aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

「性」について私はどのように考えているのか

どんな身体で生まれても、それとは独立に人は「性自認」を決めることってできるし、できたほうがいいよね。例えば、生物学的に女性に産まれた人がその日の気分を含めた様々な理由で自らを男性としてみなし(=性自認)、社会的にも男性として扱ってほしいと要求するということが、できた方がいいと思う。

それは、日本に生まれて日本国籍をもっている人がそれは自分で選んだわけではないからアメリカ国籍を取得してもいいし、そういうことができるほうがいいのと同じ。人間にはそういう自由があるしその自由を守っていかなくてはいけない。

「生物学的性」を根拠にしてふつうは「性自認」が決まるけど、自分の生物学的性別を引き受けるのが嫌だというひともいるかもしれないよね。ペニスがあるからという理由で自分を男性としてみなすのが普通というだけで、ペニスがあるからといって自分を男性としてみなさなければならないわけではないよね。人間は自由だもの。(ちなみに、人間は自由だということを認めないひともいるけど、「ではなにが人間をあらかじめ決定しているのですか?」とその人に問うと、その答えは「科学法則」であることが多く、「ではなにが科学法則をあらかじめ決定しているのですか?」とその人に問うと、その答えは結局「人間」であることがわかり、最終的に人間は自由だと、その人も前提していることが判明してしまう。)

例えば、生物学的には男性だけど、だからといって男性として自分をみなしたり、男性として人にみなされたりするのが嫌だっていうひとも全然いてかまわないと思う。人間って自由な生き物だからね。それで、そういう人に男性としての性的役割の強制がなされないようにしたいよね。

ここまでが前提で、そのうえで私が気になるのは生物学的な性別それ自体が「性自認」によって変えられるという主張。それはありえないと思う。自由で尊重されるべき性自認のあり方によって変えられるのはあくまでも自分が演じるべき「性役割」としての「ジェンダー」だよね。

あくまでも「ジェンダー(性役割)」が自由な「性自認」によって自由に変えられるほうがいいのであって「生物学的性」は生まれてから死ぬまで安定しているよね。

もちろん性転換手術によって性器を取り付けたり切除したりはできるし、ホルモン投与でホルモンバランスさえも変えられるけど、身体中のすべての細胞の染色体レベルまで性転換させるのは、無理だと思う。

だから、自分の生物学的な性は生まれてから死ぬまで確定しているものとして一旦まずは受け入れざるをえないと思う。つまり、性染色体の在り方が時間的に安定していて、そう簡単に変えられるものではないということは受け入れざるをえないと思う。そしてこのことは「性染色体がXXかXYかの二通りしか生物学的性別はない」などという変な主張をしているのではなく、XXYやXXXYのような様々な生物学的性の在り方があるという前提で、しかしそれらの変更の難しさについては受け入れざるをえない、と言っているに過ぎない。

もちろん、性転換手術には保険が適用されるべきだし、「戸籍上の性」だって変えられていいに決まっているんだけど、それによって「生物学的な性が、性自認によって変えられる」と考えるのは誇張じゃないかな、と思う。

それから、「こころ」というのを実体化して、さらにそこに性別までつけて、「こころの性」という言葉もあるみたいだけど、あんな言葉は不要で、「性自認」という従来の言葉だけあれば、それで十分だと思う。

ここまで出てきた話をまとめると、いわゆる「4つの性」、すなわち①生物学的性、②性自認、③性的指向、④性表現のうち、②と③と④は各人でそれぞれに自由に自己決定できるものであるべきだというのが私の考え。

そして、⑤性役割(ジェンダー)については、現状、自分だけで決められる問題ではないと思う。本人の希望を押し潰してまで、社会が押し付けてくることが多いものだから。つまり、内発的側面と外発的側面の両面から「⑤性役割」については論じる必要がある。だから、「性役割」については、後述する。

さて、①生物学的性に関しては、まず、男か女かの二通りであるという理解を即刻やめるべきだと思う。例えば、River Galloさんはインターセックスで、「生物学的性」が男が女かに定まっていない。クラインフェルター症候群についても同様だし、そもそも放出されている性ホルモン量が各人で違うということも考慮すべきだと思う。

また、「生物学的女より生物学的男の方が優れている」とか「生物学的男より生物学的女の方が優れている」とかいう考えも、ある特定の価値を前提して見た時にはじめてそう見えるというだけで、一般に言える話ではないと思う。例えば、寿命に注目する観点を取れば女の方が優れているし、凶暴さに注目するという観点を採れば男女別犯罪発生率などの統計から考えても女の方が優れているということになりそうだが、一般にすべての項目で生物学的女性のほうが生物学的男性より優れているとは言えないだろう。

