aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

フランス語のノート

 

 

 

1. 【表現】Le petit matin 早朝。たとえば、Pour attendre le bus dans le froid du petit matin.[バスを待つために早朝の寒さの中で]


2. 【発音】Maximumのumの発音は、ラテン語起源なので、オムとなって、全体はマクシモムとなる。マクシマmaximum のフランス語発音はマクシモム。ミニマムminimumのフランス語発音はミニモム。ミニマムもマクシマムもラテン語由来なのだ。Je fais le maximum: ベストを尽くします。


3. 【完了不定詞それ自体に時制はない。】Après avoir dîné, nous regarderons un film.[夕食を食べ終わったら、映画をみよう。]この場合は、完了不定詞が前未来をあらわしている。つまり、完了不定詞だからといって常に過去時制とは限らないのだ。つまり、完了不定詞それ自体に時制はない。


4. 【条件法の叙述用法は推量を表す。】条件法現在の条件節がないやつのことを条件法の叙述用法という。この場合は、推量を表すことが多い。たとえば、Son pourrait être japonais, mais en réalité, il est tahitien.[彼の名前は日本語でもありえただろうが、実際には彼はハイチ人である。]また、時制の一致で過去における未来を示すために条件法になっているのなら推量や仮定とは何の関係もないことも覚えておこう。


5. 【単語】veilleur。ビル・工場などの夜警, 夜間保安員, (ホテルなどの)夜勤係 (= veilleur de nuit)


6. 【表現】faire la vendange ブドウの取り入れをする


7. 【表現】日露戦争Guerre russo-japonaise


8. 【表現】Voisin de palier パリエは踊り場。全体で、「同じ階のひと」


9. 【表現】vin pétillant...「微発泡性ワイン」。でも、総称的に「スパークリングワイン」と言う場合は、vin mousseux になる。


10. 【大過去の基本】J'ai enfin lu le livre que j'avais acheté il y a trois ans.3年前に買っていた本を、ついに読んだ。


11. 【表現】vis-à-vis de ~ を前に(して)、~の面前で


12. 【フランス語では、時・条件を表す副詞節では、未来形の代わりに現在形を用いない。】「時・条件を表す副詞節では、未来形の代わりに現在形を用いる」という英語のルールは、フランス語にはない(si は除く)ので、単純未来形でOK。たとえば、dès que cela sera possible légalement。それが法的に可能になったらすぐに。dès que + 節 ~するや否や。この文では条件節の中で未来形が使われている。


13. 【単語】svelte、エレガントな。


14. 【学校に行くの省略表現】j’ai fait des études de droit, Sciences Po。この文の省略されている部分を補うと、j’ai fait des études de droit, et j'ai fait Sciences Po。faire Science Po という表現は、特定の超有名校の場合、faire + 学校名で、~に通う、行くとなる。この場合、学校名(Science Poなど)には冠詞は付かない。ちなみに、Science Po 、つまりパリ政治学院は、卒業生にシラクミッテラン、オランド、マクロンシモーヌ・ヴェイユエマニュエル・トッドジュリアン・グラックなどがいる超有名校。


15. 【表現】Un groupe terroriste a revendiqué cet attentat-kamikaze. あるテロリスト集団がその自爆テロの犯行声明を出した。


16. 【表現】être majeur、成人であること


17. 【知識】ちなみに、パリで一番大きいアジア系コミュニティは13区にある。


18. 【単語】insalubre。健康によくない, 不健全な, 不衛生な


19. 【表現】avoir à 不定詞で「しなければならない」


20. 【文法】en の本質は、<不特定な直接目的語>に変わるということ。つまり、 不定冠詞・部分冠詞・数量表現を伴うものに代わるのだ。<il y a ~>には動詞 avoir が使われており、<~>の部分は avoir の直接目的語。だから、il y en aとなる。


21. 【表現】faire de la figuration: 端役を演じる。


22. 【plusの発音】plus は動詞にかかっているとき、発音は「プリュス」となる。動詞にかかっているときむしろ「プリュス」になるのだ。


23. 【知識】ニューカレドニアにはメラネシア系先住民のカナック人がいる。


24. 【engagerとはなにか】Engagement の語源は担保や抵当を意味するgageである。そのgageを預けることを意味する動詞がengagerであり、その名詞がengagementである。


25. 【表現】faire le ménage だと家事をするだが、faire des ménages だと、ハウスキーパーとして働くという意味になる。


26. 【過去の状態と習慣的反復を区別せよ】Ma mère, qui ne parlait pas français, me répétait toujours: Étudie, étudie si tu veux avoir une bonne situation plus tard.この文の最初の半過去は過去の状態だが、二番目の半過去は過去の習慣的反復になっている。


27. 【未来形と近接未来のちがい】Mon fils va être un grand écrivain.[私の息子は(当然)大作家になるだろう]Mon fils sera un grand écrivain.[私の息子は(ことによると)大作家になるだろう]


28. 【ce dont】Prenez ce dont vous avez besoin et jetez le reste.必要なものは取って他は捨てなさい


29. 【形容詞節のcomme】Les "dame" comme dit ma grand-mèreは、comme以下が形容詞節になっていて、普通は副詞節になるので非常に珍しい例


30. 【部分冠詞の起源】J'ai pris de ses nouvelles.「私は彼女の近況の一部を得た」は非常に珍しいdeの使い方である。このdeは、その後に続く名詞の「一部」を示す用法。部分冠詞によく似ている。deがこの意味になるのは、[de + 限定辞 + 名詞]という形の場合だけ。限定辞とは、所有形容詞や指示形容詞や冠詞のこと。ただ、このdeのあとにもし定冠詞のlaがきたら、<de la + 名詞>となって、それは事実上部分冠詞である。よって、このdeのあとにlaはこない。なぜなら、その場合、それは部分冠詞ということになるから。つまり、このdeは部分冠詞と密接な関係がある。というか、部分冠詞の起源はこの用法のdeなのである。Tu veux encore de ce gâteau? (このケーキもっと欲しい?←ケーキの一部を切り取って食べるからこの用法のdeが付いている。)も、[de + 限定辞 + 名詞]という語順になっているし、Il a mangé de tous le plats. (彼はどの料理にも手を出した。←全ての料理の一部を食べたのであって、全ての料理を食べたのではない。)も、[de + 限定辞 + 名詞]という語順になっている。


31. 【単語】動詞recruterは、名詞recrue(f.)「新兵」から派生した語で「(兵員/人)を募集する」という意味。


32. 【表現】C'est facile comme bonjour. (めちゃめちゃ簡単だ。)


33. 【表現】Je vais lui rendre au centuple ce qu'il m'a fait!(やられたことは100倍にして返してやる。)


34. 【表現】À la fin du siècle, le commerce triangulaire des esclaves a pris son essor.[その17世紀の終わりには、奴隷の三角貿易が飛躍的に拡大しました。]


35. 【知識】L'esclavage a été aboli en 1794, puis rétabli par Napoléon et définitivement aboli en France en 1848.(フランスにおける奴隷制は、1794年に廃止され、その後ナポレオンが復活させましたが、1848年には、最終的に廃止されました。)


36. 【知識】2004年、グアドループ出身の作家マリーズ・コンデは、トビラ法(2001年)が奴隷制を人道に反する罪と認めたことを受けて創設された「奴隷制記憶委員会」の初代委員長となる。委員会の呼びかけによりジャック・シラク大統領が5月10日を奴隷制を記憶する記念日と定め、2006年にはコンデ、シラク大統領列席のもと第一回の式典が催された。


37. 【単語】Après avoir achevé ses études de journalisme, il a postulé dans plusieurs médias, décrochant un stage par-ci, des piges par-là.(ジャーナリズムの勉強を終えた後、彼はこちらで研修を受け、またあちらでちょとした仕事をこなすといったことをしながら、いくつものメディアに求職の志願をしました。)décrocher (フックなどから)外す、(賞・仕事などを)手に入れる


38. 【単語】atout (トランプの)切り札という単語は、àとtoutからできた。


39. 【表現】Il était toujours partant pour remplacer au pied levé un journaliste absent.(être partant pour 名詞/inf. ~に乗り気である。partantは元々partirの現在分詞)。(Elle est toujours partante pour une bière. 1杯のビールなら彼女はいつでも乗り気だ。)(au pied levé :上げられた足において=即興で、準備無しに、予期せず)


40. 【表現】ne rechignait pas à travailler。動詞rechignerは主に話し言葉で使われる。rechigner à + モノ/inf. ~を嫌がる、渋る


41. 【知識:アルジェリア系の俳優】Mais de nos jours, de grands acteurs d'origine algérienne comme Tahar Rahim, Leïla Bekhti, Reda Kateb, Biyouna tiennent des rôles non pas de Français d'origine maghrébine mais sont auditionnés et engagés au même titre que n'importe quel autre artiste français, pour leur talent et leur personnalité.けれども今では、アルジェリア系の偉大な俳優たち、たとえばタハール・ラヒム、レイラ・ベクティ、レダ・カテブ、ビユーナといった俳優たちは、彼らの才能や個性ゆえに、マグレブ系人の役を演じるばかりではなく、ほかのどんな出自を持ったフランス人俳優たちとも同じように、オーディションを受けたり、実際起用されたりしています。ちなみに、ビユーナ以外は全員フランス人である。ちなみに、Omar Sy(オマール・シー)という俳優が出ているサンバという映画がとてもいい。あと、レダ・カテブは、ジャンゴ・ラインハルトに関する2017年の伝記映画、『永遠のジャンゴ』にも出演している。『永遠のジャンゴ』は、第二次世界大戦中、ナチス支配下のフランスを舞台に、ロマ出身のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの戦時秘話を描いた伝記映画。


42. 【単語】revendiquer(権利として)…を要求する。revendiquer sa part d’héritage[自己の相続分を要求する]


43. 【単語】autochtone: 土着の, 原住の


44. 【単語】instigateur: 扇動者、推進者


45. 【表現】aux alentours de qc:


46. 【表現】au cours de qc。 ~の間に, 途中で(Au cours de son voyage en France, il a visité beaucoup de musées.[彼はフランス旅行中に多くの美術館を訪れた]


47. 【単語】historien érudit: 学識豊かな歴史学者。éruditが名詞なら、学識豊かな人, 碩学(せきがく)


48. 【知識】ハイチ、フランソワ・デュバリエによる独裁が1960年代にあった。ハイチの作家ダニー・ラフェリエールは非常に有名な作家。


49. 【文法】Dans cette ville où existait déjà une communauté haïtienne.(これが倒置されているのは、主部が長いから。)


50. 【種類の不定冠詞】Sa mère cuisinait les plats préférés de la famille accompagnés d'un bon rhum local.かずえられないはずのラム酒不定冠詞unがつくのは美味しい種類のラム酒だから。つまり種類だとかぞえられる。


51. 【表現】Son couple a volé en éclats.[彼女の結婚は粉々になって飛び散った。]


52. 【表現】L'éclat de ses yeux.[彼女の目の輝き。]


53. 【表現】L'éclat d'un saphir.[サファイアの輝き。]


54. 【表現】Un week-end sur deux[2週末につき1週末。]


55. 【表現】24 heures sur 24[24時間につき24時間(24時間営業)]


56. 【ensemble が副詞であることの意味】C'est simplement que notre route (ここにvécuあるいはsuiviの省略)ensemble(←副詞) prenait fin.[それは単に私たちの共に歩いてきた道が終わろうとしていた。]ちなみに、ここでプルネが半過去になっているのは離婚に至る途上にあり、徐々に終わっていくニュアンス。


57. 【強調構文】Est-ce à cause de problème culturel que vous vous êtes séparés?[離婚したのは文化の問題のせい?]


58. 【知識】フランスでは両親が離婚した場合、親権(la responsabilité parentale )は共同で所有される。


59. 【知識】マリ共和国はフランス語圏である。


60. 【知識】フランスには家族呼び寄せ(ルグルップモン・ファミリアル)という制度がある。EU圏外の人が最低18ヶ月以上フランスで働く場合にはこの制度を利用する。規定の書類があって、住居と収入の保証があって子供が18歳以下なら、移民労働者は家族をフランス国内に呼び寄せることができるのだ。


61. 【単語】Roissy (ロワシー)というのはシャルルドゴール空港の別名。


62. 【表現】Depuis le Mali[マリ共和国から]


63. 【文法:Ayantの省略】(Ayantの省略) sa carte de séjours en poche, elle s'est installée avec son époux dans le banlieue nord de Paris.[滞在許可証をポケットに入れて、彼女はパリの北の郊外に夫と住み着いた。Pocheに冠詞がないのは具体的なポケットではなく抽象的な所有を表すから。]


64. 【表現】Nous nous sommes retrouvés devant la gare.[私たちは駅の前で落ち合った。]


65. 【前置詞comme 】Comme +無冠詞名詞のときはとして。Comme babysitteur ベビーシッターとして


66. 【単語embaucher】Samia a été embauchée comme vendeuse.[サミアは販売員として採用された。]


67. 【単語cadre】Elle aime son cadre de travail.[彼女は自分の労働環境が好きだ。]


68. 【知識】HLM= Habitations à Loyers Modéré


69. 【表現】En contrepartie [その代償として]


70. 【表現】Très tard le soir [とても夜おそく]


71. 【表現】Elle pourra se rapprocher de l'aéroport.[彼女は空港に近づくことができるだろう。]


72. 【表現】Dans une des villes nouvelles autour de Paris qui poussent comme des champions.[きのこみたいに生えてくるパリの郊外の新都市(1970年代に開発された新都市のこと)のひとつの中で。]


73. 【複数形にすると具体的になる】一般的にいって、抽象名詞を複数にすると、具体性を帯びる。例えば、vacanceは、不在とか空白とか無という抽象名詞だがこれが複数形になってvacancesになると、バカンスの意味になる。vacanceの形容詞はvacantである。


74. 【知識】フランス語のコンフェティは、イタリアのお菓子ドラジェ。


75. 【知識】フランス語のtenez!がtennisの語源で、フランス語でテニスはjeux de pommes なのに、今ではフランス人もtennisという語を使う。


76. 【知識】L'Enceinte de Thiersパリ全体を取り囲んでいた城壁がティエールの城壁


77. 【知識】je le kiffe。口語で好きを意味する動詞キフェはアラビア語経由。


78. 【表現】Établissement hôtelier で、ホテル的な施設


79. 【表現】Milliers de kilomètres :何千キロも


80. 【単語】onéreux, se。費用のかかる, 高くつく。loyer onéreux[高い賃貸料]


81. 【知識】1756年の1月に生まれたのがモーツァルト。1755年の11月に生まれたのがマリー・アントワネット。二人は2ヶ月しか違わない。


82. 【表現:Aussi bien A que B】Il s'est fait des copains aussi bien au lycée que dans la résidence.[彼はうまく友達をつくった。寮でと同じように高校でも。]


83. 【表現】À part le climat, un peu trop froid et brumeux à son goût, il n'a pas problème d'adaptation.[天候を別とすれば、というのもそれは彼の好みからすれば寒すぎしモヤが多すぎるのですが、適応に問題はありませんでした。]


84. 【文法】siは、否定疑問文に肯定で答えるとき。たとえば、Enfin, si.いいえ、やっぱりそうではありません。このenfinは、「いいえ、もっと正確に言えば」というニュアンス。


85. 【表現】Sa famille lui manquait ainsi que le soleil et l'accent de Thaiti.[彼の家族と太陽とタヒチの口調が彼は恋しかった。]これは、英語のI miss youと語順が逆であることに注意。つまり、英語のI miss you.がフランス語ではTu me manque.の語順になるのだ。


86. 【表現】Depuis deux ans, il a été embauché avec un CDI dans une boîte de production qui fait des reportages sur la société et traite aussi les informations globales.[2年前から、彼はある制作会社で正社員として雇用されています。その会社は、社会についての様々なルポルタージュを制作し、またワールド・ニュースも扱っています。]。il a été embauché で彼は採用されたという意味で、CDI は、contrat à durée indéterminée 期間を定めない契約なので、正社員。


87. 【知識】CDD: contrat à durée déterminée 有期契約。これは非正規雇用。それに対して、CDI: contrat à durée indéterminée 無期契約。これは正社員。たとえば、il faut accumuler les stages avant d'avoir un travail en CDD et, avec de la chance, en CDI.[多くの研修を重ねた後、有期の仕事に就き、運がよければ正社員になります。]みたいに使う。


88. 【表現】Sa connaissance de l'arabe lui permet de faire des reportages dans les banlieues avec une forte population immigrée où il est reçu sans hostilité et il peut interviewer les jeunes qui se livrent plus facilement à lui.[アラビア語が話せるという強みのおかげで、移民系の住民がかなりの部分を占める郊外でも、彼はルポを制作することができます。彼はそこで、敵意なく受け入れられるし、より簡単に打ち解けてくれる若者達にインタビューすることだってできるのです。]ここは、qui se livrent plus facilement à lui.がポイントで、 se livrer à Aで、[Aに打ち解ける、身を任せる。]でも、代名動詞ではなく、単なる動詞の方のlivrerの意味は配達する、渡すである。この名詞形がlivraison。ちなみに、payable à la livraison だと、配達において支払い可能、つまり、代引き可能という意味になる。Elle ne se livre pas facilement.だと、[彼女は簡単には打ち解けない]という意味。


89. 【表現】un jour prochainの意味は、次の日ではなく近いうちになので注意。

 

90. 【justeに注意】il avait vu juste.だったら彼はやはり正しかったのだという意味になるが、この場合のjusteは副詞で「正しく、正確に」である。それが大過去に置かれているのだから直訳は「彼は正しく見ていた」になる。ただし、副詞のjusteは「ちょうど」の意味も、ある。たとえば、Il a 100 ans juste. [彼はちょうど100歳だ。]はその例。形容詞のjusteは「正しい、公平な、正確な」という意味で、例えば、Les professeurs doivent être justes. [先生は公平でなくちゃならない。]がそう。他にL'addition n'est pas juste. [勘定が正確じゃない。]などがある。副詞のjusteと形容詞のjusteを分けて考えること。


91. 【単語】intégrisme :キリスト教イスラム原理主義。ここではイスラム原理主義のこと。


92. 【単語】information :情報という意味だが、複数形で「ニュース番組」。略してinfoと言う場合も。たとえば、les infos sportivesだとスポーツニュースという意味。


93. 【表現】sur le terrain: 現場で


94. 【表現:se sentir mal à l'aise】Mais depuis quelques année, ave la montée de l'intégrisme en France, il se sent mal à l'aise dans sons pays.[けれども何年か前から、フランスにおけるイスラム原理主義の盛り上がりと共に彼は自分の国にいながら居心地の悪さを感じています。]


95. 【表現:主語が長いfaire queの文】Les récents incidents, injures, attaques visant la communauté juive font qu'il se pose des questions sur son avenir.[ユダヤ人コミュニティーに向けられた最近の事件、侮辱、攻撃などの結果、彼は自分の将来についていろいろ自問しているのです。]


96. 【表現: être pour beaucoup dans 】Les réseaux sociaux sont aussi pour beaucoup dans la propagation de cette forme de racisme.[ソーシャル・ネットワークもまた、こうした形の差別主義の伝搬と大いに関係があります。]être pour beaucoup dans A: Aと大いに関係がある、~において重要な役割を果たす


97. 【文法: 名詞は複数形にすると具体的になる。】Il n'a jamais souffert de ses origines.ここでoriginesが複数形になっているのは、抽象的な事実ではなく具体的な出自やルーツや文化や慣習に悩んだことがないということ。


98. 【文法】フランス語の複合過去はもともと現在完了の用法しかなかった。そこに時点の指定が副詞句によって付くことで、過去用法が出てきた。


99. 【表現】Elle se sentait incomprise. 自分が理解されていないと感じていた。 は<~>に形容詞がきている。ちなみに、副詞もこれる。il se sent mal à l'aise.は副詞句が来ている。

 

100.【表現: à son image,】Woody Allen décrit l'homme juif à son image, triste, dépressif, en désaccord avec son époque. [彼は自分をモデルにして、ユダヤ人を描きます。悲しげで、鬱っぽくて、自分が生きる時代に合っていない人間を。]


101.【表現:queが2つ出てくるイリヤの文の否定】il n'y a pas qu'en France que l'antisémitisme est en recrudescence.[反ユダヤ主義が再燃しているのはフランスにおいてだけではない。]


102.【知識】『質屋』を取ったハリウッド映画監督のシドニー・ルメットユダヤ人である。


103.【知識】2004年、イスラエルシャロン首相は、フランスにいる全ユダヤ人に、襲撃から身を守るためにイスラエルに移住すること(アリア)を呼びかけた。これは結局フランスの抗議によって撤回された。哲学者のミシェル・オンフレは、「フランスは世間で言われているほど反ユダヤ主義ではない」と微妙な言い方をしている。


104.【表現】J'ai cédé ma place à une femme enceinte. [妊婦さんに席を譲った。ここで所有冠詞がつくことに注意。]


105.【表現】La lutte contre la pauvreté est à l'ordre du jour. [貧困に対する戦いは、今日的な意義がある。]


106.【知識】juifs de confession:信仰を持ったユダヤ人。というのも、フランスにいるユダヤ人の約半分は無宗教。そもそも、confessionは、告白、白状、信仰告白という意味で、信仰告白ユダヤ人は、信仰を持ったユダヤ人という意味になる。


107.【文法:目的を表す<pour que ~>では、queの節の中が接続法になる。】たとえば、il faudrait que la situation se dégrade beaucoup pour que nous pensions à l'alya.[私たちがイスラエルに移住するためには、状況がずっと悪くなる必要があるだろう]このとき、pensionsは、penserの接続法現在形。ちなみに、il faut ~のque節の中もse dégradeは接続法になっている。他にも、Je t'attendrai pour qu'on aille au concert ensemble.[一緒にコンサートに行くために私は君を待っている。]このailleは接続法現在形。なお、ensembleは副詞でailleにかかっている。


108.【知識:ユダヤ系の映画人たち】Il y a aussi beaucoup de cinéastes et d'acteurs juifs, et la question juive est abordée dans les films.[やはり沢山のユダヤ系映画人や俳優がいますし、作品の中ではユダヤ問題も取り扱われています。]Par exemple le film Ils sont partout de Yvan Attal sur l'antisémitisme en France. Il se demande pourquoi le mot <juif> est devenu une insulte.[例えば、フランスにおける反ユダヤ主義を描いたイヴァン・アタルの「彼らはどこにでもいる」。その中で彼はなぜ「ユダヤ人」という語が悪口になったのか自問します。]On peut citer des films comme Les Aventures de Rabbi Jacob, une comédie culte indémodable du cinéma français où les préjugés antisémites affluent, ou Tellement proches, introduction caricaturale d'une conversion à la religion juive et les habitudes qui vont avec, et même Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu? où l'un des gendres est juif, ce qui prête à des vannes à répétition.[また、古びることのないフランスのコメディ・カルト映画である「ニューヨーク↔パリ大冒険」には、反ユダヤ的な偏見が溢れていますし、「こんなに似てる」では、ユダヤ教やそれに伴う慣習への転向が戯画的に描かれています。また「最高の花婿」では、花婿の一人がユダヤ人であり、そのことが繰返し冗談のネタとなるのです。]


109.【知識:フランス映画についてはこのページのバックナンバーを参照】https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/57


110.【知識:ロマについて】On parle beaucoup des Roms en France. Est-ce que ce sont des Roumains? Tu peux nous expliquer ça?[フランスにいるロマが話題になることが多いですけど、彼らはルーマニア人なんですか。説明してくれる?]- Oui, je vais essayer. Les Roms sont une population originaire du nord de l'Inde qui s'est déplacée à partir du 15ème siècle dans toute l'Europe.[はい、やってみましょう。ロマは、北インドに起源を持つ人たちで、15世紀以降にヨーロッパ全土へ移動しました。]Parmi eux, les Tsiganes, dont la musique est bien connue, se sont implantés en Europe centrale et orientale.[ロマの中でもツィガーヌ、その音楽はとても有名ですが、彼らは中央ヨーロッパと東ヨーロッパに定着しました。]Les Bohémiens en Bohême. On confond souvent Roms et Roumains.[そしてボヘミアンボヘミア地方(ドイツ語でベーメン地方)に定着したというわけです。ロマとルーマニア人はしばしば混同されます。]C'est une erreur, même s'il y a des Roms en Roumanie. L'EU a reconnu les Roms comme une minorité ethnique dont la particularité est de ne pas avoir de territoire.[しかしそれは間違いです。たとえルーマニアにロマがいるとしても。EUはロマについて、その独自性は領土を持たないことにある少数民族なのだと認めています。]ちなみに、フランスで有名なロマの映画は、ガッジョ・ディーロガッジョ・ディーロ(Gadjo Dilo)は1997年作成のフランス映画。トニー・ガトリフ脚本、監督。『ガッジョ・ディーロ』はロマ語で『愚かなよそ者』を意味する。映画の音楽が非常に良い。トニー・ガトリフ監督の父はアルジェリア人で、母はロマである。Tu peux nous en dire plus sur les populations nomades en Europe?[ヨーロッパにおける放浪の民についてもっと話してくれる?]-D'accord. Les Gitans sont les Roms installés en Espagne et au Sud de la France. [いいですよ。ジタンはスペインとフランス南部に定着したロマです。]Eux aussi sont un peuple nomade, et ils pratiquent souvent le métier de forains.[彼らもまた放浪する民族でヨーロッパでは彼らはしばしば興行師を職業としています。]C'est pourquoi on les appelle souvent gens du voyage.[彼らがしばしば「旅する人々」と呼ばれるのはそれが理由です。]Les Manouches, autre sous-groupe de Roms, vivent plutôt au nord de la France, au Luxembourg, en Belgique et au nord de l'Allemagne.[ロマの中のまた別のグループであるマヌーシュの場合は、フランスの北部、ルクセンブルク、ベルギー、そしてドイツ北部などで暮らしています。]Pour ces deux groupes, c'est surtout leur musique qui les caractérise: la musique gitane, le gipsy flamenco, comme le Gipsy Kings, et le jazz manouche de l'inoubliable Django Reinhardt.[これら2つのグループの場合、彼らを特徴づけているのはとりわけ音楽です。それは、ジプシー・キングスのようなジタンの音楽やジプシー・フラメンコであり、忘れがたいジャンゴ・ラインハルトの、マヌーシュ・ジャズなのです。]


111.【単語】bourg(ブール)町,  市場(★villeとvillageの中間)。書き言葉でよく用いられる。


112.【表現】Tu répugnes à te marier? 結婚するのは嫌なの?


