aurea mediocritas

日々の雑感や個人的な備忘録

松永澄夫氏の諸著作からの印象に残る引用

0.【松永哲学のキーワード】
①質的差異
②価値的没入
③かまえ
④6つの価値問題圏
⑤価値文脈
⑥正負大小の価値
⑦重層的複層性
⑧秩序創出の要求
⑨予断的前提
⑩ミーシー、漏れなくダブりなく、そして順序よく
⑪技術的関心
⑫価値当事者と価値評価者の区別。価値当事者とは価値文脈を発生させる者のことで価値評価者とは価値を付与する者のこと。
潜在的で不可解な自然の仕組み
⑭未来の価値の現在化、過去が全く過去の資格で現在で力を揮うこと
⑮地図の地図としての自己の複数性
⑯対象的意識と様態的意識
⑰感覚空間と知覚空間と運動空間の区別:運動空間は知覚空間を可能にし、知覚空間は運動空間を先取りする。
⑱知覚の空間規定が育つことで運動空間内に位置規定を複数経路で得られるようになりこれが秩序の始まりでありこの秩序創出こそが人にとって価値なのであり確かな存在である
⑲知覚の現在から行動の時間への引き継ぎ
⑳「もしもそこまで歩いていけば」と言えるようになっていることの重要性
㉑純粋な現れかにみえたものは、実は価値に浸透された感情(=想い)のことであり、それは他者を秘めているということ
㉒身体としての私にとっての現実性と、想いとしての私にとっての現実性の区別
㉓生存の舞台としての世界
㉔雰囲気的熟知性
㉕行為の模倣されることによる分解と「やりながらわかってくること(行為遂行によって確定していくような各行為の意味)」
㉖神秘的な自然の仕組みを理解するとは、自明性という価値を失うことで操作可能性という価値を手にすること
㉗知覚の第一様態、第二様態、第三様態
㉘知覚の公共性と感覚の私秘性、体に外在的なものを発見する知覚と体自身の現象形式としての感覚
㉙知覚と常に同時にある感覚は身体のオウナーシップを告げる
㉚分節的知覚様態
㉛匂いを頼りに獲物を追う動物と足跡を頼りに獲物を追う人間の違いは想像が現に知覚されている内容を横方向に離れられるかどうかが異なる
自然淘汰が働かないほどに環境を改変できるのが人間
㉝犬が吠えるのは来訪者が来た徴、苺が赤いのは熟して甘い徴、チューリップの球根を植えたところに棒を立てるのは標、お坊さんの袈裟や王冠や三種の神器は標だが、左官屋の服は徴
㉞感受の強い形が感情
㉟人は物的事象だけではなく「意味事象にも価値を見出して生きる」
㊱知覚即行動が第一の知覚様態、分節的知覚様態が第二の知覚様態、知覚に没入するのが第三の知覚様態

㊲人間においては潜在性の次元が意味事態として作用する力をもつ

㊳松永哲学は発生の論理的順序と発見の経験的順序を区別する

㊴感覚の絶対性(痛いものは痛い、意味を介さず直接的)と感情の能動性(意味づけの余地がある)を区別するべき

 

 

1.【主体の成立】

「主体は、或る価値文脈のもとで環境内の何らかのものを選択的に行動の客体(相手)とすることによって成立する。確かに、たとえば外気温の低下に、私たちの体は熱産生で対応する。けれども、これは体の内部の事柄で、外部の何かをどうにかしようとする行動ではない。睡眠時にしている呼吸も、外界との遣り取りではあるが、空気は体の周りに溢れ、既に満たされていて、選ぶ必要がない。鼻や口をふさがなければ、いつでも呼吸はできる。だから、まるでその価値を問題にしなくてよいかのようである(鉱山や医療の現場などでは別だが、生きているときには空気ないし酸素が既に供給されているという前提がある。空気は間断なく不可欠のものであるから)。外部世界の何かを選別的に価値評価し、それを相手の、体が一丸となった行動の必要性がないところ、主体はまさに眠っている。」(松永澄夫著「環境に対する要求と設計の主体」p.10)

 

2.【詩人は自分にかまけている】

「自分を包む庭が沢山のことを語りかけると詩人は言う。だが、それは詩人が投げ入れた言葉を庭のうちに聴き取っているだけ、幸福な夢のヴェールが詩人を護っているときだけなのだと思われる。詩人というものは、結局は自分にかまけている存在なのだ。」(松永澄夫著「言葉と感情」『言葉の歓び・哀しみ』所収、p.41)

 

3.【意味が感情を喚起することによる価値の付着】

「感情はさまざまな価値事象のマグマとなる。ものの世界も、人間関係構築のために利用されるものとしての諸価値を与えられるようになる。意味世界を構築するさまざまな事柄は、意味とともに価値を携えていると先に述べたが、そこにも、意味が感情を喚起することによる価値の付着を考えねばならず、逆に、価値的要素が感情を動かすことも考えるべきである。感情は人間関係から生まれ、その後、人が関わるあらゆる事柄が感情のら動きの契機となり、感情が事柄を染めていく。」(松永澄夫著「眼差しを見せる」p.11)

 

4.【哲学は問いの亢進によって始まる】

「行為を選ぶことにおいて、人がささやかなりと自分の在り方を選ぶのであることも間違いない。確かに、石を手に入れるか否かの選択が、自分が商人であるか否かの選択にまで及ぶわけではない。むしろ、諸々の行為の積み重ねは、その人が商人であることをますます自明なことにしてゆく。しかし、時に私の行為の選択が行為者としての私自身の深いところでの選択に直結する場合もある。それまで自明に保持してきた自分を揺り動かすこともないわけではない。そして、そのような種類の選択の前の問いの状況、ここに日常性のうちに潜んでいた哲学の欲求の目覚め、覚醒の余地がある。問う自分自身を巻き込む問い、それゆえに答える自分に関する内容を含むものでなければ答として通用しない問い、この問いとともに哲学が生まれる。そして、そのような問いは私が自明性と呼んだものの消失と結びついている」(松永澄夫著「哲学の覚醒」p.69)

 

5.【ナメクジの知覚は分節的知覚様態ではない】

「人間を除く動物は恐らく、知覚の種類ごとに異なる内容のそれぞれに応じて或る行動を為すと思われるのですが、人間の最も一般的な知覚様態ではそうではありません。私たちは、異なる知覚種によって手に入れる内容を一つの知覚対象のさまざまな知覚的質として捉えることをします。多くの知覚種によって捉えることができる対象の例として、人が作るもので自然のものではありませんが、煮えたっているカレーを取りましょう。或る匂いがしてきて、ふつふつと音も聞こえ、匂いや音がする方を見ると辛子色のものが見え、お皿によそって食べると熱々で、或る味がします。色も匂いも音も熱さも味もカレーの性質だという捉えを私たちはしますね。私たちは異なる知覚種によって得る内容を一つのもの(カレー)の異なる性質だと捉えるのです。これは、「何かと・その何かのさまざまな性質」という仕方での知覚ですので、「分節的知覚様態」と呼ぶのが適切です。翻ってナメクジが或る匂いを嗅いで動いてゆくとはどのようなことか考えてみましょう。ナメクジは匂いを苺の匂いとして捉えてはいないと思います。ひたすら匂いが強まる方向に進み、その結果苺に到達し、今度は苺を囓ります。囓るという新たな行動は囓る相手との接触によって生じる知覚内容(そして恐らくナメクジ自身において生じる或る感覚のようなもの)によって促されます。行動が止むのは何か危険を察知したとき、それから言うなれば満腹したときでしょう。以上のことは私がナメクジについて研究した人の報告も踏まえ、推測して、しかも擬人的表現も交えないわけにはゆかない仕方で述べていることです。ですが、人間の知覚仕方の特性を理解するための対比としては役立つと思います。(実はあと二つの知覚様態が人間にはあります。一つは元々の知覚機能の発生の理屈に沿ったもので、たとえば背後で大きな音がするなら直ちに人はぎくっとするし、振り向いたりするでしょう。尤も、振り向くというのは何が音を出したのかを見て確かめようとするのですから、この様態は、以上に述べた知覚様態へと直ぐに移行します。そしてもう一つ、綺麗な色、あるいはさまざまな色の配置にうっとりするとか、匂いを味わうとかして、その色が何の色か、味わっているのは何の匂いなのかを全く気にせずに知覚的質だけが前面に出るという知覚様態もあります。)」(松永澄夫著『生きること、そして哲学すること』p.105-p.106)

 

6.【知覚されうる物的環境内の事象どうしの横の関係を捉える人間の知覚】

「現に知覚している内容Aに向き合うのではなくそこから離れて横の関係にある別のBに向かうというのは特異なことなのです。動物では決してこのようなことは見られません。」(松永澄夫著『生きること、そして哲学すること』p.110)

 

7.【志向項なき感情こそ内面の本体であり最奥の存在】

「人の存在とは、他の現実の事柄と同じように時間的なもので、現在にどうあるかこそが存在の内容そのことです。では、各人が現在あるということに内容を与えているものは何か。最初に、内面の事柄としての、考えたり想像したり意欲したりということですが、これらは、何かを考え、何かを想像し、何かを意欲していることで、その何か無しには無内容です。しかるにその何か、想像されたりするものは、考える、想像する、意欲することが消えれば消えるものです。ですから、その何かは意味次元の事柄、意味事象でしかありません。他方、感情ばかりはそれ自体が人の内面を満たします。想像される感情は想像することをやめれば消えますが、感情そのものではそのようなことはありません。感情こそ内面の本体というか、最奥の存在です。(因みに、見たり嗅いだりする内容は人の外の事柄という位置付けになっていますし、痛いとか怠いとかは体のことという位置付けです。)」(松永澄夫著『生きること、そして哲学すること』p.275-p.276)

 

8.【松永の生活哲学主義】

「大事なのは、私たちは静かさの中の思索から行動へ、哲学から生活へ、返るのだということである。哲学的思索そのことが生活に優先する価値をもつと妄想することは、己を発生させ、支えるものを軽んじる嗤うべき態度、転倒であり、独善である。思索が位置づくべき生活では、為すべきさまざまなことがある。それは思索にとっての雑事では断じてない。そうして、しばしば「雑事」という蔑称のもとで呼ばれることもある事柄、これなしに人の生はなく、思索すべき材料もない。」(松永澄夫著「生活と思索と言葉」p.35)

 

9.【価値の強い感受が感情である】

「想いとは意味的なもので、それは必ずや或る価値を帯びていて、その価値の感受が、ないしは強い感受が感情に他なりません。」(松永澄夫著『生きること、そして哲学すること』p.277)

 

10.【哲学はなぜ役に立つのか】

「人は、大きな事故に遭う、大病をする、大事だと思う人間関係が全くうまくゆかない、失業し、その後に仕事に有りつけない、自分の大切な人が不幸であるように思え、その人をその境遇から抜け出させたくても自分には何もできない、酷い孤独感を覚える、無力感ばかり覚える、何もしたくない、何のために生きているんだろうと問うてばかりいる、自分のことを認めてくれる人は誰もいない等々に、人生の過程で見舞われないとは限りません。そのとき、それでも生きるとはよいものだと思えるし、そう思うことで新しい一歩が踏み出せる、それを可能にするのは何かを私は考えていて、そこに希望を託しています。どういうことかというと、そのような現実が生まれる理屈を理解することで、新しい現実を引き寄せる術を手に入れ得るのだということです。物事を理解するとは、その物事がなぜそのようなものとしてあるかを理解することで、すると、あらゆる事柄は理由あってあるものだから受け入れるしかないと、このように保守的な営みであるかにみえます。しかし、そうではないのです。それら生まれているものに関してその生まれた理由と生まれ方とが分かれば、それらに対してどのような態度を取るのが自分にとって望ましいかが分かってくる、こちらの方にこそ要点があります。また、その生まれ方を転用して別の事柄が生じるようにし向けることもできます。」(松永澄夫著『生きること、そして哲学すること』p.308)

 

11.【トマトでさえ意味づけが力を持つ、いわんや自己像をや】

「自分を現にどのような世界のどのような人間として捉えているのか、それも必ずしもいわゆる客観的ないし中立的な捉えではなく、単なる或る世界像――自分が生きる意味世界の或る像――と自己像でしかないということも理解することができます。そして世界像と自己像とは別ものでありながら、互いに影響し合うものです。自己像とは各人にとって極めて重要なものですが、自己の一つの象りでしかなく、意味事象に過ぎないとも言えます。そしてこれらのことを理解すると、人は、己が現在持っている世界像も自己像も、その時点で自分が重きを置いているそれぞれ一つの像、意味事象でしかないことに気づき、別の像を持つことも可能になります。意味事象であるとは意味づけでもあるということです。そして意味は人にあって力を持つものです。アメリカの最高裁がトマトを果物ではなく野菜と認定したとき、それも意味づけで、トマトに関税を課すことができるようになりましたが、トマトの新しい意味づけに馴れて野菜とイメージするようになった人々は、果物のようにそのまま食べるだけのことをやめて、さまざまな料理の食材として使い始めたのかも知れません。物の意味づけですらこのような効果を有します。それが自己像という意味事象として自分自身を意味づけるものであったら、その力は非常に大きい。トマトは時々目にするだけですし、手に入れることはもっと少ない。けれども自己はいつでも居る自分自身です。たとえば自分は三日坊主だとの想いは、何かやってみようと思っても、どうせ長続きしないからやめとこう、と自分を縛ってしまいます。そして自己像の形成はというと、誰かから「君は優柔不断だからな」と言われる、あるいはそう言われているらしいのを耳にすると、そうだよね、と、幾つか自分が直ぐには決められなかったことだけを多く想い出して、頷いてしまい、優柔不断な人間という内容の自己像が生まれる、そのようなものなのです。すると、いろんなことをさっさと決めている自分もいるのに、そちらの方には目がゆかなくなる。」(松永澄夫著『生きること、そして哲学すること』p.310-p.311)

 

12.【政治が経済を可能にする】

経済の在り方が政治の在り方を決める、という思想もあるが、人間社会のサイズが大きくなる過程では、まずは政治的事柄が先だって社会の秩序をつくり、今日の言葉で経済と呼ぶものは、あとからやってくる。ないし、埋め込まれた状態から自律的なものとして立ちあがってくる。また、そのような立ち上がりのあとでも、政治の枠組みなしに経済の安定はない。(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.53)

 

13.【知覚や感覚という意識のステージ】

「では、意識とは何か。これを明確に限定するのは難しい作業になる。ここでは、これまでずっと問題にしてきたプロセス、すなわち価値的に重要な諸事象に関わる体の内外の変動を受けて生体がそれに対して適切な対処をすることで終わるというプロセス、この大枠の中で、プロセスの進行における或る自由度の出現として意識を考えてみたい。実際、知覚や感覚という意識のステージとは、プロセスの中に現われた、ただ流れてゆく進行のみでなく立ち留まりが出現したときのステージである。それは、適切な対処というプロセスの終点にまで未だ至らない段階で、いわば素通りされずに自己主張する内容をもつ。そうして、その立ち留まりによって諸事象への最終的な対処の在り方は大きな自由度を獲得し、かつ、対処をプログラムに従った遂行とせずに、課題としての行動の位置に引き上げる。プロセスにおけるためらいの契機、もしくは問いの出現だと考えてもいい。あるいは、別の言い方で、こう表現してもよいだろう。知覚や感覚の経験において初めて、単に刺激に反応するのでなく、真の意味で諸事象についての情報を情報として受け止める主体が立ち上がり、対応して、刺激でなく、刺激を発する源としての事敵が初めて、知覚される対象の地位を獲得する。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.83)

 

14.【梃子と人体】

「私たちには、自分の体に準じた構造を持つものが扱いやすいのである。それは固体であり、サイズも体に見合ったものである。また、私たち自身が関節で結合された内骨格をもっていて梃子の原理を使った運動をするゆえに、私たちの最初の道具も、梃子などの力学的なものであったのである。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.88)

 

15.【人体の梃子が力学を方向づけた】

「力学の始まりは、内骨格をもつ私たちの体の運動が、梃子の原理を利用していることによって方向づけられています。体の運動は弾丸のように一丸となった運動ではありません。体の局部互いの位置関係を、配置は元のままだが、少し変えることでなすもので、また、体の運動に抵抗する外部の物との関係においてなされるものです。」(松永澄夫著「生じることと生じさせることとの間」p.9)

 

16.【美味しいという言葉の二義性】

「空腹のあとで食べてお腹一杯になり、「ああ、美味しかった」と言う場合の中身には用心する必要がある。美味しい味がした、とは限らないからだ。余りに夢中でがつがつ食べて、どんな味の食べ物だったか分からない、ということもある。それでも、その食べ物が「美味しかった」と表現されることは多いであろう。「美味しい」、これは食べることによって得られる満足の一般的表現として通用する。そして、強い空腹を癒すことによる食べることの満足の場合、味覚は補助的位置しか占めていない。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.159)

 

17.【知覚の空間規定の前景化と後景化】

「知覚において第一に重要なのは、知覚されるものの空間規定である。その空間とは、知覚する側の動物や人間もまた位置し、その体を移動させ得る空間である。知覚対象と体との位置関係の把握が知覚において重要なのである。そして、重要なのはなぜかと言うと、そのものと体とが交渉をもつことがある場合に、その交渉が重要な意味を持つであろうからである。そして、交渉がある場合には、そのものと体との距離が零になる(もしくは媒体が距離を埋める)のだから、距離と方向からなる位置関係の把握が重要となる。けれども、私たちは音を、音の出所に関心をもたずに楽しむこともする。せせらぎの音、鳥の囀りを、耳に心地よく聞く経験を想い浮かべよう。もちろん、私たちは、聞きながら、あの谷川の水の音、空高いところで舞うヒバリ、薮でガサゴソ動いているに違いないコジュケイの鳴き声だと認識もする。しかし、水音と鳥の声とが溶け合うように聞こえる、あるいはそのように聞くとき、音の出所とそれらの空間配置はどうでもよくなってくる。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.164)

 

18.【味覚の特徴】

「味覚は、人間では、味を味わうそのことの楽しみのためにこそ発揮される場合が圧倒的に多いこと、このことが確認できる。つまり、音を出すものや事象、また色のついたもの・事象への関心に従属することから解放されて、音を音そのものとして、色を色そのものとして、聞いたり見たりするという、聴覚や視覚の場合には、いつでもそういうふうにあるわけにはゆかない在り方が、味覚では普通の在り方だということである。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.167)

 

19.【知覚の本来の役割】

「一般に知覚的質が知覚対象の把握への通路として経験されることを離れ、従って知覚対象の性質として知覚対象に帰属させられることから開放されて、質自体として享受されるということが人間にはある。そして、知覚の一種である味覚における質の経験には、特にその傾向があるのである。というのも、一般に知覚的質の経験は、その質をもった物を弁別的に発見し、物についての情報を与えながらその物を相手に必要な行動へと引き継がれるのが本来の役割であったのが、味覚においては既に食物という知覚対象との交渉関係が始まっていて、そこで、食べることの続行か否かという問題に指示を与えることに知覚の役割は縮小しているからである。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.236)

 

20.【なぜ無為の時間は成立したのか】

「そもそも、質がそれ自体として注意を惹き、物の属性としての身分(痛みのような感覚的質の場合は肉体の或る在りようを示すものとしての身分)から解放されることは、人間が行動への従属から解放されて、豊かな内容をもつ無為の時間をもつようになったことを示す。(ついでながら、そのような質を自ら作り出そうとすることが、芸術の発生につながる。ただし、味という質を中核とする経験の、芸術への移行契機は弱く、料理が芸術たらんとしたときにも芸術の諸ジャンルの中では周辺的に留まる。これには、二つの理由がある。一つには、味覚は他の経験よりは、空腹や渇きなどの生理的欲求に繋がれやすいこと、二つには、質の享受が物の消費と一体になっていて、物の構造に依拠した様式化が困難であることである。)このような豊かな無為の時間の経験の成立を可能にしたのは何なのかを言うのは難しい。が、私見では、人間は人と向き合う存在で、人の力を情動のレヴェルで受け取るものであり、その結果、新しい時間のリズムが生理的リズムの上にかぶさってくる、ここに出発点がある。刺激に条件づけられた行動は中断ないし遅延させられ、無為の時間が情動や情緒で満たされ豊かになる。他方で行動の開始が特異時点として大きな意義をもち始め、そこに欲求の意志への転換の始まりがあり、更に問いの構造とともに意志が確立してくる。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.237-p.238)

 

21.【滋味は複雑な味ではないから教養主義的にならない】
「ちなみに、「滋味」という言葉がある。「滋養」のあるものは一般に美味しい。目立つ、派手な美味しさでなく、着実にというか、振り返れば美味しいというか、外れなく誰にでも美味しい。病気からの回復時に、日常の主食としている米やパンの美味しさが更めて分かるということがある。これは、いわゆる複雑な味ではないし、また「珍味」でもない。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.240)

 

22.【時間の観念を初めて意識するのは食事の時間】

「私たちの誰もが、人と人との交わりに入っていった最初は、食事を通してのはずである。そして、時間の観念を初めて意識するのも、食事の時間であったであろう。(人との交わりと時間の区切りと、これら二つの事柄には密接な関係がある。というのも、人間関係の介入なしには、自然の時間の流れが意識されるとは限らないからである。暑くなる昼、暗くなる夕方、夜、そういったものも、それぞれの時間で人が何をなすのか、それも人々の間で決まる事柄に関与して何をいつ為すのか、という経験を積むことを通じて、ただ移り過ぎてゆくのでなく区分された時間として把握されてくる、このような道筋を考えることは、動物である人間が人となることとはどのようなことかを考える上で重要である。暦をつくり時計を工夫するのは人間だけである。)目覚めた時間のすべてが遊ぶことで構成される幼児が、自己への没入から呼び戻され、人に向き合わされ、人から働きかけられ人々が生み出す諸感情の場に浸されるのは、多く食事の時間においてである。そして、その食べることと言えば、それは元々が歓びをもたらす情的側面をももつ事柄である。かくて、幼児は、欲する食べ物を与えられるという事柄を基盤にしながら、人々と情緒的関係を結んでゆく。食事の時間を骨組みに、目覚めた時間はメリハリを与えられる。食事の時間とは、食事を共にする人々が互いに調整して、その時間に、それぞれに為していたことから引き上げてきて、一緒に過ごし、エネルギーを取り戻す時間となるべく設けられた時間である。そして、一日に何度かの食事をいつも共にする人がいること、これが、人が必要とする人間的感情、特に親密さの感情を育てる基盤となるのでなくて、どのような事態が代わりなり得るというのか。物質面においても人が多くの人々に支えられているのはもちろんだが、人が心をもつ存在として生きてゆくのに、他の人との心のつながりは不可欠である。食事は、このつながりの基本的な場面を提供する。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.261-p.263)

 

23.【時間以外のもので時間を説明することはできず、在るものはあれこれ個別的で、基礎的な在るものは時間性格をもつ】

「時間を言うとは、何もかもが刻々と新しいということを指すのではないのか。(「刻々と」という表現は時間概念を前提しているが、時間以外のもので時間を説明することはできない。このことは、時刻を定めたり時間を計るには空間概念が不可欠であるということとは別の事柄である。註2:時刻を決めたり時間の長さを問題にしたりするのは、「行為の秩序においてまず諸々の物を考え、次にそれらの諸変化と出来事を考える中で」(松永澄夫『知覚する私・理解する私』勁草書房、一九九三年、オンデマンド版二〇〇三年以降、一六九頁)出てくる時間の捉え方である。それに対して、「何もかもが刻々と新しい」というのは、すぐに述べるように、何か在ることの時間的性格そのことを表現しようとしている。だから、なお、時間そのものが在る、というようなことは考えていない。在るものはあれこれ個別的で、基礎的な在るものは時間性格をもつと言っているだけである。ただし、在るものの概念が拡張されると、無時間的な存在を人は想定してくる。)」(松永澄夫著「現実性の強度と秩序」p.8)

 

24.【感覚から知覚へ:対象性の成立】
「冬の陽溜まりに私がいる場合を考えよう。私の背はぽかぽか温かい。日陰に入ると寒い。それで、私が体に感ずる温かさ寒さは、私が陽溜まりと日陰との間で動く限りで場所の温かさ寒さの知覚に転換する。しかし、陽溜まりの中で私がうづくまっていると、温かさはただ私の肉体の事柄となる。けれども、再度、陽溜まりに留まったままで、だが私が体を巡らすと、私の背や後頭部から、肩、横顔へと温もりが移動し、同時に私は或る温かいものを私の体の向こう、一定の方向にあるものとして知覚する。それを太陽とか光と同定するのは判断であっても、判断以前に、知覚として微かな対象性を持って、私によって発見されることを待っていたものとして温かさは発見される。まさに私の肉体において生ずる変化、或る作用のお陰で、しかも、その作用は肉体の事柄として現われながら、ただ、肉体の事柄としては消去する方向性を持つことによって、対象の現われが可能となる。」(『知覚する私・理解する私』、p.74-p.75)

 

25.【感覚や知覚から生まれる感情もある】

「意味事象は価値的なものだから、人は意味に関わるあらゆる場面で意味の作用を受ける。しかるに、価値の感受の強い形が感情に他ならない。その感情が人の人らしさを構成し、人個人の最も中心を成す、そう私は考えている。感情はもちろん、感覚内容(痛いとか痒い、体がぽかかぽかする等)や知覚内容(食べ物や目が眩むような崖、凶暴そうな大きい犬など)が携える価値の感受からも生まれる。が、人間では諸々の意味事象が重要なもの(価値を携えるもの)として力をもつのだから、むしろ多くはそのときどきになす何らかの意味の理解とその価値的側面の感受から生まれる。そして感覚内容と知覚内容もその時々の〈私〉の現在を満たすが、〈私〉のそのときどきの有りようの中心は感情となる。(註26:感覚が「〈私〉の現在の事柄である」というのは、感覚は自分の体ないし体の局部の状態を告げるゆえに頷けるが、知覚は元来が体の特定とともにしかない〈私〉とは別の存在----体の外の存在----の捉えである、なのに、どうして〈私〉の現在を満たすと言えるのか。知覚は〈私〉とは別の存在の捉えであるとしてもそれは〈私〉の行動と関わる可能性があるという観点からの捉えであり、他方で〈私〉が知覚するものである限りで〈私〉の存在に参与するという性格ももっているからである。この性格は特に行動から全く離れた知覚様態において目立つ。人間には、知覚即行動へ、という第一の様態よりは、行動に引き継がれる前にそれ自身の内容で自足している知覚という第二の様態が多いし(そしてその後に必要に応じて行動を導くこともする)、更に進んで、知覚に没入するという第三の様態もある。この三つめの様態における没入とは実は知覚的質の感受であり、この感受の強さが知覚的質を有した知覚対象の空間規定という契機を薄れさせる。しかしながら、たとえば知覚する人が形や色彩とそれらの配置の調和に魅せられるとき、その内容から空間規定が消えるはずはない。ただ、その空間性は「体の運動空間である----運動空間として読み取れる----」という原則的な性格を削ぎ落としたものになっている。なお、このような知覚様態では、音に聞き惚れ、色の美しさに心奪われ、匂いや味、肌触りの良さや心地よさにひとときを委ねるなど、好ましい経験であることが多い。なぜかと言えば、嫌な音、不快な色等の場合には、それらから逃れようとする行動、嫌な味なら食べ物を吐き出す行動、が生じがちで、知覚は行動との関係を直ぐに取り戻すからである。ただし、このとき、音や色等の知覚的質を直接に相手にはできない。音を出すものや空気、色をしたものないし光等を行動対象として間接的に音と色等の知覚的質の有り方を変える。なお、ここで「嫌だ」とか「好ましい」とかの感情的な言葉が出てきてしまうのも、結局は価値の感受がいつでも問題であり、感受の強い形が感情に他ならないゆえである。こうして、人個人のそのつどの存在の中心を成すのは感情だということが表だってくる。また人が何かを想像するとき、行動するとき、それらの活動そのこともそのときの人の存在を満たすが、想像は意味事象に関わるのだから意味事象の価値の感受があるし、行動にもその内面としての感情があるのだから、人における感情の中心的位置取りは微塵も揺るがない。)」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.306-p.307)

 

