK, LJ と呼ばれる証明論の体系の確立である。NK,LK は古典論理を扱い、NJ, LJ は直観主義論理を扱う。アルファベットの順番でNK,LK(古典論理)よりも排中律がないせいでミニマルなのがNJ,LJ(直観主義論理)だという説明は覚えやすいが、実際には、LK(Logistischer Klassischer Kalkül)、NK (Natürlicher Klassischer Kalkül)、LJ (Logistischer Intuitionistischer Kalkül)、NJ (Natürlicher Intuitionistischer Kalkül)というのが正式名称であり、なぜ直観主義をJと表現するかといえば、ドイツ文字ではJとIの区別がつかないのである。シークエント計算に登場する頭文字(acronym)のLK(エルケー、エルカー) のLは、ドイツ語の Logischer Kalkül(論理計算)に由来する。


【自然演繹と推件計算】
自然演繹の体系は、「自然」の名の通り実際の人間の推論過程に近い見やすくて分かりやすい体系である。一方、シークエント計算(推件計算)は、最小限の公理 A→A と、構造規則および論理結合子に関する推論規則からなる。ゲンツェンはこのLK(古典論理のシークエント計算)において「カット除去定理 」という基本定理を証明した。 この定理は、ある定理を導く論理の道筋には、その定理自身と公理より複雑なものは現れないようにできることを示し、 LK の完全性の証明に使われた。 ゲンツェンには他に純粋算術の無矛盾性証明などの業績がある。 「すべての」を意味する記号∀(ターンエー)を使い始めたのもゲンツェンである。ざっくりいうと、自然演繹は人間が書いた証明であり推件計算のほうはコンピュータがそれを処理するコードのようだといわれる。閉じた証明しか許さないのが自然演繹で開いた証明もかけるのが推件計算。


【LK】
LKというシークエント計算は1934年、ゲルハルト・ゲンツェンが自然演繹を研究する道具として生み出した。その後、論理導出を行うのに非常に有効であることから普及した。LK(エルケー、エルカー) という名称はドイツ語の Logischer Kalkül(論理計算)に由来する。


直観主義論理】
無限に関する直観が無いような世界が直観主義論理の世界である。そしてそれに従って展開される数学の世界が構成的・建設的数学の世界である。直観主義論理には否認がない。直観主義論理にはただ主張とその根拠しかない。だから直観主義論理は計算機とやっていることが同じだと言える。


【継続(continuation)の概念】
ジングル・スレッド(single thread)でスタンド・アローンなコンピューテイションに特徴を持つ直観主義論理に定位したまま、「継続continuation」概念を使うことによって古典論理の複雑さをそのままに直観主義論理に翻訳できることが知られているが、非常に難しい手続きがある。


言語哲学の2派】
言語哲学にはふたつの派閥がある。イギリスのマイケル・ダメットは、全ての主張を1から構成して独りで作り上げていくボトムアップ型の直観主義論理重視派であり、アメリカのクワインとデイヴィッドソンとパースは、探求の共同体における議論やコミュニケーション、世界像づくりといったものを重視する古典論理派である。古典論理派は、一般にクリプキ・セマンティクスをはじめとする様相概念と相性がとても悪い。人間はあらかじめたくさんの信念を持っていて、それを適宜修正しながら生きていくのであって、自明なものから積み上げて行き、1から主張を構成しようなどという直観主義は夢物語だというのが古典論理の立場である。直観主義論理のシークエント計算に登場するのは、自明な推論規則と体系全体を整える構造規則くらいしかないので「主張assertion」だけなわけだが、古典論理には、「主張」のほかに「否認denial」を持っている。


【カリー=ハワード同型対応】
カリー=ハワード同型対応をみつけたハスケル・カリーの名前を取ったハスケルというプログラミング言語がある。これは、直観主義論理がやっていう証明とコンピューターがやっているλ計算が証明の集まりとしての命題観を取ると対応するという考え方である。


【推件計算という訳語】
推件計算はシークエント・カルキュラスにあてられた訳語である。


【図式的整理】
最小述語論理+矛盾律=直観主義論理。直観主義論理+排中律=古典論理直観主義論理+排中律より弱いルール(=排中律を使ってその命題を証明できるけどその命題から排中律を証明できないようなもの、具体的には「前提なしでA→BまたはB→Aが常に成り立つ」を足す)=ゲーデル論理。ゲーデル論理+幾つかのルール=古典論理


ゲーデル論理】
ゲーデル論理は「A→BまたはB→A」(プレ・リニアリティ(前線型性))を直観主義論理にプラスしたもの。前線形性の別名が「アミダアクシオム」。直観主義論理の推件計算に対応するゲーデル論理の推件計算のことをハイパー推件計算という。


【意味論とモデル】
ファジー論理の一種であるゲーデル論理では排中律が証明できないわけだが、それはどうやって証明するのかというと意味論でモデルを使う。数学の絶対値記号みたいなやつを論理式に使うのが意味論の「モデル」である。排中律が全てのモデルで真理値1になるわけではないことが示せればいい。そうすればゲーデル論理では排中律が証明できないということを証明できる。つまり、排中律があればプレリニアリティが証明できるけど、プレリニアリティがある世界で排中律が正しくないことはあるのだ。それが直観主義論理よりも強く古典論理よりも弱いようなゲーデル論理の世界である。


【論理体系】
論理のシステムは論理結合子の導入規則と除去規則と矛盾律と、その他の略記法などをまとめた構造規則から出来ている。


【いろいろな論理】
古典論理直観主義論理のほかに、「オペレーター」を足して古典論理を拡張した様相論理やファジー論理(ウカシェヴィッチの無限値述語論理)や線型論理(リニアロジック)や古典論理の部分論理であるゲーデル論理や、矛盾許容論理がある。


【最小論理】
最小述語論理の統語論は簡単だが、意味論は難解であることが知られている。


【三値論理】
ヤン・ウカシェヴィッチの三値論理。真偽がまだ決まっていないという値がある。ブラウアーは最初、自らが考案した直観主義論理は三値論理なのではないかと思っていたが、ゲーデルゲーデル論理の3値版を使ってそうではないことを証明した。


【無限値論理】
無限値論理はダメットが提唱したもので、今ではファジー論理の一種とされている。普通命題は真か偽かの2つの値しか取れないが0から1の無限個の実数の値を取れるのである。ファジー論理の中で一番有名なのがウカシェヴィッチの無限値述語論理である。


【ボトム】
最小述語論理において矛盾命題はボトムという。ボトムは矛盾を表す特殊な命題である。


【否定は略記】
最小述語論理においてはnotは「Aならばボトム」の略記として導入される。たとえば、Aかつnot Aというのは、Aかつ「Aならばボトム」のことであり、Aかつ「Aならばボトム」はボトムである。よって、notはボトムがあればAならばボトムの略記として定義できる。


矛盾律とはなにか。】
矛盾という前提からは任意の命題を勝手に導出していい(なんでもあり)というのが矛盾律。(法律の世界ではプライバシーの権利と知る権利が矛盾したからといってなんでもありにはならないが、数学の世界では矛盾を前提になんでも導出できる。)


【ト記号】
ト記号の右導入規則と左導入規則。ト記号の右導入規則は自然演繹の導入規則。ト記号の左導入規則は自然演繹の除去規則。


【結論は基本的にはひとつ】
直観主義論理の推件計算のト記号の右側の論理式の数は基本ひとつ。古典論理の場合には2つとかになる。


【略記法ガンマ】
Γ(ガンマ)を推件計算の中で使う場合、その意味は、「全部書くわけには行かないとにかく他にもたくさんの前提がある」という意味になる。


排中律の異様さ】
直観主義排中律が足されて古典論理と化したとき、何が足されてしまったことになるのか。それは3つのものの関係である。①orの新しい導入方法。そしてnotすなわち「Aならば②ボトム③」。この①と②と③の新しい関係を強制的に前提なしで結論してしまえるということが排中律の意味である。排中律は非構成的な原理のひとつである。選択公理も非構成的である。


【proposition as data types】
命題があってその証明があるのだけれども、命題とはその命題の証明の集まりであるという強烈な主張がある。つまり命題というのは証明の集まりであるという考え方の導入。直観主義論理の計算機科学的な意味は、proposition as data typesつまり、「データ型としての命題」観を導入すれば明らかにすることができて、それはすなわち「証明の集まりとしての命題」観を導入することである。命題Aは、証明a1と証明a2と証明a3らの集合であるという考え方。


ラッセルのパラドクス】
素朴集合論古典論理や縮約規則のある論理では、「ある性質を満たすものを集めてきたものは集合として存在を認める」ので、「自分自身をメンバーとして含まないような集合」というものについての集合を認めてしまうと古典論理には矛盾が導かれることが知られている(ラッセルのパラドックス)。縮約規則のない論理では、包括原理という集合の存在保証原理は矛盾を導かない。


