aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

フランス語との比較から見える過去形不要論

① I had lunch.

② I've had lunch.

英語には「昼食、食べました」というのに、①と②のふたつの形がある。

しかし、普通に考えると、こういう文を言いたくなるのは、「もうお腹いっぱいだからこれから一緒にマクドナルドに行くのは遠慮します」というようなことを言いたいときである。

だとすれば、②で十分である。①というのは、過去に昼食を食べたという事実があるということしか言っておらず、その事実は発話時に影響していないこともありえる。ということは、いまもその昼食の量が少なかったせいで、お腹が空いているかもしれないのだ。しかしそう解釈すると、①のような発言をされた側は困ってしまう。発話時においてもまだお腹が空いているんだったら、なぜそんな発言をするのか、意図不明だから、仕方ないからその人は①の発言を②のような意味で理解することで、その場を切り抜けていくのだろう。しかし、結局②として扱われるんだったら、なぜ②でそもそも言わないのか。満腹であるにもかかわらず①という発言をするやつは、コミュニケーションの邪魔になるにもほどがある。満腹ならば②で言えばいいのであって、①を使われると、まだ一緒にマクドナルドに行ける可能性があるかのように一瞬匂わされるのだが、しかしだとすればわざわざその過去の事実にメンションしないはずだから、その可能性の匂いは推論によって消されなければならないのである。これほど迂遠でミスリーディングな、共食に対する断り方があるだろうか。

その点、②はすごい。というのも、②には意味の豊穣な柔軟性があるのである。もしも②という発言をしたならば、過去に昼食を食べたという事実があるし、その事実は発話時に影響していなければならなくなる。しかし、その「影響」とはいったいなんだろうか。先ほど述べたとおり、「いまは満腹である」という影響でもいいだろう。多くの場合はこのように解釈される。

しかし実は、②が①の守備範囲まで受け持つことができる意味の生産性さえ、②にはある。②'を見ていただきたい。

②' I have lost my wallet.

②'においても、もちろん、「発話時においてはお金がない」という「強い影響」で解釈されることが普通だろう。多くの場合はそうに違いない。

しかし、「 なくした財布はもう手元に戻って来ているかもしれず、手元にお金もたっぷりあるかもしれないのだが、私は発話時においてもその財布をなくしたことを覚えている。(具体的には、財布をもう二度となくさないように私は発話時においてその財布にチェーンまでつけている。)」という発話時への別の「弱い影響」を言うことができるのである。それだけの生産性が②'にないとは言えない。そうだとすると、次の①'を見ていただきたい。

①' I lost my wallet.

①'では、過去に財布をなくしたという事実があるということしか言っておらず、その事実は発話時に影響していないこともありえる、のであった。しかしその「影響していない」ということの中身は具体的にはどういうことかというと、「財布はもう発話時においては見つかっていることがありえる」ということでしかない。つまり、言い方を変えれば「強い影響」はない、というくらいのことでしかない。ところで、前述の通り、②'は、ノンドミナントな意味では、財布が見つかっている場合でも使うことができたのであった。そして多くの場合、言及されるような過去の事実は必ず、現在において言及される(ためには話者の脳内に記憶される必要がある)だけの価値をもつのだから、その人は、その財布をなくしたことを覚えており、それに関して気をつけているのかもしれない。わざわざ言及しているのだから、そういう場合も多いだろう。つまり、財布をなくしたという過去の事実が発話時においても「弱い影響」ならば存続しているのが普通であり、だからこそ発言するのである。そうだとすると、結局その場面で①'を使って言いたいことは、「 なくした財布はもう手元に戻って来ているかもしれず、手元にお金もたっぷりあるかもしれないのだが、私は発話時においてもその財布をなくしたことを覚えている。(具体的には、財布をもう二度となくさないように私は発話時においてその財布にチェーンまでつけている。)」という②'のノンドミナントな意味でも、言えないことはないのである。つまり、①'が、過去の事実の「弱い影響」を談話においては含意せざるをえず、②'が「弱い影響」をも表現できるのであれば、①'で言いたいことは②'でも言えるということになる。

 

実際、たとえば、「その映画、見たよ」と言いたいときに、「I have seen that movie.」と「I saw that movie.」のどちらを使うかと聞かれて、迷う人も多いだろう。たしかに「前者の方が映画の細部まで記憶が残っていそうで、後者は映画の細部については忘れてしまっているかもしれない」という違いはあるけれども、しかし後者においてだって、後者のような発言をするからには、その映画の内容を少しは覚えていなければおかしいのである。そしてその覚えている少しの内容だって、前者の含意する「発話時への影響」のうちに入ると言い張れないこともない。結局、前者も後者も、どちらも過去の出来事の弱い影響が発話時にあるに過ぎず、文を使った効果だけに注目すれば、よく似ているのである。人によって映画の内容をどこまで覚えていれば現在完了形が適切になるのか、その基準は揺らぐのである。だからこそ人はどちらで言うべきか、と迷うのである。そして多くの場合、どちらでもいいのだ。