113.【文法:感嘆文のポイント(感嘆の用法の場合、肯定文と否定文で意味の差はない。)】Quelle n'a pas été ma joie lorsque tu es née![おまえが生まれたとき、どんなに嬉しかったか。]感嘆の用法の場合、肯定と否定で意味の差はない。Quelle a été ma joie lorsque tu es née!とまったく同じ意味になってしまうのだ。Quelle n'a pas été ma surprise d'apprendre que..! と、Quelle a été ma surprise d'apprendre que ..!も同じ意味。


114.【事実を表すsi:「けど」「のに」と訳すsi】siは、仮定ではなく、事実を表すことがある。この場合、反復・対立・理由などの意味になる。たとえば、譲歩の意味だと次のようになる。si j'avais une légère appréhension avant de passer sur le siège du dentiste, j'ai été parfaitement soignée[ちょっと心配だったけれど、治療は完璧だった]これを、「もし心配だったら」と訳してはいけないのだ。他にも、Si j'avais bien fermé la porte, en revanche, la fenêtre était restée ouverte. Un voleur est entré dans la maison![ドアはちゃんと閉めたけど、窓は開けっ放しだった。泥棒が入った。]Si j'avis bien noté l'heure du départ, je n'avais pas vérifié l'aéroport. Je suis allé à Narita au lieu de Haneda.[出発時間には注意していたのに、空港を確かめなかった。羽田ではなく成田に行ってしまった]となる。


115.【表現】Les tremblements de ses mains trahissaient sa peur.[手の震えが彼の恐れを暴露した。]他にも、Seul l'accent du docteur trahit son origine étrangère mais la qualité des soins ne laisse pas à désirer.[ただ医師の発音だけが、彼が外国から来たのだと告げていますが、治療の質は、言うことなしなのです。]


116.【表現】il sait se faire discret。そもそも、savoir + inf : ~できる。~する術を心得ている、~するのが上手いというニュアンスで、そのあとに属詞が来ることができる。ここでは、属詞discret (人が)慎み深い、控えめな、が来ている。たとえば、Il lui a fait un complément discret.[彼はさりげなく彼女を褒めた。]Le parfum discret de la rose.[バラのほのかな香り]みたいに使う。「控えめ」というとすぐにmodesteを意識するが、それだけではない。


117.【表現:comme il l'entend:好きなように】il apprécie la liberté d'être son propre patron, de pouvoir organiser son emploi du temps comme il l'entend, et de rencontrer beaucoup de clients, la plupart du temps sympas.[彼は、自分が自らの雇い主であり、スケジュールを自分の好きなように決められ、沢山の、そしてその大半が感じがいいお客さん達と出会うという自由が、とても気に入っているのです。] 動詞は<entendre + inf.>「~することを望む」で、動詞organiserを中性代名詞leで受けている。


118.【文法:条件法過去のニュアンス(仮定節の省略)】Hakim me dit qu'il ne gagne pas beaucoup, pas autant qu'il aurait espéré.[ハキムが私に言うには、稼ぎはそれほどよくない、つまり彼が期待しただろうほどではない]。aurait espéré は条件法過去。siの節が省略されていて「もし事業を始めたときに具体的に期待していたとしたら、そのときに期待しただろうほどには稼いでいない」、ということ。もしここが、espérait になっていたら、かつて実際に金額を想像していてその金額ほどではない、ということになる。つまり、このとき事実としては事業を始めたときに稼げる具体的な金額は期待していなかったことが言外に言われているのだ。


119.【表現:arriver à inf:~することに成功する、うまく~できる】si on veut faire une carrière internationale, ce n'est pas en restant en Belgique qu'on va y arriver!の構造がわかるだろうか。<à inf.>の部分が中性代名詞 y になり、y arriver となる場合がある。例文としては、Tu as réparé ton imprimante ?[プリンター直せた?]Non, je n'y arrive pas.[いや、直せてない]などがある。他にも、J'arrive enfin à lire les kanjis mais je n'arrive pas encore à les écrire.[なんとか漢字は読めるようになってるけど、まだ書けるようにはなってない。]などがある。ここは、ce n'est pas en restant en Belgique qu'on va y arriver !であるが、これは、[à faire une carrière internationale]の部分が中生代名詞yに変わったと考えられる。だから、強調構文を元にもどすと、on ne va pas y arriver en restant en Belgique.となるのだ。つまり、「人がそうすること(=国際的なキャリアを築くこと)に成功するのは、ベルギーにいながらにしてではない」という直訳になるわけである。


120.【表現:un fait notoire:周知の事実】Il est notoire que le Président est mondialiste. 大統領がグローバリストなのは周知のことだ。


121.【知識:ベルギーについて】ベルギー人といえばイラストレーターというクリシェがフランス人にはある。Flamand:フラマン人は、ベルギー北部に住み、フラマン語を話す人々。ベルギー全体の60%。またフラマン語オランダ語の一方言とされている。Wallon:ワロン人はベルギー南部に住み、ワロン語を使う人たち。ワロン語は、フランス語の一方言とされている。ベルギー人の絵といえば、フィリップ・グルックの猫の絵と、エルジェのバンド・デシネと、ルネ・マグリットである。


122.【se devoir 当然そうすべきである: comme il se doitの形で非人称用法】J'ai une amie belge Claudie, dessinatrice comme il se doit, qui passe beaucoup plus de temps à Paris qu'à Bruxelles.[私のベルギー人の女友達、クローディーは、予想どおりイラストレーターで、ブリュッセルよりもパリで、はるかに多くの時間を過ごしている。] comme il se doitは「当然のことながら、予想どおり」という意味。se devoirは、当然そうすべきである。ここはcomme il se doitの形で非人称用法。フランスには、ベルギー人と言えばイラストレーター、というクリシェがある。devoirの非人称用法は、comme il se doit以外には現れることがない。


123.【文法:種類の冠詞について】イディオムであるfaire carrière:「出世する、名をあげる」のcarrièreは、無冠詞かと思いきや、Elle a fait une carrière remarquable.[彼女は目覚ましい出世をした。]などの場合に冠詞がついてくる。なぜこうなるかといえば、形容詞が付くことで同時に種類の不定冠詞uneがついたのだ。


124.【知識】le Royaume-Uni de Grande-Bretagne et d'Irlande du Nord[グレートブリテン及び北アイルランド連合王国] ちなみに、l'Écosseは「スコットランド」で、le Pays de Gallesは「ウェールズ」で、l'Irlande du Nordは「北アイルランド」。


125.【自虐ネタ:autodérision】Les Belges font beaucoup d'autodérision, d'autocritique.Ils se moquent d'eux-mêmes, d'être un petit pays, de n'avoir pas grand-chose à part le Manneken-Pis, les moules et les frites, le chocolat, la bière... [その上ベルギー人は、自虐ネタや、自分のあら探しも沢山やります。からかいの対象となるのは、自分たち自身、ベルギーが小さな国であること、ベルギーには大したものがないこと、小便小僧、ムール貝とフライドポテト、チョコレート、ビール・・・を除いて。]


126.【属詞の位置に数詞が来るときのde】動詞がêtreで、その後に数値(値段や人数)がくるとき、<être de 数値>の形になる。たとえば、Il ne faut pas oublier que les francophones ne représentent que 40% de la population belge qui est d'un peu plus de 11 millions.[ベルギーの人口は1,100万人ちょっとなんですが、忘れてはいけないのは、フランコフォンはその40%を代表しているに過ぎないということです。]とか、他にも、La taxe à la consommation est de 10%. [消費税は10%だ。]などがこれにあたる。


127.【表現】Tu as intérêt à te taire. [黙っているほうが身のためだぜ。]


128.【表現tandis que lui】Ses parents ont commencé à travailler dans un atelier de confection tandis que lui est entré à l'école primaire où il a très vite appris le français.[リーが小学校に入った頃、彼の両親は、既製服を製造する店で働き始めました。彼は小学校で、すぐにフランス語を身につけました。] ここで強勢形のluiは、両親との違いを強調するために使われている。


129.【表現issu de:出身である】les enfants issus de diverses communautés sont très nombreux dans ce quartier cosmopolite et ils avaient tous un surnom. [この様々な民族の暮らす地区には、様々なコミュニティー出身の子どもたちが多く、彼らもみな、それぞれあだ名を持っていたのです。] ちなみに、Français issu de l'immigration は、「移民系フランス人」。それに対して、Français de soucheは、「生粋のフランス人」。


130.【表現】atelier de confection: 既製服製造店


131.【接頭辞の<a->】apprendre「習得する、学ぶ」の意味だが、「教える」という意味もある。一見逆の意味を持つのは、接頭辞の<a->は「到達点」を表すため。apprendreは「(知識などを)prendreする到達点」に焦点がある単語で、その到達点が主語に到達するなら「学ぶ」となり、主語ではない側に到達するなら「教える」になる。「到達点」は違うとしても、「到達点」を意識しているという点で、「学ぶ/教える」は、同じapprendreを使って表現できる。J'apprends le français.[フランス語を学ぶ。]は、フランス語が主語に到達する。J'apprends le français aux étudiants.[学生にフランス語を教える。]は、フランス語が生徒に到達する。ただ実際には「教える」には基本<à 人>が付く。apporter[持ってくる/持って行く]、amener[連れてくる/連れて行く]も、なぜ同じ単語なのに逆の意味になるのかという問いには同じ理屈で答えられる。


132.【souffre-douleur:いじめられっ子】Certains enfants sont les souffre-douleur de la classe parce qu'ils ont des difficultés à étudier ou bien ils sont moqués pour leur physique. Et puis il y a des élèves qui sont rackettés par d'autres.[中には勉強が苦手だという理由でクラスのいじめられっ子になったり容姿をからかわれたりする子もいます。そしてまた、他の子にゆすられる子もいるのです。]ちなみにこういうイジメをbrimade:「(新人などの)いじめ」という。これは動詞brimerの名詞形である。


133.【知識:グザヴィエ・ドラン】Je vois où tu veux en venir: tu penses à Xavier Dolan, non?[何の話をしたいのか、分かりますよ。グザヴィエ・ドランのことを考えているんでしょう。]On parle de lui comme d'un réalisateur / acteur de génie. C'est vrai qu'avoir réalisé un film comme "J'ai tué ma mère" à tout juste 20 ans, ça tient du prodige.[彼は、才能ある監督・俳優として語られてますけど、たしかに「マイ・マザー」のような作品を二十歳ちょうどで撮るなんて、ほとんど奇跡ですよね。]Il a été récompensé plusieurs fois à Cannes avec le déchirant "Mommy" ou "Juste la fin du monde" qui a reçu le Grand Prix du festival en 2016.[カンヌ映画祭でも、彼はあの胸を引き裂く「マミー」などで何度も受賞していて、2016年には「たかが世界の終わり」でグラン・プリも獲得しています。]C'est sans aucun doute notre réalisateur québécois préféré et nous attendons toujours ses films avec impatience.[間違いなく彼はフランス人に人気のあるケベック人監督で、いつだって彼の新作は待ち遠しいのです。]カナダ人で映画監督であり俳優でもある若き才人のグザヴィエ・ドランの作品は『僕たちのムッシュ・ラザール』がおすすめである。というのも、この映画ではアルジェリアとカナダの関係が浮き彫りになるからだ。


134.【セリーヌ・ディオンにはフランス語のアルバム『フレンチ・アルバム』がある。】カナダ東部のケベック州はフランス系移民(フランス系カナダ人)の多い地域であり、人々はフランス文化に誇りを持ち、フランス語(カナダ・フランス語)を公用語としている。1968年、セリーヌ・ディオンはそのケベック州シャルルマーニュモントリオール郊外)で、ミュージシャンの両親のもと、14人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。1995年のアルバム『フレンチ・アルバム』は、フランス語アルバムとしては史上最多売上枚数を記録した。


135.【表現:ménagé sa peine:惜しまず】Ses parents n'ont pas ménagé leur peine et leurs journées de travail étaient longues.[彼の両親は骨身を惜しまず働き、長い一日を送りました。]そもそもメナージュには「家事」という意味があって、「節約する」「大切にする」という意味もあった。


136.【féru de A: Aに夢中で】Maintenant, Li est un trentenaire féru d'informatique et avec deux copains, il vient de lancer une start-up qui doit développer des services à la personne.[現在、リーはコンピューターサイエンスに夢中の30歳で、二人の友人と共に、個人向けの各種サービス向上を図るベンチャービジネスに乗り出したところです。]


137.【知識:フランスにおいて中国系移民の出身地として有名なのは温州。そして、トンチン制度を利用してベルヴィル地区のたばこ屋兼バーを営んだりするのがクリシェ。】フランス語でWenzhou「温州」は、中国浙江省の海岸都市である。中国では1980年代に改革開放政策があったので、中国系の移民を多く出したのだ。パリのベルヴィル街の西側(メトロのベルヴィル駅やメニルモンタン駅があるほう)はものすごく坂の多い街で、「温州」という名前がついた中華料理屋が多かったりする。Ses parents profitant du système de la tontine ont racheté un bar-tabac au bas de la rue.[それから彼の両親は、トンチン制度を利用して、通りの低くなった場所にあるタバコ店兼バーを買い取りました。]C'est ainsi que de nombreux bars-tabacs sont de nos jours possédés par des descendants des Chinois issus de l'immigration.[今日でも、多くのタバコ店兼バーの所有者が、移民系中国人の子どもや孫たちであるのは、そんな事情があるからです。]トンチン制度は17世紀のイタリア人ロレンツォ・トンティから来ていて、彼はフランスに亡命してルイ14世のもとで互助的・相互扶助的な年金制度を作った。


138.【英語のhardは形容詞と副詞の用法があるが、フランス語は事情が複雑なことになっている。】例えば、Il a étudié dur, et a pu entrer dans une grande école de commerce et en parallèle, il s'est formé tout seul en informatique.[リーは猛烈に勉強し、商業のグランド・ゼコールに入ることができました。しかも彼は、それと並行して、コンピューターサイエンスも独学で身につけたのです。]のように、durが副詞「猛烈に」に意味で使われていることが分かる。しかし、これは会話体が主であって、フランス語にはdurementというれっきとした副詞が存在する。しかし、もちろん形容詞もあって、œuf dur:固ゆで卵のようにdurが形容詞の用例もたくさんある。


139.【文法:se faire + inf】il se faisait disputer par son père [彼は叱られたものだ]において、再帰代名詞seは他動詞disputer(人を叱る)の直接目的語になっている。しかし、Je me suis fait rembourser mes frais médicaux.[私は医療費を払い戻してもらった。]においては、は、再帰代名詞seはrembourserの間接目的語になっている。どちらの場合もinf.の主語を示したい場合は、parによって示すことができる。ちなみに、まれにinf.が自動詞でseはその主語という形もある。たとえば、Elle essaie de se faire maigrir[彼女は痩せようとしている]。この場合、par elleで動作主を表現するのはおかしい。


140.【知識:モントリオール】カナダのモントリオール(フランス語でモン・レアル)に初めてフランス人がやってきたのは、ポルトガル人が種子島に到着したのとほぼ同じ16世紀の前半の出来事である。モントリオールは、仏英のバイリンガルがとても多い街。


141.【表現:pour être précis】Sois un peu plus précis.[もう少しはっきりしてよ]


142.【接頭辞のpour-:完全に、徹底的に】poursuivre :追いかける、追い求める。


143.【表現:resterを使った非人称構文】① il reste à inf. à A[Aにとって~することが残っている]と② il reste A à B [BさんにAが残っている]を区別する必要がある。①Il nous reste à mieux connaître nos cousins québécois. [私たちはこれからケベックの「いとこたち」のことをもっとよく知らなくちゃならない。]①J'ai fini mon devoir. Il me reste à l'envoyer par mail à mon professeur.[宿題が終わった。あとはそれをメールで先生に送らなきゃならない。]①J'ai loué un studio. Il me reste à acheter quelques meubles.[ワンルームを借りた。後は家具をいくつか買わなきゃならない。]②Il me reste 3 jours de congés payés à prendre.[ぼくには有給休暇があと3日残ってる。]②Il ne reste qu'un seul objectif à Kei: gagner la finale.[ケイには、たった一つの目的しか残っていない。決勝に勝つことだ。]


144.【文法:相関語句という発想を身につけよう】Et nous connaissons mieux la France que vous, les Français, vous ne connaissez le Québec.[私たちは君たちフランス人がケベックを知っているよりも良くフランスのことを知っている。]この文は注意点が3つもある。①まず、この文の相関語句はmieuxとque+SVである。②そして、 vous, les Français, vousのところはいったいどうなっているのかというと、ひとつめのvousは強勢形である。ふたつめのvousは、que節内部の主語になっているのだ。③そして、que節内のneはあなたたちはケベックのことを知らないという心理的な否定が、比較文の中で現れた虚辞のneである。


145.【Ça vient とÇa va】Ça vient とÇa vaは何が違うのかというと、前者は、「これから大丈夫になるでしょう」というニュアンスで、後者は「今大丈夫です」というニュアンスなのだ。だから、Ça vient は、Ça va allerと互換可能な場合が多い。


146.【知識:ミュージシャンのストロマエ】Stromae est un chanteur belge né en 1985 de mère belge et de père rwandais.[ストロマエは1985年生まれのベルギー人歌手で、母親はベルギー人、父親はルワンダ人です。]En 1994, lors du génocide des Tutsi au Rwanda, son père et une grande partie de sa famille sont massacrés.[1994年のルワンダでのツチ族虐殺のとき、彼の父親とその家族の大半が虐殺されました。]Il connait un succès mondial en 2010 avec la chanson <Alors on danse>, et en 2013 la chanson <Papaoutai (Papa où t'es)> et <Formidable>.[彼は2010年の Alors on danse で世界的にブレークし、2013年の Papaoutai(パパはどこにいるの?)と Formidable を大ヒットさせました。]Il compose aussi pour les autres artistes, mais fatigué, il a pris une retraite anticipée.[ストロマエは他のミュージシャンにも曲を提供しているのですが、疲れてしまい、早めの引退をしてしまいました。]Cependant tout le monde espère et attend son prochain album.[みんなが彼の次のアルバムを期待し待っているのです。]


147.【知識:ennemi public numéro 1 】フランスにはennemi public numéro 1という映画があって、主人公は、Jacques Mesrine(ジャック・メリーヌ)という有名な犯罪者。


148.【単語】un Tokyoït:東京人、une Tokyoïte:東京の女性。


149.【単語】un soutien-gorge:ブラジャー(のどささえ)


150.【単語:サッカー基本用語】PSG(paris saint-germain)はパリのチーム。マルセイユのチームOM(オランピック・ドゥ・マルセイユ)のチーム・カラーは青と白。maillot(m.):ユニフォーム。domicile:ホーム用。extérieur:アウェイ用。écharpe(f.):スカーフまたは、(サッカーの応援などに使われる)タオルマフラー。


151.【文法:代名動詞の大過去】Je m'étais beaucoup attaché à mon neveu et j'étais triste de le voir partir à l'étranger.[(その時点まで)甥をとても可愛がっていたので(大過去)、(その時点で)甥が外国に行ってしまうのは寂しかった(半過去)。] je ne m'étais pas rendu compte à quel point Mehdi était un vrai Marseillais.[ぼくはどれほどメディが真のマルセイユ人かを分かっていなかった。]


152.【否定の冠詞deについて】Qu'est-ce que c'est une colonie de vacances?[colonie de vacances って何?] Comme tu le sais, en France, la plupart des mères travaillent.[知ってると思うけど、フランスでは大半の母親たちが仕事を持ってるでしょ。]Alors, pendant les vacances d'été, les enfants qui n'ont pas d'endroit où aller sont accueillis pendant un mois dans des centres de vacances où ils sont encadrés par des moniteurs et monitrices (souvent des étudiants) et ils font des activités tous les jours: promenades, pique-niques, excursions, visites culturelles, baignades, différents sports, jeux de pistes, chants, danses etc.[だから夏休みの間、行くところがない子どもたちは、1ヶ月間休暇村に滞在するの。そこでは男女の指導員(たいていは学生ね)がいて、子どもたちの面倒をみるわけ。毎日いろんな活動があって、散策、ピクニック、遠足、文化施設の訪問、水浴、様々なスポーツ、オリエンテーションゲーム、そして歌ったり踊ったりとか。]En principe, ils ne font pas de travail scolaire![基本的に、学校のお勉強は無しね。]←ここで、なぜtravailに冠詞がないのかというと、否定文で、「ない」というときには、deしか付かないからである。


153.【構文:autant A que B】Les soirs de Classico, c'est autant une confrontation entre deux équipes rivales et deux villes qu'un matche de foot.[クラシコパリ・サンジェルマンとオランピック・マルセイユの対戦)の夜、そこで行われるのはサッカーの試合であるのと同時に、2つのライバルチームの、そして2つの都市の対決でもある。]


154.【知識:la série de films TAXI】マルセイユを主な舞台とするアクションコメディ映画『タクシー』シリーズ。1998年から5作公開され、1~4作の主人公を務めたSamy Naceri(サミー・ナセリ)はアルジェリア系の俳優で、一方劇中の彼の恋人の父親は、アルジェリア戦争に参加したフランス軍人という設定。つまり、義理の息子と義理の父親が、戦争の敵方どうしというスリリングな設定なのだ。


155.【文法:知覚動詞の訳し方】il n'est pas rare de voir des incidents et des bagarres éclater entre les supporters.[侮辱の言葉はそこらじゅうで聞かれるし、サポーター同士の間でいざこざや乱闘が起きるのを目にするのも珍しいことじゃない。]知覚動詞 + 直接目的語 + inf.[直接目的語がinf.するのを○○する]と訳そう。この形になるのは、voir のほかregarder 、entendre 、sentir などがある。すべて、「直接目的語が動詞原形するのを○○する」という意味になる。Elle regarde les dizaines de bateaux quitter le port d'Amsterdam.[何十隻もの船が、アムステルダムの港を離れていくのを彼女は見る。]Dans le Midi, c'est agréable d'entendre les cigales chanter au crépuscule.[南仏で、黄昏時にセミが歌うのを聞くのは気持ちがいい。]Sur le bateau, je sentais le vent caresser mes cheveux.[船上では、風が私の髪を撫でるのを感じていた。]


156.【知識:インドのフランス植民地:インドにはかつて5つのフランス植民地があった。そして、ポンディシェリにはタミル人(Tamoul)が多くいた。】Quand ma mère était à l'école, elle apprenait par cœur les noms des cinq colonies généralement appelées <comptoirs>, que possédait la Compagnie française des Indes orientales en Inde: Pondichéry, Chandernagor, Mahé, Yanaon et Karikal.[母は学校時代、インドにおけるフランスの5つの植民地の名前を暗記したものだ。それらは、フランス東インド会社がインドに所有していたもので、一般には商館(長崎の出島にもあった貿易拠点)と呼ばれている。5つというのはつまり、ポンディシェリシャンデルナゴル、マーヒ、ヤナム、そしてカーライッカールのことである。]Ces possessions françaises ont été rétrocédées à l'Inde entre 1950 et 1954.[これらのフランスの領地は、1950年から1954年の間にインドに返還された。]Mais il reste encore quelques vestiges de la colonisation française en Inde.[けれどもインドにはなお、フランスによる植民地の名残がいくつか残っている。]C'est pourquoi il existe à Paris une diaspora indienne venue en grande partie de la région tamoule de Pondichéry.[だからパリには、多くはポンディシェリのタミル人地区からやってきたインド系の人たちによって形成される、コミュニティがある。]ここの、rétrocéderは、「~を再譲渡する、返還する」(接頭語 rétro- は「後方へ、遡って」rétrospectif 回顧的な、過去に遡る。rétrospective:回顧展)。ちなみにフランスは当初インドに関税権だけを返還して済ませようと試みたが失敗し、行政権も返還した。


157.【知識:フランス東インド会社関連の単語まとめ】La Compagnie française des Indes orientales:[フランス東インド会社]。要するに、「東インド会社」とは、政府から独占的な貿易圏を認められた特殊な貿易会社であり、植民地における貿易(搾取)と領土支配の拠点となった。


158.【知識:フランスの東インド会社の発展の歴史】【1604年】アンリ4世 Henri IV の時代に東インド会社が(イギリス、オランダの後に)設立された。【1664年】ルイ14世 Louis XIV 時代にフランス東インド会社の活動開始(←重商主義 le mercantilismeの時代)【1674年】インドの都市ポンディシェリがフランス領になる。【1757年】プラッシーの戦いで、インドの利権をめぐる英仏の戦争でフランスがイギリスに敗北→インドにおけるイギリスの覇権(l'hégémonie)が確定。プラッシーの戦いフランス革命の30年ほど前の事件である。【1947年】インド、イギリスから独立。【1954年】民族運動(le mouvement ethnique)の高まりにより、仏は最後まで残った植民地、ポンディシェリシャンデルナゴルをインドに返還←インドシナ戦争(la guerre d'Indochine)のディエンビエンフーの戦いでのフランスの大敗北の結果。なお、プラッシーの戦いは、同時期に7年戦争、フレンチ=インディアン戦争も行われており、これは英仏の植民地戦争の一環でもあった。