【ラムダ記法】
この変数には後で何らかの入力が入りますよということを予告するために作られたのがλ記法である。たとえば、恒等写像(identity mapping, identity function)の場合にはλx.xと表記する。xに何らかの入力がこれからあり、その結果がそのまま出力されることをこれは表現している。ラムダを使ってならばを定義することができそれをラムダ抽象という。


【ターミネシーションする】
ずっと計算して行きそれ以上計算できないところまでいくことをターミネシーションするという。


【ラムダ記法の凄さ】
ラムダ記法を使って関数の代入を表現すると、自然数の全ての計算規則をカバーできることが知られている。


直観主義論理の歴史的ねじれ】
もともと「人間的な証明」とか「有限な人間の認識の限界内での数学」というモチベーションがあって、それが非属人的なコンピュータと直観主義論理を生み出したというのが皮肉である。古典論理直観主義論理に比べて強い仮定を置いているのだ。


ルベーグ積分
量子力学の基礎になっている積分。無限集合の有限和(と有限の共通部分)を取るのを無限回繰り返して作る実数の無限集合の集合族をつくるとルベーグ積分できる。無限集合を無限個和集合とって、その共通部分を無限個取るのを無限回繰り返すのだ。それは完全に有限な人間の認識を超えているが、量子力学の数学的基礎のひとつなのだ。これを認めたくなかったのがフランスの19世期末の直観主義論理の数学者たちだったのだ。


【ZFC】
ツェルメロ–フレンケルの公理系(ZF) に選択公理 (C) を加えた公理系をZFCと呼ぶ。


【有限の立場】
ヒルベルトの数学的立場は有限の立場で、それはゲーデル不完全性定理の証明において岩波文庫のように延々と再帰関数を定義しながら進めるもの。それに対してモデル論をつかってゲーデル不完全性定理の証明をする場合には証明はとても短くなるのだが、それは有限の立場で数学をやろうという立場ではない。しかも、ヒルベルトの有限の立場とブラウアーの直観主義は異なりヒルベルトとブラウアーは排中律を認めるかどうかをめぐって論争もしている。ヒルベルトの立場は今の言葉でいうプリミティブ・リカーシヴ・アリスメティック(PRA:原始再帰関数しか証明で認めない立場)に相当すると言われている。ゲンツェンはヒルベルトの有限の立場の発展系である。


ゲーデル論理】
古典論理の推件計算の部分体系のことをゲーデル論理という。


デュエムクワインテーゼ】
ピエール・デュエムは物理学理論について研究する中で、物理学的観察には実験装置についての理論などさまざまな補助仮説が必要であるため、物理学理論のみから何らかの観察予測が導き出されることはなく、したがってそうした理論が文字通りに反証されることはないことに気づいた(例:マコーネルのプラナリア実験)。一見反証されたように見える仮説も、補助仮説のアド・ホックな修正で救うことができる。そうした反証が存在しないというのがデュエムのテーゼである。たとえば、周転円を増やすだけで天動説は延命できた。つまり、当時の科学者たちは、自前の理論の微調整をするだけで計算結果が合うのであれば、根本的な仮定を撤回するのは嫌だったのである。つまり、ローカルな変化で済むならばそのほうが良くて、ドラスティックな変化を当時の科学者は嫌ったのである。ただ、その周転円を増やしていけばいくほど、天動説のパラダイムには「ひずみ」というかボロが蓄積してしまったのだが。


【パースの法則:((A→B)→A)→A】
パースの法則は哲学者であり論理学者であるチャールズ・サンダース・パースにちなむ論理学における法則である。彼の最初の命題論理の公理化において、この法則を公理に採用した。この公理は、「含意」と呼ばれるただひとつの結合子を持つ体系における排中律であると考えることもできる。パースの法則の証明においては排中律矛盾律をどちらもアクロバットに使って証明するため非常に異様な証明図をつくることになる。


【難しい問題】
「Aを主張すること」と「Aを否認できないこと」の違いはなにか。また、「Aの否定を証明すること」と「Aを否認すること」の違いはなにか。


古典論理では同値だが直観主義論理では同値ではないこと】
「AならばB」と「not AまたはB」は、古典論理では同値だが直観主義論理では同値ではない。


【三大構造規則】
代表的な構造規則は、①エクスチェンジ、②ウィークニング、③コントラクションの3つである。直観主義論理には結論がひとつなのでシークエント計算においてト記号の右に導入するような構造規則はないが、古典論理では結論が複数ありうるので、シークエント計算においてト記号の右に導入するような構造規則がある。


【ウィークニングの意味】
ウィークニングというのは、推論において前提を強化したり結論を弱化させても推論の妥当性自体は変わらないということをいう。例えば、「この書類は君が書いたのだろう」と言われて本当は全部自分が書いているのに「この部分は私が書きました」と答える場合には前提を強化している。それに対して、本当は自分が全部書いたのに「私か先輩のどちらかが書きました」と答える場合には結論を弱化させていることになる。


【グリベンコの定理】
古典論理における「否認」の否定を「主張」として扱うとか、直観主義論理で二重否定をプラスしたりなどして直観主義論理において古典論理の真似事をできるようにする定理があり、そのひとつがグリベンコの定理である。


【論理学全体をざっくり概観】
証明とは公理から推論規則(モーダスポネンス、背理法など)をつかって定理を導くことである。数学者の仕事は定理の証明である。ではその証明について考えているのが数理論理学である。あたりまえだからこそ公理なのであり、あたりまえでなかったら証明しないといけない。あたりまえすぎて証明できないこと、たとえば、【ペアノ算術】の公理は、「どんな自然数にも次の自然数が存在する」である。

ラッセルは、『数学は論理学に帰着する』と主張していた人だ。なぜなら、数学を公理化できると考えていたからである。つまり、公理と推論規則から数学全体を導けると考えていたということであり、ラッセルはなにが数学全体の公理かを考えていたひとだ。

数理論理学の世界には大きく2つの方法がある。ひとつは、真理関数によってその命題が正しいか間違っているかを判定していく方法であり、もう1つは公理から出発して推論規則によって式を変形し、証明をしていく方法である。

前者の真理関数の方法は意味論(セマンティクス)といい、後者の形式証明の方法は構文論(シンタクス)という。日常的には、文法が間違っていても意味が通じることはあるし、文法的にはオーケーでも意味が通らないこともある。しかし数学の世界ではそんなことないと思われる。しかし、意味が通っても文法的には正しくないみたいなことは数学の世界でも起こる。どういうことか。

そもそもラッセルとホワイトヘッドペアノの公理化を忠実に実行しようとした。

彼らの立場では、数学基礎論とは数理論理学と集合論のことで、数は集合によって定義され、集合は論理学で定義されなければならない。

しかし数学全体を論理学に帰着させようという野望はゲーデルによって挫折したとされている。自然数の範囲の算数ができるようなペアノ算術というシステムにおいては、正しいのに証明できないことがあるのである。つまり、【正しいという概念と証明できるという概念がちょっとだけズレている】のである。

真であることと証明できることは微妙にちがうらしい。ゲーデルの第一不完全性定理は、真でも証明できないことがある。ゲーデルの第二不完全性定理は、システム内で自らの整合性は証明できないと主張している。真偽の範囲と、証明可能か否かの範囲は微妙にずれている。

計算機科学では、証明できない文とは計算がいつまでも終わらないプログラムのこと、とも言える。「プログラムがバグっていないかどうかを判定するようなプログラムが作れない」と言い換えてもいいらしい。

公理から始めて推論規則を使って定義を紡ぎ出していくことを【証明】と言って、なにを公理(証明がいらないほどあたりまえなこと)として、何を推論規則(仮言三段論法やモーダスポネンスや背理法など)とするかは流儀の問題であるとされる。

例えば、公理を増やして推論規則を少なくするのが【ヒルベルト流】で、公理を最小限にして推論規則を多くするのが【ゲンツェン流】である。この流儀は、具体的に証明をやるときにはゲンツェン流がよくて、理論全体の枠組みを論ずるときにはヒルベルト流がいいとされる。

ヒルベルトの23の未解決問題のひとつ「算術が矛盾しないこと」について、ゲーデルが「算術を含むシステムは、自ら矛盾しないことを証明できない」ことを証明した。しかし1936年にゲンツェンが「システム外からだったら算術が矛盾しないこと」を証明している。(ただし問題を設定したヒルベルト本人は、自然数ではなく実数も扱えるような算術を念頭に置いていたらしい。)

ヒルベルトの1問目は連続体仮説であり、2問目が算術(ペアノの公理系)の無矛盾性の証明で、6問目が物理学の公理化で、8問目はリーマン予想である。全23問中、6問目と8問目と12問目と16問目と23問目を除いた18問は何らかの形で既に解決している。

連続体仮説とは可算無限のすぐ次が実数無限であるという仮説である。つまり、可算無限と実数無限の間の濃度は存在しないということ。つまり、「アレフ・ノート=アレフ」という仮説である。

