aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

愉快な独語2

【ドイツ語文法の主要論点を短く整理したい】

 →以下の論点の直後に、🆗をつけた論点は非常に基礎的というか初歩的なことである。

→それに対して、☆をつけたものは非常に重要なので復習が必要である。

 

論点1.【seinの基本】🆗

→主語が「du」の時は「sein」は「bist」になる。主語が「ihr」の時は「sein」は「seit」になる。これ、以外に忘れやすいので気をつけよう。

 

 

論点2.【動詞の人称変化の不規則変化】🆗

→不規則変化する動詞の代表例は「rechnen:計算する」とかである。「e」という語尾が発音しやすいようについたりするのだ。

→「heißen」という動詞も不規則変化動詞の代表例である。

→あと、親称複数「ihr kauft」という人称変化も忘れやすいので注意。

→「ihr」は親称複数1格だけでなく、3人称単数女性「sie」の3格でもあり、「彼女の」「彼女らの」「彼らの」という意味にもなるくせものである。

 

 

論点3.【名詞の性と冠詞】🆗

→男性名詞の代表としては、「ein Mund:口」を覚えておくといい。

→中性名詞の代表としては、「ein Auge:目」を覚えておくといい。

→女性名詞の代表としては、「eine Nase:鼻」を覚えておくといい。

 

 

論点4.【名詞の4つの格】🆗

→男性名詞と中性名詞では、2格のとき、名詞本体にさえ「s」の語尾がつく。

 

 

論点5.【定冠詞類】🆗

→「dieser」「jener」「jeder」「aller」「welcher」は定冠詞類である。「jener」は遠くにあるものを指すので注意。

→「alles」は単独で使われ、単数形である。

→「jeder」の後ろは単数形になる。

 

 

論点6.【不定冠詞類】🆗

→「ihr:彼らの」は不定冠詞類であることに注意せよ。

→「euer」は「君たちの」という意味の不定冠詞類。

 

 

論点7.【形式主語と形式目的語のes】🆗

→「Du hast es gut.」は「君はいいなあ」という意味で形式目的語を使った文である。

 

 

論点8.【人称代名詞の格変化】🆗

→「meiner」は「Ich」の2格であり「mir」は3格であり「mich」は4格である。

→「SVOO構文」で、Oが両方とも代名詞の場合は、英語と違って、4格が先で3格を後に置くことになる。例えば、「Ich schenke sie dir.」などがそうである。

→「uns」は「wir」の3格であるが4格でもあるから、分かりにくい。要注意である。

 

 

論点9.【3格支配の前置詞】🆗

→「aus:から外へ」「bei:のもとで」「mit:と一緒に」「nach:の後で」「seit:以来」「von:から、の」「zu:のために」は3格支配の前置詞である。

 


論点10.【4格支配の前置詞】🆗

→「durch:をとおって」「bis:まで」「für:ために」「gegen:反対して」「ohne:なしで」「um:時に」は4格支配の前置詞である。

 

 

論点11.【3格か4格支配の前置詞】🆗

→「an:に接して」「auf:の上」「hinter:の後ろ」「in:の中」「über:の上空」「unter:の下」は3格か4格支配の前置詞である。3格の時は場所や状態を示し、4格の時には行き先や方向を表す。

 

 

論点12.【2格支配の前置詞】☆

→「statt:に代わって」「trotz:にも拘らず」「während:の間に」「wegen:のせいで」は2格支配の前置詞である。2格支配の前置詞はかなりたくさんあったがドイツ語の長い歴史の中で次第に廃れつつある。

 

 

論点13.【名詞複数3格と幹母音変化】☆

→ドイツ語の名詞の複数形は5つのタイプがある。①無変化、②eをつける、③erをつける、④enをつける、⑤sをつける、という5タイプである。しかもそこにウムラウトがつくものもある。

→さらに、名詞は複数3格では、冠詞だけでなく、名詞それ自体にも語尾に「n」をつける。

→例えば、「der Vogel」は①のタイプでウムラウトまである。だから複数形は「die Vögel」となる。複数3格だと「den Vögeln」となる。

→例えば、「das Tier」は②のタイプで、だから複数形は「die Tiere」となる。複数3格だと「den Tieren」となる。

→例えば、「das Land」は③のタイプでウムラウトまである。だから複数形は「die Länder」となり、複数3格だと「den Ländern」となるわけだ。

→例えば、「die Blume」は④のタイプで、だから複数形は「die Blumen」となる。

→例えば、「der Fuß」は②のタイプで、だから複数形は「die Fuße」となる。複数3格だと「den Fußen」となるわけだ。

→さらに、名詞は複数形になると、男性や女性や中性という区別を失ってしまう。

 

 

論点14.【男性弱変化名詞:変わり者の男性名詞】☆

→男性弱変化名詞とは何だろうか。単数2格の場合、男性名詞と中性名詞は「des 〇〇s」という強変化をする。しかし、男性名詞のくせに単数2格のくせに「n」という弱い語尾がついてしまうのが男性弱変化名詞なのである。複数形の語尾が「n」で終わる男性名詞は男性弱変化だと思っていい。例えば「Löwen:ライオンたち」は複数形に「n」がつくから、「Löwe」は男性弱変化名詞である。男性弱変化名詞は、単数1格以外は全て「n」の語尾になる。

→「Herz:こころ」は例外中の例外で、中性名詞であるにも拘らず男性弱変化名詞の変化をするのである。

 

 

論点15.【英語とは違って1文に助動詞を2つ入れることがドイツ語ではできる】☆

→例えば、「Ich will ja auch einmal mit den Blumen sprechen können.」は「私もいつか花々と話がしてみたいわ」という例文が典型的である。

→「ゾレン」は「第三者の意志」を表す。

 

 

論点16.【話法の助動詞ではない3つの助動詞】🆗

→①「möchten」と②「werden」と③「lassen」は重要な助動詞で、これらは話法の助動詞ではない。

 


論点17.【不規則動詞⑴】🆗

→不規則動詞の覚えておくべきもののひとつ目の類型としては、①「fahren:乗り物でいく」や②「halten:握る」や③「laufen:走る、歩く」や④「tragen:運ぶ」などを覚えておくとよい。

 

 

論点18.【不規則動詞⑵】🆗

→不規則動詞の覚えておくべきもののふたつ目の類型としては、①「sprechen:話す」や②「sehen:見る」や③「essen:食べる」や④「nehmen:取る」などを覚えておくとよい。

 

 

論点19.【敬称Sieに対する命令形⑴と親称複数ihrに対する命令形⑵】🆗

→敬称Sieに対する命令形⑴は疑問文の時と全く同じで、終止符をクエスチョンマーク(疑問符)からエクスクラメーションマーク(感嘆符)にすればいいだけである。

→親称複数ihrに対する命令形⑵は、動詞を最初に書いてから、主語の「ihr」を省略すればいい。

→典型的な命令文として、「Macht euch keine Sorgen!:心配しないで!」を覚えておけばいい。

→「Kommt nur bald zurück.:とにかくはやく帰って来なさい」も「nur」が「とにかく」という意味になることを覚えておこう。

 


論点20.【親称単数duに対する命令形⑶】🆗

→親称単数duに対する命令形⑶は、動詞の語尾をなくして語幹だけ言えばいい。例えば「Lern!:学べ」のように作る。

→不規則な命令形もある。例えば、「Gib!:あげろよ!」「Sei:であれ」「entschuldige:許せ」などがそうである。

 

 

論点21.【形容詞の⑴強変化:男性2格と中性2格の語尾が「en」になる】☆

→⑴「形容詞+名詞=強変化」、⑵「定冠詞類+形容詞+名詞=弱変化」、⑶「不定冠詞類+形容詞+名詞=混合変化」というふうに覚えるとよい。

→⑴強変化では、形容詞が定冠詞のように振る舞う。形容詞の強変化で覚えるべきことは男性2格と中性2格の語尾が「en」になるということだけである。

→挨拶はたいてい4格なので、①「gute Besserung:お大事に(gutに4格の強変化語尾がついている)」とか②「Vielen Dank:ありがとう(vielに4格の強変化語尾がついている)」とか、③「Gute Nacht:おやすみ(gutに4格の強変化語尾がついている)」などのように、挨拶には強変化語尾がつくことが多い。

 


論点22.【形容詞の⑵弱変化と⑶混合変化:混合変化で覚えるべきは三ヶ所】☆

→⑴「形容詞+名詞=強変化」、⑵「定冠詞類+形容詞+名詞=弱変化」、⑶「不定冠詞類+形容詞+名詞=混合変化」というふうに覚えるとよい。

→⑵弱変化は何がポイントなのか。定冠詞類があってそれに形容詞が続く場合、⑵弱変化になる。定冠詞がもうすでに名詞の性数格を表示しているからである。弱変化とは要するに、「en」の語尾のことである。

→⑶混合変化は何がポイントなのか。不定冠詞類があってそれに形容詞が続く場合、⑶混合変化になる。⑶混合変化で覚えるべきは要するに三ヶ所である。①男性1格と②中性1格と③中性4格の三箇所だけ覚えればいいのである。この三箇所だけは強変化するのである。この三箇所以外は弱変化するのが、⑶混合変化である。

 

 

論点23.【形容詞の名詞化】☆

→形容詞の名詞化とは、例えば、①「die deutschen Menschen」から、②「die deutschen」、そして③「die Deutschen」というふうに変化させて、③で「ドイツの人たち」という意味の名詞を作れるのだ。

→名詞になった形容詞は、男性名詞、女性名詞、複数名詞ならばそれは「人」であるが、中性名詞ならばそれは「もの」を表す。

→例えば、「Machen wie etwas Schönes」だったら、「Schönes」は、「schön」という形容詞が中性強変化の語尾を持ったままで「4格の中性名詞」になったものである。

→例えば「Geburtstag ist für die Deutschen etwas Besonderes」において、「Besonderes」は「besonder」という形容詞が中性強変化の語尾を持ったままで「1格の中性名詞」となっている。

→例えば「知人」を意味するのは「Bekannte」という形容詞が名詞化したものが使われる。

 

 

論点24.【序数というのは形容詞のことで、日付に使う】🆗

→20以上の序数には「st」の語尾をつける。20までは「t」をつける。

→ドイツ語の日付は男性名詞であるから、定冠詞をつけて序数の形容詞は弱変化させることが基本となる。

 


論点25.【代名詞が物を受ける時は性数格を無視して前置詞と融合する】☆

→前置詞が代名詞と組み合わさるとき、もしもその代名詞がものを受けるならばそのものの「性数格」とは関係なく、「damit」や「darauf」などになる。

→代名詞が物ではなくて人を受ける場合には「mit ihm」や「mit ihr」のように2語にしなくてはならない。

→物の時は1語にしてよくて、人の時は2語になるというのは疑問文を作る時の疑問詞でも同じである。

→例えば「Woran hat deiner Mutter Interesse?」という疑問文は疑問詞が融合形だから、物を訪ねているとわかる。

 

 

論点26.【名詞や動詞や形容詞は特定の前置詞と結びつく】🆗

→動詞「warten」は「auf」と結びつく。

→動詞「danken」は「für」と結びつく。

→動詞「träumen」は「von」と結びつく。

→動詞「bestehen」は「aus」と結びつく。

 

論点27.【ドイツ語でも現在完了形は過去を言うのに用いる】🆗

→「sprechen」の過去分詞は「gesprochen」となるように、不規則な過去分詞を作るものがあるので注意しよう。

→動詞が、完了形を作る時に助動詞がザインなのかハーベンなのかを表現するために、「ザイン支配の動詞」とか「ハーベン支配の動詞」などと言うことがある。

→「sein」自体は「ザイン支配の動詞」であるから完了形を作るときの助動詞にはザインを用いる。例えば、「Früher ist der Mars ein schöner Planet gewesen.」というように使う。

 

 

論点28.【過去基本形】☆

→そもそも現在完了形があるのにも拘らず、過去基本形はどんな時に使うのか。物語る時である。

→過去基本形は、話法の助動詞の過去形を作るときに、根源用法なのか認識用法なのかを区別する指標として使うことができる。

→例えば、⓪「Sie kann Deutsch sprechen.」という表現を2通りのやり方で過去形にしてみよう。①「Sie konnte Deutsch sprechen.」と②「Sie kann Deutsch gesprochen haben」という二つのやり方がありうる。①は「彼女はドイツ語を話すことができた」となって、②は「彼女はドイツ語を話したかもしれない」となるのだ。

→「spielen」の場合は、「spielte」が過去基本形である。

→重要動詞は①現在形と②過去基本形と③現在完了形を作るための過去分詞という三基本形を全て覚えてしまった方がいい。例えば、「①sein-②war-③gewesen」とか「①haben-②hatte-③gehabt」とか「①werden-②wurde-③geworden」とか「①stehen-②stand-③gestanden」みたいな感じで覚えていくということである。

→例えば、「War der Mars nicht immer ein roter Planet?:火星は昔っからいつも赤い星だったのではないの?」という発言の「war」が過去基本形である。

 

 

論点29.【分離前綴りと基礎動詞:verという前綴りは絶対に分離しない】☆

→分離動詞の分離前綴りにはアクセントがあるが、非分離動詞の分離前綴りにはアクセントがない。

→「aufstehen」 は分離動詞だが、「verstehen」は非分離動詞である。

→分離動詞では分離前綴りが文末に置かれる。例えば、「Ich stehe früh auf.:私は早く起きる」とか「Das steht noch nicht fest.:まだ決まっていません」とか「Wir gehen morgen bei ihm vorbei.:私たちは明日、彼のところに立ち寄る」のようになる。

→非分離動詞の代表だと、「untersuchen:研究する」とか「erfahren:知る」を覚えておくとよい。

→「verという前綴りは絶対に分離しない」ので、例えば、「verschwinden:消える」という動詞も非分離動詞である。過去分詞は「verschwunden」となる。

 

 

論点30.【複合動詞(=分離動詞と非分離動詞)の完了形】☆

→「①stehen-②stand-③gestanden」という三基本形をまず思い出す。そしたら、「①aufstehen」から「③aufgestanden」を作れるはずだ。

→非分離動詞の「①verstehen」の場合は「ge」がつかないから、「③verstanden」となる。

→「アクセントが動詞の後半にある動詞には、過去分詞になっても「ge」がつかない」ということを覚えておくとよい。

 


論点31.【4格の再帰代名詞を従える再帰動詞】☆

→例えば、「Tina setzt sich auf den Stuhl.:ティナはイスの上に座る」とか「Ich freue mich sehr über Ihren Besuch.:訪問をうれしく思います」とか「Darf ich mich vorstellen?:自己紹介してもいいですか?」などは典型的な「4格の再帰代名詞を従える再帰動詞」である。

 


論点32.【3格の再帰代名詞を従える再帰動詞】☆

→例えば、「Tina kauft sich einen Kuchen.:ティナは自分のためにケーキを買う」などは典型的な「3格の再帰代名詞を従える再帰動詞」である。

→例えば、「Darf ich mir eine kurze Erklärung zu den Umweltproblemen erlauben?:環境問題について短くお話しさせていただいてもよろしいですかな?」という文の「mir」が「3格の再帰代名詞」である。4格目的語は「eine kurze Erklärung zu den Umweltproblemen」である。この「zu」は「について」と訳してかまわない。

→例えば、「Ich mache mir ernsthaft Sorgen um die Zukunft der Erde.:私は地球の未来について真剣に心配しているのです」などは典型的な「3格の再帰代名詞を従える再帰動詞」である。

→例えば、「Stellen Sie sich vor: Etwa 40 Prozent des Tropenwaldes sind in den letzten 50 Jahren verschwunden!:想像してみてください、熱帯雨林の約4割が、この50年間に消滅してしまったのですぞ」という文の「sich」が「3格の再帰代名詞」である。4格目的語は「Etwa 40 Prozent des Tropenwaldes sind in den letzten 50 Jahren verschwunden!」の全体がそれにあたるのである。

→「sich vorstellen」という再帰動詞でも分離動詞でもあるものについて考えてみよう。もしこの「sich」が4格目的語だとすると、「自己紹介する」という意味になるのだ。しかし、もしこの「sich」が3格目的語だとすると、他に別の4格目的語が来ることになり、「ある4格目的語を自分の前に置いてみてください=ある4格目的語のことを自分で考えてもみてください」という意味になるのだ。

 

 

論点33.【⑴あとの語順に影響を与えない接続詞、⑵与える副詞】🆗

→ドイツ語文には、「⑴:並列接続詞→主語→定動詞→その他」「⑵:副詞→定動詞→主語」「⑶:従属接続詞→主語→その他→定動詞」という3つのタイプの構造が大きくある。つまり、「定動詞第2位の原則」との関係で、ドイツ語の接続詞は理解する必要があるわけだ。

→⑴の並列接続詞は後の語順に影響を与えないが、⑵副詞は影響を与える。つまり、⑴並列接続詞は文の中でゼロ個目の位置を占めるが、⑵副詞は1つめの位置を占めると言ってもいい。

→⑶従属接続詞は副文構造を取るから定動詞は最後になる。

→この3つのタイプの最初に来る、⑴並列接続詞、⑵副詞、⑶従属接続詞にあたるものは、以下の通りである。すなわち、「⑴:「denn」や「unt」や「oder」や「aber」や「sondern」や「entweder」など」、「⑵:「dann」や「daher」や「deshalb」や「trotzdem」など」、そして、「⑶:「dass」や「ob」や「da」や「weil」や「wenn」や「bevor」や「nachdem」など」のこの3類型ということになる。

 


論点34.【⑶副文を作る接続詞】🆗

→ドイツ語文には、「⑴:並列接続詞→主語→定動詞→その他」「⑵:副詞→定動詞→主語」「⑶:従属接続詞→主語→その他→定動詞」という3つのタイプの構造が大きくあるのであった。

→この3つのタイプの最初に来る、⑴並列接続詞、⑵副詞、⑶従属接続詞にあたるものは、以下の通りである。すなわち、「⑴:「denn」や「unt」や「oder」や「aber」や「sondern」や「entweder」など」、「⑵:「dann」や「daher」や「deshalb」や「trotzdem」など」、そして、「⑶:「dass」や「ob」や「da」や「weil」や「wenn」や「bevor」や「nachdem」など」のこの3類型ということになる。

→「warum」のような疑問詞も⑶従属接続詞と同じように副文を導くことができる。例えば、「Ich möchte wissen, warum die Menschen Auto fahren, wenn dadurch so viele Bäume sterben.:人間が自動車に乗るということによって、そんなに多くの木々が死んでいくのだとしたら、どうして人間が自動車に乗るのか、それを僕は知りたいです。」という文がそうである。「warum」はそれ以下で、副文を導いている。また、例えば「Es ist schwierig zu erklären, was Geld ist.」も「was」が従属接続詞の如く副文を導いている。

 


論点35.【zu不定詞:um+zu不定詞は目的を表す】🆗

→ドイツ語でも、「zu不定詞」は「不定詞そのもの」のことではない。

→例えば、「zu不定詞」を使って、「写真を取ること」を表現すると、「ein Foto aufzunehmen」となる。

→典型的な「zu不定詞」を使った構文は、例えば、「Hast du Lust, etwas einzukaufen?:何か買い物してみる気はありますか?」などがそうである。「etwas einzukaufen」が「Lust」にかかっている。

→典型的な「zu不定詞」を使った構文は、例えば「Es ist schwierig zu erklären, was Geld ist.」などもそうである。文頭の形式主語の中に、「zu erklären」が入っている。

→「Das ist zu schön, um wahr zu sein!:素晴らしい、夢みたいだ。」という表現も覚えておこう。

 

 

論点36.【「da」が作る副文】🆗

→ちなみに、「複文」と「副文」は違う概念なので注意しよう。

→例えば、「Es kommt darauf an, wann du zum Markt kommst.:あなたが市場にいつ来るか、それ次第です。」という表現を理解しておけばよい。

→例えば、「Das hängt davon ab, ob das Wetter mitspielt.:お天気が味方してくれるかどうかにかかっていますね。」という表現を理解しておけばよい。

→例えば、「Sie ist stolz darauf, schön zu sein.:彼女は美人だということを鼻にかけている。」という表現を理解しておけばよい。

→例えば、「Ist es nicht verboten, die Natur zu zerstören?:自然を破壊することは禁止されていないんですか?」という表現を理解しておけばよい。

 

 

論点37.【完了不定詞がつくる副文:話法の助動詞さえzu不定詞句を作る】🆗

→「ドイツ語を学んだということ」は完了不定詞で書くと「Deutsch gelernt zu haben」となる。

→例えば、「Ich bin stolz darauf, Deutsch gelernt zu haben:ドイツ語を学んだことを誇りに思っている」となる。

→英語とは違って、話法の助動詞も「zu不定詞句」を作れることに注意しよう。例えば、「お金で何かを買えること」は「mit Geld etwas kaufen zu können」となる。

→例えば、「Nur, ist es nicht ein bisschen umständlich, immer Geld dabei haben zu müssen?:ただ、いつもお金を持ち歩かなければならないっていうのは、少し面倒臭くない?」という文において、話法の助動詞も「zu不定詞句」を作っている。

 


論点38.【話法の助動詞の意味の第二系列は推量である:過去基本形の使い所はココだ】☆

→話法の助動詞の意味には、第一系列の根源用法に加えて第二系列の認識用法がある。認識用法は、発話者による推測や発話者が想定している可能性を表現する。

→例えば、⓪「Sie kann Deutsch sprechen.」という表現を2通りのやり方で過去形にしてみよう。①「Sie konnte Deutsch sprechen.」と②「Sie kann Deutsch gesprochen haben」という二つのやり方がありうる。①は「彼女はドイツ語を話すことができた」となって、②は「彼女はドイツ語を話したかもしれない」となるのだ。①は第一系列の意味で、②は第二系列の意味である。

→例えば、「Vielleicht wird es die Jomon-Zeder sein.:ひょっとするとそれは縄文杉かもしれない」などは「werden」という話法の助動詞の意味の第二系列が使われている文である。これに続けて、「Dieser Baum muss die ganze Geschichte der Menschen beobachtet haben, denn er soll fast 3000 Jahre alt sein.:その木は人類の全歴史を観察してきたに違いない。というのも、その木はほとんど3000歳という年齢だそうだから。」などと続けられるが、ここでも「müssen」「sollen」という話法の助動詞の意味の第二系列が使われている文である。この文からもよくわかるように、「sollen」の第二系列は噂や伝聞で使うのである。

 

 

論点39.【①定冠詞は強く読むと②指示代名詞になる:副文を導くならば③定関係代名詞】☆

→⓪「Ich kenne den Studenten gut.」という文は、①「私はその学生をよく知っている」という文なのか②「私はまさにその学生をよく知っている」という意味なのかは発音を聞かないと特定できない。①定冠詞なら弱く読み、②指示代名詞ならば強く読むのである。2格の時は例外として、発音だけで①定冠詞が②指示代名詞に早変わりしてしまうのがドイツ語だと言える。⓪を指示代名詞の独立用法で書くと、「Den kenne ich gut.:私はまさにその学生をよく知っている」となる。

→①定冠詞と②指示代名詞がこんなに似ているとどうやって見分けるのかというと、「zum Baum:その木のところへ」と縮約されるのが①定冠詞で、「zu dem Baum:まさにその木のところへ」となって縮約されていないのが②指示代名詞だというふうに見分けることができる。

→そして、②指示代名詞の後に副文を続けると③定関係代名詞となる。例えば、③「Das ist der Student, den ich gut kenne.:これが私のよく知っている学生です」となって、定関係代名詞を作れるようになる。①→②→③の順に発生させると理解しやすい。

→例えば、「Die Jomon-Zeder ist ein alter Baum, der auf der japanischen Insel Yakushima wächst.:縄文杉というのは、日本の屋久島という島に生えている古い木のことです。 」というふうに③定関係代名詞は使える。

 

 

論点40.【先行詞を普通は取らないのが不定関係代名詞:「wer」と「was」の2種類】☆

不定関係代名詞は先行詞を普通は取らない。ただし、「etwas」や「alles」や「nichts」を先行詞にするような不定関係代名詞「was」は存在するので注意しよう。

→「およそ〇〇する人は」「およそ〇〇であるものは」という文を作りたいときは、不定関係代名詞を作る。

→「wer」は格変化するが、「was」は格変化しない。

→「Wer zu spät kommt, den bestraft das Leben.:来るのがあまりにも遅すぎる人は人生に罰せられる」というゴルバチョフの言葉は、不定関係代名詞が使われている。「Wer」それ自体は1格で、「Wer zu spät kommt」は全体で4格なのだが、全体では4格であることがわかるように「den」で受け直しているという構文である。

→「Glücklich ist, wer vergisst, was doch nicht zu ändern ist.:どうせ変えようがないことなんか、忘れてしまうような人は幸せだ」

 

 

論点41.【同等比較:so 形容詞 wie SV】☆

→「Anna ist so alt wie Peter.」とか「Anna ist genau so alt wie Peter.」とか「Anna ist doppelt so alt wie Peter.」とかがいわゆる同等比較の構文である。

→英語の「as fast as possible」はドイツ語だと、「so schnell wie möglich」となる。

 


論点42.【最上級を副詞として使うときには最上級形容詞を「am」と「sten」で挟む】☆

→そもそもドイツ語で比較級はどう作るかというと、英語と似たような感じで、「klein」を「kleiner」にしたり、「alt」を「älter」にしたりして作る。

→例えば、「Peter ist älter als Anna.:ペーターはアンナよりも年上だ。」とか「Hier ist es viel wärmer als in Deutschland.:ここはドイツよりずっと暖かい」とか「Habt ihr je einen größeren Baum gesehen als den?:あの木よりも、もっと大きな木を君たちは今までに見たことある?」というふうに比較文を作っていけばいい。

→そもそもドイツ語で最上級はどう作るかというと、英語と似たような感じで、「klein」を「kleinst」にしたり、「alt」を「ältest」にしたりして作る。

→例えば、「Das ist der größte Baum, den ich je gesehen habe.:これは私が今までに見た中で、一番大きい木です。」という文において最上級が男性1格の弱変化をして使われている。何の範囲の中で一番大きいかということを示すのは、英語でもドイツ語でも、関係代名詞である。あと、ここで使われている「je」というのは、英語でいう「ever」であり、「今までに」という意味である。

→「Und wahrscheinlich ist er am ältesten in Japan.:そしておそらくこの木は日本で一番古いです」という文では、「am」と「sten」で挟む用法の最上級になっている。

→絶対最上級というのもあって、その場合、何の中でかという範囲を示す必要はない。例えば、「Ich grüße Sie aufs Herzlichste.:あなたに心からご挨拶します」などがそうであり、この最上級は、何かと比べて一番という意味ではなく、単に強調である。

 


論点43.【受動不定詞を主語に合わせて人称変化させると受け身の文になる】☆

→「過去分詞+werden」を受動不定詞という。

→「褒められる」を受動不定詞で書くと、「gelobt werden」となる。

→受動不定詞を主語に合わせて人称変化させると受け身の文になる。例えば、「Er wird von seinem Vater gelobt.」

→そしてこの「werden」を過去形にすれば、過去の受け身文になる。

→例えば、「Ich bin froh, dass ich endlich von jemandem verstanden werde.:私はやっと誰かに理解してもらえて嬉しいですよ。」などというふうに使う。後ろのダスは嬉しい理由を示す副文を導いている。

 


論点44.【受動完了不定詞をつくりそこへさらに話法の助動詞をつけたりできる】☆

→「過去分詞+werden」を受動不定詞という。

→「褒められる」を受動不定詞で書くと、「gelobt werden」となる。

→重要動詞「werden」は「①現在形」と「②過去基本形」と「③現在完了形を作るための過去分詞」という三基本形は、「①werden-②wurde-③worden」となる。

