aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

時間についての不思議

【時間について俺が不思議なこと】

【不思議⑴】:退屈な会議は時間がゆっくり流れているように感じるのに、素晴らしい映画を見ている時間は時間がものすごいスピードで流れているように感じる。(例えば、『セデック・バレ』という全部で4時間の台湾映画を見ている時間は全部で5分間くらいに感じたと映画批評家高橋ヨシキは言っていた。まぁ、それはさすがに大袈裟に言い過ぎだとしても、実際俺も、『マッドマックス 怒りのデスロード』という大好きなフェミニズムの映画を見ている2時間は、俺にとっても30分くらいに感じるかもしれない。)

【不思議⑵】:たくさんの出来事があった怒涛の一週間のあとで、一週間前をあとから思い返すと、まるで一週間前が一ヶ月前のことであるかのように感じる。

【不思議⑵'】:また、『魔の山』の中でトマス・マンはこんなことを言っている。

「新しい土地で過ごすはずの幾日かは若々しい、つまり力強いどっしりとした歩みをふたたび取り戻す。---しかしこれも「慣れる」につれて日ごとに短くなってくるのである。4週間の最後の週は気味の悪いほどの速さと儚さでおわってしまうことだろう。もちろん、時間感覚の若返りはそういう旅行が終わってからも効き目が残っていて、日常の生活に戻ってからふたたび効き始める。家へ帰ったたばかりの日々は、転地の後ふたたび新鮮となり、どっしりと若々しく感得される。しかしこれは数日のあいだだけのことである。」(トマス・マン『魔の山』)

要するに、トマス・マンが4週間の旅行先に到着すると、最初のほうは時間がゆっくりと流れ、だんだんスピードが速くなっていき、旅行が終わり、今度は自分の家に戻るとまた時間がゆっくりとなり、慣れるとまた時間が速くなるというのだ。これは、なぜなのか。

【不思議⑶】:強い印象を受けている出来事について思い出すときには「まるで昨日のことのように」感じると言う。とくに、ある衝撃的な出来事から今に至るまで思い出す人の中で大した変化が起きていない時には、なおさら「昨日のことであるかのように感じる」と言うのではないだろうか。

例えば、40歳の人が「僕は30歳の誕生日を昨日のことのように思い出せる」と言った例を俺は聞いたことがあるが、40歳の人が10歳の誕生日を「昨日のことのように思い出せる」と言った例は聞いたことがない。その理由は、40歳と10歳の間では思い出す主体のあいだにたくさんの変化が生じているからではないだろうか。例えば身長が大きくなったりとか。

【不思議の解明の試み:主観時間に関する注意資源論】

人間は、脳内の注意資源を使えば使うほど、人間は主観的に長い時間が立っていると考えてしまい、そのように考えられた主観的時間と、客観的とされている時間との差額の大きさが、時間の「速さ」として感じられているのではないか。

ちなみに、
(使った注意資源の量)=(経った主観時間の長さ)
というこの理論はフリッカ錯視の研究を参考にした。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021300003/?ST=m_labo

[不思議⑴についての上記の注意資源論の適用]

<想起という観点からの⑴の解釈>
場面変化の多い映画ではすごいたくさんの注意資源を使うから主観的にはすごいたくさんの時間が立っていると考えられる。たとえば映画の中で泣いたり笑ったり、色んな劇的なことが起こったので、8時間くらい経っているような気がする。それなのに、映画を見終わって時計を見るとたった2時間しか経ってない。それで、「いつもの4倍のスピードで時間がたってしまった!」と感じるのだ。

→このとき、映画の上映時間は客観的にいうと2時間だが、8時間に相当する注意資源を使ったので、8時間経っていないとおかしい、と脳は主張する。このおかしさを解消するためには、上映中の映画館の中では4倍の速度で8時間が流れてしまったので普通の世界では2時間しか経っていないのだ、ということにすればいい。

よって「この2時間の映画の体感時間は30分だ」という発話の意味は、「(この映画を上映中の映画館の中では、4倍の速度で時間が流れているかのようなので、そこで2時間の映画を見ても、普通の世界の速度での30分ぶんの時間にしか感じないんだから、)退屈する心配はないよ」という意味である。

<進行中の体感という観点からの⑴と⑵'の解釈>

しかし、本当にそうだろうか。注意資源という概念を使って同じ現象を以下のようにも解釈できる。

参考:https://psych.or.jp/interest/ff-36/

恋人との会話に熱中している時、あるいは、休まずに身体を動かしている時、あるいは、ディスカッションに夢中になっている時、あるいは、夢中で読書している時、などにおいては、「ひと休み休憩」などを入れない場合には、出来事はひとつの全体として捉えられており、前半や後半に別れていたり、幾つかのパートに別れていたりはしない。そうすると、その行為の最中には出来事Aと出来事Bとが分節されて、そのあいだの間隙を意識することで時間経過に注意資源が使われるということがないため、時間経過に向けられた注意資源が少なくなるのだ。そうすると、恋人と会話していた時間は実際には1時間であったのに、体感時間としては10分にしか感じられないということが起こる。時間経過に対して向けられた注意資源の消費量が少ないからである。