現在のツェルメロ=フレンケル(ZF)の公理系では、1940年にゲーデル連続体仮説の否定は証明できないことを証明し、1963年にポール・コーエンが連続体仮説はそもそも証明できないことを証明した。つまり、連続体仮説は証明することも反証することも現在の標準的な公理化された集合論においてはできない。

ペアノの公理系とはなにか。自然数の範囲では足し算や掛け算が含まれるが、負の数は考えていないので自由に引き算ができない。さらに、有理数=分数を考えていないので、自由に割り算もできない。自然数における算数というのがペアノの公理系である。

※ダフィット・ヒルベルトの【無限ホテル】は物理学的・建築学的・経営学的には不可能だが、数学的には可能な思考実験であり、非常に有名。

※ちなみに、「プレスバーガー算術」は、足し算だけしかできない弱いシステムだが、ゲーデル不完全性定理の適用を受けつけないので、完全な算術であることが知られている。

※様相論理学というのは、「いま横浜では雨が降っている」という文に対して、並行宇宙をたくさん考え、全ての並行宇宙における横浜で雨が降っているなら【必然的に】真だけれど、たくさんある並行宇宙の中に、横浜でいま雨が降っているような宇宙が1つ以上存在するというだけなら【可能的に】真であるということが言えるような論理学。様相論理学はゲーデル不完全性定理の証明と非常に相性がいいらしく、これは1970年代に判明したことである。

そもそも、ゲーデル不完全性定理はメタ数学である。メタという言葉の意味は、メタフィクションなどのメタと同じである。「メタフィクション」というのは、本の中に著者本人が登場したりするフィクションのことで、ひとことで言えば、フィクションについてのフィクションのこと。例えばセルバンテスの『ドン・キホーテ』や、カート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』、ポール・オースターの『シティー・オブ・グラス』、筒井康隆の『朝のガスパール』などがそれにあたる。

「算数ではあらゆることが証明できる」という文は真ではない。しかしこの文は超数学的(メタ数学的)な文である。数学について数学するのが超数学で、数学者の方法である公理と推論規則を使って、数学自身について語るのがメタ数学である。メタ数学の真骨頂は嘘つきのパラドクスに代表されるような意図的なレベルの混同であるとされる。

ゲーデルが多大な影響を受けているのがカントールである。哲学者のヴィトゲンシュタインカントールの数学をナンセンスで間違っていると笑っていたらしい。クロネッカーカントールに嫌がらせをしたし、ポワンカレもカントールを攻撃したことが知られている。でも、【デデキント切断】で有名なデデキントカントールを援護していた。このカントール対角線論法ゲーデルチューリング不完全性定理の証明に利用したのである。

※そもそもカントールは順序数と濃度を区別した。【オーディナルナンバー】(背番号)と【カーディナルナンバー】(濃度)があるというのである。オーディナルナンバーは自然数の概念を拡張したもので、順序がつけられる数という意味で、カーディナルナンバーは集合どうしの大きさを比較する概念である。

カントール的に考えると、奇数の無限と偶数の無限と自然数の無限はみんな同じであると考えてよいらしい。つまり可能無限の濃度はみな同じであると考えてよい。なぜなら一対一対応がつくからだ。濃度(もしくは基数)が同じだからである。(ちなみに自然数と一対一対応がつくのが可算無限。)

※濃度の記号が「アレフ」である。可算無限の濃度を「アレフノート」という。可算無限「アレフノート」の次に大きな無限を「アレフワン」という。実数無限は何番目に大きい無限か分からないので単に「アレフ」という。

自然数の集合の大きさを「アレフノート」という。自然数の集合の全ての部分集合の集合の大きさを「アレフワン」という。たとえば、要素が2個の有限集合の部分集合は空集合を含めて4つである。無限と【無限プラス1】は濃度がアレフノートで同じで、順序数が違う。

実数も無限にたくさんあるが、その濃度は可算無限より大きい。というか、濃い。実数のほうが自然数よりたくさんある。なぜなら、自然数は可算無限であり、実数は実数無限だからである。これこそが、カントール対角線論法(背理法)によって証明されたことだった。

「この文は嘘である」という文が本当だとしたら、この文は嘘である。同文が嘘だとしたらこの文は本当である。意味論にとどまる限り、この循環は無限に続く。だからゲーデルは意味論から構文論へと舞台を変えて、証明できることと真であることは別であると示そうとした。だから、「この命題は証明できません」という命題を証明することにした。

文字や記号に数字の【背番号】を割り当ててコード化(命題を番号で表記してやること)するアイデアが元になっているゲーデル数は、「どんな自然数素因数分解ができて、しかもそれがただ一通りに決まる」という自然数の性質を利用している。

このアイデアの面白さは、あらゆる命題だけでなくあらゆる証明を背番号=ゲーデル数で呼ぶことが可能になるという点である。命題が無限個あったら証明は終わらないので、証明は必ず有限個の命題の集まりなのだが、素数は無限個あるので、ゲーデル数に置き換えると全ての命題、つまり過去に証明された全ての命題から、これから未来永劫にわたって証明されるであろうすべての命題も、それぞれ固有のゲーデル数で表現することが可能になるらしい。しかもすべての証明が素数素数乗の積(素因数分解のかたち)で表されていて、しかもそれがただ一通りに決まるので、同じゲーデル数をもつ証明は2つとなく、ゲーデル数から元の証明を復元できるという。このゲーデル数を活躍させて不完全性定理は証明されている。

メルロ=ポンティノート

狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。

 

比喩能力と一般化能力が抽象的態度を構成する。

抽象的態度が習慣的態度(皮をなめして財布をつくる職人の動作)と対立する。

思考弓が緩んでいるのがシュナイダー。

思考弓が張り詰めているのが一般人。

 

ドイツ語の50単元チェックリスト

 

1. 【seinについて】

2. 【動詞の人称変化】

3. 【名詞の性と冠詞】

4. 【名詞の4つの格】

5. 【定冠詞類】

6. 【不定冠詞類】

7. 【形式主語と形式目的語のes】

8. 【人称代名詞の格変化】

9. 【3格支配の前置詞】

10. 【4格支配の前置詞】

11. 【3・4格支配の前置詞】

12. 【2格支配の前置詞】

13. 【名詞複数3格と幹母音変化】

14. 【男性弱変化名詞】

15. 【1文に話法の助動詞が2つ】

16. 【大事な3つの助動詞】

17. 【不規則動詞①】

18. 【不規則動詞②】

19. 【Sieとihrに対する命令形】

20. 【duに対する命令形】

21. 【形容詞の強変化】

22. 【形容詞の弱変化と混合変化】

23. 【形容詞の名詞化】

24. 【序数は形容詞で日付に使う】

25. 【daは物を受ける時格を無視して前置詞と融合する】

26. 【名詞や動詞や形容詞は特定の前置詞と結びつく】

27. 【現在完了形は過去に用いる】

28. 【過去基本形】

29. 【分離前綴りと基礎動詞(verという前綴りは絶対に分離しない)】

30. 【複合動詞(分離動詞と非分離動詞)の完了形】

31. 【4格の再帰代名詞を従える再帰動詞】

32. 【3格の再帰代名詞を従える再帰動詞】

33. 【ドイツ語の大事な3構文①②】

34. 【ドイツ語の大事な3構文③】

35. 【um+zu不定詞は目的を表す。zu不定詞は不定詞そのものではない。】

36. 【zu不定詞とdassの複文】

37. 【完了不定詞がつくる複文】

38. 【話法の助動詞の意味の第二系列は推量を表す】

39. 【定冠詞は強く読むと指示代名詞になる。そしてそれが複文を導くならば定関係代名詞。】

40. 【先行詞を普通は取らないのが不定関係代名詞。werとwasの2種類。】

41. 【同等比較のso A wie SV】

42. 【最上級を副詞として使うときにはamとstenで挟もう】

43. 【受動不定詞を主語に合わせて人称変化させると受け身の文になる】

44. 【受動不定詞の助動詞を完了形にして受動完了不定詞をつくりそこに話法の助動詞をつける】

45. 【何かをされたという意味の動詞の過去分詞をseinと共に使うことが状態受動】

46. 【冠飾句】

47. 【接続法第Ⅰ式と接続法第Ⅱ式は形の用語。用法の用語は引用符代わりの間接話法(ⅠとⅡ)、要求話法(Ⅰ)と非現実話法(Ⅱ)】

48. 【接続法過去】

49. 【仮定部と帰結部双方に接続法第Ⅱ式を使うことによる反実仮想(非現実話法)】

50. 【話法の助動詞の意味の第2系列の接続法第Ⅱ式は非常によく使われる】

追悼:本正弘

【本正弘ノート】


【直読】

「あの教師が直読ということを言っている。どうも、あいつは本当に前から読んでいるみたいだ。では、どういうふうにしていったら前から意味がとれるのだろうか、一つ盗んでやろう、という風に、学問は盗むものなんです。」(本英語長文講義の実況中継下巻p86)

 

【She will make a good wife.】

She will make a good wife.「彼女は良い妻になるでしょう」。これはSVOです。SVCではない。これを日本語の参考書とか辞書には、「〜になる」と説明するものがあるんですが、あれはどうかと思われます。というのは、becomeの意味なら、最初からbecomeと書きます。「彼女は良い妻というものを構成するでしょう」と言っている。これに慣れていくしかありません。それ以上、英語を日本語に近付けてはならない。2 and 2 make 4.と同じです。日本語では2足す2は4に「なる」と言いますが、英語は2足す2は4を「構成する」ととらえるんです。このmakeはやはり「作る」です。これをbecomeと同一視する考え方はおかしいです。

 

【SG(センスグループ)訳の提唱】

センスグループという概念を使いこなせ。

She asked me to go there.は第五文型。

She asked me a question.は第四文型。

ちなみに、本正弘の本にはなぜかよく竹村健一が出てくる。


【副詞的同格という発想】

And finally,in 1492,Christopher Columbus dared to search for the East by sailing westーーinto the unknown.