→だから、「褒められた」を受動完了不定詞で書くと「gelobt worden sein」になる。

→受動完了不定詞を主語に合わせて人称変化させると受け身の文になる。例えば、「Er ist gelobt worden.」のようにすればいい。

→さらにこれを話法の助動詞と組み合わせることができる。例えば、「彼は褒められたに違いない:He must have been praised.」は「Er muss gelobt worden sein.」となる。英語と違うので注意しよう。どこが違うかというと、推量先を過去に飛ばすための助動詞が英語ではハブなのにドイツ語ではザインになっているところが違うのだ。そこ以外は、「ビーン」が「ヴォルデン」に対応しているだけで、実は同じなのである。

実際、「He must have been praised.」は、「He=Er」と機能的に対応し、「must=muss」と機能的に対応し、「have=sein」と機能的に対応し、「been=worden」と機能的に対応し、「praised=gelobt」と機能的に対応している。

→ドイツ語には時間的過去を表す方法が、②過去基本形と③現在完了形の2種類あるので、「Viele Wälder wurden von den Menschen gerodet.:多くの森が人間たちによって伐採された」というふうに、「werden」を②過去基本形にすることによっても、過去についての受動文は作れる。

→例えば、「Es muss etwas unternommen werden, und zwar sofort.:何か手をうたなければならない、それも今すぐにだ」という文では、「es」は形式主語で、実質上の主語は「etwas」ということになる。このような形式主語を用いた受動態も存在する。

 

 

論点45.【分詞について:受け身の意味の過去分詞を「sein」と共に使うことが状態受動】☆

→そもそも、「ハーベン支配の動詞の過去分詞」の意味は「受け身の意味」になるが、「ザイン支配の動詞の過去分詞」の意味は「完了の意味」になる。英語でも、「interested man(興味深く思わされた男)」と「fallen leaves(落ち終わった葉っぱ)」の意味を比べれば同じことがわかる。そして、「ハーベン支配の動詞の過去分詞」の意味は「受け身の意味」になるのだが、これをザインと共に使うことを「状態受動」という。例えば、「verbieten」は「ハーベン支配の動詞」だが、「Das ist streng verboten.:それは固く禁じられている」とすることが状態受動である。

→そもそもドイツ語で現在分詞というのは、不定詞に「d」をつけて作る。例えば「spielen」は現在分詞にすると「spielend」になる。

→例えば「entscheiden:決定する」から「entscheidend」を作れば「決定的な」とか「決定的に」という現在分詞になる。

→「Wenn wir die Bilder der zerstörten Natur sehen, sind wir oft entsetzt.:破壊された自然の姿を見ると、私たちは愕然とする」という文において、「zerstörten」と「entsetzt」が過去分詞で、形容詞的に使われているから、語尾変化しているのがわかる。

 

 

論点46.【冠飾句:冠詞相当語句と名詞の間にかなり長い装飾がついた形容詞が来る現象】☆

→過去分詞や現在分詞は冠飾句がつきやすい。

→「Wir werden sicherlich viele für die Umwelt interessierte Menschen finden und mit ihnen zusammen arbeiten.:私たちはきっと多くの環境に対して関心を持つような人たちを見つけて、その人たちと一緒に仕事をするでしょう。」という文では「viele für die Umwelt interessierte Menschen」というところに冠飾句が使われている。

 


論点47.【接続法:間接話法だけがⅠ式もⅡ式も担当できる】☆

→接続法には常に、感情的な含意や留保が付着している。

→「❶接続法第Ⅰ式」は不定詞から作る。

→接続法を使うのは、3つの場面しかない。すなわち、「①引用符を使わない間接話法において、発言者の発言と被引用者との発言とを区別するとき」、「②要求話法のとき」、「③非現実話法で反実仮想をするとき」、この3つの場面である。

→ただ、この区別は「❶接続法第Ⅰ式」と「❷接続法第Ⅱ式」の担当領土分割と並行して理解する必要がある。というのも、①は❶と❷が担当し、②は❶だけが担当し、③は❷だけが担当するからである。

→例えば、「Er lernt.」ならば、単なる直接法だが、「Er lerne.」となると、「❶接続法第Ⅰ式」が使われていることが形からわかることになる。

→例えば、「Er sagte, er sei traurig.:彼は悲しいと言っていた」というのが①間接話法であり、「sei」に「❶接続法第Ⅰ式」が使われている。

→例えば、「Er mache sich ernsthaft Sorgen um die Zukunft der Erde.:彼は地球の将来が本当に心配だ(と言っていた)。」というのが①間接話法であり、「mache」に「❶接続法第Ⅰ式」が使われている。そしてこの「sich」は3格である。

 

 

論点48.【接続法過去】☆

→「❶接続法第Ⅰ式」の「①間接話法」を使って、「ペーターが来たそうだ」と表現すると、「Peter sei gekommen.」となる。これを「接続法過去」と呼んでいる。

→なぜ直説法においては必要だったのに、接続法においては、「⑴接続法過去基本形」とか「⑵接続法現在完了形」とか「⑶接続法過去完了形」などという概念は不要なのかを説明できた方がいい。接続法においては、「基準時と同時」なのか、「基準時より前」なのかという、いわゆる「相」だけしか問題にならならず、「基準時と同時」のことを「接続法現在」と定義し、「基準時より前」のことを「接続法過去」と定義しているのだから、「⑴接続法過去基本形」とか「⑵接続法現在完了形」とか「⑶接続法過去完了形」とかいう概念は、不要ということになる。なぜなら、「⑴接続法過去基本形」で言いたかったことはあくまでも「接続法過去」という、助動詞を使った複合形でいえばいい(=というのも、単純形がなくても、複合形で「基準時より前の時点で起きたこと」という「時点のズレ」までをも表現できるんだから、不都合はないから)のだし、「⑵接続法現在完了形」で言いたかったことも、「接続法過去」は「基準時より前に完了したこと」という「完了アスペクト」の意味も含んでいるのだから、あくまでも「接続法過去」でいえてしまうのだし、そして最後に、「⑶接続法過去完了形」で言いたかったことに関しても、直説法に置かれた伝達動詞自体が持つ時点指定を過去にしてしまえば、「基準時より前」の「基準時」自体が過去にズレるのだから、あくまでも「接続法過去」で言えてしまうということになるからだ。だから、「接続法過去」という概念だけあれば、⑴と⑵と⑶という概念は不要なのである。

→例えば、「Viele Wälder wurden von den Menschen gerodet.:多くの森が人間たちによって伐採された」というふうに、「werden」を②過去基本形にすることによっても、過去についての受動文を作った人がいたとする。これを引用しながら伝達するとどうなるだろうか。次のようになる。すなわち、「Außerdem sagte er, viele Wälder seien von den Menschen gerodet worden.:また、彼は「多くの森が人間たちによって伐採されてしまった」とも言っていた」という文である。さて、最初の文でヴェルデンの過去基本形が使われていたものが、この文のように伝達されると、「❶接続法第Ⅰ式」の「①間接話法」の「接続法過去」になっている。そして、この場合「seien」は出来事が起きた時点の基準時からのズレを表現していることになるのだ。そしてここいう基準時とは、伝達動詞である「sagte」が指定する時点であるから、過去時である。すると、この文で「seien worden」という「❶接続法第Ⅰ式」の「①間接話法」の「接続法過去」が表現している実質上の時点は「大過去」ということになるわけだ。

 


論点49.【条件節と帰結節の双方に「❷接続法第Ⅱ式」を使う反実仮想(=③非現実話法)】☆

→「❷接続法第Ⅱ式」は「直説法過去基本形」の母音にウムラウトをつけて作ることが多い。

→よく使う動詞以外の「❷接続法第Ⅱ式」の形を、人は覚えていないことが多いので、「werden」という助動詞を「❷接続法第Ⅱ式」に活用して「würden」にすることによって、その動詞の「❷接続法第Ⅱ式」として代用することが多い。

→「❷接続法第Ⅱ式」は「①間接話法」にも使うので要注意である。

→典型例としては、「Wenn das Wetter schön wäre, so ginge ich spazieren.:天気が良かったら散歩に行くのになあ」というのを覚えておけばいい。「wäre」と「ginge」が「❷接続法第Ⅱ式」であり、「❷接続法第Ⅱ式」の裏読みをすると、「実際には天気が良くないので、散歩には行けない」という意味になる。

→条件節と帰結節の順番を逆にすると、「Wir wären immer glücklich, wenn du nur mit uns zusammen wärst.:君が僕らと一緒にいてさえくれれば、僕らはいつも幸せなのになあ」となる。

→条件節を省略して帰結節だけになった「❷接続法第Ⅱ式」もありうる。例えば、「Ich würde hier noch länger bleiben, aber ich muss jetzt zurück.:(それが可能であるならば)もっと長くここにいたいんだけど、でも僕はもう帰らなくちゃならないんだ。」などがそうである。

→「Ich hätte eine Bitte.:(普通ではありえないことだとは分かっていますが、)ひとつお願いがあるんです」というのは③非現実話法の変形としての④婉曲話法と呼ばれるものである。これは、❷接続法第Ⅱ式にして直接性を殺ぐことで敬語のようにしているのだ。

→「Ich fühle mich, als ob ich zu eurer Familie gehören würde.:僕はまるで、あなた方の家族の一員であるかのような気持ちでいるんです。」などは、典型的な③非現実話法であるといえる。英語のアズイフ構文と同じである。ここでは、❷接続法第Ⅱ式に動詞を活用するのではなく、あえて「würde」を使っている。

 

 

論点50.【話法の助動詞の意味の第二系列の接続法第Ⅱ式は非常によく使われる】🆗

→話法の助動詞の意味には、第一系列の根源用法の意味に加えて第二系列の認識用法の意味があった。

→話法の助動詞の第二系列では、話者の推量や判断が前景化するので、それをさらに接続法第Ⅱ式にすると婉曲的な情感表現を表すようになるのだ。

→そしてその話法の助動詞の第二系列の接続法第Ⅱ式には以下のような形がある。すなわち、「dürfte:かもしれないです」「könnte:であり得ます」 「möchte:したいです」「müsste:であるはずです」「sollte:条件文で、〇〇というようなことが万が一あるなら」などである。ただし、これらのうち、「sollte」には母音にウムラウトがついていないことにも注意しよう。

→また、「sollte」を理解するのは非常に難しく、次のような脅迫とか勧告とも取れる用法もある。すなわち、「Jeder Deutschlehrer sollte dieses Buch gelesen haben.:ドイツ語教師ならば、だれでもこの本を読んでいなければならない」とか、「Du solltest lieber jetzt gehen. Sonst kommst du in die Dunkelheit.:もう出かけたほうがいいのに。そうしないと夜道になるよ」などである。

 

 

付録.【単語をまずこれだけは確認しておかないとテキスト読めない】☆

【〼】neugierig:好奇心旺盛

【〼】rechnen:計算する

【〼】lustig:面白い

【〼】der Mund:口(男性名詞)

【〼】das Auge:目(中性名詞)

【〼】die Nase:鼻(女性名詞)

【〼】Die Brille:メガネ(女性名詞)

【〼】langweilig:つまんない

【〼】etwa:ひょっとして

【〼】Karte:地図(女性名詞)

【〼】Erde:地球(女性名詞)

【〼】Mars:火星(男性名詞)

【〼】heiß:暑い

【〼】weit weg von et³.:から遠く離れて

【〼】Loch:穴

【〼】Blume:花

【〼】gefallen:気にいる

【〼】tatsächlich:本当だ

【〼】nett:可愛い

【〼】Unterricht:授業

【〼】stören:邪魔をする

【〼】unsichtbar:透明な

【〼】Aber so:でもこうすれば

【〼】so:こうすれば

【〼】wach:目が覚める

【〼】Regen:雨

【〼】trotzdem:それでも

【〼】außerdem:その上

【〼】Kopfschmerzen:頭痛

【〼】sogar:それどころか

【〼】nah:近い

【〼】zwitschern:さえずる

【〼】rennen:走る

【〼】traurig:悲しい

【〼】schaffen:やり遂げる

【〼】Heimweh:ホームシック

【〼】brav:おとなしい

【〼】schon:きっと

【〼】Lebewesen:生き物

【〼】nur:ただし

【〼】sollen:主語は本動詞をするように言われている

【〼】reiten:乗る

【〼】Wüste:砂漠

【〼】sicher:きっと

【〼】unbedingt:どうしても

【〼】gebrauchen:使う

【〼】Vorsicht:気をつけて!

【〼】laufen:走る、歩く

【〼】sonst:さもないと

【〼】schaukeln:揺れる

【〼】Gepäck:荷物

【〼】tragen:運ぶ

【〼】he:おい

【〼】Fluss:川

【〼】einfach:ふつうに

【〼】Achtung:気をつけて!

【〼】Frühstück:朝食

【〼】holen:取り出す

【〼】retten:救う

【〼】versprechen:約束する

【〼】dicht:そばに

【〼】benachrichtigen:通報する 

【〼】Dummheit:馬鹿なこと

【〼】böse:怒っている

【〼】Handtuch:タオル

【〼】noch einmal:もう一度

【〼】edel:高貴な

【〼】peinlich:みっともない

【〼】Herkunft:血筋

【〼】gute Besserung:お大事に(gutに4格の強変化語尾がついている)

【〼】Vielen Dank:ありがとう(vielに4格の強変化語尾がついている)

【〼】Gute Nacht:おやすみ(gutに4格の強変化語尾がついている)

【〼】gemein:人の不幸を喜ぶ

【〼】verzeihen:許す

【〼】schrecklich:強い

【〼】Rock:スカート

【〼】fit:元気

【〼】irgend:何か、誰か

【〼】Geburtstagskind:誕生日を迎えた人

【〼】denn:なの?

【〼】wichtig:重要である

【〼】Komm!:さあ!

【〼】wenig:少ない

【〼】erst:やっと

【〼】Freude:喜び

【〼】Pflanze:植物

【〼】Kartoffeln:ジャガイモ

【〼】prima:素晴らしい!

【〼】basteln:組み立てる

【〼】zuerst:まず最初に

【〼】auspacken:袋を開ける

【〼】feiern:祝う

【〼】solch:このような、そのような

【〼】alles:(疑問文で)いったい

【〼】Erfolg:成果

【〼】bisher:今のところ

【〼】nämlich:というのも

【〼】mitten:真ん中で

【〼】Zusammenhang:関係

【〼】untersuchen:研究する

【〼】seltsam:不思議な

【〼】Was für:どんな種類の、なんて

【〼】schon wieder:またもや

【〼】Hütte:小屋

【〼】zufriedenes:満足して

【〼】Forschung:研究

【〼】manchmal:時々

【〼】Herein!:(ドアのノックに応えて)お入りください!

【〼】aufs:前置詞aufと定冠詞dasの融合形

【〼】also:ということは、さては

【〼】überraschen:驚かせる

【〼】betreffen:関係する

【〼】ernsthaft:真剣に

【〼】selten:めったにないような

【〼】Stelle:場所

【〼】belasten:負担をかける

【〼】bequem:ラク

【〼】verkaufen:売る

【〼】preiswert:安く

【〼】lohnen:するに値する

【〼】So:さあ!どうぞ!

【〼】Dorf:村

【〼】hübsch:可愛い

【〼】Ernte:収穫

【〼】umgekehrt:逆である

【〼】stolz:誇らしい

【〼】täglich:毎日の

【〼】erleben:体験する

【〼】Flugzeug:飛行機

【〼】aussteigen:降りる

【〼】dort drüben:あっちの方

【〼】massenhaft:大量に

【〼】Sauerstoff:酸素

【〼】Eben:その通り、まさしく、いかにも

【〼】wiederholen:繰り返す

【〼】und zwar sofort!:それも今すぐにだ!

【〼】erobern:征服する

【〼】immer mehr:いよいよますます

【〼】roden:開墾する

【〼】herstellen:生産する

【〼】zunehmend:ますます

【〼】Luft:空気

【〼】gemeinsam:一緒に

【〼】verschmutzen:汚染する

【〼】kämpfen:戦う

【〼】hoffentlich:願わくは、のぞむらくは

【〼】leb wohl:お達者で!

【〼】ernsthaft:真剣な

【〼】erst mal:とにかくまずは

【〼】ankommen:到着する

【〼】meinen:言う

【〼】retten:救う

【〼】schimpfen:叱る

【〼】O je:あーあなんてこった。

【〼】Um Gottes willen!:まさか、とんでもない

【〼】Muss das sein?:どうしてもそれが必要なのか?,やめるわけにはいかないのか

【〼】nur:とにかく

フィルム・ノワールを速攻で整理

⑴.【フィルム・ノワールとは何か】
 「フィルム・ノワール」とは、1940年代から1950年代のアメリカのモノクロ犯罪映画を、フランス人の批評家が指して、作った概念である。狭義のフィルム・ノワールは、「1941年の『マルタの鷹』から1958年の『黒い罠』までのモノクロ犯罪映画群」と定義されている。『裸の町』(1948年)、『第三の男』(1949年)、『現ナマに体を張れ』(1956年)あたりの映画を見ておけば実際にはこれらがどういう映画かについてのイメージは掴めるだろう。フィルム・ノワールの特徴はファム・ファタルという男を破滅させる女が出てくることである。犯罪映画といえば「魔性の女」が出てくるというステレオタイプがあるのは、フィルム・ノワールのせいである。画面は全体的に暗く、夜が多いので、フィルム・ノワールという名前がついたと言われている。フィルム・ノワールの雰囲気を知るにはまずは滝本誠の『渋く、薄汚れ。ノワール・ジャンルの快楽』という本を読めばいい。その次に吉田広明の『B級ノワール論――ハリウッド転換期の巨匠たち』を読めばさらに理解を深めることができる。どちらも図書館で借りることができる。ちなみに、日本の映画監督だと、石井隆監督の初期作品群(特に『天使のはらわた』の名美と村木など)がノワール的だと言われている。フィルムノワールは以下の三大要素に分けて記述することができる。まず第一に、「①ドイツ表現主義」、そして第二に、「②ファム・ファタル表象」、そして第三に、「③ハリウッド裏面史」である。

 

⑵.【「ドイツ表現主義」の残響】
 1940年代は、ナチスの台頭によって、ドイツの「ウーファ撮影所」から優秀なユダヤ人の映画業界の人材が流出した時代である(いわゆる「ヒトラーの贈り物」)。第二次世界大戦以前は、世界最高の映画の国といえば、断然ドイツで、『メトロポリス』というフリッツ・ラング監督の映画などはもはや並ぶものがないほどの大傑作で、まさにこの映画なんかを作っていたのが、ドイツの「ウーファ撮影所」だったのだ。アメリカのフィルム・ノワールは、ドイツから逃げてきた亡命ユダヤ人が作った潮流で、それがヨーロッパで評価されたという奇妙な来歴の運動なのである。例えば、①フリッツ・ラングも、②オットー・プレミンジャーも、③ビリー・ワイルダーも、ドイツ系ユダヤ人の亡命してきた人々である。だから、亡命してきたユダヤ人は『カリガリ博士』(1920年)などで顕著な、当時のドイツ表現主義アメリカに持ち込んだ。「主人公すら自分の思考を信用できず、世界が主人公の不安に相即して歪んで壊れていく」という話が『カリガリ博士』の世界観だったのだ。これが、今度は犯罪映画の中に持ち込まれたのである。こうしてフィルム・ノワールの発生の土壌のひとつが整備された。

 

⑶.【1950年代的ファミリー像が隠蔽していたもの:「ファム・ファタール」の発生条件】
 さらにもうひとつ、フィルムノワールの重要な要素として、ファム・ファタールの存在があげられる。これはどのように発生したのだろうか。そもそもフィルム・ノワールが映画館で上映されていた時代、「1950年代的なアメリカンファミリー像」というものがあった。すなわち、「ママはホットケーキを作り、パパは会社で立派に仕事をしていて、ボクの家のお庭には、大きな犬がいる」というような家庭像である。これは第二次世界大戦後のアメリカで称揚された家庭像である。では、このような家庭像が称揚されたのはなぜかというと、戦争中に女性の社会進出が進んだからである。戦争中に女性の社会進出が進んだから、兵隊たちがまた戦後になって復員してくると、女性を再び家庭に押し返さなければならなくなり、これに利用されたのがこの家庭像だったのである。戦後、このような家庭像が称揚されたのは、「女性に仕事を奪われるのではないか」という男性たちの不安感の表れだったのである。この種の家庭像が称揚される一方で、同時に男性はその崩壊を恐れていた。そうした潜在的な力が女性にはあると気づいたからである。こうしてフィルム・ノワールに特有の「女性恐怖」が出てくるのである。1950年代に働いている男たちにとっては、強い女性にふらふらとついて行くことは、①当時称揚されていた守るべき家庭を破壊するかもしれない誘惑であり、②女性は潜在的に自分の仕事を奪うかもしれないという意味でも恐怖であったのだ。これがファム・ファタル表象の発生の土壌であり、それがそのままフィルム・ノワールの一要素でもあった。。現代でもファム・ファタルのようなものが執拗に出てくる映画が存在しており、『白いドレスの女』(1981年)のキャスリン・ターナーの女性像や、『蜘蛛女』(1993年)のレナ・オリンの女性像などが、そうである。

 

⑷.【「ハリウッド裏面史」という主題系】
 そしてさらにフィルム・ノワールを特徴づけるのが、「ハリウッドの裏面史」というテーマである。ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』という本に詳しく書かれている通り、1950年代のゴシップ・メディアの登場によって、「ハリウッドのキラキラした銀幕の裏には、ただれてギラギラした欲望の世界」があるはずだ、ぜひそれを見たいという欲望が、掻き立てられていったのである。『サンセット大通り』にその典型が見られる。「往年の名女優が、大恐慌を経て落ちぶれ、奇怪な蝋人形のようになって、かつての監督を使役しながら、夜な夜なパーティを繰り広げている」などというような形象が典型的に「フィルム・ノワール的なもの」なのである。こうしてフィルム・ノワールの作品群には、「美しい世界の裏にはただれた世界があるはずで、そこでは黒々とした欲望が黙々と動き続けているはずだ」というテーマがはっきりと現れてゆく事になる。フィルム・ノワールの世界では、大人の手に負えないただれた愛欲が、全てをぶち壊しにすることが多い。近親相姦や殺人など、若者のいたずらのような悪さではない「大人の悪さ」、「腐敗しきった正真正銘のもはや手に負えない、たちのわるさ」が描かれるのがフィルム・ノワールなのである。主人公の倫理性すら信用できない。というのも、ハードボイルドとノワールは全く違う。ハードボイルドの探偵役といえばハンフリー・ボガードであるが、主人公であるその探偵が、騎士(=ダークナイト)として汚れた街を歩くのがハードボイルドで、騎士だったはずの主人公がただれた世界を歩いているうちに自分も、ただれていくのが、ノワールなのである。

 

⑸.【フィルム・ノワール理解のための具体的な映画たちを年代順で並べる】

 

⑸-①.[ビリー・ワイルダー監督『深夜の告白』(1944年)]
 →ビリー・ワイルダーといえばコメディ映画の監督だが、『深夜の告白』と『サンセット大通り』は傑作ノワールである。『深夜の告白』では、悪女バーバラ・スタンウィックの美脚が見えた瞬間に即座に奈落へと落ち始め、女に飜弄される自動車保険の調査員の男フレッド・マクマレイの姿が見られる。

 

⑸-②.[オットー・プレミンジャー監督『ローラ殺人事件』(1944年)]
 →オットー・プレミンジャーは日本では『悲しみよこんにちは』の監督かもしれないが、フィルム・ノワールも撮っている。ファッションデザイナーの女性であるローラが映画冒頭で殺される。この殺人事件の捜査をしているうちに、死人に惚れてしまった刑事が、その死人ローラによく似た女性の登場によって奈落に落ち始める。『ブルーベルベット』や『マルホランド・ドライブ』からもわかる通り、ノワール的な世界観を愛しているのデヴィット・リンチ監督だが、『ツインピークス』における「ローラ・パーマー」の造形にも影響を与えているのがこの作品である。

 

⑸-③.[フリッツ・ラング監督『飾り窓の女』(1944年)]
 →『飾り窓の女』はわかりやすいフィルム・ノワールである。エドワード・ロビンソン演じる犯罪学者の大学教授が、街のショーウィンドウにかかっていた肖像画に見惚れていると、そこにその肖像画のモデルが現れる。そしてそのジョーン・ベネットが演じるモデルの家に誘われて、モデルの家までついていくと、そのモデルの女の家に、その女のヒモが帰ってきて、そのヒモの男と揉み合っているうちに、大学教授は女のヒモを刺して、殺してしまうのだ。絵を眺めていた大学教授が、5分後には殺人者になってしまい、どうしようという展開の『飾り窓の女』は、典型的なフィルム・ノワールであるといえる。この作品内では、主人公の友達の検事が、殺人捜査の進行を主人公に語り聞かせることが主人公の焦りを加速させていく。

 

⑸-④.[フリッツ・ラング監督『緋色の街/スカーレット・ストリート』(1945年)]
 →❶フリッツ・ラングと❷エドワード・ロビンソンと❸ジョーン・ベネットという3人組でもう一回撮ったのがこの作品である。エドワード・ロビンソン演じる普段は会計士をやっている日曜画家と、その絵のモデルのジョーン・ベネットの話である。ここでもまたファム・ファタルを演じたジョーン・ベネットは、実生活でも浮気性で、男を狂わせる女だったことで有名である。実際に、ウォルター・ウェンジャーという有名映画プロデューサーと結婚していたベネットは浮気を繰り返したことで、怒り狂ったウェンジャーが間男を撃ち殺そうとした、という事件があった。ジョーン・ベネットは、『嘆きの天使』(1930年)のマレーネ・ディートリッヒ以来の正統派のファム・ファタルであると言える。

 

⑸-⑤.[オーソン・ウェルズ監督『上海から来た女』(1947年)]
 →女優リタ・ヘイワースがいわゆる「プラチナブロンド」のファム・ファタルを演じたことが有名で、『燃えよドラゴン』の「鏡の間」のモデルになった部屋が出てくる映画が、この映画である。悪徳のアメリカ人保安官のクインランを監督のオーソン・ウェルズ本人が演じている。映画のストーリーは、メキシコ国境で起きる話で、チャールトン・ヘストン演じるメキシコ人の麻薬捜査官と保安官のクインランが主要登場人物である。保安官のクインランは、アメリカ人で、差別主義で、悪徳のかぎりをつくし、証拠も捏造するよるな最低の保安官なのだが、しかし、当てずっぽうと思い込みで言っていることが全部あっていた、という絶望的な話なのだ。最低最悪の人間であるクインランを、麻薬捜査官のチャールトン・ヘストンは汚い手を使って倒してしまうのだが、倒されたクインランの思い込みが全部正しかったという話なのだ。正義と悪の境界がどんどん揺らいでいき、混沌としてクラクラするような、不安な話なのだ。オープニングの長回しが有名で、オーソン・ウェルズの愛人をマレーネ・ディートリッヒが演じている。ヒッチコックの『サイコ』にも影響を与えていると言われている。

 

⑸-⑥.[ビリー・ワイルダー監督『サンセット大通り』(1950年)]
 →『サンセット大通り』ではグロリア・スワンソンがかつての大女優の役で、そしてエリック・シュトロハイムがかつての大監督という役で出てくる。つまり、虚実の境目が曖昧になる作品なのだ。そして、「死人のナレーションで始まる」というのも『サンセット大通り』の語り口の有名な特徴である。

 