たとえば、「サッカーの試合中にある選手Aが選手Bにパスをして選手BがシュートしてからゴールキーパーCがそれを止めてそのボールがコートに戻っていく」という出来事は、文章で書くと3つくらいの出来事に分節されているように見えるが、実際の試合中の選手からしたらそれはひとつながりの出来事でしかないのである。

それと同様のことが⑴の映画内でも起こっているのではないだろうか。変化が多い映画ならば別だが、場面変化がほとんど起こらない映画の中で白熱した議論が展開されれば、「主観的には30分しか経っていないはずなのに時計を見たら2時間も経っていた」ということが起こるはずである。(たとえば「え、もうこんな時間!現象」「もう2時間も経ってる!現象」)

上記の2つの理解をまとめておく。

❶想起という観点から捉えたならば、たくさんのことが起きた映画を見る前は、見た後からしたらものすごく前のような気がしてしまう。(注意資源消費量が大きいから。)

それとは別に、

❷進行中の体感という観点から捉えたならば、映画を見ている最中は、たくさんの出来事がシーム(seam)レスにつながって未分節なため、ひとつの融解した出来事のように感じられており、それゆえにそこに向けられる注意資源消費が少なくなり、短い時間であったかのように感じられるのだ。(注意資源消費量が小さいから。)

ここで❷をもう一度言い直して⑵'を説明してみる。

旅行先などの楽しい時間においては、出来事と出来事との間が融解しており未分節で、そうであるがゆえにスムーズに連続的に展開し、その移り変わりの知覚に注意資源は要請されないのだが、退屈な時間には各出来事が個々に分節できるようになっており、それらの出来事のあいだの移行が意識され、そこに注意資源を使わされてしまう。時間知覚の研究によれば、使った注意資源の量と主観時間の長さは比例するので、退屈な時間ほど長く感じる。

要するに、客観的には同じ時間継続した運動でも、ぎこちない諸運動(しばしばそれは退屈さを引き起こすのだが)はそのあいだの接続を意識するため遅く感じ、なめらかな諸運動(しばしばそれは魅惑を引き起こすのだが)は接続を意識しないため速く感じる。よって、どちらも注意資源消費量に比例するものとして説明できる。

[不思議⑵についての上記の注意資源論の適用]

<想起という観点からの解釈>
注意資源を一週間で大量に使うと、ふつうは1ヶ月で使う注意資源の量とおなじだけ使ったはずなのに、まだ1週間しか経っていないという主観時間と客観時間とのあいだに差が生じる。それによって脳が1週間前を1ヶ月前だと誤解してしまう。脳からしたら、1週間前も1ヶ月前も、使った注意資源の量としては同じなので、ついつい1週間前のことに1ヶ月前のようだという判定を下してしまうというわけ。

[不思議⑶についての上記の注意資源論の適用]

<想起という観点からの解釈>

衝撃的な出来事から今日までの変化がほとんどなくて、それゆえにその変化を知覚したり記憶したりするための注意資源消費量があたかも昨日から今日までの注意資源消費量とおなじくらい少ないときには、「昨日のことのように」という表現が適切に思えてしまう。

つまり、10年前のことであっても、昨日のことを思い出すのと想起に要する注意資源の消費量が変わらないならば、それは主観的には同じ距離しか離れていないものとして感じるということである。

例えば、100キロメートル離れている場所と10キロメートル離れている場所に徒歩でいくときには、100キロメートル離れている場所の方が遠いと感じるけれども、それはそこに到達するまでに消費したエネルギーが大きいからであって、もしもどっちにも飛行機でいけるとしたら、「搭乗券を買って飛行機にチェックインして空港に行って離陸してから着陸するまでの消費努力量」は、100キロメートルでも10キロメートルでも同じことなので、結局はどちらも同じくらい離れていると主観的には感じることになる。これは空間の例だが、これと同じことが時間についても言えるとしたら、想起に要する注意資源消費量が同じだからという理論で不思議⑶も説明ができることになる。

(→ところで、「歳を経るごとに1年間が経過するまでの体感スピードがどんどん速くなっていく」ということを「ジャネーの法則」というのだが、これは、一年経過前と一年経過後とを比較したときに多くの変化に気づく子供時代に対して、大人になると、一年経過前と一年経過後とを比較したときにほとんど変化に気付けなくなってしまうので、「一年前が昨日のことのように感じる大人に対して何年も前のことのように感じるのが子どもなのだ」という仕方で対比すれば、不思議⑶の応用例として、このジャネーの法則にも説明がついていることになる。これはあくまでも想起という観点からのジャネーの法則の説明であるが、体感という観点からもジャネーの法則は説明でき、子ども時代は全てのものが新鮮であり、全てを分析的にミクロに見てしまうのであるが、大人になると大局を捉えて遠くから全体の滑らかな動きをマクロに見るということが可能になりその結果時間の体感スピードが速くなっていくのである。)