→この文では、westという副詞と、into以下の前置詞句が、同格に並び、つまり「副詞的同格」で並列され、しかもそれが、「言い換えのダッシュ」を利用して並列されているのだ。しかも、ここでは文頭副詞句が、まずfinallyと大まかに言っておいて、次に1492年と細かに具体的なことを言うという語順になっている。非常に英語らしい語順なのだ。


【顚読ではなく直読をしよう。】

Linear reading (直読)

Phasal reading (相的読解)


【英語における後置形容詞句一覧】

①関係節(関係詞が省略されれば接触節)

②過去分詞(p.p.型後置)

③現在分詞(ing型後置)

④前置詞句

不定詞句

⑥同格のthat節

→英語では形容詞成分が少し長いだけですぐに後回しにする。そのことを忘れてはならない。


【言い換えのダッシュ

For centuries men living in the lands around the Mediterranean sailed their tiny ships from side to side and from end to end of that seaーーthe sea they named the "Middle of the World Sea".

 


【強調の副詞のall】He sailed all up and down the western side of Europe.

 


【総称用法のthe】The exception proves the rule.

(いわゆる例外なるものは法則を試す。)

 


【おすすめの辞書】

語法の説明、英語に関する情報量の多さという点では『ジーニアス』が一番いい。しかし、AとBのような記号を使った文型表示の見やすさという点では『アンカー』が一番よい。

 


【関係詞の理由用法(非制限用法)】

関係詞というものが名詞のあとに置かれて、それを補足的に説明するという機能上、前の陳述内容を受けてその理由を述べることもできる。


Number sense should not be confused with counting,which probably comes at a much later stage,and involves,as we shall see,a rather intricate mental process.

[数の感覚は、数を数えることと混同されるべきではない。どうしてかというと、数を数えるという行為はおそらくずっとあとの発達段階になってから生じるのであるし、後で見る通り、複雑な精神的過程を必然的に含むから。]

 


【wouldの反復に敏感になろう】

At the approach of a man,the crow would leave its nest.

[人間が接近すると、カラスは巣を飛び立つのだった]

 

この文をもし、At the approach of a man,the crow left its nest.にすると、これはたった1回だけ起きた動作になってしまう。しかし、実際にはそういうことが何度も起こった。だからこれを助動詞で表すと、wouldになるわけだ。過去形にすると一回限りの動作になり、wouldをつけると反復させられる。

 

 

【映画の話】

『愛と青春の旅立ち』の原題がThe Officer and Gentleman


【suspectとdoubtはほとんど反意語】

①I suspect that he is lying.

②I doubt that he is lying.

①': I think that he is lying.

②': I don't think that he is lying.


【分詞構文は本質的に曖昧】

分詞構文は常に主文に対する広い意味での付帯状況を表す。


【同じ単語から生まれた反対の意味】

terrorから生まれたterrificは素晴らしいという意味で、terribleはひどいという意味。

Darling,you look terrific today.


【可能性と現実の比較におけるcouldの機能】

I do not deny that large numbers of persons could maintain health upon a smaller quantity of sleep than they permit themselves.

かなり多くの人が、現実の睡眠時間よりも少ない量の睡眠で健康を維持できるであろう可能性を私は否定しない。


【whyと置き換えられるhow】

I don't see how we can be blamed for not wanting more than this.

なぜそれ以上望まないことで我々が責められるのか分からない。


↑この文は

I don't see why we should be blamed for not wanting more than this.

に置き換え可能。


【英語の肯定文が日本語の否定文】

He is too young to go to school.

彼はあまりも幼すぎて学校に行けない。

(彼は学校に行くには若すぎる)


【elaborateの語源】

エラボレイトの中にはlaborが入っている。これは労力という意味で、eは外側outという意味。よって、徹底的に労力を投じて作り出すという意味なのだ。


【eradicateの説明】

The progress of medical science has eradicated many kinds of sicknesses from the earth.


→Radishはダイコンという意味で、radicalは根本的という意味。eはexitのeで、outという意味。それゆえ、eradicateは根絶やしにするという意味になる。

 

 

【本正弘のおすすめリーディング教材】

初級編

①Don't Tell Me What to Do.

②The Stranger

③Claws

④Z for Zachariah

⑤Tales of Horror

中級編

①Bristol Murder

②The Smuggler

③The Woman Who Disappeared

④Meet Me in Istanbul

⑤My Cousin Rachel

上級編

①The Story of POP

Rebecca

愉快な独語1

【基礎の基礎編】


1.【南ドイツの挨拶】南ドイツでは「Grüß Gott 」(グリュース ゴット)というあいさつが使われている。


2.【アルファベートの読み方注意】V v [ファオ]W w [ヴェー]X x [ィクス]Y y [イュプシロン]Z z [ツェット]の読み方に注意。

 

3.【ウムラウトが打ち込めないとき】ウムラウトは、ドイツ語キーボードではないパソコンで打ち込みたいときにはウムラウトの代わりに「e」を使う。ä=Ae, ö=oe, ü=ueといった具合。たとえば、ドイツ語で「油」はÖlと言うが、これならOelと打ち込めばいい。これでウムラウトが打てないパソコンでも、ドイツ人は理解してくれるらしい。


4.【母音を長く読むか、短く読むかの区別。】このルールは単純で、母音の後ろに子音が1つのときは長く読み、2つ以上続いているときには短く読む。Tal〔タール〕谷、Mann〔マン〕男、Leben〔レーベン〕生命、Heft〔ヘフト〕ノート、Titel〔ティーテル〕タイトル、Tinte〔ティンテ〕インク、Hof〔ホーフ〕庭、Gott〔ゴット〕神、Blume〔ブルーメ〕花、Bus〔ブス〕バス、Bär〔ベーァ〕クマ、Kälte〔ケルテ〕寒さ、Öl〔エール〕油、Löffel〔レッフェル〕スプーン、Hügel〔ヒューゲル〕丘、Hütte〔ヒュッテ〕小屋。【例外】Bahn〔バーン〕鉄道、Uhr〔ウーァ〕時計、Bühne〔ビューネ〕舞台。


5.【二重母音たち】Haar〔ハール〕髪、Tee〔テー〕紅茶、Boot〔ボート〕ボート、Brief〔ブリーフ〕手紙、Liebe〔リーベ〕愛、Mai〔マイ〕5月、Eis〔アイス〕氷、Baum〔バォム〕木、Haus〔ハォス〕家、Europa〔オイローパ〕ヨーロッパ、Gebäude〔ゲボイデ〕建物


6.【yは外来語にしか使われない】Typ〔テュープ〕タイプ、Hysterie〔ヒュステリー〕ヒステリー


7.【子音の読み方】Japan〔ヤーパン〕日本、Juli〔ユーリ〕7月、Vater〔ファーター〕父、Vogel〔フォーゲル〕鳥、Wagen〔ヴァーゲン〕車、Wetter〔ヴェッター〕天気、Zahl〔ツァール〕数、Zoo〔ツォー〕動物園、See〔ゼー〕海、Boden〔ボーデン〕地面、Dame〔ダーメ〕女性、Gott〔ゴット〕神、Gelb〔ゲルプ〕黄色、Kind〔キント〕子供、Tag〔ターク〕日、Bach〔バッハ〕小川、Koch〔コッホ〕コック、Buch〔ブーフ〕本、Bauch〔バオホ〕腹、Teppich〔テピッヒ〕絨毯、Pech〔ペヒ〕災難、Teich〔タイヒ〕池、Milch〔ミルヒ〕ミルク、Fuchs〔フクス〕キツネ、Examen〔エクサーメン〕試験、traurig〔トラォリッヒ〕悲しい、Kopf〔コプフ〕頭、Pferd〔プフェァト〕馬、Quadrat〔クヴァートラート〕正方形、Quelle〔クヴェレ〕泉、Schule〔シューレ〕学校、Schwester〔シュヴェスター〕姉妹、Tasche〔タッシェ〕かばん、Sport〔シュポルト〕スポーツ、Straße〔シュトラーセ〕通り、Deutsch〔ドイチュ〕ドイツの、Stadt〔シュタット〕街、Thema〔テーマ〕テーマ、sechzehnhundertfünfundzwanzig〔ゼヒツェーンフンダート フュンフ ウント ツヴァンツィッヒ〕1625年