⑸-⑦.[カール・ライナー監督『スティーブ・マーティンの四つ数えろ』(1982年)]
 →『四つ数えろ』は、『三つ数えろ』のパロディ映画である。つまり、『スティーブ・マーティンの四つ数えろ』はサンプリングだけでできているコメディ映画である。つまりこの映画は、『深夜の告白』など、30本以上のフィルム・ノワール映画が切り貼りされて作られている。

 

⑸-⑧.[アラン・パーカー監督『エンゼルハート』(1987年)]
 →この映画は、若い頃のミッキー・ロークが演じる私立探偵が、ロバート・デニーロ演じる金持ちに人探しを依頼され、女と関係を持ちつつ、混乱の中で地獄の底まで落ちて行くことになる、という映画である。舞台がLAではなくニューオリンズであることが、フィルム・ノワールとしては新しい造形になっている。

 

⑸-⑨.[ブライアン・デ・パルマ監督『ブラックダリア』(2006年)]
 →ジェイムズ・エルロイの原作小説を映画化したのが『ブラックダリア』である。女性の惨殺死体の調査をしていた刑事が奈落に引き摺り込まれて行くのが、この映画である。❶『ブラック・ダリア』(1987年)、❷『ビッグ・ノーウェア』 (1988年)、❸『L.A.コンフィデンシャル 』(1990年)、❹『ホワイト・ジャズ』 (1992年)というジェイムズ・エルロイの「暗黒LA4部作」を読むのと合わせて、この映画を見るとさらに面白い。同じく、レイモンド・チャンドラーの原作小説があるフィルム・ノワール映画といえば、『さらば愛しき女よ』(1975)も大傑作である。

 

⑸-⑩.[ポール・トーマス・アンダーソン監督『インヒアレント・ヴァイス』(2014年)]
 →トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』を原作に作られたネオ・ノワール映画。現代にフィルム・ノワールを蘇らせた傑作である。

西洋音楽史

0.【クラシック音楽史がわかるリスト】

①構築的音楽の始祖にして至高のバッハ作曲「トッカータとフーガ」
②構築的音楽の始祖にして至高のバッハ作曲「ガヴォット」
③構築的音楽の始祖にして至高のバッハ作曲「主よ、人の望みの喜びよ」
④娯楽音楽の父ハイドン作曲「交響曲第100番「軍隊」」
⑤娯楽音楽の父ハイドン作曲「ピアノ・ソナタ第50番」
⑥メロディーメーカーモーツァルト作曲「歌劇「フィガロの結婚」序曲」
⑦メロディーメーカーモーツァルト作曲「アイネクライネナハトムジーク
⑧メロディーメーカーモーツァルト作曲「歌劇「魔笛」夜の女王のアリア」
⑨貴族のBGM職人ではない音楽家ベートーヴェン作曲「ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」」
⑩貴族のBGM職人ではない音楽家ベートーヴェン作曲「交響曲第6番「田園」」
⑪ピアノの詩人ショパン作曲「英雄ポロネーズ
⑫ピアノの詩人ショパン作曲「ノクターン
⑬ピアノの詩人ショパン作曲「幻想即興曲
⑭ピアノの魔術師リスト作曲「ラ・カンパネラ」
⑮映画サントラ音楽の始祖ワーグナー作曲「ワルキューレの騎行
⑯映画サントラ音楽の始祖ワーグナー作曲「歌劇「タンホイザー」序曲」
⑰音だけで何ができるかを追求する絶対音楽ブラームス作曲「交響曲第1番」
⑱音だけで何ができるかを追求する絶対音楽ブラームス作曲「交響曲第3番」
⑲国民音楽派のドボルザーク作曲「交響曲第9番「新世界から」」
⑳地域密着音楽のスメタナ作曲「交響詩モルダウ」」
ノルウェーグリーグ作曲「ピアノ協奏曲」
㉒ロシアのチャイコフスキー作曲「ピアノ協奏曲第一番」
㉓現代アンビエントジャズ音楽の始祖ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女
㉔現代アンビエントジャズ音楽の始祖ドビュッシー作曲「月の光」
標題音楽派のリヒャルト・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラはこう語った
標題音楽派の完成者コルンゴルト作曲「ロビン・フッドの冒険」

 


1.【アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)】
ヴィヴァルディ(1678-1741)の『春』は「リトルネロ」という形式が有名である。「リトルネロ形式」とは、ある旋律が曲の中で何度も繰り返される形式のことである。


2.【ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)】
ヴィヴァルディをモデルにして曲作りをしていたとされるのがヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)である。ただし、バッハは、それまでの伝統的な「グレゴリオ聖歌」以来のポリフォニー的音楽と、新しいプロテスタント的な「コラール」を融合していた点で、既にして同時代の中で圧倒的に異質であった。バッハは近代音楽の父であるとされるだけでなく、後世に何度もバッハのリバイバルが起きているほど複雑な構成を独自開発していた「原点にして至高の人」である。しかし、当時は「教会音楽をいまだにやっているなんて古臭い」とか思われており、同時代人的には、カール・フィリップエマヌエル・バッハというJ.S.バッハの息子の方が有名なくらいであった。このバッハと生没年がほぼ同じなのが8代将軍の徳川吉宗である。ヨハン・ゼバスティアン・バッハがどれほど複雑で奥が深いことをやっていたのかということは、むしろ死後に再評価が進む中でようやく理解されてきたのである。現代音楽にさえバッハは多大な遠隔的影響を与えている。


3. 【ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)】
バッハの次の世代が、ヘンデル(1685-1759)とハイドン(1732-1809)なのである。ヘンデルは、イギリス王室が絶えたので、イギリスにドイツのハノーファーから英語が喋れない王様(=一応親戚ではある王様)が連れてこらえたのだが、そのジョージ1世に連れられてロンドンにきた音楽家であった。ヘンデルは『メサイア』という大合唱の音楽を作った。


4.【フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)】
ハイドンは「交響曲」を作った人でオーケストラの父でもある。そもそも「オーケストラ」とは何かということをざっくり言うと、①第一ヴァイオリンと②第二ヴァイオリンと③ヴァイオリンよりも大きいヴィオラ、④股に挟んで立てて弾くチェロ、⑤チェロよりさらに大きいコントラバス、⑥フルートが2つ、⑦オーボエが2つ、⑧クラリネットが2つ、⑨ファゴットが2つ、⑩ホルンが2つ、⑪トランペットが2つ、⑫ティンパニーが1つ、というような感じの楽器編成からなる演奏形態のことである。そしてこのハイドンの弟子がベートーヴェン(1770-1827)なのである。当時のハイドンはハプスブルグ帝国の宮廷音楽家としてはもう食べられなくなっていたので、ロンドンで稼いでいたのだが、その帰路にハイドンがボンを通った時、ボンに住んでいたベートーヴェンハイドンに弟子にしてもらいに会いに行くのである(ベートーヴェンはのちに、上記のような「オーケストラのハイドンによる楽器編成」の中に、大音量が出るので本来は野外で使っていたはずのトロンボーンという楽器を加えたことも覚えておこう)。このハイドンがかつて雇われていたのは、ハプスブルク帝国の大貴族であった「エステルハージ家」で、この家はもともとハンガリーオスマン帝国と戦う際に最前線に立つような「戦闘貴族」などと呼ばれた家系であった。ここに雇われ、専属のオーケストラを持って、エステルハージ家のために作曲するのが、ハイドンの前半の音楽家としてのキャリアだったのだ。しかし、このハイドンでさえ、晩年は市民の台頭により貴族の力が相対的に弱まってきたので、エステルハージ家からはもうお金がもらえなくなってしまう。ハイドン交響曲に『驚愕』というものがあるが、その曲の中にはロンドン市民が彼の曲を聴きながら寝ているので、彼らを起こそうとしているとされる部分がある。


5.【ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(1756-1791)】
ハイドンの次の世代が、モーツァルト(1756-1791)であった。モーツァルトの父親はレオポルト・モーツァルトで、ザルツブルク大司教に雇われた音楽家であった。このレオポルド・モーツァルトは、ヨーロッパのアンシャン・レジームが続くことを疑わず、息子もどこかの王や貴族、教会などからいずれ金がもらえるように、息子の就職活動などをしていた人であった。ヴィヴァルディとバッハの時代を「バロックの時代」と呼び、ハイドンモーツァルトベートーヴェン(と場合によってはシューベルト)の時代を「ウィーン古典派の時代」という(ちなみに、ブラームスショパンシューマンとリストとベルリオーズワーグナーなどの時代が「ロマン派の時代」である。さらにその後にはドビュッシーのような、ワーグナーの影響下にある音楽家たち、それもナショナリズムが台頭してくる時期の音楽家たちの時代が続いていくとざっくり覚えておくとよい)。バロック時代の特徴は前述した通り「リトルネロ形式」であり、古典派の時代の特徴は「ソナタ形式」である。「ソナタ形式」とは、「序奏→提示→展開→再現→結尾」という順番で主題が「提示部」と「再現部」とに現れるような形式である。前述した年上のハイドンは、モーツァルトのことを大尊敬していた。ハイドンの人生は完全にモーツァルトの35年間の人生を包含しているのも面白い。さて、モーツァルトは5歳でデビューした天才である。モーツァルトの第39番と第40番と第41番が「三大交響曲」である。交響曲の第41番『ジュピター』は軍隊行進曲で、オスマン帝国とちょうどまた戦争を始めた時につくっていて、軍楽が流行っていたのに合わせているとされている。モーツァルトはできるだけキャッチーに、流行に合わせて音楽を作るタイプである。当時のハプスブルク帝国は、プロイセンオスマン帝国に対抗して、軍の近代化を推し進めていて、国民国家を作ろうとしていたから、街は軍楽で溢れていた。モーツァルトはそのような時代の雰囲気を敏感に感じ取っていて、世俗的でウケるものを作ろうとしていたのである。トルコ行進曲もそのような狙いを汲み取ると理解しやすい。ハイドンは理詰めで音楽を作るタイプであったが、モーツァルトはもっと直感的で人を喜ばせるメロディーを次々にメドレーのように繋げて作るタイプであった。モーツァルトはイタリア語でやるのが普通であったオペラをドイツ語でやってしまったという点でも先駆性がある。具体的には、歌芝居に曲をつけた『魔笛』がそれである。そもそもオペラの歴史は1598年から始まる。フィレンツェの「カメラータ」という古代ギリシア劇の研究グループからオペラが生まれたと言われている(オペラといえばヴェルディプッチーニロッシーニなどであるがここでは関係ないので省略する)。しかし、オペラといえばイタリアオペラという固定観念があったのだ。なお、非常に有名なモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」という曲は、「セレナード」といって、これはあくまでも20世紀に見つかったものであり、同時代人はこの曲を知らなかったであろうと言われている。「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」は5楽章あったはずだが、そのうち1楽章分はいまだに行方不明である。第三楽章が有名なモーツァルトの「トルコ行進曲」の第二楽章の楽譜も、ごく最近発見されたばかりである。モーツァルトの時代、まだ音楽家は宮廷専属料理人くらいの地位だったから、楽譜が正確に残りづらいのである。いわば、モーツァルトの音楽は、その場かぎりでの「消え物」として消費されてしまっていた場合も多かったのである。

6.【ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)】
ベートーヴェン(1770-1827)は「新しいモーツァルト」、つまり第二の神童としてデビューした。ハイドンの弟子でもあった。ただし、モーツァルトベートーヴェンは直接には会っていないそうだ。というのも、ベートーヴェンが22歳の時にモーツァルトが死んでしまうからである。モーツァルトはあくまでも職人として注文どおりに期待通りウケがいいものを作る人であったが、ベートーヴェンは「自分が作りたいように作る」というスタイルを確立してしまった。モーツァルトベートーヴェンの生まれた年はたった14年間しか違わないのに、そこで「音楽家」というものの立ち位置は完全に「職人」から「芸術家」にまで一気に上昇したのである。ベートーヴェンについては、「エロイカ的飛躍」という言葉が有名であり、ベートーヴェン交響曲第3番、いわゆる「英雄交響曲」から異常な天才性を見せることをこのように表現するのである。ベートーヴェン交響曲第五番が有名な「運命」である。ベートーヴェンがすごいのは、モーツァルトと違って素晴らしいメロディをたくさん思いついたりしないことであった。つまり、「ジャジャジャジャーン!」という唯一のモチーフの変奏だけでとてつもない大交響曲を作るようなタイプだったのである。モーツァルトが「無数の新鮮な素材で最高の料理を作るタイプ」だとすると、ベートーヴェンは、「素材にこだわり続け、大根1本でフルコースを作ってしまうようなひと」であった。そしてベートーヴェン交響曲第6番がいわゆる「田園」である。交響曲第五番の厳しい曲調のいわゆる「運命」を好むか、交響曲第六番のくつろいだ曲調の「田園」を好むかで、のちの音楽家の好みが分かれる大問題となった。この「運命交響曲」と「田園交響曲」は同じ時期に作られたがために「双子の交響曲」と呼ばれている。ベートーヴェンは9曲だけしか交響曲を作らなかった。その最後があの有名な「第九」である。作詞したのは大文豪フリードリヒ・シラー(=ゲーテと同じ時に同じ街に住んでいた大文豪)である。ロシアのバクーニンというアナキストでさえ、「第九は残すべきだ」と言ったという。「第九」は、最初から最後まで弾くと70分かかる長大な曲である。「CD」というものの規格の長さを決めるときに有名な指揮者のカラヤンが『第九』が入る長さにしてほしいと言ったため、74~75分のCDの長さの規格ができたという有名なエピソードもある。ベートーヴェン「第九」でも「①自由と②平等と③博愛」というフランス革命の精神がひたすら謳われており、18歳から晩年に至るまで、ベートーヴェンはひたすらフランス革命の子であった。実際、ベートーヴェンの作ったオペラ『フィデリオ』は、合唱のオペラであり、主役は完全に合唱に食われており、もはやそこでは、「群衆」が主人公になっているのである。「第9」だけでなく、『ミサ・ソレムニス』だって、大合唱を取り入れている。さらにベートーヴェンは演奏技術も大きく変えていった。例えば、ベートーヴェンが生きている時代の最大のヒット作といわれたのは『戦争交響曲 ウェリントンの勝利』で、これはナポレオン軍がスペインで負けた時のイギリスのウェリントン将軍をたたえ、その戦闘を描写した曲であるが、この曲では、「実際に鉄砲を撃つ」ことで鉄砲の音を使うことまで楽譜に指定しているのだ。ベートーヴェンの友人にメルツェルという技師がいて、メトロノームをつくったり、耳が聞こえなくなったベートーヴェンの補聴器をつくってくれていた。そしてメルツェルには機械じかけの自動楽器まで発明させていたのである。とにもかくにも、ピアノソナタ『悲愴pathétique』は必聴である。


7.【ヨハネス・ブラームス(1833-1897)】
ベートーヴェン以降」が、「ロマン派」である。ロマン派はベートーヴェンの運命交響曲と田園交響曲のどちらをモデルにするかという問題で激論を交わしていた。運命交響曲は抽象的で理屈っぽくて構築性の高い音楽であった。それを模範としたことで、「絶対音楽派」と呼ばれたのがブラームスであった。ブラームスベートーヴェンを意識しすぎて初めて交響曲を書いたのは40歳を過ぎてからであった。ブラームス交響曲第1番は、あまりにもベートーヴェン交響曲第5番に似ていたため、「ブラームスの第1番はベートーヴェンの第10番である」とまで言われてしまったのである。しかし、ウィーンにいたブラームスがエキゾティシズムから「ハンガリー舞曲」を作るというのはこの時期にハプスブルク帝国の内部での民族意識の高揚を示している。このような流れから、チェコだったらドヴォルザークスメタナが出てくるし、ハンガリーだったらエルケルといった作曲家が出てくるのである。


8. 【エクトル・ベルリオーズ(1803-1869)】
ブラームスのような「絶対音楽派」に反して、ベートーヴェン交響曲第六番である田園交響曲を重視したロマン派すなわち「標題音楽派」の代表が、ベルリオーズ(1803-1869)であった。代表作は『ファウストの劫罰(ごうばつ)』とか『ロメオとジュリエット』などである。ベルリオーズはあるメロディとその意味とを対応させる「固定楽想」という手法を考案したことで有名である。要するに、ある曲調とある感情とを対応させていったのである。例えば7月革命に刺激されて作られたベルリオーズの『幻想交響曲』の第4楽章では、ギロチンが落ちて首が飛ぶようなシーンまで音で描く。『幻想交響曲』には、今述べたように第4楽章「断頭台への行進」という場面があるのだが、続く第5楽章は「魔女の宴会」としてつくられており、これはまさに革命暴動であり、無秩序と大混乱の音楽である。このアヘン中毒を思わせる大混乱の音楽が、後にムソルグスキーボロディンなどの「ロシア5人組」に影響を与えていくのである。このようなベルリオーズの曲作りを可能にしたのは、ゴセックやドヴィエンヌ以来、フランスで発達していた管楽器の伝統であった。実際、現代でも「パリ音楽院」は今でも管楽器が看板部門である。


9.【リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)】
ベルリオーズからさらに進んでワーグナー(1813-1883)は、「つるぎ」に対応するメロディ、「不機嫌」に対応するメロディなど、意味と対応する音楽を作っていった人である。実際、恋人が出てくるオペラ上の場面で「兄妹」の音楽をあえて流すことで、実際には恋人たちが兄妹であることを暗示したりできるわけである。「ワルキューレの騎行」のシーンにおいては、9人姉妹の女性騎士軍団の「馬のギャロップ」の音楽をかけている。このようなワーグナーの発明は現代においては、ダースベーダーが出てくると「ダースベーダーのテーマ」が流れるというような、そういうスペースオペラの走りだといえる。このような技法をライトモチーフ(示導動機)という。また、ワーグナーは何調だか分からない曲を作ること、つまり「調性からの離脱」というのを成し遂げてしまった。つまり、何調か分からない曲(=いつまで経ってもイ短調へと収束していかないので煮え切らない曲)を『トリスタンとイゾルデ』の最初において作り始めたのである。これは現代音楽的な「無調」というものへの入り口であった。ちなみにこの『トリスタンとイゾルデ』を作曲中、ワーグナーはスイスにいたヴェーゼンドンク夫人と不倫をしていた。これはトリスタンとイゾルデが敵同士であったのに媚薬のせいで恋愛関係にあるという、煮え切らない悶々とした設定とシンクロしていた。全体的に、ワーグナーの音楽は非常に油っぽい。また、ワーグナーのオペラは当時パリのオペラ界を席巻していたユダヤ人のジャコモ・マイアベーアのオペラに対する反動という側面が一定程度ある。例えば、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』というオペラは4夜連続で見なければ終わらない長大な作品である。こういう作品を、パリのオペラ座みたいなところでやると、街中にあるから、そばにおいしいレストランがあるので、途中で食事をしにいってしまう。マイアベーアならそれでも良しとするかもしれないが、ワーグナーはそんなことは許せない。だから、ご飯を食べにいけないところでやることにした。それで、山奥の「バイロイト」でやることにしたわけだ。つまり、ワーグナーは、マイアベーアのようにコスモポリタンなものを目指したりはせず、ドイツ人のためのドイツのオペラ、「民族性が凝集された芸術」が、ドイツ語でつくられることを目指したのである。ワーグナーは、パリとマイアベーアがコスモポリタニズムに結びつけた「グランド・オペラ」を、ユダヤを仮想敵にしつつドイツ語による「グランド・オペラ」へと方向転換させたのである。ワーグナーのオペラは、遅れて近代化を目指すドイツがドイツ帝国として束ねられなければならないという要請に応えたものだったといえる。ワーグナーのオペラはドイツ・ナショナリズムを喚起し、ドイツ帝国を生み出す原動力となろうとしていたのである。このような事情は同時代のヴェルディのイタリア・オペラの誕生経緯においても同様であった。ワーグナーはどんな作品を作ったのかというと、例えば、ユダヤ人の金融資本のメタファーである「書記」たちをドイツの「親方歌手」たちがやっつけるという筋のワーグナーの喜劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』などである。この作品は、特にナチスと結びつくことになった(この時ナチスが退廃芸術としたのがジャズでああった)。このワーグナーに続いた音楽家は、ブルックナーマーラーであった。


10.【グスタフ・マーラー(1860-1911)】
前述した「標題音楽派」の系譜の末裔がユダヤ人のマーラー(1860-1911)であった。当時のハプスブルク帝国の都ウィーンでは、スロバキア語、ハンガリー語チェコ語バルカン半島から来たセルビア語やクロアチア語ルーマニア語が飛び交っていた。当時のウィーンは、多文化主義が隅々まで浸透しているような都市だったのである。そんな中で作られたマーラー交響曲は、国際感覚が豊かであり、ハプスブルク帝国的な部分、つまり色々な地域の民族のポリフォニー的なところがある。マーラーは、交響曲の中に民謡や歌を取り入れていた。マーラーの音楽は、ワーグナーが、ドイツ・ナショナリスティックであったのと対照的に、むしろハプスブルグ帝国的なパッチワークのような構成になっている。世界の色々な要素を一つの交響曲に「全部のせ」にして入れてくるのが、第1次大戦前の人間にとっては自然に感じられていたということなのだ。マーラー交響曲はとにかく「人間の持つ感情のすべてが込められている」とされ、例えば第八番の交響曲は「千人の交響曲」といわれている。初演したときに1000人ちょっとの人数が必要だったらしいからだ。実際には150人くらいだったというが、それでも凄まじい数である。今、クラシック音楽といえば圧倒的に人気なのはマーラーである。ちなみに、マーラーは精神的に不安定になり、ウィーンにいたフロイトの診断を受けに行ったこともある。


11.【フランツ・リスト(1811-1886)】
史上最高のピアニストといえばリスト(1811-1886)かショパンであると誰もがいうだろう。リストの「愛の夢」の第3番などは有名である。ベートーヴェンの第6番の田園交響曲から現れた3人が、ワーグナーベルリオーズとリストであったと言ってよい。リストの業績は「交響詩」というものを作ったことである。リストは交響曲に詩までつけてしまったのである。ただし交響詩は歌われたりするようなものではないので注意。


12.【クロード・ドビュッシー(1862-1918)】
普仏戦争に負けたことで、パリのマイアベーア的なコスモポリタニズムは廃れ、むしろ「次にドイツと戦争した時には勝たなければならない」という思潮が現れる(余談だが、このような国民意識の形成の役割をロシアで担ったといえるのはチャイコフスキームソルグスキーボロディンリムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』→ラヴェルの『ダフニスとクロエ』という系列だろう)。こうしてワーグナーの影響を強く受けた「印象派」が生まれる。彼らにとっては常に、「ワーグナーをフランス化するにはどうしたらいいのか」ということが問題になるのである。ワーグナーの絶大な影響下で育まれ、やがてワーグナーの影響を「フランス的軽さ」の発見によって乗り越えようとしたのがドビュッシー(1862-1918)である。代表作は、「牧神の午後への前奏曲」と、オペラ『ペレアスとメリザンド』などである。ドビュッシーは、ワーグナーに見られるような「ゲルマン的・北方的で土くさい感じ」を離脱し、フランスに伝統的なグノーやマスネのように「地中海的な音楽」を作ろうとした。こうしてドビュッシーは「フランス・ナショナリズム」の人になるのである。また、ドビュッシーインドネシアの「ガムラン音楽」に衝撃を受ける。パリの万国博覧会で出会ったのである。西洋音楽の規則がこうして乗り越えられていくことになる。メロディがなくても音楽が作れるのだとドビュッシーは気づいてしまったのである。ドビュッシーは貧しい家庭の生まれであったが9歳の時に家庭教師の手ほどきを受けるとみるみる上達し、たった10ヶ月練習しただけでパリ音楽院のピアノ科に受かってしまったというような大天才であった。同時代をいきた詩人ヴェルレーヌ(1844-1896)の詩によって霊感を与えられて作った「月の光」という作品などがドビュッシーの天才を余すところなく伝えてくれる。


13.【20世紀の音楽の諸潮流】
20世紀には第1次大戦前から既にシェーンベルクウェーベルンストラヴィンスキーなどの前衛音楽の流れが起こっていた(この流れは冷戦における東側の「ジダーノフ批判」を皮切りにむしろ冷戦中の西側で加速していくことになる)。例えば「無調音楽」である。しかし、このような前衛化の流れがある一方で、クラッシック音楽は、同時に「わかりやすさ」を求められるようになっていった。例えば、ロシアのクラシック音楽はどうだったか。ロシア革命後のソビエト連邦を象徴する作曲家はショスタコーヴィチである。ショスタコーヴィチは当初非常にヨーロッパ的でアバンギャルド的であったりモダニズム的な曲を書いていたのだが、戦後はロシア共産党からの「ジダーノフ批判(=極端にいえば「チャイコフスキー的な音楽を作っていけばよい」として前衛芸術家を批判したものである。これは「社会主義リアリズム」と呼ばれる)」があり、わかりやすい革命讃美曲などをひたすら書かされるようになった。プロコフィエフも同じような事情で革命歌をたくさん書くことになったのである。日本でもナショナリズム高揚にクラシック音楽が動員された。実際「皇紀2600年」ということで西暦1940年に山田耕筰(やまだこうさく)がオペラをつくり、信時潔(のぶとききよし)がカンタータをつくった。清瀬保二(きよせやすじ)や伊福部昭(いふくべあきら)などによって、「日本の民族的シンフォニー」を謳い文句にする作品の制作が試みられた。アメリカにおいても、コープランドバーンスタインが、南北戦争の頃の民衆歌や黒人霊歌を取り入れ始めたのである。こうしてクラシック音楽が大衆化した結果、全ての文化は一度大衆文化として一旦は平準化されるという事態となり、クラシック音楽が何か特別なものであるという意識はもはや失われていったといえる。むしろ現代は、一部のロックやアイドル音楽の方が、クラシックよりもよほど難しいハイコンテクストで知的とされる音楽となっているかもしれない。また、国民の動員という観点から見ても、クラシック音楽を使うよりアイドルグループを使う方が効率的であろうと思われる。さて、最後に余談だが、平成天皇陛下の在位10周年の時、X JAPANYOSHIKIがピアノ協奏曲を作曲して、天皇陛下に捧げたということがあった。あれは一旦全ての文化が共通の平面に一度置き直され、もう一度クラシックの価値が新たに、そして率直に再発見されていくという現象として解釈できるのではないか。

化学の面白さを5万字で

【化学の面白さ】

以下では、あくまでも話題提供という程度の意味でしかないが、化学について私がこれまで書いてきた140個のノートを見やすく整理して掲載しておく。誰かに読まれることを想定して書いていたわけでは全くないが、これをパラパラと見ていけば、化学は非常に面白く、少し勉強すれば日常の中で抱かれるちょっとした疑問がどんどん解決されて行くので、知的に毎日が刺激されまくる、たいへん愉快な学問だということくらいは、あなたにも伝わるかもしれない。私は化学を勉強してみた結果、日常がものすごく高解像度で見えてきて、非常にQOLが向上したので、ガチでおすすめである。

 

1.【化学式のスマホでの書き方】

 「₁₂₃₄₅₆₇₈₉₀」と「⁺と⁻」という文字列をアイパッドの「ユーザー辞書」などにあらかじめ登録しておけば非常に素早く「エタノール:C₂H₅OH」とか「Na⁺」みたいに書いていくことができる。ちなみに化学記号が作られたのは18世紀末である。原子番号92番のウランまでが自然界に存在していて、それ以降は人工的に合成したものであるとはいえ、周期表の119番以降の元素も、現在人工的に作り出すことが目指され、探求されているらしい。