159.【tout +無冠詞名詞単数】Anandi est venue très jeune en France et a été élevée comme tout enfant français et ses parents adoptifs veulent lui faire connaître un peu de la culture de son pays d'origine qu'eux-mêmes apprécient.[アナンディは、まだとても若いときにフランスにやってきて、フランス人のどんな子どもとも同じように育てられた。養父母自身、アナンディの故郷の文化を愛好していて、二人はその幾分かをアナンディに知らせたいと望んでいる。]ここのtrès jeune は、主語のアナンディと同格で、実質的には「時」を表している(→とても若かったときに)。この無冠詞名詞単数にかかるtoutは、「他のどんな子どもとも同じように」という意味になっている。


160.【単数名詞にかかるtoutのふたつの意味:①どんな、②すべての、~全体】①à tout âge[どんな年齢でも]、①à toute heure[どんな時刻でも]、②toute le monde[全ての人々]、②toute la journée[一日中]。この①と②の違いは、①は無冠詞名詞に係っているのに対し、②は定冠詞を伴う名詞にかかっているということ。


161.【表現:qui dit 無冠詞A dit 無冠詞B:Aと言えばBだ。】Qui dit études dit travail.[勉強と言えば仕事]Qui dit Inde dit curry.[インドと言えばカレー]


162.【浮遊している名詞句は、意味上の仮定を表すことがある。】Un peu de poudre de curry sur des légumes sautés et l'on a un plat original.[炒めた野菜にカレー粉を振りかければ、オリジナル料理の出来上がりという訳だ。]


163.【表現:料理のソテーについて】おどろくべきことに、動詞のsauterには、「油で炒める」などという意味はない。しかし、それが過去分詞となった形容詞であるsautéには、「油で炒めた、ソテーした、」という意味がある。そもそも、自動詞のsauterは、「跳ぶ、跳ねる」という意味で、faire sauter A:で、「Aをソテーする(←フライパンの上でAを跳ねさせる)」なのだ。だから、Faire sauter la viande. [肉を炒めてください]とレシピには書かれている。これは、自動詞のsauterをあくまでも使っているということなのだ。


164.【知識:1828年からあるパリのショッピングセンターPassage Brady à Paris:ここは、インドの雑貨屋があって、ベンヤミンが夢そのもののようだと評した場所である。】Les parents d'Anandi l'emmènent parfois dîner dans un restaurant indien du Passage Brady à Paris où l'on trouve toute l'Inde en un seul lieu: boutiques de tissus, encens, restaurants.そこでアナンディの両親が、時折彼女を夕食に連れ出すのは、パリのパッサージュ・ブラディーにあるインド料理レストランへだ。このパッサージュ一ヶ所だけで、インドの全てと出会うことができる。布地を売る店、お香、レストラン。(なお、ここの接頭辞em- は、「どこかからの移動」に焦点を当てている。「到達点」が重要だったamener とは異なる。emmener 人 inf.は、「人を~しに連れて行く」という意味だが、ここでは<inf.>の位置に、dîner がきている。ここで問題になっているのは到達点ではなく、どこかからの移動なのだ。)ちなみに、ここで、toute l'Indeとなっており、これは、女性名詞単数定冠詞付き名詞にtoutがついている形だが、これだと、「どんな」ではなく「すべての」という意味になる。


165.【文法:同格の無冠詞】同格の場合、後にくる名詞は無冠詞になるのが原則。たとえば、Après avoir terminé ses études dans une grande école, elle a commencé à travailler dans une banque où elle a rencontré son futur mari, cadre commercial.[グランド・エコールでの学業を終えた後、彼女は銀行で働き初め、そこで未来の夫と出会った。彼は営業部の管理職だ。]などがそれにあたる。cadreが同格で無冠詞だからだ。ちなみに、ここで使われているcadre commercialは、営業部の管理職という意味である。cadreには管理職という意味があるのだ。


166.【単語:situation とplace の違い】situationは、社会などの情勢、個人の状況、地位、職などを表す語である。「地位、職」を意味する語としては、emploiが一般的で、placeは低い地位、situationは高い地位を表す語として使われる傾向がある。たとえば、Ils ont deux enfants maintenant, une bonne situation, un bel appartement près du canal Saint-Marin.[今、彼らには2人の子どもがいて、恵まれた職業と、サン=マルタン運河近くの立派なアパルトマンもある。]これは、高い地位として使われている用例である。


167.【単語:bobo】bobo<英語のbourgeois bohemianの略。Le terme de bobo signifie bourgeois-bohême.[この単語は、フランス語のbourgeois-bohêmeを意味する。]On le trouve déjà dans le roman Bel-Ami de Maupassant.[この言葉はモーパッサンの『ベラミ』(1885)にもう既に出てきてるんですよ。]日本語に訳すとすれば、「ボヘミアン志向の裕福な若者」となる。En effet, l'est parisien, quartiers populaires autrefois délaissés par les gens aisés, est maintenant prisé par les <bobos>, catégorie sociologique dont fait partie Leila, et elle le revendique pleinement.[確かに、パリの東側は、かつてはゆとりのある層からは顧みられない大衆的な街だったが、今ではそこに「ボボ」が住み着いている。「ボボ」とは、レイラ自身も属している社会学的な階層のことで、彼女もそれを十分自覚しているのだ。]ちなみに、ここでも、quartiers populaires には冠詞がない。これは、同格の無冠詞が効いているからなのだ。複数形なのは、街がいくつもないとパリの東側にならないからだ。ちなみに、パリで一番家賃が高くて人気なのは、パリの中心に近いアパルトマンである。


168.【文法:現在分詞の複合形には時制がない。】現在分詞の複合形というのは、それ自体に固定された時制があるわけではなく、主節の時制を基準として、それより前に完了したことのみを表す。だから、主節が複合過去なら、Après avoir のような完了不定詞と同じように、実質大過去となる。たとえば、Ayant été formée au lycée français de Beyrouth, Leila n'a eu aucun mal à s'intégrer en France.[ベイルートのフランス系の高校で教育を受け(てい)たので、レイラはフランスに溶け込むのに何の苦労もなかった。]などがその例である。現在分詞の複合形の基本的な形は<助動詞の現在分詞+過去分詞>だが、直前の文では動詞formerが受動態になっているので、過去分詞の位置にétéがきている。formerはここでは「(人など)を育成する、仕込む」という意味である。他の例だと、Étant arrivé en avance, j'ai pris un café au bistrot du coin.[先に着いたので、すぐ近くのビストロでコーヒーを飲んだ。]とか、Ayant déjà reçu les résultats de son examen, il a pu passer des vacances sereine.[すでに試験の結果を受け取っていたので、彼は晴れ晴れとヴァカンスを過ごすことができた。]などがある。両方とも主節が複合過去なので、Étant arrivé も Ayant (déjà) reçu も、実質的には(つまり意味的には)大過去を表現している。ただ、現在分詞の複合形それ自体が固定された時制を持っていると考えるのは間違いである。なお、この現在分詞の複合形の場合、étant は省略可能で、つまり、直上の文は、Étant arrivé en avance,ではなく、Arrivé en avance,でもよいのだ。(ただし、Ayant は省略できないので注意すること。)現在分詞の複合形の助動詞が、étantになるのは、場所の移動等の自動詞か、あるいは受身の場合だけなので、そのときはその助動詞を省略できるのだ。


169.【知識:フランスとレバノンの関係】Quelles étaient les relations entre la France et le Liban?[フランスとレバノンの関係って、どんなものだった?]- En 1860, la France est intervenue au Liban sous le prétexte de mettre fin à des troubles internes.[1860年、内乱を終わらせるという口実で、フランスはレバノンに介入しました。]Puis l'autonomie du pays a été garantie par l'Europe.[その後レバノン自治権は、ヨーロッパによって保障されました。]Lors de la dislocation de l'Empire Ottoman en 1920, le Liban a été placé sous mandat français par la Société des Nations, ce qui a entériné la séparation du Liban de la Syrie.[1920年オスマン帝国が崩壊すると、レバノン国際連盟(la Société des Nations)によりフランスの委任統治(mandat français)下に置かれました。その結果、レバノンとシリアは分裂することになったのです。]De ce fait les liens entre la France et le Liban sont très forts, même après l'indépendance en 1943.[こうした事実から、1943年の独立以降でさえ、フランスとレバノンはとても強く結びついています。]La communauté francophone est importante avec 35 établissements scolaires enseignant selon les programmes français.[フランス語コミュニティーは大きく、フランスのカリキュラムに沿って教育する学校が35にも上っています。]


170.【知識:移民用語(同化のニュアンス)】s'intégrer「統合される」と意味の近い語に、s'assimiler「同化される」があるが、s'intégrerがサラダボール的(トマトもレタスも形は残っている)な同化なのに対して、s'assimilerはるつぼ的(ミキサーにかけられて元の形はない)な同化なのだ。


171.【なぜ、否定のdeがつかないのか】on n'a plus le temps[もう時間がありません。]なぜ、この文では否定のdeにならないのだろうか。それは、もともとの肯定文avoir le temps:時間があるの冠詞が、leつまり定冠詞なので、否定になっても、「否定のde」にはならないからだ。


172.【知識:パリの大きさは半径6kmの円で、猪苗代湖とほぼ同じである。】ils se déplacent à vélo dans Paris.[彼らはパリを自転車で移動している。]という文の中で、à Parisではなく、dans Parisが使われているが、これは、パリを点ではなく広がりとして認識しているからである。猪苗代湖を点としてみるか空間としてみるかはスケールによるのだ。「半径6kmの円が点になるものか」と普通は思うが、ところがどっこい、言語は人間の認識の仕方の反映であって、世界そのものの反映ではないからこうなるのだ。


173.【知識:エコロジーについて】そもそも、「エコロジー」という単語自体は、19世紀後半(=1800年代の後半)にドイツで初めて現れ、フランスでは戦後、特に1960年代から次第に使われるようになった。80年代以降、環境保護運動は、政治勢力となる場合も出てきている。ちなみに、エコバッグのフランス語は、le sac réutilisableである。


174.【知識:パリには、建物の管理人はポルトガル人で、夫は石工というクリシェがある。】Maria ma gardienne d'immeuble (on ne dit plus la concierge) est, comme il se doit, d'origine portugaise.[マリアは、私が住んでいる建物の管理人ガルディエンヌ(今はもうコンシェルジェとは言わない)で、予想通りポルトガル人だ。]Son mari n'est pas maçon: ça serait trop cliché![彼女の夫は石工ではない。そのイメージはあまりにもお決まりのもの過ぎるだろう。](ここが条件法なのは、もしそうだったとすればというニュアンス。)ちなみに、パリのポルトガル人は、サラザールによる独裁政権から逃れてパリに移民してきた人々の子孫である場合がある。というのも、1960年代に、そして1970年代にも、相当数のポルトガル人がフランスに移民した。長く続いていたサラザールによる独裁、貧困、植民地戦争への徴兵などから逃れるためだったとされる。La population d'origine portugaise serait d'1,5 million actuellement en France.[現在、フランスにおけるポルトガル系住民の数は、150万人に達すると言われている。]という文で、1.5million の前にdeがついているのは、数詞が属詞の位置に来ているからである。


175.【文法:pourquoiと複合倒置】疑問副詞(quand, où, ...)を使った疑問文では、主語が名詞の場合、通常の疑問文とは違って、単純倒置でも複合倒置、どちらでも良いのだがpourquoi だけは例外で、必ず複合倒置にしなければならない。つまりどういうことかというと、例えば疑問副詞のquandの場合には、Quand viendra Marie?と単純倒置で言ってもいいし、Quand Marie viendra-t-elle?と複合倒置で言ってもいい。でも、pourquoiだけは、複合倒置でなければならない。つまり、Pourquoi les gardienne d'immeubles sont-elles souvent d'origine portugaise?でなければならないのだ。他にも例をあげれば、Pourquoi cette émission est-elle si intéressante?[どうしてこの番組はこんなに面白いの。]とか、Pourquoi les enfants aiment-ils tant les sucreries?[どうして子どもたちはこんなに甘いものが好きなの。]のように、必ず複合倒置でなければならないのだ。


176.【同格の無冠詞】Maria et Antonio ont pu acheter une villa au Portugal où ils vont passer les vacances d'été, villa qu'ils louent lorsqu'ils ne l'occupent pas, aux habitants de l'immeuble![マリアとアントニオは、ポルトガルに別荘を買うことができた。夏には二人してそこにヴァカンスを過ごしに出かけ、自分たちが使っていないときには、建物の住人達に貸し出している。]


177.【単語:ブルーカラーとホワイトカラー】travailleur(s) は形容詞だと「働き者の」という意味で、名詞だと「働き手、労働者」という意味になる。ただしスペルは同じ。なお、ouvrier はブルーカラーで、employé はホワイトカラーを指す傾向がある。cadre は管理職。


178.【前置詞:outre】Outre une villa, elle a un yacht.[別荘に加えて、彼女はヨットも持っている。]outre cela:それに加えて


179.【表現:sans rien】Certains sont arrivés en franchissant les frontières européennes, d'autres en traversant la Méditerranée sur des embarcations précaires, et ils se retrouvent sans rien, totalement démunis sur le pavé de Paris, livrés aux intempéries, aussi bien au froid l'hiver qu'à la canicule l'été.[ヨーロッパの国境を越えてきたものも、間に合わせのボートで地中海を渡ってきたものもいる。そして彼らは、何一つ持ち物などなく全くの身一つで過酷な夏の猛暑と冬の寒さという厳しい気候にさらされ、パリの石畳を踏んでいるのだ。]sans rien は、二重否定ではなく否定なので注意。また、certains A, d'autres Bは、「ある人達はA、またある人達はB」の意味になる相関語句である。d'autres の後には、sont arrivés が省略されている。またここでは、en franchissant ~ と en traversant ~ が対になっている構造を見ぬこう。要注意の語句としては、franchirが「~を越える」という意味で、Elle a franchi un mur. [彼女は壁を乗り越えた。]のように使い、embarcationは「小舟、ボート」という意味で、元の動詞は、embarquer 「船や車に乗る、乗せる」という意味である(←もともとbarqueが小船という意味なのだ)こと、そしてprécaireは形容詞で「不安定な、不確実な、間に合わせの」という意味で、un bonheur précaire [かりそめの幸福]というふうに使うこと、これらだけは抑えておこう。


180.【文法:時や条件を表す副詞節においても未来形が使えるてしまうのがフランス語が英語と違うところ】Il communique avec sa famille restée au pays, espérant pouvoir la faire venir en France lorsque sa situation sera régularisée mais il reste très inquiet pour tout le monde.[国に残っている家族と連絡は取っているし、もし自分の滞在許可が下りたら、家族をフランスに呼び寄せられればと思っているけれど、みんなのことがとても気がかりだ。]例えばこの文のlorsqueの節には単純未来形が使われている。


181.【文法:同格でも無冠詞になるときと冠詞が付くときがある。】①elle a rencontré son future mari, cadre commercial.[彼女は将来の夫、営業の管理職と出会った]この①の場合に使われているのは、無冠詞の同格である。しかし、②Elle ne sait faire que des œufs brouillés, le plat le plus simple![彼女が作れるのはスクランブル・エッグだけ、一番簡単な料理。]この②の場合に使われているのは冠詞ありの同格である。基本、同格は無冠詞(①)のはずである。では、①と②でどう違うのかというと、同格名詞に定冠詞が付いている②のような場合は、後に続く名詞が前の名詞の単なる修飾ではなく、それ自身として内容を持っているときの形なのだ。①のような、「将来の夫」が「営業の管理職」というのは、事実の付け足しだが、②のような、「一番簡単な料理」にはそれ自体に内容があり、「スクランブル・エッグ」がどんなものであるかということについての筆者のさらなる主張が入っているのだ。


182.【文法:倒置を見ぬこう】À l'heure dite, tous les invités étaient présents à l'entrée de l'église lorsque le prêtre, noir et tout de blanc vêtu, a fait son apparition.[定刻には招待客全員が教会の入り口に集まっていた。そのとき現れた神父は、全身白い服を着た黒人だった。]この文は面白い構造をしている。というのも、vêtir「~に服を着せる」という動詞の過去分詞があるわけだが、vêtu de blanc(白い服を着た)という表現が、toutによって強調され、なおかつ倒置されてnoirと共に神父le prêtreにかかっているのだ。よって、この神父は、黒人であり、全身真っ白な服を着ているのであって、黒と白の服を着ているのではないのだ。


183.【表現:A dite+形容詞:~とされるA】l'immigration dite économique 経済的理由で移民してきたとされる移民


184.【文法:絶対分詞構文におけるétantの省略(複合形の現在分詞étantの省略は可能)】Le premier moment de surprise passé, les habitants sont en général très aimables et nous accueillent bien. [最初はびっくりされますが、それが過ぎてしまえば、住民の方々は概してとても親切で、私たちを歓迎してくれます]そもそも、ここの分詞節に省略されている語を補うと、Le premier moment de surprise étant passéとなる。それで、主節の主語は、les habitantsで、分詞節は独自の主語Le premier moment を持っているのだからこれを絶対分詞構文と呼ぶのだ。ここでは分詞構文が「時」を表しているが、一番よく使われるのは「理由」を表す用法である。例えば、Le courage me manquant, je n'ose pas lui parler.[勇気が無くて、彼に話しかけられない。]などがその例で、これは主節の主語は je だが、分詞節の主語は Le courageなので絶対分詞構文である。


185.【表現:se montrer +属詞】C'est à nous de nous montrer impliqués et de nous intégrer dans ce nouveau tissu social.[今度は私たちが、ここに溶け込んでいることを示し、この新しい社会組織の一員になる番なのです]↑この文が精読できるためには以下の3つのことに注意しなくてはならない。まずは、①c’est à 人 de + inf. で、「<不定詞>するのは(人)の番だ」という意味であること。そして、ここでの前置詞 à は、動詞原形の意味上の主語を示す働きをしているということ。例えばC'est à toi de décider.[君が決めるべきだよ。]C'est à moi de t'aider.[今度は私が君を助ける番ね。]などの用例がある。次に、②se montrer + 属詞で、「自分が属詞であることを示す」という意味になること。そして最後に、③impliquéは、impliquer(~を巻き添えにする)の過去分詞なので、ここでは「全体の一部をなす」という意味になること、である。


186.【知識: mariage pour tous】mariage pour tous(万人のための結婚)は、実質上、同性婚、および同性カップルが養子を取ることを可能にした法律で、2013年に制定された。映画『フレンチ・ブラッド』には、この法案に反対する保守的・熱狂的なカトリック信者集団が登場する。


187.【文法:属詞の位置に職業が来るときは無冠詞】Le manque de vocations en France est un problème récurrent alors qu'en Afrique, devenir prêtre assure le logement et le couvert.[フランスでは、聖職者の不足が繰返し問題になっているのだが、一方アフリカで神父になることは、住居と食事が保証されることを意味する。]まず、①Le manque deの後は無冠詞になる。例えばle manque de sommeilなら[睡眠不足]という意味だし、le manque d'imagination だったら、[想像力の欠如]という意味になる。なおvocationsは、ここでは聖職者という意味。次に②prêtreが無冠詞なのは職業を表す属詞だから。そして③assurerは、元来「sûrにする」という意味だから、「~を保証する」という意味になる。④最後に、ここで使われているle couvertは、「食卓用具、揃いのナイフとスプーンとフォーク」という意味だが、ここではle logement et le couvertという名詞句で、比喩的に食事を意味している。


188.【①année と②anのなにが違うのか】そもそも基本的な意味として、①annéeは、暦の上の1月1日から12月31日までを表す。日本でいう「年度」のようなニュアンスが近い。それに対して、②anは、時間の長さとしての「1年」を表す。たとえば、①la fête de fin d'année[年末の宴]に対して②Une fois par an[一年に一度]となる。また、①année には形容詞などを付けることができる(ces dernières années[ここ数年])。しかし、an は、原則として<数詞 + an>という形でのみ使い、原則としては普通の形容詞も指示形容詞も付けることができない。以下の対比を見てみよう。annéeは、①cette année[今年]、①la nouvelle année[新年]、①l'année scolaire[学年度]のように使えるのに対して、anは、②2 ans de notre vie[私たちの人生の2年]、②il y a 3 ans[3年前]となっている。


189.【単語:humeurとhumourは異なる】humeurはれっきとしたフランス語で、気分・機嫌という意味だが、humourは英語からきた外来語で、ユーモアという意味だ。

身体論の用語集

 

【問題意識】

私は子供のころから、「なぜ(WHY)」という疑問ばかりを大人に投げかけてきた。最初のうちは科学が私の問いに答えてくれた。しかし、あるときから、科学は「なぜ(WHY)」という問いよりはむしろ「どのように(HOW)」という問いに関心を禁欲的に留めていること、そしてそのことが大切なことであることを納得するようになった。しかし私の問いは亢進をやめなかった。究極の根拠のようなものが必要になってしまった私には、今の時代、神を信じることもままならず、「実体」と呼ばれてきたものにも無理を感じ、ついには、なにものにも基礎を見出せなくなった。日常がひとつの謎になってしまった。こうなると学問を成り立たせるものも謎である。学問への懐疑は、学問を成り立たせる知についての懐疑となり、その懐疑は知を形成する諸能力についての反省となり、これらの諸能力は、これを行使する<私>と結びつけて論じられなければならぬと思い至った。これらのことは、以下の2つの問いの形にまとめることができる。第一に、「そもそもこの<私>がいかなる存在者なのか」という問いであり、第二に、「その<私>はいったいどういう権利、あるいはどういう経路、どんな順序で、普遍的とすらされるあの知へとアクセスできるといえるのだろうか」、という問いである。まず、第一の問いであるが、我々は身体なくして世界に空間を占めることができないのであるから、<私>は身体とともにある存在者である。ゆえに、身体と私の意識との関係(現象としての身体)が問題になる。さらに、身体なくして私は世界にいかなる働きかけもできない以上、第二の問いを考える導きの糸になるのも、身体であり、その能力としての感覚にほかならない。では、まずこの<私>について語るための適切な視点が見出されなければならない。それがビラニスムだった。そしてこの視点が連れて行ってくれる先で、わたしは、我々が生きる通常の世界へと、ある程度の明晰さを維持したまま再浮上できるかもしれない。

 

 

 

我々は身体なくして世界に空間を占めることなどできないのであるから、身体は<私>と世界とを媒介する何ものかであると言ってよい。ならば、すべての<私>たちが宿らざるを得ない身体を、<私>と結びつけないで分析することによっては、この身体の、まさにそれによって身体を他の物体とは異質なものへとたらしめている当のものがこぼれ落ちてしまうだろう。<私>の分析は身体の分析なくしてありえない。また身体の分析は私の分析と結びついていなければならない。

 

すると、身体が<私>とどういう結びつきにおいてあるか、すなわち現象としての身体を適切に記述する視点がぜひとも必要になった。それがビラニスムである。そしてこの視点が連れて行ってくれる先で、わたしは、我々が生きる通常の世界へと、ある程度の明晰さを維持したまま再浮上できるかもしれない。

 

 

メーヌ・ド・ビランにとっての問題は、自我の認識、具体的な、感情に翻弄されつつもこれを統御しようとするこの<私>がいかなる存在者なのかを記述することであり、諸々の自然科学の認識なども、この問題の解決に貢献するものでなければならない。観念学は学知を提供するが、それを主体と結合させる、すなわち自我を記述するには至っていなかったので、ビランはある一定の距離を取った。観念学なりの「人間」像には納得がいかなかったのである。学問についての反省は学問を形成する諸能力についての反省へと展開し、これら諸能力は、これを行使するこの<私>と結びつけて論じられなければならない。そしてこの<私>について語るための適切な視点が見出されなければならない。

 

 

 

 

【身の用法】

まず第一に果実の実。これも身と同根であろうと言われている。「木の実」とか「おつゆの実」とか、中身の詰まった自然的存在や内容を意味する。第二には生命のない肉を意味する。「魚の切り身」とか「酢で魚の身をしめる」とか。第三に、生命のある肉体を意味する。「お臀の身」「身節が痛む」とか。第四に生きているからだ全体を意味する。「身持ちになってその結果身二つになる」とか。第五に、からだの様態を意味する。「半身に構える」とか「身もだえする」とか。第六に身に着けているものを意味する。「身丈」「身ごろ」「身ぐるみ」とか。第七に生命そのものを意味する。「身あってのこと」「身代金」とか。第八に社会的生活存在を意味する。「身すぎ世すぎ」「身売り」とか。第九に「身つから」「自ら」を意味する。「身がまま」「身のため、人のため」とか。第十に様々な人称的位置を取る。「身ども」は自称、「身が等」は複数一人称、「お身」は敬称二人称、「身身」は各人おのおのを意味する。第十一に社会化した自己を意味する。「身内」は血縁。「身の方(味方)」は一種の身内であり、血縁ではないが身内同然の者を「外身内」と言ったりもする。第十二に社会的地位役割を意味する。「身の程」は分際であり「身をたてる」は社会的地位の確立である。第十三に心を意味する。「身にしみる」「身をこがす」「身をあわす」とか。第十四に全存在を意味する。「身をもって知る」の場合全身全霊をもって知る。「身をもって示す」の場合、場合によっては生命の危険をかけても示すといった意味になる。「身」は「ボディ」や「からだ」に比べて成層的統合体という性格が強い。身は関係的存在としてあり、何との関係においてあるかということによって、身の在り方が決まってくる。屍体に対しては「生き身」を意味するし、他者に対しては自分を意味するし、社会的状況にたいしては自己の在り方を、敵に対しては味方を意味する。関係するものとの差異と対立によって身の在り方は生起する。カオスの語源は「あくび」である。「あくび」は長話によってつくられた秩序を混沌へと還すことであり、究極の批判形式である。

 

