aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

フィルム・ノワールを速攻で整理

⑴.【フィルム・ノワールとは何か】
 「フィルム・ノワール」とは、1940年代から1950年代のアメリカのモノクロ犯罪映画を、フランス人の批評家が指して、作った概念である。狭義のフィルム・ノワールは、「1941年の『マルタの鷹』から1958年の『黒い罠』までのモノクロ犯罪映画群」と定義されている。『裸の町』(1948年)、『第三の男』(1949年)、『現ナマに体を張れ』(1956年)あたりの映画を見ておけば実際にはこれらがどういう映画かについてのイメージは掴めるだろう。フィルム・ノワールの特徴はファム・ファタルという男を破滅させる女が出てくることである。犯罪映画といえば「魔性の女」が出てくるというステレオタイプがあるのは、フィルム・ノワールのせいである。画面は全体的に暗く、夜が多いので、フィルム・ノワールという名前がついたと言われている。フィルム・ノワールの雰囲気を知るにはまずは滝本誠の『渋く、薄汚れ。ノワール・ジャンルの快楽』という本を読めばいい。その次に吉田広明の『B級ノワール論――ハリウッド転換期の巨匠たち』を読めばさらに理解を深めることができる。どちらも図書館で借りることができる。ちなみに、日本の映画監督だと、石井隆監督の初期作品群(特に『天使のはらわた』の名美と村木など)がノワール的だと言われている。フィルムノワールは以下の三大要素に分けて記述することができる。まず第一に、「①ドイツ表現主義」、そして第二に、「②ファム・ファタル表象」、そして第三に、「③ハリウッド裏面史」である。

 

⑵.【「ドイツ表現主義」の残響】
 1940年代は、ナチスの台頭によって、ドイツの「ウーファ撮影所」から優秀なユダヤ人の映画業界の人材が流出した時代である(いわゆる「ヒトラーの贈り物」)。第二次世界大戦以前は、世界最高の映画の国といえば、断然ドイツで、『メトロポリス』というフリッツ・ラング監督の映画などはもはや並ぶものがないほどの大傑作で、まさにこの映画なんかを作っていたのが、ドイツの「ウーファ撮影所」だったのだ。アメリカのフィルム・ノワールは、ドイツから逃げてきた亡命ユダヤ人が作った潮流で、それがヨーロッパで評価されたという奇妙な来歴の運動なのである。例えば、①フリッツ・ラングも、②オットー・プレミンジャーも、③ビリー・ワイルダーも、ドイツ系ユダヤ人の亡命してきた人々である。だから、亡命してきたユダヤ人は『カリガリ博士』(1920年)などで顕著な、当時のドイツ表現主義アメリカに持ち込んだ。「主人公すら自分の思考を信用できず、世界が主人公の不安に相即して歪んで壊れていく」という話が『カリガリ博士』の世界観だったのだ。これが、今度は犯罪映画の中に持ち込まれたのである。こうしてフィルム・ノワールの発生の土壌のひとつが整備された。

 

⑶.【1950年代的ファミリー像が隠蔽していたもの:「ファム・ファタール」の発生条件】
 さらにもうひとつ、フィルムノワールの重要な要素として、ファム・ファタールの存在があげられる。これはどのように発生したのだろうか。そもそもフィルム・ノワールが映画館で上映されていた時代、「1950年代的なアメリカンファミリー像」というものがあった。すなわち、「ママはホットケーキを作り、パパは会社で立派に仕事をしていて、ボクの家のお庭には、大きな犬がいる」というような家庭像である。これは第二次世界大戦後のアメリカで称揚された家庭像である。では、このような家庭像が称揚されたのはなぜかというと、戦争中に女性の社会進出が進んだからである。戦争中に女性の社会進出が進んだから、兵隊たちがまた戦後になって復員してくると、女性を再び家庭に押し返さなければならなくなり、これに利用されたのがこの家庭像だったのである。戦後、このような家庭像が称揚されたのは、「女性に仕事を奪われるのではないか」という男性たちの不安感の表れだったのである。この種の家庭像が称揚される一方で、同時に男性はその崩壊を恐れていた。そうした潜在的な力が女性にはあると気づいたからである。こうしてフィルム・ノワールに特有の「女性恐怖」が出てくるのである。1950年代に働いている男たちにとっては、強い女性にふらふらとついて行くことは、①当時称揚されていた守るべき家庭を破壊するかもしれない誘惑であり、②女性は潜在的に自分の仕事を奪うかもしれないという意味でも恐怖であったのだ。これがファム・ファタル表象の発生の土壌であり、それがそのままフィルム・ノワールの一要素でもあった。。現代でもファム・ファタルのようなものが執拗に出てくる映画が存在しており、『白いドレスの女』(1981年)のキャスリン・ターナーの女性像や、『蜘蛛女』(1993年)のレナ・オリンの女性像などが、そうである。