2.【「セントラルサイエンス」とも呼ばれる「化学」という学問で今アツい主題】

 ①ナノカーボン、②メタマテリアル、③人口細胞、④認知症治療薬、⑤がんの治療薬、⑥海水淡水化(逆浸透膜の開発)、⑦バイオ環境浄化、⑧常温超電導、⑨太陽畜電池、⑩人工光合成、⑪分子マシン(ナノカー、分子スイッチ)、⑫生命の化学的起源の解明、⑬混合物直接解析、⑭「超臨界流体状態の二酸化炭素」による布の染色、⑮二酸化炭素を原料にしたプラスチック製造、など。


3.【バイオミメティクス:ヤモリはなぜ壁から落ちないのか問題】

 ヤモリの足には数億本に枝分かれした毛が生えている。毛と対象物とが接近すると「ファンデルワールス力」が働いて優れた接着力が発揮される。カーボンナノチューブを使ってこれを再現したテープは驚異的な粘着力を達成する。蜘蛛の巣の糸もバイオミメティクスに使われており、人工タンパク質が作られている。汚れが落ちやすいカタツムリの殻から、外壁用のタイルの素材が作られている。4キログラムの重さでライオンの顎の力である3300ニュートンを出せるヤシガニのハサミもそうである。


4.【ナノってどのくらいの大きさなのか】

 ナノとは1mを10億個に分けたうちの一つで、その10分の1の大きさが原子の大きさである。


5.【レアメタルとは何か】

 レアメタルの代表はインジウムやリチウム。インジウムスマホの製作に使う。


6.【鉄の精製法はこんな感じ】

 鉄鉱石から石灰石で不純物を取り除き、さらに鉄鉱石とコークスを一緒にして1538度以上に熱する。鉄の融点は1538度である。


7.【金は単体で自然界に存在するからすごいのである】

Auは純物質で単体で自然界に存在するという点でも珍しい金属である。


8.【金属はそもそも何種類あるか】

 金属は約80種類ある。アルミニウムを単体で取り出せるようになったのは19世紀末である。


9.【合金と超合金は金属の短所の克服によって生まれる】

 青銅は銅にすずを混ぜた合金である。新幹線はアルミニウム合金のジェラルミンが使われている。鉄にクロムやニッケルを加えて作るステンレスも合金である。鉄にクロムとニッケルを混ぜるのがステンレスで、アルミニウムに銅とマグネシウムを混ぜるとジェラルミンになる。マグネシウム亜鉛イットリウムを混ぜるとマグネシウム合金が作れる。「マグネシウム」はめっちゃ燃えやすいのに「マグネシウム合金」は燃えにくい。超合金というものもある。ニッケルにクロムとタングステンを混ぜると1100度の融点を持つ超合金が作れる。ジェット機のタービンは超合金である。


10.【消しゴムもプラスチックである】

 消しゴムはポリ塩化ビニルというプラスチックであるし、メガネのレンズはアリルジグリコールカーボネート樹脂というプラスチックであるし、水族館の水槽はメタクリルというプラスチックである。飛行機の翼も炭素繊維強化プラスチックである。不織布マスクもプラスチックである。


11.【純物質と混合物を区別せよ】

 100パーセントオレンジジュースは混合物である。空気も混合物である。海水も混合物である。水は純物質である。1円玉だけは純物質である。砂糖はショ糖の結晶だから、純物質である。混合物は沸点が一定ではないが純物質は一定である。混合物から純物質を取り出すことが「分離」である。分離の方法には①濾過や②クロマトグラフィー(移動速度の違いを利用する分離)や③蒸留(沸点の違いを利用する分離)や④抽出や⑤再結晶などがある。例えばジエチルエーテルという溶媒を使えばオレンジジュースから色素だけを抽出できる。分離を繰り返して純物質を作っていく操作を「精製」という。


12.【化合物と混合物を混同してはならない】

 混合物はただ混ざり合っているだけだからそれぞれの純物質の性質がそのまま残っているが、化合物はそうではない。例えば、ワインは混合物であって化合物ではない。純物質のエタノールを飲めば酔うが、混合物のワインを飲んでも酔う。だからワインは混合物である。エタノールは炭素と水素と酸素の化合物であるが、炭素や水素や酸素の液体はエタノールに性質が全然似ていない。エタノールは純物質であるが、化合物でもある。世界にある物質はほとんど混合物である。水は水素と酸素の化合物であるが純物質である。


13.【ダイヤモンドダストとは何か:昇華である】

 空気中の水蒸気が冬の朝に一気に固体になることをダイヤモンドダストという。


14.【二酸化窒素の使い方】

 二酸化窒素は空気より重く、しかも赤褐色なので空気中で熱運動によって気体が拡散していく様子を観察できる。


15.【エタノールの表面張力は水より弱い】

 分子間力は水よりもエタノールの方が弱い。だから、エタノールはコップになみなみに注いだりするとすぐにこぼれてしまう。こぼれ方で、無色透明な液体でもどちらが水でどちらがエタノールかは分かる。


16.【純物質の中でも単体と化合物を区別せよ】

 エタノールC₂H₅OHはワインに入っている純物質で化合物だが、単体ではない。単体というのは例えば、N₂などである。Mgも単体である。CuOは化合物である。CO₂は化合物である。しかし、単体も化合物も純物質であることに注意せよ。水は化合物である。アルミニウムは単体である。黒鉛は単体である。食塩は化合物である。ポリエチレンは「(C₂H₄)n」と表記し、化合物である。しかし、上記は全て純物質である。H₂は単体でO₂は単体で、H₂Oは化合物であるが、全てこれらは純物質ではある。しかし、水H₂OとエタノールC₂H₅OHを含むワインは混合物である。要するに、一種類の元素からできている純物質が単体で、複数元素からできている純物質が化合物なのだ。そして、化合物は混合物ではないのだ。また、化合物は、その成分元素の単体からできているわけではないのだ。


17.【酸化銀を分解してみよう】

 酸化銀は電気を通さない化合物だが、これを熱して酸素と銀という単体に分解すると、その銀は電気を通す。これを化学式で書くと、「2Ag₂O→4Ag+O₂」となる。Ag₂Oは化合物だが、AgとO₂は単体である。


18.【同素体同位体を混同してはならない】

 黒鉛はCの単体で、ダイヤモンドもCの単体である。しかし、構造模型が三角形になるのがダイヤモンドで四角形になるのが黒鉛である。ダイヤモンドは固くて電気を通さず、黒鉛は柔らかくて電気を通す。この組み合わせを互いに同素体という。同位体とは違うので注意せよ。同位体は同じ陽子の数なのに中性子の数が異なる物質のことである。①単斜硫黄と②斜方硫黄と③ゴム状硫黄も同素体である。ちなみに、硫黄にニ硫化炭素で溶かして蒸発させると斜方硫黄が作れる。車のタイヤに硫黄を使うのは弾力性を高めるためである。


19.【元素と単体を混同してはならない】

「フッ素配合歯磨き」に入っているのはフッ化ナトリウムNaFという化合物の純物質で単体のフッ素F₂という純物質は入っていない。単体は普通に存在する物質であるが、元素は物質を構成する成分物質であると考えるとよい。水も純物質で化合物だが、単体の水素H₂や酸素O₂は入っていない。元素のHや元素のOは成分として水に含まれている。


20.【どの金属元素からできているかはどうやって調べるのか:炎色反応】

 打ち上げ花火は色々な色がある。花火の色は金属元素から作られている。例えば、水に溶かした塩化リチウム(塩化リチウム水溶液)を白金線につけて燃やすと赤い炎になる。ナトリウムは黄色で、カリウムは赤紫色で、カルシウムは赤橙色で、銅は青緑色で、ストロンチウムは濃赤色で、バリウムは黄緑色になる。


21.【どの非金属元素からできているかはどうやって調べるのか:沈殿】

 塩素の場合は沈殿によって検出する。塩化カルシウム水溶液に硝酸銀水溶液を加えると白濁する。これが塩化銀の沈殿である。こうやって、「塩化カルシウム水溶液に塩素が含まれていること」を検出するのである。例えば、水道水に硝酸銀水溶液を加えると塩化銀が沈澱する。これで水道水に塩素が含まれていることが検出できる。塩化ナトリウムや塩化カリウムでも硝酸銀水溶液を加えて塩化銀を沈殿させるという同じ方法で塩素が検出できる。また、石灰水を使う沈殿もある。炭酸カルシウムに塩酸を加えると二酸化炭素が発生するが、この二酸化炭素は石灰水の中の水酸化カルシウムと反応して石灰水は白濁する。これによって、「炭酸カルシウムに塩酸を加えて発生した謎の気体の正体は二酸化炭素だったのだから、炭酸カルシウムに炭素が含まれていること」が検出できる。


22.【地球の地殻を構成する元素は?】

 地球の地殻を構成する元素は50%が酸素で25%がケイ素で、7%がアルミニウムで、4%が鉄で3%がカルシウムである。


23.【人体を構成する元素は?】

 人体は65%が酸素で、筋肉はタンパク質だから20%は炭素である。水素が10%で、カルシウムはかなり少ない。


24.【銅とクロムは環境に有害なので注意】

 銅やクロムは廃液として工場から排出してはならない。


25.【原子の大きさはどのくらいなのか】

 金箔の断面(=0.0001mm=1万分の1ミリメートル)には金の原子が350個並んでいる。炭素原子とゴルフボールの比はゴルフボールと地球の大きさに等しい。原子の大きさの3億倍がゴルフボールの大きさになる。ちなみに、原子核が2mmだとすると、原子全体はドーム球場くらいの大きさになる。ナノとは1mを10億個に分けたうちの一つで、その10分の1の大きさが原子の大きさであるから、原子は10億分の1メートルと覚えておくと良い。例えばシリコンの表面はSTM(走査型トンネル顕微鏡)で見ると、ケイ素の原子がひし形に並んでいる。


26.【超電導物質とは何か】

 非常に低い温度に冷却すると電気抵抗がなくなる物質が超電導物質である。代表はインジウムである。電気抵抗がなくなった時に電気を流すとずっと流れ続ける。現状、超電導物質を冷却するにはマイナス269度の液体ヘリウムが必要になる。超電導物質はリニアモーターカーなどに使われる。


27.【水とエタノールを混ぜると、体積はその和にならない】

 水50mLとエタノール50mLを混ぜると体積は97.5mLくらいになる。100mLにはならない。粒子の大きさが違うからである。


28.【ジョン・ドルトンの功績】

 ドルトンはとても几帳面な性格で、全ての実験を自分でおこなう人だった。ドルトンは1803年に原子説を発表し、地水風火の四元素説が滅びた。


29.【質量数は元素記号の左上に書き、原子番号元素記号の左下に書く】

 原子核が2mmだとすると、原子全体はドーム球場くらいの大きさになる。陽子と中性子の質量はほぼ同じで、これを1840とすると電子の質量が1になる。つまり、陽子と中性子は電子の1840倍重い。だから、原子の質量の大部分は陽子と中性子の質量となるから、陽子と中性子の質量の和を原子の質量数と呼んでいる(後述するが、「原子の質量数」と「原子量」は近い値になる。質量数が12で「原子番号」が6の炭素の相対質量は「12 (相対値だから単位なし)」と国際的に定められており、その炭素の原子量は「12.01 (相対値だから単位なし)」である。なぜ相対質量と原子量がちょっとだけ違うのかというと同位体があるからである)。陽子の数がその原子の「原子番号」である。陽子の数は原子の種類ごとに決まっている。元素記号の左下に書いてあるのが「原子番号」で左上に書いてあるのが「質量数」である。例えば、スーパーカミオカンデで、ニュートリノを検出する感度を上げるために超純水に溶かし込まれている「ガドリニウム」の原子番号は64番である。


30.【最重要項目:「①相対質量」と「②絶対質量」と「③原子番号」と「④質量数」と「⑤原子量」と「⑥原子量の概数値」と「⑦分子量」と「⑧イオンの相対質量」と「⑨式量」と「⑩物質量」とを混同してはならない】

 炭素原子1個の質量は1.99×10⁻²³gである。原子1個の重さはそれぞれ違う。例えば、水素原子1個の質量は1.67×10⁻²⁴gし、酸素原子1個の質量は2.66×10⁻²³gであるし、ナトリウム原子1個の質量は3.82×10⁻²³gである。こうやって測る重さは絶対質量である。絶対質量にはグラムという単位がある。しかし、相対質量には「グラム」みたいな単位がない。なぜなら、例えば、例えばゴマ1粒(=0.003g)を「1」とした時にコメ1粒(=0.03g)は「10」で小豆1粒(=0.15g)は「50」になるが、これに単位はないからである。つまり、相対質量は比だからである。質量数12の炭素原子1個(←同位体は質量数13とかだからここでは基準にしない)の絶対質量1.99×10⁻²³gをピッタリ「12」とした時、水素原子1個1.67×10⁻²⁴gの相対質量は「約1.0」になるのだ。酸素原子1個の相対質量は「約16.0」になるし、ナトリウム原子1個の相対質量は「約23.0」になる。ところで、質量数(=陽子の数すなわち原子番号中性子の数の和)が12で「原子番号」が6の炭素の相対質量は「12.0(相対値だから単位なし)」と国際的に定められていると述べた。しかし、その炭素の原子量は「12.01 (相対値だから単位なし)」である。これはどういう事情なのか。「原子の相対質量」は「原子量」と近い値になるが微妙に異なる。その理由は同位体があるからである。原子番号が同じなのに中性子の数が異なるために質量数が異なる原子を互いに同位体という。炭素の場合も安定した存在比で自然界に同位体が存在する。たとえば¹²Cは98.94%の存在比だとか、色々な存在比が既に知られているのである。この同位体の存在比と、それぞれの相対質量から原子の相対質量の平均値を求めたものが「原子量」で、それゆえ原子量も相対値になるから(=相対質量の平均値も相対質量に過ぎないから)、相対質量に単位がないのと同様に、原子量に単位などないのである。原子量は相対質量の平均値であって相対質量のことではないので注意しよう。そこで、炭素の原子量は本当は「12.01」だが、普段は計算が複雑にならないように、「原子量の概数値」である「12」を用いている。炭素の相対質量は「12」だと国際的に定義されていた。すると、「原子量の概数値」と「炭素の相対質量」とは一致していることになる。炭素の原子量の概数値である「12」を基準にした「分子の相対質量」が「分子量」である。分子量は「原子量の概数値の和」なので結局、相対質量になるから、これにも単位はない。二酸化炭素CO₂の分子量は44だし、水H₂Oの分子量は18になる。食塩のように、イオン結晶でイオンが規則正しく並んでいるだけなので分子が存在しない物質については、「分子量」など考えようがないので、「分子量」の代わりに「式量」が使われる。例えば食塩NaClの式量は「23+35.5=58.5」となる。このことから、イオンになることで増減した電子の質量は無視できるほど小さいので、「イオンの相対質量」と「原子量の概数値」はほぼ等しいのだと化学者がみなしていることがわかる。で、この「イオンの相対質量」の和が「式量」なのである。こういうわけなので、「原子の相対質量」も「原子量(= 同位体が存在する原子たちの相対質量の平均値)」も「原子量の概数値」もそれをもとにして計算された「分子量」も「式量」も全て、相対質量(=絶対質量の比)であるから、単位はないということがわかる。相対質量は「比」でしかないのだ。さて、ここからは物質量の話になる。例えばゴマ1粒(0.003g)を「1」とした時にコメ1粒(0.03g)は「10」で小豆1粒(0.15g)は「50」になる。この時、このことを逆から言うと、1gのゴマ粒の山を作るのにはゴマが333個必要で、10gのコメ粒山を作るのにはコメが333個必要で、50gの小豆の山を作るのには小豆が333個必要になる。つまり、相対質量とは、「複数の原子を1個だけ集めてきたときの絶対質量の間の比」という解釈だけでなく、「複数の原子を同じ個数だけ集めて来た時の絶対質量の間の比」だという解釈もできるのである。例えば、絶対質量0.003gを「1」とした時、相対質量が「3」のものを2つ集めてきたら相対質量は「6」で絶対質量は0.018gになるが、相対質量が「6」のものを2つ集めてきたら相対質量は「12」で絶対質量は0.036gになる。ここで、1個の時の相対質量「3」と「6」の間の比「1対2」は、2個の時の相対質量「6」と「12」の間の比になっても保存されているだけでなく、絶対質量0.018gと0.036gの間の比においても保存されているのである。同様に、相対質量が3のものを3つ集めてきたら9になるが、相対質量が6のものを3つ集めてきたら18になる。しかし、最初の3と6の間の比は9と18の間の比と比べてみると、保存されているし、絶対質量0.027gと0.054gの間の比においても保存されているのである。4つ集めてきた時も5つ集めてきた時もこれと同様だから、「同じ個数だけ集めて来たならば、1粒どうしの相対質量の比は、その粒の集団どうしの絶対質量の間の比と一致するし、逆もまたしかりだ(=個数と絶対質量は物体の種類が違くても同じ仕方で比例する)」と言える。そうだとすると、このことを逆から利用すれば、「あるゴマ山とあるコメ山の絶対質量の比がゴマ1粒とコメ1粒の相対質量の比と一致しているならば、その山に含まれるゴマ粒の数とコメ粒の数は一致する」と言うことができる。実際にやって実験してみよう。3グラムのゴマ山と30グラムのコメ山があったとして、この絶対質量の比1対10は、ゴマ1粒とコメ1粒の相対質量の比1対10と一致している。この時、ゴマ山に含まれるゴマ粒の数は1000個であり、コメ山に含まれるコメ粒の数は1000個であり、本当に一致していることがわかる。このことに注目して定義された量が「物質量」である。「物質量」というのは、「どんな原子でも、1粒あたりの相対質量の比と等しい絶対質量の比になるように原子集団を作ってやると、その原子集団に含まれる原子の個数は等しくなること」を利用して定義された量なのだ。例えば、水素原子の集団1.0gと炭素原子の集団12.0gには、どちらにも6.0×10²³個ずつの粒が含まれていることになる。これは1粒あたりの相対質量の比すなわち1対12と絶対質量の比が等しいからである。「6.0×10²³個」のことを「アボガドロ数個」と表現することがある。そして「1アボガドロ数個の粒子の集団」のことを「1モルの粒子の集団」と表現する。つまり、「物質量」とは「粒子の個数」のことである。黒鉛12gも水18gも食塩58.5gもみんな構成粒子の数は、6.0×10²³個で等しいのである(ちなみに、6.0×10²³個集まった時の絶対質量がモル質量である)。なぜなら、黒鉛Cの1粒(原子量12)、水H₂Oの1粒(分子量18)、食塩HClの1粒(式量58.5)あたりの相対質量の比と、絶対質量の比が等しいからである。要するに、「物質量の比」は「原子の数の比」である。「6.0×10²³個の粒子の集団」のことを「1モル」と呼んでいるのである。1モルの気体の体積は、水素でも酸素でも二酸化炭素でも標準状態(=0℃かつ1013hPa)では常に22.4 Lである。これを「アボガドロの法則」と言う。この1モルの気体の体積22.4Lのことを「モル体積」と言う。逆に言うと、「0℃かつ1013hPaで44.8Lの気体」は水素でも酸素でも二酸化炭素でも2モルである。


31.【アボガドロ数アボガドロ定数の違い】

 アボガドロ定数は原子や分子1モルあたりに含まれる粒子の個数のことで、アボガドロ数は「6.0×10²³」という数のことである。「アボガドロ数/mol」が「アボガドロ定数」である。「1モルあたりの粒子の数」が「アボガドロ定数」である。粒子が1モル集まった時の質量がモル質量である。水180gだったら10モルだということがわかる。1円玉は27枚集めるとアルミニウム1モルになる。


32.【アボガドロ定数を求める公式】

 「物質量(mol)=粒子の数÷アボガドロ定数」という公式を「アボガドロ定数=粒子の数÷物質量」と変形して、そこに「物質量(mol)=質量(g)÷モル質量(g/mol)」を代入すると、「アボガドロ定数=粒子の数÷(質量(g)÷モル質量(g/mol))」となってこれをさらに変形すると、「アボガドロ定数=粒子の数×モル質量(g/mol)/質量(g)」という公式が得られる。


33.【気体の密度を比べると気体を識別できる】

 水素の気体の分子量は2で、酸素は32で、二酸化炭素は44である。どれも体積は標準状態だと22.4Lになってしまう。だから、密度で見分けるのがいい。シャボン玉を作ってすぐに上に飛んでいくのは水素である。1Lあたり二酸化炭素は2gで、酸素は1Lあたり1.4gで、水素は0.089gである。密度は「g/L」という単位で表す。例えば水素の密度は、「0.089g/L」となる。


34.【空気の平均分子量を覚えておくメリット】

 1モルの空気には微量なものを無視すれば0.80molの窒素、0.20molの酸素が含まれていることになる。窒素のモル質量は28g/molで酸素のモル質量は32g/molだから、空気1モルの質量は28×0.8+32×0.2=28.8gになる。同じ理屈で空気の平均分子量は「28.8」になる。メタンは分子量が16で、一酸化炭素の分子量は28である。だから、どちらも部屋の天井の方に貯まることになる。報知器が天井についているのはそれが理由である。それに対してプロパンの分子量は44なので空気より重いので床に報知器をつけないと意味がない。


35.【標準状態で5.6Lの窒素の質量はいくらか】

 5.6Lの窒素の物質量は0.25molで、窒素のモル質量は28g/molだから、この窒素の質量は7.0gとわかる。こんなふうに、なんでもとりあえず物質量という共通言語を媒介させればさまざまな化学量の相互変換が可能になるというわけだ。


36.【化学では濃度を「グラム(あるいは質量パーセント濃度)」では考えず、「物質量(あるいはモル濃度)」で考える】

 溶媒に溶質が溶けて溶液ができることを溶解という。「質量パーセント濃度=溶質の質量/溶液(=溶質+溶媒)の質量」という公式を習ってきた。例えばコーヒー200gに砂糖20gを溶かした時の砂糖の「質量パーセント濃度」は、「20/220×100=約9.1%」となる。「20/200×100=10%」だと答えさせる典型的なひっかけ問題である。同様に、「5%の食塩水80gに含まれる塩の質量はいくらか」と聞かれたら、「x/80×100=5%」より、「x=4g」となる。しかし、化学ではこの「質量パーセント濃度」を使わずに濃度を考えることは少ない。そうではなくて「モル濃度」を使う。単位は「mol/L」となる。なぜ化学では質量パーセント濃度ではなくてモル質量を使うのかというと、例え同じ質量パーセント濃度の溶液だとしても溶けている物質が違うと溶けている粒子の数は同じにならないのだが、同じモル濃度の溶液は溶けている物質が違くても溶けている粒子の数は同じになるからなのだ。質量パーセント濃度の方は百分率を使うから×100をする必要があるが、モル濃度の方はその必要はない。例えば、「水酸化ナトリウム2.0gを水に溶かして200mLの水溶液を作ったがこの水溶液のモル濃度はいくらか」と問われたら、「水酸化ナトリウムのモル質量は23+16+1=40g/molだから、2.0gの水酸化ナトリウムの物質量は0.050molとなる。これが200mLの溶液に溶けているんだからモル濃度は0.050mol/0.200L=0.25mol/Lとなる」と答えればよい。


37.【有効数字を意識するとは位取りを示すだけの0を除いて考えることである】

 位取りを示すだけの0を除いた意味のある数字のことを有効数字という。掛け算と割り算では、式の中で、最も有効数字の桁数が小さい数に合わせることになっている。例えば、「1.00mol/Lの水酸化ナトリウム水溶液250mLに含まれる水酸化ナトリウムの質量は何グラムか」と聞かれた時に、「溶けている水酸化ナトリウムの物質量は1.00mol/L×/0.250L=0.250molだから、水酸化ナトリウムのモル質量が40g/molなので、水酸化ナトリウムはこの溶液に10g溶けていることになる」と答えればいいことになる。この時、有効数字が40gだけ2桁なので、2桁に合わせて「10g」と答えるというわけだ。


38.【同位体(アイソトープ)の典型:①水素と②重水素と③トリチウム

 水素は陽子が1個だけの原子。しかし、陽子が1個だけでなく中性子を1個だけ持っているのが重水素である。水素を含むのが水で、重水素を含むのが重水である。水で作った氷は水に浮かぶが、重水で作った氷は水に沈む。同位体は同じ陽子の数なのに中性子の数が異なる物質のことである。水素と重水素トリチウム同位体である。水素は質量数が1で、重水素は質量数が2で、トリチウムは質量数が3であるが、しかし全て陽子と電子の数は同じで1個である。違うのは中性子の数だけなのだ。


39.【放射性同位体(ラジオアイソトープ)とは何か】

 三重水素は陽子が1つなのに中性子は2つであり、安定していないので、放射線を出してヘリウムに変わろうとする。炭素は原子番号6で、質量数は普通12だが、14のものを「炭素14」と呼んで、これは放射性同位体である。「炭素14」は放射線を出して窒素に変わろうとする。


40.【遺跡の調査に使う「炭素14」というラジオアイソトープ

 植物は大気中に微量に含まれる「炭素14」を光合成で吸収しているわけだから、植物中の「炭素14」の存在量と大気中の「炭素14」の存在量はほぼ等しい。しかし植物が死ぬと光合成が終わり、「炭素14」を吸収できなくなる。すると、「炭素14」が放射線を出しながら窒素に少しずつ変化して減っていく。「炭素14」の半減期は5730年だから、大気中の「炭素14」の存在量と植物の化石に含まれる「炭素14」の存在量を比べれば、その植物が死んでから何年経ったのかがわかるのだ。ちなみに動物でも同じことができる。例えばナウマンゾウの歯の化石の年代は「炭素14」の測定でわかる。


41.【半減期は元素によって様々である】

 「放射性同位体である炭素14」の半減期は5730年だが、「放射性同位体であるフッ素18」の半減期は110分である。半減期が少ないものは人体に悪影響の出ない仕方での放射線検査に使える。


42.【水の極性を利用すれば、水は静電気で引き寄せられる】

 アクリル棒を毛糸で擦ってから水道水から出ている水に近づけると水の経路が棒に引きつけられて変わる。アクリル棒が負に帯電しているからなのだ。


43.【電子の発見者トムソンと原子核の発見者ラザフォード】

 真空ガラス管の中に陰極線ができ、しかも陰極線がプラスの電極の方に曲がるのをみつけたのがトムソンである。トムソンは原子のプラムプディングモデル(ブドウパン型モデル)を考えた。ラザフォードは1万回に1回の割合で、プラスの電荷を帯びたアルファ粒子が金箔をうまく通過できないことから、正電荷が均一に分布しているプラムプディングモデルはおかしいとして、ラザフォードは正電荷が集まっている箇所としての原子核を発見したのである。だから、電子の発見の方が原子核の発見より早いのだ。


44.【原子の構造関連の用語法】

 電子の最内殻が、K殻で、その後L殻、M殻、N殻、O殻と続いていく。K殻は最大2個しか電子が入らない。L殻は最大8個で、M殻は最大18個で、N殻は最大32個で、O殻は最大50個である。「6→10→14→18と、入る最大電子数の増え方が4ずつ大きくなる」という法則が電子殻にはある。マグネシウム原子番号12で、内側から電子が埋まるから最外殻電子は2個である。この時、マグネシウムのK殻とL殻は閉殻である。最外殻電子は1個から7個の場合、「価電子」とも呼ばれるが、ヘリウムは最外殻電子が2個だけれど、「ヘリウムは2個の価電子を持っている」とは言わない。ヘリウムのK殻は閉殻なのだ。だから「ヘリウムの価電子は0個だ」ということになる。しかし、水素の価電子は普通1個である。価電子の数に注目し、それを縦に揃えて元素を並べた表が元素周期表である。この周期表を1869年に『科学の原理』という本の中で発表したのがメンデレーエフである。