【身体を使った表現】

腹を割って話す・肝胆相照らす・臍下丹田に力を込めて気力を養う・頭者(おっちょこちょい)・頭でわかる(身体ではわかっていない)・教養が身につく(文化的身体)・どうしても身構えてしまう・苦界に身を沈める・身をつみて人の痛さを知れ(人生論的切実さ)・人の身になる(脱中心化)・身が知ることか・身をもって示す・身を立てる・背中で演技をする・身ごもる・身二つとなる(出産)

 

【身】

身は自然的存在であると同時に精神的存在でもあり、自己存在(交換不可能)でもあるとともに社会的存在(交換可能)である我々の具体的かつ現実的なありようを的確に表現している。身は関係的存在としてあり、何との関係においてあるかということによって、身の在り方が決まってくる。身は固定したひとつの実体的な統一ではなく他なる者とのかかわりにおいてある関係的な統一である。われわれの身体は常識的には皮膚で表面を限られているわけだが、生きられる身体を考えた場合、内と外というのはいろいろなところに境界を置くことができる。たとえばある種の精神疾患の場合、自分の身体が自分のものとして感じられない。いわば身体が自分の外にある。逆に、身の境界が拡がったり、曖昧になることもある。自分と他者との境界がはっきりしなくなって、自分の身の拡がりの中にいわば他者も入ってしまう。われわれが道具を使うとき、道具が身についたものになるには、道具が身の内にならなければならない。道具の先端が身の先端になる。錯綜体を形づくる潜在的身体は、可能的身体・未来の身体・過去の身体・空間的には外なる身体でもある。)

 

【からだ】

日本語の「からだ」は籾殻の「殻」や枯れるの「枯」と同根の「から」と同義で、生命のこもらない形骸としての身体や屍体を意味する。

 

【人間の発達的順序の整理】

⑴胎内

最初の人間の状態は母親の胎内に身ごもられていて、羊水に包まれて浮かび、母親の身体によって外界から守られている。直接外部の環境に触れることはなく、いわば母親の内部環境につつまれている。孤立した主体としての意識はまだなく、いわば母親と共生している段階である。周りの世界との、広くは宇宙との対立もなく、自己と外部がほとんど合一した、調和のとれた状態といえる。宗教・芸術・恋愛・麻薬・退行現象にいたるまで、人間の求めている状態は多かれ少なかれこの最初の状態に似ている。これを胎内憧憬という。

 

⑵出産

出産は身二つとなって、肉体的・生理的に共生していた状態から、独立した存在になる人間にとっての最初の分離である。これは生み出される子供にとって暴力的な出来事と言える。安定していて暖かい闇の世界から荒々しく光が照射する冷たくて刺激の強い環境に移る。胎内音から直接音の環境に移る。出産は自らの意志によるものではない。われわれの存在には最初に、この出生に伴う偶然性がある。生まれようと意志していないのに気が付いたら取返しようもなく在ってしまったという不条理である。

 

⑶乳離れ

乳離れは第二の受動的分離である。ただし出産とちがって生理的な意味ではなく心理的な性格も強く持っている。というのも、出産には抵抗可能性がないが、乳離れには抵抗可能性があるからである。乳離れがうまくいかないと色々な退行現象が現れる。また乳離れの代償行為として、大きくなってからも、毛布やまくらや人形や肌着をいつまでも手放さず、かんだり吸ったりする。これらはせめて心理的にでも共生状態へ戻ろうとする逃避行動といえる。

 

⑷第一反抗期(3~5歳)

第一の能動的分離(中心化)として第一反抗期がある。初めての自我の目覚めである。人に見られることを恥ずかしがり、人見知りをするようになり、照れるようになる。他人から見られていると感じることで見られている自分を強く意識するのである。見ている他人を意識することで、逆に自分を意識する。まず他者から見られ、承認され、評価されることによって自己に気付くという意味では、他者の認識の方が自己の認識に先立つ。自我が目覚める頃、子供は言葉を習得する。ここで言葉を内面化することによって自己が形成されるという相互性がある。自己は言葉によって編まれているのだ。ともあれ子どもの最初の言葉は、母親の注意をひくための伝達の言葉である。しかしまもなく一種の独り言(ピアジェの言う自己中心的言語)が出てくる。女の子の人形遊びやお母さんごっこ、男の子のロケット遊びや積木遊びにもでてくるのがこの独り言である。これは自分の行為を描写するというよりも、言葉はまだ行為の一部なのである。成長すると無口になる子供でもこの時期にはとめどなくしゃべる。しゃべらないと考えられない。思考は頭の中で行動することであって、この時期の子供は半ば行動であって半ば観念であるような言語行為によって考えているのである。言葉と行為の二重性が生まれてはいるが、言葉はまだ行為から分離していない。しゃべることによって考えているから、考えることは外に漏れてしまう。嘘をつかないのではなくて嘘をつけない時期である。

 

⑸学齢期

独り言が急に少なくなる。行為としての言葉が内面化されて考える言葉すなわち内言になったのである。それとともに、外に向かって発せられる言葉すなわち外言からも、行為としての身体性が希薄になり、しだいに概念的意味を伝えるに過ぎなくなる。言葉は、物や人に働きかけて動かす呪術的な生命力を失ってしまう。そのかわりに論理性や思考能力に著しい発達が見られる。外言は自己が他者に関わる行為の一面であり、内言は自己が自己に関わる行為の一面である(内言は分節された音のイマージュである)。外言を通して自己は他者と関わり、内言を通して自己は再中心化される。この外言と内言の二つの関係の動的な統合の過程で自己が形成される。言葉はこの二つの関係(対称性)を演じることであると同時に、この関係を語り表現するメタ行為でもある。この言葉の発生とともに、身体的反省から意識的反省へと身の身に対する分節化の折り返しは深化する可能性をくみ取る。この時期になると社会が内蔵された自分だけの世界(内面的世界)が内言によって可能になり、嘘をつくことが可能になる。ただしこのころの内面世界はまだはっきりと意識され、反省される自己として確立されているわけではなくて、ただ反抗によって自分を主張しているだけで、親の言うことに対して自分の世界は別にあるのだ、と何にでも反抗するレベルにとどまっている。だから自分に対する不安や自己嫌悪は内面世界の中にはなく、基本的に自己肯定的な内面世界である。しかしこの内面的世界によって、子供は孤独を知ることができるようになる。

 

⑹第二反抗期

思春期の反抗は自覚的能動的な分離であり、3つのタイプの反抗を経験する。第一の分離は他者からの自己の分離である。母親や家族からの分離に留まらず、広くは宇宙から自己を分離する。分離は不安を伴い、しばしば自殺を考えるほどの絶対的な孤立を感じさせる。この分離の体験を通して、自分が何ものにも根拠づけられていないという絶対的な孤立の感情を強く抱く。しかし生まれつき孤立していれば、孤独の感情を抱くこともないはずだ。われわれ人間は最初共生の状態にあり、自己の意識は他者の意識に先立たれて生まれた。だからこそ孤独なのであり、孤独に安住することは難しい。それゆえ何かと合一し、孤独を克服したいという願望を抱く。その願望が他者へと向かう時、それは恋愛あるいは友情となる。

第二の分離は、自分の内面的な自己と外面的な自己との分離である。すなわちキャラクター(刻まれたしるし)とパーソナリティー(仮面)の分離である。ただ外面も内面も言語によって可能になったことを忘れてはならない。この分裂によって、自己の内面的世界に対する反省を促され、自己を他者の視点から見ることができるようになる。それが自己嫌悪に繋がることもある。

第三の分離は、男と女の分離である。この時期に男女の性徴が明瞭になるため、異性を強く意識するようになる。異性に対して自分を恥ずかしいと感じ、隠したい気持ち(自己隠蔽)と、自分をもっと強く表現したいという気持ち(自己顕示)の間で引き裂かれる。

 

独我論はなぜ間違っているのか】

独我論が間違っている理由は、発生論的に言って、自己は他者の把握に先立たれて成立するからである。たしかに他人は私を分かってはくれないし、他人が何を考えているかはわからない。他者が確実に実在するといえるためには、私が私をとらえるように、直接確実に他者を捉える、つまり他者を生きることが必要なのだが、もしそれが可能なら独我論などありえないはずだ。しかしこれは私が実質的に他者の身そのものになるということを意味していて、事実上不可能であるばかりか原理的に不可能なのである。ここに独我論が現れる余地がある。なぜ原理的に不可能かといえば、もし私が実質的に私が他者の身そのものになれるというなら、そのときそれは私であって他者ではない。他者という言葉それ自体が、「その存在者の気持ちが私には分からない」ということを意味として既に含んでいるからである。これは独我論が成立する一種のトリックである。普通の独我論者は、他者との通じ合いが不可能になるように他者を定義しておいて、他者との通じ合いは不可能であると言っているに過ぎない。むしろ、私が実質的には他者の身そのものにはなれないということが、まさに他者であるということの意味であり、恥ずかしさや照れを通してこのような主体としての他者を私は直覚している。もっと積極的に私が他者を把握するのは、他者と感応的に同一化し、感応・同調において他者の身になるときである。他者の身そのものにはなれないという交換不可能性と、構造的同調による交換可能性との動的統一において、我々は自己と他者を同時に把握する。われわれは他者を把握する深さに応じて自己をとらえ、自己を捉える深さに応じて他者を把握すると言える。自分で自分をくすぐってもくすぐったくない。しかし他人にくすぐられると非常にくすぐったい。生理的な触覚としてはほとんど同じ刺激を与えることができるはずなのに、この差はどこから来るのか。独我論者でもくすぐったいはずだ。触覚のような非常に原始的な感覚の中にも、すでに他なるものの直覚的な把握があるのだ。子どもが自分の身体を恥ずかしいという意識を持つときですら既に、他者の目を感じて恥ずかしいのではなくて、まなざしが恥ずかしいのであるということに注意すべきだ。このとき他者は目を持つ客体としてではなく、まなざす主体として捉えられているのである。

 

心身二元論の問題点】

われわれは、実際には身体を通して世界と関わっているのだから、身体を自己から疎外するということは、世界を自己自身から疎遠なものにしてしまうということになる。世界の実在性が確かめられなくなってしまう。

 

【感覚の受動性】

われわれはいくら意志しても目の前にないものを感覚することはできない。また、いくら意志してもいま見えているものを、まぶたを開いたまま、見えなくすることはできない。感覚は、精神にとって、向こうから自分を押し付けてくるものとしてある。デカルトによる物の実在性の証明にも感覚のこういう受動性は使われた。しかし能動性の必然性がある感覚もある。

 

【述語的統合】

諸感覚の統合には、言語化以前の前述語的統合から、言語化以降の述語的統合、さらにより主語的統合へという成層的な統合性の高まりがある。視覚以外の感覚や情動や<気分>は述語的統合の性格が強い。述語的統合は、性質や関係や働きといった述語的なものの類似性や近接性にもとづいて、主語的なものが受動的にゲシュタルトとして浮き出してくる類比的癒合(場的な直観)の形式をとる。視覚も本当は述語的統合である。先天性盲人の開眼の例からも分かるように、対象は、最初からはっきり視覚的に分離したものとして捉えられるのではなく、対象に対する行動や操作と、その過程で視覚が諸感覚と統合され、照合されることを通して、分離され、対象化される。本当はそういう過程を経て、成人の場合は、目を開けるやいなや対象がはっきりとしたまとまりをもったものとして捉えられ、私に「対するもの」として対象化される。この意味で成人の場合、視覚は、より主語的な統合の面が強い。つまり、諸感覚相互の間にもより癒合的述語的な統合が強い触覚から、より分離的主語的な統合にいたる成層があるのだ。主語的な統合において初めて、主語の同一性を基本としながら、さまざまの述語により主語を規定し、他から弁別する分別的判断が可能になる。ヘレン・ケラーが水に触れながら手にかかれたwaterという名辞を理解したときの驚きは、述語的世界から主語的な世界へと飛躍し、ことばとそれが表す主語的な、すなわち対象化された「もの」をはっきりとまとまった形で発見し、理解した感動だと言える。名辞による主語的統合の、述語的統合よりも強い同一性・自明性は、「もの」を覆い隠す働きを持っている。順序的には、身の自己中心化→中心化にもとづいて外の対象を操るという操作的関心→行動が関わる対象の主題化→名辞化という順序を経る。

 

【近代的自我】

近代的自我は、それ自体関係化の一形態である(関係の項としてしか存在できない)ことを忘れた自己中心化によって、他の何ものにも依拠しない実体として自己を根拠付け、力である知によって「もの」を操作しようとした。操作ができるためには対象が自己同一的なものとして保存される必要がある。操作可能な保存性を獲得するという意味で、関係項が実体化されると、場的直観にもとづく述語的統合から、主語的統合への転換が強くうながされる。

 

【身分け】

身分けは判断以前の分節化であり、判断の前提になるものである。われわれの身があることによって、われわれの周りの世界がさまざまの形をなし、意味や価値をもったものとして現れる。身分けは身による世界の分節化であると同時に、世界による身の分節化を意味する。リンゴが冷たく硬いということは、我々が暖かく柔らかいものとして分節化されるのである。身分けは共起的な世界と身体の分節化である。身によって世界を分節化していくのと同時に、世界によって身自身が分節化されていくこと。われわれの身に無意識があるということは、無意識のレベルで分節化されている世界、たとえば反射的に反応してしまっている対象からなる世界もあり、それらによってもわれわれの身は養われているということである。

 

【自己組織化】

自己組織化とは意味のあるものとないものとのグラデーション(価値)で世界を分節化していくこと。人間の場合にはそれが文化的自己組織化にまで至る。感覚は自己組織化のための情報を提供する。

 

【他者の分節化】

他なるものの分節化、自己—非自己の区別は、すなわち身を自己として分節化することであり、これはものや動物との関係においてもあることである。しかし、人間はパンのみでは生きる=自己を組織化することができないので、文化的レベルでも様々な意味や価値が分節化される。

 

【身をもって知る=身知り】

われわれは自分一人で創生に立ち会っているわけではなく、すでに歴史的・社会的に分節化されてきた社会秩序と自然の秩序のある世界の中に生まれ落ちる。生まれて来た赤ん坊は、世界によって分節化されつつ、自分独自の分節化を世界のうちに織り込んでいく。メーヌ・ド・ビランのいう内的事実とは自我が身体運動を行使しつつ、同時にこれを認識する事態を言う。そして、この「内的事実」の領域において(のみ)、「私が手を動かすこと」と「私が手を動かしていると知っている」こととは完全に同一の事柄となり、知と行為は一致している。つまりこの領域においては知は実践的な意味を持つのである。言い換えれば、諸々の知識はこの領域においてこそ(本当の)(実践的な)「意味」をくみ取るのである。これが身をもって知ること、すなわち身知りである。身をもって知るというのは、直接世界に向かう「外部知覚」とは違うのである。

 

【身体感覚】

自己と関わりつつ世界と関わる身の在り方の基礎には身体感覚がある。身体感覚は内と外の経験のどちらともいえない。身体感覚は通常内部感覚とされているが、内部は外との関係において変動するわけだから、身体感覚は、私たちが生きる通常の世界においては、自分の感覚(この紙はざらざらしている)であると同時に世界の感覚(ざらざらしている紙だ)でもあるような、両義性を持った基層の感覚である。というのも、身体には世界に働きかけ、世界を変化させるという外部志向的な側面と、世界とのかかわりの中で自己自身を調整するという自己作用的な側面があるからである。つまり、身体が世界に関わる仕方には、世界を変えることによって世界との関わりを立てる仕方と、自己自身を変化させることによって世界との関わりを調整する仕方がある。後者も自閉的な働きではなく、世界とかかわる一つの仕方である。

 

【気分】

身体感覚は世界と自分が交叉している共通の根にかかわる根源的な感覚である。身体感覚はほとんど意識されることはないが、意識される身体感覚は気分という言葉がいみするものに近い。気分は単に自分の感覚ではなく、通常の世界(=心身合一時)で生起する感覚である。身体感覚を失うことは世界を失うことに繋がるのはこのためである。私が悲しいというよりも世界が悲しいというのが気分である。

 

【現実的統合と潜在的統合】

いま座ってしゃべっているというのが現実的統合だとすると、立ってしゃべることもできたし、沈黙しながらコミュニケーションを試みることもできた。現実化する可能性はあったが現実化しなかった可能的統合、あるいは現実的統合によって抑圧された可能的統合が潜在的統合である。現実的統合は潜在的統合との可能性において意味を持っている。たとえば病気が欠如態であると言えるのは、健康態という可能的な潜在的統合との関係においてである。病気だけだったらむしろそれはポジティブなものであって、潜在している統合があるからネガティブな意味を持つのである。このような可能的な統合はしばしば現実化した統合によって抑圧されて、無意識と化していることが少なくない。現実的統合と潜在的統合の双方を合わせた身の全体を錯綜体と呼ぶ。

 

 

【可能的統合】

可能的統合は、一度には実現はしないが、永遠の中では決定され、完結している、といった構造ではなく、たえず形成され、また失われる未決定の開かれた構造である。素質は未来に実現すべき可能的統合であり、病者にとっての健康は回復すべき可能的統合である。

 

【身体レベルでの反省:身が身に折り返す(身の二重化)】

対象として見えている手が、同時に主体として感じている手でもあるというのは、最初は不思議なことだったはずである。赤ん坊は自分の手を見つめたりしゃぶったりすることがあり、この不思議さを感じている。対象としての自分の手と内側から感じている自分の手がまだうまく統合されていないのである。動物も自分の身体が見えないわけではないが、前脚はそれを舐める行為や獲物を捕らえる行為の一部として見えているのであって、動物は足そのものを見ているのではない。手そのものを見て遊ぶ赤ん坊の手遊びは身が身に折り返す二重化の始まりであって、もっとも原初的な自意識の萌芽である。自分の自分に対する関係が反省だが、身体的レベルでの反省がこの二重感覚にはある。赤ん坊は手をくわえることによって、見える手を自己に同一化し、見える手(対象身体)と内から感じている手(内側から感じている身体=主体身体)の分裂を乗り越えるのである。この分裂の乗り越えこそが成長ということであり、対象身体への同一化というのは脱中心化である。また同時にそれは再中心化でもあるのだ。意識レベルでは身体ではなく構造のレベルでこれを行う。つまり相手の身になって考えるというのは脱中心化であり、同時にその自他の分裂をもう一段高いレベルで乗り越えて統合する再中心化である。

 

【自意識の起源】

身が身に折り返す身の二重化だけでは、まだそれは自己の把握とは言えない。自己の把握は「自分に対する自己」と同時に、「他者に対する自己」が捉えられたときに初めて確立する。まず、他者との関係においてある私の身体(対他身体)というものが抽象的な反省に先立ってある。それは、他人から見られた身体、他人によってとらえられた自分の存在の把握である。人見知りや照れや恥ずかしさは、原始、他人に見られている「我が身」について照れたり、恥ずかしがっているのであり、そこには他者の把握が既にある。恥ずかしさは次第に抽象的な自己を恥じるレベルにまで達するとしても、まず自分が見えたり見られたりするものであること、すなわち見える身体という仕方で空間を占めていること、に由来している。もし自分が肉眼で見えないものであったならば、人に対する恥ずかしさは生まれなかったはずである。このように、私自身の自己の把握の中にも、既に「他者に対する私の身体」の把握という他者性の契機が含まれているということを忘れてはならない。私自身の自己を把握するというだけでも、他者性と対他身体抜きにはできないのである。

 

 

【生きられる空間】

われわれが生きている空間には、地上空間には重力や日の出入りによる方向性があり、地形が形づくる異質性があるし、身そのものに異方性がある。前−後、左-右、上-下は均質ではなく、地上空間の異質異方性と身体空間の異質異方性が交錯しているのがわれわれの生きている空間である。横に引いた直線と縦にひいた直線、斜線や曲線は均質空間では特別の意味を持たないが、非均質的な生きられる空間では、身の分節化を規定したり、身によって分節化されたりすることによって、微妙な価値の違いを孕む。生きられる空間には場所概念があり方向概念がある。生きられる空間には常にここがありあそこがある。ここから彼方へという展望(パースペクティブ)があってその展望の背後には捉ええない広がりが拡がっていて、それをわれわれは地平と呼んでいる。生きられる空間はそういう意味で無限空間ではなくある有限性を持った空間であり、奥行きのある空間だ。「ここ」という場所性がなければ、ここからの「隔たり」も「距離」もありえない。レストランでも角から詰まっていく。それは食べるときには無防備になるからだろうか。「山のあなた」は憧れる空間だが、「底なし」は恐怖の空間である。上空間は大体聖なる空間であり、地上は俗なる空間であり、地底は逆に反聖性という意味で聖なる空間である。一般に、自分の身から遠いところ(「山のあなた=彼方」)は聖なる空間であり、近いところは俗なる空間である。沖や彼岸は聖なる空間である。沖縄の「ニライカナイ」は沖の彼方である。日本の神社では、神様は山からやってくる。ふもとには神社がありその奥に奥宮がある。参道は鳥居を使って奥を描いている。

 

【前後空間】

「前」空間は行動する方向であり、意識的な空間である。明るい空間であり、広がって開かれた空間である。「後ろ」空間は無意識的な空間である。後ろ暗い空間である。後ろを振り向くことはしばしばタブーとされる。この対立は表裏に転用される。前空間は不確定で自由な未来であり、後ろ空間は決定された過去である。宿命論や決定論が回顧的なものの見方になるのはそれが理由である。前後は私の前は向かい合った人の後ろであるから価値対立は中和されやすい。

 

 

【左右空間】

「右」はアイヌ語でも英語でも正しいである。「右に立つ」はより良いことであり、「左遷」「左前になる」は悪いことである。右は「男」「光」「聖」「正常」と結びつけられ、左は「闇」「俗」「女」「穢れ」と結びつけられる。しかし日本は左大臣が右大臣より偉い。左という言葉は日照りから来ているから、天照大神などの太陽神の方角だったらしい。価値の対立や区別があれば構わないのだから、当然逆転することもありうる。左右は向かい合った人から見れば逆になるから、価値対立は中和されやすい。

 

【上下空間】

いちばんアシンメトリックである。なぜなら日常的に逆立ちすることは少ないからである。また重力の方向を変えることも極めて難しい。重力には抗するか従うかしかない。重力に抗うことを価値としているのが西洋である。ヨーロッパの噴水はこれである。日本人はむしろ滝である。左右対称の体型の生物の身体軸は行動の方向である。ゆえに前は実用的で行動的な価値の方向である。人間も昔はそうだった。ところが人間は直立二足歩行することで、上下はもはや行動の方向ではなくなったから、行動的な価値がなくなる。これによって上下は非実用的価値すなわち精神的な価値を帯びるようになった。顔が上にあって脚が下にある。脚を昔は隠したのは、大地に接触するからであり、非常にエネルギッシュではあるが同時に闇に繋がるからである。また下は排泄の方向でもある。人間だけが排泄物を汚いと感じるのも、上下の方向(精神的な価値づけ)と関係がある。上は神・天国・天であって下は悪魔・地獄・黄泉と結びつけられるがいずれも実用的な価値とは違う価値である。下は必ずしもマイナスの価値ともいえず、むしろ反聖性という意味で聖なる性質を持つというべきである。たとえば地母神は、産むものであると同時にのみ込み破壊するものでもある。インドの女神であるカーリー神は腰の周りにどくろを付けている。地下世界を象徴するものは窪みとか渦、「湖の八百会」というのが祝詞にあるが、渦巻きが巻いていて海の底に通じているイメージ。

 

【間主体的空間】

脱中心化の極限としての無中心化された均質空間は考えることならできるけれども、われわれは決して無中心化することはできない。生きている限り、中心化し、自己組織化することなしには生きることはできない。つまり脱中心化は同時に再中心化に他ならない。だから間主体的空間というのも、生きられる空間としては、決して均質空間ではなく、やはり質的な違いのある空間である。つまり社会的に共有された異質性を持っている。そしてこの異質性は空間自体の性質としてとらえられるようになる。たとえば建物の正面をフロントという。正面玄関とか表玄関とかファサードという言い方も出てくる。後ろは裏口とか、裏庭とかバックヤードとかいう。「左近の桜、右近の橘」という場合も、脱中心化を経てから間主体的空間になるので、玉座からみた左右になっている。表通りは明るくて政府機関やオフィスや銀行やデパートがあるが、裏通りはバーとか飲み屋といった私的な店がある。都市空間はそこに住み、務める人々の共同幻想によって成り立っている。

 

【身の統合の契機】

身は関係化という契機と実体化という契機を持つ。身は関係化と実体化をたえず繰り返しながら自己形成していく。身は関係的存在だが、実体のように固定した統一ではなくてたえず統一がやりなおされる危うい統一であるから、他との関係においては多極分解する可能性、人核分裂、多重人格化の可能性を持っている。あるいは身の在り方のひとつに偏極的に統一し続ける可能性も持っている。身の統合の局面には、自己中心化、脱中心化、共生化、超中心化、無中心化、自閉的中心化(関係化の拒否による実体化)、過同調(関係化への偏重による自己喪失)などがある。

 

【中心化】

自己中心化には、自己を相対的な意味で実体化するという側面がある。そのような相対的な実体化は多極分解を防ぎ、脱中心化を通して次のより高度な段階へと自己形成していくための自己防衛的役割を持っている。

 

【自己中心化】

中心化は関係化の否定ではなくて関係化の一面であり、他なるものとの関係において中心化が行われる。自己中心化とは身が自己組織化することによって自己を中心にして世界と関わることで、それに応じて自然も差異化され、意味を持ったものとして、分節化されてくる。脱中心化を一度経由した自己への再中心化で人間は自己を形成を行っていく。このダイナミックな過程のなかで、自他の人称的・役割的な交換可能性と、つねに<いまここ>である原点としての身の交換不可能性との双極的な把握において自己が自覚され、形成されてゆく。