26.【なぜ無前提な原理から始めることによる煩悶の最終的解決や統一的回答は不可能なのか】

「さて、真理へのこだわり、そうして、こだわりゆえに探究が認識論へと転換してゆくことと並んで、哲学が陥りやすいもう一つの傾向がある。それは、「原理」とか「根拠」とかの概念への執着である。「原理」とか「根拠」とかの概念に魅力を感じることは、問いを終息させるものを求めてのことだろう、その気持ちは分かる。しかしながら、いったん無前提という状況を想定し、その上でそこに、他を前提せずに己から始まる原理や根拠を求め、発見しよう、発見したいと、このようなことを人が言い出すとき、私たちは向きを変えるよう彼女/彼に要求しなければならない。つまり、何が原理か、或る何か(誰かによって候補として挙げられた、ないし主張されたもの)が本当に根拠に相当するかどうか、などを論ずる前に、そもそも原理や根拠という概念自身がどういうものであるのか、これらは明晰な概念であるのかを、疑う方がよいのである。アインシュタインの相対性原理でもいい、水力発電の原理でも法治国家の原理でもいい、民主主義の原理でもイスラム原理主義者が従う原理でもいい、これらにおいて原理という概念が意味をもつ、内容をもつのは、何か限定された領域で用いられるからである。根拠の概念も、被疑者が真犯人だと主張する根拠とか、或る未知の物質が混入しているはずであるということの根拠とか、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が源頼朝の東国の支配権の根拠であるとか、文脈を従えてのみ内容をもつ。すべてを問うまでに亢進した問いを終わらせるものとしての地位ないし力をもつ原理や根拠などありはしない。(信仰の事柄である神、絶対者をもちだせば別である。)原理は原理から引き出されるものと、根拠は根拠づけられるものとの関係において意味をもつが、そのような関係性が見いだされる諸項は、関係の外に無数のものを目を向けないまま放置しており、一方で放置したものどもの原理や根拠のことなど与(あずか)り知らないし、そうして他方、見いだされたことになっている原理や根拠は、それら放置したものどもがあることを当然の条件として成立しているのかも知れないのである。(註9:この事情は原因の概念の場合と同様である。或る出来事、たとえば山火事の原因は、強風で枝どうしが擦れた際の摩擦熱だとする場合にも、山火事が結果として生じるには、それ以前の青天続きで空気が乾燥していて強風時にも雨が降らなかったこと、枯れ枝が周りにあったことなど、原因とされたもの以外に幾つもの条件が必要である。しかし、私たちはさまざまな条件を差し置いて或るものを特にクローズアップし原因の位置におく。(原因と条件とに差をつける。) しかも、そもそも山火事の例の場合には、その諸条件の幾つかは目立ち、気づきやすいから、それらの条件についても話題にする(そして場合によっては、それら諸条件をも原因の位置に昇格させることもする----一つの原因を言うのではなく、複数の原因を列挙し、山火事をそれらの複合の結果とするのである----)のだが、或る出来事が出現するためには必要な条件なのだがいつでも成立し終えているゆえに条件として気づきもしない、そういう事柄が無数にあるのが普通である。(※引用者註:条件と非条件とにも差をつける)たとえば、或る気圧の空気があったこと、重力が働いていたこと、など。原因と目されるものの他に諸条件をも挙げても、列挙には切りがない。私たちが原因と結果との線を引き得るのは、その線の外側に無数の事柄の成立を放置、無視してのみなのである。)原理や根拠の概念は、単線であれ複線であれ交叉する線であれ、引き出すのか積み重ねるのかどちらであれ、線形の鎖を理想とする強固な構造の存在を前提している。しかしながら、第一にそのような構造は抽象であり、第二に、第一の事柄と同じことを別の面から言うのだが、一つの構造に収まる全体などありはしない。私たちが生きる現実は離散的である。そうして、それらを辛うじて一つの世界につなぐのは、それぞれの「私」である。問うものとしても己を現れさせる各人である。では、その「私」が結局はすべてを一つにつなぐではないか、と言うべきであろうか。だが、私は時間的な存在である。時間を貫く一つのもの(事柄)が一つである仕方は多様である。一つということの中身がはっきりしないところで、統一とかのことを言っても詮なきことである。」(松永澄夫著「地図の地図」p.16-p.18)

 

27.【形は知覚的質ではない】

「形は正確には知覚的質ではない。物的事象が存在することとその場所規定とは不可分で、場所の占有仕方はそのまま形がどうであるかと一緒である。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.313)

 

28.【哲学する私は私の半身である】

「本当に知っているのかと問うとき、人は、知を所有していると思い込んでいたそれまでの自分の代わりに、新たに、知を求めている自己を見出す。しかも、二つの自己はいずれも架空のものでなく実際に現実の生活を生きている自己である。」(松永澄夫著「哲学の学び方」p.151)

 

29.【肉体も意識されているだけの幻だとは言えないのは肉体は生きられた現実の第一位だから】

「哲学は存在という概念がお気に入りですが、そのくせ存在の概念の出生地を振り返ることは必ずしも得手ではありません。存在の概念に先立つのは現実の概念です。

 私たちは、自分が生きているという現実を尺度にしてしか、何かが存在していることの有りようの水準を測れません。そして、生きている現実は自分の体の体験とともに始まります。ここで注意すべきは、意識の始まりがどのようなものであり、自己という概念がどのようにして発生するのか、確定的なことは言えませんが、しかし私たちは意識をもち自己について語る有り方の中でしか事柄を語り得ないのだということを踏まえた上で、なお、その制約の中でも、私たちが意識には決して還元できないたぐいの現実のことをも知っており、体調その他、体の有りようはその現実の第一位を占めるものだということです。物体の非在を仮定し、そこで物体の一種として想定された体の非在をも帰結させながら、それでも意識する私の存在だけは確保できると主張する哲学者たちがいようと、自分の体を抜きにした意識も自己の経験も私たちは知りません。しかも、体が意識や自己の経験に入り込んでいるのは、意識し気づかれた体はもはや意識内容でしかない、体の存在も幻ではないかという議論に引きずり込まれることを拒む仕方で、私たちの体の存在経験はあるのです。何かの物体についての意識があってもその物体の不在が許容されることはあります。しかし、体についての意識がありながら体が不在であるということはあり得ません。それは、切断された腕を今でも自分が持っていると錯覚する人の事例を持ちだすことによっては覆されません。腕はなくしても肩は持っていること、空腹や尿意を感ずる体があるということは、否定されようがないからです。この事態の核心にあるのは、体の概念を物体の概念に従属させてはならぬということです。逆に体の経験に物体の経験が従うということを洞察しなければなりません。

 眠さや疲れ、深呼吸の爽快感、鼓動の高まり、空腹、尿意、痛み、痒み、熱っぽさ、むずむず動きたくなる感じ、このようなものすべて、体の有りようとして現出する事柄のすべてと無縁の自己の存在があるでしょうか。たとえ、死後の、体を抜け出た魂としての己の存在を想像するにしても、そのような存在が私たちが経験する現実を構成したことは決してなく、だからこそまさに、それは現実と対比をなす想像においてしか語れないものという位置を与えられています。私たちは生きている体として存在しています。そして、その存在に類比的なものとして他の存在を考えるのです。」(松永澄夫著「生じることと生じさせることとの間」p.4-p.5)

 

30.【蟻にとって小石は地面から分離できない】

「私たち自身であれ、特定の対象であれ、それらがどのようなものであるかを言うことは、まずそれらを他から区別して取り出す必要があるわけですが、実のところ、それらはすべて孤立してはいません。相対的な独立が言えるに過ぎません。私たちに関して言えば、生命体としての私たちの存在とは体の構成に他ならず、体は環境である世界から切り離されては存在しません。私たちは周りの空気を吸い、吐き、食べ物を摂取してのみ存在します。それに、そもそも、気温や気圧が或る範囲の大きさであることによってのみ一つの形を取って存在しています。それでも、私たち自身の相対的な独立、体の構成において明白に認められる独立は主張できるのです。

 そして、この独立を梃子に、私たちの体の運動が体の周囲の特定の物体的なものを他から一時的に切断し、一つのもの、相対的に独立なものにすることができるということが次に重要です。地面を這いまわる蟻にとっては地面の一つの様態を呈示するものでしかない小石が、それを掴み持ち上げる私によって地面とは別の一つの纏まりあるものとして分離されます。」(松永澄夫著「生じることと生じさせることとの間」p.9)

 

31.【単なる継起の規則性では科学の成立には不十分で人間が操作できるパラメータが必要】

「原因の概念と法則の概念とを巡って、マルブランシュ、ヒューム、ダランベールなどが議論したとき、自然の現象が生じてくるときの継起の規則性の意味するところに人々の目がいったわけですが、単なる規則性だけでは科学の成立には不充分で、幾つかの(それぞれに変化する)パラメーター間に見られる比例関係等の線形理論で表せる種類の規則性(ないしそれへの準拠)が必要なのです。たとえば花が咲いた後には種ができる、月が満月になった後は欠けてゆくなどの規則性を確かめるだけでは近代科学が要求する意味での理論の構成にまでゆかず、たとえば一リットルの水を日向に十分間置いたときに上昇する水温の大きさは、五分間だけ置いたときの上昇幅の二倍だ、ニリットルにしたらどうだ、水を入れる器の大きさ(陽が当たる表面の広さと深さ----これら自身、同量の水を仮定するなら、側面が垂直な容器なら反比例の関係にあります----)を変えるとどうなる、などの諸関係に見られる規則性が探されるべきなのです。」(松永澄夫著「生じることと生じさせることとの間」p.8)

 

32.【科学実験は幾つかのパラメーターの変移の間に見られる規則性を発見している】

「一般に或る事柄に関して対照をなす事例を用意して、それに平行して別の事柄に関する差異が見られないかを探ること、ここに実験の基本形があります。たとえば他の条件を同じにして光だけを変え、そのときに、光の差異に平行して色という事柄に差異が見られるかを確かめる、あるいは、銀杏の実が落ちる高さの違いだけを比べ、それにつれて実の潰れ具合に差異が生じるか探るわけです。先に私は単なる継起の規則性ではなくして、幾つかのパラメーターの変移の間に見られる規則性の発見が科学の成立の根幹だと述べましたが、実験はこの発見に向けられています。」(松永澄夫著「生じることと生じさせることとの間」p.12)

 

33.【分類の学から関係の学へ:実験という技術の内実】
生じるものをただ観察するのでは理論は手に入れることはできず、生じさせる仕方で生じたものに関して観察し理論を提出することができるのです。(このことは惑星の運動に関する理論の形成には当てはまらないではないか、というのも、惑星の運動を私たちが生じさせることなど決してできないゆえ、ただ生じる運動を観察するしかないのだから、という疑義が出るかもしれません。けれども、惑星の運動の理論、天文学は、地上でものを落としたり放り投げたりする運動についての理論、力学と接続されて初めて、近代的な科学理論となったのです。暦をつくることができる古来の天体の学は、さまざまなものを分類し、それがどのようなものであるかの一覧表を作成するたぐいの学問と同じ平面にあります。しかるに、分類の学から関係の学へ、これが近代科学への転換の中核をなします----ただし、分類を放棄することは決してできない、これまた、もう一方の真実です----。要素を分離して他のものとさまざまに関係させてどのようなことが生じるかを見る、これは、分類において各事物に固有なものとして与えられる特性を関係的なものとして考えることに他なりません。パストゥールの仕事を、さまざまな微生物を発見し、それらをそれぞれの特性において分類したものだと考えることももちろんできます。けれども、微生物の特性を知ることは実験によってであり、実験とは、微生物をさまざまな諸関係の中に投げ込み、その関係を通じて何かを生じさせることなのであり、特性の正体は関係の中で各微生物がどのように振る舞うかにあるのです。)(松永澄夫著「生じることと生じさせることとの間」p.15-p.16)

 

34.【言葉は本来すべて表語文字

「「ハ」と「ハハ」の違いも分かります。しかも、二番目の音は最初の音を二つ重ねたものだ、二つは違うけれども、同じ音が一方では一つ、もう一方は二つ続くという点で違うのだということも分かります。そうして、言葉の音というものがこれらの明確な区別の条件をすべて満たしている種類の音であればこそ、文字という書き言葉も可能となっているのです。いわゆる表意文字ですら、表音文字と同じく読まれる、つまり音に変換されます。(ただし、文字は本来すべて表語文字として登場し、それゆえに読まれるものなのです。表音文字ですら、語の構成音の一つ一つを更めて語の位置に置き、その読み方という資格でのみ、自己限定します。たとえば「『ことば』の『こ』という字はこう書く」と言うとき、「『こ』という字」という表現における「『こ』」は主語として既に語の身分を持っています。)文字の一つ一つの独立性、他の文字からの分離は、言葉をなす音の明確な分離、並列的に相互に区別されると同時に時間的にも言える分離に立脚しています。」(松永澄夫著「おとぎ話が教えてくれること」p.10-p.11)

 

35.【生活場面において感覚と知覚はしばしば交代する】

「温暖、冷熱はまずは体の感覚として現れるが、それらを私たちは体の外のものの知覚内容として体ならざるものに帰属させもする。関心の有りよう----それは価値の置き方でもある----がそうさせる。その場合でも、自分が外的対象とどのような関係を取るかということが関心を導く。また序でに言えば、触覚に関しても触れることによる外物の発見、すなわち知覚と、自分の体が触れられているという体の感覚の出現がある。また、怪我をしたり歩きすぎたりして痛いという体局部の感覚単独のこともあるが、歩いていて急に足の裏が痛いと感覚し、と同時に何かを踏んだと何かを知覚するということもある。」(松永澄夫著『食を料理する―哲学的考察[増補版]』p.309-p.310)

 

36.【過去が過去の資格で力をもつ人間特有の事態とはどういうことか】

アッテンボローという人は自然界の様々な映像作品で有名な人で、ご存じの方も多いと思いますが、彼の或る著作によれば、死肉、つまり死んだ動物の肉や腐り掛けの肉を漁るという評判のハイエナですが、本当はハイエナはニ、三頭のグループでヌーを、また、もっと大きな群れをつくってシマウマを襲い、それは苦労を伴う狩りをするそうです。そして実に、力の強いのをよいことにハイエナを追っ払って、もはや殺された獲物を頂戴することもするのが、かの百獣の王、ライオンだということです(『地球の生きものたち』日高俊隆他訳、早川書房、昭和57年、277-278頁)。さて、この横取りを皆さんはどう思われるでしょうか。『猿カニ合戦』の発想でゆけば、ライオンは怪しからん、ずるい、とかいうことになりましょう。ですが、これは人間の発想、ライオンやハイエナを人間のような存在に見たてての発想です。ハイエナにとっては、逃げようと走り、時には手向かうヌーが自然の恵みであり、ハゲタカにとっては死にゆく動物こそが自然の恵みであるように、ライオンにとって、無傷のヌーもハイエナが倒したあとで地面に横たわるヌーもどちらも自然の恵みです。ヌーが成長してハイエナやライオンにとってたっぷり食べでのある大人のヌーになったことそのことが自然の恵みであると同様に、そして、そのヌーの成長のために草原に雨が降り草が生えることが背景としての自然の恵みであると同じように、ヌーを倒すハイエナの活動もまたライオンにとっては自然の恵みの一部、地面に横たわるヌーの背景としてもはや埋もれてゆく自然の恵みなのです。私は先に「横取り」という言葉を一旦は使ってみましたが、ライオンが横取りとしてハイエナに不正を働くというなら、ハイエナはヌーに命を奪うことでもってもっと大きな不正をヌーに対してなすのだとでも言うのでしょうか。動物の世界で、ハイエナがヌーを倒したという過去は何の効力ももちません。確かに現在というものは過去に規定されてあるわけですが、その過去は過去としては消えて、その過去をいわば完全に消化して全き現在としての事柄があるだけです。倒れたヌーはハイエナの活動抜きにはあり得ないのだとしても、ハイエナに倒されたヌーと、仮に尖った岩か何かに足を痛めて倒れた間抜けなヌーがいたとして、その過ぎた時間における違いはライオンにとっては区別のない事柄です。どのようないきさつによるのであれ、現にいまヌーが倒れているということだけが重要です。ヌーの間抜けさに遠慮が要らないと同様に、ハイエナにも遠慮は要らない、ハイエナの過去の活動を一顧だにする必要はライオンにはないのです。ハイエナはと言えば、ヌーをやっつけるために既に力を使った分、ライオンとの現在の争いには不利になるだけで、ヌーを倒したことが手柄として、いま通用するわけではありません。ところが、人間の世界では、過去が過去の資格で力をもちます。過去による現在の支配、時に過剰なまでの支配は、いたる場面でみられます。私が畑を耕し、種を蒔けば、収穫を刈り取るのは当然に私だと見なされます。過去に殺人を犯した人は、もはや決して殺人などしない人間となっていても、いつまでも殺人者として見られ、現在に影を落とします。反対にオリンピックの優勝者はその栄光をバックにその後の人生を歩んでゆくことができます。短い時間の尺度では、責任を取ったり報酬を受けたりするのも、やはり過去との関係において現在や未来の在り方を決めるからです。」(松永澄夫著「おとぎ話が教えてくれること」p.35-p.36)

 

37.【創造論はお話に過ぎない】

人間機械論には抵抗を覚える人は多いだろう。その一方で、ヒトの体の仕組み、特に脳の仕組みなどの研究の進展に面して、人間機械論を不承不承で認めざるを得ないかと考える人も少なからずいるだろう。いずれにしても、本音は、機械的であることとの対極にあるものという程度での人間の自由な有り方は認めたいのだと思われる。では、どう考えるべきか。機械は人間が製作するものである。すると一つの発想としては、自然全体も機械のごときものとして何ものかが——人間よりずっと強力な神のような存在が——造ったのだ、という思想も出てくる。そして神は被造物の中で人間だけを特殊なものに造った、その特殊性の中には人間的自由がある、とすることで人を満足させる道もないわけではない。だが、これは根拠なきお話である。(ただし、お話が人間にとって大きな意味的力をもつということは別問題である。)」(松永澄夫著「自然・機械・人間」p.251)

 

38.【知覚の成立には能動的関与が必要で、知的活動は不要】

「ところで私としては、位相空間を構築する知的活動と、視覚を初めとする「知覚における空間経験」を成立させるものとは区別するべきことを指摘したい。(このものが何かを言うことはできない。或る種の動物における知覚の成立という、驚嘆すべき、ただ受け入れるしかない事実——ただ、そこに知覚する側の能動的関与が必要だということは確認できる事実——がある。)知覚対象は体を起点(基点)として或る方向の或る遠さに位置すると知覚される、ここに、体の周りが(少なくとも近傍の一部は)体を支えるものは別にして空虚であるということに接続された、またそのことにより体(ないし体の局部、特に知覚器官)の感覚と連携した、知覚における空間経験があるが、そこにいわゆる知的活動の関与を認める必要はない。知的活動は想像の或る仕方での働き方であり、想像一般は知覚のうちに含まれる契機から生まれるが知覚に先立つものではない。では、知覚空間への物の配置に関しても、それは可能的なものとして位置づけることだと、どうして言えるのか。知覚空間の基点は、数学の空間の原点と違って任意にとることはできず、また、知覚内容は徹底して現在の事柄であり、これらゆえに知覚こそは現実的なものである。(翻り、任意性が、数学的空間を構築する知的活動は徹底して可能性の次元に関していることを証示している。そして同じく、知的活動が想像の任意性に根ざしていることも示唆している。また特に、物理の数学的表現としての位相空間では時間も任意性を付与された一変数である)しかしながら、知覚内容は現在の事柄として経験されるのではあるが、知覚とは行動を導くものとして或る種の動物が獲得した能力だという観点からすれば、知覚対象の体からの隔たりの現実性は、行動からすれば可能的領域を指し示しているのである。そしてここに、知覚のうちに潜む想像の一つの契機もある。人は可能な行動との関連で、未だ知覚していないものや出来事を想像する。たとえば、尻尾だけ見える猫の体の全体、飛んでくるボールの行方。そして、知的活動は、想像内容の間の諸関係を操作的に確認しようとする、それ自身、一つの想像活動である。」(松永澄夫著「自然・機械・人間」p.252-p.253)

 

39.【感覚空間は知覚空間の此処として包摂され知覚空間は運動空間として読み取られる:運動空間は知覚空間を可能にし知覚空間は運動空間を下書きする】

「ところで、ここで私は体の移動に言及したが、移動は体の外の広がりの中で、さまざまなものが知覚されている中で言われることで、もちろん体もその広がりの一部を占めるものとして理解されている。しかるに自分の体としての感覚が既に、指の痛さ、目の腫れぼったさ、背中の痒さ等と或る空間性を携えていて、その感覚空間が体の外の広がりに包摂されるのである。この包摂は、知覚空間が原則として運動空間として読み取られ、運動する体が知覚されるものとしては知覚空間の此処に位置していることによってなされる。知覚におけるいわゆるパースペクティブの経験は運動する自分の体抜きでは生じない。」(松永澄夫著『食を料理する』p.310-p.311)

 

40.【知覚が能動的だと言えるのはなぜか】
人間機械論に固執する人は、人の或る行動そのことを、人という機械における或る必然的な出力として生じるものに他ならない、と主張するに遠いない。この主張は次のような「知覚に関する考え」と同根の発想であり、その考えの方は一見は説得力あるゆえ、連れてこの「行動についての主張」の方もまた論破しにくいように思えてしまう。すなわち、たとえば物体からの反射光(あるいは光源からの直接の光)が目に入ると、その入力から始まって、光刺激の受容器、伝達回路、脳へと進んで、その最後に「物体(ないし光源)の見え」が結果(=出力)として生じるという仕方で、視覚という種類の知覚の成立を説明する考え(物体→光→視細胞→双極細胞→神経節細胞→視神経→脳=物体の見えの成立)。この考えに平行して、柿の木から柿の実をもぎ取る行動も、脳から運動神経を通して伝わる指令に従う筋肉の収縮として実現されるとする、こうした考えも受け入れるべきだと思えてしまう。ただ、物体の見えの成立の場合には明確な光エネルギーという入力、これに相当するものが「筋肉の収縮という出力に対応するもの」としては何なのか俄(にわか)には特定できないという曖味さはある、という歯切れの悪さは残るだろう。だが実は、一見は明確なものにみえる光という入力に戻ってさえ、これを決定するのは物体を見る人の側なのであることを理解しなければならない。知覚を「体への或る入力に対応する出力」として捉える見解の方も間違っているのである。体への入力は無数にある。いま私は光エネルギーという目への入力に言及したが、実のところ目には、太陽からの真っ直ぐな光、雲からの光、川の水面からの光、川岸の木立からの光等、無数に飛び込んでくる。いや、それどころか目には光だけでなく風も当たっている。そして光はと言えば目に飛び込むだけでなく頬にも届いている。なぜ入力として注目するのが光であり、他方で入力場所は目なのか。実に、一つの輪郭をもった木立を見るとは、無数の入力をスクリーニングして必要な入力だけを選ぶことなのである。この選びは能動的なものである。体の外からの体への入力は無数にあり、それゆえにそれらは乱雑だが、生きている体がその乱雑さから或る秩序を取り出す。体は、それへの入力なしではそのまま変化せずにいる(変化してもそれは無視してかまわない)、そのような機械なのではない。そして体が取り出す体の外の秩序はどのようなものかと言うと、体の外界に対する適切な対処を可能にする秩序である。可能であって、対処が機械仕掛けで生じる必然ではない。」(松永澄夫著「自然・機械・人間」p.247-p.248)

 

41.【因果性が規則性を浮かび上がらせるとはどういうことか】

「自然現象において、規則性は恰(あたか)も観察すれば分かるものであるようにも思える。それに、少なくとも惑星の運動の規則性は観察する仕方で確認する以外にはないと思われるし、その規則性の発見は人間の歴史において非常に古い時代まで遡ることができる。けれども、近代以降の物理学が発見するたぐいの規則性は実験を経て確認される規則性であり、ということは因果的関係によって発見される規則性なのである。だから、西洋一八世紀の哲学での、因果性を規則性に還元しようとした試みは間違っている。なお、観察するしかない惑星の規則的運動を、かつて暦の作成に利用したときになしたような理解としてではなく、近代力学的仕方で理解するようになったのも、その運動を、地上で実験できる鉛置下方への落下や放物線を描く落下の運動等とつなげてなそうとしたときなのである。それから、本文での「因果性が規則性を浮かび上がらせる」という趣旨の文を読むと、因果関係が何であるかは定まっているかのごとく思えるかも知れないが、そういうわけではないということも指摘しなければならない。或る出来事を原因とする結果は無数の方向に散らばっているのだし(行動が原因である場合もそうである)、或る出来事は無数の事柄が集まって初めて生じる結果なのである。ただ、いずれの場合でも私たちは重要性の尺度によって原因と結果とを選び出す。そして、この逃び出しということを認めないなら、或る時間経過だけは認めつつ、「すべてによってすべてが生じる」ということを言うはめになり、それはその通りだが、(運命論的になり一時的な諦めや怠惰は出てくるかも知れないがそのような帰結の可能性は措いて)その確認から何も新しいことの発見は生じないゆえに、実際には何も中身のあることを言わないことになってしまう。或る種の決定論的な言説や、自由と必然とは究極のところ同じでしかないなどのしたり顔の言説などの場合である。選び出しということに私たちが自然に気づくのは特に、私たちが原因の概念の他に「条件」の概念を持ち出すよう迫られるときである。(ところが、条件を言うなら、それは「原因と目される事柄を除くすべての事柄」でしかあり得ないのだが、にも拘わらず、実のところは、そのすべての中からやはり重要性の尺度に従って或るものを選び出すことで初めて具体的な条件、特定できる条件を指摘することができる。)なお、私たちは或る出来事が生じることへの人の関与というものには敏感であり、その関与を原因としてであれ条件としてであれクローズアップさせる性向をもっている。時に、誰かが何かをしなかったことが或る出来事の原因であった、というような考えすらする。また、この人の関与に対する敏感さゆえに、私たちは自然と人為との区別を重要なことと考えるのである。」(松永澄夫著「自然・機械・人間」p.256)

 

42.【行動は時間を統合する】

「それから、目を向けるべき重要なことを一つ。機械は或る目的のために何かをするものとして人間が製作する。このこととの関連で、機械を使う行動だけでなく行動一般にも目的があると言いたくなる。実際、人が動物であることに鑑みれば、行動は元来は目的をもった働きであるのは間違いないからである。けれども、人間は目的をもたない行動もする。また、もっと肝腎なのは、人間はむしろ無為の時間に自己存在を享受するもの、その享受として自己の存在----最も人間的な核心----をつくるものなのである。そしてこの享受の時間とは現在である。(行動の方は時間をかけてなし、かつ、いわば時間を統合するものである。)このことについては、私は諸々の著作で、しかるべき箇所を見つけて繰り返し論じてきた。翻るに、物理学は時間を変数として扱い、どの時間にも言えることだけを表現するのであり、その点、結局は可能的領城に留まることしか言えないのである。だが、時間的に存在するものはすべて「それはそれでしかない」という仕方で特殊なのである。そうして、その特殊な有り方をその都度の現在として確認し味わうのが人間である。」(松永澄夫著「自然・機械・人間」p.262)

 

43.【生命維持活動だけでは私が己を見出して存在をそのつどに獲得するのには不十分:感受が必要である】

「そもそも、肉体であるとは物質であるばかりでない。私は活動において己を維持する生物である。呼吸し大気の組成を変え、熱を生産し放熱する。それから更には、自ら動くもの、動物である。自分の周りの空気などはものともせず、自分の周りには運動のための自由な広がりがあるのが当たり前な仕方で皮膚による限定を受け入れている動物である。この活動、特に場所の移動によって肉体は強い意味で一つのものであることを示す。ただ生きていること、生理的活動の持続があることは未だ力ではない。心臓の鼓動や呼吸、毛細血管の収縮や拡大、発汗、睡眠と目覚め、排尿や排便、これらは肉体の環境の恵まれた安定的条件下で許された、むしろ傷つきやすい活動である。自己を維持するのに精一杯で、他に向かう前の基礎をなすに過ぎない。けれども、何かに向かって運動する時、動物は積極的な一つの力として己を規定する。」(松永澄夫著「自分が書き込まれた地図を描く」p.7)

 

44.【感覚の空間規定も肉体の運動によって育つ】

「感覚が示す肉体の各部位は、私が能動的に肉体を分節的に動かすことによって互いに明確な差別と配置とを受け取る」(松永澄夫著「自分が書き込まれた地図を描く」p.44)