45.【メンデレーエフ周期表

 メンデレーエフは14人兄弟の末っ子で両親が早くなくなり結核だったのに首席で高等師範学校を卒業した。メンデレーエフ周期表のアイデアをうたたねしている時に思いつき、その表を封筒の裏に書き留めたという。だからコーヒーカップの後が封筒にはついているらしい。メンデレーエフ周期表の空白部分に入るはずの元素として、ガリウムゲルマニウムの存在を予測した。その後、1875年にガリウム、1885年にゲルマニウムが実際に発見されたのである。1906年メンデレーエフノーベル賞候補となるが1票差で敗れた。その結果1907年に死去してしまう。メンデレーエフの功績をたたえて1955年に原子番号101番の元素はメンデレビウムと名付けられた。ちなみに原子番号 102番の元素はノーベルからノーベリウムと名付けられた。ちなみに、原子番号 96番の元素はキュリーからキュリウムと名付けられた。


46.【地域名由来の元素】

 原子番号63番はユウロピウム原子番号95番はアメリシウム原子番号113番はニホニウムである。原子番号84番のポロニウムポーランドから来ている。ニホニウムは日本で人工的に作られた元素である。埼玉県の和光市ニホニウムは作られた。理化学研究所が作ったのである。ニホニウムはどうやって作るかというと、原子番号30番の亜鉛を猛スピード(秒速3万キロ=光速の10パーセント)で原子番号83番のビスマスにぶつけることで核融合を起こすのである。亜鉛の速度が速すぎても遅すぎてもこの核融合は起きない。2018年から理化学研究所は、原子番号23番のバナジウム原子番号96番のキュリウム核融合させて未知の119番元素を作る計画に取り組んでいるという。元素は理論上、原子番号172番あたりまでなら存在できると言われている。


47.【放射性元素

 アンリ・ベクレルが研究していた原子番号92番のウランの他にも、原子番号90番のトリウムや、原子番号84番のポロニウムや、原子番号88番のラジウムなどの放射性元素がある。マリー・キュリーポロニウムラジウムの発見者である。ラジウム放射線治療にも使える。1934年にマリー・キュリー放射線障害で66歳で死亡した。ラジウムの製造方法の特許を取ればマリー・キュリーは莫大な利益を得られたはずだが、それを彼女は放棄した。


48.【池田菊苗(1864-1936)と「うま味」】

 池田は「うま味」を発見した化学者である。おでんのダシには「うま味」がある。湯豆腐の昆布だしでうま味成分の抽出を続け、「グルタミン酸ナトリウム」の抽出に成功した。池田はドイツに留学した池田はドイツ人の栄養状態の良さに衝撃を受けた。


49.【カリウムとカルシウムの特殊性】

 ヘリウム(原子番号2)とネオン(原子番号10)とアルゴン(原子番号18)は価電子が0個だから閉殻である。ちなみに、同じ希ガスであるクリプトン(原子番号36)もキセノン(原子番号54)もラドン(原子番号86)も最外殻の電子数は8個で、価電子の数は0個の閉殻である。閉殻とは価電子がないということなのである。カリウムとカルシウムはM殻が最大18個まで電子を収容できるのにもかかわらず、N殻に電子が入っている。だから、カリウムの価電子は1個で、カルシウムの価電子は2個になる。これはなぜなのかというと、M殻に8個入って閉殻になっているアルゴンがあまりにも安定なので、M殻に9番目や10番目が入るよりも、N殻に電子が入った方が安定になるのである。


50.【励起:①炎色反応と②ルミノール反応と③ケミカルライトと④ホタルの原理】

 エネルギーを余分に与えられたせいで本来あるべき殻から外側の殻に電子の位置がズレてしまっている状態を「励起」と呼ぶ。熱エネルギーによって電子が励起状態になっているのが「炎色反応」である。ルミノール粉末を水酸化ナトリウム水溶液に溶かして過酸化水素水を加え、ここにヘモグロビンの粉末を加えると「ルミノール反応」が起こって青く発光する。なぜこんなことになるかというと、ヘモグロビンがルミノールと過酸化水素水の化学反応を促進しているのである。この化学反応のエネルギーによって電子が励起状態になり、その励起状態は不安定なので、エネルギーを放出する。このエネルギーによって青白く光って見えるのだ。これが「ルミノール反応」である。「ルミノール反応」は血痕を探すために使える。ケミカルライトもホタルも、化学反応による電子の励起で光っている。ホタルはルシフェリンという物質をルシフェラーゼという酵素とともに持っていて、これが酸素と出会うと化学反応を起こすのだ。


51.【アルカリ金属としての第1族】

 第1族の水素以外の元素をアルカリ金属という。リチウムやナトリウムやカリウムルビジウムセシウムフランシウムアルカリ金属である。アルカリ金属のリチウムやナトリウムやカリウムはナイフで切れるくらい柔らかくて、断面が空気に触れると「金属光沢」がすぐになくなってしまうし、水に溶ける。水に溶ける時激しく反応するし、溶液はフェノールフタレイン溶液を加えると赤くなる。だから、アルカリ性水溶液になるのでアルカリ金属と呼ばれる。


52.【第17族:アルカリ金属と反応して塩(えん)を作るハロゲン】

 第17族のことをハロゲンと呼び、ハロゲンにはフッ素や塩素や臭素ヨウ素などがある。ハロゲンはギリシア語で「塩(えん)を作るもの」という意味である。第1族と第17族が反応すると塩ができる。ハロゲンの代表格である塩素はどうやったら作れるのか。「さらし粉」と呼ばれる次亜塩素酸カルシウムに塩酸を加えると黄緑の気体が出てくる。この気体は赤バラを白バラにするくらいの漂白作用がある。フッ素や塩素や臭素ヨウ素には、漂白作用と殺菌作用があるのだ。


53.【ランタノイドアクチノイドはなぜ周期表の外側にあるのか】

 ランタノイド原子番号57番のランタンにそっくりな元素たちという意味で、アクチノイド原子番号89番のアクチニウムにそっくりな元素たちという意味でよく似ているから欄外にまとめてしまっているのである。アクチノイドの中でも、原子番号92番のウランまでが自然界に存在していて、それ以降は人工的に合成したものである。


54.【遷移元素と典型元素を区別せよ】

 3族から12族は横に隣り合っているのに性質がよく似ていて、縦に並ぶものが似ていて横は似ていない典型元素とは全然違っている。なぜこうなるのかというと、遷移元素では、原子番号が増える時に電子が最外殻には入らずにそのひとつ内側に入るせいで最外殻電子の数が変化しないからなのである。原子番号が増えても、最外殻電子は変化せずに2個のままだったりすることが多いというわけなのである。


55.【イオンとは何か】

 電子をやり取りして電荷を帯びた原子をイオンという。「Mg²⁺」や「S²⁻」を「単原子イオン」と呼び、「NH₄⁺」や「SO₄²⁻」は「多原子イオン」という。「Cl⁻」は呼び方が「塩素イオン」ではなく「塩化物イオン」なので注意が必要。同様に、「O²⁻」は「酸化物イオン」だし、「OH⁻」は「水酸化物イオン」である。しかし、多原子イオンになるとこの規則は当てはまらない。「NH₄⁺」は「アンモニウムイオン」だし、「SO₄²⁻」は「硫酸イオン」だし、「CO₃²⁻」は「炭酸イオン」である。「Na⁺」は「ナトリウムイオン」である。


56.【「イオン化エネルギー」の対義語は「電子親和力」である】

 陽イオンになるために最外殻電子を取り去るために必要なエネルギーを「イオン化ネルギー」という。同じ周期(=周期表の横軸)で比べると陽子が多いほどイオン化エネルギーは大きくなる。希ガスは安定なのでイオン化するには大変なエネルギーを要求してくるが、アルカリ金属は不安定なのでほとんど要求しない。同じ族で比べると原子番号が大きいほどイオン化エネルギーは小さくなる。例えば、同じアルカリ金属の第1族でみても、リチウムよりカリウムの方がイオン化エネルギーは小さくなる。逆に、原子が電子を受け取って陰イオンになるために原子から放出されるエネルギーを電子親和力という。第17族のハロゲンであるフッ素や塩素は電子親和力が大きく、陰イオンになりやすい。イオン化エネルギーは、「イオンになるときに要求されるエネルギー」で電子親和力は「イオンになるときに放出されるエネルギー」だと覚えよう。


57.【化学結合のひとつがイオン結合:クーロン力による結合】

 水は酸素と水素が化学結合してできている。しかし、食塩は、「Na⁺」と「Cl⁻」のイオン結合によってできている。とはいえ、イオン結合も化学結合のひとつだ。化学結合には①イオン結合の他にも、②共有結合や③金属結合などがある。水は共有結合で、食塩はイオン結合なのだ。イオン結合はイオン同士の間に働く静電気力、すなわち「クーロン力」によって陰陽のイオン同士が引き合ってできる結合である。例えば「塩NaCl」を作るには、黄緑色の「塩素Cl₂」の気体の中に「ナトリウムNa」を入れて熱すればいい。すると激しく反応して「塩NaCl」が残るのだ。このような、クーロン力によるイオン結合でできた、塩のような化合物はイオン結晶を作る。例えば、除湿剤や融雪剤に使われている「塩化カルシウムCaCl₂」はイオン結晶である。重曹は「炭酸水素ナトリウムNaHCO₃」のことで、これもイオン結晶である。ちなみに、重曹クエン酸と混ぜて使うと汚れが落ちやすいとされている。大理石の主成分である「炭酸カルシウムCaCO₃」もイオン結晶である。「酸化アルミニウムAl₂O₃」も、イオン結晶である。


58.【イオン結晶の特徴】

 イオン結晶には以下の特徴がある。イオン結晶の特徴①は、「へき開すること(=特定の面で割れやすいこと)」である。例えば、岩塩の採掘でトンカチでカンカンとやると岩塩はパカっと割れている。イオン結晶の特徴②は「硬いが、割れやすいこと(陰陽イオンが交互に規則正しく並んでいる結晶だから一段ずれれば、相互に反発しあってしまうから割れやすい)」、イオン結晶の特徴③は、「融点が高いこと(例えば塩NaClが液体になるための融点は801度)」、イオン結晶の特徴④は「常温では、固体で存在すること」、そして最後にイオン結晶の特徴⑤は「固体の時に電気を通さないが熱して融解させて液体にしたり水溶液にしたりすると、電気を通すようになること」である。塩の結晶は立方体であり、Naの陽イオンとClの陰イオンが交互に綺麗に並んでいる。


59.【純水は電気を通さないが食塩水は電気を通す】

 塩水は電気を通すけれども、純水は電気を通す。水溶液にすると電気を通す物質を電解質という。電解質の代表は食塩水である。非電解質の代表はアルコールと砂糖である。水道水は塩素が溶けているので電気を通したりもする。


60.【食塩水に電気を通すとはどういうことなのか:イオン化傾向

 食塩水(NaCI)は、ナトリウムイオン(Na⁺)と塩化物イオン(C⁻)に電離して溶けるが、わずかながら、水中で水素イオン(H⁺)と酸化物イオン(OH⁻)も電離している。陽極は+極なので、CI⁻が引き寄せられ、電子を陽極に渡すことで塩素(Cl₂)が発生するが、塩素は水に溶けやすいため陽極はあまり泡立たない。陰極はー極なので、Na⁺が引き寄せられるが、電子を受け取ったナトリウムNaが析出したりはせず、むしろ水に溶けにくい水素(H₂)が発生する。これにより陰極は泡立つ。では、これはなぜか。なぜかというと、ナトリウムが水素より「イオン化傾向」が大きいからである。ナトリウムはイオンとして溶液中に留まるので水素イオンが押し出されて、この水素イオンが電子を受け取ることで水素H₂となるのである。陰極付近は、残ったナトリウムイオン(Na⁺)と酸化物イオン(OH⁻)から水酸化ナトリウム水溶液になる。これはフェノールフタレイン溶液が陰極付近で赤く染まることから確かめることができる。厳密には、陽極の塩素(=すぐに溶ける)と陰極付近の水酸化ナトリウムとが混ざり、次亜塩素酸ナトリウム(NaClO)になる。こういう一連の操作を「食塩水の電気分解」と呼ぶ。一般に、陰極で還元反応(電子が増える反応)、陽極で酸化反応(電子が減る反応)を起こして化合物を化学分解する方法を「電気分解」という。ただし、酸化銅を加熱して銅を作る時のように、還元によって酸素を奪うことを還元ともいうので注意が必要である。


61.【なぜ電気分解に炭素棒を使うのか】

 炭素棒は他の物質と化学反応しにくく、白金よりも安価だからである。


62.【スポーツドリンクからキセノンイオンのエンジンまで使われるイオン】

 スポーツドリンクは身体から汗と共に失われたイオンを補給しようとしている。つまり、スポーツドリンクは電解質である。温泉水も電解質である。温泉は皮膚を通してイオンを吸収させ、効能を発揮するという。リチウムイオン電池もイオンを使って充電と放電を繰り返すもので、化学者の吉野彰が開発した。これによりノーベル化学賞を受賞した。小惑星探査機はやぶさイオンエンジンもキセノンのプラスイオンを噴射して推進力を得ている。


63.【原子と分子を区別せよ】

 「空気には酸素が含まれている」という時、それは「O₂」のことを言っている。分子は「物質の性質を示す最も小さなまとまり」のことであってこれは「原子」ではない。


64.【化学式の中で分子式組成式と電子式と構造式を混同してはならない】

 「O₂」「Ne」「He」「Ar」は「分子式」であるが、塩のイオン結合の仕方を示す「NaCl」は「組成式」である。「電子式」は価電子の電子対を黒ポチで表した表現法である。「構造式」は単結合だった一本線で、二重結合は二本線で、三重結合は三本線で表した表現法である。分子結晶は分子式で表すが、共有結合結晶は組成式で表す。


65.【化学結合のひとつである共有結合

 「H₂」は共有結合で2個の電子を共有している。「H₂O」もそうである。酸素は価電子が6個だからネオン原子みたいに価電子が8個だとみなせるためには水素が2個必要だったのである。電子式で描けば水分子には非共有電子対が2組あることがわかる。水分子は酸素と水が共有結合の中でも「単結合」している。「二酸化炭素分子CO₂」は、共有結合の中でも「二重結合」している。「窒素分子N₂」は共有結合の中でも「三重結合」している。


66.【分子の形と匂いの関係】

 「アンモニア分子NH₃」は三角錐のような形、「メタン分子CH₄」は正四面体のような形、水分子は折れ線のような形、水素分子と窒素分子と二酸化炭素分子は直線形をしている。匂いがわかるのは分子の形が匂いの受容器に、鍵と鍵穴のようにフィットするからなのである。


67.【電気陰性度:フッ素樹脂加工のフライパン】

 電気陰性度とは、「共有結合をしている分子において、それぞれの原子が共有電子対を引き寄せる強さ」のこと。電気陰性度が一番大きくて、共有電子対をめちゃくちゃひきつけるのが、フッ素である。フッ素樹脂加工のフライパンは油をひかなくてもコゲが付着しない。それは、あらかじめフッ素がとても強い力でフライパンの表面の電子を確保しているから、他のものが付着しようがなくなっているからなのだ。


68.【電子レンジは水分子の極性を利用している】

 水素分子は電気陰性度が左右で等しいから偏りはない。「塩化水素分子HCl」は、偏りがあって、塩素の方が電気陰性度がとても大きいから、電子対は塩素にとても偏っている。だから塩素は僅かに負の電荷を帯びている。δには微小なという意味があるから、「塩化水素分子HCl」において塩素はδマイナスで、水素はδプラスになる。水分子は折線型であるから極性がキャンセルされなくなり、極性分子となる。二酸化炭素分子は直線型であるから極性が打ち消しあって、無極性分子となる。どういうことかというと、水分子の場合、水素よりも酸素の方が電気陰性度が大きい。それに対して、二酸化炭素分子の場合、炭素よりも酸素の方が電気陰性度が大きい。二酸化炭素分子では、酸素による電子のひっぱりがどちらも外向きで直線上になるから打ち消しあうけれど、水分子は酸素が電子を両側の水素から集めることになるが、折れ線型なので直線上にはならず、力が打ち消し合わない。メタン分子も二酸化炭素分子のように、極性が打ち消しあうから無極性分子である。メタンが正四面体構造だから、それぞれの力の合力がゼロになるのである。三角錐型のアンモニアも水分子のように打ち消し合うことが出来ず極性分子となるわけである。シクロヘキサンは無極性分子である。だから、水は静電気(例えば毛糸でこすったことで帯電したポリ塩化ビニルの棒)で引っ張ることができるけれど、シクロヘキサン(水素と炭素の化合物で分子式はC₆H₁₂)は静電気で引っ張ることができない。25℃の水と25℃のシクロヘキサンを電子レンジで温めると水は温まるけれどシクロヘキサンは温まらない。電子レンジはマイクロ波を照射させて水分子を振動させる仕組みだから、水分子の極性がないと振動しないのだ。また無極性のシクロヘキサンと極性の水分子は混ぜようとしても混ざらない。だから無極性のヨウ素で紫色に着色できるのはシクロヘキサンだけであるし、極性の硫酸銅(Ⅱ)で水色に着色できるのは水だけある。水性ペンが水で落ちるのに、油性ペンが水で落ちないのは、油性ペンのインクに極性がないが、水には極性があるため、両者は相互に混ざらないからである。砂糖はショ糖分子(=45個の原子で構成される分子=C₁₂H₂₂O₁₁)でできているが、ショ糖分子は極性分子だから、同じ極性分子である水に溶けやすいのである。


69.【分子結晶の特徴:無極性分子には静電気的な引力が働いていないのか問題】

 極性分子において静電気的な引力により分子が引きつけ合うのはいいとして、無極性分子においても電子がミクロに見ると運動しているせいで瞬間的には電子の偏りが生じてごく弱い極性が生じている。この分子間の引力で成立した結晶が「分子結晶」である。分子結晶の特徴はイオン結晶と比べて融点が低く、昇華しやすい。例えば「メントール」の固体などは極性分子の結晶なのにすぐに昇華する。ドライアイスなどは無極性分子の結晶だからさらにすぐに昇華する。ドライアイスは室温でさえ昇華する。ナフタレン(C₁₀H₈)も氷もヨウ素(I₂)も分子結晶である。メントールは、分子に極性があるから分子間力が大きいが、ドライアイスは分子に極性がないから分子間力が小さいのである。だから、メントールは室温だと固体のままだが、ドライアイスは室温でさえ昇華するのである。メントールもドライアイスも分子結晶ではあるが、極性分子か無極性分子かが異なるのである。


70.【化学結合のひとつである金属結合

 ガラス板は(常温だと)電気を通さない(高温だと通す)が10円玉は電気を通す。金属結晶自由電子が動き回ることで金属原子同士を結びつける金属結合によってできているから、その自由電子が動くことで電気を通すのである。「自由電子による金属原子同士の結びつき」のことを金属結合と呼ぶ。自由電子が動き回ることで、熱もよく伝えるのである。また、アルミホイルなどに顕著な金属光沢も、自由電子によるものである。さらに多少金属原子たちの位置や配列がズレても自由電子が自由に動き回ることで結合を維持できるのである。だから金属は伸びる。そういうわけで、金属結晶の特徴①は、電気伝導性が大きいこと、金属結晶の特徴②は、熱伝導性が大きいこと、金属結晶の特徴③は、金属光沢があること、金属結晶の特徴④は、延性(引っ張ると伸びること)と展性(押すと広がること)があることである。例えば、金箔は何度も金を叩いて金を1万分の1ミリメートルにまで伸ばすことができる。また送電線ワイヤーは金属を「ダイス」という器具で7倍に伸ばすことで作られている。アルミニウムと銅と鉄だと、銅→アルミニウム→鉄の順で熱伝導性が高い。銀や銅は鉄の5倍熱を伝えやすい。だから、プロの料理人の鍋は鉄製よりは銅製の場合がある。一般家庭では軽いのでアルミニウムの鍋が使われやすい。鉄の融点は1538度なので、融点が高い鉄の鍋は、火力がとても重要な中華鍋で使われている。


71.【結晶は基本的に四種類ある】

 結晶は①イオン結晶、②金属結晶、③分子結晶、④共有結合結晶がある。③分子結晶と④共有結合結晶は違うものなので注意が必要。分子結晶の代表はナフタレン(C₁₀H₈)、氷、ヨウ素(I₂)やドライアイスである。共有結合結晶の代表はダイヤモンド、ケイ素の単体、二酸化ケイ素、炭化ケイ素である。どちらも非金属元素で出来ている。有機溶媒ベンゼン(C₆H₆)に溶ける方が分子結晶で、溶けない方が共有結合結晶である。分子結晶は分子式で表すが、共有結合結晶は組成式で表す。一番覚えやすい覚え方としては、分子結晶は(前述した通り)昇華性を持つので融点が低く、共有結合結晶は融点が非常に高い。分子結晶の結合は分子間力(=ファンデルワールス力と水素結合のこと)だが、共有結合結晶の結合は共有結合である。ドライアイス黒鉛は理解が難しい。二酸化炭素分子CO₂自体は共有結合で出来ているが、それが分子間力で面心立方格子に並んでいるので、ドライアイスは③分子結晶になる。氷もそうで、水分子自体は共有結合で出来ているが、その結晶は分子間力だから③分子結晶である。黒鉛(グラファイト)の場合は、価電子が4つの炭素原子からできる黒鉛のシートそれ自体は共有結合で出来ているのだが、そのシートには価電子を3つしか使わないので残りの1個が運動できるようになっている。そしてこのシートそれぞれがファンデルワールス力でミルフィーユのように重なっているのが黒鉛なのだ(黒鉛が電気を通すのはこれが理由である。ただし、金属結晶自由電子は3次元方向に移動できるが、黒鉛の電子はそんなに自由ではない)。よって黒鉛はシートだけで見ると、④共有結合結晶ということになる。まとめると、③分子結晶はまず共有結合により分子が出来て、その分子が分子間力によって結晶化すると理解し、それに対して、④共有結合結晶 は、共有結合一本によって生じた結晶だ、と理解しておくといい。構成粒子の観点から見ると、①イオン結晶の構成粒子は①イオンであり(金属元素陽イオンを提供し、非金属元素の方が陰イオンを提供することでクーロン力によって結合している)、②金属結晶の構成粒子は②金属原子で、③ 分子結晶の構成粒子は③分子で、④共有結合の構成粒子は④非金属原子である。こうやって整理して理解するといい。ダイヤモンドは共有結合の結晶の代表であるが、炭素原子が共有結合だけでつながりピラミッド状の構造模型になる。シート上のグラファイトのようにはならない。ダイヤモンドの融点は4430℃だし、ダイヤモンドカッターに使えるほど硬い。それに対して黒鉛はシートだけで見れば共有結合の結晶だが、鉛筆に使えるほど脆い。ケイ素もダイヤモンドと同じようなピラミッド状の共有結合結晶を作る。シリコンウェハーという半導体の材料に使われている。融点で見てみると、①イオン結晶の融点は高く(塩は801℃)、②金属結晶の融点は色々(鉄は1535℃なのにタングステンは3410℃で水銀はマイナス39℃である)で、③分子結晶は低く(メントールは熱するとすぐに昇華してしまうしドライアイスは室温で昇華する)、④共有結合結晶の融点は非常に高い(ダイヤモンドの融点は4430℃)。


72.【有機化合物(=化合物のひとつ)と、無機物質の違い】

 有機化合物は1億種類くらいある。例えば、塩とガラスと乾電池は無機物質で、砂糖とプラスチックとノートは有機化合物である。有機化合物以外のものはなんでも無機物質である。「有機物は炭素をベースとしており、無機物質はそうではない」と理解していいのだが、驚くべきことに、炭素の同素体である黒鉛やダイヤモンド、それから二酸化炭素は無機物質である。塩は塩化ナトリウムからできている無機物質、ガラスは二酸化ケイ素からできている無機物質、乾電池は亜鉛などからできている無機物質、砂糖はサトウキビのショ糖からできている有機化合物、プラスチックは石油からできている有機化合物、ノートはセルロースでできている有機化合物である。空気も水も無機物質である。カイロの中に入っている鉄粉も活性炭も無機物質である。


73.【炭素と二酸化炭素が無機物である理由】

 有機物を空気中で燃やすと何が発生するかというと、二酸化炭素と水が発生するのでなければならない。これを化学反応式のように書いてみると「有機物+酸素→二酸化炭素+水」となる。このとき、二酸化炭素は、有機物の中の炭素と空気中の酸素とが結びついてできるのであるが、水のほうは、有機物の中の水素と空気中の酸素とが結びついてできるのである。だから、このような「有機物」であるための条件を満たすためには、「有機物」には「炭素」だけでなく、「水素」も含まれていなければならないことになる。しかし、炭素の単体である黒鉛や、二酸化炭素には、炭素はあっても、水素が含まれていないため、無機物という扱いになるわけなのだ。これが、炭素が無機物である理由である。だから、逆に、「有機物に含まれている原子を2種類答えなさい。」などと言われたら、「炭素と水素」と答えるのが正解となる。


74.【アンモニア発電】

 水素は宇宙で一番多くて軽い無機物である。水素を燃焼させるのが水素エンジン車であり、燃料電池車は水素と反応させて燃えた時に発生する電気で動くのが燃料電池車である。アンモニアNH₃も、燃えた時に二酸化炭素を出さない無機物質である。アンモニアを人工的に作るのは難しいと言われていたが、20世紀になってからアンモニアを窒素と水素から人工的に大量製造できるようになった。アンモニアによる発電も二酸化炭素を出さない。「脱炭素社会」とは水素やアンモニアのような無機物を有効に利用しようとする、環境負荷の小さい社会であると言える。


75.【有機化合物の代表である「炭化水素」とは何か】

 そもそも炭素原子は腕(=不対電子)が4つと多い。だから色々なものと結合できるわけだ。メタンはCH₄は単結合で一番簡単な構造をしている。都市ガスは基本、メタンである。炭素原子が二つの場合は、単結合して余った腕に水素原子がつく時はエタンC₂H₆で、二重結合して余った腕に水素原子がつく時はエチレンC₂H₄で、三重結合して余った腕に水素原子がつく時はアセチレンC₂H₂と呼ばれることになる。例えばエチレンはバナナの成熟に関係する植物ホルモンである。まだ熟れていないバナナにエチレンガスを噴射すると次第に黄色くなる。こういうCとHでできているものたちのことを「炭化水素」という。


76.【高分子化合物のポリエチレン】

 エチレン(C₂H₄)は二重結合である。エチレンの二重結合をひとつ切り離して単結合にしてから、それをどんどんつなげて作るのがポリエチレンである。エチレンのことをモノマーと言って、それを数千個とか繋げていく操作を重合と言って、その結果出来上がったものがポリマーである。ポリ袋とかポリタンクとかポリバケツはこうやって作るけれども、炭水化物は天然のポリマーであるし、タンパク質も天然のポリマーである。これを手本にして石油から人工的に作ったポリマーがプラスチックである。プラスチックとは例えば、ナイロンなどの化学繊維である。ヘキサメチレンジアミン(C₆H₁₆N₂を、水酸化ナトリウム水溶液(NaOH)に混ぜ合わせた溶液と、アジピン酸ジクロリド(C₆H₈Cl₂O₂)のヘキサン溶液(C₆H₁₄)を用意して、ヘキサメチレンジアミンと水酸化ナトリウム水溶液の入ったビーカーに、アジピン酸ジクロリドのヘキサン溶液を静かに加えていくと、溶液の境界面に白っぽい膜ができ、これがナイロンである。ピンセットで白い膜を摘み上げると境界面でどんどんポリマーが発生して全然終わらない。ナイロンは絹を再現しようとして作られた人工繊維である。