 

【癒着】

人称代名詞には交換可能性があるが、僕ちゃんには交換可能性がない。私に癒着している。視点の相互交換が可能になったとき、初めて人称代名詞が使えるようになる。視点の相互交換とは脱中心化のことである。自分が他人とのかかわりの中で、主体的であると同時に対他的でもあるものとして把握されるようになったことを意味する。この学びを典型的に示すのが「ごっこ遊び」である。ロールテイキングを通して脱中心化を学ぶのである。脱中心化とは、他人になり切ってしまえばそれは他人ではないのだから、他人の身そのものになってしまうことではなく、視点を仮設的に交換して、より広い視点から自己を再組織化し、再中心化することである。

 

【非中心化】

脱中心化をオーソドックスなものとして、それに共生化と超中心化を合わせて非中心化と呼ぶ。

 

【脱中心化】

脱中心化とは、他人になり切ってしまえばそれは他人ではないのだから、他人の身そのものになってしまうことではなく、視点を仮設的に交換して、より広い視点から自己を再組織化し、再中心化することである。自分の身の原点が<いまここ>であるが、中心化だけであれば<いまここ>以外はないというより、<いまここ>すらも成立しない。その<いまここ>に癒着した視点を他なるものに仮設的に変換することによって、別な時・別な場所も<いまここ>になりうるという交換可能性が把握される。このことを前提として時間・空間の把握も可能になる。自己はまず他者の視点に身を置くことによって、他者との関係の中で自己を再組織化し、さらにまた自己に再中心化する。その往来の中で身の統合は複雑になっていく。ただこの用語は、感応的同一化で語るような他者の視点になるという関係化も含んでいる。脱中心化の理想形態として、その極限として考えられたものが、無中心化が前提された均質空間である。均質空間はどこの座標に原点をとってもいいのである。逆に言えば中心はない。これはいわば神の視点である。脱中心化は知的な操作であるという性格がある。

 

【共生化】

われわれは自他未分化の共生状態に最初はあり、またたえずそういう集合的な共生状態の中へと自己を溶解しようとする傾向を持つ。胎児の頃はまだ母体との共生の状態にある。出産とともに生理的にはほとんど母体から分離して中心化するが、心理的にはまだ共生の状態にある。ここから共生からの脱出として自己に中心化し、そこからは知的操作としての脱中心化と再中心化のプロセスに入る。しかし中心化を再び脱して、何らかの仕方で共生へ戻ろう、あるいは共生を再現しようとする非中心化がある。これが共生化である。個人の退行現象や集団の共同体的ユートピア志向はこれである。嫉妬の感情も実は共生化が深くかかわっている。自分と他人を分離できれば嫉妬は起こらないのだが、自他の区別なき共生化の局面では、共生的に他人を含めて中心化してしまう。だから自分のものではないのに、それが他人に奪われたと感じて嫉妬をするのである。集団心理や群集心理も共生的である。古層のレベルの感情的つながりが一挙に噴き出してくる。

 

【超中心化】

生きられる空間にある深い森や大きなくぼみや大きな岩などの異質地点をさらに注連縄で囲ったりすることを超特異化と呼ぶ。聖木は西洋にもあるし、日本では伊邪那美命伊邪那岐命が天の御柱の周りをまわって国生みをする。天の御柱とは、天地がまだ分かれていないときに天地をつないでいた柱である。それが切れるのが聖と俗の分離であり、世界の成立であり、楽園の終わりである。それを再びつなごうとしているのが聖なる木であり、聖なる山である。超特異化された中心によって世界の再編成が行われる。すると我々は、自己が中心なのではなくて、そういう超特異化された聖なるものを中心にして世界が秩序づけられていると感じる。神話的な質的空間の誕生であり、これが古代におけるコスモスである。超特異化されやすいのはだいたいそびえたつものである。

 

 

 

【無中心化】

生物は、中心化なしに生きることはできない。我々は多かれ少なかれ中心化しているから価値とか意味とかが生じる。中心化がなくなってしまえば、木を見ても、それがなんであるか分からない。木としてのまとまりや分節すら危うくなるのである。物事を客観的に見たいという知的欲求から、あるいは執着を離れたいという実践的欲求から、あたかも自分には中心化がないかのようにみなす疑似的な無中心化が起こることがある。その理想的なイメージが「神の目」であり、神の目を通してみるということは、まったく中心化がない無観点の観点から、いかなる偏りもなしに世界を見るという理想的な認識である。ヘレニズム期のように、社会変動の激しい時期には、無感動の哲学と呼ばれるものが出てくるがこれもその一種である。何事にも感動しない、まるで人ごとのようにすべてを眺める、そういう哲学が一種の逃避として現れる。

【自閉的中心化と疎隔された脱中心化】

中心化と非中心化の往来すなわち自己形成のダイナミズムが凝固してしまい、両者の往来がなくなると、非中心化を拒むことによって、世界に脅かされない形で自己の安定性を確保しようとする自閉的な中心性が生じる。また逆に中心化を拒むことによって、情緒的には無感動の安定を得て、認識的には無中心の神の目に達しようとするありえない脱中心化が生じる。この両者がともに現実感覚の喪失を引き起こすのは、それは両者が結局、関係化の拒否を共通点としているからである。中心化も非中心化も関係化の一局面なのである。

 

【同調】

芸術作品や他人は多元的重層的な曖昧性をもっている。これは一種の錯綜体である。だからこそ我々は芸術作品に対する場合、身をもって知るようなとらえ方をしなければならない。身の錯綜体でもって、錯綜体としての芸術複合体に感応しなければならない。その感応を同調という。同調は自己を中心としたパースペクティブから外へ出て、脱中心化することである。人の行動を見ている時、われわれは無意識のうちに他人に同調している。いわば、人の身になって自分を捉える。他者理解もこのような移調を含んだ構造的感応によって可能となる。この同調的感応が芸術作品に対する身知り的な把握を可能にすると言える。相手がにっこりとすると、思わず私もにっこりとする。これは相手が微笑んでいるからこちらも微笑みかえさなければ礼儀上悪いと思ってにっこりするわけでは本当はない。そこには、科学が扱うような客体的な身体ではなく、表情を持った身体に対する、身体的レベルでの他者の主観性の把握と、私の応答がある。もしこうした間身体的な場の共有がなければ、言葉しか通じなくなってしまう。これは生き身が、単なる対象としての身体ではなく、互いに感応し、問いかけ、応答する表情的身体だからこそ可能なのである。者も実は表情的である。茫洋たる海を前にしたときと、峨峨たる山を前にしたときには、身の在り方自体が異なる。風景とか風土も表情を持っていて、それが我々の身の感応の仕方を制約している。個人の自己形成や民族の性格形成にとって、風景や風土を無視することはできず、それらは物理的環境というよりも、それ自体表情的環境として身と同調し、身の在り方と深く入り交っているのだ。

 

【感応的同一化】

同調は関係化であり、その中でも他者の身の統合との間で起こる関係化である。これを感応的同一化と呼ぶ。「人の身になる」はこれである。共感と同調は違う。共感は身の構造的同一化としての同調を前提としている。同調あっての共感である。いつのまにか人の癖が自分に移っていたりするのが同調である。

 

【同型的かつ顕在的同調】

テレビの悲しい場面で悲しそうな表情をすること。

【応答的かつ顕在的同調】

音楽のアンサンブル、ジャズのかけあい、チームプレー。

【同型的かつ潜在的同調】

表面は静かでも身体的レベルでの同調が内面的に起こっている。老人がレスリングを見ていて脳溢血で倒れる。へたな仕事を見ているとムズムズしてくる。なにか人の話を理解するのにも最小限の同調が必要なのだから、観念やイメージのレベルで同調している。

【応答的かつ潜在的同調】

相手の発言に対する応答を心の中で考える。

 

【過同調】

関係化を拒否すると自閉的中心化や疎隔された脱中心化に向かうが、逆に関係化に偏ってしまうことでこれは過同調に繋がって一種の自己喪失を引き起こす。

 

【向性的統合】

反射のような非意識レベルの統合、また意識化しうるのだけれども、当面は意識に上っていない前意識的な分節化の働き。あるいはさまざまに変形された形で意識レベルに影響を与える抑圧された無意識的なものの働きなど意識されないレベルでの統合。無意識は志向的レベルとの関係において抑圧されている。向性的統合は志向的統合の在り方を方向づけるけれども、決定するわけではない。情動は向性的統合のひとつであり、情動は常に生理的な動転をともなう。生理的動転は意識レベルでの知性的な世界の見方、分節化の仕方を流動化する。かっとなってものの見境が付かなくなる。生理的動転は志向的統合の特定の在り方を可能にしたり、方向付けたりするが、決定しはしない。向性的統合は志向的統合との関係で構造化されている。

 

 

【志向的統合】

志向的統合は意識レベルでの統合である。身は世界との関わりにおいてあるが、同時に世界に関わっている身自身に関わる。つまり、身は世界に関係すると同時に、身が身に関係するという関係の二重性を通して次第に意識レベルが高まっていく。われわれは机にさわるように自分の身に触ることができる。その場合、触るものと触られるものとが同時に統合される。このような身が身に折り返す二重化は意識化のごく原初的な可能性だろう。志向的統合は仲立ちされた統合との関係で構造化されている。志向的統合は向性的統合をコントロールするが、細部まで決定するわけではない。その決定はいわば図式的決定であり、図式内部の統合は向性的統合のレベルに委ねられている。言おうとするだけで舌や声帯をどう動かすかまで意識しなくても言えるし、見ようとするだけで虹彩のピントは合う。歩こうとするだけで片側の筋肉を縮め、反対側の拮抗筋を適当に緩めることは意識せずとも歩ける。意識的存在であることに人間の価値があり、自由がある、というのも最もな考えだが、心臓の鼓動も血管の膨張収縮も汗腺の開閉もホルモン分泌調整も、それらのすべての意識的統合は限界がある。むしろ、大枠の図式的決定をすれば、それを実現するための細部の調整は意識下の向性的統合に任されていることが、過剰な選択肢を排除して選択の自由を可能にしているのである。身のこうした階層構造によって、生存のための基礎的な働きは自動作用に委ねられるのである。トフラーが言うように、チャンネルキャパシティーを超えた過剰選択はわれわれを不自由にしてしまう。すなわち錯乱状態に陥るか、そうならないために自閉するかである。

 

【人間の意識の自由はいかにして可能か】

意識は環境の刺激から相対的に自由である。ある刺激に対して決まった反応しかできないのではなく、選択可能性を持つことである。しかし選択可能性は、ある程度選択肢が多いと過剰選択になり、選択不能という非自由に転化する。向性的統合は細部まで意識がコントロールできないし、コントロールしなくてよい。しゃべるときには言おうとすることを考えるだけでよくて、舌の動きとか声帯までコントロールしているわけではない。見る場合も目の虹彩の絞りまでコントロールすることはできないし、しなくてもよい。向性的統合のレベルの身の働きまでコントロールすることが意識の自由ではない。そのようなところまでコントロールしなければなないとすれば意識は意識レベルまで高まることはできず意識は不可能になる。むしろそのようなコントロールの不可能性が図式的決定を可能にしているのだ。

 

心身二元論の起源】

こうした身の多重性は意識の自由を可能にすると同時に、完全にコントロールすることはできないという意味での心身のいわゆる分離を生む。したがって心身の分離は向性的構造に基づけられながら向性的構造をそのうちに統合している志向的構造との働きのずれであって、精神と物体といった存在論的な分離ではない。

【自己作用的と外部作用的】

意識下の自動調節作用の一つを、身が身自身に働きかけて、自分の状態を変え、それによって世界の意味を変える自己作用的調節と呼ぶ。たとえばホメオスタシスは、生存可能性の範囲を拡大する。恒温動物の体温の自律平衡作用は、変温動物より活動可能な時期と範囲を飛躍的に広げた。外気温自体は変わっていないのだが、ホメオスタシスによって、その意味が変わるのである。外界の意味ではなく、外界そのものの状態を変えてしまうエアコンディショニングは外部作用的な活動である。服を着るのも、家を建てるのも、ストーブを付けるのも外部作用的である。意識上での自己作用的な働きが情動と想像力であり、意識下での外部作用的な活動が反射である。反射は行動可能性を保証する。

 

【反射】

反射は意識下の外部作用的な活動であり、行動可能性を保証する。たとえば姿勢である。姿勢は世界に対する身構えである。姿勢は意識レベルでの行動の準備態勢をととのえ、行動可能性を保証し、拡大する。学校の椅子や会社の椅子や電車の運転手席が硬くて座り心地が良くないのは意識水準を上げるためである。試験をうけるとき姿勢は前かがみになり、腕を内側に曲げ、怒っているときにはこぶしをにぎり、腕を内側に曲げる。正座をすると意識レベルが上がる。試験が終わって寝るときや、誰かと抱擁するときには、大の字になり、腕を広げる。「内転と屈曲」が対象化とその対象への意識の集中の姿勢であり、「外転と伸張」は受容と融和の姿勢である。

 

【情動】

情動は意識上での自己作用的な働きである。「こんな試験など人生にとって何するものぞ」といって解答用紙を引き裂くとき、それは意味の変形によって問題を解決するという一種の魔術的かつ象徴的な解決である。そういう魔術的な意味の変形は理性的判断に立っていてはできない。怒りに駆られて、カッとなっていなくてはならない。自己自身の状態に作用して、カッとなるという心理的動転が必要である。心理的動転は生理的動転を伴う。カッとなっているときには心拍が高まり、顔は赤くなり、相手の顔さえ見えなくなることもある。知覚的な認識の構造が流動化しているのである。つまり分別がなくなるのである。日常的な分節が流動化する。心理的にも生理的にも自己自身の身の在り方を変えることによって、世界の意味を変えてしまうのである。これはある意味、ホメオスタシスと同じく、世界そのものではなく、世界の意味を、自分の身に働きかけることで変えているのだ。行動的解決に情動が伴う場合には、大体において行動を補助し、強化するような仕方で自分自身の状態を変えるのである。たとえば、相手が私にとってマイナスの価値であるという知的な価値判断だけでは、攻撃行動には出にくい。相手が憎らしいという情動的な価値づけが行われて初めて、激しい攻撃行動が可能になる。生理的レベルでも攻撃行動に出る準備としてのアドレナリン分泌や血管膨張、心拍の上昇、反射としての姿勢が攻撃行動の条件としてある。

 

【想像力】

想像力も自己作用的である。身が自己自身を刺激することによって自由に像を表象させる。人間は手段と目的を切り離し、間違い可能性まで持つことによって、いまここにないものまで、表象できる。この像(妻の浮気)は情動(怒り)を刺激するのに十分なだけの現実性を持っている。さらに想像と情動は悪循環を起こす。想像から情動が生まれ、情動はその自己作用によって想像(妻の密会のイメージ)が展開するのに好都合な土壌(嫉妬)を育てる。

 

【仲立ちされた統合】

仲立ちを介して拡大する身体は、仲立ちへと外面化された自己のはたらきを対象化することによって自己自身へと折り返す。環境内存在は、環境を把握するだけではなく、環境内存在であること自身を把握する世界内存在となる。こうして外面的拡大は、内面的拡大を伴いつつ、より高次の意識形態を生む。記号・言語・道具・機械・制度といった仲立ちは、身が世界に関わる関わりの構造を外面化し、対象化することによって、意識化への可能性をひらく。仲立ちによって人間が関わる世界は内面的にも外面的にも拡大する。言語は世界のすべてについて語ることができるだけではなくてその言語自身についても語ることができる。そういうような広汎な対象記述の能力とメタ言語化の働きによって身と世界との関わりを関わりとして主題化することによって意識性を高める。単にコミュニケーションとしての言語ではなくて自分自身とのコミュニケーションとして内言化される。内言化によって思考が行為から相対的に分離し、内面的世界が形成され、意識化のレベルが飛躍的に高まる。外面的世界の拡大は、裸身では関わることのできないような世界と用具が関わらせてくれることによって拡大される。用具の身への組み込みは、同時に、身が用具の論理に組み込まれるという側面もある。用具はわれわれの身体の外部にある。だからこそ用具の構造と働きを、人間の身体の構造とはたらきから分離して、自由に変形して、精錬することができる。用具の構造とか論理があって、それに乗っ取らなければ、用具は使えない。ハサミの使い方を子供に教えるのが非常に難しいことからも分かるように、我々はむしろハサミに使われている。身の働きを強化・拡大する用具以外の仲立ちは記号である。

 

【身体と記号】

身体は記号やシステムの母胎でありながら、記号やシステムのように自由にはならない両義的存在である。からだ以外のものは、からだのように自由に動かせない。これは他者の発見である。それは同時に自己の発見でもある。記号を身の働きに組み込むことによって、われわれは表現機能を拡大してきた。人間は言語を使うことで、生活世界そのものを拡大してきた。われわれが言語を持たないとすれば、全く直接的な身体表現レベルの伝達しかできないだろう。知識を長く保持することも困難である。われわれは言語を持つことによって経験を蓄積し、共有することができる。われわれの経験を振り返ってみても、言語や記号を媒介にした情報経験が大部分である。それによって人間は、現に自分が経験している世界だけでなく、誰かが経験している世界、誰も経験していなくてもありうる世界、かつてあった世界、未来にあるだろう世界にまで自分の世界を拡大した。記号、ことに言語は、われわれに内在しているかにみえるほど。身体化されているが、言語を身体化し、組み込むことは、逆に言えば、我々が言語の統辞論的構造や論理によって支配され、組み込まれるということである。

 

 

【理りではなく事割り】

身体は単なるロマンティックな熱い肉ではなく、システム化し、記号化していく面がやはりある。そのことによって身体のあり方が明晰化される。しかし明晰化されるというのは、論理的なもので割り切るというのではなく、現実の姿を単に曖昧な言葉であらわすのではなく、より明らかな形にするということである。それは合理化することとは少しだけちがって、事の性質に従って分けるということである。事態をより明らかにしていくことは必ずしもその論理化ということではなくて、記号自体を、肉体を持ったものを表現しうる方向へと近づけていくことである。人間が最初から媒介された世界に生まれ、文化的歴史的身体として存在する限り、媒介されたものから出発する間接的認識論を欠くことはできない。いわゆる生の事実そのものが、すでにして文化によって媒介されている。その意味で間接的認識論は、われわれにとって、二次的な認識論ではなく、第一次的な認識論なのである。間接的認識論によって、初めて、言語や象徴、道具や機械、習俗や制度が、人間の認識にとってもつ積極的な意味が明らかになる。しかし生の事実が言語その他によって媒介されているからといって、論理に合った分析が合理的認識であるということにはならない。物事の「事割り」を明らかにすることは、石工が石の目を辿るように、物事の筋目に沿ってゆくことである。筋目を横断するような人工的な切り口の意味が明らかになるのは、その後である。

 

【結論】

メルロ=ポンティの哲学のように、身体は宇宙を内蔵しない。モナドジーホログラフィーパラダイムが予感する照応関係も望みえない。身体は全体を内蔵しない断片である。

愉快な仏語4 -雑記-

【ややこしい動詞たち】

※Je téléphone à luiとは言えない。

Je téléphone à Jeanとは言える。

Je lui téléphoneとは言える。

※Je lui penseとは言えない。

Je pense à luiとは言える。

Qu’en pensez-vous ?とは言える。

(あなたはそれについて何を考えますか。)

Je m’intéresse à luiとは言える。

代名動詞は絶対にleurとluiは同時に使えない。

なぜなら目的語代名詞の三区分と照らして相性が悪いから。


【目的語代名詞の三区分】

第一グループ:me, te, se, nous, vous

第二グループ:le, la, les

第三グループ:lui, leur

→規則①:複数の代名詞が動詞の前にあるとき、第一グループは常に左に来る。第三グループは常に右にくる。

→規則②第一グループと第三グループは同時に使ってはならない。

→規則③したがって、代名動詞は既にしてseを含むのだから、第三グループの代名詞と動詞の前で共存することはありえない。


【que節だからといって直接目的語とは限らない。】

Je pense queのque以下は直接目的語の名詞節である。

したがってque以下はleで受ける。

しかし、Je doute que以下は直接目的語の名詞節ではない。

なぜなら、de+名詞をque節で代用してよいという規則にしたがったまでであるから、que節は機能としては間接目的語なのである。

したがって、que節は間接目的語である。

それゆえque以下はdeを含んでいるので、deごとenで受ける。

それに関連して、「何を疑っているの?」という疑問文はDe quoiが文頭にくる。


【Voiciは未来。Voilàは過去。】

これから述べることについてはVoiciを使う。

いままで述べてきたことについてはVoilàを使う。


【en être à の使い方】

Voilà où nous en sommes.

俺たちはこんな様になってしまったよ

Où en sommes-nous ?

今日はどこからやるんでしたっけ?

Où sommes-nous ?

私たちはどこにいますか。


【強勢形はなぜ便利なのか】

Il les voyait.のlesを限定したかったら、

Il ne voyait qu’eux.と強勢形の力を借りれば限定できる。

Il n’y a que lui qui les voyait.強勢形の力を借りれば主語さえも限定できる。

 

愉快な仏語3 -倒置について-

わたしは、フランス語の倒置にはいつも悩まされてきた。しかし、最近本気で気づいたことは、倒置というのは、コミュニケーションを円滑にして、相手に情報をなんとか伝えようという親切心や、発話者の欲望、コミュニケーションの場(フレーム)に参与している連中全員の「人情」を原理としているということだ。つまり、わたしは、フランス語において、倒置が起きる原理を「人情」だと考えている。人情をバカにする知的なフリをした人々は多いが、認知文法という分野は言語使用に人情が関係するということを論理的に明らかにしようとしている。生半可に論理的な人が、論理的ではないと考えられてしまっている「人情なるもの」を軽蔑するのは本当に愚かなことであって、真に論理的な人間は人情を論理的に理解しようとするはずだ。

 

①Le magasin important fonctionne comme fonctionne une machine.

(大規模なデパートは、まるで機械が機能するように機能する。)


→なぜこの文に倒置が起きているのかというと、理由は3つある。第一に、フランス語は「動詞が文末に来て、文が動詞で終わる」という現象を死ぬほど嫌悪する言語だからである。第二に、フランス語においては、人称代名詞だったらそれを動詞とハイフンなしで倒置することはかなり少ないのだが、この文の場合は、従属節内で主語となっている名詞が人称代名詞ではなく、具体的な普通名詞une machineだからである。(そもそも、なぜ人称代名詞は「ハイフン付き倒置」以外で倒置がとてもしにくいのかというと、英語と違って、フランス語の人称代名詞には「動詞と常に一緒で、かつ、動詞の前にいないと不安なきもちになってしまう」という特徴があるからである。もし、人称代名詞が動詞と離れて、動詞のうしろに、ハイフンなしで存在したい場合には、強勢形にならなければならない。というか、人称代名詞を不安にさせないためにフランス語のシステムには強勢形(トニック)なるものが、わざわざ存在しているのである。フランス語の人称代名詞は、「独立度が英語より弱い」(=寂しがり屋な)のだ。その証拠に、英語にはトニックなどない。たとえば、英語ではthan Iといえる。他方、フランス語ではque jeなどと言えるはずがない。その場合トニックにしてque moiと言うのである。また、英語ではme tooもいえるのだが、フランス語ではmoi aussiである。)それゆえcomme fonctionne elleという倒置はこの場合、絶対にあり得なかった。その場合ならば、comme elle fonctionne にしたはずである。普通名詞une machineだから倒置がありえたのである。これが第二の理由である。第三に、commeを中心として文が左右対称の見栄えと、音声のリズムが作れるからである。fonctionneでcommeが挟まれているのは、合理主義的なフランス人にとって、なんとも美しいからだ。

 

 


②Avec l’avènement d’Hugues Capet commence une nouvelle ère de l’histoire de France.

(ユーグ・カペーの即位にともなって、フランス史の新しい時代が始まった。)

→なぜこの文に倒置が起きているのかというと、即位してから始まったのだという時系列順序を示せるからであり、よく一般人が誤解しているような「即位の事実を強調したいから」ではまったくない。むしろ、主語をうしろに持って行きたいがために状況補語が文頭に出たのである。また、「文頭に持ってくると強調」というのは完全に間違った文法解釈で、正しくは、文頭が「主題化=話題化」で、文末は「価値化=焦点化」と表現するべきであって、「強調」などという曖昧で野蛮な言葉は絶対に使うべきではない。

 

 

 


③Ne seront admis dans la salle que les membres de la Société ayant réglé leur cotisation.

(既に会費を払った会員しかこの部屋には入室できません。)

→なぜこの文に倒置が起きているのかというと、二つの理由がある。まず第一に、「ヌク構文の弱点」を克服するためである。限定の「ヌク構文」には、構造上の弱点がある。その弱点とは、「主語を限定できない」という弱点である。それをこの倒置は克服しようとしている。克服するために倒置をしたのである。第二に、規則だからである。規則という文は、例外をなるべくつくるべきではない。なぜなら、例外があるとその規則は骨抜きにされるからである。そこで、「お前らは全員ダメである。ただし以下の例外は除く」という順序で文を作りたくなるのが人情である。それゆえ、まず「入室は禁止されている」と強く出た上でそれに例外を設定する順序にしているのである。これが倒置が起きる二つ目の理由である。

 

 

④Rien, dites-vous, ne s'oppose à ce que nous faisons l'acquisition de votre appartement. Encore faudrait-il que nous en ayons les moyens financiers!

(私があなたのアパートを購入するために邪魔になるものなどなにもない、とあなたはおっしゃいますがね、そのための経済的な手段(つまりはお金)の入手がまだ必要なんですよ!)