そして、⑤性役割に関して言えば、そもそも生物学的男は「男らしい」とされる特徴をもっているべきだとか、生物学的女は「女らしい」とされる特徴をもっているべきだという考えを、なるべくはやく捨てたほうがいいと思う。そしてそのためには、性役割(=ジェンダー)の内容規定をどんどん流動化させ、事実上、無化していく作戦が有効だと思う。つまり、生物学的男が演じるべき「男らしさ」という役割の内容が曖昧になっていった方がいいと思うということ。女らしさについても同様である。たとえば、マルセル・デュシャンの『泉』という作品によって、「では、キャンバスに唾を吐きかけたら、それはアートと呼べるのか」という議論が巻き起こり、「アート」の内容規定がどんどん流動化していった歴史があるけれども、あのようなことが性役割についても起きていけばいいと思う。生物学的男性がどんどん子育てや家事をしたりスカートを履いたりすれば、何が男らしいのかはわからなくなっていくと思う。女らしさについても同様。たとえ、もともと「男らしさ」や「女らしさ」が典型としてはどういう在り方なのかということが歴史的にある程度共有されていることが歴史調査によって判明したと仮定しても、その場合でさえ人間は自由なので、それに縛られる必然性などない。(歴史調査によって分かるのはむしろ、男性はかつてスカートやリボンをつけていたというような歴史的事実であることも多いのだが)もし仮に人の典型的性役割を進化論的研究によって突き止めることによって、固形化した性役割の流動化運動に対抗できると主張する人がいたとしても、そのような研究によって可能となるのは、所詮、典型的性役割と派生的性役割の区別が言えるようになることくらいであって、その典型的性役割を人が再び受け入れるべきだということまでは言えないのである。複雑化している現状を理解しようとして本源や典型を突き止めてから現状に至る来歴を描こうとする発生的議論は、あくまでも現状理解にとって有用であるに過ぎず、ここが発生論の原理的限界である。要するに、性役割が流動化してきた来歴を暴くだけでは現状の流動化を抑えることなどできないので、進化論的研究を恐れる必要などないのである。

さて、ここまでの話をここで一気にまとめていこうと思う。私が総論として言いたいのは、「その人が自分で選んだのではないことについての価値判断はなるべく中立化されるような社会がいい社会だと私は思う」、ということである。

だから、例えば生物学的女性として生まれたひとが、本当は生物学的性に一致した性自認がしたかったのに、「女性はこの社会では社会的に劣位に置かれている(=女性差別が現にある)」という理由で自分を女性としてみなす(=女性として性自認する)ことを回避して男性として性自認し、男性として自らを扱ってもらうことを社会に要求する、ということが起きるとしたら、それはそもそも女性差別をなくしたらいいのであって、「性自認が自由なのだから女性差別はあっても大丈夫だよね」という論理がまかり通らないようになるべきだ、と私は思う。もちろん性自認は当事者の自由であるし、自由であったほうがいいという冒頭に述べた私の考えを私は維持するが、だからといって、女性差別を許容するわけにもいかないので、「本人の本当の希望どおりの性自認が誰にも強制されずに成し遂げられるべきだ」と私は言いたい。この話は、「タバコを吸う権利は万人に認められるべきだが、タバコ自体は推奨されるべきではない」という話と構造レベルではかなりよく似た議論であると思う。どこらへんが構造レベルでよく似ているかというと、「生物学的性と性自認が不一致であってよい権利は万人に認められるべきだが、不一致自体は推奨されるべきではない」ということを私は主張しているからである。とくに今私が話題にした事例では、不一致への権利が女性差別をする悪しき人からの強制によって希求されているわけで、このような事例では、(不一致への権利は常に認めるにせよ)不一致を推奨するわけにはいかないと私は言っているのである。

生物学的男性として生まれようが生物学的女性として生まれようが、それについて他人や当事者から下される価値判断(=評価)がなるべく中立化されている(=プラスともマイナスとも言えないような評価が下される)ような社会を人は目指していくべきなのだ。

次に、性自認流動性についての話だが、これは例えば、❶「生物学的男性が突然自分の性自認が女性であると言い出し、そのまま女湯に入っていくのを許容するのか」とか❷「生物学的男性が突然自分の性自認は女性であると言い出してオリンピックの女子種目で圧勝するのを許容するのか」とか❸「生物学的男性の性犯罪者が性自認は女性であると主張して女子刑務所に送られることを許容するのか」とか❹「生物学的男性が性自認が女性であると主張した場合に女子トイレを使ってもいいのか」とか❺「十歳以下の子供が自発的に要求した場合には第二次性徴抑制剤を投与したり性転換手術を受けさせてもいいのか」といった問題設定で議論されることが多い問題だよね。これら❶から❺の論点はいわゆる「反トランス」言説を唱える論者によって言及されることが多い論点であることも注目に値する。

これらについては、自由な②性自認をどこまで⑤性役割に直結させるかという話だと思う。まず、性自認に連動させて性役割を決めてもよいと私は思う(だから、私は反トランス言説を唱える者ではない)。ただし、すぐにそれをやると混乱が起きるかもしれないので、性自認に連動させて性役割を決めてもよいという方針を取るためには、例えば❶については「各銭湯がどんな方針であることを明らかにして近隣住民の理解を得る」とか❷については「オリンピックを二個の性別でやるのをやめる」とか❸については「女子刑務所に送るが独房にする」とか❹については「男性小便器を段階的に廃止してみんなのトイレ」を普及させるとか❺については「第二次性徴後に手術しても第二次性徴前に手術したのと同じ結果が得られるような技術開発を進めるまでは、一時的に許可する」とか、さまざまな対策を事前に講じておくことができると思う。そして、これらの対策が取りうるのだから、これら❶から❺の論拠に基づいていわゆる「トランス排除」の言説に賛同していいことには決してならない。