 

45.【他人がいなければ感情は生じる甲斐もなく消えてしまう】

「人とは自分を見守る人であり、そこに安心が生まれるというのが出発点にあるのなら、人が独り投げ出されるとき、そこに生じるのは不安だろうか。いや、仮にずっと人が一人きりの世界にいるのなら、それは文字通りの沈黙、意味の消失、更には、いわば自失の状態にまで至るのではないのか。そもそも何のために感情が生まれるとでも言うのだろうか。感情を聴き、増幅し、引き継ぎ、最初の感情を変容すべく返してくれるものがいないときに。独りのときも、何かした拍子に恐怖が起こり、美味いものを食べて満足し、何かが首尾良くいったと喜ぶ、これらは当然にある。しかしそれは、私たちが、応答する人間の世界で既に自己を獲得したゆえにちょっとやそっとの孤独の中でも感情的生活を送れる、このことを前提に生じるものであろう。もし人が初っ端から単独の動物として生きていたら、と想像すると、私たちが恐怖や満足、更に驚き等と理解しているもの、これらに対応するものは刺激に対する体の反応や体の自律的機能の円滑な遂行としてしか生じないのかも知れない。」(松永澄夫著「在ることと為すこと」p.15)

 

46.【肉体の姿勢の維持でさえ肉体を支えるものを対象化する】

「実際、肉体は重さを持つものであり、地面で、床で、椅子で、蒲団でなど、何かによって支えられている。そしてしばしば、それらに触れているという感触は、触れる肉体の状態の感覚と融合している。けれども、この融合から、肉体と触れている相手とが触れたままでありながら共に分離してこようとする態勢、すなわち触れているものを対象の位置に、肉体の向こう側、外なるものとして現われさせる態勢が常にあり、肉体の側の運動がこの分離を実現する。つまり、既に触れているものの改めての触覚的知覚というものが生ずる。もともとが、触れているものに応じて或る姿勢を取ることそのことのうちで既に、肉体の運動が触れている相手を肉体の外なるものとして対象化すべく働いている。固い椅子では私は背を伸ばし、柔らかいソファーには身を沈める。そうして、もちろん、一つの姿勢の特続においては肉体の外なる対象は消え、肉体自身についての意識もまどろみがちではあるが、肉体の姿勢の維持は、転がっていた石がいったん或る場所に落ち着くともう動かないのとは、わけが違う。とりわけ目覚めている時の肉体の姿勢の維持は、運動を孕む緊張によってのみ維持されるのであり、すると、肉体は肉体に或る姿勢を取らせる接触物を己の外なるものとして位置づけることを繰り返すのである。そうして更に、私が動物として移動するものである限り、その移動のたびに肉体は己を支えるものに触れないわけにはゆかない。」(松永澄夫著「自分が書き込まれた地図を描く」p.27-p.28)

 

47.【私の中身が外からやってくるように思える場合もある】

「「俺から会社を取ると何が残る」「祖国が私のいのちです」と言う人の場合のように、<私>の中身がほとんど<私>の外からやってくると思えることもあるが、そうだとしてさえ、それぞれの個的な<私>、その人ただ独りの<私>が問題で、しかも、その<私>はいつも、<私>を見いだす現在の<私>で、そして、その現在は来たるべき時間を孕み、<私>は来たるべき時間への方向づけを、積極的にであれ消極的にであれ、己に課すのである。」(松永澄夫編『私というものの成立』「序」、p.ⅴ)

 

48.【アンズと知覚の三様態:コンサマトリーな知覚】
「私の庭にはアンズの木がある。夜の暗がりの中ではともかく、昼間、私は確実に、それにぶつからないように避けて通っている。それはアンズの木が見えているからである。見るとはなしに見えていて、その見えが私の歩行を導いている。知覚が私の肉体とアンズの木との間にあり得る諸々の関りを前もってうつしているのは間違いない。
 けれども、また、私はアンズの小枝の蕾を見、もっと膨らまないか、早く咲かないかと思う。あの枝を剪定しようかと考える。枝に宿る先程の雨の滴が、今に落ちるかと思う。それで、このように見ているとき、私はアンズの木に向き合っている。現実の肉体の運動ないしは行為に巻き込まれることなしに、私はアンズをただ在ると見いだし、その上で、アンズと私との間で可能な様々の関りのことを想像している。
 しかし、時に、更にその先の経験仕方もある。私はアンズの花を見上げ、見惚れる。その艶やかな桃色にいわば溺れゆく。これは、そのつどの時で完結して濃密な内容を持った経験である。そして、その時、私はあたかもアンズの花群れの中に、そこ、私の肉体の目の前、半メートルとか二メートルの厚みのアンズの枝々の張り渡された中に居るかのようである。更には、花と花との間で光を吸う青さ、空の青さも、私と一体になったかのようである。すると、その青さ、アンズの桃色の照り映え、それを美しいと思うとき、美しいのはアンズの花であり空の青さでありながら、私は、その青さ、桃色の照り映えとして、美しさのうちに、色の歓びのうちに、自分を見いだしている。それは私の心、私の現在の何よりも実質的な内容である。私はアンズという物、他の物と区別されて対象として選び出されたものに向き合っているのではない。空と一緒になったアンズ、目に映るすべての一成分としてのアンズが問題で、そして、そのすべてというものは、私に向き合う対象ではもはやなくなっている。向き合っているのは知覚のあれこれの対象と、知覚する私の肉体である。だが、まさにそうであるからこそ、この経験、あれこれの対象を超えた知覚の総体の経験では、経験する〈私〉は肉体に尽きていないこと、肉体のこの場所に閉じ込められているのではないことが如実に告げ知らされている。
 そう、だから私は、ここで「心」と言う。心、それは何か肉体と同じようには限定されず、それでいて肉体として限定される<私>と同じ<私>、しかも、肉体以上に<私>自身であるような<私>である。それで、私の肉体ならざるアンズの花びらが風で舞い散る時、私の肉体はここで動かずにいて、私の心は動く。花びらと同じリズムの動きの中にある。
 一体、心とは何か。私は次のように考える。あらゆる事柄に、その感知によって現に在るという実効性を与え、同時にその実効性そのこととして己の存在を獲得するもの。そうして、心というものが人間に可能であることは、ゆっくりと流れて幅を持つ現在という時間の経験が可能であることと一体になっていて、しかるに、この経験の一つの形として、肉体の運動ないしは行動へと直ちに引き継がれゆく必要もない仕方での知覚、いや、行動に引き継がれることの想像すらとも無縁な、いわば完全な無為のうちにある知覚、人間に許された特有の在り方のその方向を進めきった知覚を考えることができる。次の時間の行動のためのものとしての規定から完全に自由になって、それゆえに追われるごとく時間的展開の中に組み込まれることなく、ただ在るとだけ発見されるものを人は知覚するが、更にそれどころか、つまり、行動へと引き継がれることなく完結して自足的な知覚を持つに留まるどころか、進んでは知覚のうちで夢見るような仕方で人は在ることもできる。」(松永澄夫著「自分が書き込まれた地図を描く」p.18-p.21)

 

49.【物の性質とは物に期待ないし予期された力のことで、石の相対的独立を切断して同一性をつくるのは反復的に石を切り出すこちら側の操作である:そしてその石の抵抗という特権的な質の位置にあらゆる質の位置規定が連動する】

 「ここで、物とその諸性質という分節構造の内実を考えてみたい。すると、可能性と力との概念が呼び出されてくる。確かに、たとえば或るもののそれが青いという性質は、可能的な事柄でも力であるわけでもないように思われる。そのものに現実に属する事柄、しかも力と無縁に静態的に属するだけの事柄に思える。けれども、私のこの「青い」石は、夕間の書斎では青くない。夜に電気機器に灯る緑色の弱い光に照らされると不思議な色を呈する。色とは、或る状況におかれたときに私が知覚する質だ。状況が変われば、少なくとも知覚される限りでの質は変わる。そして、その質をもつ物といえば、それは様々な状況を通じて同じであると理解されたものである。物とその諸性質とは、様々に可能な場をくぐり抜けて同一であるものと、それが違った様々な場で見せることがあり得る可能性の束、という関係にある。
 常態で知覚される質とは違う様々な性質については、この「可能的な」事柄であるということがもっと鮮明である。私の石がもしかして石炭のように燃えるものであるなら、それは可燃性という性質をもつと言えようが、その性質とは、或る温度で、酸素があって、等々の状況では燃えることもある、そのような可能性を、今は燃えていないこの石がもっているということである。
 物の同一性の根拠は、自然科学が明らかにするような、物の物理的構造にあるに違いない。だが実は、同一性の概念とは、石をつかんだり運んだりするような、物を相手の私の行為の中で重要なものとして機能するもので、この文脈を離れると物の同一性は曖味になる。たとえば石といえども溶鉱炉ないし少なくとも地中のマグマの中でのような高熱では溶けるであろう。石と呼ばれる物質的なものは周りの状況と相関的な在りようをするものであり、その相関性から相関項の一方である石だけを反復的に切り出す私の側の操作、これが或る石の同一性の設定に不可欠である。物理的構造という或る石の同一性の根拠は、その石をおのが一部として呑み込む宇宙全体の中で石の相対的分離を実現している根拠なのであって、この相対性を同一性に転ずるのは石を行為連関に組み込むものとしての私という存在なのである。(そして、私がまた諸行為を通じて同一の私であることは、あとで触れる人格のことは別にして、まずは私の肉体の物的同一性を要求するが、その肉体も或る条件の範囲内----或る気圧や或る温度の範囲内等----でのみー個の生き物として己を相対的に分離している、分離できているに過ぎないのである。)」(松永澄夫著「人に特有な力について」p.2)

 

50.【人間の自己了解をモデルにした物事の理解仕方が分節的知覚】

「物の内側での或る力の存続と、その発揮としての諸々の性質の現実化という構造は、恐らく、人についての了解構造を反映したものである。内においてある、人の人たるゆえんのものと、その外なる諸表現という分節構造が、物にも持ち込まれたと思われるのである。そして、このような了解においては、力とその現われとしての性質との関係は、物それ自体において、言い換えれば自律的なものとして(だから物に内的な事柄として)考えられていることが重要である。

 ところが、性質が言い表している内実は物の可能性であって、その内容は物が他の事象と関係をもつ時に定まる事柄であってみれば、物に帰せられる力の概念の方も、その物の他との関係の在りようを言うものであることになる。石の静態的な性質と思える青いという性質さえ、白色光線を構成するものの中から或る波長の光を選んで反射する力をもつということを言うのであり、そしてこの力は光との関係を抜きにしては意味をなさぬ概念なのである。
 それにしても、物と他のものとの関係が力によって言い表されることは適切なことなのだろうか。どのような事情ゆえに、方向性を含意する力の概念が、方向に中立的な、関係という概念の中に持ち込まれるのだろうか。
 私が石を武器として用いて獣を傷つけること、トチの実の殻を砕くこと、杭を地面に突き刺すために打ち付けること、これらが石が硬い性質をもつということの実際的内容であり、石が獣や木の実や木の杭に対して発揮する力をもつということである。石の青いという性質でさえ、特定の光を捉える力であるのだが、その力であることがはっきりと示されるのは、私がその青さを影刻作品のうちで利用するときなどにである。私から石へ、石から獣や木の実、杭、光へと進む力の線がある。すると、(物のうちで完結する、力とその発現としての性質という理解構造の場合には、人のその人たるゆえんをなす内なるものとその外への表現という了解構造に倣った理解仕方があったのだけれども、ここ、物が他の物との関係においてとる様相が強調されるここにあっては)、人が行為において力を何かに対して及ぼす、この構造が、物が力をもつという理解仕方に引き継がれている、このようになっている。
 確認すべきだが、物がもつ様々な性質が現われることを、つまりは様々な力が発揮されることを期待ないし予期するのはーー可能性の束の中のどれかが現実化するのを予期するのはーー、私である。そして、このことは、存在事象の中での物の相対的分離に依拠して、私の物との関わりが物の同一性を描き出すということ、この先に述べた事柄と併せて理解しなければならない。」(松永澄夫著「人に特有な力について」p.4)

 

51.【石の相対的分離を石の同一性とみなすことができる】

「私が石を抱えるときに、石の他からの相対的分離が石の同一性に転ぜられる。実際は、石の残余の事象からの分離は飽くまで周りの気圧や温度の或る在り方抜きでは可能ではないのだが。」

 

52.【哲学に価値の優劣を断定することはできないが発生順序は示せる】

「いろいろなものを見落とすことなく公平に眺め、「順序関係をハッキリ」させるのが哲学の思考だ。そのようなスタイルに、先ほども言ったように人間の感情的な側面を載せていくことが大事だろう。例えばグローバリズムが進む中で、収益などの経済的な価値と人権などの価値は自明とされている。しかし、お金は「より有用なもの」と交換できるからこそ価値がある。そうやって考えていくと、結局一番最初にあった価値というのは「素朴に泣いたり笑ったりしている生活」ではないか。人権の価値も、そこにいきつく。哲学は「どの価値がより重要か」を断定することはできないが、価値が発生した順序を示すことはできる。」(松永澄夫著、讀賣新聞、2007年4月11日)

 

53.【概念の内容規定が少しずつズレていくことが哲学の議論ではしばしばある】

「哲学では言葉と概念の多義的使用がいちばんの曲者です。議論しているあいだに、概念がだんだんずれていったりする。理科系の論文の場合、概念は絶対にぶれない。一つの概念規定があったら、それがずっと一貫しますが、哲学の議論では、一つの言葉が別のところでは少しずれた使い方をされ、概念が動いてゆくことがしばしばある。それで話が通って、うまくいっているような錯覚に陥るわけです。それをきちんと見極めるような読み方ができるのがいちばんいい。ただ、相手の話に引き込まれて読んでしまいがちです。」(松永澄夫著「哲学/哲学史の読み方」p.133-p.134)

 

54.【物活論的唯物論の誕生】

「もろもろの権威を尻目に、みずからが確認できる範囲で、人間とはどのような存在であるのかを探究すること。それは反省でもあり、分析でもあった。一八世紀の人々は前世紀に登場した新しい自然学と哲学とを踏み台にしたのであり、それによれば、人間の格別な地位は自明であると思われた。探究するというまさにそのことが、人間を思考する存在としてあらわにしていた。そのことはキリスト教とともにある古くからの人間の規定に調和的でないわけではなかった。デカルトの思惟する実体と延長実体との二元論は、人間における霊と肉との相剋に対応するものと見えたのだから。だが、新しい物体の概念は世界を平板化していた。さまざまに異なる多様な種類の存在が階層をなしつつ世界に位置するという描像は壊れ、物質という一元的で量的規定しかもたない存在が世界を埋め尽くすかに見えてきた。人間の肉体も、まさに、その運動のあり方によって力学を導いた当のものたる資格を存分に発揮し、その生命活動も複雑な機械的運動にほかならないようなものとしてイメージされていた。

 そこに博物学がやってきた。そして、物質像は変わる。天文学革新の後、地球が測定され、地質が調査され、化石の体系的分類が進んだ。天体を征服したガリレオの望遠鏡の後で顕微鏡が微小生物(これは一九世紀中葉にパストゥールが酵母菌を皮切りに発見した微生物とは違う)を発見させた。動物とも植物とも判別しかねる生き物などの発見は、観察大好きな人々を驚喜させた。人々の経験の拡大は限界を知らないかのようであり、一方、人間は、与えられた諸現象の限界にとどまらなければならない。すると、今のところはまだ私たちには知られていない機制で物質が思考活動さえなすという可能性、誰
がこれを否定できようか、ということになる。こうして唯物論というものも出てくる(つまり、精神と物質の分割線の消失)。かわりに物質像は、たんなる「時空で運動する質点」というものとは違う、豊饒性をもつものになったのである。」(松永澄夫著「人間の科学に向かって」p.41-p.42)

 

55.【知覚のパースペクティブ的性格とは何か】
「私は同じ現在という時間にさまざまなものを知覚する。そのとき第一に、そのさまざまなものは或る広がりの様態で知覚される。直ぐ目の前の木立と遠くに見える山々とが一緒に見え、その木立の高い方で囀るヒヨドリの声と足下で枯れ葉が立てるカサコソと鳴る音が同時に聞こえ、隣家から煙草の匂いがしてくる。これらの知覚内容は同じ一つの広がりの中で或る配置を取っている。あるいは逆方向に述べて、何かの配置が言えるとは広がりを見出しているということである。そしてこの見出しは、いつでも知覚の時である現在という時間においてなされる。しかるに第二に、この配置は知覚する人の体を起点にさまざまな方向への遠近が言える広がりにおける配置で、この方向や遠近というものは体の移動によって直ぐに変化するので、知覚が携える広がりにおける知覚されるものどもが互いに取る配置も大きく変化する。たとえば私がちょっと動くだけで、桂の木の手前でそれよりは左側に見えていたアオダモの木が桂の右側に見えてくる。それから桂の方に歩いてゆき、その横を通り過ぎると、桂の幹で一部が隠れて見えていた灌木の全体が見えてくる。また、電信柱が一列に並んでいる通りを歩いて行くと、遠くに見えている二つの電信柱の間隔が近づくに連れてより広いものとして見え、電信柱はより大きく見えてくる。」(松永澄夫著「価値の誕生」p.16)

 

56.【感覚や知覚自身が既に意味的である:方向と距離は音の大きさの度合いが語る】

「石の形が石工に石刻み行為を呼びかけることもあろう。元来、言語行為は行為主体と行為対象との共同作業であるが、言語行為の対象たり得る存在者、内面を持つ人間にとって、彼を取り巻く一切のものはいわば半・言葉となり得る。人が積極的に自らを言葉の受け取り手としようとする時、諸事象は種々の程度で表現的なものとなる。車の音は、この車の音として規定されるよりもむしろ、一般的な都市生活を意味するものとなり、金閣の壁の色は、この壁へ人の注意を向けさせる代わりに、中世へ人を誘うかも知れない。そうして、音や色が人の内面に働きかけることは、これらが、苛立たしさや活発さ、げだるさやもの悲しさ等の種々の質を運び込むことを考えれば納得できる。(元来、この車や壁が世界内事象として位置づけられる際に働く感覚・知覚自身が、既に意味的なものである。唯、意味の方向には種々のものがある。音という質を例に取れば、音の出所が問題である場合が、最も基本的な意味作用の方向である。この場合はまさに空間的な方向づけ、定位が音に於て聞きとられ、その遠さ近さに関しては、音の大きさや鮮明さの度合が語る。次に、音調こそが支配的な音楽では、音の含む意味は早、或る種の普遍性へ向かう。そうして、最高度に複合的な言語音では、言葉が道具となることによって獲得した定まった意味の指示が支配的になろうとする。しかし、音楽が、歌い手や楽器演奏者の運動自身が含む内面の次元----つまりは音楽行為の内面の次元----から離れられないように、言葉は音調から離れては生命を失う。母親の子守歌は、赤ん坊に、己の母親なる、この特定の人物が今、此処に居るということを告げると同時に、既に普遍的な音楽の調べであり、そうして、「私はお前をいつくしむ」と語る言葉である。音の持つこれら種々の意味方向が分化する時、車のクラクションの音を聞くこと、笛の音に耳を傾けること、雷葉を聞き取ること等が、そこに於て支配的な意味方向の差異に従って、別種の事柄である如く己を規定してくる訳である。)」(松永澄夫著「因果連関からみた行為の諸側面」p.110-p.111)

 

57.【行為の内面とは絶対的内面であり、行為と無為とを貫通して先ずある】

「しかし、一切の評価から離れてそれ自身に於て絶対的であり、己自身が価値尺度であるもの、そのようなものとして行為の内面は現われる。石工が親方の命令故にであろうと石の形に心惹かれた故にであろうと、石を刻む時に、彼は嬉々として若しくは憂鬱に石を刻もう。ここに現れる内面は、その時に於ける石工の存在の実質であり、この自己享受が初めて行為を行為者に結びつける。何故なら、この内面の次元に於て行為と行為者とに距離はない、同一なのだから。(しかし、石刻みの動機を懐いている限りの石工と石刻み行為とは別ものである。)そして、行為の動機を意識し、或いは目的を意識しつつ人が行為する時、それは行為をいわば反省的なものにするだけであり、しかし、この反省的意識は、唯、或る価値文脈を開いて行為を外的に評価するだけである。しかるに、動機や目的の意識が鮮明であると否とに関わりなく、行為は、喜びや軽快さ等の或る質に於て、時間の中で刻々と己の実質を獲得していく。そして、ここに絶対的価値自身もある。
さて、最後に、行為している訳ではない他者の承認という残された問題に一言触れよう。我々は今や、表象を形成する内面の水準でなく、行為の内面としてその所在が指摘された絶対的内面の次元は、実のところ、行為と無為との区別に関りない次元であることを言わねばならない。行為と無為とを貫通して、その都度の各人の存在そのもの、生命そのものである内面の次元が先ずある。そうして、行為や無為の区別が現れるのは、既に述べたように、表象の中で、或る価値文脈に従ってである、そこで、他我承認の問題は、今や、表現行為をなすものの承認の問題を超えてしまう。絶対的内面の次元が表象に於ける限定を逃れ、第三者による構成的接近を許さぬ以上、他我承認の問題は、己自身の内面が絶対的な自己享受であるのと対照的に、絶対的に隠れたものの承認の問題となる。すると、ここに於てはまた、他者の行為の動機を知るといったような、他我認識の問題は存在しようがなくなる。各人は己が存在のみを生き、唯、表象に於てのみ、他者と諸事物とを評価しつつ、そうして己をもその行為と無為とに於て評価しつつ、生きるのである。しかし、一切の評価の試みを逃れて、各人は己が存在の質を自己享受する。」(松永澄夫著「因果連関から見た行為の諸側面」p.117-p.118)

 

58.【動き回れる空虚とその中での物体の存在は身体運動が開示する平等な二面である】

「私が活動的なものとして生きていること自身に於て不断になしている身体運動の基本的パターンは、《押し、押し返される》というものである。腕を振り回す、立ち上がる、歩く、これらのあらゆる振舞いは、私(の身体)が既に或るものと接触しつつこれに支えられており、それを押しそれから押し返されることと共にのみ可能である。勿論、この可能性は同時に、(私の体全体が弾丸のように一塊となって運動するのでなく、各部分が互いに動き合う柔構造を有していることを前提すると共に)、私の体の全表面がそのような物と接触しているのではないことをも要求する。而して、この不在、これは唯、私が現実に振舞うことができることに於てのみ確認できる。尤、私の振舞いを可能にする、私を支え私の押しを押し返す諸物の存在----私との共在----も、私の振舞いの現実の経過に於てのみ確認されるのであるから、或る種の物の私自身との共在と不在とは、私の身体運動が顕わにする平等な二面である。
 さて、私の押しを押し返す類の物とはどのようなものであるのか?固体である。そして、私の運動が要する時の経過を越えた十分な時間、存続する物である。そこで、固体の存続が私の行動の地盤をなす。しかし、地盤であるもの、それは私の個々の行為によって選択されるものではない。つまり、行為を呼び起こしたり行為の志向項たる資格を持つものではない、それ故に、個別的なものとしては現われない。

ところで、私の身体と地盤との共在、そして、地盤となるものを除いては私の身体の近傍での固体様のものの不在、これらは或る広がりを指定するのではないのか?実際、私が身体を反復的に種々の仕方で動かし得ること、更に突き詰めて言うなら、私が一定の地盤に留まっていながら、猶、頭を巡らし手を動かし得ること、そうして、頭や手が何時も他の身体部分との平衡の位置に帰る体制が確立されてあること、ここに広がりの根源的経験がある。近傍とは、私の身体の諸部分が相対的運動によって互いに位置付け合うことに於て示される《広がりの核》である。而して、先に林檎や机、更には山などの配置と共に語られた広がりの描像が、主として広がりの視覚経験に訴えて得られていることは承認されよう。私が諸個物の輪郭を、見ることによって知るのなら、私は同時に広がりを見もするのである。そこで、身体の振舞いに於て開示される広がりと、見られる広がりと、両者の関係を吟味することが課題となる。しかるに実際、私の対象的諸活動(志向項に秩序づけられた身体運動)に於て確認される、《視覚が行為を導く》(車を見て、避ける、本を見て、取る、友人の顔を見ながら、談笑する)という分かりきった(視覚と行為との共通の対象を軸として考えられた)関係の基礎には、《私と対象(車、本、友人)との間に私が自由に振舞える広がりがあること私が見る》という、もう一つの一層自明的な視覚と行為との関係(広がりに関する関係)が横たわっている。この際、後者の関係に於て行為は、未だ対象志向的なものとして規定される要は必ずしもないことが注意されるべきである。こうして、《見える広がり》が《私が自由に振舞うことのできる広がり》であるという自明性を敢えて吟味することが、件の二つの広がりの関係を考察することに他ならない。」(松永澄夫著「個体について」p.45-p.47)

 

59.【知覚空間が運動空間の延長に位置するものとして両者は接合される】
「視線が同じ輪郭を行きつ戻りつできることは幸福である。これなしに、視覚的幾何学の構成はなし得ないであろうから。だが、私の視線が常に、此処、私の居る位置から出発し、この位置に帰り来ること、ここに視線の更なる幸福がある。しかも、眼球や眼球の嵌め込まれた頭の微かな運動が開示する《運動する身体》に、自と《見える身体》は重なり合う。かくて、これらの事情故に、《視覚によって得られる広がり》は挙げて、《私が物の地盤に支えられて身体運動をなすことに於て開示される広がり》の延長に位置することになり、両者は接合される。」(松永澄夫著「個体について」p.50)

 

60.【鏡の中にも知覚空間は広がるし知覚の現在は科学的説明のむしろ前提となる】

「見える広がりの構成的性格を納得するには、平面鏡の中に見える広がりを考えてみるとよい。今机の向こうに木棚の上部が見えている。私が伸びをして覗くと本棚の下段も見えてくる。本文で述べられたこのような事情は、机と本棚とが描かれている絵や写真に関しては望めないが、私が普通に書斎を見る場合と同様、鏡に映った書斎を見る場合にも、見出せる。それでは二つの場合でどの点が違うのか?見える広がりという資格ではどの点も遠わない。お店の鏡は、鏡がない場合に見える広がりと較べて、実際に見える広がりを広くする。鏡の外と内とで見える広がりは連続している。確にその連続性は、私が鏡の存在に気付く時に否定されよう。しかし、それは見える広がりに加えられた解釈に過ぎない。それは、見える広がりと接合されるけれどもこれから区別されるべき物理的空間が、鏡の面からの延長に於ては別のものとして構成されることを言うに過ぎない。唯、見える広がりの一番手前には必ずや私自身が位置して見える故に、私の極く近傍では必ずや視覚空間と物理的空間とは一致しよう。そこで、見える空間の本性を理解するには、二つの空間が自と接合されることからくる取り違えを避ける為に、むしろ、鏡の中に見える広がりをこそ範例として考えるのが良いのである。猶、視覚像の成立についての承認された説明に拠るなら、広がりと一体となって見える物の像は、物から出発した光がどのように曲りながらやってくるのかにお構いなしに成立するのであるが、これと好一対に、光が何時物を出発したかにお構いなしに成立するのである。」(松永澄夫著「個体について」p.62-p.63)

 