8.【Sieはduに変わっていく】初めて出会った人にはSie を使って話をするが、お互いdu で呼び合うように次第になる。ドイツ語ではこれをduzen (ドゥーツェン)するという。フランス語のtutoyer である。


9.【イーレンで終わる動詞の強勢位置】ドイツ語の動詞には-ieren で終わる形のものがあり、studieren (大学で勉強する)などがそう。このタイプの動詞は、外来語を無理やりドイツ語の動詞化したもの。そして、不定詞が-ieren で終わる動詞はアクセントが-ieren の部分にある。


10.【Sieとsieの区別】3人称単数のsie (彼女)や3人称複数のsie(彼ら・彼女ら・それら)のS は文頭に来ない限り小文字だが、敬称2人称のSie については単数・複数にかかわらず、文中でも大文字のS で書き始める。ただし、文頭だと、Sie lernen Deutsch.には、「彼らはドイツ語を勉強する。」と「あなたはドイツ語を勉強する。」、「あたなたちはドイツ語を勉強する。」の3つの意味があることになる。


11.【ミリオンから名詞】tausendは数詞なので小文字だがMillion とBillion は数詞ではなく名詞の扱いになので、大文字で書き始める。


12.【えすとてんてん】ドイツ語の現在人称変化のそれぞれの語尾-e, -st, -t, -en, -t, -en をつなげて読んだ、esttenten (えすとてんてん)という覚え方が有名。


13.【不規則動詞の代表】三大不規則動詞は、seinとhabenとwerdenである。動詞の三基本形だけを列挙しておくと、不定詞―過去基本形―過去分詞の順に、sein - war - gewesen、haben - hatte - gehabt、werden - wurde - gewordenとなる。


14.【文否定か語否定か】nichtは位置によって文の意味が変わってくる。基本的に「語の前に置いた場合はその語を否定し、文末に置けば文全体を否定する」と覚えておけばOK。Ich lerne nicht Deutsch.[私はドイツ語は勉強しない。](他の勉強はする)か、Ich lerne Deutsch nicht.[私はドイツ語を勉強しない。](他の勉強ならするのかどうか分からない)かの違い。なお、Hier steht keine Kirche.[ここには教会は1つも立っていません。]のように、不定冠詞の文を否定するにはnicht は用いず、kein で否定するので注意。


15.【定冠詞類】定冠詞と同様の格変化をするものは、定冠詞類という。これらはすべて定冠詞の代わりに名詞につけ、定冠詞と同様の変化をする。定冠詞類の代表は、dieser(この、このような)、jener(あの、あのような)、aller(すべての)、Jeder(各々の), solcher(そのような)、mancher(かなりの) といったものがある。


16.【不定冠詞類】不定冠詞と同様の格変化をするのが不定冠詞類で、代表は、所有代名詞(所有冠詞と呼ぶほうがよいかも)とkeinである。


17.【unseremはunsremでもよい】ちなみに、所有代名詞のunserem Haus のようにe が2度続いてしまう場合、はじめのe を省略してもよいことになっている。たとえば、unserem Haus ならunsrem Haus としてもいいわけだ。


18.【人称代名詞の2格にほとんど出会わないのは所有代名詞があるから。】人称代名詞の2格には、ほとんど出会わない。「~の」と言うときには所有代名詞を使うから。なので、人称代名詞の2格と出会うことはまずない。所有代名詞は、不定冠詞の代わりに用いるので、変化もこれに準じる。mein, ihr, unser, euerなどがその代表。


19.【sieの3格はihr】Er gibt ihr das Auto.(彼は彼女にその車を渡す。)「~に」という訳になるのでsie の3格が使われ、「車を」だから中性名詞の4格のdas が使われている。ただし、日本語訳がどうなるかを根拠に格を決めるわけではまったくない。


20.【他動詞か自動詞かはどのように決まるのか】ドイツ語の他動詞とは、4格目的語をとる動詞のこと。逆に言えば、3格目的語しかとらない動詞は、英語と違い自動詞となるので気を付ける。たとえばgafallen (~の気に入る)という動詞は、Das Bild gefällt mir sehr.[この絵は私のお気に入りである。]のように、3格の目的語mirをとるが、これは自動詞となる。


21.【ドイツ語の目的語の語順】ドイツ語で目的語を2つとる動詞の場合、その語順に迷うことがある。①両方とも人称代名詞でない名詞なら3格→4格の順番。②片方が人称代名詞ならその人称代名詞→人称代名詞でない名詞の順番。③両方とも人称代名詞なら4格・3格の順番と覚えるとよい。例えば、Ich gebe Daniel das Hemd.[私はダニエルにこのシャツをあげる。]は、①の適用例。Ich gebe ihm das Hemd.[私は彼にこのシャツをあげる。]はihmは人称代名詞の3格で②の適用例。Ich gebe es Daniel.[私はこれをダニエルにあげる。]これもesは人称代名詞の4格で②の適用例。Ich gebe es ihm.[私はこれを彼にあげる。]この場合は③の適用例。どちらも人称代名詞だから4格→3格という順番。


22.【命令文】命令文は基本的に動詞を文頭に持ってきて最後にビテをつける。Geben Sie mir die Armbanduhr, bitte![その腕時計を私に下さい。]ちなみに、Be quietは、Sei ruhig![静かにしろ。]である。ドイツ語の二人称単数duに対する命令文は少し特殊で、eで終わるのが基本なんだが、Iss mehr Obst![もっと果物を食べろ。]のように、不規則な変化をするものもある。


23.【否定疑問文とdoch】Kommt er nicht heute?[彼は今日来ないのですか。]にたいして、Doch, er kommt heute.[いいえ、彼は今日来ます。]か、Nein, er kommt nicht heute.[はい、彼は今日は来ません。]と答える。日本語と違って最初の一言目は内容がどうかで決まるのだ。つまり、実際に彼が来るか来ないかで決まるのだ。否定疑問文に肯定内容で答えるときにはdochを使う。


24.【補足疑問文について】何が(何を)was、どのようにwie、どこでwo、どこからwoher、どこへwohin、いつwann、なぜwarumくらいは覚えておこう。また、疑問詞とはいえ、疑問副詞なのか、疑問代名詞なのかということは当然気にかけねばならない。例文として疑問副詞の例を挙げれば、Wo kaufst du das?[君はどこでそれを買うんだい。]Wann kauft er das?[彼はいつそれを買うのかな。]になる。疑問代名詞なら、Was kaufen Sie?[あなたは何を買うのですか。]になる。ちなみに、補足疑問文と対比されるのが決定疑問文である。


25.【複数形】Alle Menschen werden Brüder.[すべての人々は兄弟となる。]Ich helfe meinen Brüdern.[私は兄弟たちを助ける。]ちなみに、helfen は「~に手を貸す」という意味で、3格目的語をとる。


26.【複数形には5種類ある。】複数形には、変化の仕方に応じて5種類ある。①ゼロ型、②E型、③ER型、④EN型、⑤S型である。①ゼロ型は単複同型ということではなく、語尾が新しくつかないということなので、語幹母音がウムラウトすることはありうる。たとえば、「兄弟」という意味の単数Bruderで、複数 Brüderはそれにあたる。②はE型で、「列車」という意味の単数 Zug、複数 Zügeはそれにあたる。③はER型で、「男」という意味の単数Mann、複数 Männerはそれにあたる。④はEN型で、「教会」という意味の単数 Kirche、複数Kirchenはそれにあたる。⑤はS型で、英語と同じことからもわかる通り、この変化をするものはすべて外来語である。例えば「自動車」という意味の、単数 Auto、複数 Autosはそれにあたる。


27.【複数形の諸特徴】複数形になると、①性の区別は潰されてしまうし、②複数形に不定冠詞のeinが着くことも論理的にない(ただし、複数形に不定冠詞がつくことはないが、不定冠詞類のmeinなどを付けることはある。例えば、Ich esse mittags mit meinen geschätzten Freunden.[私は昼に大切な友人たちと食事をする。]などがある。)。また、③複数形の3格は名詞に-n という語尾がつく。ただし、複数形が-n で終わっていたり、S 型の複数形には3格の-n はつけない。


28.【小慣れた名詞の書き方】ドイツ人がドイツ語の名詞を人に教えるときに、                 

<e.Kirche/n>                  

という書き方をすることがある。これは、最初の「e.」 はKirche (教会)が女性名詞だということを表しており、女性名詞1格の定冠詞die の最後の文字をとった書き方である。もし、男性名詞ならr. 中性名詞ならs. と書く。最後の「/n」 はKirche の複数形はEN型の複数形であるKirchen だということを表している。