 

ここまでの話の結論をまとめておこう。

[結論]
②で言いたいことは、①では言えず(=前半の論点)、①'で言いたいことは②'でも言える(=後半の論点)ことが、ここまでで示された。

そうだとすると、①系列のものを②系列で全面的に代用するという方策が正当化されそうである。

(ちなみにこの代用は、フランス語において問題なく行われていることである。①系列については、そもそも談話内から追放してしまい、すべてハリーポッターとかシャーロックホームズについて語る物語内だけで使えばよいのだ。そうすれば、①系列がもつ発話時との影響関係の著しい少なさを有効活用することもできるのである。つまり、「強い影響」であれ「弱い影響」であれ、発話時に影響がある場合には②系列としての「複合過去形」を使い、フィクションの中の出来事のように発話時にほとんど影響を及ぼさないとみなせる場合には①系列としての「単純過去形」を使えばいいのである。厳密にいうと、英語の「過去形」で表現されていることのうち、大部分は「複合過去形」にお株を奪われ、残った部分は「半過去形」にお株を奪われているのが現状のフランス語なのであるが、「単純過去形」が談話から放逐されていることは明白な事実なのである。)

さて、その正当化のために必要なことは、

*③ I have done my homework yesterday.

というような事例を許容することである。この事例の禁止こそが、現在完了形の増長を阻んでいる防波堤なのだと言ってよい。

しかし、英文学者の佐藤良明によれば、

http://sgtsugar.seesaa.net/article/179671813.html

上記③のような英文法違反の例文は大量に見つかることが知られている。ディスクリプティブな観点からすれば重要な指摘である。そう、防波堤は既に決壊しつつあるのだ。

そもそも、

④ It may have rained yesterday.

のように、現在時制に過去を示す副詞がつく事例は規範文法内ですら既に観察されているのである。

また、以下の事柄にも注意を払って欲しい。現在完了形が構造的に含意せざるをえないのは、以下の⑴と⑵というたったふたつのことだけである。

⑴過去のある事実が発話時に影響を与えていなければならないこと(=影響性)
⑵過去のある出来事が発話時までのどこかの時点に終わり、その終わりが発話時に分かるのでなければならないということ(=完了性)

※もちろん⑵の完了性は
⑤ I have studied English for six years.
などの事例では徹底されていないかに見えるが、あくまでも発話時にいったん終わっているともいえる。実際それ以上先の未来については、やはりどうなるか分からないのだから。つまり、継続用法といえども完了用法が根幹にある派生物に過ぎないことは間違いないのである。

さて、問題中の問題である。③のような英文は、⑴と⑵の条件を根拠として非文法的として排除できるのだろうか。否、そんなことはない。

せっかく完了形があるのに、「何年前に完了したと言ってはいけない」なんて、そんな窮屈な言語、変である。端的に言えば、「何年前に完了したと言ってはいけない」というルールは英文法体系にとってそれほどエッセンシャルなものだとは言えないのである。

何年前に完了したとしても、そのことが発話時に影響さえ与えていれば、⑴と⑵の条件は余裕で満たせるのである。

そういうわけで、

⑥「(山岳登山の技術と山の天候についての知識を褒められ、その返答として)去年の夏、剱岳に登ったことがあるんです」

というような日本語を英訳させるときには、

*⑥' I have climbed Mt. Tsurugitake last summer.

という例文が子どもたちの側から続出することになるわけだが、これを

⑥'' I climbed Mt. Tsurugitake last summer.

に訂正しなくてもよくなる日がいずれやってくるかもしれない。実際、⑥という日本語文が主張しているポイントはむしろ発話時も生きるその経験と技術と知識とのアピールにあって、⑥''が⑥の適切な翻訳と言えるのかどうか、私には疑わしいのである。なぜなら、⑥''は、発話時においては病弱となり果て、剱岳のような険しい山を征服する技術も全て忘れたとしても、つまり登ったという記憶だけしかないかもしれないにもかかわらず、言えるからである。ちなみにこれ、「三年前に、剱岳に登ったことがあるんです」にすればさらに不自然ではなくなる。

 

②で言うべきことを①で言うのはミスリーディングであったのと同様に、⑥'で言うべきことを⑥''で言うのはミスリーディングなのである。しかし、⑥'で言うべきことを⑥''で言わざるを得ない現状がある。では、なぜ⑥'では言えないのかというと、 「何年前に完了したと言ってはいけない」という謎のルールがあるからである。そして、このルールにそれほどの必然性はないということを本稿は示した。だからかなりの人によって、破られている。それゆえ、いずれ⑥'が許容されていく可能性はありえると本稿は主張する。⑥'が許容されれば、過去形の守備範囲は縮小し、現在完了形の守備範囲が増長する未来も、そう遠くはないだろうと思われる。