61.【概念の発生順序としては動物的生命の外物との抗争と自己の輪郭づけ→意識→生命の自己概念化→寛ぎの時間の確保→意識なしの生命概念】

「屡々私達は、生命とは何かを言うことは、無機の物質から生命体を分かつミニマムの諸要件を挙げつらうことであるかの如く考えてしまいます。しかし、一旦その諸要件でもって定義することを受け入れたなら、確かに或るものに関して、それを生命体に数えいれてよいかどうかを決定するために、その諸要件を満たしているかどうかを調べる訳ですが、しかし、その諸要件自身を取り出すには、先に、辛うじて生命体であるものを、それは無機物でなく生きているものだと、その諸要件に照らす仕方ででなく認めることができなければならず、ところが、その認めることは、そのものに、生命の最高度の発現形態に於いてこそ力強く告げられる事柄へと向かおうとしている萌芽を、方向を見いだし得るからだ、ということを忘れてはいけません。生命らしさという表現でもって私の言おうとしたのは、このこと、生きているものが持つ方向に於いて理解される事柄のことで、その方向とは生命体の外物との抗争を通じての自己実現であり、抗争は動物的生命に於いて顕わになり、その動物的生命には意識の誕生が不可避に刻み込まれているのです。
 何であれ具体的な生きているものが己をそれとして限定する論理は、異物との抗争の論理です。生きているものは己のうちだけで理解されるものではありません。生命は己を死に至らせようとするものとの抗争として活動に於いて自己を実現する、自己を確定し続けてゆかねばならないのです。ここに、生命には方向があることの理由があります。そうして、具体的なものとしての生命体の自己確定の活動がいつか意識を要求します。勿論、生命より何か高次の原理としての意識ではなく、生きているもの自身が己を確定する営みそのことに於いて必要とする事柄としての意識です。つまり、外物との抗争に於いて外物の刺激を動物的感覚性によって受け取り、異物と己自身とを共に現われさせ、そのことによって己を確定しつつ生き延びることに成功する、その現われに他ならない意識です。そうして、この意識が生命の自己概念化への突破口をなします。重要なのは、この自己確定が、皮膚のような、生体が異物と関係を持つ己の最前線で、己自身に文字どおりに現われる仕方でなされることです。現われるのは異物と周縁部です。意識とは生体の己への現われ、体である己の現われとして出現するものなのです。本日の報告を始めますに当たって私が、意識は肉体の意識として最初の意味を持つと述べておいたのはこのことを指します。また、そうしますと、意識を脳のような中枢の概念にのみ結び付けて考えることは酷く偏ったものであることにも気づかされます。周縁部があっての中枢です。意識の概念は動物的生命全体、従って個体としての生体に関っていて、決して生体の特定部位の在りようとの相関で考えられるべきであるような事柄ではないのです。
 さて、確かに落ち着くところ、私達は生命の概念一般というものを、意識の概念を要求しないものとして語ります。しかし、それは生きているものがそれとして、具体的な体の輪郭づけに於いて確定されていることを前提しての話です。ところが、この確定は、生命とは意識の誕生を刻み込んだ方向にあるものであるということを私達が知っている限りで、可能になっている事柄です。何故なら輪郭づけは周縁部の意識化へと進む個体としての生命を言うこととしてのみ可能なのですから。そこで、異物との抗争のうちで生体が支配する領域の確定の後でのみ、人はもはや意識を要求することのない生命について、言い換えれば、平和のうちに生きることが許される有機的生命についても安んじて語れるようになります。有機的生命という「カンヴァス」の上に動物的生命が描かれるのだとしても、概念としては動物的生命の方が先なのです。そうして、動物的生命とは個体の生命であり、その個体の概念には意識の概念がそっと入り込んでいます。」(松永澄夫著「生命と意識」p.74-p.75)

 

62.【動物はなぜ機械のように見えるのか】

「動物の運動はいつも部分の運動によって、つまり部分相互の配置を反復的に変えることによって実現される運動である故に、特に運動器官を語ることができるのである。また、運動が部分の配置によって決定される仕方でなされることにこそ、動物体と機械との類似がある。道具が手足などの延長であるかのように言われるが、機械は動物の運動が弾丸の如き運動ではなく分節的運動であることに規定され、それを模して作られるものなのである。」(松永澄夫著「生命と意識」p.79)

 

63.【動物と植物の違い:個体としての確定というよりはその仕方として移動運動が動物にはあるということが決定的に意識の発生にとって重要である】

「ここでは概念を問題にしているのであって、だから勿論、生体の個体としての確定自身が、その生体にとっての意識を要求するというのではない。そこで、有機的生命しか持たない植物を考えても、根や茎や葉を部分として一つながりの輪郭で囲まれた一個の植物を言うことはできる。しかし、植物に於いて個体の概念は曖昧になり易い。部分の生命の独立性は非常に高い。私は、これを言うなれば、植物では外的環境と内的環境との区別が殆どないことだ、というふうに理解することもできると思う。そうして、これは、植物には栄養吸収などの為の運動、即ち部分の生命に属する有機的収縮性はあっても、個体としての移動運動はないことと同根のことであろう。[...]次に動物を考えるに、やはり、動物の個体としての確定が当の動物にとっての意識を常に伴うというのではない。しかし、次の二点に注意したい。第一に、動物では外物の弁別が個体全体の能動的移動運動によって探される仕方でなされることに着目すると、それを私達は意識の概念に準じて理解しない訳にはゆかない。第二に、動物の個体を輪郭づける境界は外的生命を生きることの中で皮膚となり、皮膚は根源的感覚器官として、意識される
ものになるべく運命づけられているのである。なお、人間でも、眠りのうちにある時、動物生命はまさに微睡んでいる。しかして、本文でも既に述べたように、眠りとは平和を前提して可能な事柄である。」(松永澄夫著「生命と意識」p.79)

 

64.【感受がつくる無為にただ在る私をどう反省し位置付けるのか:他との比較という操作によって】

「諸知覚事象の方向や遠近の空間分節という、行動に関わる意義を消えさせて、知覚事象すべての現れを現われ自体として受け取るとき、では、この現われはどういう身分のものなのか。楓の葉群と空の青さをともに見、またシジュウカラの囀りを聞いてもいる私がまさにそのようにして在り、他の仕方、たとえば海辺で波と雲の姿と音を聞いているときの私とは違ったものにしていること、このことに注目すれば、知覚の現われすべてがそのまま私の存在をなしている、それが現在ただいまの私の在ることの内容を作っていると、筆者は言いたいのである。行動するものとしての私、体と一緒に考えるべきで、体の外側の諸事象と違った関係を取ろうと時間経過を通じて同一の行動主体として規定される私とは違って、そのつどの現在において内容を確定し尽くした私というものを、現われそのことが存在であり現われのうちに存在がそのつどに成就するものとして、規定することができるのではないか。私が在るとは突きつめれば現在に在ることだ、前の時間も次の時間も考慮しない、というときの「私」を筆者は問題にしているのである。」(松永澄夫著「現実性の強度と秩序」p.35)

 

65.【「存在」という概念の最も深みにあるもの】
「そもそも、何かを想うこと、これは感受性の問題だが、更に明示的に言えば、価値の感受の問題である。そうして、それは或る仕方での存在の生成でもあるのである。私が何かを想うとは、それが想うに値するからである。そして、その感受は「私」を満たし私の現実をつくり、想われた何かも私のうちに参入する。ところが、すると、想いがいわゆる空想的事柄に留まる場合でも、その事柄は何らかの存在性を獲得する、獲得していたのである。想い、感受、価値、私、想われたものは、一つになって固有な存在を形成する。それは「意味的な存在」だと言いたければ言ってもよいが、「存在」という概念の最も深みにあるものだと私は言う。」(松永澄夫著「生活と思索と言葉」p.31-p.32)

 

【いつか松永先生に会ったら聞いてみたい話題】

①松永氏の文章には梃子の原理がよく出てくるし、人体の構造解明と力学の発展には関係があるというような話もよく聞くのだがそれは具体的にはどういう事例なのか。

②感覚も価値的であり出来事であるならば、感情とはどう違うのか。空間規定の有無は大きいとしても、どのくらい連続的といえるのだろうか。ジェームズ・ランゲ説は極端だとしても、まずは感情にも身体的基礎がありそれが無視できるようになったという次第だろうか。

③いわゆるセルフネグレクトを解消する時どのような方針があるだろうか。というのも、私がひどく塞ぎ込んでいるときにはほとんどセルフネグレクトになってしまっていて、パートナーがいるからかろうじて布団から起き上がって動き出せるというようなことがあるから。

④「時間を組織する」(「現実性の強度と秩序」p.36)とはどのようなことかが、まだ明確に理解できていない。またそれに関連して、この論文の註5と註17の難解すぎる記述はどう理解したらいいのだろうか。

⑤意味次元を出ることについて。筋トレやボクシングは意味が力をもつことで所有権が認められる世界で生きるならばもう必要ないはずなのに流行っているし、空腹ゆえの美味しさではない根本的美味、つまり身体を空腹状態にしてから一気に栄養補給をする仕方での美味を求める食事の在り方もある。二郎系ラーメンの食べ方はそうである。これらも実は意味事象ではあるだろうが、意味が力を持たなくても大丈夫だという物的手ごたえのようなものを求めてのことにも見える。原子人ならそんなことするだろうかと自分の行動チェックするひともいる。武道の達人は動物のように動けるようになっているのかもしれない。

⑥無為の私と行為する私との中間形態としてたとえば散歩する私を考えてもよいか。

なぜグラフの平行移動はマイナスするのか

「y=xをy=x-1へと右側に平行移動する」とは、「平行移動したあとでも同じ値を返してもらうためには、平行移動する前よりも1だけ多くxに値を入力すればよくなった」というルール変更を意味する。たとえば、平行移動する前には3を入力したら3が帰ってきたけど、これからは3+1を入力しなければ3が帰ってこなくなるということである。

このことはグラフの形が変わらないならば、全ての入力値に対して言える。よって、「平行移動がなされましたので、さっきまでと同じ値を得るためには全ての入力値にかんして+1をしなさい。」というこの指示は、「平行移動がなされましたので、入力されるxから1があらかじめ引かれるような設定にしておきます」という「補正のアナウンス」として表現される。

それゆえ、y=x-1という形になるのだ。

結論を整理しておく。

①「あるグラフを右側に1だけ平行移動したよ」

とは、

②「入力値xを常に1だけ多くしてやると、さっきまでと同じ出力値yが得られることになったよ」

というアナウンスに過ぎず、この②をxとyの関係で表現すると、

③「yを出力するときに、入力されるxからあらかじめ1が引かれる設定にしておいたよ」

となるのだ。①と②と③は全て同じ意味だというのがポイントである。

y=xの場合だと、新しい設定が、y=x-1というふうに表現できて、新しい設定にすることを「平行移動」と呼んでいるのである。

この話は、遠くからカーブしている車を観測する時には動いているのだから、向心力しか書かなくてよくて、

逆に、カーブしている車の中からカーブしている車を観測する時には止まっているのだから、遠心力を書くという話にも応用できる。

 

力は視点をおく系によって感じ方が変わる。
車の外から見えるのは遠心力ではなくて向心力。でもその車に乗ってるときには遠心力こそを感じる。

そして「遠心力は(乗ってるときには感じるけど外からは見えないから、外の人にとっては)見かけの力だ」と言われる。

物理学でいう「力」は日常語でいう「力」とはまた違うのだ。だから「遠心力」と言ったって、日常的に感じる「力」と同一視するわけにもいかない。

だから、次のように考えてみてはどうか。

向心力がかかっているのに、視点自体が動いているならば、向心力が働いているからそれを書き込まざるを得ないのに、その向心力が働いている対象が止まってしまう。その止まって見えることを、向心力を消さずに正当化するために遠心力を書くのだ。だから、遠心力は向心力に対するいわば補正である。「「止まって見える」という同じ結果を得るために、あらかじめ遠心力というものがかかっていたことにする」というのが補正なのである。

 

 

 

科学法則についてガチで考える

 

【「決定論」は否定できるか:否定できる】
西洋思想の中で、例えば、スピノザ決定論者である。スピノザ主義だけでなく、キリスト教の「摂理思想」も決定論である。「摂理」というのは「プロヴィデンス」という英単語で書くが、これは「前もってお見通し」という意味である。「決定論」の元祖はこの摂理思想(=神様が未来をお見通し)であるが、「たとえお見通しであっても、だからといって人間の自由は否定されない」という「中知思想」(=非常に優秀な教師は不良生徒がその後万引きをするかどうかをかなりの精度で言い当てることができるだろうが、だからと言って、「先生が見通したことが原因で不良生徒が万引きをした」とは言えないのと同様に、神様がお見通しであるとしても人間に自由がないことにはならないという思想)というものも思想史上にはある。しかし、現代に幅をきかせているのは科学的決定論である(神学的決定論に対しては、そもそも神の存在証明がこれまで提出されてきたもののどれもが、論理的にはまともな証明とは言えないと反論できるからトリビアル決定論に過ぎないと言えるだろう)。例えば、リベットの『マインドタイム』における議論のように、「ある人がこれから右手を挙げるか左手を挙げるかを決める直前にその人の脳内では「準備電位」が生じていることが実証実験で確かめられているから、実は物質的にどちらを挙げるかは事前に決定されていた」と考えるのが科学的決定論である(とはいえ、このような話を聞くと、意思決定の前に「脳波」や「準備電位」が生じていることが実証実験で確かめられたからといって人間に自由がないということにはならず、その実験から言えるのはたかだか、「人間が意志を決定する時に物理的前提として脳活動を無視することはできない」ということだけではないかという疑問もあるだろう)。さて、自由は幻想なのだろうか。つまり、決定論は正しいのだろうか。

【人の自由はどこへ行ってしまうのか:人の自由の守り方】
科学的決定論はなにを前提しているのだろうか。科学的決定論は科学法則を前提している。科学法則があるからこそ決定されているなどと主張できるのだ。では、その科学法則はなにを前提しているだろうか。実験室である。どんな実験室か。理想的実験室である。では、理想的実験室とはどんなところか。例えば自由落下の法則を取り出したいならば、空気抵抗のない完全な真空状態が実現されている実験室が理想的実験室である。では、「完全な真空状態」は実現できているのか。できていない。「完全な真空状態」を作るのは今まで無理だったからである。しかし、「完全な真空状態」を理想的に仮定して法則を作る、あるいは取り出すのである。法則を「取り出す」ときには、現実にはあり得ない、「人間にとって都合がいい状況(=恣意的な状況)」を「作り」出したと仮定して、それが世界を貫いていることにしているのである。そうすると、「実際には現実世界では作れないが、人間にとって都合のいい状況を作り出したと仮定し、その仮定されたありえない状況が現実世界全部を貫いている「とする(=と信じる)」」というステップが法則を取り出すときには入っていると言える。このステップには明らかに飛躍がある。「特殊を一般化(=「カラスは飛べる。スズメは飛べる。カッコウは飛べる。タカは飛べる。よって、全ての鳥は飛べる。」という誤謬推理)」することでさえ飛躍であるのに、その特殊があり得ないのであれば、なおさら一般化(完全に真空の状況で全ての物体は〇〇という仕方で落ちる)することには飛躍があると言わざるを得ない。ここには「そう信じる」という契機が明らかに入っている。ただし、「だから、この「落体の法則」は間違っていると言いたい」のではない。そうではなく、飛躍がある、と言いたくて、飛躍があるがそれで正当だと認められているのは、そこには人間の「狙った通りに物体(あるいは現象)を操作したい」という関心が隠れているからだ、と言いたいのである。

【実験室は、狙ったものだけを遮断しないことによって成り立つ】
 実験室は「外界と遮断する(=外界の影響を受けないようにする)」とは言いつつ、全てを遮断できているわけではない。「落体の法則」を取り出すならば、重力は決して遮断しない。いい実験室であればあるほど、重力以外は遮断する(=例えば外界の気温や気圧の影響が実験室内に及ばないようになっている)だろうが、重力は遮断しない。それはなぜかといえば、「落体の法則」を取り出そうとしている人は、そもそも重力に関心を持っていて、重力に着目し、重力以外を捨て、重力だけを使って、狙った仕方で物体を操作する装置を作っているからなのだ。つまり、実験室は、重力によって生じる現象を狙った通りに引き起こしたい(=操作したい)という操作的関心を前提しているのである。この操作的関心を前提しなければ、「重力だけを遮断しないことで実験室を作る」ということがそもそも起こり得ないのである。これを縮めていえば、「操作的関心なくして実験室なし」と表現できる。そういうわけで、実験室という精巧な装置(=ある目的にまずは関心を持ち、その狙った目的を達成するという精巧な装置)を作った人間の自由を前提しなければ、科学法則はあり得ないということになる。それなのに、その科学法則が人間の自由を否定するということは正当だろうか。正当なはずがない。そもそも人間に自由があったから実験室を作れて、その実験室があったから科学法則が作れたのに、その科学法則によって人間に自由がないということにできるはずがない。同様に、人間に自由がないということを証明する科学実験というのが仮にあったとすれば、人間に自由がないかのように人間を操作できるような、精巧な実験室を作る人間の自由を保障してしまうことになるだろう。科学法則は人間の自由の落とし子なのである。

【塩業者と遭難者の比喩】
ある南洋の島に塩業者がいるとする。彼の関心は塩にある。だから彼は「海水を加熱することによって塩を作る」という因果関係を設定し、そのための技術を標準化し、海水を温めたことの塩以外の様々の帰結を無視する。たとえば、水ができてもそれは結果とは呼ばずに無視して捨ててしまう。また、彼は塩業のための機械を作る。新たな機械を発明するとは、新たな因果関係を発明することであるといってもよい。というのも、意図された結果を実現するような原因となる動作は必ずしも自明なものではなく、「あっ!」と思い付かれるようなものだからである。そうやって思い付かれるのが機械なのである。「機械」とは、関心を前提して思いつかれたはずの原因(となる動作)の標準化と没人称化との別名である。この話は少し後に再び取り上げる。

ここでもう一度、強調しておくが、意図や目的が、加熱の様々な帰結から一つを選んで切り出してきて、そこに因果関係を設定するのである。その証拠に、ある南洋の島に遭難者がいるとしよう。彼は関心が水にある。だから彼は「海水を加熱することによって水を作る」という因果関係を設定する。このとき、遭難者と塩業者でやっていることは同じなのであり、どちらも加熱によって塩と水を手に入れている。けれども、片方は塩が結果だといい、もう片方は水が結果だといい、結果として選ばれなかったほうの加熱の帰結を無視するのである。以下に定式化しておこう。

塩業者:加熱が原因で塩が結果と主張する
遭難者:加熱が原因で水が結果と主張する

ところで、この「機械」というものは面白い。これが物理法則というものの内実だからだ。

例えば、落下の法則について考えてみよう。落下の法則的理解においては、単に落下を観察して、その落ち方を分類することが問題なのではなくて、様々な物体の様々な落ち方を再現するためにはどうすればよいかと考え、その再現は、花びらであれ何であれ、とりあえずまっすぐに落としてみようとするところから、まず、はじまる。

しかし、花びらを真っ直ぐに落とすことはうまくいかない。それがうまくいかないと、たとえば風のない室内に花びらをわざわざ運んできて、そこで花びらを落としてみる。それでも、やはりうまくいかない。ではどうすればよいか、と考えて、だんだん大がかりな実験装置が必要になり、ついにその花びらが落ちるのは日常とはかけ離れた真空容器(←ただし完全なる真空は存在しない)の中になったりする。こうして、花びらをまっすぐ落とすという行為が成功するために必要な条件が分析され、ついには法則が定式化される。ただしこのとき問題になり、考慮されているのは、花びらに関係のあるものの全てではなく、花びらをまっすぐ落とすという行為が成功したと実験者全員に思えるために必要な条件の全てであることには注意が必要である。

 こうしたことから、法則の定式化とは、現象を再現するための、すなわち実験を遂行するための技術の標準化のことであるといえる。さらに、一度法則が定式化された後で、標準からずれた現象が観察されたならば、その「ずれ」の理由が説明されなくてはならなくなることも重要である。法則の定式化がなされるまでは法則からズレた実験結果が得られても、それについての事情説明は要求されなかったのに、定式化の後では説明が要求されるのである。このことは、法則的に何かを理解するということが、「法則が事実を規定する(のだから、法則を学べばまったく同じ事実は再現できる)」という仕方で現象を理解する(したい)ことであるということを既にして暴いている。

また、技術が標準化されるということは、誰でもそれができるということと一体であるから、法則的理解は、それを理解する者の主観や個人的実験技能ではなく、「客観的なもの」という身分を持つようにもなる。そしてさらに、法則的理解が特定の実験状況から切り離され、つまりは具体的な行為の場面から切り離されることで、法則が支配する出来事を開始させたのが、実験を行う人間の行為だったことが忘れ去られる。法則から、現象を開始させる原因の概念を排除し、条件の概念だけで事足りると思い込まれ、法則は現象の推移を方程式によって記述したものだと見られるようになる。実験もまたひとつの行為である以上、実験操作と実験結果との間には因果関係を我々が読み取ってしまわざるを得ないのに、科学法則の定式化が達成されたあとでは、原因概念は追放されねばならず、条件概念で事足れりとされ、現象の因果関係ではなく推移を記述する方程式という地位に、科学法則は据えられるのである。

つまり、実験者がある現象を再現するという目的を持って、発明のごとくに機械を作り出し、その機械を標準化することで没人称化が達成されたものが科学法則なのだとはもはや誰も思わずに、法則は、人間の行為を前提した関心とはまったく無関係に現象を生起させ、幾つかの条件(←ただしその条件として選ばれるものの数は奇妙にも限定されているのだが)さえ整えばかならず同じ現象を生起させる世界の統御原理であり、それが実在すると考えられるようになるのだ。なぜか。なぜかといえば、法則は人間が樹立したものではあるが、それは世界の側に元からあったものを我々が写しとっただけなのであり、そこに恣意性はないと、人々は考えたいからである。

ここまでの話をまとめておこう。科学法則の定式化というのは、実は、実験という行為を遂行するための機械を標準化することなのであり、機械の標準化とは没人称化のことなのであり、科学法則はいちど定式化されると、人間の関心とは独立に実在し、人間が作り出したものではないという地位を僭称することになる。またそれだけではなく、人間がそこに原因と結果の関係を読み込むことも拒否するのである。これが科学法則が樹立されるということの意味である。現象の推移の規則を科学法則と呼び、それが実験の条件とのみ相関的に実在しそこに恣意性はない、と主張するためには、「人間が実験操作をしたから実験結果が起きたと再び考えられてしまっていることの不可避性」とか「実験の条件というのは結局人間が実験結果をコントロールできる原因として選んできたものだ」という恣意性の自覚は、排除されねばならなかったのである。

結論を言うと、科学法則は客観的であると言われるが、その実、背後に「物体の運動を再現したい」というたぐいの関心が隠されており、その関心を見えなくさせ、誰がやっても同じ結果を引き起こせるような仕方で思い付かれ設定された原因が「機械」であり、新たな機械を作るときには、落下の再現という目的達成のために必要な条件のみが問題になり、落下物と関係しているあらゆる相関項は問題にならず、選択的に幾つかは考慮されるが他は無視される。ことほどさように、科学法則は人間の側の恣意性を前提しなければ作り出すことはできないし、客観的に見えるけれども、客観的ではない。

知覚の構造について

【言語の本体は形式ではなく意味で意味の本体は対話】


解釈されるのを待っている蠢きとして、促しは潜在的にある。
(「今日みたい映画があるんだ」)


そこへ受信者の態度決定が起こる。
(「今日は仕事で忙しいから見に行けないかも」)


それによって発信者の発言の意味が、そのような促しとして前からあったことになる。
(つまり、最初の発言が「一緒に映画観に行こうよ」という促しだったことに、あとから、なる)


「そういう意味じゃなかったよ」と言えば前からあったことにされていた促しは消えてしまう。しかし、また別の態度決定がなされれば、そのような促しが前からあったことになる。
(最初の発言は「解釈されるのを待っている蠢きとして潜在的にある促し」に戻ってしまい、顕在化した促しとしては消えてしまう)

→知覚もそうなっている。こちらが態度を取るのと同時に向こう側からの促しが発生してきて、そのような促しがあったからこそ私がそのような態度を取れたように思える、という循環がそこで発生する。これが知覚の構造である。

ロールシャッハテスト】
ロールシャッハテストでいろいろな意味に見えたり、なににも見えなかったりすると異常。

現象学形而上学は両立する】

物体にさえ生命があると考える形而上学的な立場でもかまわない。そうだとしても、現象学者はそのような物体から見た世界の一人称的記述が重要であって、そのような形而上学的世界像は知覚世界の成立した後から作られたものだと主張するだろう。まずは知覚という名の構造化された現れ(=作用の始点や終点が分節される手前にある相互関係)がなによりも最初にあって、私の態度決定とまったく同時に、(因果的ではなく)、まったく同時に現れるのが私と世界であり、そのあとで「私がいなくても世界はあったし、私がいなくなっても世界は残る」などという信念や因果的な世界像も成立するのである。まずは、知覚という名の構造化された現れ(=作用の始点や終点が分節される手前にある相互関係)がなによりも最初にあるのだ。

英文集:全8回分

 

【第1回】

1-1.
 It is not necessary to do well in everything. There are practically no people who can do that, except, maybe, a superman. On the other hand, don’t say you’re hopeless, or there’s no use in trying. Nobody is perfect; but nobody is hopeless, either.

【和訳例】
全てにおいて上手くやる必要は無い。おそらく超人を除けば、ほぼ誰もそんなことは出来ない。一方で、自分は絶望的だとか、あるいは、努力しても無駄だなどと思わないでいただきたい。完璧な人なんていないのだが、しかし、絶望的な人もまた、いないのである。


1-2.
 In Britain tea is the drink that cheers ─ and that is cheap. But there’s a darker side to the ‘nice cup of tea.’ Life is far from cheerful for many of those who produce tea in other parts of the world.

【和訳例】
イギリスでは、お茶は元気になる飲み物だ。そして、安い。しかし、「小洒落たお茶の一杯」には暗い側面がある。世界の他の地域でお茶を生産する人々の多くにとって、生活は元気いっぱいとはほど遠い。


1-3.
 Artists of the best quality usually last longer and give you better service than those that are cheap and inferior, so that in the long run they prove cheaper. It does not, however, necessarily follow that the dearest is the best, since some dear things are overpriced.

【和訳例】
最高級の芸術家は通常、安価で劣った芸術家よりも息が長くより優れたサービスを提供し、その結果、長い目で見ればより安くつくということが判明する。しかしながらいくつかの貴重なものは値段が高くつけられ過ぎているので、最も貴重なものが最高であるということには必ずしもならない。


1-4.
 In 1960, a Belgian scientist and an American naval officer were exploring in a deep-sea vessel. They took it to a depth of more than 6 miles in the western Pacific. At no time were they out of sight of one or more kinds of life.

【和訳例】
1960年、ベルギーの科学者とアメリ力の海軍将校は、潜水鑑で探査していた。彼らはその潜水艦に乗って、西太平洋を6マイル以上の深さまで潜って行った。その間、ひとつあるいはもっと多くの種類の生命が、彼らの目に映らなくなる瞬間は一度もなかった。

 


【第2回】

2-1.
 Should you make your bed badly, you will probably have an uncomfortable night, for which you will have only yourself to blame. In much the same way, all of us are responsible for the consequence of our actions.

【和訳例】
あなたがベッドメイキングをおろそかにしたら、おそらくあなたは快適でない夜を過ごすことになり、そしてそのことにつき、あなたが責められるのはあなた自身だけだろう。それとほぼ同じように、私たちは皆、自らの行動の結果に対して責任がある。


2-2.
 After a few weeks’ trial he was shifted to another department, because he was not up to the work that had been given to him.

【和訳例】
数週間の試用期間の後、彼は違う部門に移された。なぜなら、彼は与えられた仕事ができなかったからだ。

 

2-3.
 Just before I reached the bridge the sky darkened again, which I paid no heed to since I knew dusk was falling; but no sooner had I stepped onto the bridge than the skies opened and the rain began to fall in torrents.

【和訳例】
橋に到着した直前に、空は再び暗くなったのだが、私は夕闇が迫っていることを知っていたので、そのことに注意を払わなかった。しかし、私が橋に足をかけるやいなや、空は開け、雨が猛烈な勢いで降り始めた。


2-4.
 It is to be regretted that the majority of young people should look upon an effortless life as the highest good.

【和訳例】
若者の多数派が、努力のない生活を最高の善だと見なしているなんて、残念なことである。

 

 

【第3回】


3-1.
 On approaching them, he found they were about to kill a member of their tribe, and in order to scare them away, he fired his gun at them.


【和訳例】
彼らに近づいていくと、彼らが自分らの部族の一員をまさに殺そうとしているところだと彼は気がついた。そして、彼らを脅して追い払うために、彼らに狙いを定め、彼は発砲した。


3-2.
 Last year a record number of Japanese people spent their holidays abroad. This year is almost bound to break that record, and next year will almost certainly break that one, as well. Perhaps there will come a time when everybody goes abroad at least once a year.