29.【男性弱変化名詞】男性名詞の中には、単数1格以外すべての数・格で-(e)n の語尾がつく名詞があり、これが男性弱変化名詞。男性弱変化名詞のStudent (大学生、シュトゥデント)は例えば、3格のとき、Ich helfe dem Studenten.[私はその大学生(単数)を助ける。]というふうに活用する。ちなみに、英語のMr.であるHerrは、微妙に特殊な変化をする男性弱変化名詞の中の例外ということになっている。

 


【前置詞と形容詞編】

 


30.【2格支配の前置詞の例】statt, anstatt(~の代わりに)trotz(~にも関わらず)während(~の間に)wegen(~のために(原因)


31.【2格支配の例文】Wegen des Regens komme ich später.[雨が降っているので、遅れていきます。]Regen は男性名詞で「雨」。später は「あとで」という副詞。文頭から数えて2つ目の単語はdesだが、「Wegen des Regens 」はまとまって1つの意味を為すと考えるので、"動詞が2番目の法則"は崩れていないと考える。


32.【3格支配の前置詞の例】aus(~から)、bei(~のもとで)、mit(~と一緒に)(英語のwith に近い)、nach(~の方へ、~の後で、~によると)、seit(~以来)(英語のsince に近い)、von(~の、~から、~によって)(英語のto に近い)、zu(~へ)


33.【3格支配の例文】Mit ihm fahre ich nach München.[彼と一緒に、私はミュンヘンへ行きます。]fahren は「(乗物に乗って)~へ行く」という動詞。ミュンヘンはドイツ第2の都市。地名や人名には冠詞をつけることはない。ただしミュンヘン3格ではある。Er hat ein Auto aus Italien.[彼はイタリア製の車を持っている。]このItalien は3格。前置詞句は副詞的に使うだけでなく、このように名詞を詳しく説明してやる形容詞的な用法もある。Eine Träne besteht aus 1% Wasser und 99% Gefühlen.(涙は1%の水と99%の感情から成り立っている。)Träne は女性名詞で「涙」、Gefühl は中性名詞で「感情」。「bestehen aus ~」という動詞とセットになっており、水と感情は3格。Gefühlenは、名詞Gefühlの複数3格。


34.【4格支配の前置詞】bis(~まで)、durch(~を通じて)(英語のthrough に近い)、für(~のために)(英語のfor に近い)、gegen(~に逆らって)(英語のagainst に近い)、ohne(~なしで)(英語のwithout に近い)、um(~の回りに)


35.【4格支配の例文】Für das Abitur lerne ich fleißig.[アビトゥーアのために、必死に勉強します。]fleißig は「熱心な」という形容詞だがここでは副詞的に使われている。アビトゥーアは中性名詞で、これはドイツの高校卒業試験で、これに合格すればドイツ国内のどの大学にでも入学できるというもの。


36.【3・4格支配の前置詞】an(~で、へ(接触))、auf(~の上で、へ)、hinter(~の後ろで、へ)、in(~の中で、へ)、neben(~の横で、へ)、über(~の上方で、へ)、unter(~の下で、へ)、vor(~の前で、へ)、zwischen(~の間で、へ)。


37.【3格支配か4格支配かを分ける原理】位置を表すときは3格支配。方向を表すときは4格支配。〔方角だから4格支配〕Ich fahre in die Stadt.[私は町へ行きます。]。〔場所だから3格支配〕In der Stadt kaufe ich eine Tasche.[私は町でバックを買う。]Stadt は女性名詞で「街」。動作の方向を示しているので4格。動作の行われる位置を示しているので3格が使われている。


38.【前置詞のイメージ】an は接触している状態を表す。「壁に絵がかかっている」とか。同じ「上」でもauf はピッタリくっついた鉛直上むき、über は空気を挟んだ上。「机の上にお皿が1枚」ならauf 、「机の上に電灯がぶら下がっている」ならüber。


39.【前置詞の融合形】ある特定の前置詞と、ある特定の定冠詞が連続して使われると、融合形となることがある。たとえば、Ich gehe ins Kino.[私は映画館へ行きます。]となる。an + dem = am。an + das = ans。auf + das = aufs。bei + dem = beim。in + dem = im。in + das = ins。von + dem = vom。zu + dem = zum。zu + der = zur。


40.【ドイツ語の形容詞】英語ではただ名詞の前に置けばよかった形容詞だが、ドイツ語の場合①形容詞が単独で使われる場合(=たとえば不可算名詞で不定冠詞もつかないような場合。これは強変化。強変化はほとんど定冠詞の変化に準ずる。)、②定冠詞とセットで使われる場合(これは弱変化)、③不定冠詞と形容詞とセットで使われる場合で、それぞれ違った変化をする(これは混合変化)。まとめると、①強変化(形容詞+名詞)②弱変化(定冠詞+形容詞+名詞)③ 混合変化(不定冠詞+形容詞+名詞)となる。


41.【形容詞の強変化の例文】Guter Wein ist nicht teuer.[良いワインは高価ではない。]


42.【形容詞の弱変化の例文】Drücken Sie bitte den großen Knopf.[その大きなボタンを押してください。]drücken は他動詞で「~を押す」。groß は「大きい」という形容詞。Knopf は男性名詞で「ボタン」。drücken の4格目的語となっているので男性名詞4格の語尾-en を付けられている。これは、形容詞großが、弱変化している。


43.【形容詞の混合変化の例文】混合変化というのは、不定冠詞と一緒に使われて、基本は弱変化なのだ。しかし、男性1格と中性の1・4格のみ強変化となって、強弱2つの変化が混ざっている様に見えるので「混合変化」と呼ばれている。例文としては、Ich wünsche dir einen guten Tag.[私は君によい1日を望みます。]などがある。wünschen は他動詞で「~を望む」、Tag は男性名詞の「日」である。実は、この文の最後の2語以外を省略しているのがドイツ語のあいさつ、「Guten Tag!」である。そしてこのgutenが混合変化である。他にも、たとえば、Ich esse mittags mit meinen geschätzten Freunden.[私は昼に大切な友人たちと食事をする。]のmittags は副詞で「昼に」、geschätzt は「大切な」という形容詞で混合変化している。ここでは所有代名詞のmein が3格支配の前置詞mitに支配されて3格になっている。geschätzt は複数3格でgeschätzten 、Freundの複数3格の形はFreundenである。


44.【名詞を修飾しない形容詞の用法】形容詞は名詞の前について名詞を修飾する以外にも、Dieses Auto ist sehr gut.[この車はとても良い。]と述語的に用いたり、Dieses Auto fährt schnell.[この車は早く走る。]というように副詞的に用いたりすることもできる。この場合、語尾の変化は必要ない。Für das Abitur lerne ich fleißig.[アビトゥーアのために、必死に勉強します。]もそうで、fleißig は「熱心な」という形容詞だがここでは副詞的に使われていて語尾変化がない。


45.【中性名詞として形容詞を名詞化する】定冠詞を付けて「そのドイツ人」ならder Deutsche やdie Deutsche となる。形容詞が中性名詞として名詞化した場合、「~のもの」や「~のこと」といった意味になる。たとえば、klein を名詞化するとKleines (小さいこと、もの)となる。


46.【ドイツ語の序数は形容詞扱いで格変化する。】1の序数はerst 、2はzweit 、3はdritt。4~19を序数にするには、語尾に-tを付ければよい。6ならsechst 、17ならsiebzehnt。20~は語尾に-st を付ける。20ならzwanzigst 、49ならneunundvierzigst。100も-st なのだが、1XXのXX の部分が19以下なら、語尾は再び-t に戻る。101ならhunderterst 。112ならhundertzwölft。その後120からは、また-st となる。序数は名詞を修飾する場合、形容詞となって、格変化する。「1番目の列車」ならerster Zug といった具合に格変化する。


47.【英語と同じ形の比較級】ドイツ語の比較級は原級 + -er で作る。また、最上級は原級 + -st で作る。変化の仕方は形容詞に準ずる。「絵」は中性名詞でBild なので、「より美しい絵」と言いたいときには、ein schöneres Bildとなる。ここで、erは比較級の語尾で、esが形容詞の語尾である。「最も美しい絵」と言うときはdas schönste Bildとなる。ここで、stは比較級の語尾で、語末のeが形容詞の語尾である。


48.【比較級の副詞的・述語的用法】比較級を副詞的に使うにはなんの語尾もつける必要はない。また、weit や viel を使うとこれを強めることもできる。たとえば、Elis tanzt weit schöner als Hanna.[エリスはハンナよりずっと美しく踊る。]などがある。


49.【最上級はamとenで挟む】最上級の場合はam + -en という形をとる。たとえば、Elis tanzt am schönsten.[エリスは最も美しく踊る。]のように使う。