→文中のenが代理しているのは、de l'acquisition de votre appartementであることはいいとして、なぜdites-vousが倒置になっているのかというと、「あなたはそう言いますけどね」という挿入句であることを示すためである。

愉快な仏語2 -時制について-

 

 


1.直説法現在時制:      j'aime

私は今という広がりにおいて愛するし、愛してきたし、これからも愛していく。そういう習慣の中に私は巻き込まれている。


2.直説法複合過去時制:  j'ai aimé 

私は愛した。

(私は過去の時点で愛して、その影響が何らかの形で、いまここまで来て、今に至るそういう経験を今持っている。だからいまそれについて話している。)


3.直説法単純過去時制:  j'aimai

私は愛した。(文語)

(2の複合過去時制とは違って、今との断絶があって、現在と関係が希薄な出来事の生起だからフィクションで使える。)


4.直説法半過去時制:    j'aimais

私は過去のある時点において、愛しているという状況におり、その過去の時点ではそこが現在として広がっておりました。


5.直説法大過去時制:   j'avais aimé

私は何らかの形で指定された過去の時点で、すでに愛してしまっていました。


6.直説法前過去時制:    j'eus aimé

私は3の単純過去時制で示されたその時点で、すでに愛してしまっていました。


7.直説法単純未来時制:  j'aimerai

私は未来において愛するでしょう。


8.直説法前未来時制:     j'aurai aimé

私は7の単純未来時制で示されたその時点までに愛してしまっているでしょう。


9.直説法近接過去時制: je viens d'aimer

私は愛して来たところだ。


10.直説法近接未来時制: je vais aimer

私は愛しにいくところだ。


11.条件法現在時制: j'aimerais

私は4の半過去時制を用いて、あたかも現在のこととして構想された反実仮想世界における未来では、愛していることでしょう。


12.条件法過去時制:   j'aurais aimé

私は5の大過去時制を用いて、あたかも過去のこととして構想された反実仮想世界における未来では、愛してしまっている(=過去として構想された反実仮想世界における8の前未来)ことでしょう。


13.接続法現在

主節が現在時制で、従属節内部が主節と同時あるいは主節より未来。

Il est nécessaire que tu ailles chez tes parents.

君は君の両親の家に行く必要がある。


(条件法は明確にアンリアルなことを述べる叙法であるのに対して、接続法は、内容がリアルなことかアンリアルなことかどうかということはさしあたり関係なくて、話者の頭の中で考えられたことについて述べる叙法。)


14.接続法過去

主節が現在時制で、従属節内部が主節の時点までの過去に完了していること。

Je regrette que tu ne m’aies pas dit la vérité.

君が真実を言ってくれなかったことを残念に思う。

 

15.接続法半過去

主節が過去時制で、従属節内部が主節と同時あるいは主節より未来。


Je doutais qu’elle eût raison.

彼女が正しいということをを私は疑っていた

 

16.接続法大過

主節が過去時制で、従属節内部が主節の時点までの過去に完了していること。

Je regrettais qu’il fût parti.

彼が出発してしまったことを私は残念に思っていた。


17.条件法過去第二形

16の接続法大過去とまったく同じ形が12の条件法過去の代わりとして用いられることがある。条件法過去の代わりに用いられる接続法大過去のことを条件法過去第2形(17)と呼ぶ。

 

12: Si j’avais étudié plus sérieusement,j’aurais réussi au concours d’entrée.

17:Si j’avais étudié plus sérieusement,j’eusse réussi au concours d’entrée.

(もっと真剣に勉強していたら、入学試験に受かっていただろう。だが、そうしなかったので実際には落ちた。)


つまり、条件法の過去の第2形は、接続法の大過去と見かけ上、形が一緒なので、条件法過去なのか接続法大過去なのかを見分けなければならないということ。とはいえ、接続法は通常従属節の中で使われるものなので、見分けは普通つく。

星の王子さまについて

⑴【星の王子様は子供向けの作品なのか?】

 


私は、『星の王子さま』という作品が子供向けの絵本だと思ったことがマジで一度もない。何度読んでも、「これは当然のことながら大人に向けて書かれている作品だ」という印象を全体的に受けるし、「大人も子供も楽しめる」のかどうか分からない。もし仮にそうだとしても、その場合、大人と子供では、まったく別の意味で「楽しんでいる」ということになるだろう。

 


というのも、高度な隠喩と象徴や「含み」「におわせ」が随所に張り巡らされているとも取れる作品であるがために、そういう比喩が何を匂わせているのかが、まだ分からないような子供は、むしろ締め出されているようにさえ感じる。(たとえば、塚崎幹夫氏は、『星の王子さまの世界』(中央公論社)の中で、ウワバミの背後にドイツの軍事行動を見ていたり、3本のバオバブの木を放置しておいたために破滅した星が出てくるが、あれは、1.ドイツと2.イタリアと3.日本の枢軸側の3国(=それぞれ1.ナチズムと2.ファシズムと3.日本の全体主義)に適切な対応をしなかったことが背景にあるのではないかとしている。また、王様の星(第10章)で、王が、星の王子様を大使に任命したところで章が終わっているが、あれはサン=テグジュペリ自身が、ナチスドイツの傀儡政権ヴィシー政府から文化大使に任命されていたことが背景にあるとしている。この作品が書かれた戦時下で、ニューヨークに亡命中の作者から見えた特異な世界状況がこの作品内に反映されている可能性は大いにある。同氏は、「現下の世界の危機にどこまでも責任を感じて思いつめるひとりの「大人」(une grande personne)の、苦悩に満ちた懺悔と贖罪の書」であり、「この本が素晴らしいのは、単に詩的、哲学的、文学的に素晴らしいというだけではなく、この本の中には作者の死の決意と、親しい人たちへの密かな訣別が秘められているからなのだ。死の決意に裏付けされた人類の未来への懸命な祈りの書だからだ」としている。他にも、「花」はサン=テグジュペリの妻コンスエロだとか、王子の星にある第一の活火山は愛で、第二の活火山は希望で、第三の休火山は信仰だという説さえある。この作品全体をサン=テグジュペリの「遺書」だと取ることさえ可能。)だから、王子の対話シーンなんか、むしろ禅問答みたいなのだ。例えば、次の一文を読んでほしい。

 

 

 

Et, avec un peu de mélancolie, peut-être, il ajouta :

– Droit devant soi on ne peut pas aller bien loin.(第3章)

そして多分、少しの憂鬱をこめて、王子様は付け加えた。

「まっすぐ目の前にとはいえ、人はそんなに遠くへは行けるもんじゃないんだよ。」

 


これは、「ヒツジをロープでちゃんと繋いでおかないと何処へでも行ってしまうよ」と言われた王子様が、飛行士(すなわち語り手)に応答する場面なのだが、主語がもはやヒツジではなく、フランス語の一般主語onに途中から、すり替わっているため、これはむしろ、人間という存在者についての言及になっているのだ。他にも、こんなのもある。

 


– Où sont les hommes ? reprit enfin le petit prince. On est 

un peu seul dans le désert…

– On est seul aussi chez les hommes, dit le serpent(17章)

「人間たちはどこ?」王子はやっと口を開きました。

「砂漠にいると、少しさびしいよね。」

ヘビは答えて言いました。

「人間たちのところにいたって、やっぱりさびしいさ。」

 

 

 

↑ここでは、社会と砂漠が重ねられているのだ。人間は本質的に孤独だと言われているとも取れる。こういう孤独って、子どもにも分かるんだろうか。つまり、サン=テグジュペリさんによって、読者として想定されている人々には、かなりの人生経験と失敗の経験などが前提されており、象徴を使って「ああ、ここは字義通りに取るのではなくて、人生のこういう局面について言われているのだなぁ」という勘ぐりが出来ることが暗に期待されているのではないだろうか。

 


だから、私はこの作品を子供向けの作品だと思ったことがマジでまったくないけれども、「ナチスとの戦争で北アフリカ戦線に向かう数週間前に、死を覚悟した、ひとりのフランス人作家が、同時代の大人たちに向けて反省を促すために書いた手紙」だと思ったことは何度かある。

 


他にも、「どう考えても、子供向けではないだろ」ということを確信する箇所がいくつも思い当たるのだ。たとえば、次の箇所を見てほしい。(翻訳は私がつけた。市販されている子供向けの絵本の訳だと、かえって裏の意味を読み取るのが難し過ぎるからである。)(私の訳は大人向けである。大人向けの訳をつけるほうがずっと簡単であって、子供向けの訳を作るというのは、めっちゃ難しいことなので、やっている人は本当にすごいと思う。)

 


−Je me demande, dit-il, si les étoiles sont éclairées afin 

que chacun puisse un jour retrouver la sienne. Regarde ma planète. Elle est juste au-dessus de nous… Mais comme elle est loin !

– Elle est belle, dit le serpent. Que viens-tu faire ici ?

– J’ai des difficultés avec une fleur, dit le petit prince.

 Ah ! fit le serpent.

Et ils se turent.(17章)

王子様は次のように言いました。「星たちが輝いているのは、みんながそれぞれ自分の星をいつか見つけられるようにするためなのかどうかを僕は考えているんだ。ねぇ、僕の星を見てみてよ。僕の星は、僕たちのちょうど真上にきている。でも、あの星(elle)は、なんて遠いんだろう。」

「その星(elle)、綺麗だね。でも、ここへは何をしに来たんだい?」ヘビは聞きました。

「ちょっと花とトラブルがあってね。」

王子様はそう言いました。

「あぁ!」とヘビは言いました。

それからふたりは、黙りました。

 

 

 

ここの文章で、蛇と王子様は、なぜ黙りこくるか分かるだろうか。蛇なんか、「ああAh !」と言ってから、もう何も言わなくなるのである。なぜだろうか。ヘビは、王子の傷心旅行のわけを瞬時に察したからである。ヘビは、王子様が地球へ自殺しに来ていると瞬間的に理解したのだ。

 


ヘビは偶然にも良質な毒を自らに備えていたし、王子は遠い女の元へ、帰らねばならなかった。そのためには、肉体が重過ぎた。ヘビは自分が王子の自殺を手伝ってやらねばならないと理解したのである。王子がいずれは、次のように聞いてくることを、この出会いの時点で、この王子様の自殺からちょうど一年前の時点で、ヘビはもう知っていたに違いない。(ちなみに、ここで、「自分の星が真上にある」というのも伏線である。なぜなら、一年後に、またちょうど自分の星が真上に来る日、王子様は自殺をするからだ。)だから、ヘビは次のように匂わせるのだ。

 


Je puis t'aider un jour si tu regrettes trop ta planète.(17)

もし君がいつか、とても故郷が懐かしくなったら、俺が君を手伝ってやるぜ。

 


Je puis t'emporter plus loin qu'un navire.(17)

俺は君を船よりも遠くへ運んでやるぜ。

 


Celui que je touche, je le rends à la terre dont il est sorti.(17)

俺は俺が触るものを、そいつが出てきた元の大地に送り返してやるのさ。

 


なんてかっこいい死のメタファーだろうか。蛇は死である。「死」が王子に語りかけたのだ。終盤で、自らの死を覚悟した王子様は、死に、次のように応える。

 


Tu as du bon venin ?(26章)

君の毒は、苦しまずに死ねるような毒かい?

 


Je ne peux pas emporter ce corps-là. C'est trop lourd.(26章)

この肉体を持ってはいけない。重過ぎるんだ。

 


明らかにこの作品は大人向けである。

 

 

 

⑵【サン=テグジュペリについて】

 


サン=テグジュペリは1900年6月29日にリヨンで生まれた。父親はリムーザン地方の貴族出身で、保険会社に勤めていた。1904年には、五人の子どもを残して父親が死亡。母親は、南方プロヴァンス地方の貴族の出身で、絵画の才能を持った女性だったらしい。母親は夫の死後、子どもたちを連れて故郷へ帰り、祖父や大叔母の所有地、ラ・モールの城、サン=モーリス・ド・レマンスの城で子どもたちを育てた。この母親に対して、サン=テグジュペリは終生深い愛情を抱いていたらしい。サン=テグジュペリは二歳年下の弟が15歳で死に、その死の間際に、死の床で、弟と話をしている。サン=テグジュペリは、海軍兵学校の入試に失敗後、1921年には、兵士としてドイツ国境に近いストラスブールという都市の第二飛行連隊に入隊し、操縦士となるための訓練を受け、民間飛行免許を取得した。そして軍用機操縦免許も取得して予備少尉になる。しかし、1923年に事故で怪我をして除隊。1926年には、処女作『ジャック・ベルニスの脱出』の一部を「飛行家」というペンネームで雑誌「銀の船」に発表し、ラテコエール航空会社に就職することによって、もう一度パイロットに戻ることになった。飛行士としてのキャリアは、トゥールーズとカサプランカの間と、カサブランカダカールの間の定期郵便飛行を経験し、中継基地の飛行場長をつとめ、アエロポスタル・アルヘンティーナ社の支配人としてブエノス・アイレスに赴任し、フランスから南米にいたる路線のカサブランカとポール・テチエンヌの間の飛行、ラテコエール飛行機製造会社のテスト・パイロットとして、その後には、エール・フランスの宣伝部勤務などをつとめた。

1931年に、サン・サルヴァドル出身のコンスエロ・スンシンと結婚、35年には、『パリ・ソワール』紙の特派員としてモスクワへ行ったり、パリとサイゴンの間の飛行記録更新をめざしての飛行中にリビア砂漠に不時着したりした。(ちなみに、星の王子さまの語り手が不時着したのはサハラ砂漠である。)1939年には、『人間の土地』にアカデミー小説大賞が与えられたが、この年の9月に第二次大戦が勃発し、予備大尉として戦争に召集された。フランスがナチス・ドイツに占領されたので、1940年の6月に休戦調印がされ、動員解除を受けると、サン=テグジュペリは、アメリカへの亡命を決心し、1941年の1月にニューヨークへ着いた。サン=テグジュペリがニューヨークに到着する少し前、1941年の12月8日に、日本は真珠湾を攻撃しており、これもあって、ヨーロッパの窮状を傍観していたアメリカは、ヨーロッパでの参戦に踏みきった。1942年の11月、連合軍の北アフリカ上陸作戦成功のニュースを喜んだサン=テグジュペリは、もう一度戦おうと決心し、1943年の5月に、北アフリカへ向かう軍用船に乗り込み、アルジェに到着した。このとき、サン=テグジュペリは43歳で、操縦士として実戦に参加することについて、アメリカ軍側からは反対が出た。彼はすでに何度も事故を起こしてきたという事実があり、サン=テグジュペリは、優秀な飛行士とは言えなかったのだ。それでもサン=テグジュペリ自身が執拗に求めたので、飛行を許された。しかし、すぐに事故を起こしてまたも予備役に編入させられてしまう。それでも、また頼み込んで偵察飛行を続ける許可を得て、サルディニア島のアルゲーロ基地にある2-33偵察飛行大隊に復帰した。その後、コルシカ島のボルゴ基地に移動し、1944年7月31日、その基地を飛び立った後でついに、消息を絶った。コルシカ島からフランス本国への偵察飛行のために飛び立ったサン=テグジュペリは、南仏のアゲー沖で、ドイツ軍の戦闘機に撃墜されたそうだ。

 


星の王子さま』は1943年にニューヨークで出版されたのだが、サン=テグジュペリは、1943年の5月には戦線復帰のために北アフリカ戦線へと旅立っているので、この作品の成功をサン=テグジュペリ自身は知ることがなかった。

 


星の王子さま』の出版部数は日本だけで600万部、全世界では8000万部にのぼる。Le Petit Princeというフランス語に対する「星の王子さま」という訳語は内藤濯の1953年の岩波書店版の翻訳における発明だ(野崎歓訳だと『ちいさな王子』になっている。ただ、アプリヴォワゼすると定冠詞になるという構造を考えると、この原題に定冠詞が付いているのは、何かしらの深い意味があるのではと考えることもできる。つまり、王子様と飛行士との間にうまれた絆をこの定冠詞が表しているのではという可能性がある。)。

 


星の王子さま』は、前述のとおり、1942年の第二次世界大戦のさなかに、アメリカに亡命していたサン=テグジュペリがニューヨークで書いたものだ。サン=テグジュペリの友人たちが、祖国フランスから遠く離れた土地で失意の中にあったサン=テグジュペリに、子どもたちへのクリスマスプレゼントになるような本を書くことを勧めたのだ。(結局、クリスマスまでには執筆が間に合わなかった。)1943年に、英語版とフランス語版がニューヨークで出版(フランス語版の初版第一刷はレイナル&ヒッチコック社から刊行された)され、その1週間後、1943年4月に、サン=テグジュペリナチスドイツと闘うために北アフリカ戦線に、ニューヨークから船に乗って、出発した。(前述の通り、すでに戦闘機の搭乗員として年齢制限は超えていたのだが、それを無視して困難な出撃を重ねたわけである。)

 


サン=テグジュペリは英語が苦手で、しかもアメリカが嫌いだったらしい。例えば、「ビジネスマン」という登場人物の名前だけが作中で英語スペルなのだが、アメリカ資本主義文明に対するサン=テグジュペリの風刺かもしれない。

 

 

 

⑶【邦訳があるサン=テグジュペリの作品】

 


『南方郵便機』(1929)、『夜間飛行』(1931)、『人間の土地』(1939)、『戦う操縦土』(1942)、『青春の手紙』(1923-1931)、『城砦』(1948)、『ある人質への手紙・母への手紙』(1943)などは邦訳が出ている。

 


サン=テグジュペリの処女作『南方郵便機』は1929年。『夜間飛行』はフェミナ賞、『人間の大地』はアカデミーフランセーズ小説大賞に選ばれている。1942年には戦争小説『戦う操縦士Pilote de guerre』も書いている。

 

 

 

⑷【『星の王子さま』という作品の構成】

 


星の王子さま』は、始めにひとつの献辞がついていて、本文は27章構成になって、あとがきで終わっている。(ちなみに、とくに読みごたえがあるのは第21章である。第21章だけでも読んだ方がいい。ちなみに、一番長い章は第26章である。あと、第6章だけに唯一、地の文の書き手(=6年後の飛行士)が王子さまに語りかけるという場面がある。第6章以外の箇所では、地の文の書き手は過去の描写に徹しているのだが。)そして、40枚ほどの非常にデザイン性の高い超有名な挿絵はサン=テグジュペリ自身が描いたものだ。要するに、『星の王子さま』は、①冒頭の「献辞」、②27章分割の本文、③「あとがき」、④挿絵という4つの構成要素から成る。

 


27章の構成とテーマは以下のようになっている。

 


第1章:語り手が6才のとき

第2章:不時着して2日目の朝の出会い(6年前のこと)

第3章:王子様はよその惑星からきた。

第4章:小惑星B612の話

第5章:不時着してから3日目、バオバブの話

第6章:不時着してから4日目、夕陽の話

第7章:不時着してから5日目

第8章:バラの花(カットバック始まり)

第9章:バラとの別れ

第10章:王様の惑星

第11章:自惚れ屋の惑星

第12章:酔っ払いの惑星

第13章:ビジネスマンの惑星

第14章:点灯夫の惑星

第15章:地理学者の惑星

第16章:王子が地球にくる

第17章:ヘビに会う(王子が噛まれる1年前)

第18章:人間には根っこがない

第19章:やまびこと会話をする

第20章:5000本のバラを見つける

第21章:キツネと会う

第22章:転轍技師と会う

第23章:クスリ売りと会う(カットバック終わり)

第24章:不時着してから8日目(井戸探し)

第25章:不時着してから9日目(ヒツジの絵に口輪を描く約束を果たす)

第26章:不時着してから10日目の夕暮れ(ヘビに噛ませる王子様)

第27章:不時着から6年後。語り手はまだ誰にも王子のことを話していない。(語り手は口輪の絵にに革紐を添えるのを忘れたことに気づく)

 


↑このとおり、全体が全て6年後のパイロットの回想なのに、その回想の中で、長い長いカットバック(8~23章はすべて回想)が途中に入るので入れ子構造となり、時系列がとても分かりにくいのだが、王子様は、時系列だと次のような順序でキャラたちと出会い、会話をしている。王子のバラ→王様→自惚れ屋→酔っ払い→ビジネスマン→点灯夫→地理学者ヘビ→無名の花→こだま→5000本のバラ→キツネ→転轍技師→薬売り→パイロット→ヘビに噛ませて星に帰る。

 

 

 

⑸【『星の王子さま』のあらすじ】

 


この作品の舞台は終始、砂漠である。なぜ砂漠なのだろうか。当時の時代情勢(1943)を考えると、世界各国が相互にいがみ合っていて、まさに不毛の砂漠のようであったともいえる。自己中心的な大人たちの、殺伐とした心が社会という砂漠を構成していたともいえるかもしれない。もしそうだとすれば、飛行機の上空から砂漠を眺めていたサン=テグジュペリは、「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ。」という王子の言葉に託した人間社会への希望を感じとることができるかもしれない。あるいは単に、砂漠に不時着したという経験から来た設定だろうか。分からない。

 


とにかく、『星の王子さま』の冒頭は、レオン・ヴェルトへの献辞(dédicace)で始まる。左翼革命思想の持ち主だったレオン・ヴェルトさんはサン=テグジュペリと1935年に知り合った。「この本をひとりの大人に捧げることを、子供たちには許してほしい」という言葉で始まるのだ。レオン・ヴェルトはサン=テグジュペリよりも22才歳上のユダヤ系フランス人である。ということは、この献辞は、祖国フランスで戦っている同胞に宛てたものだ。サン=テグジュペリはこの本を子供たちではなく大人に捧げてしまったことについての弁解を3つ(①レオン・ヴェルトはサン=テグジュペリの世界で一番の大親友だから。②レオン・ヴェルトは、子供の本でさえも理解してくれるから。③レオン・ヴェルトはいま飢えと寒さに苦しむ祖国フランスにいるから。)を述べたあと、それでも読者が納得しないなら、「レオン・ヴェルトも昔は子どもだったのだから許してくれ」と書いている。(この献辞が、本当に子どもに宛てられているとしたら、子供にとって、冒頭からいきなり難し過ぎるのではないだろうか。)

 


さて、語り手が6歳のときのこと。絵本の中の、獣を飲み込む大蛇「ボア」のデッサンを見て感動した語り手は、自分も似た絵を描いて、大人たちに見せて、怖くないか?と聞いてみたんだが、しかし、その絵は大人たちには帽子にしか見えなかったという有名なエピソードが語られる。(第1章)

 


この件で、将来画家になる夢を諦めて飛行機のパイロットになった語り手は、現在から6年前のこと、サハラ砂漠に不時着して、王子様と遭遇する(第2章)。語り手に飲み水は1週間分しかなかった。(つまり王子と語り手とのこれからの対話は、1日目から、水が尽きる8日目までに渡って展開されるというわけだ。)

 


ある日王子の星にバラが咲く(第8章)。バラを初めてみた王子は感激して世話をするがバラは強気で王子につれなかった。実はバラは王子への愛を素直に表せなかったのだ。この、王子さまに守られたくて、美しくて、気高くて、気難しくて、見栄っ張りの薔薇は、わがままでありながら、はかなく、素直になれず、そして、王子さまに愛されてゆく。 サン=デグジュベリの愛妻コンスエロか?と考えられているが、バラのモデルは、愛妻コンスエロであるという説と、サン=テグジュペリの母がモデルであるという説と、かつての婚約者であるルイーズ・ド・ヴィルモランがモデルであるという説があるが、別に特定する必要もないだろう。

 


王子はバラとトラブって、傷ついて、星々をめぐる旅に出る。精神を明らかに病んだ大人たちを見て巡る。やがて王子は、強い存在だと思っていたバラが、いつ枯れてしまうかも分からないような、そういう、はかない存在であったことを地理学者によって知らされる。(地理学者のいる6番目の星だけは、他の星よりも10倍大きい。この6つ目の星で出会った地理学者に、王子は、次は地球に行くとよいと教えられるのだ。)

 


そういう経緯で、7つめの星は地球。(ちなみに、王子さまが地球に来て最初に出会うのは毒ヘビである。)その地球で王子は5千本のバラが咲いている庭を目にし、世界にひとつしかないと思っていたバラが無数にあることを知る。自分が愛したバラが、ワンオブゼムに過ぎなかったと知り、王子は悲しむ。するとそこで、狐が王子に声をかける。狐は王子に、「絆は時間によってこそ育まれるのだよ」と言う。共に過ごした時が、相手をかけがえのない唯一の存在にする(=アプリヴォワゼする)のだとキツネは言う。アプリヴォワゼの原義は、「privéなものにする」、つまり、「プライベートなものにする」という意味。

 


王子は、自分もバラも相手の気持ちになっていなかったものだから、傷つけ合うことになったのだと悟る。そして毒蛇に自分をかませて、自分の星である小惑星B612に戻っていく。

 


ちなみに、この「小惑星 B612号」は、語り手にによると、1909年にトルコ人天文学者によって見され、国際天文学会で発表されたものだったそうだ。ところが、その学者が民族衣裳を着ていたので、誰も彼の発表を信じなかった。ところが、1920年に、ヨーロッパ風の服を着て発表しなければならないという制度が新しく出来たために、同じ星についての発表を、ヨーロッパ風の服装で行うと、今度は信じてもらえたという設定になっている。(これが、サン=テグジュペリのいう大人"grandes personnes"である。)

 


⑹【翻訳するという行為が孕む問題について】

 


翻訳は考えものである。なぜなら、例えば、以下の一番有名な箇所をみてみてほしい。

 


Adieu, dit le renard. Voici mon secret. Il est très simple: on ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.(21)

永遠にお別れだな。最後に、これが俺の秘密さ。とてもシンプルなんだ。心で見たときしか、よく見えない。大切なものは、目に見えないんだ。

 


↑ここが、英訳だとどうなるかというと、It is only with the heart that one can see rightly.というように、強調構文になってしまって、on ne voit bien qu'avec le cœur.というフランス語の8単語が、英語だと11単語になってしまっているからだ。しかも理屈っぽい。フランス語のシンプルさがない。