【和訳例】
昨年、記録的な数の日本人が休日を外国で過ごした。今年、ほぼ間違いなくその記録を更新することになる。そして、来年も同様に、ほぼ確実にその記録をも更新するだろう。おそらく、全員が最低でも一年に一回は外国に行くような時代が来るであろう。


3-3.
 Chemicals remain in the bodies of animals and hurt their nervous systems. Besides, they prevent the forming of calcium in birds, which then lay eggs with very thin shells or no shell at all. When wild birds and animals fail to reproduce, it isn’t very long before they disappear.

【和訳例】
化学物質は動物たちの体の中に残り、彼らの神経システムを害する。その上、化学物質は鳥たちのカルシウム形成を妨げ、そうなると、その鳥たちはとても薄い殻の卵か、あるいは全然殻がないような卵を産んでしまう。野生の鳥たちや動物たちが繁殖できないなら、ほどなく彼らは姿を消すだろう。


3-4.
 Most of our actions perform themselves, as it were, without our help. If it is your custom to lock up at night and put out the lights, you do so quite mechanically, and if, having locked the sitting room door and reached the foot of the stairs, your mind chances to wake up and inquire; “Now, did you put the lights out?” and sends you back to make sure, you never fail to find that the action has performed itself without any conscious effort on your part.

【和訳例】
私たちの行動のほとんどはひとりでに、いわば、私たちによる助けなしで、行われています。もし夜に鍵をかけることや、明かりを消すことがあなたの習慣でしたら、あなたはほぼ機械的にそれらを為しているのです。そしてもし、リビングルームのドアを閉めて階段の最下部に足をかけた時、あなたの思考がはからずも目を覚まし「あれ、今、明かりを消したかしら?」とあなたに尋ねかけ、それを確認するために、あなたをもといたところへと送り返したなら、あなたは必ずや、あなたの側でのいかなる意識的努力もなしに、明かりを消すという行為は勝手に実行されていたのだと、気づくことになります。

 

 

【第4回】

4-1.
 Living half the year in Japan and half the United States, I am always being asked, and I am always asking myself, what the chief differences are between life on the two sides of the Pacific.

【和訳例】
半年を日本、もう半年をアメリカで過ごしながら、太平洋の両側のふたつの生活の間の主な差異は何であるのかということを、私はいつも尋ねられ続け、そして自分自身にも尋ねてきた。

 

4-2.
 When the public cannot understand a picture, they conclude that it is a bad picture. Consequently the best painters are or at least were left to starve in garrets.

【和訳例】
ある絵を大衆が理解できないとき、彼らはその絵を悪い絵だと結論づける。従って、最高の画家たちは、今も屋根裏部屋で餓死するがままにされている。もしくは少なくとも、かつてはそうであった。


4-3.
 In most other parts of the world, people aren’t as free to move around as in America. In some, they aren’t because their leaders won’t let them. In others, they aren’t because traditions and religion make it too difficult for them. In many more, their poverty makes it impossible.

【和訳例】
アメリカをのぞいて、世界のほとんどの地域では、人々はアメリカ内でのように自由には移動できない。というのも、いくつかの地域においては、政治的指導者がそこの人々に移動をさせないからである。他の地域においては、伝統や宗教が、人々が移動することをあまりに難しくしているからである。さらに多くの地域では、人々の貧困が彼らの移動を不可能にしているからである。


4-4.
 Most grains are too expensive to be fed to animals. There are two main reasons why farmers in the United States are able to use corn in this way. One is that corn grows so well. The other reason is that farmers have worked out high-yield methods.


【和訳例】
ほとんどの穀物は、動物に与えてしまうには、高価すぎる。しかし、アメリカの農家がトウモロコシをこのように餌としての用途で使うことができているのには、二つの主な理由がある。一つには、トウモロコシが本当によく育つからである。もう一つには、それらの農家が収穫効率のよい方法を考案したからである。


【第5回】

5-1.
 Young children need to play with simple toys. Department stores offer many complex and expensive playthings, but parents of very young children complain that these toys are an extravagance at best and harmful to a child’s development at worst. Blocks and simple things like dishes and empty boxes can be not only cheaper and more fun to play with, but also more educational.

【和訳例】
幼い子供は単純なおもちゃで遊ぶ必要がある。デパートは、しばしば複雑で高価なおもちゃを提供しているが、ごく幼い子供の親たちは、それらのおもちゃは良くて贅沢品、悪くて子供の発育に有害だ、と不平を言う。積み木、お皿や空箱のようなシンプルなものは、より安くて、遊んで楽しいだけでなく、より教育的でもある。


5-2.
 The book is printed only because its author cannot speak to thousands of people at once; if he could, he would. You cannot talk to your friends in India; if you could, you would; you write instead.

【和訳例】
本が印刷されるのはひとえに、その本の著者が一度に何千人もの人々に向かって話すことができないからである。というのも、もしそんなことができるなら、そうするだろうに。あなたはインドの友達に話しかけることもできない。もしそんなことができるならそうするだろう。だから、その代わりに手紙を書くのだ。


5-3.
 An Englishman will not usually speak to a stranger on a train except perhaps in the dining-car and then only after he has been spoken to. The same is true of the Japanese. But once approached the Japanese are as friendly as any people in the world.

【和訳例】
イギリス人というのは、食堂車の中にいる時、それから、話しかけられた後のみを除いて、普通は見知らぬ人に話しかけたりしないものだ。同じことは日本人にも当てはまる。しかし、ひとたびお近づきになってしまえば、日本人は世界のどんな民族にも劣らず、友好的なのである。


5-4.
 Mrs. Miyajima called a doctor. His name was Dr. Hayano. He came to my room and said in perfect English, “What is the matter? Where does it hurt?” I was so relieved to hear a kind voice speaking English that I burst into tears.

【和訳例】
宮島さんは医者を呼んだ。彼の名は、早野医師といった。彼は私の部屋に来て、完璧な英語でこう言った。「どうしたのですか。どこが痛みますか。」私は英語を話す優しい声を聞いてとても安心し、泣き出してしまった。

 

 

【第6回】

6-1.
 Each guide carried a yellow flag in one hand so that the people would not get lost into the huge crowds, and a loud-speaker in the other hand to explain the many sights to them.

【和訳例】
どのガイドも、片方の手には、ひどい人混みの中でも人々が道に迷わないように、黄色い旗を持っており、もう片方の手には、多くの観光地を人々に説明するために、拡声器を持っていた。

 

6-2.
 A computerized memory enabled the word processor to perform a wide variety of tasks with greater flexibility and speeds than traditional methods.

【和訳例】
電子化されたメモリーのおかげで、ワープロは、幅広く多様な仕事を、伝統的な方法よりもより柔軟に、より速くこなすことができるようになった。

 

6-3.
 The job that the young man finally takes may not have a direct relationship to what he has previously studied. Even a graduate of the law department of a university will probably not become a lawyer, and his job may only incidentally require knowledge of law. Or, he may have spent four years perfecting his French, only to take a job which gives him absolutely no opportunity to use the language.

【和訳例】
若者が最終的に就く仕事は、その若者がそれまでに学んできたことと直接的な関係がないかもしれない。大学の法学部の卒業生でさえ、ひょっとすると弁護士にならないだろうし、その人の仕事は、ただ付随的にしか、法律の知識を必要とはしないかもしれない。また、ある若者がフランス語の完全なる習得のために4年を費やしたのに、その結果ほとんどその言語を使う機会を与えないような仕事につく、ということもありえる。


6-4.
 The youth who expects to get on in the world must make up his mind that, come what may, he will succeed.

【和訳例】
出世を期待する若者は、何があろうと自分は成功すると心を決めなければならない。

 


【第7回】

7-1.
 Boys are more likely to get into fights than girls. Whether you believe in women’s liberation or not, you can’t get around that fact.

【和訳例】
男子は女子よりも喧嘩っぱやい。あなたが女性の解放を信じようが信じまいが、あなたはこの事実を認めざるを得ない。


7-2.
 Not long ago, I had a chance to watch a surgeon perform a delicate brain operation. A slight slip of his hand would have meant instant death for the patient. What impressed me about the doctor was not his skill but his amazing calmness.

【和訳例】
そう遠くない昔、私は脳外科医が繊細な脳の手術をするのを見る機会があった。彼の手がほんの少しでも滑れば、それは患者にとって、即死を意味しただろう。その医者に関して最も私の印象に残ったのは、彼の技術ではなく、彼の驚くべき冷静さだった。


7-3.
 Water, soil, and the earth’s green mantle of plants make up the world. Although modern man seldom remembers the fact, he could not exist without the plants that use the sun’s energy and manufacture the basic foodstuff.

【和訳例】
水、土、そして地球の植物からなる緑の層が、この世界を作り上げている。現代人はめったにその事実を思い返さないけれども、人間は、太陽エネルギーを使って基本的な食糧を精算している植物たちがいなければ、生存できないないだろう。


7-4.
 Scientists have had to look for reasons for the dinosaurs’ downfall. They have found many possible answers. One is that around the time of the dinosaurs’ death, many new flowering plants evolved. Their blossoms may have poisoned the animals that ate them. Secondly, Earth’s climate may have warmed slightly, or it may have cooled. Either change would have damaged the dinosaurs’ eggs, allowing fewer young to be born.

【和訳例】
科学者はこれまで、恐竜が滅びた理由を探さなければならなかった。科学者は、多くのありうる答えを考案してきた。第一の説は、恐竜の死の時代のあたりで、花を咲かす新しい植物が数多く進化してきた、というものだ。つまり、その植物の花が、それを食べた動物たちを毒したのかもしれない、というのである。第二の説は、地球の気候がほんの少しだけ暖かくなった、もしくは涼しくなったのかもしれない、というものだ。寒暖のどちらの場合の変化でも、そのような変化は恐竜の卵にダメージを与え、より少ない頭数しか恐竜の若い世代を誕生させなかったのだろう、というのである。

 


【第8回】

8-1.
 The human race is the only one that knows it must die, and it knows this only through its experience. A child brought up alone and transported to a desert island would have no more idea of death than a cat or a plant.

【和訳例】
人類は自らが死なざるを得ないことを知っている唯一の種で、そして人類は経験を通してのみ、そのことを知っている。たったひとりで育てられて、人がいない島に送られた子供なら、猫や植物と同様に死の概念を持たないだろう。


8-2.
 This sudden increase in the population of the developing countries has come at a difficult time. Even if their population had not grown so fast they would have been facing a desperate struggle to bring up the standard of living of their people.


【和訳例】
この発展途上国での急激な人口増加は、困難な時代に起きた。たとえそれらの発展途上国の人口が、これほど急激に増加しなかったとしても、それらの国々は自国民の生活水準を引き上げるための、死にものぐるいの苦闘に直面していたであろう。


8-3.
 At school, we do not have much freedom of choice, and can’t refuse to study math or science even if these are our weak subjects. It is a very useful experience, however, as it gives us the opportunity to test ourselves.


【和訳例】
学校では、私達に多くの選択の自由はなく、もし数学や理科が自分たちの苦手な教科であったとしても、それらを勉強することを拒むことが私たちにはできない。しかしながら、そのことは私たちに自分の向き不向きを試す機会を与えるので、とても有益な経験なのだ。


8-4.
 It does not matter to a great actor what part he plays, whether it is that of a king or a beggar.


【和訳例】
それが王の役であれ乞食の役であれ、どんな役を自分が演じるのかというのは、偉大な俳優にとってどうでもいいことなのだ。

 

愛の思想史

【導入】

 

キリスト教における愛の流れと正義の流れ】

愛の流れは自他の区別をなくして共苦し、不合理にも自らのものを他者に惜しみなく与えようとする流れである。それに対して正義の流れは、応報思想であり、進化の産物であるような流れである。


【「自己愛なしに他人を愛せない」のか】

①「自己愛を捨てることが隣人愛につながる」というのがキリスト教的なアガペーの思想である。しかし、②「自己愛なしに他人を愛せない」ということもしばしば言われる。この矛盾をどう捉えたらいいのだろうか。「自己愛」には複数の意味がありうるということがこの矛盾の鍵である。②「自己肯定感がなければ他人を愛せない」という意味である。それに対して、①「自己愛を捨てることが隣人愛につながる」という時の「自己愛」は「自分が幸せになりたい」という意味である。この二つのレベルを区別すれば矛盾しているとは言えないはずだ。同一レベルで対立を解釈するから、矛盾しているような気がするだけなのである。


トマス・アクィナスは何をした人か】

トマス・アクィナスアウグスティヌスの思想(すなわちカリタスの思想)とアリストテレスの思想(すなわちフィリアの思想)を統合した人物である。では、アウグスティヌスは何をした人か。アウグスティヌスは、プラトンの思想(すなわちエロース思想)とイエスの思想(すなわちアガペー思想)を統合した人である。ということは、トマス・アクィナスは結局のところ、プラトンの思想(すなわちエロース思想)と、イエスの思想(すなわちアガペー思想)と、アリストテレスの思想(すなわちフィリアの思想)を統合した人ということになる。


【たくさんの愛】

愛と言っても色々ある。①エロース、②アガペー、③フィリア、④カリタス、⑤アモール、⑥アミキティアなどである。


【東洋思想と西洋思想】

東洋思想は「お釈迦様のさとりにどれだけ近づけるかゲームをしている」と言える。それに対して、西洋思想は、ソクラテスが悟っているとは言い難いし、西洋哲学では「言葉」を重視する。権威によって人を納得させようとするところが西洋哲学には少ない。死ぬ直前に永遠の命を主張する師匠に対して反論するのが西洋哲学なのである。東洋哲学が重視するのは「体験」である。体験の権威が東洋思想においては重視されているのだ。

 

 

 

 


プラトン(B.C.427-B.C.347)】

 

オルフェウス教】

オルフェウス教の教祖がピタゴラスである。劣った世界の背後に真実の世界があるという考えの源流。ディオニューソス的要素から発する霊魂が神性を有するにもかかわらず、 ティーターン的素質から発した肉体が霊魂を拘束することとなったという考え方。


【動物には善悪の概念がない】

動物は生物進化上、有利だったから、人間から見た時に善悪を気にしているかのように見える行動をするというだけで、動物に善悪の概念があると言うのは言い過ぎである。例えば、美しい声がするオスのほうへとメスが寄っていったりする行動は、人間から見て動物には「美」が理解できると思われる行動であるといえる。しかし、このことは動物行動学上の知見から十分に説明できてしまうのである。


【ザグレウス神話】

プラトンには人間の起源に関する神話がある。これがザグレウス神話である。


プラトンの『メノン』】

「お前はもう知っている」が想起説である。そして「真理の共同注視」こそが教育のポイントであるというのがソクラテスの考えであった。一辺が2プウスの正方形の面積の2倍の面積の正方形を奴隷に作図させるのが『メノン』におけるソクラテスである。


【神的狂気(マニア)においてイデアの記憶が蘇る】

イデアを見ると身体が震え、身体に翼が生えてくるべきところがうごめきだすという。エロースはこのように「下から上へと飛び立とうとする揚力」なのである。正気から狂気へと誘うものを恋愛とするのが一般的であるが、ソクラテスはむしろ、狂気から正気へと目覚めさせるものを恋愛としたのである。ソクラテスにおいて神的狂気は肯定されていたのである。同様に、ソクラテスは技だけで勝負していて、恋愛感情を強く持っていない、冷めた詩人たちは狂気の人々の死の前では霞んでしまうと言っている。レッドツェッペリンは自分の音楽にもう一度到達することが難しいほどに狂気の中で傑作を作っていたのかもしれない。


ギリシア神話において擬人化されたエロースは神でも人間でもない】

エロースはダイモーン(神霊)である。エロースは可死的存在者と不可死的存在者の媒介者である。上から下へと神自身が降りてくるアガペーに対して、エロースにおいては、エロース自身が媒介者であって、神自身が降りてくるわけではなく、エロースは神の命令と報償の伝達役を勤めるのである。


【エロースはポロス(術策の神)とペニヤ(窮乏の女)の子だとディオティマは語る】

ギリシア神話においては、エロースは伝統的にアフロディテとゼウスの間の子ということになっているが、ディオティマはソクラテスにそれとは別の出自を語る。エロースはポロス(術策の神)とペニヤ(窮乏の女)の子だというのだ。アフロディテの誕生パーティで酔い潰れたポロスを、人間の女ペニヤが逆レイプしたのである。それでペニヤが孕ったのがエロースである。だからエロースは神と人間の間の子なのである。ポロスは罠を作ったり奇術が使える貪欲で奸策家の神で、ペニヤも貧乏人なので貪欲である。「惜しみなく愛は奪う」は、有島武郎の発言であるが、これはエロースの本質を実はよく表しているのだ。アガペーは対象を選ばないが、エロースは対象を選ぶ愛である。アガペーは敵すらも愛するような愛なのである。


プラトンにとって恋愛は補助輪のようなもの】

プラトンにとって肉体の美しさを賛美する恋愛は補助輪のようなもので、スタート地点としてはいいが最終的には個別的な相手の肉体だけからさまざまな相手の肉体へと進み、最終的には一般的な美そのものに進まなければならないと考えた。アウグスティヌスのような新プラトニズムの影響下にある人はこのようなストーリーを前提して考えている。アウグスティヌスは、エロースとアガペーとの統合したである。トマス・アクィナスはエロースとアガペーとフィリアを統合した人である。キリスト教は基本的にどんどんギリシア化(=エロース哲学化)されていく歴史を持っている。「ギリシア哲学が滅ぶことをキリスト教が許さなかった」と発言したのがジルソンであった。キリスト教は非合理なイエスの思想をギリシア哲学を使って合理的に説明しようとしつづけたのである。


【補助輪とはそもそもどういうものか】

家を作るために足場が必要である。しかし、家ができてからも足場があったら変だ。これが足場というものの意味である。「医者が一人前になるためには100人の人を殺すことが必要だ」と言われる。しかし、これは「100人の人を殺せ」という意味だろうか。違う。「一人も殺すな」という意味である。しかし、「一人も殺さないようにするためには殺す経験が必要だ」という意味ではある。しかしこれは消極的肯定であって積極的肯定ではないのだ。

 

 

 

【イエス(1-33)とパウロ(B.C.10-60)】

 

アガペーは人を燃やす】

自分の命を投げ打ってでも人を愛するのがアガペーである。


【小聖書】

聖書の中の「ヨハネによる福音書」の第3章16節などは聖書の中の根本部分とされることがあり、「小聖書」と呼ばれることさえある。


【三位一体】

「イエスと神は別物でありながら同一である」という論理的には矛盾していることを受け入れるところからキリスト教はスタートする。だから、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ 3:16)」は「神の自殺」だと解釈することさえできることになる。聖霊は御父と御子の間をつなぐものである。


ユダヤ教が残ってきたのは律法が厳しいから】

ユダヤ教は律法を重視する。ユダヤ教の律法は極めて細かい。例えば「レビ記」には「生贄」の時のルールなど、たくさんの律法がびっしり書いてあるのだ(ただし「サムエル記」では精神的徳義があればよいとされ、生贄のルールの遵守義務が軽減されてはいるのだが)。だからこそ、これほど差別されているのに存続してきたと言われている。食事のたびに神様のことを考えるのがユダヤ教なのである。イエスは「律法によって人は救われるのではない」と考えた。イエスは人間はルールを守れたりはしないという人間観を持っていた。


パウロはイエスに直には会っていない】

新約聖書には、直弟子4人(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)が書いた福音書が入っている。そして、それ以外のほぼ全ての部分をパウロが書いている。そしてパウロは生身のイエスに会っているわけではない。キリスト教の教義を布教する上で最も貢献したのはパウロの功績である。直弟子4人は無学であったが、パウロは学問的訓練を受けた人である。だから、パウロの文章は素晴らしいのである。パウロはパリサイ人である。パリサイ人は律法主義の人々の中でも最も律法主義を強く実践する人々であった。パリサイ人はキリスト教弾圧のリーダーであった。


【ステファノ石打事件】

パウロを決定的に変えたのは「ステファノ石打事件」である。ステファノはイエス以降初めての殉教者であった。ここでパウロたちはステファノをリンチして殺す。これの帰り道、パウロはイエスからの声を聞く。「サウロ、サウロ、なぜお前は私を迫害するのか」という声を聞き、雷に打たれたようになる。そしてパウロキリスト教に一瞬で改宗するのである。このような瞬間的な改宗を経験した人は多く、①パスカル、②アウグスティヌス、③パウロ、④ルターなどである。ステファノ石打事件については、「フィリピ人への手紙」の第3章の4節から9節に詳しく書いてあるという。ここでパウロは次のように述べている。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法にかんしてはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。[…]キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。[…]私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリピ 3:4-9)」。ここでパウロのいう「義」とは、「神様が自らに忠実に人を救う」という意味であり、「救い」という意味である。キリスト教における「義」には、❶「法に忠実であること=正義」という意味と、❷「人を救う神様が自分に忠実であること=救い、恵み」という全然違う二つの意味があるので注意せねばならない。例えば、「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた」という時、「義」は「救い」という意味である。パウロアガペー理解は「ローマ信徒への手紙」に詳しく書いてある。パウロによれば、「悪人のために死ぬ」のがアガペーだという。例えば京アニの放火犯に対しても神様は愛を向けるのである。神は、罪人や不信心者や敵(=他宗教の帰依者)であっても愛するのである。なぜなら、アガペーは「誘因なき愛」であり、人を分け隔てなく愛する愛だからである。


神学者ニーグレン(Nygren)のアガペー分析】

神学者ニーグレンによると、①「誘因なき自発的愛であること」、②「功徳と無関係に与えられる愛であること」、③「無価値なものを価値あらしめる愛であること」、④「下降する愛であること」というこの4つがアガペーの特徴であるらしい。③については、「重度知的障害者に対してでも無限の愛を向ける神の愛を想定したらわかりやすい」とされる。「親の子に対する愛」を典型とするとアガペー概念を理解しやすい(ただし、自分の子どもでないと愛せない点で「親の子に対する愛」はアガペーとは異なることになる)。それに対して、「夫婦の愛」を典型とすると「エロース」を理解しやすい。①について少し補足すると、「キリスト教アガペー」と共同体の利益のために自己犠牲をするという「和の思想」は似ていない。なぜなら、「和の思想」には共同体のために、という誘因があるからである。 また、①については、「息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった」という「放蕩息子の比喩」の記述を参考にすれば理解できる。キリスト教の魂は、この非合理的なところにあるのだ。有名な放蕩息子の比喩だって、「やりたい放題やったもんがちで、弟のほうこそが救われている」という点で、つまり正直者がバカを見ているという点で不合理なのだが、これこそがキリスト教の真髄なのである。(このようなニーグレンの整理したアガペー概念の実践はむしろニーチェのいう超人の態度に近づくのではないかとすら思われるがどうだろうか。)


【イエスパウロの違い】

死んだ後の世界の存在の話をよくするのがパウロで、ほぼ強調しないのがイエスである。イエスはこの世での救いを考えていた可能性があるのだ。パウロは「頑張らないと地獄に行くぞ」という律法概念をイエスの思想に再び戻してきてしまったと考える研究者もいる。イエスパウロとは違って、パウロは死後の救いについてはほとんど語っていない。もちろんイエスは天国と地獄について言及しているが、それを動機とはしていない。パウロは目的に対する手段としてのアガペーを説いた。つまり、「今ここ」のアガペーの発動が「未来の救い」あるいは「未来の地獄行き」を動機としてなされることにさっそくなってしまっているのである。


【「アガペー」という名詞は福音書の中で2回しか出てこない】

①マタイ 24:12、②ルカ 11:42だけである。しかし、パウロは非常に愛を論じた人である。パウロは「Love of God」に関して「神が愛すること」を強調し(そして隣人愛を強調しており)、「神を愛すること」をほとんど強調していない。エロースとアガペーとの統合をしたアウグスティヌスは、実はパウロとは逆で、「Love of God」に関して「神を愛すること」を強調し、この意味でラテン語の「カリタス」を使っている。


悪人正機的なイエス

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみ(=まごころ=信じること)であって、生贄ではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:12-13)」とあるように、イエスは義人ではなく悪人をこそ救おうとしているのである。ちなみに信じることは行為(メリット=功徳)ではないので、イエスが信じることを人に要求してもそれはキリスト教が功徳思想(功績思想)に回帰していることにはならない。そして、浄土真宗の本尊は阿弥陀仏であるが、これはキリスト教における唯一神とよく似た地位を持っているのだ。


【「ユダヤ的生贄」と「キリスト教的生贄」の違い】

ユダヤ教において生贄は人から神への生贄であるが、キリスト教においては、神か人への生贄である。向きが完全に逆になっているのだ。キリスト教においては、あらゆる人の行動や行為に先立って、神の方が人に向かって自己犠牲をしてくるのである。


ニーチェの「謙遜」批判を批判する】

「自分自身を軽蔑する者は、軽蔑しながらも軽蔑する者としての自分自身を尊敬しているものだ」(ニーチェ善悪の彼岸』第4章) →このニーチェの指摘はどういうことを言っているのか。要するに、「私って本当にこういうところがクソですよね」と言ってくるような人は、「自分のどこがクソであるかをこんなに理解している私って本当に偉いですよね」という自慢を実はしており、内心ではほくそ笑んでいる、というのがニーチェの指摘なのである。つまり、謙遜をする者は自分を捨てているようでいて実は全然自分を捨てられていないというのだ。しかし、このようなニーチェの指摘はむしろユダヤ教的な「愛」の概念にこそ妥当する(=罪人である人が生贄を捧げるとその分だけ神は裁きをやめて下さる)もので、キリスト教の「愛」の概念(=神が自分自身を生贄として罪人である人へと捧げてくる)には妥当しないと思われる。神が自己を捨てたように、ちょうどそのように私が自己を捨てる、というキリスト教的な「(隣人)愛」の概念の典型場面は、「義人が罪人のために犠牲を捧げる(=神からの「アガペー」が人にもいわば乗り移って「隣人愛」として周囲にも無差別に燃え広がってゆく)」という不合理なものであって、「罪人が犠牲を捧げることでその分だけ実は得をしている」という合理的な愛にしか、ニーチェの謙遜批判は当たらないのではないか。それゆえ、キリスト教を批判しようとしたニーチェの発言は、キリスト教の愛の概念にクリーンヒットしているとはいえず、むしろキリスト教の愛の概念と両立可能でさえあると思う。キリスト教的なアガペーには、自分が実行した捧げ物という行為(=功徳)を誇りにしようという発想が全くなく、むしろ自分は無化されてしまうのである。キリスト教というのはそもそもニーチェの批判がヒットしてしまうような功徳の宗教を乗り越えて生まれたものなのであるから、このような帰結になるのは当然である。


アガペーと「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」は両立するのか】

「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエスの格言があり、これと自己愛的契機のないアガペー概念は矛盾していないのか。矛盾していない。なぜなら、そもそもこの格言は、人に自己愛があるのは端的な事実だと認定しているだけなのであり、この格言は別に「自分を愛しなさい」とは言っていないからである。つまりこの格言は、「アガペーが発揮される前であれば、みんな自分を愛してしまっている。これは端的な事実である。しかし、ここから出発して、アガペーを発揮することで、自分を愛するのと同程度に他人を愛する、あるいは自分を愛する程度以上に他人を愛するように変わっていきましょう」という格言だとして、差し引いて理解すれば矛盾はしないのだ。基本的にキリスト教思想は自己愛が消滅する方向へと進む傾向を持っていることは間違いないのである。「人は放っておいたら自分を愛するもので、他人を愛するなどということは、からっきしありえない。しかし、まことに不思議なことに、自分を捨ててでも他人を愛することが人にはできることがある。これはなぜか。なぜかというと、神からの「アガペー」が人にもいわば乗り移って「隣人愛」として周囲にも無差別に燃え広がっているからなのである。つまり、隣人愛の主体は各個人ではなく神なのである。」という思想あるいは「人間はそもそも邪欲(=concupiscence)の塊である」という人間観がキリスト教の根本にはあるのだ。


【動物は自分を犠牲にして他個体を救うという行動をむしろする】

カマキリのオスはメスのために自らを犠牲にする。動物行動学的には、知恵をつけた生命体はだんだん利己的になる傾向がある。だから、キリスト教は、進化論的な生命原理に回帰するように迫っているのである。人が命を捨てるときに、その人が異常な興奮を感じるということがもしあるならば、それは実は命を否定しているのではなく、むしろ先祖返りをしている、つまり命の本源に触れるということが起きているのかもしれないのだ。