50.【最上級の述語的用法】最上級の述語的用法には定冠詞 + -e(n) または am + -en という2つの表し方がある。たとえば、①Dieser Mann ist der ältesete in diesem Dorf.[この男はこの村で一番年をとっている。]②Dieser Mann ist am älteseten in diesem Dorf.[この男はこの村で一番年をとっている。]となる。alt は「古い、年寄りの」という意味で、比較級・最上級ではウムラウトする。Dorf は中性名詞で「村」という意味。前者①の文でder が使われているのはMann が男性名詞だからで、もし主語が女性ならdie 、中性ならdas 、複数ならdie と変化する。では、①と②を使いわける原理はいったいなんなのか。最上級の述語的用法の①定冠詞+ -e(n) と②am -sten の違いは、同一物中の比較の場合には必ず②am -sten が用いられ、そうでないときは、もっぱら①なのだ。同一物中の比較というのは、Der Berg ist im Sommer am schönsten.[その山は夏が一番美しい。]のように、比較の対象が別のものでなく、同一物の他の側面であるような場合。


51.【als無しの比較級】「als ~」無しで、付加語として比較級が用いられた場合、「比較的~な」という意味になることがある。たとえば、Der ältere Mann liest ein Buch.[わりと年をとった男が本を読んでいる。]などはそれにあたる。


52.【同等比較の表現】so + 「原級」+ wie A[Aと同じくらい「原級」だ]というものがある。例えば、Er ist so alt wie Hans.[彼はハンスと同じくらいの年齢だ。]


53.【the + 比較級, the + 比較級の構文はドイツ語でどうなるか】je + (比較級A), desto+(またはum so)(比較級B)[A であればあるほどB だ]となる。例えば、Je höher der Berg ist, desto tiefer ist das Tal.(山が高くなればなるほど、谷も深くなる)。ちなみに、tiefというのがtieferの原級である。höherの原級は、hochである。


54.【ますますの表現方法】immer + 比較級。または、比較級 und 比較級で、[ますます~だ]と訳す。たとえば、Er wird immer kluger.[彼はますます賢くなる。]


55.【不規則に変化する比較級たち】原級 - 比較級 -最上級の順に、①gut - besser - best[良い]。②viel - mehr - meist[たくさんの]。③wenig - minder - mindest[少ない:weniger - wenigst という通常変化も可能ではある]。④groß - größer - größt[大きい]。⑤hoch - höher - höchst[高い]がある。文豪ゲーテの最期の言葉はMehr Licht.[もっと光を。]であったらしい。このmehr はviel の比較級で、Licht は中性名詞で「光」である。

 

 

【動詞編】

 


56.【前置詞が最後に来たら分離動詞だと判断せよ】たとえば、Ich rufe Thomas an.[私はトーマスに電話する]は、分離動詞anrufenの文である。an は文末に、後ろにあったrufen は人称変化した形で定動詞の位置にきている。この前側のan のことを「分離前綴り」という。分離前綴りは、前置詞として使えるものが多く、また分離前綴りをとった分離動詞は、通常の動詞として別の意味を持つものとして機能する。例を挙げれば、auf|stehen [起きる]やaus|gehen[外出する] などは分離動詞のひとつ。通常、前置詞は名詞の「前」に「置」くものなので、文末にあったら、「これは分離動詞だな。」と思い、定動詞とセットにして意味を考えて、分離動詞として辞書を引くのでなければならない。


57.【非分離動詞】分離動詞に似ているのに分離動詞ではない動詞で、非分離動詞というのがある。(これは、分離動詞ではないのだから普通の動詞と同じものかと思うかもしれないがそうではない。)これは、前綴りを持っていながらも、分離しない動詞のことで、この前綴りを「非分離前綴り」という。代表的な「非分離前綴り」はbe-, emp-, ent-, er-, ge-, ver-, zer-などが挙げられる。この中からbe- という前綴りを持っている、beginnen (~4格を始める)を使って例文を作ってみると、Wann beginnt die Party?[パーティーはいつ始まりますか。]となる。


58.【分離動詞と非分離動詞の違いはどういう実際的な違いになるのか】分離動詞を過去分詞にするときはge- が前綴りの後ろに入る。たとえば、分離動詞のan|machen (開ける)の過去分詞ならangemacht と、前綴りan の後ろにge- が置かれる。しかし、非分離動詞や-ieren で終わる動詞をその代表とするような、アクセントが第一音節にない動詞の場合は、過去分詞にはge- を付けず、単に語幹+t の形となる。たとえば、studieren の過去分詞はstudiert になるし、非分離動詞のbesuchen(訪問する)ならbesucht となるわけである。例文としては、Ich machte die Tür an.(私はそのドアを開けた。)などがある。


59.【非分離前綴りにはアクセントを置かない】非分離動詞について注意が必要なのは、非分離前綴りにはアクセントを置かないということ。ドイツ語は第一音節にアクセントを置くのが基本だが、上のbeginnen ならば「gi 」 にアクセントを置いて発音する。


60.【分離動詞の例文】分離動詞を使おう。Ich gehe um acht Uhr aus.[私は8時に外出します。]Ich gehe gegen 15 Uhr aus.[私は15時に外出します。]というふうに使うのである。


61.【時間の表現】ドイツ語で「今何時ですか?」と聞く聞き方は2つある。Wie spät ist es?[今何時ですか。]と、Wie viel Uhr ist es?[今何時ですか。]である。そしてこの答え方としてEs ist X Uhr.[今はX時です。]がある。Xの部分には数字を入れるのだが、「~時に」というのは、um ~ Uhrで、「~時ごろ」ならgegen ~ Uhrとなる。ドイツ語では12以下の数ならば文字で、13以上ならば数字で表すのが普通らしい。文字で表すと非常に長いからだ。


62.【時間表現のいろいろ】13:16は「dreizehn Uhr sechzehn」。18:22は「achtzehn Uhr zweiundzwanzig」。3:30はhalb vier (半分4時)。6:30はhalb sieben (半分7時)。6:08はacht nach sechs (6時の8分後)。7:56はvier vor acht (8時の4分前)。3:34はvier nach halb vier (3時半の4分後)。3:28はzwei vor halb vier (3時半の2分前)。7:15は、①fünfzehn nach sieben (7時の15分後)でもいいし、②Viertel nach sieben (7時の4分の1時間後)でもいいし、③Viertel acht (4分の1だけ8時)でもいい。7:45は、①fünfzehn vor acht (8時の15分前)でもいいし、②Viertel vor acht (8時の4分の1時間前)でもいいし、③drei Viertel acht (4分の3だけ8時)でもいい。日本語では時間を「○○:○○」と書き表す場合があるが、ドイツ語では、「○○. ○○Uhr 」と書く。


63.【日付について】ドイツ語で「~日に」というのは「am ~.」と表す。このピリオドは大事である。4日ならam 4. となる。この数は読むときには序数扱いになるので、読み方は「アム フィーアテン」となる。つまり、ピリオドをそのまま「テン」と読めることになる。「○○年○○月○○日に」は日本語の逆で、「am 4. April 1998 」のように日付から月で、最後に年号へという順番で表現してゆく。


64.【非人称のEs】es を使った重要表現に「es gibt 4格」(4格がある、いる)がある。たとえば、Es gibt hier einen Hund.[ここに1匹の犬がいる。]となる。


65.【動詞の過去形と過去分詞について】過去形は、語幹+teでつくる。過去分詞は、ge+語幹+tでつくる。過去形は、は動詞の語幹に-te をつけるだけで基本的には完成。たとえば、lernen の過去形ならlernte となる。ただし、語幹が-t や-d で終わる動詞なら、-eteと、e を付け加えることになり、arbeiten ならarbeitete という形になる。過去分詞は語幹をge- と-t でサンドイッチすれば基本的には完成。lernen ならgelernt という形になるわけだ。そして、不定詞、過去基本形、過去分詞の3つを、動詞の三基本形という。辞書を引くときはこれらを一緒に覚えるとよい。しかし、この動詞の過去形というのは、現代ドイツ語ではあまり使われない傾向が生まれている。なぜなら、完了形がその使用領域を拡大しつつあるからである。英語では、過去形を使うか完了形を使うかというのは迷いどころだったが、ドイツ語では過去のことを表すなら基本的に完了形を用いる。では過去形はというと、物語的な場面(小説など)でのみ使われ、日常会話では専ら完了形を使うのだ。これはフランス語の単純過去の辿った道と同じである。(ただしsein, haben, werden, 話法の助動詞だけは、日常会話でも過去形を使うことが圧倒的に多くなるのだが。)


66.【未来形は基本的に未来のことではなく推量を表す。】ドイツ語で未来形は、werden + 不定詞で作ることができる。しかし、未来形とは名ばかりで、Er wird im Büro sein.[彼はオフィスにいるのだろう。]のように、未来のことでなく「推量」を示すことが多い。というか、確定した未来だったら、むしろ現在形を使うのである。たとえば、Ich fahre morgen ab.[私は明日出発します]のように使うのだ。分離動詞のab|fahren (出発する)を使った例文。ここでは、明日の出発は話者にとって、「もう揺るがない確定した未来」なので、現在形を使って表現しているのだ。これが、まだ確実な証拠がなく、推量に過ぎないときには逆に未来形になるのである。たとえば、Er wird morgen abfahren.[彼は明日出発するのだろう。]のように。しかし、確実な未来のときは「現在形」で、不確実な推量のときは「未来形」になるというのはなんとも奇妙だが、文法用語の形の問題と実質上の問題は食い違うことがあるのだ。