 


他にも致命的な翻訳による欠陥がある。それは、une fleur とla fleur の決定的な違いが出せないという点だ。ここは『星の王子さま』という作品にとって本当に致命的である。なぜなら、この作品のタイトルはle petit prince であって、定冠詞がついているからだ。つまり、実はこの作品中で、既に話者がアプリヴォワゼしている対象を表現するときには定冠詞が使われ、まだアプリヴォワゼされていない対象を表現するときには不定冠詞が使われているのである。次の箇所を参照してほしい。

 


Comme ses lèvres entr’ouvertes ébauchaient un demisourire je me dis encore :  « Ce qui m’émeut si fort de ce petit prince endormi, c’est sa fidélité pour une fleur, c’est l’image d’une rose qui rayonne en lui comme la flamme d’une lampe, même quand il dort… » (24)

 


王子様の少し開いた唇がほのかな笑いをかたどったので、私は次のように考えてしまった。「ねむる王子様のなにがこんなに私を感動させるのかといえば、それはある花への忠誠心なのだ。あるバラのイメージが王子様の中にあって、彼が眠っているときでさえ、ランプの炎のように光を放っている。」

 


ここでは、語り手は王子様のバラをアプリヴォワゼしていないので、バラは定冠詞ではなく不定冠詞になっている。

 


あと、王子さまは「僕」キツネは「俺」、語り手は「私」、バラは「あたし」という感じで、一人称を使い分けると訳しやすくなる。日本語は、ある意味で、この点でとても便利であるとも言える。

 

 

 

 

 

 

⑺【研究書(年代順)】

研究書はフランス語でも日本語でも死ぬほど出ていて、そのほんの一部は以下の通り。他にも、怪しいものまで、無数にある。

 


ルネ・ドランジュ著、山口三夫訳『サン=テグジュペリの生涯』(みすず書房)、1963年。

内藤濯著『星の王子とわたし』(文藝春秋)、1968年。

山崎庸一郎著『サン=テグジュペリの生涯』(新潮選書)、1971年。

内藤濯『未知の人への返書』中央公論社、1971年。

アンドレ・ドヴォー著、渡辺義愛訳『サン=テグジュペリ』(ヨルダン社)、1973年。

Yves Monin.  L'ésotérisme du Petit Price de Saint-Exupéry (Nizet, Paris, 1976)

内藤濯『落穂拾いの記』岩波書店、1976年。

内藤初穂「童心の日記―序に代えて」、1984年。

山崎庸一郎『星の王子さまの秘密』彌生書房、1984年。

稲垣直樹『サン=テグジュペリ 人と思想』清水書院、1992年。

ジョン・フィリプス著、山崎庸一郎訳『永遠の星の王子さま』(みすず書房)、1994年。

山崎庸一郎監修『星の王子さまのはるかな旅』(求龍堂)、1995年。

山崎庸一郎訳編『サン=テグジュペリの言葉』(彌生書房)、1997年。

ルドルフ・プロット『星の王子さまの心』(パロル舎)、1997年。

小島俊明『改訂版 おとなのための星の王子さま――サン=テックスを読みましたか』近代文芸社、2000年。

柳沢淑枝『こころで読む「星の王子さま」』成甲書房、2000年。

山崎庸一郎『『星の王子さま』のひと』新潮社、2000年。

 


水本弘文『「星の王子さま」の見えない世界』大学教育出版、2002年。

内藤濯『星の王子 パリ日記』グラフ社、2003年。

内藤初穂「『星の王子さま』備忘録その一」岩波書店、2003年。

片木智年『星の王子さま学』慶應義塾大学出版会、2005年。

藤田尊潮『『星の王子さま』を読む』八坂書房、2005年。

三野博司『『星の王子さま』の謎』論創社、2005年。

塚崎幹夫著『星の王子さまの世界』(中央公論社)、2006年。

加藤晴久『自分で訳す「星の王子さま」』三修社、2006年。

内藤初穂『星の王子の影とかたちと』筑摩書房、2006年。

鳥取絹子星の王子さま 隠された物語』ベストセラーズ、2014年。

安冨歩『誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠』明石書店、2014年。

 

 

 

 

 

 

 


⑻【付録、あるいは名句の抜粋】

 


()内の数字は、その名句が登場する原典内の章番号である。私が訳してみたが、誰かが読む必要はまったくない。

 


Toutes les grandes personnes ont d'abord été des enfants.(まえがき)

どんな大人たちも、初めは子どもだったのだ。

 


Lorsque j’avais six ans j’ai vu, une fois, une magnifique image, dans un livre sur la Forêt Vierge qui s’appelait « Histoires Vécues ». Ça représentait un serpent boa qui avalait un fauve. Voilà la copie du dessin.(1)

私が6才のとき、一度だけ、自然のままの森についての『本当の物語たち』という本の中で、素晴らしい挿絵を見たんだ。その挿絵は、ボア(=南米やマダガスカルに生息する王蛇科の大蛇の名前)というヘビが、ケモノを飲み込んだところの絵だった。これがその絵の模写なんだ。

 


J'ai ainsi vécu seul, sans personne avec qui parler véritablement.(2)

私はこんなふうに孤独に生きてきた。心から話し合える友人もなく。(主語が省略されて不定詞のまま動詞が置かれている文)

 


Dessine-moi un mouton.(2)

僕に去勢されたヒツジの絵を書いてよ。

 


Tu vois bien...ce n'est pas un mouton, c'est un bélier. Il a des cornes.(2)

よく見て。これは去勢されたヒツジじゃないよ。それは去勢されてない牡ヒツジだよ。ツノがあるでしょ。

 


De quelle planète es-tu?(3)

あなたはどの星から来たの?

 


Comment! Tu es tombé du ciel !(3)

なんだって!あなたは空から落ちてきたの?

 


Alors, toi aussi tu viens du ciel!(3)

すると、君も空からやって来たんだね!

 


Où veux-tu emporter mon mouton?(3)

僕のヒツジをどこへ連れて帰ろうっての?

 


Ça ne fait rien, c'est tellement petit, chez moi!(3)

そんなの構わないさ。ぼくの星はとっても小さいんだから。

 


Il hochait la tête doucement tout en regardant mon avion.(3)

彼、私の飛行機をまじまじと見つめて、静かに首を振った。

 


Sa planète d'origine était à peine plus grande qu'une maison!(4)

王子さまの故郷の惑星は、一軒の家よりわずかに大きいくらいの大きさしかなかったんだ。

 


J'ai de sérieuses raisons de croire que la planète d'ou venait le petit prince est l'astéroïde B 612. Cet astéroïde n'a été aperçu qu'une fois au télescope, en 1909, par un astronome turc.(4)

私にはちゃんとした理由があって、王子様の星は小惑星B612であると思う。この小惑星は、一度だけトルコの天文学者によって1909年に、望遠鏡で発見されたことがある。

 


Quel âge a-t-il? Combien a-t-il de frère? Combien pèse-t-il? Combien gagne son père?(4)

その子の年齢は?その子の兄弟は何人?その子の体重は?その子のお父さんはどのくらい稼ぐの?

 

 

 

Il faut s’astreindre régulièrement à arracher les baobabs dès qu’on les distingue d’avec les rosiers auxquels ils ressemblent beaucoup quand ils sont très jeunes.(5)

バオバブは、まだ小さい時には、バラにとてもよく似ているんだけど、そのバラとの区別がつくようになったらすぐに、定期的に引っこ抜くように努めなければならないんだ。

 


Enfants! Faites attention aux baobabs!(5)

子供たちよ!バオバブの不始末には気をつけなさい!

 


–Tu sais… quand on est tellement triste on aime les cou-

chers de soleil…

– Le jour des quarante-trois fois tu étais donc tellement 

triste ?

Mais le petit prince ne répondit pas.(6)

「知ってた?人はとても悲しい時、日没を愛するものなんだ。」

「てことは、44回も日没を見た日、君はそれほどまでに悲しかったってこと?」

王子様は何も答えませんでした。

 

 

 

Ah ! petit prince, j’ai compris, peu à peu, ainsi, ta petite vie 

mélancolique. Tu n’avais eu longtemps pour distraction que la 

douceur des couchers de soleil. (6)

ああ、王子さま。私はこんなふうに、少しずつ分かってきたんだ。君のメランコリックでささやかな生活を。君は長い間、穏やかな夕暮れだけが、君の気晴らしだったんだね。

 


J'aime bien les coucher de soleil. Allons voir un coucher de soleil.(6)

僕は夕陽が好きなんだ。ねえ夕陽を見に行こうよ。

 


En effet. Quand il est midi aux États-Unis, le soleil, tout le 

monde le sait, se couche sur la France. Il suffirait de pouvoir 

aller en France en une minute pour assister au coucher de soleil. Malheureusement la France est bien trop éloignée. Mais, sur ta si petite planète, il te suffisait de tirer ta chaise de quelques pas. Et tu regardais le crépuscule chaque fois que tu le désirais…(6)

実際、アメリカ合衆国が正午のとき、ご存知のとおり、フランスでは日没だ。もし、1分間でフランスに行くことができたならば、日没に立ち会うことができるだろう、しかし残念ながら、祖国フランスはあまりにも遠すぎる。でも、もし王子さまのとっても小さい星でならば、イスを何歩分か動かすだけで、それができてしまう。だから王子さまは、それを望むたびに、夕暮れを見ることができた。

 


– Il y a des millions d’années que les fleurs fabriquent des épines. Il y a des millions d’années que les moutons mangent quand même les fleurs. Et ce n’est pas sérieux de chercher à comprendre pourquoi elles se donnent tant de mal pour se fabriquer des épines qui ne servent jamais à rien ? Ce n’est pas 

important la guerre des moutons et des fleurs ? Ce n’est pas plus sérieux et plus important que les additions d’un gros Monsieur rouge ? Et si je connais, moi, une fleur unique au monde, qui n’existe nulle part, sauf dans ma planète, et qu’un petit mouton peut anéantir d’un seul coup, comme ça, un matin, sans se rendre compte de ce qu’il fait, ce n’est pas important ça !

Il rougit, puis reprit :

– Si quelqu’un aime une fleur qui n’existe qu’à un exemplaire dans les millions et les millions d’étoiles, ça suffit pour qu’il soit heureux quand il les regarde. Il se dit : « Ma fleur est là quelque part… » Mais si le mouton mange la fleur, c’est pour lui 

comme si, brusquement, toutes les étoiles s’éteignaient ! Et ce n’est pas important ça !(7)

100万年前から、花たちはトゲを身に纏ってる。100万年前から、ヒツジはそれでも、その花たちを食べてしまう。なぜ、花たちは、そんなに苦労してまで、その「なんの役にも立たない」トゲを身にまとうのか、それが何故かを理解することは誠実なことじゃないっていうの?ヒツジたちと花たちとの戦争の方は、重要なことじゃないっていうの?それよりもむしろ、あの、太った赤ら顔のおじさんの金勘定のほうが、もっと誠実なことで重要だっていうの?もし、世界にたったひとつしかない花、ぼくの星のほかにはどこにも咲いていない花、ちいさな羊が1匹いれば、その羊は自分のしてることがなにかも気づかずに、朝、一撃で食べ尽くしてしまうことができるような、そんな花がぼくにはあるって僕にはわかってたとしても、それでもこのことが、大切なことじゃないっていうの?」

王子さまはまっ赤になって、続けた。

もしも誰かが、100万の星と100万の星を足して200万の星のなかにさえ、似ているのしか見つからないような、一輪の花を好きになったなら、その幸せなひとにとって、星空をながめるだけで十分なんだ。『あのどこかに僕の花はある』って彼は思うから。でも、もしヒツジが、あの花を食べたら、そのひとにとっては、まるで、全ての星がいきなり消えたみたいだって思われる。そのことは大事なことじゃないっていうの!

 


Mais non ! Mais non ! Je ne crois rien! J'ai répondu n'importe quoi.(7)

私は何も考えちゃいない!さっきは口からでまかせを言ったんだ!

 


Il n'a jamais aimé personne.Il n'a jamais rien fait d'autre que des additions.Et toute la journée il répète comme toi : « Je suis un homme sérieux ! Je suis un homme sérieux ! » et ça le fait gonfler d’orgueil. Mais ce n’est pas un homme, c’est un champi-

gnon !(7)

そのビジネスマンは、一度たりとも人を愛したことがない。計算以外のことは何もしたことがない。(ちなみに、ここのautreという形容詞にdeがついている理由は、不定代名詞のrienに形容詞がつくときには「連結のde」をつけて男性単数形にするという決まりがあるから。)そして一日中あなたみたいに「私はまじめ、私はまじめ」と繰り返していた。そのことは、彼を自尊心でもって肥大させていた。でもそれって人間じゃなくて、ふくれあがったキノコだよ!

 


Je suis née en même temps que le soleil.(8)

あたしは、太陽と同時に生まれたのよ。

 


Je ne suis pas une herbe.(8)

私は雑草なんかじゃなくってよ。

 


Il n'y a pas de tigres sur ma planète.(8)

僕の星にトラはいないよ。

 


Je ne crains rien des tigres, mais j'ai horreur des courants d'air.(8)

あたしトラなんてまったく怖くないわ。でも、風はとってもイヤなの。

 


Ne traîne pas comme ça, c'est agaçant.(9)

そんなふうにグズグズしてちゃダメなのよ。イライラするわね。

 


Au matin du départ, il mit sa planète bien en ordre.(9)

出発の朝、王子さまは、彼の星をきちんと片付けました。

 


– Mais oui, je t’aime, lui dit la fleur. Tu n’en as rien su, par ma faute. Cela n’a aucune importance. Mais tu as été aussi sot que moi. Tâche d’être heureux… Laisse ce globe tranquille. Je n’en veux plus.(9)

ええそうよ。愛してるわ。バラは王子に言った。あなたはそのことに少しも気付かなかった。私のせいでね。どうでもいいことだけど。でも、あなたも、あたしと同じくらいバカだったのよ。どうかお幸せになってね。このガラスの覆いはそのままにしておいて。もうこれ以上望まないわ。

 


Tu as décidé de partir. Va-t'en.(9)

あなたは旅立つと決めたんでしょう。もう行ってちょうだい。

 

 

 

Je n'aime pas condamner à mort.(10)

僕は死刑を宣告するのはイヤです。

 


Il est contraire à l'étiquette de bâiller en présence d'un roi.Je te l'interdit.(10)

国王の前であくびをするのは、礼儀に反することじゃ。あくびするのを禁ずる。

 


Je t'ordonne de m'interroger.(10)

わしに質問をすることをおぬしに命じる。

 


Sur quoi régnez-vous?(10)

どこを治めていらっしゃるのですか?

 


Les étoiles vous obéissent?(10)

星たちは、王様に従うの?

 


Il est bien plus difficile de se juger soi-même que de juger autrui.(10)

他人を裁くよりも、自身を裁くほうがずっと難しいのじゃ。

 


Moi, je puis me juger moi-même n'importe où.(10)

ぼくは、どこにいたって、自分で自分を裁けるさ。

 


Mais il n'y a personne à juger !(10)

でも、裁かなければならない人なんていません!

 


 « Les grandes personnes sont bien étranges », se dit le petit 

prince, en lui-même, durant son voyage.(10)

「大人ってとても奇妙だな」と王子は自分の中で独り言を言いました。旅を続けながら。

 

 

 

Je suis l'homme le plus beau de la planète.(11)

私はこの惑星で一番美男子だ。

 


Je t'admire, mais en quoi cela peut-il bien t'intéresser?(11)

崇拝するよ。でも、どうしてそれが大事なことなの?

 


Que fais-tu là?

Je bois.

Pourquoi bois-tu?

Pour oublier.

Pour oublier quoi?

Pour oublier que j'ai honte.

Honte de quoi?

Honte de boire!(12)

そこでなにしてるの?

酒を飲んでるのさ。

なぜ飲んでるの。

忘れるためさ。

何を忘れるため?

恥ずかしい気持ちを忘れるためさ。

何が恥ずかしいの?

酒を飲んでることがさ!

 


La quatrième planète était celle du businessman.(13)

4番目の星はビジネスマンの星だった。

 

 

 

J'écris sur un petit papier le nombre de mes étoiles.(13)

ちいさな紙切れに、私の星の数を書くのです。

 


Je possède trois volcans que je ramone toutes les semaines. Car je ramone aussi celui qui est éteint.(13)

僕は3つの火山を持っていて、毎週煤払いをするんだ。休火山も同じように煤払いをする必要があるからだよ。

 


Tu n'es pas utile aux étoiles.(13)

あなたは、星々の役には立っていない。

 


Pourquoi vient-tu d'éteindre ton réverbère?

Pourquoi vient-tu de le rallumer?(14)

どうしてたったいま街灯を消したの?

どうして今また街灯をともしたの?

 


La consigne n’a pas changé, dit l’allumeur. C’est bien là le drame ! La planète d’année en année a tourné de plus en plus 

vite, et la consigne n’a pas changé !(14)

指令が変わらなかったんだ、と点灯夫は言った。それこそが悲劇なんだ。星は年々、だんだん速く回転するようになったのに、指令が変わらなかったんだ!

 


C'est le seul qui ne me paraisse pas ridicule.(14)

点灯夫さんだけは、僕にとって、滑稽には思えない人なんだ。

 


Celui-là est le seul dont j'eusse pu faire mon ami.(14)

あの点灯夫さんだけは、友達になれたかもしれないただ1人のひとなのに。(接続法大過去)

 


Quand il allume son réverbère, c’est comme s’il faisait naître 

une étoile de plus, ou une fleur. Quand il éteint son réverbère,

ça endort la fleur ou l’étoile. C’est une occupation très jolie. 

C’est véritablement utile puisque c’est joli.(14)

彼が灯りをつけると、まるで、星や花を一つ新しく生まれさせるみたいだった。彼が灯りを消すと、星や花を眠らせるみたいだった。とてもステキな仕事。ステキだから、本当に役に立つ。

 


Le géographe fait faire une enquête sur la moralité de l'explorateur.(15)

地理学者は、その探検家の品行について調査させるのじゃ。

 


Que les volcans soient éteints ou soient éveillés, ça revient au même pour nous autres.(15)

火山が休火山だろうが活火山だろうが、わしたちにとっては、同じことなのじゃ。

 


Ma fleur est éphémère, se dit le petit prince, et elle n’a que quatre épines pour se défendre contre le monde ! Et je l’ai laissée toute seule chez moi !(15)

僕の花ははかないんだ。王子さまは独り言をいいました。彼女は、世界から自分を守ろうとしても、たった四つのトゲしか持っていない。それなのに、ぼくは彼女を、ぼくの星にひとりで置いてきてしまった!

 


La septième planète fut donc la Terre.(16)

そういうわけで、7つ目の惑星は地球だった。

 

 

 

– Où sont les hommes ? reprit enfin le petit prince. On est 

un peu seul dans le désert…

– On est seul aussi chez les hommes, dit le serpent(17)

「人間たちはどこ?」王子はまた口を開きました。「砂漠は少しさびしいよね。」

ヘビは言いました。「人間たちのところにいたって、やっぱりさびしいさ。」

 


−Je me demande, dit-il, si les étoiles sont éclairées afin 

que chacun puisse un jour retrouver la sienne. Regarde ma planète. Elle est juste au-dessus de nous… Mais comme elle est loin !

– Elle est belle, dit le serpent. Que viens-tu faire ici ?

– J’ai des difficultés avec une fleur, dit le petit prince.

 Ah ! fit le serpent.

Et ils se turent(17)

王子様は言いました。「星たちが輝いているのは、みんながそれぞれ自分の星をいつか見つけられるようにするためかどうかを僕は考えているんだ。僕の星を見てみてよ。僕の星は、僕たちの真上にある。でも、なんて遠いんだろう。」

「綺麗だね。でも、ここへ何しに来たんだい?」ヘビは聞きました。

「ちょっと花とトラブルがあってね」王子様は言いました。

「ああ!」ヘビはそう言いました。

それからふたりは、黙りました。

 

 

 

 


Je puis t'aider un jour si tu regrettes trop ta planète.(17)

もし君がいつか、とても故郷が懐かしくなったら、俺が君を手伝ってやるぜ。

 


Je puis t'emporter plus loin qu'un navire.(17)

俺は君を船よりも遠くへ運んでやるぜ。

 


Celui que je touche, je le rends à la terre dont il est sorti.(17)

俺は俺が触るものを、そいつが出てきた元の大地に返してやるのさ。

 


Les hommes manquent de racine, ça les gêne beaucoup.(18)

人間たちには根がないから、そのことが人間たちをとても困らせるのよ。

 


D'une montagne haute comme celle-ci, j'apercevrai d'un coup toute la planète et toute les hommes.(19)

こんなに高い山からだと、星の全体とすべての人間たちが一目で見渡せるだろうな。

 


Et les hommes manquent d'imagination. Ils répètent ce qu'on leur dit.(19)

おまけに人間には想像力が欠けている。人間たちは、他人が彼らに言ったことを繰り返しているばかりだ。

 


Soyez mes amis, je suis seul.(19)

こだまさん。ぼくの友達になって。ぼくはひとりなんだ。

 

 

 

Puis il se dit encore : « Je me croyais riche d’une fleur unique, et je ne possède qu’une rose ordinaire. Ça et mes trois volcans qui m’arrivent au genou, et dont l’un, peut-être, est éteint pour toujours, ça ne fait pas de moi un bien grand prince… » Et, couché dans l’herbe, il pleura.(20)

 


それから、王子様はこう考えた。「ぼくは、ただひとつの花でもって、自分を豊かだと思っていた。でも、僕が持っているのは、ただのありふれたバラに過ぎなかったんだ。この花と、自分の膝丈までしか達しないような3つの火山ーしかもそのうちのひとつは、多分ずっと休火山のままだーは、僕を立派な王子様にはしてくれない。」王子様は草むらに横たわり、泣きました。

 


C'est alors qu'apparut le renard.(21)

その時だった。キツネが現れたのは。

 


Tu es bien joli.(21)

君はとてもかわいいね。

 


Ma vie est monotone. Je chasse les poules, les hommes me chassent. Toutes les poules se ressemblent, et tous les 

hommes se ressemblent. Je m’ennuie donc un peu. Mais, si tu m’apprivoises, ma vie sera comme ensoleillée. Je connaîtrai un bruit de pas qui sera différent de tous les autres. Les autres pas me font rentrer sous terre. Le tien m’appellera hors du terrier, comme une musique. Et puis regarde ! Tu vois, là-bas, les 

champs de blé ? Je ne mange pas de pain. Le blé pour moi est inutile. Les champs de blé ne me rappellent rien. Et ça, c’est 

triste ! Mais tu as des cheveux couleur d’or. Alors ce sera merveilleux quand tu m’auras apprivoisé ! Le blé, qui est doré, me fera souvenir de toi. Et j’aimerai le bruit du vent dans le blé…(21)

俺の人生はモノトーンさ。俺はニワトリを追いかける。ニワトリを追いかける俺を、人間たちが追いかける。すべてのニワトリたちは相互によく似ている。すべての人間たちも相互によく似ている。だから、俺はちょっと、アンニュイな気分なんだ。でも、もし君が俺をアプリヴォワゼしてくれたなら、俺の白黒の人生に、太陽の光が差し込む。俺は他の足音から、君の足音を聞き分けるようになるだろう。他の足音は、俺を穴ぐらの中に潜り込ませるけれども、君の足音は、まるで音楽のように、俺を穴ぐらの外へと誘い出すのさ。ほら見ろよ。あそこに小麦畑が見えるかい? 俺はパンは喰わねぇ。小麦なんか何の役にも立たねぇ。小麦畑は俺に何も想起させない。悲しいことじゃねぇか。だが、君は黄金の髪の毛をしている。だからこそ、アプリヴォワゼしてくれたなら、小麦畑は素晴らしいものになるんだ。だって、黄金の小麦畑を見たら、次からは君のことを想い出す。小麦畑を撫ぜる風の音が、俺は好きになるのさ。

 


On ne connaît que les choses que l'on apprivoise.(21)

知ることが出来るのは、自分でアプリヴォワゼしたものだけさ。

 


Mais comme il n'existe point de marchands d'amis, les hommes n'ont plus d'amis. Si tu veux un ami, apprivoise-moi!(21)

友達を売っている商人がちっとも存在しないものだから、人間たちにはもう友達がいないのさ。もし君が友達が欲しいなら、僕をアプリヴォワゼしてよ。

 


Qu'est-ce que signifie «apprivoiser» ? dit le Petit prince. (21)

「アプリヴォワゼってどういう意味?」と星の王子さまは言いました。

 


C'est une chose trop oubliée, dit le renard. Ca signifie «créer des liens...»"(21)

キツネは、「それはあまりにも忘れられたことさ。その意味は、絆を作ること、さ。」と言いました。

 


Je ne suis pour toi qu'un renard semblable à cent mille renards. Mais, si tu m'apprivoises, nous aurons besoin l'un de l'autre. Tu seras pour moi unique au monde. Je serai pour toi unique au monde.(21)

俺は君にとって、ほかの10万匹のキツネたちとよく似た、ただのキツネでしかないよね。でも、もし君が俺をアプリヴォワゼしたなら、お互いのことが必要になる。君は僕にとって世界にただひとりだし、僕は君にとって、世界にただひとりだ。

 


Tu es responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé.(21)

君がアプリヴォワゼしたものには、君はずっと責任を持たなくちゃいけないんだ。

 


Si tu veux un ami, apprivoise-moi !

– Que faut-il faire ? dit le petit prince.

– Il faut être très patient, répondit le renard. Tu t’assoiras d’abord un peu loin de moi, comme ça, dans l’herbe. 