77.【プラスチックの下位分類】

 熱可塑性樹脂と熱硬化性樹脂の区別は知っておこう。熱可塑性樹脂はペットボトルなどである。ペットとはポリエチレンテレフタラートの略称である。ペットボトルは回収すればシャツやフリースの原料としてもう一度使えるわけである。生分解性プラスチックなら回収されなくても微生物に分解してもらうことができる。熱硬化性樹脂は食器や電気製品に使われているが、再利用が難しい。紙オムツに使われているのは「高吸水性樹脂」である。ネイルサロンでネイルに使われているのは、専用の紫外線を当てると固まる「感光性樹脂」である。


78.【アンモニウムイオンと配位結合】

 アンモニア(NH₃)がアンモニウムイオン(NH₄⁺)になるときのように、非共有電子対を水素が一方的に共有させてもらって結合することを配位結合という。共有結合は双方向の共有だが、配位結合は一方的である。配位結合によってできるイオンが「錯イオン」である。例えば、非共有電子対を持つアンモニアを配位子とするテトラアンミン銅(Ⅱ)イオンは、「錯イオン」である。錯イオンには金属イオンが多く、金属イオンは基本陽イオンである。


79.【なぜ血は赤いのか】

 血液が赤血球を含み、赤血球がヘモグロビンを含むからである。ヘモグロビンは酸素を鉄(Ⅱ)イオンの配位結合によって運んでいる。


80.【化学反応式の書き方】

 「2NaCl → 2Na + Cl₂」とか「2H₂ + O₂ → 2H₂O」とか「Mg + 2HCl → MgCl₂ + H₂」とか「CH₄ + 2O₂ → CO₂ + 2H₂O」とか「2CO  + O₂ → 2CO₂」みたいな式のことを化学反応式という。この式は何を表現しているのかというと、比を表現している。しかも粒子の比を表現している。要するに、「化学反応式の係数の比は物質量(=粒子の個数)の比を表している」のだ(ただし、「2CO  + O₂ → 2CO₂」みたいな気体だけの化学反応式の場合には、それぞれの分子についている係数の比は気体の体積の比になっているとも言ってよい)。化学反応式の係数の比は質量の比を表しているのではないことに注意しよう(例えば、「2CO  + O₂ → 2CO₂」で考えるよよくわかる。2モルの一酸化炭素分子と1モルの酸素分子が反応して2モルの二酸化炭素ができたとして、この時、2モルの一酸化炭素というのはモル質量が28だから56gで、同様に計算すると1モルの酸素は32gで、二酸化炭素は88gとなる。で、この質量比は「7対4対11」となって、係数比の「2対1対2」とは一致していないことがわかる。でも、よく見れば気づくことだが、「56g+32g=88g」なのだから、「反応物と生成物の間に質量保存則が成り立っている」ことがわかる。ラボアジエが発見した「質量保存の法則」はこれである。)。だから、粒子の個数を表現している「物質量」の概念を理解しておけばそれほど難しくない。化学反応を式で表現できること自体がすごいことなのである。化学反応する前の物質のことを反応物という。化学反応した後の物質を生成物という。化学反応の前後で原子の種類と数は変化しないことが知られている。化学反応式を作る時には、含まれている原子の種類が最も多い分子の係数を1にして考えると良い。「2CH₄ + 4O₂ → 2CO₂ + 4H₂O」みたいに、最も簡単な整数比「1対2対1対2」にまだできるものは間違っている化学反応式である。例えば、酸化銀の熱分解の化学反応式「2Ag₂O → 4Ag +O₂」と書けばよい。反応の前後に変化しなかった溶媒や「酸化マンガン(Ⅳ)」などの触媒は化学反応式は書かない。例えば、「HCl + NaOH → NaCl + H₂O」という全ての係数が1になっている化学反応式の場合、反応の前後で変化していない溶媒の水は変化していないから省略してよい。「2H₂O₂ → O₂ + 2H₂O」において、酸化マンガン(Ⅳ)である「MnO₂」は反応式に書き加える必要はない。酸化マンガン(Ⅳ)は過酸化水素水の酸素と水への分解を促進しているだけだからだ。ひとつ具体的にやってみよう。例えば「CaCO₃ + 2HCl → CaCl₂ + CO₂ + H₂O」という化学反応式について、炭酸カルシウム1.00gと塩酸の化学反応で二酸化炭素は何グラムできるのか考えたい。ここでCaCO₃とCO₂の係数は同じだから、CaCO₃とCO₂の物質量は等しくなることがわかる。CaCO₃の式量は「40+12+16×3=100」だから、1.00gのCaCO₃の物質量(=粒子の数)は0.0100mol(←有効数字が3桁なので、0.01molと書いてはならない)であることがわかり、だとすると発生したCO₂の物質量も0.0100molであることがわかる。二酸化炭素の分子量は44だから、モル質量は44g/molということになり、0.0100molの二酸化炭素というのは、0.44g(←有効数字は2桁と3桁で掛け算したら2桁の方に合わせるので、答えを0.440gと答えてはいけない)であると分かる。


81.【イオン反応式の書き方】

 イオンを含む化学反応式がイオン反応式である。例えば、硫酸銅(Ⅱ)水溶液という青い液体の中に亜鉛を入れると青色はだんだん薄くなっていき、亜鉛の表面に赤い色の物体が付着してきて、逆に亜鉛は硫酸の中に溶け出してしまう。ここでは何が起こっているのかを考えてみよう。水溶液中で硫酸銅は2価の陽イオンである銅イオンと硫酸イオンに電離していてそこに亜鉛が入ってきたわけである。すると銅は亜鉛の表面に析出し、亜鉛亜鉛イオンに変わって水溶液中に電離したというわけである。「Cu²⁺ + SO₄²⁻+ Zn → Cu + SO₄²⁻+ Zn²⁺」という化学反応式は過剰である。反応の前後で変化しなかったものは省略していいのだ。「Cu²⁺ + Zn → Cu + Zn²⁺」としたらイオン反応式の完成である。イオン反応式は反応の前後で電荷の総和が等しくなっていないといけないのだ。


82.【酸と塩基の具体例】

 塩基の中でも水に溶けるもののことをアルカリという。その水溶液が示す性質がアルカリ性である。なので、酸性の反対はアルカリ性だというのはあまり正確ではない。酸性の反対は塩基性である。紫キャベツに含まれるアントシアニンという天然色素は、酸性になると赤くなり、塩基性になると緑に変色する性質がある。レモン果汁やお酢は酸性で、石鹸水は塩基性である。食塩水は中性である。酸性を示す性質を持つものを酸といい、塩基性を示すものを塩基という。つまり、あくまでも酸や塩基は酸性や塩基性を示す物質のことであるから注意が必要である。酸の代表は塩酸や酢酸や硫酸で、塩基の代表は水酸化ナトリウム水酸化カルシウム水溶液やアンモニア水溶液である。酸性の正体は水素イオン(H⁺)で、塩基性の正体は水酸化物イオン(OH⁻)であることが知られている。酸は青色リトマス試験紙を赤色に変え、ブロモチモールブルー(BTB)溶液を黄色に変え、マグネシウムなどと反応して水素を発生するものだという特徴を覚えておくといい。


83.【指示薬とは何か】

 BTB溶液は純粋では緑色だが、そこに塩酸を入れると黄色になり、そこに水酸化ナトリウムを入れると青色に変わる。フェノールフタレイン溶液は無色で、塩酸を入れても無反応だが、水酸化ナトリウムを入れると赤く染まる。塩酸にマグネシウムを入れると激しく反応して水素を出す。手につけると「ぬるぬる」するものは塩基性である。以下のものは特に、「pH指示薬」と呼ばれている。①メチルオレンジ(MO)と②フェノールフタレイン(PP)と③ブロモチモールブルー(BTB)は覚えておこう。メチルオレンジはpH3.1からpH4.4で赤くなる変色域を持っている。フェノールフタレインpH8.0からpH9.8で赤くなる変色域を持っている。ブロモチモールブルーは、中性だけ緑色で、pH6.0より低いと黄色で、pH7.6より高いと青色になるから、変色域はpH6.0からpH7.6である。これらの指示薬を混合させて、つまり具体的には、メチルオレンジ(MO)とフェノールフタレイン(PP)とブロモチモールブルー(BTB)を1対1対5の割合で混ぜてろ紙に染み込ませると、「万能pH試験紙」が作れる。


84.【アレニウスは、あくまでも水に溶けることにこだわった人物である:アレニウスの定義】

 アレニウスは、「酸とは水に溶けて水素イオン(H⁺)を生じる物質のことであり、塩基とは水に溶けて水酸化物イオン(OH⁻)を生じる物質のことである」と定義した。例えば、純度100%の酢酸は液体であるが、ここにマグネシウムを入れてもほとんど反応しない。これは、純度100%の酢酸(CH₃COOH)の中では酢酸は電離できないからである。電離できないということは「CH₃COO⁻」と「H⁺」に分かれられないということだから、「H⁺」がないので酸性の性質がなくなってしまうということなのである。同様に、純度100%の酢酸は電気を通さないが、水を入れると電気を通すようになる。酢酸が電離してイオンが生じているから電気を通せるようになったのである。アレニウスの定義は狭義の酸と塩基の定義であり、広義には水に溶けないものも酸や塩基と呼ぶ場合がある。例えば、無色透明の塩化水素の気体と無色透明のアンモニアの気体をぶつけると、反応して白い煙となって塩化アンモニウムの微小な固体が出てくるのだが、この時、水溶液は全くないのに酸と塩基の反応が起こっていることがわかる。「HCl + NH₃ → NH₄Cl」という反応である。アンモニアはここで「OH⁻」を生じさせたわけではないが、塩化水素から「H⁺」を奪ってきて塩化水素の酸性をキャンセルしているので、アンモニアはここでは水溶液に溶けていないけれども塩基として働いているということになる。


85.【アンモニア塩基性なのはどういうわけか】

 アンモニアは分子が「NH₃」なので、「OH⁻」を含んでいないのに塩基性の性質を示すのは変である。これはどういう事情かというと、アンモニアは水に溶けると一部が「NH₄⁺」となって水から水素を奪うことで水酸化物イオンを発生させるのである。だからアンモニアは、れっきとした塩基扱いなのである。これは「NH₃ + H₂O ⇄ NH₄⁺ + OH⁻」と表現される。この化学反応式を見ればわかる通り、「アンモニアは水と反応して水酸化物イオンをつくるから、塩基」なのである。


86.【ブレンステッドとローリーの酸と塩基の定義】

 ブレンステッドとローリーは、水溶液にも限定されず、しかも水酸化物イオンが生じていなくても酸と塩基だといえる定義を考えた。すなわち、「酸とは水素イオン(H⁺)を与える分子またはイオンのことであり、塩基とは水素イオン(H⁺)を受け取る分子またはイオンのことである」と定義した。


87.【酸には酸素が入っているというラボアジエの酸素説が日本にまず輸入されてしまった問題】

 そもそも「塩酸」には酸素が入っていない。酸素が入っている水酸化物は酸ではなく塩基である。なぜこんなネーミングなのだろうか。①18世紀にラボアジエが「酸には酸素が入っている」という「酸の正体は酸素説」を提唱し、それが江戸時代の日本に輸入された時の翻訳にも反映されてしまっているのだ。酸の素(もと)だから、「酸素」と名付けられたのである。②その後、水素が入っているものが酸であるという「酸の正体は水素説」が登場し、③その後アレニウスが「酸の正体は水中で電離した水素イオン説」を提唱した。④さらに、水以外の有機溶媒や、液体アンモニアの中でも酸だとか塩基だとかを言えるように、ブレンステッドとローリーがアレニウスの定義を拡張したのである。


88.【強酸と弱酸の区別の根拠は電離度であり、電離度が低いとは水素を好むということである】

 お酢は食べても大丈夫だけど、塩酸は食べたら大変なことになる。酸には強度があるのだ。酸の強度は何で決まるのかというと、酸の正体は、「水素イオン(H⁺)」なので、水素イオン(H⁺)の濃度で決まる。しかし、同じモル濃度の酢酸溶液と塩酸溶液であっても、そこにマグネシウムを入れると全然塩酸の方が反応速度が速くなる。これはなぜなのだろうか。水溶液中での電離の様子を調べると次のようになっているのだ。塩酸の場合は「HCL→H⁺ +Cl⁻」で、酢酸の場合は「CH₃COOH ⇄ H⁺ + CH₃COO⁻」となっている。すると、矢印が問題なのだ。塩酸は一方通行だから、たとえ酢酸と同じモル濃度でも水溶液中で全ての水素イオンが電離していることになるのだが、酢酸は塩酸と同じモル濃度でも、反応がどちらむきにも進んでいることを示している。だから、酢酸は水溶液中では分子に戻ってしまうものもあるので、水素イオン(H⁺)濃度だけをみると、1mol/Lの酢酸溶液よりも1mol/Lの塩酸溶液の方が大きくなるのだ。これが強酸と弱酸の区別である。塩酸は強酸であるが、酢酸は弱酸である。弱酸は水溶液中で一部しか電離せず、分子のままの酢酸分子もあるというわけである。実は同じことが強塩基と弱塩基にも言える。強塩基の代表は水酸化ナトリウムで、弱塩基の代表はアンモニアである。アンモニアの電離は「NH₃ + H₂O ⇄ NH₄⁺ + OH⁻」のように双方向的だが、水酸化ナトリウムの電離は「NaOH → Na⁺ + OH⁻」のように一方向的になっている。同じモル濃度だと、溶けている物質の粒子の数も同じはずなのであるが、たとえ同じモル濃度でも、強酸は電気電動性が高いが、弱酸は電気伝導性が低い。これもやはり、たとえ同じ物質量(=粒子の数)が溶けているとしても、その内で、イオンになって電離しているものが弱酸の方が少ないのである(=まだ分子のままでいるものもたくさんいるのである)。弱酸水溶液中に電子を運べるイオンが少ししかなければ、電気伝導性が高くならないのも納得がいくだろう。「溶かした酸の粒子の数のうち、どれくらいが電離しているか」を「電離度アルファ=電離した酸または塩基の物質量(mol)/溶解した酸または塩基の物質量(mol)」を使って表現する。強酸の電離度はほぼ1だが、弱酸の電離度は1よりもかなり小さい値になる。酸と塩基の強弱は電離度で決まるのである。


89.【①強酸、②弱酸、③強塩基、④弱塩基の代表を覚えておこう】

 ①強酸の代表は、塩酸と硝酸と硫酸である。②弱酸の代表は、酢酸と硫化水素とシュウ酸と炭酸とリン酸とクエン酸である。③強塩基の代表は水酸化ナトリウムと水酸化カリウム水酸化カルシウムと水酸化バリウムである。④弱塩基の代表は、アンモニアと水酸化銅(Ⅱ)と水酸化マグネシウムと水酸化アルミニウムである。ここで注意点を書いておく。例えばクエン酸は3価の酸(=1分子から放出しうる水素イオンの数が3つである酸)であるが強酸ではなく弱酸である。それに対して塩酸は1価の酸で硫酸は2価の酸であるが、強酸である。だから、酸の強弱はあくまでも「電離度アルファ」で決まるのであって「価数」で決まるわけではないのだ。酸の価数は酸の強弱と無関係なのである。水酸化アルミニウムは、3価の塩基であるが、電離度は低いので、弱塩基である。強酸といえば塩酸、弱酸といえば酢酸、強塩基といえば水酸化ナトリウム、弱塩基といえばアンモニアだと覚えておけば十分である。


90.【ペーハーまたはピーエイチ(水素イオン指数)は「水素イオン濃度」で決まる】

 pHは水素イオン指数と言って、7が中性で、0に近づけば酸性で、14に近づけば塩基性になる。pHが1減るごとに水素イオン濃度は10倍に増える。ところで、純水は電気を通さないのだが、実は僅かに電離してはいる。それを「H₂O ⇄ H⁺ + OH⁻」と表現する。水素イオン濃度と水酸化物イオン濃度が等しい時にこれを中性という。水素イオン濃度は[H⁺]と表現する。これが25℃の純水中では「[H⁺]=[OH⁻]=1.0×10⁻⁷mol/L(25℃)」となって釣り合っている。ここに塩酸を加えるとどうなるかというと、塩酸は強酸だから水中でほぼ全部電離して行くので、溶液中の水素イオン濃度がめっちゃ増える。そして、純水中にもともと「[OH⁻]=1.0×10⁻⁷mol/L」分だけ含まれていた水酸化物イオンたちは、この増えた水素イオンと結合してある程度は水になってしまう。それゆえ[OH⁻]は減少するのだ。そして、水素イオン濃度が増えるのだ。これが酸性になるということなのである。逆に、ここに水酸化ナトリウムを加えていたらどうなるかというと、水酸化ナトリウムは強塩基だから水中でほぼ全部電離していくので、溶液中に水酸化物イオンがめっちゃ増える。そして、純水中にもともと「[H⁺]=1.0×10⁻⁷mol/L」分だけ含まれていた水素イオンは、この水酸化物イオンと結合してある程度は水になってしまうから、水素イオン濃度が減るのだ。これが塩基性になるということなのである。だとすると、[H⁺]と[OH⁻]を掛け算した値はいつも一定の「1.0×10⁻¹⁴(mol/L)²」という値になる(=[H⁺]と[OH⁻]は反比例する)というわけだ。水溶液中では、「水素イオン濃度が増えれば水酸化物イオン濃度が減り、水酸化物イオン濃度が増えれば水素イオン濃度が減る」、というふうに覚えておこう。例えばコーヒーのpHは5で弱酸性だし、レモン汁や梅干しのpHは2だし、レモンティーやヨーグルトのpHは4だし、石鹸水のpHは9で弱塩基性である。こんにゃくはpHが10である。人間の涙はpHが8.2で弱塩基性である。人間の血液のpHは7.4で弱塩基性っぽい中性である。人間の唾液のpHは6.4である。人間の汗のpHは5.4で、人間の胃液はpHが1.5である。日本の雨はpH5.7くらいであり、これより下がると酸性雨と呼ばれる。海はもともと塩基性なのだが、近年、大気中の二酸化炭素が増え続けていることの影響で、どんどん酸性化しているという(=海に溶け込む二酸化炭素が増えることで、弱塩基性のはずの海が少しずつ中性に近づいているということ)。また、日本は雨が多いので塩基が流れて酸性になってしまいやすい。しかも、雨自体が大気中の二酸化炭素が溶けているため、弱酸性である。だから、日本の弱酸性の畑の土に、石灰を加えると中和することができる。作物が好むpHは作物によって違うので農家は、混ぜる石灰の量を調節しているのである。しかし、例えば、ブルーベリーは強い酸性の土(pH4.5からpH6.0)を好むので、むしろ石灰を加えない方がいい。


91.【最重要項目:中和点に達した溶液が中性になるとは限らないし、正塩が溶けていると中性になるとも限らない】

 酸と塩基が反応してできるものは、酸の正体が水素イオンで、塩基の正体が水酸化物イオンだから、「水である」といいたくなる。しかし答えは「水と塩(えん)である」と言うべきだ。実際、酸が塩基の、塩基が酸の性質を失わせてしまうのは、水ができるからである。しかし、酸の水素イオンと塩基の水酸化物イオンが過不足なく反応した地点を中和点というが、中和点に達した溶液が中性になるとは限らない。中和反応とは酸と塩基が反応して水と塩(えん)ができる化学反応のことである(ただし、アレニウスの定義が拡張されるべき根拠となった事実だが、酸と塩基の反が水なしで起こることがある。例えば酸である塩化水素の気体と塩基であるアンモニアの気体を混ぜると固体の塩化アンモニウムという塩(えん)だけが発生するが、ここに水は生じない)。そういうわけで、中和点に達すると塩(えん)が生じる。その塩には正塩や酸性塩や塩基性塩があるのである。しかし、ここからさらにややこしくなる。正塩や酸性塩や塩基性塩という塩(えん)の種類とその塩(えん)を溶かした時の水溶液が何性になるのかは必ずしも一致しないのである。例えば、コニカルビーカーにあるモル濃度の酢酸を入れて、その上にあるビュレットにも全く同じモル濃度の水酸化ナトリウムを入れて、水酸化ナトリウムを中和点まで、つまりコニカルビーカーの中の酢酸と、上から落ちてきた水酸化ナトリウム溶液とが、全く同じ体積になるまで滴下することで中和反応である「CH₃COOH + NaOH → CH₃COONa + H₂O」を起こしたとしよう。例えば、酢酸が0.1mol/Lで100mLだとしたら、水酸化ナトリウムも0.1mol/Lにして、水酸化ナトリウムを100mLぶんだけ垂らしていくのである。こうして中和点に達した溶液には正塩である酢酸ナトリウムが0.1molぶんだけ溶けているはずだが、ここにBTB溶液を垂らすと、なんと青く染まるのである。つまり、中和点に達すると中性になるどころか、塩基性になっていることがわかる。このことから、中和点に達した溶液が中性になるとは限らないし、正塩が溶けている溶液が中性になるとも限らないということがわかる。なぜこうなるのか。そもそも酢酸は1価の酸である。水酸化ナトリウムは1価の塩基である。価数とは1分子あたりから生じうる水素イオンまたは水酸化物イオンの数のことである。だから、1価の酸と1価の塩基を中和させれば正塩ができるのだ。しかし、酢酸とは弱酸で、水酸化ナトリウムは強塩基である。中和反応により生成した酢酸ナトリウムCH₃COONaの溶液では「塩(えん)の加水分解」が起きているのである。つまり、酢酸ナトリウムは酢酸イオンとナトリウムイオンとに溶液中で電離しており、溶媒の水も「H₂O ⇄ H⁺ + OH⁻」として僅かに電離しているから、その酢酸イオンが水の水素イオンを奪ってきて酢酸分子CH₃COOHになってしまうのである。これにより、水酸化物イオンOH⁻が残留することで、酢酸ナトリウム溶液は弱塩基性を示していたというわけである。これが塩(えん)の加水分解であり、塩(えん)の加水分解が起きる理由は、酢酸が弱酸であるからである。弱酸とは電離度が小さい酸ということで、電離度が小さいというのは水素イオンを手放しにくいという意味である。それゆえ、酢酸イオンは水素イオンを再回収して酢酸に戻ろうとしてしまうのだ。正塩の水溶液が酸性になることもあるので注意が必要。


92.【中和とはどういう状況か】

 0.1mol/Lのモル濃度の酸である塩酸の水溶液50mLと0.1mol/Lのモル濃度の塩基である水酸化ナトリウムの水溶液50mLがあり、これらを中和させていく。この時の化学反応式は「HCl + NaOH → NaCl + H₂O」となり、この時のイオン反応式は「H⁺ + OH⁻ → H₂O」となる。イオン反応式では、「Na⁺」や「Cl⁻」は反応の前後で変化しないので、書かれずに省略されるのである。化学反応式の係数の比は物質量の比を意味する。与えられた濃度と体積から物質量を求めると、塩酸は「0.1mol/L × 0.050L = 0.005mol」となるし、水酸化ナトリウムの物質量も0.005molとなる。それゆえ生じた塩も0.005molとなる。この時中和点を見つけるのは非常にシンプルで、塩酸を水酸化ナトリウムの水溶液にそのままいれればそれで終わりである。0.005molというのは粒子の数のことであって、水素イオンの数ではないのだが、塩酸の場合は1価の酸なので、たまたま水素イオンの数も0.005molになっているからだ。


93.【中和反応の量的関係を方程式にする】

 0.1mol/Lのモル濃度の酸である硫酸の水溶液50mLと0.1mol/Lのモル濃度の塩基である水酸化ナトリウムの水溶液50mLがあり、これらを中和させていく。この時の化学反応式は「H₂SO₄ + 2NaOH → Na₂SO₄ + 2H₂O」となる。塩酸は1価の酸であるが、硫酸は2価の酸である。2価の硫酸は、電離した時に水素イオンの数が1価の塩酸の2倍になる。それゆえ、ちょうど過不足なく中和させるためには、硫酸をそのまま水酸化ナトリウムの水溶液に入れればいいなんてことにはならない。それだとむしろ水素イオンが余って、酸性溶液ができてしまう。ここで、酸の体積と濃度と価数が全てわかっていれば、水素イオンの数がもとまるんだから、実際にやってみよう。例えば、「0.10mol/Lのモル濃度の塩基である水酸化ナトリウムの水溶液50mLを過不足なく中和させるために、0.10mol/Lのモル濃度の酸である硫酸の水溶液はどのくらいの体積が必要か」と問われたらどうしたらいいだろう。以下のような方程式、すなわち、「左辺が水素イオンの物質量を表し、右辺が水酸化物イオンの物質量を表すような方程式」を解けば良い。すなわち、「硫酸の価数2 × 0.10mol/L× XL = 水酸化ナトリウムの価数1 × 0.10mol/L× 0.050L」という式を変形して「2X = 0.050L」となって、「X=0.025L」となるというわけだ。この方程式を使えば、どんな物質が溶けている水溶液でも、どのくらいあれば中和させられるのかを瞬時に計算して求めることができる。しかもこの方程式は弱酸に対しても有効である。弱酸は電離度が小さいのだから、塩基と混ざるとあっという間に水素イオンを消費してしまうように感じるかもしれないがそんなことは全然なくて、確かに電離度は小さいけれど、なくなれば次から次へとどんどん供給されていくので、結局この方程式が有効に機能するのだ。塩酸と酢酸は、強酸と弱酸という違いはあるが、それは水素イオンをすぐに手放すか、それとも抵抗しつつ手放すかという違いでしかなく、1分子が1個しか水素を放出できないということ自体は塩酸と酢酸で同じなのである。この方程式を「acV(酸の価数×酸の水溶液の濃度×酸の水溶液の体積)=bc’V’(塩基の価数×塩基の水溶液の濃度×塩基の水溶液の体積)」と表現することがある。


94.【中和滴定によって、もう片方の溶液の未知の濃度を調べられる】

 「ある水溶液中の酸素イオンの物質量と水酸化物イオンの物質量を過不足なく同じにする操作」のことを「中和」という。そして、「中和」を使って溶液の未知の濃度を調べることができるのが中和滴定である。例えば、あるお酢の濃度を調べたいとする。そのお酢を10倍に希釈したものから10.0mLだけホールピペットを使ってサンプルとして取り出す。そしてそのサンプルを、濃度が既知で、0.100mol/Lとわかっている水酸化ナトリウム水溶液をビュレットから滴下することで、中和してみるのだ。それで、中和点までに必要だった水酸化ナトリウムの体積がわかれば、サンプルの濃度が「中和反応の量的関係の式」によって計算でわかり、サンプルの濃度がわかれば、サンプルを取り出す前のお酢の濃度がその10倍だとわかる、というのが中和滴定の原理である。また、水酸化ナトリウム水溶液をビュレットから滴下しつつ、中和点に達したということがどうやってわかるのかというと、フェノールフタレイン溶液をあらかじめサンプルの入ったコニカルビーカーに垂らしておけば、落ちてきた水酸化ナトリウムに反応して発色した赤色が、消えなくなったタイミングが中和点だと、わかるのである。というのも、酢酸と水酸化ナトリウムの中和滴定の場合、中和してできた酢酸ナトリウムは正塩だけれども加水分解が起きているので、弱塩基性だからである。「CH₃COOH + NaOH → CH₃COONa + H₂O」という化学反応式を見ればわかる通り、酢酸がちょうどなくなって酢酸ナトリウム水溶液になったとき、酢酸ナトリウムの加水分解が起きて、酢酸ナトリウムは水素を奪ってきて水中に水酸化物イオンが残ることで水溶液は全体として弱塩基性になるのだ。それで、フェノールフタレインの赤色が消えなくなったところがピッタリ中和点だと言えるのである。もし、実際に中和滴定をやってみたら、中和点までに必要だった水酸化ナトリウムの体積が例えば7.43mLだったとすると、「酢酸の価数1 × Xmol/L× 0.0100L = 水酸化ナトリウムの価数1 × 0.100mol/L× 0.00743L」という式が立つ。これを計算すると「X=0.0743」で、それゆえに未知のお酢の濃度はその10倍の0.743mol/Lだと求まるというわけである。