 

⑷.【「ハリウッド裏面史」という主題系】
 そしてさらにフィルム・ノワールを特徴づけるのが、「ハリウッドの裏面史」というテーマである。ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』という本に詳しく書かれている通り、1950年代のゴシップ・メディアの登場によって、「ハリウッドのキラキラした銀幕の裏には、ただれてギラギラした欲望の世界」があるはずだ、ぜひそれを見たいという欲望が、掻き立てられていったのである。『サンセット大通り』にその典型が見られる。「往年の名女優が、大恐慌を経て落ちぶれ、奇怪な蝋人形のようになって、かつての監督を使役しながら、夜な夜なパーティを繰り広げている」などというような形象が典型的に「フィルム・ノワール的なもの」なのである。こうしてフィルム・ノワールの作品群には、「美しい世界の裏にはただれた世界があるはずで、そこでは黒々とした欲望が黙々と動き続けているはずだ」というテーマがはっきりと現れてゆく事になる。フィルム・ノワールの世界では、大人の手に負えないただれた愛欲が、全てをぶち壊しにすることが多い。近親相姦や殺人など、若者のいたずらのような悪さではない「大人の悪さ」、「腐敗しきった正真正銘のもはや手に負えない、たちのわるさ」が描かれるのがフィルム・ノワールなのである。主人公の倫理性すら信用できない。というのも、ハードボイルドとノワールは全く違う。ハードボイルドの探偵役といえばハンフリー・ボガードであるが、主人公であるその探偵が、騎士(=ダークナイト)として汚れた街を歩くのがハードボイルドで、騎士だったはずの主人公がただれた世界を歩いているうちに自分も、ただれていくのが、ノワールなのである。

 

⑸.【フィルム・ノワール理解のための具体的な映画たちを年代順で並べる】

 

⑸-①.[ビリー・ワイルダー監督『深夜の告白』(1944年)]
 →ビリー・ワイルダーといえばコメディ映画の監督だが、『深夜の告白』と『サンセット大通り』は傑作ノワールである。『深夜の告白』では、悪女バーバラ・スタンウィックの美脚が見えた瞬間に即座に奈落へと落ち始め、女に飜弄される自動車保険の調査員の男フレッド・マクマレイの姿が見られる。

 

⑸-②.[オットー・プレミンジャー監督『ローラ殺人事件』(1944年)]
 →オットー・プレミンジャーは日本では『悲しみよこんにちは』の監督かもしれないが、フィルム・ノワールも撮っている。ファッションデザイナーの女性であるローラが映画冒頭で殺される。この殺人事件の捜査をしているうちに、死人に惚れてしまった刑事が、その死人ローラによく似た女性の登場によって奈落に落ち始める。『ブルーベルベット』や『マルホランド・ドライブ』からもわかる通り、ノワール的な世界観を愛しているのデヴィット・リンチ監督だが、『ツインピークス』における「ローラ・パーマー」の造形にも影響を与えているのがこの作品である。

 

⑸-③.[フリッツ・ラング監督『飾り窓の女』(1944年)]
 →『飾り窓の女』はわかりやすいフィルム・ノワールである。エドワード・ロビンソン演じる犯罪学者の大学教授が、街のショーウィンドウにかかっていた肖像画に見惚れていると、そこにその肖像画のモデルが現れる。そしてそのジョーン・ベネットが演じるモデルの家に誘われて、モデルの家までついていくと、そのモデルの女の家に、その女のヒモが帰ってきて、そのヒモの男と揉み合っているうちに、大学教授は女のヒモを刺して、殺してしまうのだ。絵を眺めていた大学教授が、5分後には殺人者になってしまい、どうしようという展開の『飾り窓の女』は、典型的なフィルム・ノワールであるといえる。この作品内では、主人公の友達の検事が、殺人捜査の進行を主人公に語り聞かせることが主人公の焦りを加速させていく。

 