67.【完了形の例文】①Ich habe ein Brot gegessen.[私はパンを1つ食べました。]②Mit ihr hat Hans getanzt.[ハンスは彼女と踊りました。]これらが基本的な完了形の例文である。しかし、分離動詞の完了形だと、③Ich habe das Fenster aufgemacht.[私は窓を開けました。]のようになる。①のgegessen はessen(食べる)の過去分詞である。③のFenster は中性名詞で「窓」で4格になっており、auf|machen は「4格を開ける」という意味。完了の助動詞のhabenやseinは主語に合わせて人称変化する。次に、sein を使った例文は以下の通り。④Ich bin gestern nach München gefahren.[私は昨日ミュンヘンへ行きました。]⑤Bismarck ist 1898 gestorben.[ビスマルクは1898年に亡くなりました。]⑥Sind Sie dort Hanna begegnet?[あなたはそこでハンナに出会ったのですか。]などである。④のgefahren はfahren の過去分詞で、場所の移動なのでsein を使っている。英語では絶対にやってはいけなかったはずの、完了形と時を表す副詞である「昨日(gestern )」を同時に使うことも、ドイツ語では問題なく行える。⑤のgestorben はsterben(死ぬ)の過去分詞。状態の変化なので同様にsein を使う。⑥のように、完了形の文を疑問文にするときは、定動詞の位置にある、完了の助動詞を文頭に持っていく。なお、begegnen (3格に出会う)は例外的にsein を用いる。dortは、「そこで」という意味の副詞。


68.【haben支配とsein支配の例外】ところで、完了の助動詞にhaben を用いる動詞を「haben 支配の動詞」、sein を用いるものを「sein 支配の動詞」という。基本的に、すべての他動詞とほとんどの自動詞はhabenが助動詞になり、場所の移動や状態の変化を表す自動詞はsein を助動詞に用いる。しかし、この基本ルールの例外として、seinと、 bleiben(とどまる)と、 begegnen(3格に出会う)の3つの動詞には助動詞にsein を用いる。また、「始める」(an|fangen など)とか、「終わる」(beenden など)という意味を持つ動詞は、状態の変化ではあるけれども、助動詞にhaben を用いる。


69.【未来完了形は「過去に対する推測」になる。】未来完了形は「~したのだろう、~だったのだろう」という、過去に対する推測を表現する。未来が推測の意味になってしまっていたことに注意しよう。例えばEr ist zu Hause gewesen.[彼は家にいた。]という普通の完了形の文があったとしよう。gewesenは、seinの過去分詞であり、sein支配の動詞であるから助動詞はseinになっている。この完了形の例文に未来形の要素を加え、未来完了形を作ってやると、未来形の作り方はwerden + 不定詞だから、Er wird zu Hause gewesen sein.[彼は家にいたのだろう。]となる。定動詞の位置に未来形の助動詞werden の主語に合わせた形、wird を持ってきてやり、すでにその位置にあったist は、文末へ移動し、「werden + 不定詞」の「不定詞」の部分に変化してseinに戻ったのである。これで未来完了形の完成。ところで、zu Hause は「家に、家で」という意味の熟語であるが、zu は3格支配の前置詞でHaus は中性名詞の「家」であるから、最後のeが奇妙である。このとき、最後の"e" はなんだろうか。これは昔3格の男性・中性名詞に"e" という語尾をつけていた時代のなごりであり、現在でも男性・中性名詞の2格に"s" を付けるのと似たような現象が昔は3格でも起こっていたということを示しているのだ。熟語となって化石化したせいでここにeが残っているのである。このような名残りの現象は、これのほかに、nach Hause (家へ)という熟語などにも見ることができる。


70.【再帰動詞】再帰動詞の基本は、Ich setze mich auf der Bank.[私はベンチに座る。]などの文である。このBank は女性名詞だと「ベンチ」で中性名詞でBank だと「銀行」の意味になる。また、3・4格支配の前置詞auf の目的語は、ここではイスに座るという動作の方向を表しているので、4格が使われていることに注意。このとき、setzen は通常「4格を座らせる」という意味の他動詞で、ここは再起動詞なので、「私を座らせる」=「座る」の意味になっている。再帰動詞とともに用いられる、この例文でいうところのmich のような代名詞を、再帰代名詞と呼ぶ。再帰代名詞は、1人称と親称2人称の場合は人称代名詞と同じだが、3人称と敬称2人称の場合はsich という語を用いる。これは、フランス語のヴェルブ・プロノミナルにおけるseの振る舞い方と似ている。具体的にいうと、Du setzt dich auf den Stuhl.[君はイスに座る。]Er setzt sich auf den Stuhl.[彼はイスに座る。]Sie setzen sich auf den Stuhl.[あなたはイスに座る。]のようになり、再帰代名詞は親称2人称du では人称代名詞と同じdich 、3人称と敬称2人称ではsich が使われているのが分かるだろう。


71.【再帰動詞の前置詞句とセットの用法。】Ich interessiere mich für Germanistik.[私はドイツ語学・文学に興味が有ります。]この例文のように、再帰動詞の中には前置詞とともに意味を形成するものがある。ここでは、[sichの4格] + [für +4格名詞] interessieren という組み合わせで使われて、「~に興味がある」という意味になっている。fürは4格支配の前置詞である。他にも、[sichの4格] + [auf~4格] freuenで「~を楽しみにする」とか、[sichの4格] + [über ~4格] freuen「~を喜ぶ」などがあり、このふたつは混同されやすい。ごく稀に4格ではなく3格の再帰代名詞をとる再帰動詞も存在するが、再起代名詞は、4格のほうが多い。


72.【sichの絡んだ熟語】an sich[それ自体]、für sich[ひとりで]、bei sich sein[正気である]、außer sich sein[我を忘れる]。


73.【sichの単独の意味】sich を単独で使うと、「お互いに」という意味になる。たとえば、Sie schlugen sich.[彼らはお互いに殴りあった。]ここでのsich はアイナンダーeinander[お互いに]と同じ意味を持っている。フランス語にも再帰動詞には相互的用法があった。

私の実利主義

私のブログは、誰かに読んでもらうことを第一義として書いてはおりません。何かの主義主張を広めたりするつもりも全くありません。

 

私の死後も世界は全く何事も無かったかのようにただ在り続けると思いますが、そこに何かを残したりすることも、ここで他人に私が評価されたりすることと同じく、少なくとも私のこのブログの目的ではないのです。

 

私のさしあたりの目的は、今ここにある、目の前に広がるこの現実を理解し、その限りで肯定していくことです。私が言う「肯定」とは、この現実を楽しみ、噛み締め、そしてこの世界に再び深く根付き直すことです。

 

だから、何かを知った時には、学問としての意味だけでなく、自分の人生にとってのその知識の意味を汲み取らなければ何にもならないと私は考えています。知識は、私の切実な問題を理解できるためのものでなければならないのです。知識は、他人にとっても、この私にとっても、何らか実利的なものであり、価値がなければなりません。私は私の知識に対してどこまでも価値を、実利を問うてゆきます。

 

だから私は、私が人生の中で巡り会い、切り取り、知ったことを、結局私がどう使ったのかということだけをここに書いてゆきます。

 

だから私の文章はとても主観的に思えるかもしれません。でも、少なくとも私の人生にとっては何らかの仕方で役に立ったのです。そのことだけは約束します。だから私のような仕方で愚直に実利を追う人には、私の書くことは実はむしろ主観的ではないと思えるかもしれません。私の主観的で切実な必要に根ざす思想は、私と似たような関心を抱える誰かにも届くかもしれません。これは不思議なことです。私の切実な必要性から生まれた文章なのに、そうであればこそ、他人にも伝わってしまうというのは、不思議です。

 

繰り返しになりますが、自分が盗み取ったある知識が知識としての意味があるかどうかは、たった一度きりのこの私の人生の中で、自分がそれをどう意味付け、どこに実践的な生かし方を見つけてやり、それによってどの程度現実を理解でき、その限りでそれを「肯定」できたか、ということにかかっているのだと私は思います。

 

なるほど私の存在を可能にする条件は他者の存在ですから、私はもちろん他者に先立たれて初めて存在し始めます。しかし、そのように理解するのが私であるということからはいつまでたっても脱出できません。どこまでいってもこの私でしかなく、私であることを生きている限りはやめられない、というのは不思議です。

 

私が生きるとは、他者に先立たれつつも現に孤独であるということです。だから私は、自分と和解し、現実を理解し、私の生を肯定するために、本を読んでみようと思います。そして私と同じように考える一部の人にとっては私の文章は役にたつかもしれません。だから、書き残します。