95.【中和滴定で使う指示薬を変えなければならない場面】

 滴定曲線を見たときにpHジャンプのところにちょうど指示薬の変色域がきていない場合には、中和滴定で使う指示薬を変えなければならない。例えば、強酸と弱塩基、つまり塩酸とアンモニア水を中和滴定する時には、指示薬はフェノールフタレインではなくメチルオレンジを使わないといけない。弱酸と弱塩基のときには、pHジャンプがほとんど起きないため、どんな指示薬でも中和点を知ることはできない。つまり、弱酸と弱塩基のときには中和滴定がそもそも難しいのである。


96.【共洗い】

 これから使う溶液で器具の中を何回か洗うことを「共洗い」という。


97.【塩化水素の水溶液(=塩酸)を熱すると蒸発するので何も残らない】

 あまり意識されていないことだが、塩酸を熱して蒸発させると、塩化水素が、気体の塩化水素として蒸発していってしまって何も残らない。それに対して、水酸化ナトリウムは熱すると水酸化ナトリウムの結晶が残る。


98.【塩(えん)を溶かすと液性はどうなるのか問題:「正塩だから中性だ」はおかしい】

 強酸といえば①塩酸、弱酸といえば②酢酸、強塩基といえば③水酸化ナトリウム、弱塩基といえば④アンモニアだ。①と③を混ぜると塩(えん)として食塩ができ、食塩は正塩で水溶液は中性である。①と④を混ぜると塩(えん)として塩化アンモニウムができ、塩化アンモニウムは正塩であるが水溶液は酸性である。②と③を混ぜると塩(えん)として酢酸ナトリウムができ、酢酸ナトリウムは正塩であるが水溶液は塩基性である。②と④を混ぜると塩(えん)として 酢酸アンモニウムCH₃COONH₄ができ、酢酸アンモニウムは正塩であるし、水溶液は中性になる。


99.【典型的な塩(えん)の分類】

 ①塩化ナトリウムNaClと、②塩化アンモニウムNH₄Clと、③酢酸ナトリウムCH₃COONaは正塩である。④重曹または炭酸水素ナトリウムNaHCO₃と、⑤硫酸水素ナトリウムNaHSO₄は酸性塩である。⑥塩化水酸化カルシウムCaCl(OH)と、⑦塩化水酸化マグネシウムMgCl(OH)は塩基性塩である。また、中和点でできる溶液が中性とは限らないし、塩(えん)の種類によってその塩の水溶液の液性が決まるのではないから注意するべき。


100.【「遊離」とは何か:弱酸塩と強酸の反応がその典型】

 弱酸の塩である炭酸ナトリウムNa₂CO₃と強酸の塩酸が反応すると激しく発泡して気体の二酸化炭素が発生する。化学反応式は「Na₂CO₃ + 2HCl → 2NaCl + CO₂ + H₂O」となる。「弱酸塩と強酸が反応すると、強酸の塩である食塩NaClが発生する過程で、弱酸の二酸化炭素であるCO₂ が追い出されること」などを「弱酸の遊離」という。より一般化していえば、「弱酸の遊離」とは「強い酸が弱い酸からイオンを奪って塩になろうとする」ことである。逆に、「弱塩基の遊離」も存在する。例えば、「弱塩基の塩」である塩化アンモニウムと強塩基である水酸化ナトリウムを混ぜて熱を与えてやると、強塩基の塩であるNaClが発生する過程で、弱塩基の気体であるアンモニアが発生する。これが弱塩基の遊離である。化学反応式は「NH₄Cl + NaOH → NaCl + NH₃ + H₂O」となる。


101.【中和反応は例えばどこで利用されているのか】

 ①塩基性の胃薬も、②色が消えるタイプのスティックのり(=塩基性では青いが、空気中の二酸化炭素を吸うことで中和されて酸性化されることで無色になる指示薬を混ぜたのり)も、③発泡入浴剤(=弱酸の塩である炭酸水素ナトリウムと強酸であるフマル酸が反応して「弱酸である二酸化炭素の遊離」が起きるから泡が出る入浴剤で、お湯に溶けた二酸化炭素は皮膚から吸収されて血管を広げて血流量を増やすとされる)も、中和反応を利用している。また例えば、トイレの嫌な匂いの原因はアンモニアである。だから、④無香料の消臭剤はアンモニアを中和させているのだ。例えば、クエン酸の水溶液はアンモニアを中和することができる。アンモニアは水と反応して水酸化物イオンを作るから「NH₃ + H₂O ⇄NH₄⁺ + OH⁻」と表現できて、塩基である。塩基であるアンモニアと酸であるクエン酸を中和反応させると、「3NH₃ + C₆H₈O₇ + 3H₂O → C₆H₅O₇(NH₄)₃ + 3H₂O」となって、匂いのするアンモニアクエン酸アンモニウムC₆H₅O₇(NH₄)₃ という匂いのない物質に変化していることがわかる。猫用のトイレに敷かれている猫砂にはクエン酸カテキンという酸性物質が含まれており、これがアンモニアと中和反応を起こしているのである。⑤みかんの缶詰を作るときにみかんの薄皮を溶かすのは塩酸と水酸化ナトリウムであり、両方で溶かせば最終的には中和できるのである。まず塩酸で薄皮を溶かし、次に水酸化ナトリウムで薄皮をさらに溶かせば中和されるから最終的には安全というわけだ。⑥ラムネ菓子も中和反応で、唾液にラムネ菓子が溶けると、成分のクエン酸が成分の重曹で中和され、そのときに二酸化炭素が発生するからシュワシュワするのである。


102.【「靴の消臭剤」は「猫用トイレ」とは原理がちょうど逆】

 靴の匂いの原因物質は「イソ吉草酸」であるから、「酸」である。だから、靴の消臭剤には塩基が入っている。


103.【草津温泉は酸性である】

 草津温泉では強酸性のお湯が沸いている。だから湯畑の温泉のpHは2.3で強い酸性なのである。だから、近くの川には生物が住めないし、コンクリートはボロボロになる。そこで、草津中和工場では、塩基性石灰石を細かく砕いて川に混ぜている。それゆえ草津下流でも魚は住めているのである。草津下流はかつて「死の川」と呼ばれていたのである。また、草津の湯川を中和したおかげで、川の水は農業用水にも使えるようになった。


104.【カイロはなぜ温まるのか】

 ①鉄粉と②活性炭と③食塩水を用意する。全部、無機物質(炭素の単体は有機物ではなくむしろ無機物であることに注意せよ)である。活性炭は空気を取り込んで鉄粉に酸素を送り続けるための物質である。同じように、冬にコンビニで買えるカイロをもむと暖かくなるのは、外気を取り込むためである。食塩水は鉄が錆びるのを促進する働きがある。鉄と食塩水を混ぜると、鉄粉が酸素と結びつく反応である「酸化」を起こして発熱する。活性炭は酸素を取り込み、食塩水は鉄が錆びるのを助ける。化学カイロの中では、酸素に触れる表面積が大きい鉄粉が急速に錆びていくことで熱を出しているのである。それゆえに、「物体が酸素と結びつくこと」も「酸化」というのである。


105.【酸化と還元は常に同時に起きるし、片方だけで成立しうるようなものではない】

 例えば、「2Cu + O₂ → 2CuO」という、銅を燃やして酸化銅(Ⅱ)を作る化学反応も、酸素と結びつく反応だから酸化という。しかし、そうやってできた熱々の酸化銅(Ⅱ)を水素が満たされた試験管の中に入れると銅に戻る。このことは、「CuO + H₂ → Cu + H₂O」という化学式で書く。こうやって物質が酸素を失うことを「還元」と呼んでいるのだ。しかし、「CuO + H₂ → Cu + H₂O」は「酸化」とも言える。水素に着目すれば、水素は酸素を受け取って酸化されて水になっているからである。つまり、酸化と還元は常に同時に起きる。これを酸化還元反応と呼ぶのだ。実際、「2Cu + O₂ → 2CuO」においても、実は還元は起きていたのだ。実は、酸素に着目すると、酸素は酸化銅になる過程で電子を与えられて還元されているのだ。まとめると、「物質が酸素と結びつくこと」が「酸化」で、「物質が酸素を失うこと」が「還元」である。ただし、「物質が酸素と結びつくこと」が「酸化」だと理解していていいのは最初だけで、例えば「2H₂S + O₂ → 2S + 2H₂O」においては硫化水素は酸化されて硫黄になっているが酸素と結びついているわけではない。だから、「物質が酸素と反応すること」を酸化と言った方が正確かもしれない。


106.【空気中に酸素(O₂)がなくても酸化は起こる:二酸化炭素の中に火をつけたマグネシウムを入れると燃える】

 「2Mg + CO₂ → 2MgO + C」という化学反応式から分かる通り、マグネシウム二酸化炭素の中でも燃える。この時、マグネシウムは「酸化」されて酸化マグネシウムになっていて、二酸化炭素は「還元」されて炭素になっている。だとすると、この時、「マグネシウムはなぜ二酸化炭素の中でも燃えてしまうのか」という疑問には答えが出る。マグネシウムは、二酸化炭素から酸素を受け取って、その酸素で酸化されているのである。だから、「空気中に酸素(O₂)がないと酸化は起こらない」と言うのは正しくない。


107.【カイロと酸化防止剤は逆】

 カイロは空気中の酸素を取り入れることで暖かくなるのだが、食品の酸化防止剤は食品が空気中の酸素を取り入れないようにしている。例えばお菓子の袋の中には脱酸素剤が入っている。お菓子の袋によく一緒に入っている脱酸素剤の中身は何なのかというと、酸素となるべく結びつきやすい還元剤でなければならないから、実は、「鉄」などである。あと、プラスチックも酸化してしまって強度が低下することがあるので、プラスチック製品の成分にも酸化防止剤が入っていることがある。例えばポリプロピレンだと、酸化防止剤を成分に混ぜておくと寿命が90倍近くになるという。


108.【なぜ草津温泉の湯畑は白いのか:酸化とは水素を失うこと】

 温泉水に含まれる硫黄が空気中の酸素と反応して酸化還元反応を起こして沈殿しているから。実際、硫化水素水である温泉水に酸素を吹き込むと、白い沈殿物である硫黄の沈澱ができる。この酸化還元反応を式で書くと「2H₂S + O₂ → 2S + 2H₂O」となる。ここでは酸素のやり取りではない酸化還元反応が起きている。ここでは、硫化水素は酸化されて硫黄になっている。酸素は還元されて水になっている。硫化水素は酸素を受け取っているわけではないのに酸化されている。ここでは「硫化水素が水素を失って硫黄になり、酸素は水素を受け取って水になっている」と言った方がむしろ正確である。だとすると、「酸化とは水素を失うこと」という定義にも一定の説得力があることになる。


109.【ジーンズのインディゴ】

 ジーンズのインディゴは、布に染み込ませる段階が①「還元」で、そこから空気に触れさせて染色する段階が②「酸化」である。つまり、「藍染め」は酸化還元反応なのだ。藍は葉っぱで染めたばかりのものは茶色なのだが、空気に触れさせると藍色になるわけである。


110.【鉄を作るのは還元である】

 鉄工所では、石炭を蒸し焼きにして作った「コークス」を使って酸化鉄を鉄にする。そのときには「還元」を利用している。


111.【じゃあ結局酸化ってなんなのか:酸化とは電子を奪うことで、還元とは電子を与えること】

 例えば、「2Cu + O₂ → 2CuO」をみたら典型的に、①「酸化」とは「物質が酸素を受け取ること」と言いたくなる。逆に、例えば、「CuO + H₂ → Cu + H₂O」を見たら、「物質が酸素を失うこと」を「還元」と呼びたくなる。しかし、② 「2H₂S + O₂ → 2S + 2H₂O」を見たら、「物質が水素を失うこと」を「酸化」、逆に、「物質が水素を受け取ること」を「還元」と呼びたくなる。また、③「物質が燃えること」を「酸化」と呼びたくなる。燃焼とは、発熱と発光をともなう酸化反応だからである。④さらに、「金属が錆びること」を「酸化」と呼びたくなる。しかし、一番汎用性が高い定義は、⑤「酸化される」とは「電子を失う」ということで、「還元される」とは「電子を得る」ということだ、というものである。例えば、銅が空気中の酸素に触れて酸化銅(Ⅱ)になる「2Cu + O₂ → 2CuO」という酸化反応の場合、酸化と還元は常に同時に起こるんだから、還元も起きているはずなのである。そう、酸素が還元されているのである。酸化銅(Ⅱ)はそもそも「イオン結晶」なのである。だから、実は、「2Cu + O₂ → 2Cu²⁺ + 2O²⁻」になっているわけである。銅原子がそれぞれ2個ずつ電子を失ってイオンになり、酸素原子がそれぞれ2個ずつ電子を受け取ってイオンになっているのである。酸素は電子を受け取っているのだから、酸素が還元されているのである。他にも例をみてみよう。「硫化水素水」とヨウ素をヨウ化カリウム水溶液に溶かして作る褐色の「ヨウ素溶液」とを混ぜると硫黄が沈澱する。これを化学反応式で書くと、「H₂S + I₂ → S + 2HI」となる。硫化水素が水素を失う、つまり酸化されて硫黄になり、ヨウ素が水素を受け取り、つまり還元されてヨウ化水素になっている、と言いたくなる。しかし、そもそも左辺の硫黄の隠イオンは電子を2つ失って、右辺で硫黄になり、左辺のヨウ素原子は電子を2つ得て、右辺で陰イオンになっていると言えるのだ。だから、硫黄は電子を失っているんだから酸化されていて、ヨウ素は電子を得ているんだから還元されていると言えるのである。


112.【酸素を受け取ったり水素を失ったり電子を失ったりするのが「酸化」で、酸素を失ったり水素を受け取ったり電子を受け取ったりするのが「還元」】

 気体の塩素が入った瓶の中に水を入れて、その中に熱した銅を入れると銅と塩素が反応して青い液体、つまり塩化銅(Ⅱ)の水溶液ができる。これは「Cu + Cl₂ → CuCl₂」という化学反応式になる。この化学反応式の中には酸素も水素もないが、それでも電子のやり取りはあるから、「酸化」とか「還元」を言うことができるわけだ。銅は2個の電子を失って酸化されて陽イオンになっており、塩素はそれぞれ1個ずつ電子を受け取って隠イオンになって還元されているわけである。要するに、酸化や還元を言うために酸素も水素も不要なのである。


113.【酸化数の調べかたの4つのルール:酸化数が増えたら酸化されていて減ったら還元されている】

 ①単体中の原子の酸化数は0とする。②単原子イオンの酸化数は電荷と等しいとする。例えば、「Cu²⁺」の場合、銅原子の酸化数は「+2」となる。③化合物中の水素原子の酸化数は「+1」とし、化合物中の酸素原子の酸化数は「−2」とし、化合物中の原子の酸化数の総和は常に0とする。例えば、アンモニアNH₃の窒素原子の酸化数は「−3」となる。④多原子イオン中の原子の酸化数の総和はそのイオンの電荷に等しい。例えば硫酸イオンは「SO₄²⁻」の硫黄原子の酸化数は「+6」となる。例えば、「2Cu + O₂ → 2CuO」という化学反応式の場合、左辺の酸化数は銅も酸素も単体だからどちらもゼロになる。右辺の酸化数は、銅原子の酸化数は「+2」で酸素原子の酸化数は「−2」となる。酸化されたものは酸化数が増えて、還元されたものは酸化数が減るのである。酸化数とはいつも原子の酸化数でなければならないことに注意。


114.【酸化還元反応なのに電子のやり取りがわかりづらいもの】

 例えば、「2H₂S + O₂ → 2S + 2H₂O」は、電子のやり取りがわかりづらい。硫化水素の隠イオンがそれぞれ2個ずつ電子を失っているので、硫化水素は酸化されて硫黄になったと言える。しかし、酸素の方は反応後、水になっており、そのとき酸素は硫化水素から4個の電子を受け取っているかというと、よくわからない。というのも、水は「H₂O ⇄ H⁺ + OH⁻」というように電離するので、Oが本当にそれぞれ2個ずつの電子を受け取っているのか若干分かりづらいからである。そこで、酸化数を考えれば問題がないことがわかる。硫黄の原子の酸化数は左辺で「−2」であったが、右辺では単体なので「0」になっている。酸化数が増えたから硫黄は酸化されている。それに対して酸素原子の酸化数は左辺では単体なので「0」で、右辺では「−2」になっている。それゆえ、酸化数が減ったので酸素は還元されていると分かる。


115.【酸化還元反応の利用:なぜお茶には還元剤のビタミンCが入っているのか】

 反応する相手を還元するのが還元剤である。ビタミンC自体が酸化される還元剤となることでお茶は酸化されないようになっているのだ。


116.【鏡はブドウ糖を還元剤にして作る】

 鏡はブドウ糖(グルコース)を還元剤とすることで作る。アンモニア水を加えた硝酸銀水溶液を試験管に入れてまず用意する。そしてそこに還元剤であるブドウ糖(グルコース)を入れる。これをお湯で温めると、試験管が鏡のようになるのが分かるだろう。これは、硝酸銀水溶液に含まれていた銀イオンがグルコースで還元されることで金属の銀が析出することであり、これを銀鏡反応という。この原理で鏡は作られているのである。つまり、ガラスの裏面に金属の銀を析出させることで鏡は作られているのである。


117.【酸化剤のオゾンは浄水場で使う】

 浄水場では水に酸化剤のオゾンを吹き込んで水中の不純物を酸化させることで浄水をおこなっている。


118.【酸化剤と還元剤】

 反応する相手を酸化するのが酸化剤である。反応する相手を還元するのが還元剤である。そして酸化剤自体は還元されて、還元剤自体は酸化される。酸化剤は還元されつつ相手を酸化する物質で、還元剤は酸化されつつ相手を還元する物質である。これを覚えておこう。銅を熱して空気中で酸化銅(Ⅱ)を作り、その熱した酸化銅(Ⅱ)を、一酸化炭素の中に入れると二酸化炭素が発生して銅に戻る。これを化学反応式で書くと「CuO + CO → Cu + CO₂」となる。酸化銅(Ⅱ)は還元されて銅に戻り、一酸化炭素は酸化されて二酸化炭素になったのである。このとき、酸化剤が酸化銅(Ⅱ)であり、還元剤が一酸化炭素である。酸化剤は相手を酸化し自身は還元されるのだから電子を奪うものなのであり、還元剤は相手を還元し自身は酸化されるのだから電子を放出するものなのである。


119.【酸化剤の典型】

 ①過酸化水素H₂O₂と②過マンガン酸カリウムKMnO₄と③二酸化硫黄SO₂と④濃硝酸HNO₃は代表的な酸化剤である。


120.【還元剤の典型】

 ① 過酸化水素H₂O₂と②硫化水素H₂Sと③二酸化硫黄SO₂と④ヨウ化カリウムKIは代表的な還元剤である。


121.【酸化剤と還元剤の「電子に注目した反応式」の書き方の4ステップ】

 ①まず反応物を左辺に書き込んで、右辺に生成物を書き込んでおく。②両辺の酸素原子の数は「H₂O」を書き込んで合わせる。③両辺の水素原子の数は水素イオン「H⁺」を書き込んで合わせる。④両辺の電荷を電子「e⁻」を書き込んで合わせる。


122.【硫化水素の気体と二酸化硫黄の気体を混ぜると固体の硫黄ができる】

 酸化剤と還元剤を、電子に注目した反応式で書き直してみるための実験として、「硫化水素の気体と二酸化硫黄の気体を混ぜると固体の硫黄ができる」という⓪「SO₂ + 2H₂S → 3S + 2H₂O」という化学反応を考えてみよう。電子に注目すると、酸化剤の二酸化硫黄では①「SO₂ + 4H⁺ + 4e⁻ → S + 2H₂O」となり、還元剤の硫化水素では②「H₂S → S + 2H⁺ + 2e⁻」となる。そして、酸化剤の「電子に注目した反応式」と還元剤の「電子に注目した反応式」を足し合わせることで化学反応式を作ることができる。ただし今回の場合は還元剤の②「H₂S → S + 2H⁺ + 2e⁻」は両辺を2倍して③「2H₂S → 2S + 4H⁺ + 4e⁻」となる。それで、①と③を足すと⓪「SO₂ + 2H₂S → 3S + 2H₂O」が出てくるのだ。つまり、⓪は酸化剤の式と還元剤の式からできていたことがわかる。


123.【なぜ過酸化水素と二酸化硫黄は酸化剤でも還元剤でもあるのか】

 一般的には酸化剤として働く物質が、非常に強い酸化剤との反応では還元剤になることがあるからである。例えば、①硫酸を加えて酸性(=硫酸酸性)にしておいた過酸化水素水をヨウ化カリウム水溶液に混ぜると、褐色に濁って、ヨウ素が生成する。その証拠に、この褐色の溶液をデンプン水溶液に混ぜると青く変色するからである。②しかし、硫酸酸性にあらかじめしておいた強い酸化剤である過マンガン酸カリウム水溶液に過酸化水素水を混ぜると、小さな泡が沢山発生して、脱色も起きて、酸素ができる。このとき、①の実験では、過酸化水素を見ると、「H₂O₂ + 2H⁺ + 2e⁻ → 2H₂O」となっており、電子を奪っているから、酸化剤として機能している。しかし、②の実験では、過酸化水素を見ると、「H₂O₂ → 2H⁺ + O₂ + 2e⁻」となって、電子を放出しているから、還元剤として機能しているのである。このように反応する相手によって日和見的に、同じ物質が還元剤になったり酸化剤になったりするのだ。


124.【化学において覚えにくいことたち】

 ①酸素は酸のもとのことではない。「塩酸」には酸素が入っていないのに酸であるし、酸素が入っている水酸化物は酸ではなく塩基である。二酸化炭素が水に溶けて炭酸になる。②酸化は物質と酸素との結合とは限らない。水素を失うことだとも言える。③炭素は有機物ではない。④炭素棒を使うのは腐食を避けるため。⑤食塩水が電気を通すのは一時的である。次亜塩素酸ナトリウム水溶液になっていくから永遠に電気を通すとは言えない。陽イオン交換膜を使えば水酸化ナトリウムがつくれるけれど、普通にやったら食塩水は次亜塩素酸ナトリウム溶液となっていく。⑥「Cl⁻」は呼び方が「塩素イオン」ではなく「塩化物イオン」なので注意が必要。「O²⁻」は「酸素イオン」「酸化物イオン」である。


125.【銅は濃硝酸に溶ける】

 濃硝酸のなかに銅を入れると、溶液がものすごい緑色になりしかもしばらくすると褐色の気体である二酸化窒素(NO₂)の泡が出始める。

 

126.【イオン化傾向:金属はほとんど還元剤】

 「リチウム(Li)→カリウム(K)→カルシウム(Ca)→ナトリウム(Na)→マグネシウム(Mg)→アルミニウム(Al)→亜鉛(Zn)→鉄(Fe)→ニッケル(Ni)→スズ(Sn)→鉛(Pb)→水素分子(H₂)→銅(Cu)→ 水銀(Hg)→銀(Ag)→プラチナ(Pt)→金(Au)」の順番にイオン化傾向は小さくなっていくことは覚えておこう。これを「イオン化列」という。多くの金属は酸素を受け取りやすいので還元剤である。鉄は酸化されやすい金属である。つまり鉄は電子を失いやすい金属である(ただし油を塗っておくと金属は錆びにくくなる)。リチウムやナトリウムやカリウムは柔らかく非常に錆びやすい。リチウムやナトリウムやカリウムは価電子が1個でイオン化傾向が非常に大きいのである。イオン化傾向とは金属が水溶液中で陽イオンになろうとする性質のことである。イオン化傾向が大きいとは酸化されやすいという意味で、イオン化傾向が小さいとは酸化されにくいという意味である。例えば、銅や水銀や銀やプラチナや金は酸化されにくい。3000年以上前に作られたツタンカーメンのマスクはいまだに錆びていない。鉄よりも錆びにくい金属としては「スズ」や「鉛(なまりと呼んで元素記号だと「Pb」)」がある。カルシウムは水に入れると即座に水素を出して溶けていく。イオン化傾向がとても大きい金属がカルシウムなのである。カルシウムに対して、マグネシウムは水に入れても、全く反応しない。カルシウムの方が、マグネシウムよりもイオン化傾向が大きいのである。マグネシウムは、熱水だと水素を出して反応するが、亜鉛は熱水でも反応しない。アルミニウムと亜鉛と鉄は高温の水蒸気を当てると反応する。アルミニウムと亜鉛は塩酸と反応して水素を出すが、銅は塩酸に入れても無反応である。「濃硝酸」のなかに銅を入れると、溶液がものすごい緑色になりしかもしばらくすると褐色の気体である二酸化窒素(NO₂)の泡が出始めるし、水銀や銀も「塩酸」には反応しないが、「熱濃硫酸」という酸化力の強い酸とは反応する。金は銅が溶けてしまう「濃硝酸」でさえ溶かせない。しかし、「濃硝酸」と「濃塩酸」とを体積比1対3の割合で混合した「王水」という黄色の液体である。これがあれば、金でさえ溶かすことができる。


127.【イオン化傾向(=陽イオンになりやすさ)が大きい方が優先的にイオンになることが分かる実験】

 まず①青色に発色している硫酸銅(Ⅱ)水溶液と②硫酸亜鉛水溶液と③硝酸銀水溶液を用意する。①硫酸銅(Ⅱ)水溶液に亜鉛板を入れると入れたところが変色する。それに対して、②硫酸亜鉛水溶液に銅板を入れてみても、なんの変化もない。そこで、銅板を③ 硝酸銀水溶液に入れてみる。すると、銅板が変色していき銅板の表面に銀が付着してくる。これはなぜだろうか。①においては、銅原子よりも陽イオンになりやすい亜鉛原子は酸化してしまって、電子を失い亜鉛イオンになって溶け出していく。そして溶け出していた銅イオンが電子を受け取って析出してくるからなのだ。つまり、水溶液中の銅イオンが還元されて析出されるわけである。②においては、亜鉛の方が銅よりイオン化傾向が大きいんだから何も起こらないのである。③においては、銅の方が銀よりイオン化傾向が大きいので、銀が溶けてイオンになっているのに銅がイオンになっていないのは自然界の序列的におかしいだろ、ということで、銅が代わりに溶けて銀が析出するのである。他にも例がある。④塩化スズ(Ⅱ)水溶液に亜鉛を入れてみよう。すると、亜鉛の方がスズよりもイオン化傾向が大きいのにスズが溶けてイオンになっているのはおかしい、ということでスズが析出してくるのである。しかも樹木の枝が伸びるようにスズが生えてくる。これを「スズ樹」という。このようにして様々な「金属樹」を作ることができる。


128.【金属樹】

 ① 塩化スズ(Ⅱ)水溶液に亜鉛を入れてみよう。スズ樹が作れる。②酢酸鉛(Ⅱ)水溶液に亜鉛を入れてみよう。鉛樹が作れる。③ 硫酸銅(Ⅱ)水溶液に鉄を入れてみよう。銅樹が作れる。④ 硝酸銀水溶液に銅を入れてみよう。銀樹が作れる。要するに金属樹は、「イオン化傾向の相対的に小さい金属イオンの水溶液中に、イオン化傾向の相対的に大きい金属の単体を入れると、イオン化傾向の相対的に小さい金属が、大きい金属の表面に析出すること」を原理としているのだ。