⑸-④.[フリッツ・ラング監督『緋色の街/スカーレット・ストリート』(1945年)]
 →❶フリッツ・ラングと❷エドワード・ロビンソンと❸ジョーン・ベネットという3人組でもう一回撮ったのがこの作品である。エドワード・ロビンソン演じる普段は会計士をやっている日曜画家と、その絵のモデルのジョーン・ベネットの話である。ここでもまたファム・ファタルを演じたジョーン・ベネットは、実生活でも浮気性で、男を狂わせる女だったことで有名である。実際に、ウォルター・ウェンジャーという有名映画プロデューサーと結婚していたベネットは浮気を繰り返したことで、怒り狂ったウェンジャーが間男を撃ち殺そうとした、という事件があった。ジョーン・ベネットは、『嘆きの天使』(1930年)のマレーネ・ディートリッヒ以来の正統派のファム・ファタルであると言える。

 

⑸-⑤.[オーソン・ウェルズ監督『上海から来た女』(1947年)]
 →女優リタ・ヘイワースがいわゆる「プラチナブロンド」のファム・ファタルを演じたことが有名で、『燃えよドラゴン』の「鏡の間」のモデルになった部屋が出てくる映画が、この映画である。悪徳のアメリカ人保安官のクインランを監督のオーソン・ウェルズ本人が演じている。映画のストーリーは、メキシコ国境で起きる話で、チャールトン・ヘストン演じるメキシコ人の麻薬捜査官と保安官のクインランが主要登場人物である。保安官のクインランは、アメリカ人で、差別主義で、悪徳のかぎりをつくし、証拠も捏造するよるな最低の保安官なのだが、しかし、当てずっぽうと思い込みで言っていることが全部あっていた、という絶望的な話なのだ。最低最悪の人間であるクインランを、麻薬捜査官のチャールトン・ヘストンは汚い手を使って倒してしまうのだが、倒されたクインランの思い込みが全部正しかったという話なのだ。正義と悪の境界がどんどん揺らいでいき、混沌としてクラクラするような、不安な話なのだ。オープニングの長回しが有名で、オーソン・ウェルズの愛人をマレーネ・ディートリッヒが演じている。ヒッチコックの『サイコ』にも影響を与えていると言われている。

 

⑸-⑥.[ビリー・ワイルダー監督『サンセット大通り』(1950年)]
 →『サンセット大通り』ではグロリア・スワンソンがかつての大女優の役で、そしてエリック・シュトロハイムがかつての大監督という役で出てくる。つまり、虚実の境目が曖昧になる作品なのだ。そして、「死人のナレーションで始まる」というのも『サンセット大通り』の語り口の有名な特徴である。

 

⑸-⑦.[カール・ライナー監督『スティーブ・マーティンの四つ数えろ』(1982年)]
 →『四つ数えろ』は、『三つ数えろ』のパロディ映画である。つまり、『スティーブ・マーティンの四つ数えろ』はサンプリングだけでできているコメディ映画である。つまりこの映画は、『深夜の告白』など、30本以上のフィルム・ノワール映画が切り貼りされて作られている。

 

⑸-⑧.[アラン・パーカー監督『エンゼルハート』(1987年)]
 →この映画は、若い頃のミッキー・ロークが演じる私立探偵が、ロバート・デニーロ演じる金持ちに人探しを依頼され、女と関係を持ちつつ、混乱の中で地獄の底まで落ちて行くことになる、という映画である。舞台がLAではなくニューオリンズであることが、フィルム・ノワールとしては新しい造形になっている。

 

⑸-⑨.[ブライアン・デ・パルマ監督『ブラックダリア』(2006年)]
 →ジェイムズ・エルロイの原作小説を映画化したのが『ブラックダリア』である。女性の惨殺死体の調査をしていた刑事が奈落に引き摺り込まれて行くのが、この映画である。❶『ブラック・ダリア』(1987年)、❷『ビッグ・ノーウェア』 (1988年)、❸『L.A.コンフィデンシャル 』(1990年)、❹『ホワイト・ジャズ』 (1992年)というジェイムズ・エルロイの「暗黒LA4部作」を読むのと合わせて、この映画を見るとさらに面白い。同じく、レイモンド・チャンドラーの原作小説があるフィルム・ノワール映画といえば、『さらば愛しき女よ』(1975)も大傑作である。

 

⑸-⑩.[ポール・トーマス・アンダーソン監督『インヒアレント・ヴァイス』(2014年)]
 →トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』を原作に作られたネオ・ノワール映画。現代にフィルム・ノワールを蘇らせた傑作である。