【正直者はバカを見るという不合理が自然界の基本である】

ドードーという鳥は、天敵がいない環境で生きてきたので、人が来ても決して逃げない。そこへヨーロッパ人が犬や猫を一匹離しただけでドードーは食われまくった。こうしてドードーはすぐさま絶滅した。「相手を襲わない」という約束を前提に成り立っているシステムのフリーライダー(=犬や猫)にドードーは一気に食い殺されたのである。だから、自然界では基本的に正直者がバカを見る(=Honesty doesn’t pay)のである。そこで、自然界ではフリーライダーを決して許さないようなシステムが進化的に発達してきている。しかし、急激な変化にはやはり対応できないのである。だから、急に持ち込まれた犬や猫によってドードーは絶滅した。自然界では急激に変化した環境ではやはり正直者はバカを見るのである。つまり、約束を破り私利私欲で動く奴が得をするのが基本仕様になっているのが自然界なのである。


【エロースが単なる「自己愛」だけでは終わらないのはなぜか】

エロースは欠如を補完してイデアを目指す愛である。しかし、その愛はいずれ善への愛となるのであり、それは結局奪うだけではなく、善行として与えるようにもなるのだ。


【なぜ神のアガペーによって極悪人や異教徒が愛されるのか】

神のアガペーは完全に無差別なので、アガペーは「この人は極悪人だから愛そう」とか「この人は異教徒だからかわいそうなので愛そう」という誘因による愛ではそもそもないのである。だから「なぜ神のアガペーによって極悪人や異教徒が愛されるのか」という問い自体が無意味だということになる。この問いは悪人や異教徒には神によるアガペーを誘発する誘因が存在するという前提でその誘因はいったい何かと聞いているのだが、しかしアガペーに誘因など、ないからである。神は別に極悪人を優先的に選んで愛しているわけですらないのである。


【「コリントびとへの手紙」におけるパウロの「愛(=アガペー)の讃歌」】

夫婦間の愛は基本的にはアガペーというよりはエロースが主流である。しかし、そもそもエロースだけでは夫婦生活は決してうまくいかない。だから、結婚式ではあえて「コリントびとへの手紙」におけるパウロの「愛(=アガペー)の讃歌」が神父によって毎度、読み上げられているのである。


【神からのアガペーと救われるかどうかは別問題だという思想へとキリスト教は至る】

アガペーは異教徒にさえ常に神から降り注がれているのだが、そのアガペーを活かして救われるかどうかは信仰に委ねられており、救われるためにキリスト教を信じるという契機は必要だというのが現在のキリスト教の基本的な教義である。信仰とは何か。気づくことである。すでに神からの愛を人は受けており、それに気づいてちゃんと受け取るということが「信仰」なのである。


【神からの愛は神への愛にはならない】

アガペーは「神への愛」(=信仰 πιστιςピスティス)ではなく「隣人愛」につながっていく。


キリスト教は人間中心主義ではない】

そもそもが全員が極悪人である人間たちがどれだけ生贄を捧げても、そのような人の行為あるいは功徳は神からしたら大した差を産まない。だから、悪人だろうと善人だろうと無差別にアガペーによって愛されてしまうのは、それはキリスト教が人間中心主義ではないからである。


死刑廃止論キリスト教の愛敵思想の影響下にあると考えるべきでない】

そもそも死刑廃止論は「デュープロセスの思想(適正な手続きの保証)」から出てきた議論であり、このデュープロセスの思想は宗教戦争の反省から生まれたのである。「ひょっとすると自分もカトリックだったかもしれない」とか、「ひょっとすると自分もプロテスタントだったかもしれない」という発想から、被告人にも適正な手続きを保証したのである。だから、死刑廃止論キリスト教の愛敵思想の影響下にあると考えるべきでない。また、海外のクリスチャンがなぜ死刑廃止を唱えているのかというと、その多くの動機は、誤診の可能性が排除できないがゆえであって愛敵思想がゆえではない。


【1970年代前半生まれは就職氷河期世代である】

1970年代前半生まれの人は物凄い競争率で受験戦争を戦わされた挙句、いざ社会に出ると働き口が全然ないという不幸に見舞われた世代である。しかし、コロナ禍の若者は競争率も高くないし就職活動も売り手市場である。それゆえ1970年代前半生まれの人々は若者にもっと苦労しろという。それは最近生まれた若者が羨ましいからである。たとえ、彼らが現代の若者から就職口を奪っても日本全体の経済が縮小して1970年代前半生まれの人々が結局苦しむことになるとわかっていたとしても、それでも若者を甘やかすなという声はやまない。だから、不公正は本当に負の連鎖を生むのである。


【隣人愛の主体は人ではない】

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。(コリント二 4:7)」という言葉がある。これは重要である。人は所詮、土の器のようなもので、チリアクタのごときものなのである。しかし、そこにアガペーという宝が納まることではじめて隣人愛が可能になるのである。「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という道徳主義的にも聞こえるパウロの言葉はパウロに律法主義あるいは合理主義が回帰してきてしまったのか、とも思われるが、実はそうではない。これはあくまでも「結果」(=神に愛されていると気づいた人はどうなるかというその「結果」)を述べているのである。土の器にアガペーという宝が納まった人は結果的に隣人を愛するようになってしまうという意味なのだ。


【ブドウの木の比喩】

エスは次のように述べる。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。[…]わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。((ヨハネ 15:5-12)」この比喩を見れば明らかなように、「神に愛されていない人は善なんか何もできない」とイエスは考えているのである。イエスによればユダヤ教徒のように「律法」によって功徳を求め、裁きを恐れて善行を成したとしてもそれは単なる奴隷根性の発揮、あるいは自己愛の発揮であって、むしろそのような損得勘定を超えてひたすら敵に与えることこそが善なのであり、このような善行を人がそもそもごくたまに行うことができるのは、人が神のアガペーによってもう愛されているからなのである。「隣人愛は律法を完成させる」とか「愛は律法を全うするものです。(ローマ 13:8-10)」とよく言われるが、それは、どれだけ律法を守っていてもそこにアガペーの注入がなければ結局それは「善行」とは呼べないというイエスの考えのことを言っているのである。また、イエスがブドウの木の比喩で言っている「神に愛されているからこそ、つまり神にアガペーを土の器に注入されているからこそ隣人を愛することができ、神に愛されていない、つまり神にアガペーを土の器に注入されていなければ隣人を愛することがちっともできない」というのはこういう意味であって、たしかにこの比喩の中では、「掟」という言葉が使われているが、これは律法主義の回帰どころか、その逆である。有名なパウロ愛の讃歌の中に、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(コリント一13)」という記述があるが、これも、律法をいくら守っていてもそれが結局互酬原理に基づいていればただの自己愛でしかなく、それは善行とは言えないのだから、アガペーという神からの愛が注入されて初めて善行と言える(=「神からのアガペーつまり隣人愛が律法を完成させる」)という先ほどの教えの変奏なのである。


【①神からの愛と②隣人愛と③神への愛の優先順位】

「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです(ガラテヤ 5)」というパウロの言葉からも明らかなように、「神を愛しなさい」とパウロはあまり言わない。原始キリスト教においては、優先順位としては、①→②(→③)という順序になるのだ。下から上へと向かう愛をキリスト教に導入し統合したのはアウグスティヌスからなのである。ヨハネも、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した」(ヨハネ一4:7-11)と述べており、③の契機は原始キリスト教において明らかに希薄なのである。


【「愛さないならば神を知らない」の対偶】

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が、わたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛しあうならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネ一 4:7-11)」という言葉において、「愛さないならば神を知らない」の対偶を取ると「神を知るならば愛する」となる。つまり、降り注ぐアガペーに気づくとその人は自然に隣人を愛するようになると言っているのである。


【隣人愛を全うできない心配はない】

アガペーは無差別な愛である。そして、人が隣人愛の実践として無差別な愛を、あたかも神のように実践できるだろうかと不安になる必要は全くない。なぜなら、隣人愛の主体は神であって人ではないからである。神が私の中に入ってきてそれが隣人へと向かうだけなので、隣人愛は愛敵思想にもすぐさまなるし、敵を愛することができるだろうかと不安にならなくてもよいのだ。


ハンムラビ法典キリスト教が倒した箇所】

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(マタイ 5:38)」という箇所はハンブラビ法典をキリスト教が相手どった有名な箇所である。互酬原理を重視したアリストテレスの思想ともこの立場は両立しない。


【イエスから発する「愛の思想」の潮流はアリストテレスユダヤ教の「正義の思想」の潮流と対立する】

「人々は、悪にたいしては相応の悪を返すことを求める。もしそれができなければ、人々は奴隷状態におかれていると考えられるであろう(『ニコマコス倫理学』1132b)」という記述や、「わたしが報復し、報いをする 彼らの足がよろめく時まで。[…]わたしは苦しめる者に報復しわたしを憎む者に報いる(申命記 32:35-41)」という記述からも分かるとおり、イエスの愛敵思想はアリストテレス倫理学ユダヤ教とも相性が悪い。イエスの愛敵思想とは「正直者がバカを見る(=頑張ってもその分だけ報われたりしない)」思想であり、頑張ったらその分だけ報われたいし、頑張らなかった人は罰したいという自己愛を消滅させる方向に向かう思想であるから、これを放置すると社会ではフリーライダーが大量発生することになるだろう。つまり、頑張らずに私利私欲を発揮したものが一人勝ちする状況になる。これでは社会が崩壊する。だから、「社会運営的には互酬原理に基づく正義の思想を採用し、倫理的には愛敵思想を採用せよ」と説いたりするという、難しい判断が迫られることになるだろう。


【原始キリスト教とヘレニズムとの衝突】

実はイエスの愛の思想は、ヘブライズムだけでなく、ヘレニズムとも衝突することになる。ヘレニズムの代表はプラトンであり、プラトンの概念はエロースであった。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる(コリント一 8:1)」という箇所はパウロがヘレニズムを意識していると言われている。つまり、エロース主義=イデア主義とパウロが対立している箇所とされているのだ。プラトニズムあるいはヘレニズムのエロース思想では、エロースはイデアに向かって上昇していこうとするが、パウロのいうアガペーは無価値とされるものを有価値に、つまり愛すべきものにする創造的な愛なのである。この原始キリスト教プラトニズムの対立の解消を成し遂げ(てしまっ)たのはアウグスティヌスだった。実際、「彼ら(=新プラトン主義者たち)はほんのわずかの言葉と内容を変えることによって、近年我々の時代のきわめて多くのプラトン派の哲学者たちがそうであるように、キリスト教徒になることであろう。(『真の宗教』序 4, 7)」とアウグスティヌスはいう。エロース(=プラトニズム=ヘレニズム)とアガペー(=原始キリスト教)の邂逅そして結婚を成し遂げたのがアウグスティヌスであったわけだ。


【愛敵思想(≒非合理主義)の起源はキリスト教ではなくユダヤ教だとは言えない問題】

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる(『箴言』25:21-22)」。さて、上のような記述をもとにして、イエス的な愛敵思想の起源は、旧約聖書ユダヤ教の教えにもすでに見られるのだ、と主張する人がいる。しかし、ここに見られるのは、「敵に対してあえて情けをかけることで良心の呵責(=炭火を頭に積むこと)によって復讐する」という、より手の込んだ、つまりは「屈折した応報思想(≒合理主義)」である。有名な「放蕩息子の比喩」に見られるように、やりたい放題やったもんがちで、真面目な兄だけでなく放蕩した弟さえもが父に愛される(あるいは愛されていたことに気づく)というのがキリスト教の教えである。「やりたい放題やったもんがちですよ(=右の頬も左の頬も、どれだけでも殴っていいですよ)」という発言には、殴ってくる相手への報復を密かに狙っている自己愛どころか、それがむしろ滅却される傾きがある。そのような合理的な思惑すらアガペーは焼き払い、ひたすら燃える。だから、ここからさらに面白いことが言える。「「謙遜」や「愛敵」は、実は自己愛を隠し持っているのだ」というニーチェ的な指摘(=「自分自身を軽蔑する者は、軽蔑しながらも軽蔑する者としての自分自身を尊敬しているものだ」『善悪の彼岸』第4章)がクリーンヒットするのは、冒頭に引いたような「屈折した合理主義としての応報思想」だけではないのか。つまり、ニーチェの批判は、その宛先であるキリスト教には当たらないのではないか、ということである。


【謙遜(フミリタス):人は「土の器」でしかないなら、地獄に行ってもかまわないのか】

「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞(=隣人)のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ローマ人への手紙 9:3)」とパウロはいう。だから、神が愛を注入してくれてそれで私が隣人に善行ができるならば、その後で、「土の器(うつわ)」としての私は神から見捨てられて、地獄に行っても構わないとパウロはいうのである。天国に行くために善行を積み重ねていこうという発想をパウロは取らず、そうやって救われるべき自己さえパウロは捨ててしまうのである。多くの合理主義的神学者たちは、「こういうことを言えているということはパウロは神から自分が見捨てられていないという確信があるのだ。そもそも人は天国に行けず地獄に行くにも関わらず敵に与える善行ができたりしない。人はそこまで自己愛を捨てられない。」としてこのパウロの箇所を掬い取ろうとするのだが、パウロはここで本気で自己愛はないのだから地獄に行っても構わないと考えているのである。

 

 


アウグスティヌス(354-430)】

 

【降ることによって上昇する:アウグスティヌスの原理的軸足はエロースにあるが、エロースだけでは不十分だと考えている】

アウグスティヌスは、神ヘと向かうエロースの完遂の手段としてアガペーが必要だと考えた。キケロの『ホルテンシウス』というプラトニズムが濃厚な本を読んでアウグスティヌスはこのアイデアを得たという。プラトニズムのエロースだけでは神に到達できず、キリストのグラティアの助けによって初めて神へと到達できるとアウグスティヌスは考えたのである。グラティアとはアガペーのことである。上昇するエロースではたどり着けない断絶を、下降するアガペーによって架橋するのがアウグスティヌスの基本方針である。「謙遜をしなさい」というということは一つのルールであり、アウグスティヌスは謙遜の美徳の提唱によって再び「正義」の思想を回帰させたともいえる。しかしアウグスティヌスは、「そもそも謙遜の美徳を実践できるように我々はできていない」という立場に立っている。つまりアウグスティヌスは人間は美徳が守れるようにはなっていないという思想的前提を持つ立場なのである。


アウグスティヌスによれば、なぜエロースでは神に到達するために不十分なのか:高慢になるから】

エロースでは高慢になるからである。エロースだけだと高慢(superbiaスペルビア)になり、高慢は自己満足にとどまり、自己愛にとどまるし、自己愛にとどまるのは、イエスのあり方とは異なるとアウグスティヌスは考えた。「どこから不義は優勢になってくるのか。高慢である。高慢を癒しなさい。そうすれば不義はなくなるであろう。それゆえすべての病の原因、つまり高慢が癒されるために、神の子は降り給い、謙虚となったのである。人よ、なぜあなたは高慢なのか。神はあなたのために謙虚となったのである。あなたはたぶん謙虚な人を模倣することを恥ずかしいと思うかもしれない。だが、少なくとも謙虚な神を模倣しなさい(『ヨハネによる福音書講解説教』25, 16)とアウグスティヌスは述べ、神を模倣することで自分の高慢を砕けと説いた。「昇らんがために、神にまで昇らんがために、降りてこなければならない。神に背いて昇ったために、落ちたからである。(『告白』4, 12, 19)」。


アウグスティヌスの基本的な考え方】

上昇するエロースで神に至ろうとするとだんだん「高慢(スペルビア)」になる。それによってまた、神から遠ざかる。だから謙虚にならなければならない。つまり、フミリタスの徳を発揮しなければならない。しかし、フミリタスの徳を発揮できない人もいるし、ほとんどの人間はそうである。どうしても人間はうぬぼれてしまう。また、フミリタスを発揮したとしてもまだ神に到達できない、その場合はどうするのか。「恩寵」が要るのである。


アウグスティヌス思想はギリシア起源のエロース基軸である】

アウグスティヌスは「へりくだれ」と説く。つまり、「徳の実践」を説く。「善をせよ」と説く。これは若干ユダヤ的に見える。というのも、そんな徳を自前で実践できるんだったら、神の愛なんか要らないはずだからである。そのような徳を実践できない人間について、つまり善もできない人間がどのように神に対して上昇したらいいのか。謙遜せよと言われたって謙遜すらできない人間がいるではないか。そこでアウグスティヌスが提示する概念が「カリタス」である。この概念は、日本語に訳すると、「アガペー」も「エロース」も「フィリア」も「カリタス」も「アモール」も「アミキティア」も「愛」になってしまうわけで、注意が必要である。


【「カリタス」とは何かカリタスの広狭二義】

カリタスとは、エロースを基軸にしながらアガペーを加えた概念である。広義のカリタスは、「幸福を求めること」である。幸福を求めるとは神を求めるということなのである。なぜなら、神は幸福を全て含み込んだ存在であるからである。神は幸福を全て所有しているのである。だから、幸福を求めるとは、すなわち神を求めているのと同義だということになる。ラーメンを食べるという行為も神を愛しているという行為だということになるのだ。これが広義のカリタスである。この広義のカリタスは神への愛であり欠如を補おうとする愛であるから、「エロース」とほぼ同義であるといえる。確認しておくと、「広義のカリタス」は「私が幸せになりたい」のだから自己愛であるが、この自己愛は否定されるどこかむしろ事実として肯定される。実際、アウグスティヌスも「私たちは神を愛すれば愛するほど自分自身を愛する」(『三位一体論』8, 8, 12)と述べている。このように自己愛を事実として肯定する論理をキリスト教の中に持ち込んだのはまさしくアウグスティヌスの功績であると言える。さらに、重要なのは「広義のカリタス」は倫理中立的であるということだ。つまり、蚊を殺せばそれは神を愛したことになるが、しかしそれは優れた人であるということにはならないのである。カリタスがあることそれ自体は善でも悪でもないのである。「カリタスは神を求めることであり、それは全員が行使していて善でも悪でもないが、その求め方によっては、それが倫理的に善になったり悪になったりする」というのがアウグスティヌスの考え方である。だから、良い求め方をする場合が良き愛(=狭義のカリタス)であり、悪い求め方をする場合が悪しき愛(=クピディタス=邪欲)である。だから、性欲もカリタスである(「犯罪、姦通、悪行、人殺し、あらゆる贅沢にも愛が働いているのではないか」(『詩篇注解』31, 2, 5)。しかし、性欲は神へ向かうはずの運動を個物に向け、個物で停止してしまうという点で、邪欲なのである。神だけが幸せを最終的にもたらしてくれるのだから、神に向かう運動をラーメンで停止させてはならないとアウグスティヌスは考えたのである。例えば、オートマ車はデフォルトの状態でブレーキを踏まない限りは前にどんどん進んでいく。しかし、そこに自由な人間が乗り、ハンドルを動かしてしまう。そして、その放っておけば「神」へ向かっていたはずのエネルギーを別の箇所(例えばラーメン屋)へとむけてしまう。これがカリタスの理解としてわかりやすいイメージである。「個別善へと愛を向けるのではなく個別善の背後にある一般善(=神)を愛しなさい」というのがアウグスティヌスの考えである。「下水道に流れる水を庭に注ぎなさい。世界にたいして持っている熱狂を、世界の創造者にたいしてもちなさい。あなたは何も愛していないと言われるだろうか。そんな馬鹿なことはない。もし何も愛していないのなら、怠惰で死んでおり、忌み嫌うべきであり、哀れである。(『詩篇注解』31, 2, 5)」とアウグスティヌスはいう。広義のカリタスがない人は死んでいるのである。


【カリタス概念がアウグスティヌスとトマスで異なるので注意せよ】

なお、トマス・アクィナスになると、カリタス概念の定義がアウグスティヌスのカリタスとは大きく変動するので注意が必要である。アウグスティヌスのカリタスはどちらかといえばエロースが主軸で、その前提としてアガペーがあるのだが、しかしトマス・アクィナスのカリタスはむしろ垂直と水平どちらにも向かえるフィリアが主軸で、その前提としてアガペーがあるものになっている。


アウグスティヌスからトマス・アクィナスになると「神」観が変わる:悲壮な神から幸福な神へ】

アウグスティヌスの神は「悲壮な神」である。しかし、トマスの神は「幸福な神」である。これはなぜかというと、アウグスティヌスが影響を受けているのがプラトンのエロース思想であるのに対して、トマス・アクィナスが影響を受けているのがアリストテレスのフィリア思想であるからだ。トマスの神の中には無限の幸福が充満しており(=新プラトン主義の影響=もののけ姫のシシガミ様は一歩歩くごとに草が生えてくるがまさにあのような生命の塊のような神)、それが外へと溢れ出していく。まさしく「友愛」によってトマスの神は見返りを求めずにどんどん人に愛をお裾分けしてくれるし、お裾分けされた方も愛が充満して隣人へと溢れ出していく。しかし、アウグスティヌスの神は我が子を生贄にしてまで人を救うのである。トマスの神が、アガペーの名においてなさるのはあくまでも「分かち合い」であるが、アウグスティヌスの神がアガペーの名においてなさるのは「生贄」なのである。いやいや犠牲になるのがアウグスティヌスの神で、喜んで犠牲になるのがトマス・アクィナスの神である。


【しかし我々はカリタスの方向を決められないことが多い:我々の自由は腐敗しており恩寵がなければ腐った自由を浄化できない】

アウグスティヌスによれば、人間には自由があるが、しかし腐っているという立場である。ルターやカルヴァンの予定説は、人間には自由がないという立場だが、アウグスティヌスは人間には自由があるが腐っているという立場で、それを清められるのがアガペーなのである。神様が、ラーメン屋へと向かおうとするハンドルを支えて元に戻してくださるのだ。このアガペーの力が「恩寵」である。神の恵みがあるおかげで我々は自由を回復することができるのである。


アウグスティヌスの自由は堕落にしか使えない】

「人は自由意志によって悪に走れるが、自由意志によってそこから抜け出すことはできない。神の恩寵は罪人の上にもっとも正しく課せられた悲惨さから、かれらを解放することができることを私は語った。なぜかというと、人は自由選択の意志によって罪に陥ることはできるが、しかしそこから自由意志によって立ち上がることはできないからである。(『自由意志論』修訂録)」。アウグスティヌスによれば、そもそもなぜ我々は自由なのにこれほど不自由になってしまったのかというと、それは原罪があるから(=人間は弱いから)ということになる。


アウグスティヌスの敵はペラギウス派である】

ペラギウス派は人間は強いので人間には自由がしっかりとあり、自由は腐っていないと考えた。アウグスティヌスはペラギウス派は人間の悲惨さが全然わかっていないと考えたのである。ペラギウス派の恩寵論は「①人間は自由意志をもち、つねに善を選ぶことができる。②善は、律法とキリストによるその模範の提示によって慈悲深くも示された。③にもかかわらず悪を選んだときに神が罪を赦すことにおいて恩寵が示される。(=行為の後に恩寵が後続する後続的恩寵論)」である。しかし、 アウグスティヌスの恩寵論は「①人間は自由意志をもつが、原罪後、著しくその自由は弱められた(=人の自由は既に腐っている)。②それゆえ何が善であるかが示されても善を選択することができない(=人はそもそも弱いものであるという人間観)。③そこで行為に先行するかたちで人間に恩寵が与えられる。(=行為の前に恩寵が先行する先行的恩寵論=行為に先立って神様は降りて来てくださっている)」である。よってこのふたつの恩寵論は対立するのである。アウグスティヌスによれば、ペラギウス派のいう律法は義務的なものに過ぎず、義務を果たすことのできない我々の能力の範囲外(=人の磁界の外)にあるので、全く役に立たないというわけだ。また、このアウグスティヌスのこの考えに限って言えば、このアウグスティヌスの考えは原始キリスト教の考え(特にアガペー概念)とそれほど対立するとは言えなくなる。行為に応じて神様が降りてきて恵みを与えるのではなく、なにもやらずとも、無償で、行為に先立って恵みが与えられることになるからである。アウグスティヌスは出家した後でも40代の時に12歳くらいの女の子と恋愛をしてしまっている。アウグスティヌスは邪欲を断ち切るのに本当に苦労した人間であった。アウグスティヌスの思想とペラギウスの思想の違いをわかりやすくボウリングで言うと、「人は基本的にストライクが打てるのだがガーターをした場合には支配人が許してくれる」というのがペラギウス派の考えで、逆に、「人は基本的にストライクがほぼ打てず基本的にすべてが投げた瞬間にガーターになるので、支配人がやってきて投げ方を毎回教えてくれる」というのがアウグスティヌスの考え方である。


【ではその恩寵はどうやって与えられるのか:神様が人間レベルの降りてきてくれる(=受肉)】

神様は人間レベルに降りてくることによって恩寵を与える。例えば羊をおびきよせる時には草がついた枝を見せる。少年を引き寄せる時にはクルミを見せる。ちょうどそのように神は人間を引き寄せるのである。神はラーメンに夢中になる人間に対して、ラーメンよりももっと甘いものを提示して人間を引き寄せるのである(=カウンターバランス)。神が感覚的存在化することによって降りてくるとはつまり受肉であり、それはつまりイエスの到来である。イエスがこの世界に到来することこそが受肉なのである。イエスが恩寵を振り撒いており、オートマ車のハンドルを支えてくれるのである。この行為に先立つ恩寵の助力によって初めて、人はエロースによって神へと迎えるのである。このアウグスティヌスの「カリタス」の考えを、「エロースがうまくいくようにアガペーを用いている(エロースに力点を置いた解釈)」とも取れるし、「アガペーが降りてきて初めてエロースの波にうまく乗れているにすぎない(アガペーに力点を置いた解釈)」とも取れるところが面白いのである。


【クピディタスをカリタスへと洗浄する方法:手段として愛する】

「体以上にあることを大切に思うからといって、人は自分の健康を重んじなくてもよろしいなどと言ってはならない。というのはどんなに貪欲な人で守銭奴であっても、自分のためにパンぐらいは買うものだ」(『キリスト教の教え』1, 26)。ここでは、貪欲に神を求めるとしてもそのための手段としてなら神以外のものを愛してもいいという話をしているのだ。


【隣人愛(=利他性)をアウグスティヌスはどう位置づけるか】

伝統的な隣人愛は次のような一直線の理路で説明することができる。つまり、「神からくだってきたアガペーは私の中で私を燃やし、その私の中に神のアガペーが宿り、隣人を私が愛するのではなく神が愛するというしかたで隣人愛が発動する」と整理すればよい。しかし、アウグスティヌスは主軸がエロースにあるので、隣人愛が神から直にやってくるアガペーだとは言いにくい。だからどうするか。隣人愛は、エロースによって神へと上昇する7段階目の第5段階目に位置付けられることになるのだ。つまり、神の恩寵(=神が降りてきてイエスとして受肉したことで振り撒かれたアガペー)によって正しい方向、つまり一般善(神)の方向へと向かえるようになったエロースの神へと向かう運動の第五段階に隣人愛があるのである。だから、アウグスティヌスにおいて、隣人愛は神へ上昇するエロースの手段になってしまっているのである。トマス・アクィナスはこうやってアウグスティヌスが隣人愛の位置付けにおいて難儀したことをよくわかっていたらしく、この隣人愛をアリストテレス由来の「フィリア」の概念によって基礎付けている。アウグスティヌスにおいて隣人愛(利他性)はエロースの手段だったのに、トマス・アクィナスにおいて隣人愛(利他性)はフィリアの発揮になっているのである。