129.【酸化還元反応と金属のイオン化傾向が分かれば電池が作れる:ダニエル電池】

 電池とは金属同士の酸化還元反応の中で生じた電子を電気エネルギーとして取り出す装置のことである。①亜鉛板と②銅板と③ 硫酸亜鉛水溶液ZnSO₄と④硫酸銅(Ⅱ)水溶液CuSO₄があれば「ダニエル電池」が作れる。まず、セロハンの袋に入った硫酸銅(Ⅱ)水溶液をビーカーに入れた硫酸亜鉛水溶液に入れる。次に、亜鉛板をビーカーの中の硫酸亜鉛水溶液に漬けて、他方で銅板をセロハンの中の硫酸銅(Ⅱ)水溶液に漬けて、それらに回路をつなぐ。するとプロペラが回るのである。ここでは何が起きているのだろうか。まずイオン化傾向が大きい方の亜鉛板が溶け出して、電子を失う(そうやって溶け出した亜鉛イオンはセロハンを通ってセロハン内部へと侵入する)。だから亜鉛の方が電子が飛び出す方だから電池の負極になる。その電子は導線内を伝わってプロペラを回してから、セロハン内にある硫酸銅(Ⅱ)水溶液の中の銅板の方へ行く。銅板は電子が入ってくる方だから電池の正極ということになる。正極では水溶液中の銅(Ⅱ)イオン(Cu²⁺)が電子を受け取って還元されて銅になって析出する(残された硫酸イオンはセロハンの穴を通って負極側へと出ていく)。ではなぜダニエル電池にはセロハンという仕切りが必要なのだろうか。セロハンの小さな穴を通って、ビーカーの中の亜鉛イオン(Zn²⁺)がセロハンの中に侵入し、セロハンの中の硫酸イオン(SO₄²⁻)がセロハンを通ってビーカーの中に飛び出していくのである。これは電子の動きということでみると、電子を失っていく負極に対して、それ自体が電子を持った硫酸イオン(SO₄²⁻)が正極から負極へとどんどん移動していくのだから、しばらくは電子の供給が途絶えることはないし、回路全体に電流が流れたことになるというわけなのだ。どんどん電子を失っていく負極ではどんどん増えていく電子の負債をすぐさま隣に渡せるのだから電子が入ってきているのと一緒だし、どんどん電子が入ってくる正極からは電子を持った硫酸イオンがどんどん出ていくのだから電子を排出しているのと同じというわけである。このようなイオンの移動をもって電子が流れているとみなせるのだし、このようなイオンの移動を可能にしているものこそセロハンだというわけである。このダニエル電池だと亜鉛板がどんどんボロボロになって、銅板はどんどん大きくなっていくことなる。電池からこのように電子の流れを取り出すことを放電という。充電できる電池が二次電池で、充電できない電池が一次電池である。


130.【充電できる電池(=二次電池):鉛蓄電池

 鉛蓄電池は、1859年にフランスのガストン・ブランテが発明した世界初の二次電池である。ガソリン自動車のバッテリーに使われてきた電池は「鉛蓄電池」である。鉛蓄電池は、仕組みがシンプルだし材料の鉛が安いため、非常に長いこと自動車で使われてきた。「鉛Pb」と「酸化鉛(Ⅳ)PbO₂が表面に付着している棒」を電極にして、それを「希硫酸H₂SO₄」の中に入れれば、鉛蓄電池が作れる。鉛蓄電池は充電と放電を繰り返すことができる。負極が「鉛Pb」で、正極が「酸化鉛(Ⅳ)PbO₂が表面に付着している棒」である。負極からはどんどん電子が出てくるわけだが、それは鉛の酸化数が「+2」に変わって、鉛が溶け出して酸化されるからで、その電子が導線を伝わっていくのである。その電子がプロペラを回した後で正極にいくことになる。それで、溶け出した鉛イオンはどうなるかというと、溶液中の硫酸イオン(SO₄²⁻)と結合して「硫酸鉛(Ⅱ)PbSO₄」になって、負極に付着しているわけだ。正極では、PbO₂の原子の酸化数の総和は「0」でなければならなかった(酸化数のルールより)わけだから、酸素が2つあるので、PbO₂のPbの酸化数は「+4」ということになる。このPbは、送られてきた電子を2つ受け取って、「鉛(Ⅱ)イオンPb²⁻」となる。で、これが溶液中の硫酸イオン(SO₄²⁻)と結合して「硫酸鉛(Ⅱ)PbSO₄」となって正極に付着するのである。整理すると、負極では鉛原子の酸化数「0 → +2」の酸化反応が起きていて、正極側では鉛原子の酸化数「+4 → +2」の還元反応が起きていることになる。これが鉛蓄電池の「放電」の原理である。そして、正極でも負極でも、どんどん硫酸鉛(Ⅱ)PbSO₄が表面に付着していくことになる。ただし、この放電ではどんどん水が溜まっていって、希硫酸の濃度が薄くなって反応が進まなくなる。だから、外部電源によって電流の向きを「放電」の時とは逆向きに流して、硫酸鉛(Ⅱ)PbSO₄を、再び酸化鉛(Ⅳ)PbO₂と鉛Pbに戻してやればいいのだ。そうすると希硫酸の濃度が再び高まる。つまり、負極側では、硫酸鉛(Ⅱ)が還元されて鉛になり、正極側では硫酸鉛(Ⅱ)が酸化されて酸化鉛になるのである。だから、こうした「充電」の時には、外部電源の力によって、正極から負極へと電子が流れていることになる。これが充電の原理である。


131.【負極と正極のペアと陰極と陽極のペアとを混同してはならない】

 電池あるいは電源の負極に繋いだ電極が陰極で、電池あるいは電源の正極に繋いだ電極が陽極である。陰極からは電子が出てきて、陽極には電子が流入していくことになる。このあたりの紛らわしい用語法を混同してはならない。


132.【水の電気分解:電池作りと電気分解は逆の操作】

 電池をつくるとは「別の物質から電気エネルギーを取り出す操作(別々の物質→電気エネルギーが出る→物質)」のことであるが、「物質に電気エネルギーを与えることで別々の物質を作り出す操作(物質→電気エネルギーが入る→別々の物質)」のことを「電気分解」と呼ぶ。純水は電気を通さないのであらかじめわずかな希硫酸を入れておけば水を電気分解することができる。このような水の電気分解では、陰極からは水素H₂の泡が出てきて、陽極からはO₂の泡が出てくる。陽極には水分子H₂Oがふたつ集まってきて、その水分子ふたつが酸化されてしまって、酸素O₂が出てくるわけである。水素イオンはその時4つ余るので、それらは陰極の方へと動いていく。陰極ではそれらの水素イオンが電子を受け取って還元されるのだ。そして水素H₂の泡として出てくるわけである。陽極では酸化反応「2H₂O → O₂ + 4H⁺ + 4e⁻」が起きて、陰極では還元反応「2H⁺ + 2e⁻ → H₂」が起きているというのが「水の電気分解」である。このように、「水や水溶液に外部から電気エネルギーを与えて強制的に酸化還元反応を起こさせること」を「電気分解」という。

 

133.【酸化還元反応で重要なことはエネルギー】

 酸化還元反応が起きる時には、必ず同時に、エネルギーの変化が起きるということが重要である。カイロが温かくなるのは鉄粉が錆びる(=酸化される)時に出す熱エネルギーを利用している。しかし、これは穏やかな酸化還元反応であるが、条件を少し変えれば鉄の錆びるスピードをもっと速めることができるのだ。例えば、シュウ酸鉄(Ⅱ)二水和物という黄色い粉がある。シュウ酸鉄(Ⅱ)二水和物は鉄を含んだ化合物である。これを試験管に入れてガスバーナーで加熱するとだんだん黒くなっていく。この粒を空中に落とすと、空気に触れた瞬間に発火する。カイロよりもはるかに速いスピードで熱を出すのである。逆に言うと、カイロは鉄の粒の大きさを大きくすることでこういう事態にならないように、つまり程よいスピードで酸化が進むようにしているわけだ。


134.【リチウムイオン電池は凄まじい二次電池である】

 吉野彰はリチウムイオン電池を開発した化学者である。負極にはリチウムイオンを含んだ炭素を用いて、正極にはリチウムイオンを含んだ金属酸化物を用いる。それを、イオンが通過できるセパレーターで区切った電解液の中に漬けるのがリチウムイオン電池である。リチウムはイオン化傾向が大きいし、炭素に含まれたリチウムイオンは金属に含まれている場合よりもさらにイオン化傾向が大きい。しかもリチウムは金属の単体の中でも一番軽いのである。だから、リチウムイオン電池が軽量かつ高性能なのである。スマホにも電動歯ブラシにもリチウムイオン電池が使われている。太陽光発電風力発電などの天候に左右されやすいということが欠点の再生可能エネルギー(自然エネルギー)の活用という文脈においても、リチウムイオン電池を使えば、天候が好都合な日にその電力を蓄えておくことで電力の安定供給が可能になるかもしれないといわれている。


135.【製錬】

 鉱石から金属を取り出すことを「製錬」という。金属は普通自然界に単体で存在していたりしない。だから、例えば銅は、クジャク石からの製錬によって取り出したりするのだ。「るつぼ」にクジャク石と活性炭を入れていく。それを「マッフル」に入れてバーナーで熱するのだ。これによりクジャク石に含まれる銅の酸化物が活性炭に酸素を奪われたことで還元されて銅になるのだ。つまり活性炭は還元剤だったというわけである。クジャク石と同じく、銅の酸化物である酸化銅(Ⅱ)から銅を取り出すならば、活性炭ではなく、スクロースという砂糖でも同じことができる。スクロース酸化銅(Ⅱ)をよく混ぜてガスバーナーで加熱すると銅を製錬できるのである。スクロースも活性炭と同じく炭素を含んでいるから還元剤として働けるというわけだ。しかし、これはあくまでも「製錬」であって「精錬」ではない。つまり「製錬」では大した純度の銅は取り出せないのである。


136.【電解精錬】

 熱で製錬しても純度には限界があるので、電気分解で純度を高めることができる。これが電解精錬である。こちらは「製錬」ではなくて「精錬」であることに注意しよう。まず、純度が99%くらいの「粗銅(そどう)」というものをまず熱製錬で作り、ここからさらに、電気分解亜鉛や鉄などの不純物を取り除くのが、「精錬」である。こうして99.99%くらいの純度の銅板を作ることができる。銅以外にも、ボーキサイトからの大量の電気を使った電気分解で作るのがアルミニウムである。オイルショック以降、日本はアルミニウムの自国での生産をほぼ諦めてオーストラリアなどから輸入することにしている。


137.【サランラップはなぜ食器にくっつくのか】

 サランラップが食器にくっつくのは、分子間力があるからである。メントールは、室温では固体だが熱するとすぐさま昇華する。ドライアイスは室温で熱しなくても昇華する。では、メントールとドライアイスは何が違うのか。分子の極性が異なるのである。メントールは分子に極性があるから分子間力が大きいが、ドライアイスは分子に極性がないから分子間力が小さいのである。メントールもドライアイスも「分子結晶」ではあるが、極性分子か無極性分子かが異なるのである。この分子間力がサランラップと食器の間に働いている。ラップは表面に凹凸がないせいで食器に限りなく近づくことができて、それゆえに分子間力が働くのである。またラップと食器の間の空気が追い出されるがゆえに、内側からも大気圧で押される、ということができなくなり、大気圧の釣り合いがなくなって外側からより強く押されるから、より密着するのである。ちなみに、ラップの原材料には、「ポリ塩化ビニリデン製」のものと「ポリエチレン製」のものがあるが、ポリエチレン製の方は分子の密度が低いのでそれほど食器にくっつかない。しかし密度が低いとは空気を通しやすいということだから野菜の保存にはむしろこのポリエチレンが適していたりもする。


138.【塩漬け】

 魚を塩漬けにするのは、食品中の塩分濃度が高いことが、細菌の繁殖を防げるからである。ハムなどはさらに、塩漬けにするだけでなくて燻製の煙に含まれる成分で殺菌している。


139.【フリーズドライ

 「水分を含んだ食品を凍らせてから、さらにそこからそのまま真空状態にして水分を昇華させてしまう」、という技法が「フリーズドライ」である。こうすればお湯を注ぐだけで元に戻せるし、細菌が繁殖するための水分をなくすことができる。

 

140.【油揚げは「ガス置換包装」】

 大気中に約20%含まれている酸素が食品を酸化して味を劣化させてしまうので、酸素が入らないように、あらかじめ別の気体、例えば二酸化炭素や窒素などで食品の袋の中を満たしておくというのが、「ガス置換包装」である。油揚げでは、この包装技術の効果が高く保存期間を1週間以上伸ばせるという。なぜ油揚げでは置き換えるガスに二酸化炭素を使うかというと、油揚げには水が多いので、その水の中での微生物の繁殖を抑える効果が、二酸化炭素にはあるからである。ポテトチップスはそもそも油が多いので、その油の酸化を抑えるためにはむしろ窒素で置き換えるのがいいという。

私の好きな言葉たち

大山鳴動して鼠一匹」(ホラティウス)

 

「生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生とのように異っている。しかし虚無は人間の条件である。」(三木清)

 

「滋養物に効き目があるかどうかは、その人の胃腸が強いか否かにかかっているというわけである。」(岡崎晴輝)

 

「掻き寄せて結べば芝の庵なり解くれば元の野原なりけり」(慈円)

 

「彼岸のことは彼岸で。此岸のことは此岸で。」(上野千鶴子)

 

「動くこそ 人の真心 動かずと 言ひて誇らふ 人は石木か」(本居宣長)

 

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(論語-子路)

 

「理屈と膏薬はどこへでもつく」(出典不明)

 

「言うものは知らず、知るものは言わず。」(小林秀雄)

 

「le mieux est l'ennemi du bien.

The best is often the enemy of the good.」

(ヴォルテール)


"I may not always be right, but I am never wrong."(Aunt March)

 

「運命によって『諦め』を得た『媚態』が『意気地』の自由に生きるのが『いき』である」(『「いき」の構造』九鬼周造全集第1巻81頁)

 

「世界は永遠の動揺にすぎない。万物はそこで絶えず動いているのだ。大地も、コーカサスの岩山も、エジプトのピラミッドも。しかも一般の動きと自分だけの動きとをもって動いているのだ。恒常だって、幾分か弱々しい動きに他ならない。」(『エセー』Ⅲ,2)

 

「苦悩の感情においても人は少なくとも自己を感じ、自己を所有する。このことだけでも、すでにそれ自身によって、自己感情の絶対的な欠如よりも幸福なること無限である」(フィヒテ『浄福なる生への導き』、高橋亘訳、平凡社ライブラリー、p.163)

 

ミシェル・アンリ「絶望の内で、苦悩の内で、そして実存のどの気分の内でも、その気分を当の気分自身に啓示するものとして、絶対者(=生命)が自らを啓示する。[...]なぜなら情感性とは、絶対者の自己への完璧な密着、絶対者の自己との一致以外の何ものでもないからであり、情感性は、存在の根底的内在という絶対的一体性の内での存在の〈自己・触発〉だからである。」(Michel Henry, L’essence de la manifestation, 1963, p.858. 同訳書、974 頁)

 

俺みたいな映画オタクの後衛クソ左翼をエンパワーしてくれる音楽

https://youtu.be/wEBlaMOmKV4

 

I was born by the river
In a little tent
俺は川のほとりの
小さなテントに生まれた。

Oh and just like that river
I've been running ever since
それからというもの、
この川と同じように
ずっと生きてきた。

It's been a long,
A long time coming
流れる時間は
本当に本当に長かった。

But I know a change is gonna come,
Oh yes it will
でも俺は知っている。
転機が来ると。
きっと来るのさ。

It's been too hard living,
But I'm afraid to die
’Cause I don't know what's up there
beyond the sky
あまりにもつらい人生だった。
しかしそれでも死ぬのは怖い。
だって天国があるかどうか、
わからないんだぜ。

It's been a long, a long time coming
流れる時間は、本当に本当に長かった。

But I know a change is gonna come,
Oh yes it will
でも俺は知っている。
転機が来ると。
きっと来るのさ。

I go to the movie
And I go downtown
俺は映画を見にも行く。
俺は下町にも行く。

Somebody keep tellin’ me
Don’t hang around
「ぶらぶらしてんじゃねぇ」と
いつも誰かが言ってくる。

It's been a long, a long time coming
流れる時間は、本当に本当に長かった。

But I know a change is gonna come,
Oh yes it will
でも俺は知っている。
転機が来ると。
きっと来るのさ。

Then I go to my brother
And I say, brother, help me please
But he winds up knockin' me
Back down on my knees and oh
そういうとき、俺は兄弟のところへ行き
「なあ兄弟、頼むから助けてくれや」と言う。
でも結局のところ、そいつは俺を殴りつけ、
またひざまづかせる。

There been times that I thought
I couldn't last for long
もう長くはもつまいと思った時が、
何度もあった。

But now I think I'm able
To carry on
それでも俺は
まだやれるんじゃねえかと今は思っている。

It's been a long, a long time coming
流れる時間は、本当に本当に長かった。

But I know a change is gonna come,
Oh yes it will
でも俺は知っている。
転機が来ると。
きっと来るのさ。

 

カネコアヤノの『カウボーイ』に対する私の批評

0.【批評対象】
https://youtu.be/1dHrFFs6UDs

1.【礼讃批評宣言】
「批評は常に褒め言葉でなければならない」。これは、私がこれから一生、貫くと決めた信条である。これが私のテネットである。であるから、批評は私にとっていわゆる対象の「考察」のようなものとは無縁である。なんとなれば、考察とは本来、音楽家ならば音楽家が(思考の道具が言葉ではない場合の方が多いのであえてこう言うが)楽器を用いてするものなのであり、考察という高尚な芸当が批評家どもの仕事であるわけがないからである。考察というのは、厳密に言うならば芸術家の仕事なのである。繰り返すが、批評は思考のことではなく、常に褒め言葉でなければならない。どういうことか。批評は批評の対象に、一切の手を加えてはならないのだ。批評はひたすら対象を褒める。褒めるというのは対象に手を加えることではないし、対象を素材にしてそこから別の何かを作り上げるといった、まさしく冒涜的な営みのことでもない。そんなことをしたら褒める対象が変化してしまう。いつの間にか褒める対象がすり替わること、つまり、褒めたいものを批評家がこっそりと他から密輸入してくること、これが批評家にとって最もきたしてはならない蹉跌なのである。だから、批評の武器は書かれたものを対象にするならばせいぜい言語学であり、そしてテクスト分析しかやることはないのである。だから、批評家が参照する文学理論の類は、全てなんらかイデオロギッシュなものの密輸入であると思う。それらを密輸入することでしかうまく褒められないならばそれも必要悪なのだろうが、やはり無いに越したことはないのである。批評はそのたびごとに新しいものを素手で掴み取る営みである。日本の文芸批評の豊かな土壌がこれまで育ててきた、あまりにも長過ぎる伝統に訴えるようで恐縮だが、与えられたものの細部をよく観察するということ以外に、うまく褒める方法などあるはずはない。

2.【「礼讃」の理由】
では、なぜ褒めるのか。不意打ちになるかもしれないが、あえて断言すれば、対象に出会った時に、私が気持ちが良かったからである。作品に出逢って、気持ちが悪かったのに相手を褒める奴がいるとしたら、それは皮肉っぽいし、やはり趣味の悪いことだと思う。倒錯したことだと思う。また、あえて「礼讃」という言葉を用いたのには理由がある。「褒める」という言葉はどこか上から目線なところがあって、インテリくさいのである。「褒める」のはインテリであって、礼讃するのは古今東西、阿保と変態だけである。「教授が学生を褒める」という日本語は不自然ではないが、「教授が学生を礼讃する」という日本語は不自然である。かつて和室の陰翳を礼讃した者もいたし、古くは愚神を礼讃した者もいたが、私は彼らの態度こそ批評的であると思う。「褒め」はともすると歪曲するが、礼賛はどこまでも率直に相手を目指す。

3.【批評は補助輪並みに必要である】
批評は対象に対して、せいぜい宣伝文句のようなものでしかあるはずがない。作品とのダイレクトな出会いに向けて、読者たちを煽れればそれでいいのである。批評は読者にのぼられるや否やすぐさま捨て去られるべき梯子のようなものであらざるを得ない。だから、読者を文体で惹きつける諧調など、畢竟不要である。良い批評とは、乱調の檄文であり、乱調の檄文であった方がいいのである。もちろん、批評が激しく誰かや何かを罵ることもあっていいが、それは褒められるべきものが不当に貶められているのを見た時だけかろうじて正当化されるトリビアルな事柄に過ぎない。既に私は長年無数の批評を匿名で書き散らしてきたが、私のこの信念は、日増しにどんどん強くなった。「作品自体よりその批評の方が読み応えがあって面白かった」などと言われてしまううちは、まともな批評とは言えないのである。

4.【『カウボーイ』における凝縮について】
さて、カネコアヤノの『カウボーイ』という曲がある。この曲は『来世はアイドル』という、駒込在住の私がよく訪れている「一〇そば蕎麦(=いちまるそば)」という蕎麦屋のカウンターで不意に撮られたような、比類なきジャケットのアルバムに収録されている曲である。この曲は私が思うに、このままでは無数の凡庸なるものどものうちで埋もれてしまうと思われる。たった2分の曲であるが、この曲の中には、「恋」というものが最も輝く瞬間の楽しさが見事に閉じ込められていると思われる。これほどの凝縮力に私は滅多に出会うことがない。

5.【カネコアヤノについて】
カネコアヤノがあきらかに天才であることはいまさら言うまでもない。カネコアヤノは疾走するが、疾走しているのは彼女の悲しみではない。優しさである。カネコアヤノは愛のままで疾走できる、唯一の人であると思う。彼女は凡百の音楽が私のようなメンヘラに媚びてくれるなか、ひとり愛のままで駆け出していく。『やさしい生活』のなかにいみじくも顕現しているが如く、彼女は誰よりも哀しみに対して鋭敏な感性を持っていながら、カネコアヤノは決してそれに酔わず、颯爽と駆け出していくチャンスを常に伺っている。彼女は鋭敏過ぎて、悲愴に溺れるものが密かに味わう自己憐憫の不健康さにすら、勘づいているのだ。メンヘラになれるほど、カネコアヤノは鈍感な動物ではない。

6.【テクストの引用】
↓以下に当該の詩を載せる。

走る蹄の音
止まらぬ速さで恋は進む
君はまるで草原に吹く風 風

青い空に囲まれてこれからどこに行こうか?
どこまでも 君が 案内してよ

君と居るのが楽しいカウボーイ
それだけじゃダメかしら?
明日を夢見る二人の鼓動
風のように軽やかに

土煙まきあげ
小高い丘 なんのそのと 登る
君はまるで荒野を抜ける風 風

星座たちに囲まれて今日はそろそろ帰ろうか
家までは 君が 送ってよ

君と居るのが楽しいカウボーイ
それだけじゃダメかしら?
なにも知らない二人の行動
少し眩しすぎるでしょ

青い空に囲まれてこれからどこに行こうか?
どこまでも 君が 案内してよ

君と居るのが楽しいカウボーイ
それだけでもいいよね
明日を夢見る二人の鼓動
風のように軽やかに

7.【「カウボーイ」とは誰か】
まず、「カウボーイ」とは誰か。これは私が思うに「私」である。作品中に「ふたり」と「君」という言葉が登場する。しかし、「私」という語は登場しないから、「「ふたり」から「君」を引いて残るもの」と言っても良い。この「カウボーイ」は、「走る蹄の音」という表現からもわかるように、「馬」に乗っているのだが、「騎乗」から連想される肉欲的なところが、この騎乗には一切存在しない。「馬」という形象さえ肉欲と全く結びつかない。しかし、女(ただし、あくまで厳密に言えば「私」は性別無規定なのであって、「ボーイ」であるからなんならボーイッシュなのであるが)が常に上なのである。家まで送るのはあくまでも「君」なのである。この構図はいくら強調しても、したりない。

8.【「君」とは誰か】
では、「君」のほうは、誰だろうか。これは、作中にも登場する「恋」である。しかし、「恋」はそれ自体が「進む」のであるから、「馬」でもある。つまり、この「カウボーイ」は「恋」である「君」という「馬」に乗って疾走しているのである。この物理的な構造が、この作品の全体を支配し、その上に豊かな意味世界を分泌しているのだ。この構造は、とてつもない発明である。万障を繰り合わせの上でまず褒めなければならないものこそ、この構造なのだ。整理しておくと、「恋」と「君」と「馬」という三つの名詞が三位一体となって、未分化・未分節のままで使われ、その三つの名詞が表す対象に、「私」が乗って進むという構造を、私は指摘している。だから、お気付きだろうが、この未分化な三名詞が相互に互換可能であるとすれば、①「私は君に乗っている」のであれば、同時にそれは②「私は恋に乗っている」ことになるのであり、またさらに③「私は馬に乗っている」ことにもなる。このことを素直に解釈するならば、「私」にとって「君」は①気の合うひとなのであり、②そのこと自体がウキウキするのであり、そして③時に「君」は「私」に使役されてもいることになる。

9.【「君」である「恋」に「私」が「乗る」ことは可能か】
なお、「恋」が「人」を意味できるということが、英語においては既に実現されている。以下の例文を見てほしい。特に、第5例を見てほしい。第5例における「love」はどう見ても「汝」、つまり目の前の二人称を志向している。

①She is the love of my life.
彼女は私の最愛の人だ
②Who was your first love?
初恋の人はだれですか.
③He was her first love.
彼は彼女の初恋の人だった
④She was really a little love.
あの娘は実にかわいい子だった
⑤Good morning, love!
あら、おはよう

上記からわかるとおり、「私」が「君」である「恋」に乗って疾走しているという解釈はそれほど突飛なものではない。

10.【構造から必要十分に出力される恋】
さて、「何も知らないふたり」は「鼓動」だけを共有している。しかし、上に乗るのが「私」であるにも拘らず、先導するのは常に「君」である。「私」は「君」に乗っているのだから、受動的に「君」の行きたいところに行くしかない。そう、「君はまるで草原に吹く風」のような「止まらぬ速さ」で、「私」を振り回しているのである。しかし、それが私にとって、「楽しい」のだ。そして、「それだけでもいい」のである。これ以上に明確で、必要十分な「恋」の表現があるだろうか。「土煙巻き上げ、小高い丘をなんのそのと登る」くらい力強い君は、結局「私」を家まで送る羽目になっている。「君」が駆け抜けることでそれに乗る「私」を振り回していたはずが、いつからか、「どこまでも君が案内」するようになり、最後は「家まで送る」のである。この何も知らない二人の、ごく自然な力関係の転倒を当然の如く諒解しつつ進むドタバタした行動、土煙を巻き上げて進むふたりの行動の全体が、「少し眩しすぎる」のである。これほどまでに構造的なテクストがあるだろうか。たった2分で、恋の構造を彫琢しそれこそ「風のように軽やかに」終わってしまうこの曲であるが、これほど細部まで計算が行き届いているのはなぜだろうか。「カネコアヤノは内奥の感情をぶちまけるパンク少女である」という凡百の評価に抗して、我々の「礼賛批評」は、彼女の技巧的で構築的な側面、つまりほとんど無自覚な設計主義を礼賛せざるを得ないのだ。「パンク少女」という役割を彼女に押し付けるのを私が懸命に躊躇った反動なのであろうが、どうも私には、カネコアヤノのこの曲が、この上なく知的に思えてならぬ。