Je te regarderai du coin de l’œil et tu ne diras rien. Le langage est source de malentendus. Mais, chaque jour, tu pourras t’asseoir un peu plus près…(21)

「もし友達が欲しいなら、俺をアプリヴォワゼしてよ。」

「でも、どうしたらいいのさ。」王子様は聞いた。

キツネは次のように応えた。「辛抱強くなくちゃならない。まずは、草むらにこんなふうに少し離れて座るんだ。それで、俺が君を、目のすみっこで、見るんだけど、君は何にも言っちゃいけない。ことばは、誤解のみなもとだからだ。それで、日ごと、だんだん君はちょっとずつ、近づいてきてもいいんだ。」

 


Le lendemain revint le petit prince.

– Il eût mieux valu revenir à la même heure, dit le renard. Si tu viens, par exemple, à quatre heures de l’après-midi, dès trois heures je commencerai d’être heureux. Plus l’heure avancera, plus je me sentirai heureux. À quatre heures, déjà, je 

m’agiterai et m’inquiéterai ; je découvrirai le prix du bonheur ! Mais si tu viens n’importe quand, je ne saurai jamais à quelle heure m’habiller le cœur… Il faut des rites.(21)

 


(ここは条件法の過去の第2形が使われていて、これは、接続法の大過去と形が一緒なので、どちらかを見分けなければならない。この場合は、条件法過去である。)

 


次の日、王子様はまたやってきた。

「君は、同じ時間に来た方が良かったのに。」とキツネはいった。「例えばもし君が午後4時に来るとしたら、午後3時になるやいなや、俺は幸せになる。そこから時間が進めば進むほど、それだけますます俺は幸せを感じる。4時になったときには、もうソワソワして、ドキドキになって、そして、幸福の価値がわかる。でも、もし君がランダムな時間に来るなら、いつ心の準備をしていいんだか、俺はわからなくなってしまう。だから儀式が必要なんだよ。」

 

 

 

Ils dansent le jeudi avec les filles du village.(21)

彼らは木曜日には、村娘たちと踊るんだ。

 


Vous êtes belles, mais vous êtes vides.(21)

君たち5000本のバラはたしかに綺麗だ。でも、君たちは空っぽだ。

 


Je vais me promener jusqu'à la vigne.(21)

俺はブドウ畑までぶらぶら散歩するさ。

 


Il est maintenant unique au monde.(21)

彼は今では、この世界でたった一匹のキツネなんだ。

 


Va revoir les roses. Tu comprendras que la tienne est unique au monde.(21)

さあ、さっきの5000本のバラたちのところへ戻ってごらん。君の星のバラは、世界にたったひとつだけだって、きっとわかるよ。

 


Adieu, dit le renard. Voici mon secret. Il est très simple: on ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.(21)

永遠にお別れだな。最後に、これが俺の秘密さ。とてもシンプルなんだ。心で見たときしか、よく見えない。大切なものは、目に見えないんだ。

 


On n'est jamais content là où l'on est.(22)

自分が居るところの場所には誰もが決して満足できないんだ。

 


Et que fait-on de ces cinquante-trois minutes?

On en fait ce que l'on veut.(23)

(そのクスリを飲んだら1週間で53分節約できるとして、)その53分でなにをするの?

その53分間でもって、なんでも好きなことをするのさ。

 


J'ai soif aussi...cherchons un puits...(24)

僕も喉がかわいた。井戸を探しに行こう。

 


Le plus important est invisible.(24)

いちばん大事なものは目に見えないんだ。

 

 

 

Comme ses lèvres entr’ouvertes ébauchaient un demisourire je me dis encore :  « Ce qui m’émeut si fort de ce petit prince endormi, c’est sa fidélité pour une fleur, c’est l’image d’une rose qui rayonne en lui comme la flamme d’une lampe, même quand il dort… » (24)

 


王子様の少し開いた唇がほのかな笑いをかたどったので、私は次のように考えてしまった。「ねむる王子様のなにがこんなに私を感動させるのかといえば、それはある花への忠誠なのだ。一輪のバラのイメージが王子様の中にあって、彼が眠っているときでさえ、ランプの炎のように光を放っている。」

 

 

 

Il n'a jamais ni faim ni soif. Un peu de soleil lui suffit.(24)

彼は空腹も乾きもまったく感じない。わずかな太陽の光で足りるんだ。

 


Il était fatigué. Il s’assit. Je m’assis auprès de lui. Et, après un silence, il dit encore :

– Les étoiles sont belles, à cause d’une fleur que l’on ne voit pas…

Je répondis « bien sûr » et je regardai, sans parler, les plis du sable sous la lune.

– Le désert est beau, ajouta-t-il…

Et c’était vrai. J’ai toujours aimé le désert. On s’assoit sur une dune de sable. On ne voit rien. On n’entend rien. Et cependant quelque chose rayonne en silence…

– Ce qui embellit le désert, dit le petit prince, c’est qu’il cache un puits quelque part.Je fus surpris de comprendre soudain ce mystérieux rayonnement du sable. (24)

王子様は疲れていました。彼は座り込んでいました。だから私も彼のそばに座りました。しばしの沈黙のあと、王子様はまた言いました。

「星々は、美しい。ここからは見えない、一輪のバラのせいで。」

私は応えて言った。「ああ、その通りだ。」そして私は、何も言わず、月の下の砂の起伏を見ていた。

「砂漠は美しい。」王子様は付け加えた。

ああ、その通りだった。私はずっと砂漠が好きだった。砂丘の上に座っている。なにも見えない。なにも聞こえない。しかし、沈黙の中で、何かが輝きを放っている。

王子様がいった。「月夜の砂漠が美しいのは、砂漠がどこかに井戸を隠しているからだよ」

ふいに、あの神秘的な砂の輝きの謎を理解して、私はどきっとした。

 

 

 

 


On risque de pleurer un peu si l'on s'est laissé apprivoiser.(25)

人は、アプリヴォワゼされてしまったら、少し泣きたくなるものなんだ。

 


Cette eau était bien autre chose qu’un aliment. Elle était née de la marche sous les étoiles, du chant de la poulie, de l’effort de mes bras. Elle était bonne pour le cœur, comme un cadeau. (25)

 


この水はただの飲み水とは違うものであった。この水は、星々の下の歩行から、滑車の歌から、自分の腕の努力から、湧き出てきたものだった。この水は贈り物のように、心に沁みいった。

 


Tu as du bon venin ?(26)

君の毒は、よく効く毒かい?

 


Je ne peux pas emporter ce corps-là. C'est trop lourd.(26)

このカラダは持っていけない。重過ぎるんだ。

 


J'aurais l'air d'avoir mal...j'aurais un peu l'air de mourir.(26)

僕は具合がわるいように見えるかもしれない。少し、死んでいるみたいに見えるかもしれない。

 


Ce qui est important, ça ne se voit pas...Si tu aimes une fleur qui se trouve dans une étoile, c'est doux, la nuit, de regarder le ciel.(26)

大事なもの、それは目では見えないんだ。もしある星に咲いている一輪の花が好きになったら、夜空を眺めるのが楽しくなるだろう。

 


Tu ne t'en souviens donc pas ?

Si ! Si ! c'est bien le jour, mais ce n'est pas ici l'endroit.(26)

「なら覚えていないのかい?」

「いいや!覚えてるよ!この日なんだよ。ただ、場所はここじゃないけど。」

 


Il me semblait qu'il coulait verticalement dans un abîme sans que je puisse rien pour le retenir.(26)

王子様が垂直に深淵へと滑り落ちていくように思われて、私には王子様を引き留める手立てがなにもなかった。

 


Il tomba doucement comme tombe un arbre.(26)

一本の木が倒れるように、王子様は倒れた。

 


Les camarades qui m'ont revu ont été bien contents de me revoir vivant.(27)

再会した仲間たちは、僕が生還したのを見て、とても喜んでくれた。

 

 

 

Ne me laissez pas tellement triste : écrivez-moi vite 

qu’il est revenu….(あとがき)

こんなに悲しむ私を放っておかないで。王子様が帰ってきたらすぐに私に手紙を書いてください。

 


Ça c'est, pour moi, le plus beau et le plus triste paysage du monde.(あとがき)

これが、僕にとって、世界で一番美しく、世界で一番悲しい景色なんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相対主義と相関主義について

 

 


⑴【相対主義のバリエーション】


有名なプロタゴラスの人間尺度説や、相対主義とは何かについては、プラトンの『テアイテトスTheaithētos』が参考になる。


まず、相対主義には5つのこと(①ヒトを含めた生物種ごと・②社会、国家、共同体ごと・③言語ごと・④個人ごと・⑤文化ごと)に関する、2通り(❶事実・❷価値)の、全部で10パターンの相対主義が少なくともある。


注意しなければならないのは、世界は実在的には、絶対的かつ客観的に1つなのだが、認識の仕方が認識者ごとに異なるというのは相対主義ではなく、「認識には相対性あるいは相関性がある」ということを言っているに過ぎない。(これについては後述するが、それはただの客観的な相関主義に過ぎない。)


相対「主義」というのは、認識者の側でだけではなく、世界の側も認識者の準拠する単位集団(とそれに内在している概念枠組み)ごとに異なっているということを主張する立場である。個人ごとに、生きている世界ごと違っており、それらの単位集団や個人が共に根付いているひとつの世界(=共通の地平)というものの存在を認めないのが相対主義である。(さらにいえば、「世界の側」などという言葉をもはや使わず、認識者の側だけしかないとさえ言うかもしれない。これだと「独我論」におちいる。これについても後述する。)


まず、「相対主義」という言葉を聞くと、通常、何をイメージするだろうか。「みんな違って、みんないい」という文である。


しかし、「みんな違って、みんないい」という文は、どこかが奇妙である。どこが奇妙なんだろうか。みんな違っているならば、なぜみんなについて言及する視点に立てるのだろうか。ここがまさしく奇妙なのである。


本当にみんな違っているのならば、各個人は比類ないのであるから、それらを相互に比べたり、一望したり、全員に属している同じ「良い」という一義的な性質について語ったりはできないはずなのだ。


そこで、性質ということについてもう少し考えてみる必要がある。


⑵【性質についての考察】


ビーフステーキは、茶色い色をしている。また、ビーフステーキは、場所を占めている。この茶色いという性質や、場所を占めているという性質は、ビーフステーキの側に所属している。(だからこそ我々は、「ビーフステーキが茶色い」と言うのだから。)これは、ビーフステーキに関する事実判断である。一般に事実判断は相対性が低いとされている。もちろん、ビーフステーキを茶色ではないと言い張ることもできるし、この事実判断さえも関係的な性質だと言うには言える。(ただ、事実判断は、次の価値判断に比べたら、相対性がふつうは低い。)


このように、対象の側に属しているとされる傾向の強い性質がある一方で、その傾向が弱い、関係的な性質もある。


例えば、ビーフステーキというのは、老人にとっては、食べたら胃もたれするかもしれないので、健康に良くない。しかし、育ち盛りの若者にとっては、健康に良い(少なくとも悪くはない)。(こういう良いとか悪いとかいう判断を「価値判断」と普通はいう。)


この関係的な性質の価値判断は、以下のように定式化できる。


A is good for B

(ビフテキは若者にとって健康的)

A is bad for C

(ビフテキは老人にとって不健康的)


もっと一般的に言えば、

S is P for 変項X

という式に変形できる。


ビーフステーキが、健康に良いとか健康に悪いとかいう性質は、ビーフステーキの側に所属しているのではない。かといって、ビーフステーキを食べる側に所属しているのでもない。この性質は、関係的な性質である。この関係的性質は、ビーフステーキとそれを食べるひとの間にある。


ビーフステーキだけでは、まだ健康に良くも悪くもないし、食べるひとの側に「ビーフステーキを食べると健康に良い」という性質があらかじめ備わっているとも通常はいえない。


ビーフステーキを食べる人と、食べられるビーフステーキが出会った時、その人にとって健康に良いか悪いかどうかが原理的には客観的に決まる。これを相関性あるいは相対性という。

 

⑶【客観的相関主義とはなにか】


では、相関性が、客観的に決まるというのはどういう意味かというと、いま目の前に、ある男がいたとして、そいつが、今晩の夕食にビーフステーキを食べると健康に良いか悪いかどうかは、どうやって調べるのかはここでは置いておいて、とにかくデータが無限に手に入ると仮定すれば、原理的にはいつかどちらかに決まるという意味だ。また逆に、ビーフステーキを食べるのが健康的だと仮定したら、それがどんな人にとってまでならば真で、それがどんな人にとってからならば、偽になるのかという範囲も、無限に調べることができれば、原理的にはいつか客観的に分かるということである。


相関性あるいは相対性が比較的強く現れる上記のような価値判断だけではなく、事実判断についても相対性がある。


例えば、「イヌイットにとっては、雪が何十種類もあるけれども、日本人にとっては、雪は数種類しかない」とよく言われる。「虹は日本人にとっては7色だけれども、フランス人にとっては、5色である」とも言われる。


しかし、重要なことは、「相関性あるいは相対性があることをいくら言い立てても、相対主義が正しいということにはならない」ということだ。相関性があるのは、むしろ前提であり、当たり前なのであって、「なにごとにも相関性がある」「価値判断にも、事実判断にさえも相対性がある」からといって、「相対主義が正しい」ということにはならない。


例えば、重力が、地球だと月の6倍であり、月だと地球の6分の1しかないとしても、それがゆえに「重力なんてなかったんだ」ということには決してならないはずだ。


地球という、質量が月よりも大きな物体については、2つのものの間に働く引力はそのぶん強くなるし、月という地球よりも質量が小さい物体については、2つのものの間に働く引力はそのぶん弱くなる。そして、重要なことは、その引力がどれくらいの強さになるのかということは、万有引力の法則に具体的な値を代入すれば、それに相関して、客観的に決まる。これが、重力の「客観的な相関性」あるいは「客観的な相対性」である。場所に応じて強さが変わるので、重力には相関性あるいは相対性があるけれども、そうであるがゆえに、重力には普遍性がないということにもならないし、重力には客観性がないということにもならないし、重力の場所に応じた強さが客観的に決まらないということにもならないし、ましてや、重力というものがないということにもならない。


そもそも、ある概念が、それと相関する変項に代入を要求しており、それが代入されると具体的な値が客観的に決まるということを科学では「相対性」と呼んでいる。(「相対性」の他に、科学が扱える客観的な概念にはもうひとつ「傾向性」というのもある。)


これと同じことで、例えば、雪の種類は10種類だという民族(イヌイット)と、3種類だという民族がいたとしても、それは、毎日雪を見ているならば、ある日の雪と次の日の雪の違いは際立って見えてくるという「傾向性」があるだろうし、滅多に雪を見ない地域では、雪は全部同じようなものだと考える「傾向性」があるだろう。そしてこの「傾向性」は、雪をよく見るとか、滅多に見ないという条件に相関してかなりの程度、客観的に決まる。例えば、滅多に雪を見ないような地域で、雪の種類が20種類に分節化されているような文化をもつ民族が現れる「傾向性」は低いという結論は、かなり客観的に導けるだろう。


このように、環境や条件が違うのだから、雪の見方について、その条件に相関した相対性が出るのは、むしろ当たり前なのである。雪の種類や、虹の色の数や、魚の名前の数が、民族や文化によって違うからといって、相対主義が正しいということにはならない。相対主義が正しいことの証拠だとして取り上げられているもののほとんどが、せいぜい、相対性があることの証拠であるに過ぎない。


⑷【相対主義とは何か】


では、相関主義とそれが依拠する客観的相対性についての話はこれくらいにして、相対主義とはなんだろうか。


例えば、次のような文は相対主義的である。


「年寄りを敬うのは良いことだ、という命題は、このコミュニティの中だけでは真だ。」


↑この文は、あるコミュニティに内在する概念枠組みに相関して命題(=「年寄りを敬うのは良いことだ」)の真偽が決定されるという話をしている。

ところで、この文も結局S is P for 変項Xという形式に変形できる。次のようにすればいい。「S=年寄りを敬う」is 「P=良いこと」for 「X=このコミュニティ」。

 

⑸【客観的相関主義と相対主義の違いを定式化してみる。】


相対主義と相関主義(相対性主義)を区別する方法は、この定式化を利用して、次のようにやると良い。

 

相対主義

命題「A is good」(for B)

命題「A is bad」(for C)

このように考えるのが、相対主義である。つまり、なにかの命題(S is P)の真偽が、なんらかの概念枠組みが内在している単位集団(BやC)にのみ相関して決まると考える立場が相対主義である。これは依拠する概念枠組み自体が単位集団(準拠する集団=レファレンスグループ)に応じて変わり、それら単位集団相互に共通の地平は考えられてはいないので、客観的ではない立場である。つまり、ある単位集団に他の単位集団が介入してその集団のゲームの規則に変更を加えるということがとてもしにくい。簡単に言えば、「郷に入れば郷に従え」ということになる。これに対して、


【相関主義】

A is (good for B)

A is (bad for C)

このように考えるのが、相関主義(相対性主義)である。ある概念Aには、何らかの限定句(for Bやfor C)があらかじめ要求されており、その限定句に具体的な値が代入されると、その値に相関して、原理的には客観的に、その普遍的な概念のその場合における値(goodやbad)が決まり、客観的なことが言えると考えるのが相関主義(相対性主義)である。

 

⑹【相対主義の問題点】


そして、以上のように整理したとき、相対主義には次のような問題点があることを具体的に確認してみたい。相対主義者が次のように言ったとしよう。


「『女性が男性よりも低い地位にあるのは良いことだ』という命題は、このコミュニティの中だけでは真だ。」


↑このようなことがまかり通るコミュニティがあったとして、このコミュニティに外部から介入するのは難しい。なぜなら、前述した通り、命題の真偽が、コミュニティに内在する概念枠組みにのみ相関して決まるのだから、「郷に入れば郷に従え」と言われてしまえば介入の余地が薄くなるからだ。相対主義者は、このようにして、客観的で普遍的な立場からの介入を拒絶する場合がある。


他の例を出そう。


「『ビフテキを食べるのは、健康に良いことだ』という価値判断(命題)は、ワシの国の概念枠組みに照らせば真だ。」と主張する老人に対しては、医者が、いくら客観的な立場からそれが健康に悪いことであるということを教えても、医者が老人の国のルールに介入することを正当化する方法は少なくなるだろう。

 

ビフテキを医者の助言を無視して食べようとする老人と、その老人の国の外部にいる医者とでは、相対主義者からすると、依拠する概念枠組みごと違うことになるものだから、介入することが難しくなる。


⑺【相対主義者との戦い方】


ただ、相対主義者と闘うときに、介入するための突破口がまったくないわけでもない。というのも、その国の構成員が全員一枚岩である可能性が極めて低いので、そこを突けば良いからだ。例えば、その国の構成員の誰かが、実は「葛藤」を持っていたりするかもしれない。というのも、1人が常に1つの立場に常にいるというわけではないからだ。たとえば、社員が自分が属する会社の不正を内部告発することは、その会社にとっては「悪い」ことだが、社会にとっては「良い」ことであり、その社員が養うべき家族にとっては「悪い」ことだったりする。また、その社員は、社長のことが死ぬほど嫌いだが、同僚の社員のことは好きなので、会社が潰れて同僚たちが路頭に迷うとしたらそれは「嫌」なのかもしれない。このように、人間の中には複数の概念枠組みがあって、それによって、同じ命題が真にも偽にもなるがゆえに葛藤している可能性が高い。つまり、ビーフステーキを食べることが健康に良いということになっている老人たちの国には、その国を内部告発をしたいと願っている価値的な越境希望者がいるかもしれない。このグローバル化の時代に、世界には越境者(ツーリスト)が増えてきた。このことは、あるコミュニティの閉鎖的で相対主義的な価値観が、内部から複数化していくことを意味し、相対主義を使って不正義を肯定したりする人と戦うための突破口になるかもしれない。

 

⑻【強い相対主義個人主義


ただし、ここまでの話は、相対主義相対主義でも、弱い相対主義(=マイルドな相対主義)についてであったが、実は、非常に強い相対主義というのも考えることはできる。今、例として挙げた「ビフテキ老人」は、ある国に所属していたが、老人の国の構成員がたったひとりになったらどうだろうか。「強い相対主義」(=個人主義)は、先ほどの定式化で表現すると次のようになる。


【強い相対主義


S is P (for me)

これである。ちなみに、このfor meという限定句は、むしろ無い方が自然なのであるが、これについても後述していく。


この立場(個人主義)の人は、相対主義を徹底した結果、依拠する概念枠組みであるfor以下がもはやコミュニティではなく私だけ、もしくは、「私しか構成員のいないコミュニティ」(?)なので、for以下をつける必要が次第になくなってしまい、ある命題が真理かどうかを決めるときに参照するべき枠組み(ガイドライン)などなくなってしまって、間違えることが不可能になってしまった人である。このひとは、間違えない人であり、間違えることができないひとであって、infallibilism(無謬主義)という立場であることになる。これについてもう少し詳しく検討してみよう。


相対主義者を外側から記述する仕方で相対主義を定義した次のような定義がある。「相対主義とは、ある範囲における主張が、真あるいは偽でありうるのは、何らかの概念枠組みに相関してのみであるという理論である。」(Relativism is the thesis that statement in a certain domain can be correct or incorrect only relative to some framework.)(Richard Bett,Phronēsis 1989)という定義だ。

この定義におけるonlyという副詞が重要で、相対主義というのは、徹底すると、自分の命題の真理は自分の依拠するframeworkにのみ依存して決まるんだから、他のframeworkなんか考える必要はないという考え方に至る。


そして、framework が集団に内在していればまだ間違えられる(=可謬的である)のだが、これが私しかいない集団とピッタリと一致してしまうことがある。これを個人主義という。個人主義は、相対主義を極端に徹底した考えであり、「単位集団」に構成員がひとりしかいないという考え方である。命題が依拠する概念枠組みという考え方を徹底すると、「概念枠組み」という言葉自体が必要ではなくなるのだ(ディヴィドソンの論文にこのような記述がある。)。この個人主義の問題点についてもう少し検討してみよう。


個人主義(=強い相対主義)の問題点というのは、It appears to me that P,so it is true that P.という極限的な相対主義だと、自分の依拠する概念枠(framework)の在り処(ありか)が、自分とまったく一致してしまうので、何かについて自分が間違った主張をしているということがありえなくなるということだった。

つまり、自分の主張が依拠する概念枠が自分以外の人も所属する社会や文化や言語集団に内在していれば、その概念枠に照らしてのみ、自分が正解したり、間違えたりすることができるのだが、その概念枠が個人まで狭まると、その個人はもはや間違えることができないということだった。

 

この強い相対主義者(=個人主義者)はその内部を生きている人からすると、他の考え方を認めないということだ。もし「他の考え方を認める視点のある個人主義者」などという者がいるとしたら、その人はもはや個人主義者であるとは言えない。なぜなら、自分と他人の考え方を比べる視点に立っている時点でその視座は個人主義者が取ってはならない、自らに禁止した視座だからだ。


それゆえ、強い相対主義者は、相対主義を内側から記述する場合、自分の概念枠組み以外の概念枠組みがあるということをそもそも想定していないので、「概念枠組み」という言葉は使わないということになるし、使えないし、使う必要もない。相対主義は、その外側から、つまりはマイルドな相対主義者によって記述されるときのみ、「概念枠」という言葉を使って記述されることができるということだ。

  

つまり、ある相対主義者について、その人がどんな人かを記述するときに、「概念枠組み」という言葉を使えるのは、相対主義者を外側から記述したときの言葉遣いのみであって、そのときその記述者は、少なくとも強い相対主義者ではないということになる。


ここまでの話をまとめよう。強い相対主義者は、むしろ、その内部を生きている人自身からすると、frameworkという言葉は必要ないし、使うことができないし、「僕にとって真だ」と言うときの「僕にとって」という限定句は、「君にとって」とか「彼女にとって」という視点などないのだから余計なのであり、無い方がむしろ自然なのであり、「僕にとって」をつける人はむしろ相対主義として不徹底なのである。なぜなら、「僕にとって」という限定句をつけるのは、「君にとって」という限定句を付けられるかのような物言いだからである。そういう視座には決して立たないのが個人主義だからだ。ひとりひとりが比類ないほど違っているのだから、それらを比べる視点には立つことはできないはずなのだ。


つまり、徹底的な相対主義者は、他の考え方がある可能性を認めない。徹底的な相対主義は、様々な考え方があるよね、と考えるような立場ではない。(そしてこのような立場に本当に立てる人がどれほどいるのか?この立場は本当に徹底可能なのか?)

また、もし仮にこの強い相対主義者(個人主義者)がいたとしても、①そいつは自分が他人と比較して、「君と違って、僕は強い相対主義者なのである」ということを表明できる立場には立てないし、②強い相対主義が他より正しいということを主張できないし、③コミュニケーションがそいつとは取れないだろうし、④自分が強い相対主義者であるということを誰か他人に教えようとするモチベーションがそいつにはないだろうし、⑤自分が強い相対主義者であるということを誰かに訴える必要も感じていないはずだし、⑥「相対主義は真理だ」という文は相対的ではなく絶対的なのではないか、などという、様々な自己矛盾をきたしそうなので、この強い相対主義は持続可能な立場ではない。


⑼【結論】


結論としては、以下の通り。


⑴強い相対主義(=個人主義)というのは徹底することがほぼ不可能である。


⑵強い相対主義は無理でも、マイルドな相対主義ならばまだ可能だが、それに抵抗するためには個人の複数性を利用すればいいということ。


相対主義ではなく、客観的相対性の方は現にあるに決まっていて、客観的相対性をいくら言い立てたところで、相対主義者になれているわけではないということ。


相対主義が正しいことの論拠として取り上げられていることのほとんどが相関主義が正しいということの論拠でしかないということ。つまり、相対主義的だとして、言い立てられているようなものは、実は、かなり多くの場合、限定句に相関的な具体的値の変化が客観的にあるだけでしかないということ。