アウグスティヌスにおける愛のまとめ】

アウグスティヌスにおける愛は次のようになっている。まず①「広義のカリタスとしての自己愛=神への愛」は肯定される。なぜなら、みんながそれぞれ何かしら幸福を求めていることは否定しようがない事実だからである。たしかに「不幸を求めている」と嘯くこともできるが、それはそれが楽しいからであり、それは結局幸福を求めていることになってしまう。そしてこれは結局自分が幸福になりたいのだから、神を求める愛も自己愛であることになる。次に、②「クピディタスとしての自己愛」は否定される。なぜなら、そのような愛は神という一般善へ向かう①を停止させて、ラーメンなどの個別善で滞留させてしまうことで偽りの幸福を与える自己愛、あるいは自己満足だからである。このような意味での自己愛はアウグスティヌスにおいて、高慢であるとして否定される。そして、人は弱く原罪によって自由が腐っているのでしばしば一般善を目指すことができない。だから、エロースだけで十分かというとそんなことはなく、神が受肉したイエスが振りまく恩寵の助力(アガペー)があってはじめて狭義の「カリタス」となるのである。次に、③「洗浄されたクピディタスとしての自己愛」は肯定される。これは、上昇のための手段だからである。いくら一般善を愛するべきだからとはいえ、何かを食べなければ死んでしまうからである。次に、④「隣人愛」も肯定される。但し、隣人愛は、アガペーという他力の助力によって歩み始めた道のりの第五段階として肯定されるに過ぎないし、しかも、聖書に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ(PならばQ)」と書いてあり、且つ「自己愛がある(P)」ということからの論理的帰結(Q)にすぎない。そして最後に、⑤「神による愛」は肯定される。但し、エロースの上昇の道にとって、絶対になくてはならない手段としてエロースに従属するものという位置にアガペーが置かれることになったのである。


【そもそもなぜ人は神へ向かうのか:神へ向かう目的は何か】

「神へ向かう目的は何か」という問いはアウグスティヌスからすると疑似問題である。この問いは、「目的があって神に向かおうとしている」という前提に立っている問いだから疑似問題なのである。我々は神へ近づこうなどという意図はなく、とにかく問答無用で神に近づこうとしているのである。それは、我々が事実として幸福を求めているからである。人が幸福を求めること、つまり幸福を所有する神を求めることに、理由はない。アウグスティヌスにとって問題なのは幸福追求の目的ではなく、方法なのであった。

 

 

アリストテレス(B.C.384-B.C.322)】

 

アリストテレスと自己愛】

まともな人ならば自己を愛し、自己を愛さないならばロクデナシである、というのがアリストテレスの考えであった。アガペーもエロースも垂直関係の愛であったが、フィリアは水平関係の愛であることに注意が必要である。また、アリストテレスの自己愛にも二種類あって、エゴイズムとしての自己愛のほうはアリストテレスは否定するので注意が必要である。例えば、「品位ある人はだれよりも自己を愛する人である(『ニコマコス倫理学』1168b)」とアリストテレスがいう時ここでいう自己愛はエゴイズムのことではない。


アリストテレス哲学において最高の徳である正義でさえフィリアを必要とする】

「善なるがゆえに愛する」というのがアリストテレスによれば真正なる友愛で、「快なるがゆえに愛する」とか「有用なるがゆえに愛する」というのは不完全な友愛である。なぜかというと、快と有用性は「相手がもとの同じ状態にとどまっていなければ容易に解消されうるもの」に過ぎないし、「相手に徳があるがゆえに愛する」という完全な友愛が実現すれば相手から快も有用性も得られるからである。では、アリストテレスのいう「善」とはなんだろうか。善とは幸福である。幸福とは「エウダイモニア」のことである。「エウダイモニア」とは「徳に基づく魂の活動」である。つまり、「善なるがゆえに愛する」というのは「徳なるがゆえに愛する」という意味である。だから、「完全な」友愛とは徳に基づいて互いに似ている善き人々「どうし」の友愛である。つまり徳を持った人が徳がある人のことを愛するのが完全なる友愛なのである。なお、友愛の条件に「相互性」も入っているから、「物体」を対象とする愛や「片想い」は「友愛」にはならない。人と理性を持たない動物の間には「善なるが故に愛する」という友愛は存在しないとアリストテレスはいう。


アリストテレスの人間観】

アリストテレスは徳を人間が実践しうると考えているのだから、「人間は強い」という人間観を持っていることになる。アウグスティヌスの人間観とは全然逆なのである。


【フィリアは自己愛を肯定するのか否定するのか】

「立派な人にかんして言えば、彼が友や祖国のために多くのことをなし、必要な場合には、友や祖国のために死ぬこともある、というのは真実である(『二コマコス倫理学』1169a19-20)。」とある。フィリアとは結局は「徳を持った人を愛すること」である。そうすると、立派なもののために自己を放棄するというのは肯定されることになる。また逆に、自己が立派な時、これは自己愛にもなりうる。つまり立派なもののために立派な人が死ぬ時、それは自己を否定したようでいて、実は自己を肯定したことにもなるわけである。アリストテレスは、魂には①感覚(≒植物)的部分、②意志(≒動物)的部分、③理性(≒人間)的部分の三水準があると考えている。そして、自己は非理性的部分(①+②)、理性的部分(③)にわかれることになる。そして、後者の自己を愛する自己愛は肯定され前者の自己を愛する自己愛は否定されることになるわけだ。つまり、魂の理性的部分を愛すると優れた人(=エピエイケース)になり、魂の非理性的部分を愛するとエゴイスト(=フィラウトス)となるわけだ。エピエイケースは美を求めて自死するが、フィラウトスは快を求めるがゆえに自殺する。アリストテレスによれば、エピエイケースは徳に基づいて人々や国家のために死ぬのだが、フィラウトスは、邪欲のためにろくでもない行為をたくさんなして人々から嫌われ、それで生きることから逃れようとして自殺をするのである。


【とはいえアリストテレスが一緒くたにしている感覚と感情は全然違うぞ問題】

「感覚」は身体性が重要で、外的な物体を知覚するのと同時に生じるもののことである。しかし、「感情」はそういうものではない。感情は知覚から独立している。感情は知覚と無関係である。何を見ていようが何を臭おうが、悲しいし、嬉しいのである。だから、感情は肉体的なものではなく、精神的なものである。感情こそが、人間を人間たらしめている最も高貴な部分であって(=ホモ・アシエンス説)、アリストテレスのように理性を特権視するわけにはいかないのである。


アリストテレスは異性間の間にも友愛は成立するという】

アリストテレスは夫婦の間にも友愛は成立するという。快楽を求めるだけではないような男女間の在り方が異性間にはあり、相手を人格として愛するという愛し方が異性間にもあるというのだ。


【フィリアは自分へのフィリアから始まる:チャリティービギンズアットホーム】

「自己を肯定することができて初めて、他者を肯定する論理というものが発出する」とアリストテレスはいう。実際、「これらの(友愛)の特徴のどれをとってみてもかならず善き人の自分自身にたいする関係に当てはまる。(1166a)」といい、結局は自分を愛する愛し方が友への愛に広がるのだとアリストテレスはいう。アリストテレスによれば、優れた人は自己にたいして友愛をもつ。その友愛が他人へと広がるというのだ。アリストテレスのいう優れた人間は、自分とともに時を過ごすことを望む。つまり、自己の記憶への満足と未来への期待を持っていて、後悔したり不可能な未来を妄想したりしないのである。つまり、アリストテレスは後悔を嫌うのだ。「低劣な人間は後悔に満ちている」(1166b23)とアリストテレスはいう。


【フィリアは論理的には自足できるので友人は要らないのではないか問題】

フィリアは自己へのフィリアとして始まるのであった。であれば、そもそもフィリアが外へ向かう必要などあるのだろうか。フィリアには驚くべきことに友人が不要なのではないか。実は必要とするのである。


アリストテレスにおける善とは幸福である】

アリストテレスによれば善とは何か。善とは幸福である。では、幸福とは何か。エウダイモニアである。エウが良いという意味で、ダイモンは守護霊である。つまりエウダイモニアとは守護霊によく守られている状態のことを指す。そして重要なことに、エウダイモニアとは活動である。例えば船乗りにとっての幸福は船に乗ることである。竪琴を弾く人にとっての幸福は琴を弾くことである。つまり、幸せとはその人が持っている機能(=エルゴン)を最大限まで十全に発揮することである。つまり、アリストテレスは「金があること」や「名誉があること」や「快楽があること」を幸福とはしなかった。なぜならそれらが「静的だから」である。アリストテレスによれば幸福とは「エネルゲイア(=発揮)」である。幸福は動的なのである。幸福とは活動であるというのがアリストテレスの考えであった。目的に達しているのが幸福なのではなく、その目的へと向かう動的な過程そのものが幸福であるとアリストテレスはいうわけである。では、「船乗り」にとってではなく、「人間一般」にとっての幸福はなんだろうか。「人間だけが持っている能力の発揮」である。「人間だけが持っている能力」とはアリストテレスによれば「理性」であるということになる(←ここでアリストテレスは「それは感情である」とは言わなかった)。では、理性を最大限まで十全に発揮する場面とは一体どこだろうか。数学の問題を解いているときだけではない。中庸がどこだかを判断するとき(=フロネーシスするとき)がそうなのである。


【なぜ「有徳」であることは「理性的であること」になるのか】

「徳」とは善であり、「徳」とは「中庸に基づいた習性」である。そして、「何が中庸であるか」を判断するフロネーシス(=知性のひとつのあり方)を発動させていて初めて有徳になる。つまり、有徳であるためには理性の発揮・発動が必要なのである。要するに、エウダイモニアとは、「エルゴンの発揮」であり、人間にとって「エルゴンを発揮する」ことが、「徳がある」ということになるのだ。だから、徳を発揮することで人は幸福になる。「無謀」と「臆病」とを避けてその中間である勇気の徳を発揮することは、理性的な活動となるし、人は幸福となるというわけだ。つまり、以上述べてきた諸概念の関係をまとめると、「善」とは「幸福」であり、「幸福」とは「エルゴンの発揮活動」のことであり、人間における「エルゴンの発揮活動」とは「理性の発揮」のことであり、「理性の発揮」とは「フロネーシスによって判断された中庸に基づく習性の発揮」がその代表であり、それは「徳の発揮」である。それゆえ「幸福」とは「徳に基づく活動」ということになる。では、これで「なぜ友達が必要なのか」という問いに対して答えたことになっているだろうか。なっていない。幸福な人は有徳であるのは良いとして、なぜそいつが友達を持たなくてはならないのか。


【幸福な人は友達を必要とするのか問題】

アリストテレスによれば、徳のある人は自己の理性的部分を愛し、自己の非理性的部分を嫌うのであった。すると、このような自分に対する友愛があれば、友達なんか不要ではないのか。まず、アリストテレスによれば、①相手がいることによって初めて「相手のために善いことを願う」という徳が実行しやすくなる。そして重要なのは次のことである。自分に対してフィリアをもつ人でも友が必要な理由は、人は②他者というものがないことには、知性的活動(=人間の徳に基づく行為)ができないからである。つまり、人が立派であるためには他人が必要だ、とアリストテレスは考えていたのである。ある意味でこれは日本の「恥」の文化にも似ていないだろうか。


【なぜ有徳であり幸福であるために他人が必要なのか:私と他人の善き部分は同じだから】

「至福な人は、品位ある自分に固有の行為を「観る」ことを意図するが、友である善き人の行為というのは、品位ある性質のものである」とアリストテレスは述べている。つまり、立派な人は自分の立派さを見たくなるのだが、そのような自分の立派さは、むしろ自分の周りにいる立派な人を見た方が見やすいのである。では、なぜ自分の周りにいる立派な人と、自分の立派さは「同じだ」と言えるのか。それは、知性(=ヌース)が誰にでも一般的に備わっているものだからである。つまり、私の知性を愛することは、友の知性を愛することと必ずイコールになるのである。これはつまり、「ポリスの構成員全員を、あたかも自分であるかのように愛する」ということになる。実際、「友とはもう一人の自分である」(1170b8)とアリストテレスは述べている。アリストテレスにとって「知性(≒理性)」とは「かすがい」なのである。


【私が知性的でないならばそれは真の私ではないし、知性的である真の私は「われわれ」でもある】

「「私」というものは、「他人」がいなければ真に私とはいえない。」とアリストテレスはいう。まさしく、「小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善(ふぜん)をなす」なのである。「人は周りに他者がいてはじめて、今までできなかったことができるようになってきて、そちらこそ真の自分なのだ」というのがアリストテレスは考えた。


アリストテレスの逡巡:友は論理的には要らないが、いた方が明らかに良くなる】

化粧は自分ひとりでできないことはない。しかし、よりよい化粧をするには、化粧がうまい人と定期的にあったり周りの人と関わっていた方が持続的に化粧がうまく行き続けるだろう。「正しい人は、自分が正しい行為をすべき相手や、その行為を一緒にしてくれる仲間を必要とする[…]だが、知恵ある人は自分自身だけでも観想することができるのであって、彼に知恵があればあるほど、いっそうそうなのである。もっとも、知恵ある人にもおそらく、仕事仲間がいたほうがよいが、しかしそれにもかかわらず、彼はもっとも自足的なのである(1177a30)。」と述べるアリストテレスは明らかに逡巡している。迷っている。「立派な人は、ひとりでも確かに立派で、ひとりだけでも自分自身の善き部分を観想することができてしまうのだが、周りに人がいなくなるとだんだん不善をなすようになってしまうのである」、とアリストテレスはここで考えているのである。例えば、コロナ禍になるとだんだん人間は人に会わなくなる。それでも大丈夫なのである。むしろ気持ちいいのである。非理性的(=感情的)な部分で滞留していてもそれはそれで楽しいのである。しかしだんだんロクデモナイことをするようになること、これは間違いないのではないか。会いたくないけれどもたまには会わねば自分がダメになってしまうという洞察がアリストテレスにはあったのだ。「プライベートな自分だけでひたすらうずくまるというのは快適だが、やはり不幸だ」とアリストテレスは考えたことになる。実際、アリストテレスは、「自分だけで持続的に活動することは容易ではなく、他の人々とともに、そして他者との関係において活動するほうがたやすい(1170a6)」と述べている。論文はたしかにひとりで書くものだが、しかし学会にたまには行くことで自分を律することができて自分も嬉しい、というキャラクターとパーソナリティの分裂が人間にはあるのである。キャラクターが分厚くある人は、学会など嫌であるに決まっている(→キャラクターとは「刻印」であり、それは生まれながらの「先天的刻印」であると同時に生まれてからの習慣・趣味・欲望によっても形成されていく「後天的刻印」でもある。これはいわゆる「プライベートな自己」であり、これがないと自己肯定感を維持するのは難しい)。しかし、そのような人にも「他人から認められる自分でありたい」というパーソナリティ、つまりふたつめの自己、社会的自己が存在しており、そのようなふたつめの自己が、「学会に行きたい!学会に行きたい!」と叫ぶのである。このふたつめの自己の方こそが人間の真の姿だとアリストテレスは考えたことを指して、「人間とはポリス的動物である(=人間は社会的存在である)」と考えたのである。アリストテレス以外の倫理学者には、キャラクターの方をむしろ重視する人もいたが、パーソナリティの方を重視したのがアリストテレスだったのである。アリストテレスによれば、「引きこもりの病理とはフィリアの病理である」ということになる。


【「人間はポリス的動物である」というアリストテレスの有名な発言は「牛や羊やシマウマのように人間も群れる」という意味では全くない】

「事実、人間の場合には、言葉や思考を共有する(κοινωνειν)という意味で、ともに生きる、ということが言われているように思われるのであり、その共生の仕方は、牛たちが同じ牧草地で草をはむのとは、わけが違うのである(1170b12-13)」とアリストテレスはいう。「真の私」は「われわれ」の意識によってはじめて成立するということが言いたいのが、「人間は社会的動物である」という言葉の意味である(実際、「プライバシー」の語源は「欠如」であり、動詞の「ディプライブdeprive」と同根である。人間であるために必要な社会性を奪われ、欠如の状態にあることを「プライベート」というわけだ)。他者の存在がロゴスを鎹として自我の存在そのものに根源的に食い込んでいると言いたいのだ。「我々が存在するとは考えること」(1170a33)というのはこういう意味で理解した方がよい。


【逆にキャラクターという意味での自己だけを解放していればいいのだろうか】

確かに、パーソナリティを強調する哲学は息苦しいだろう。しかし、キャラクターだけを重視して、あるがままで生きろ、裸で生きろという哲学もどうなんだろう。実はこれも同様に息苦しい。キャラクターの解放を唱える哲学は結局、他者との交流を避けること、つまり「引きこもり」の肯定あるいは推奨にしかならず、これは結局、「仮面を被らせてもらえる場所を奪われている」という気持ちにずっとなるだろう。「才能に恵まれている人々がずっと深夜バイトをしている」という状況、つまり才能を発露させる場を全然もらえないという社会も、ロクなものではないはずだ。キャラクターの解放を強調しすぎる社会も、パーソナリティを育てて活躍することを推奨する社会もどちらも同程度に息苦しいのである。


【パーソナリティ主義は危険か】

ただ、アリストテレスのパーソナリティ主義では結局、「ポリスのために命を捨てる」ということすら「徳」だとみなされうるので、現代においては若干危険にも見える。マイノリティの圧殺に向かいかねないように見えるからだ。しかし、「アリストテレスは目的として共同体のルールを守ろうとしている」というわけではない。やはり目的は幸福(=エウダイモニア)になることであって、その手段が徳の実践なのだ。そして、その徳の実践とは、「他者が〇〇だから尊重する」ということではなく、「□□くんが人格だから□□くんとして尊重する」ということなので、マイノリティの圧殺に直結はしないとも言える。


【知性的部分に定位して初めて真の「私」になるというアリストテレスの考え:ありのままで良いわけがない(=パーソナリティ主義)】

私を規定するのはキャラクターとパーソナリティである。パーソナリティとは「仮面」である。「自分のダメなところを隠すことではじめて本当の自分(=人格者)になる」というのがアリストテレス的な考えである。


アリストテレスにおける隣人はどこからどこまでか】

アリストテレスによれば友愛の及ぶ範囲は、高貴な人々の作る共同体(=ポリス)である。しかし、イエスが隣人の定義について語ったところを見ると、イエスにとって隣人とはどんなろくでなしをも含めた全範囲の人々である。これは「善きサマリア人の例え」を見ればわかる。


アリストテレスの利他性】

アリストテレスによれば「友とはもう一人の自分である」(1170b80)から、他者を肯定/否定することと自己を肯定/否定することは同じということになる。だから、自己を愛(=フィリア)するならば他者を愛さねばならない。つまりフィリアとは、自尊心と利他性の共生原理なのだ。知性をもつ人は中庸を保ち徳を実践する。つまり、知性をもつ人は人格(=パーソナリティ)的な活動をする。だから知性を持つ人は徳を尊重するので、徳を持った他者をも人格として尊重するのだ。


アリストテレスは利他的だが誰でもほめるわけではない:エピエイケイア】

「相手を喜ばせるためにすべてを誉め、何ごとにも逆らわない人、相手に苦痛を与えてはならぬと考えている人は、調子のよい人である。反対に、何ごとにも逆らい、相手に苦痛を与えていささかも意に介さない人は、気難しい人である。この両者とも非難さるべきであり、これらの中間の生き方が賞賛されるべきことは明らかであるが、それは、受け容れるべきことを受け入れ、怒るべきときに怒るという生き方である。この生き方には特別な名前がないが、ほとんど友愛といってもよいように思う。なぜなら、このように生きる人がエピエイケイアを体現した友なのだから(1126b12-21)。」とアリストテレスは述べる。タバコをポイ捨てした友達に不快感を与えないようにするのは「調子のり」であってダメである。やはりそこでのフィリアの発揮とは怒ることなのである。逆に、オラオラ系で誰に対しても怒り、褒めるべきところで褒めないのはフィリアの発揮とは言えない。フィリアの発揮とは友の徳のない行動には怒り、友の有徳な行動には褒める。これがエピエイケイア(= アリストテレス研究者の岩田靖夫によれば、伝統的な概念だと「仁」か「慈しみ」が近い)の体現者だということになる。「エピエイケイア」は、「法的正義よりもすぐれた正義」であり、「正義と異なるたぐいのものではないが、正義よりもより善いもの」(1137b)であるという。また、「人間は、それぞれがもっともすぐれた意味では知性であり、エピエイケースはこの知性をもっとも尊重する人である」(1169a2-3)という。「仁」は「ひとがふたりいる」と書く。そして「仁」も「愛」であり、そのような愛が厳しさと優しさを併せ持ったフィリアとよく似ているのであり、このフィリアに則って生きることをエピエイケイアというのだ。このフィリア(またはエピエイケイア)は硬直しがちな正義の欠点を補って完成させるものだという。「ちょうど「レスボス建築」に用いられる鉛の定規(=相手の石の材質に合わせて少しだけ形が変わるやわらかい定規)がそうであるように」(1137b27-32)フィリア(≒仁)は正義や律法の杓子定規であるような欠点を補完するのである。では、律法を完成させるものであるという点でフィリアとアガペーは同一視してもいいかというと、それはダメである。なぜなら、フィリアは正義が前提でその欠点を補完するものであるが、アガペーはそもそも正義を前提せずに敵を愛する「愛敵思想」というところまで到達するからである。つまり、フィリアのうちには「愛敵思想」がないのである。


【エピエイケイアに基づいて生きる人は謙遜するのかどうか問題】

実は、仮面をかぶって、真の自己となって生きるエピエイケース(≒人格者≒仁者)は、堂々としている。しかし、腰は低い。エピエイケースは決して自己否定はしないが、しかし、徳に基づいて我欲は抑制する。フィリアに基づいて生きる人は、へこへこはしないが、「謙遜をしているように見える」とも言えるだろう。なぜなら徳を重視するからである。だから、報酬を人より多めに取ってしまったりはしないし、自分の快楽を求めて不正行為をしたりは絶対にしないし、無礼にもならないのである。エピエイケースは、堂々としているし、自信があるけれども、だからといって無礼なことはしないのである。アリストテレスは、法を作ったそもそもの意図という意味での「実質」と、その実施のために必要な「形式」を、どちらも最重要なものとして重視した。だから、形式を貫徹する法(形式主義)と「(その場その場に応じて優しくも厳しくもするような)適正さ」を勘案するフィリア(実質主義)が、どちらもアリストテレス倫理学の中には生きているのである。それが「正義とフィリアの二本立ての仕立て」なのだ。


アリストテレス倫理学のまとめ】

そもそも大前提としてフィリアによる自己愛とは「自己の理性的部分を愛すること」である。まず、①フィリアは、自己の理性的部分(知性)への愛であるという意味で「自己愛」を肯定する。また同時に、②フィリアは、自己の非理性的部分(感覚・情念)への愛ではないという意味で「自己愛」を否定する。そして、何より重要なことに③真正なる「自己」とは知性の活動(思考)のことであり、そしてその「思考」は他者の存在によってはじめて成立する(=他人向けの仮面をかぶって、他人を意識してはじめて本当の私になれる=パーソナリティ主義= 「我々が存在するとは考えること」(1170a33)という考え方)。そして最後に、④フィリアは、各人に共通の理性的部分への愛であるから、自己と他者の人格の尊重を論理的にもたらし(その意味で「自己愛」の肯定)、しかし同時に、自己の我欲の部分を抑制する(その意味で「自己愛」の否定)ことにもなる。

 

トマス・アクィナス(1225-1274)】


アウグスティヌスプラトンの継承者だが、トマス・アクィナスアリストテレスの継承者として抑えるとよい】

12世紀にアリストテレスルネサンスが起きて、それまでプラトンが主流であったキリスト教哲学にアリストテレスの思想が一気に流入する。こうして13世紀人であったアクィナスはアリストテレス思想を自身の神学に取り入れ、中世の神学思想をひとりで総合し、大成してしまったのである。トマス・アクィナスは、①エロース(≒(アクィナスの言い方では)アモール)、②アガペー、③カリタス、④フィリア(≒(アクィナスの言い方では)アミキティア)を全て、無理のない仕方で統合してしまったのである。特に、(アリストテレスはイエスよりも前の人物であるのに)、アリストテレス由来のフィリア(=神様とは関係なかったはずのフィリア概念)という概念をキリスト教の中に溶かし込んだのがトマス・アクィナスの功績である。


【アクィナスはどうやって4種類の愛を統合したのか】

①アモール(≒エロース)だけでは不十分であって、②アガペーがどうしても必要だという結論に至る点では、アウグスティヌスとアクィナスはよく似ている。だから、「①エロースだけで神へと上昇することはできない。だから、神の②アガペーが発揮され、受肉によって下降してきてくれた神が、「愛」を注入してくださることになる。その時に神が注入してくれるアモールとは別の愛(=②アガペー)の内容が③カリタスなのであり、その③カリタスの内容が、④(アクィナスの言葉では「アミキティア」と呼ばれているところの)フィリアなのである(!)、そしてその④フィリアこそが隣人愛を基礎付けるのだ」という仕方で、アクィナスは、上記の4種類の愛を統合したのである。実際、アクィナスは、「交わり・分かち合いの基礎のうえに成立した愛とはカリタスである。(ST II-2, q. 23, a. 1)」と述べ、つまりは「フィリアとはカリタスのことである」と述べている。神は友愛(=フィリア)としての愛を注入してくださるのだ。


【自己愛をどうアガペーと折り合わせるか】

そもそもアガペー概念には元々「自分を愛しなさい」という教えに発展しうる要素は全くない。それなのにアリストテレスは「自分(の理性的部分、他人との共通部分、フロネーシスが発揮されて成り立つ有徳なる部分)を愛しなさい」と高らかに言う。だからアクィナスによる調停が必要だったのである。


【トマスはディオニュシオスからもアイデアを得ている】

アウグスティヌスがかつて処理に苦しんでいた「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(マタイ19:19)という金言は、アリストテレスの「自分に対するフィリアを典型にして他人に対するフィリアが育つ(= 隣人との友愛関係は人間の自分自身にたいする関係から発出する)」という考え方とよく似ているのである。こうした類似を足がかりにして、アクィナスはどんどんアリストテレス哲学をキリスト教にとりこんでいった。その時の理論装置として、トマス・アクィナスは新プラトン主義のディオニュシオスからもアイデアを得ていた。


アリストテレスの人間観はキリスト教とそもそも相性がわるい:トマス・アクィナスにおけるアリストテレスが提唱する「理性による徳」でどこまで行けるか問題】

アリストテレスの考え方は、そもそも人間観として、「善なんて一個も出来やしない」というキリスト教の人間観とは真逆である。だから、そのような人間観は人間としての倫理に範囲を絞るならばキリスト教の中に受け入れ可能なのであるが、「「救い」にとっては役に立たない」というふうに考えねばならなかった。そこで具体的には人間観をどう処理したのか。「人間的な世界の中の人間的秩序においては人間は善(=有徳なこと)ができる(=人間には「万引き」をしないことができる)。しかし、救い(=神の国に入ること)のためには人間は善ができない(=万引きをしなかったからといって神の国に入れるわけではない)」という人間観を打ち立てたのである。つまりトマスが作った人間観は、「救いにおいては弱く、人間世界においては強い人間観」である。トマスは、これについて「理性はもろもろの人間的徳の場合とは違って、愛にとっての規則であるのではない。むしろ愛は神の知恵によって規制されているのであり、それは『エペソ人への手紙』第三章「人知をはるかに超えたキリストの愛」によると、人間理性の規則を超え出ているのである(ST II-II, q. 24, a. 1)」と述べる。つまり、理性による徳では出来ないことを神からの愛が担当するのである。もちろん、このあとでトマスは「そもそも友愛が行えるのは神からの愛の注入があるからだ」という仕方で、フィリアをもう一度神様と関連させるのだが、しかし「自己と他者の理性的部分を愛するフィリアによって人は功績を積みそれで救われるのだ」と言う功績思想はいったん完全に退けるのである。


トマス・アクィナスの「アモール」という言葉をどう理解したらいいのか】

そもそも「アモール」はラテン語である。ということはローマの言葉であり、トマス・アクィナスローマ教皇の下で仕事をした人だから当たり前である。アモールはカリタスとどう違うかと言うと、アモールはカリタスを含むのである。でもカリタスがそもそも色々なものを含んでいた。カリタスはそもそも神を愛し神が所有する幸福を目指す運動一般を指していたはずだ。だから、「アモール」という言葉は、「人間が個別善を愛する」とか、「人間が被造物を愛する」とか、「人間が神を愛する」とかいう場合だけではなく、さらに広く、「動物が牧草を愛する」とか「物質が地面を愛する」というのも実は「アモール」になるのである(=①物質はまず地面に呼びかけられて、②物体は地面に接近し、③物体は地面という対象を享受する)。ただし、ここで言われる「アモール」の全ての根本にあるのはプラトンの「エロース(欠如を補うために神を求める愛)」であるとしてざっくり理解しておいた方がいい。人間の意志は、実は全て、(神から神の自己愛として流出して)神へ向かって戻ろうと上昇しとうとする愛(=アモール)のことなのである。人の魂は神のところで憩うまで落ち着くことがなく、何をしようとそれはひたすら幸福を求めているのであり、幸福を求めているとはつまり神を求めているのである。


【アモールの三要素】

まずアモールが発動する時、①対象からの呼びかけがある(=相手が「おいしそうだな」と思う)。そのあと、②対象への接近(=ラーメン屋に入る)、③対象の享受(=食べてうまいと思う)。これが動物でも物質でもそうなのだというのがアクィナスの思想である。このようなアモール概念の基礎にあるのは、アリストテレスの世界観なのである。「物それ自体が目的に向かって、つまり一定の方向に向かって動いている」というアリストテレスの世界観は、この後でデカルトによって否定されてしまう。デカルトは「この世界は機械的に動いているだけだ」と考えたのである。デカルトが嫌ったのは、物体とか動物とかの中に「愛の原理」が潜んでいるというのは胡散臭いと言ったのである。世界は機械的に物体が反応しているだけなんだと考えたのである。物体も動物も機械であって、そこに愛の原理が潜んでいるわけではないとデカルトは考えた。例えば、「ものを落とす」と地面に向かうが、これはアモールで説明すると「①物質はまず地面に呼びかけられて、②物体は地面に接近し、③物体は地面という対象を享受する」ということになる。しかしこれはデカルトからすると胡散臭いのである。しかし、昆虫はどうか。「走光性」がある。「①光に呼びかけられ、②光に近づき、③落ち着く(=光ではなく火の光であれば昆虫は③において焼けて死ぬのだが)」と考えるとわかりやすい。要するに、トマス・アクィナスは、「この世界の運動の原理はアモールなのだ」と考えていたのである。これは、端的に言えば「生命に満ちた世界観」である。デカルトの「機械的な世界観」の前は、アリストテレスの「生命的な世界観」だったのである。そして、トマス・アクィナスは、アリストテレスの「生命的な世界観」に依拠していた。


【アモールは三段階で発展する】

①第一段階:自然本性的欲求(←受動的でしかなく認識もしない。典型は物体。火は空中を愛し、物体は地面を愛するが、そこに認識はない。ただ働きかけれて動くだけ。)、②第二段階:感覚的欲求(←受動的でしかないが、認識はする。しかしまだ自由はない。典型は動物。ザリガニはチーカマを認識し、チーカマを愛するが、しかし別のチーカマと比較したりスルメと比較したり、自由な選択ができたりはしない。そもそもチーカマに手を出さないという選択もできない。)、③第三段階:知性的欲求(←受動的なだけでなく能動的で認識だけでなく選択もする。自由があるが、しかしアウグスティヌス以来の伝統的理由で、その自由は腐敗している。恩寵がなければまともな選択はできないのである。)という順序でアモールは発展する。自然本性的欲求により、外部(=神)から目的へと方向づけられる自然物と動物に対して、人間は自由意志によって自ら目的を設定して動くのである。しかし、この理論の細部に注目すると、もっと面白いことが読み取れる。「愛にはやはり動機が必要だ」ということである。これが面白い。この理論は、どこまでアモールが発展したとしても、「やはり相手からまず呼びかけられないことには愛せない」ということが言われていると解釈してもよいのである。実際、好きになる努力をいくらやっても好きになれないというこのなのである。なぜなら、「嫌いなものを、好きになろうとして「好きになった」と思えた時に、嫌いだった記憶と好きになろうとした記憶がその愛を妨げるから」である。例えば、逆に好きなものを嫌いになろうとした時を考えてみよう。「こんなダサいもの聞くな」と音楽の師匠が言うが、しかしどうしてもその音楽がかっこいいと思ってしまう。そんな時「好きなものを嫌いになろう」とする。しかし、結局、気になってしょうがなくなるのだ。その場合、結局その対象をどんどん好きになるかもしれない。


【猫は自由なのか問題】

「猫は自由気ままに生きている」とよくいわれるが、トマスの考えでは「猫は不自由である」ということになる。なぜなら、猫は環境の奴隷であるからである。そして、環境と感覚の強い相互連携を考えると、結局は「猫は感覚の奴隷である」ということになる。「人間こそが奴隷だと思っていた」と言うだろうが、しかし人間は自由で猫は不自由だというのが西洋的な考え方なのである。


【トマスにおいても自由は腐っているので神の啓示が必要:「自然の光」から「恩寵の光」へ】

トマスによっても自由は腐っている。確かにラーメンにするかソーメンにするか冷麺にするかうどんにするか、そういった個別善について人間は自由に選べる。しかし、人間はそれらの個別善の背後にある神へと向かうことをほぼ選べない。人は人にのみある理性によって、人間的善は何かを理解できるが、しかし、神の国に入るためにどうしたらいいかについては、理性では完全に盲目なのである。だから、アモール(=自然的愛≒エロース)では全然ダメで、不十分なのである。そこで、神様が信仰を神の啓示によって注入してくださるのである。「救いに関して何が善なのか」は人間の理性によってではなく啓示によって認識せねばならないというのがトマスの言い分である。実際にトマスは、「人間救済のためには、人間理性をもって探求されるところの哲学的諸学問のほかに、なお神の啓示にもとづくある種の教えの存することが必要であった。そのゆえは第一に、人間は第一に神をある自己のある目的として、これにむかって秩序付けられているものなのであるが、この目的たるや、理性の把握を超えている。[…]だが、人間は自己の意図や行為を目的に向かって、みずから秩序付けなくてはならないのであるから、目的はあらかじめ知られていることを要する。かくて、人間理性を超えたある種のものごとが、神の啓示をつうじて人間に知らされるということが、人間にとってその救済のために必要であった。(ST. I, q. 1. a. 1 c)」と述べている。だから結局、「自然の光から恩寵の光へ」というスローガンはどういう意味かというと、「アリストテレスが人間の中に存在しているとした(適切な判断力としての)理性の発揮では(たしかに有徳になることができ人間世界の中ではある程度幸福になれるとしても、やはり一番重要な神の国へと上昇して救われたいという)「アモール(エロース)」がうまくいかず、神へと上昇していくアモール(エロース)のハシゴが、途中で途切れてしまう。だから、人間理性を超えた啓示によって、(自由が腐っていることから盲目になっている)アモールの向かう先を、個別善(=ラーメン)から一般善(=ラーメンよりも遥かに強力な救いの力を持つ神)へと向けてもらわねばならない」という意味なのである。「自由が腐っているから人間のアモール(=エロース)では神へ向かうには不十分である。だから、別の愛を注入してもらわねばならない。それがカリタスである。しかし、そのカリタスの内容とは実はフィリアなのである」というのがトマス・アクィナスが用意した思想の筋書きであった。


【では「希望」という対神徳は不完全なのか問題:近代自己愛論争】

「希望」とは「私が幸せになりたい」ということである。そして、「私が幸せになりたい」というのは「私が利益を求めている」ということになる。「利益のために神を愛する」というのはアクィナスにとっては「不完全な愛」ということになる。しかし、対神徳には、「信仰、希望、愛」がある(ちなみに、プラトン以来の「知恵・勇気・節制・正義」の加えてキリスト教では7つの徳を重視してきた)。しかし、「希望」とは「幸せになりたい」と願うことであるから、これは「アモール(=エロース)」に属する。だから、トマス・アクィナスからすると、「希望」は不完全ということになるのだ。希望はエロースだから、「奪う愛」である。欠如を補って埋め合わせようとするからである。そして、「奪う愛」というのは「自己愛」である。だから、希望は自己愛なのである。この自己愛(=自分が幸せになりたい)をどう評価するかはトマスにとって問題であった。これを放置するわけにはいかず、トマスは「不完全」と評価したわけだ。「希望」には自己愛的動機があるから不完全だとトマスは喝破したのである。神から与えられる愛は完全だが、人間が漠然と傾向性として神を求めようと言う愛は希望であり、それはアモールなので不完全だとトマスはいう。そこで、アクィナスは希望を完全に捨て去れと主張することはしなかったまでも、「希望(≒アモール≒エロース)はカリタス(≒アガペー)にたどり着くまでの補助輪、つまりはいずれ捨て去られるべきハシゴである」として消極的に体系内に位置付けるにとどまったのである。これが「近代自己愛論争」の発端となった。マルブランシュはアウグスティヌス的に、幸せを求める希望は事実だから肯定せざるを得ないと考える。しかし、キエティスト(静寂主義者)のひとりであったフェヌロンは、トマス・アクィナス的に、幸せを求める希望自体を抑えないといけないと考えた。フェヌロンは「希望を求めてはいけない」と主張する。つまり、フェヌロンの考えは「自分は地獄に落ちたって構わない」と考える原始キリスト教におけるパウロの考えによく似てくるのである。しかし、マルブランシュは「自分はやっぱり幸せになりたい」というこの打算的動機だけは神に対する愛の中から捨て去りようがないので人の存在の深層と結合したものとして、つまりいくら理論上否定しようとしても否定できない事実として肯定しましょうと考えた。これはアウグスティヌス的な発想である。教皇庁は結局、議論の末に、キエティスム(=静寂主義)の方を異端としたのである。マルブランシュの次のような主張が象徴的である。「もし我々を快くさせずに、神が善であることを味わわずに、あるいはすくなくとも我々がいつか快とともに──すなわち我々の魂の内に神の実体が生み出すであろう活き活きとした甘美なる知覚とともに──神を所有するであろうという確たる希望なしに神を愛するのだと主張するとすれば、我々は不可能を主張している(マルブランシュ『神愛論』)」。これがマルブランシュのキエティスム批判であった。


トマス・アクィナスのカリタス論:カリタスがアモールの限界を補うのだ】

神様が受肉によって人間界に下降し、「神を愛するための愛(=人間の腐った自由を洗浄して神へ向かうことができる良質な愛)」を注入してくださった。こうして我々は自然的で人間的な徳では行き着けない幸福に行き着くことができるようになった(=愛すべきものを愛しそれに向かうことができるようになった)のである。聖霊(=ホーリースピリット)は神の第三格であり、神の愛を司どる側面である。この聖霊(=自然的ではないもの=聖霊とは神様が降ってきて土の器でしかない人間の心に神様を愛する心自体を植え付けてくださるのだが、そのように植え付ける者のこと)がカリタスを我々に注入して下さるのである。実際、聖書にも「神の愛は、我々に与えられた聖霊によって、我々の心に注がれている」(『ローマ人への手紙』5:5)とあるのをトマス・アクィナスは意識している。


【カリタスはなんとフィリアである】

カリタスとは、神が人間を愛してくれたということに基づいて、人間が神を愛することができるようにしたものである。だから、カリタスは英語で表現すれば「Love of God」であるが、これを素直にとれば「神への愛」である。しかし、そのような「「神を愛する心(=カリタス)」自体が神からの愛(=アガペー)によって授けられている」ということがポイントであった。そしてトマスは、「カリタスは神にたいする人間の一種の友愛である」(ST, II-2, q. 23, a. 1 et a. 5)と述べている。そもそも原始キリスト教によれば、神が人に「神へ向かう愛」を与えてくださるのだが、この愛は人の中に充満し、隣人愛に「結合する(=そのまま結びつく)」のであった。問題なのはアウグスティヌスの教えである。アウグスティヌスは「神へ向かう垂直的上昇の第5段階」としてなぜか水平的な隣人愛をも位置付ける(=苦行としての隣人愛という位置付けになってしまっている)が、トマス・アクィナスはそうではなく、「神から授けられた愛そのものが、実はフィリアなのである」としたのである。だから、「カリタスは神にたいする人間の一種の友愛である」(ST, II-2, q. 23, a. 1 et a. 5)のだから、人の愛は神へも友愛として向かう(=だからアリストテレスの「フィリア」の定義より「希望」は利益という打算的動機があるゆえにフィリアとは言えなくなっていたし、しかもトマスによればカリタスはフィリアなのだからカリタスとも言えなくなっていた)のだし、隣人へも即座に「友愛」として向かうのである。トマスの隣人愛はエロース修行の手段ではもはやなく神から授けられたことで可能にしてもらった愛(=カリタス)そのものなのである。というのも、カリタスはフィリアだからである。だから神からアガペーを受けた人は、神と隣人をどちらも即座に「友」として愛するのである。そういうわけで、トマス・アクィナスにおいて、神から人に贈られてきたアガペーの内容とは「狭義のカリタス(=神へ向かえるようになった愛)」であり「狭義のカリタス」の内容とはフィリアなのである。


【人間と動物の差は何か】

自己認識課題をクリアできる動物はいるので自我を持つということでは連続性しか言えない。では、動物と人間の決定的断絶はどこからくるか。ふたつのファクターからくる。①時間意識と②言語能力である。チンパンジーにも微弱な時間意識はあるが、言語能力は圧倒的に人間が優れている。人間の言語能力には二重分節構造があるため、無限の語彙が作れるが、チンパンジーの語彙は限られている。50音があるだけでも、50の50乗の語彙が作れるのだ。


【ケーラーのチンパンジー

チンパンジーは箱を「イス」として使うことも、箱を「踏み台」として使うこともできる。しかし、チンパンジーは、友達のチンパンジーが既に箱を「イス」として使っている場合、その箱を「踏み台」としてはもう使えなくなるという研究がある。つまり、チンパンジーは世界の中に箱があらかじめ「イス」として現れた場合、それを新たに「踏み台」としては使えなくなってしまうのだ。つまりチンパンジーには「みなしの自由」がなくて、チンパンジーの世界は、ただ一方向にのみ貼り付けられ終わってしまうのだ。チンパンジーの世界の中のものは、一度ある方向に方向づけられると、それをキャンセルできないのである。イヌやネコにとっては世界が確定していて、不安定ではないのである(=動物の世界は一義的である)。しかし、人間の世界は不安定で、人間は不安なのだ(=人間の世界は多義的である)。


【神的善は共通善として社会性を有する:「教会」の成立と存在の根拠】

前述の通りトマス・アクィナスアリストテレスのフィリア概念によって「隣人愛」に非常に盤石な理論的基礎を与えた。だから、これは神の愛が所謂「チャリティー」として社会性を帯びたと言ってもよく、これが「教会」の存在根拠となった。


トマス・アクィナス倫理学のまとめ】

①自己の理性的部分を愛すべきという点で自己愛は肯定される(←アリストテレスからの影響)。②自己の感覚的部分を愛すべきでないという点で自己愛は否定される(←アリストテレスからの影響)。③自己犠牲の徳への愛は、自己愛と隣人愛を両立させる(←アリストテレスは自他の区別を無意味にするから)。④一般的にアモールとしての愛は不完全な愛すなわち自己愛として否定される。⑤「希望」としてのアモールはカリタスに引き継がれてこそ完全な愛(非自己愛=清らかな心=快楽や利益のゆえにではなく相手のために善なることを願うがゆえに愛する心=フィリア)となる。⑥カリタスはその中身が実は友愛(フィリア)であることによって、神への愛(=狭義のカリタス)と隣人愛の根拠となる。
 

 

 


スピノザ(1632-1677)】


スピノザ:冷たい外見の中に温和な自己肯定感の思想を秘めた思想家】

トマス・アクィナスまでの倫理学は超越神なしで成り立つものとは到底言えないが、スピノザ倫理学は超越的な神様をとりあえず前提しなくても成り立つのである。近代哲学の中で現代まで一番強い影響を与えている哲学者はスピノザである。三角形の内角の和は公理→定理へと推論していけば誰がやっても180度であるのと全く同様に、一切のものごとは必然的に生ずるとスピノザはいう。スピノザの思想には偶然が入り込む余地が一切ない。それなのに、スピノザのこの仮借なき必然の思想は、実は結構優しいのである。


スピノザの世界観:バウムクーヘンの比喩】

「この世界に「本当にある物」はひとつだけである。それは、神である。そしてその神は人格神ではない。人格神ではないから、人を憐れんだり愛したりするような神様ではない。池に小石を落とすと波紋ができる。一つ目の波の輪っかはふたつ目の波の輪っかの原因である。ふたつ目の波の輪っかは一つ目の波の輪っかの結果であるが、しかし同時に、ふたつ目の波の輪っかは三つ目の波の輪っかの原因でもある。このような具合に神(=自然)は因果系列を作りながら因果的に作用をしているのである。そしてそのような輪っかを真上から見るのではなくピザのように切り分けて、断面図で見る。つまり、この池を複数のピースに切り分けていく。そうすると、精神のピースや物体のピースなどができ、そこにできた波紋は両隣のピースと完全に同期している。ピース(=神の「属性」)どうしに影響関係はないのだが、しかし、同じ因果系列の一断面を切り出したものという意味では神の作用という同じものを意味していることになる。そして、これらの因果系列の全体をスピノザは神と呼んでいるのである。心とからだの関係は直接の因果関係はないが並行しているのである。」というのがスピノザの世界観である。


デカルト心身二元論と心身平行論は何が違うのか】

心身二元論とは人間の心と身体は別ですとデカルトはいう。これは比較的納得されやすい。しかし、ではなぜ両者は相互作用するのだろうか。ところで、ペンにどれほど意志を発揮してもペンは動かない。それはなぜかといえば、「精神によって物体は動かせない」からである。もしこれができるならば念力(サイコキネシス)をそのひとは持っていることになる。しかし、念力を持っているのではないか。なぜなら、我々は、精神によって腕を持ち上げると主張するからである。というのも、腕は、物体である。電子顕微鏡で調べれば腕が物体からできていることは誰にでもわかるだろう。だとすれば、「意志しても物体は動かない」のだから、意志によって腕は持ち上がらないはずではないのか。しかし、もち上がる。これはサイコキネシスを持って、それを刻々と使っているということになるのでないとしたら、何なのだろう、という疑問が生じる。これが心身問題である。デカルトは松果腺(パイニールグラウンド)が脳の奥にあることからこの心身問題を解決できると主張したが、これは物わらいの種になった。なぜなら、精神には空間規定がなく(=ひろがりがなく)、物体には空間規定がある(=ひろがりがある)が、この架橋は松果腺という「点(=空間規定がありつつないものとも言える)」がやっていると主張したが、顕微鏡で見たら松果腺にだって空間規定があり、ひろがっているのだからこの立論は成り立たないわけで、そこを後世の哲学者が指摘したからである。それに対して、心身問題をスピノザはどう解決したか。「心身は全然違うのに、どうやって心身は影響を及ぼし合うのか」というのが心身問題だが、スピノザは「そもそも心身は影響を及ぼしあっていない」と主張した。つまり心とからだは神という同じものの別の側面でしかないのである。心身は相互に因果関係はなく、精神は精神の中で閉じており、物体は物体の中で閉じており、横の因果関係はなく縦の因果関係だけがあり、それぞれの(属性の)縦の因果の連鎖は同じ神のふたつの表れとして対応部が同期しているだけなのである。そしてここに偶然性が入る余地はないのである。


【心身平行論の帰結】

人間の精神は肉体と平行で、それを超えたあり方はできないので、精神は肉体に支配されているかのようになり、ということは感情に支配されているかのようになるだろう。しかし、それで終わりではなく、「感情を理解する」という方策がスピノザ哲学には残されている。しかも「感情を理解する」と「能動感情」というまた別の感情が発生する。そうすると、結局のところ、今度はある意味で「感情を人が支配する」という形にもなるのだ。ただし「うつ病を自力で治せますか」と聞くとスピノザはそれは不可能なことをしている」と答えるはずではある。人は数学においてくらいでしか、「AということからBということが必然的に導かれる」というのは見通せない。日常生活だと、「独身者だったら妻がいない。これは必然だ」というようなことはあるが、見通せる範囲はある程度までである。人間は日常生活ではある程度までしか必然性の連関を見通せない。しかし、神はもうすでに全ての因果連環をたどり終えているのである。


【「精神は身体の観念である」(『エチカ』第2部定理19)とはどういう意味か】

「精神は身体の観念である」とは、「精神は身体のあるあり方に対応している観念のことである。」という意味で、これと同様に、「感情とは身体の変状の観念である」(第3部定義3)も「悲しみも身体のあるあり方に対応している」という意味である。


スピノザにおいて「個別的な精神実体」というものはない】

各人の思考は実は神の思考なのであり、それに対応する物体、つまりシナプスの興奮があるが、そのシナプスの興奮も神の中で起きていることである。各人の思考も各人の思考に対応する身体の興奮も、結局は神という因果系列のひとつなのである。だから、各人ひとりひとりの個別の実体があるわけではなくなるのである。では、ティッシュペーパーに対応している精神もあるのか。あるのである。ティッシュペーパーも何らかの思考をしていると考えてもいいのだ。植物も動物も、それに対応する精神を持っていると考えてよい。つまり教室にもしたくさん人がいたとしても、そこにいるそれぞれの人物の精神はスピノザ哲学において実体的なものではないのである。そういうわけで、スピノザ哲学において、各人の精神はその人の身体を支配できたりはしないのである。因果系列はすでに必然的に決定されているので、精神がそれを決定する余地はないからである。


【ではスピノザによれば人間の身体は各部分が精神を持っていることになるのか:なる】

スピノザによれば、心臓は心臓で精神を持っており、肝臓は肝臓で、腸は腸で、独自の精神を持っていることになる。人間という生物は脳まで持っているので、それらの精神が統合された全体が意識されている。しかし、人間に意識されている部分はこの全体だけであって、個別個別の組織のもつ精神は意識されないのである。これがスピノザの考え方である。動物はかなり複雑だから、かなり高度な精神を持つことになる。しかし、人間は動物よりもはるかに複雑で進化の中で生み出された異常な存在者としての脳を持っているから、「理性」というものが可能になるほどに高度な精神をもつ。これがスピノザの考えである。


スピノザにおいて創造はどうなるのか:神は創造しない】

スピノザの神は因果の系列のことである。そして、結果は常に原因を辿れるのだから、ビックバンすらその前の原因を言える。だから、「世界の最初」というものは考えようがないのである。だから、「池に小石を投げ込む」という波紋の比喩は最初の一撃が想定されているという点で実は説明として間違っているのである。神は自然を創造しない。だから、神はどこにいるのかというと、自然そのものなのである。「神の現れ」としてペンやティッシュペーパーや太郎や花子はあるのである。そしてペンやティッシュペーパーや太郎や花子は物体の中の因果の系列の中にある一つとして生じているだけなのである。「無から有が生じる」という因果の破綻(=最大の奇跡=創造)をスピノザは許さないのである。


デカルトスピノザの違い】

デカルトは真理さえそれを世界の外部にいる神に保証してもらわねばならないと考えたが、スピノザは真理だけあれば世界の内部だけで保証は十分だと考えた。「明晰なものはそれ自身で明らかであり、それがどうして明晰と分かるかと問うことはナンセンスである。それをさらに明晰にするいかなる明晰性もありえないからである。したがって真理は同時にそれ自身と虚偽とを顕示する。真理は真理によって、すなわちそれ自身によって明晰となる」(『小神論』2)とスピノザは述べるが、これはもし三角形がどういうものかを定義したらそこから内角の和が必然的に定まるように、つまり定義から定理が出てくるとき、その外部からの保証は不要であるように、先立つイベントが定まれば、その後にくるイベントは必然的に定まり、そこに超越的な神様の保証は不要だと考えたのである。


スピノザにおける奇跡の否定】

エスは聖書の中で何度も奇跡を起こしている。ハンセン病の人を治したり、盲人が目が見えるようにしたりである。そして「私のことを信じなくていいから、私の起こす神からもらったワザを信じなさい」と発言するのである。しかし、因果系列の破綻としての奇跡をスピノザは否定するのである。そして最大の奇跡として無から有を産むという創造さえスピノザは否定するのである。受肉(インカーネーション)も奇跡であるからスピノザは否定するかもしれない。


スピノザにおける自由意志の否定】

アウグスティヌスは、「我々は本来自由なのだが、その自由は原罪によって汚れて腐ってしまったので、我々はその自由をほぼ発揮できなくなっている。だから、受肉(インカーネーション)した神であるイエス・キリストが振りまく恩寵があって初めてその自由を十全に発揮できる」と主張した。これはどういうことかというと、人はそもそも自由だからこそ、その自由を回復するイエスに意味があるということなのである。しかし、人がそもそも自由ではないとすると、スピノザはイエスの存在意義すら否定したことになるのだ。トリエント公会議においてカトリック教会は人間の自由意志を正統教義として決定的に認めているので、自由意志を否定するスピノザは伝統的なカトリックとも両立しない主張をしていることになる。では、なぜスピノザは自由を否定するかというと、愛憎関係に巻き込まれたくないからである。例えば、津波愛する人を失うと、「かなしみはあれど憎しみはない」だろう。なぜ憎しみはないかというと、「津波を憎んでも仕方がない(=しょうがない)」と思うからである。ではなぜしょうがないと思えるかというと、津波は自然現象だからである。では、凶悪犯によって愛する人を失うと、「凶悪犯を憎んでも仕方がない(=しょうがない)」とは思えない。なぜなら、凶悪犯は自由意志があった(=他行為可能性があった)と思うからである。しかし、スピノザによると、この「凶悪犯」は「津波」と同じような現象なのである。もしも、人間には到底見通しにくいその凶悪犯が生まれてくるまでの因果の系列とその必然性を見渡せれば、「かなしみはあれど憎しみはない」という状況になれるとスピノザは考えたのである。つまり、スピノザは、自由を信じなければ「憎しみ」を減らせると考えたのである。普通の倫理学は自由を前提するが、スピノザ倫理学はまず自由を否定するという異常な倫理学である。だから、「自由によって邪欲を抑制しましょう」というようなことを『エチカ』にはかけない。『エチカ』にはあらゆる「べき論」はかけず、「である論」しか書けない。だから、スピノザ倫理学というのは「である」ということをひたすらみなさいという話になっているのである。「因果関係の連鎖、必然性の連鎖を、全部は無理でもできる限り見通してみなさい(←というのも「何かを変えろ」とスピノザが言うのはおかしくて、スピノザによればそもそも人にそんな自由はないのだから、「「何も変えられない」ということを理解しなさい、何も変えられないがそれをひたすら見つめなさい(ただし、人にどこまで理解できるかということも決定されているのではあるが)」という教えになる)」というのがスピノザ倫理学なのである。


スピノザにおける善悪の消滅】

スピノザ倫理学において善悪すら消滅してしまう。世界の中で必然的に生じる「物」や「事」は、どれほどそれが人間の感覚にとって醜悪であろうとも、全ては神の完全性から必然的に生じるので、それ自体では「良い」とか「悪い」とかはないのである。例えば雑草や障害は良くも悪くもなければ、不完全でもないのである。ただしこれは、スピノザ哲学の中には、「ただ生きること」と「よりよく生きること」の区別が失われてしまっているという意味でもあるから注意が必要である。


スピノザにおける「目的」という概念の否定】

目的とは何か。目的は何のためにあるのか。それは、何かをやったりやらなかったりしないようにならないためである。つまり、目的がなければ、人は何かをやったりやらなかったりしてしまうが、目的があれば、やる方向に人は向かいやすくなるのである。だから目的というものがあるのである(←目的は自由を前提する。そもそも、「そうしないこともできるのにそうしようとする」という時に出てくるのが目的概念だからである。何かが起こることが決定されていないからこそ、その何かが起こる方向へと向かわせるための目的というものが存在する意味があるのである。目的は自由を前提するから、自由がないならば通常の意味での目的もないはずである)。しかし、目的があろうとなかろうと、他の様にはならないのであれば、目的をもつ意味はなくなってしまう。神様がある目的に向かって被造物を引っ張るというトマス・アクィナスの「アモール論」を思い出そう。アモール論では、被造物さえ目的に向かって動いていた。しかし、スピノザは、人が生まれたその目的なんてものはないと考えている。もし神が「人を救おう」という目的を持ったとすると、スピノザによれば、「目的をもつことそのものが不完全性のあかし」なのだから、神の定義からしてそれは変だというのだ。今が不完全で欠如態にあるからこそ、人は何かに向かおうとするわけだが、神は定義より完全なはずだから、目的を設定するのはおかしいとスピノザは主張したのである。ところでこのような考え方は、現代の進化論の考え方と相性がよい。現代進化論によれば、生命体は無目的にひたすらうごめいているだけで、そこに目的はないからである。キリンの首が長くなったのは「高いところに届くため」という目的があったわけではないのだ。キリンの首の長さは、「①突然変異」と「②自然淘汰」という二つの原理で説明されるので、「なぜか知らないけど突然変異で「奇形」の首が長いキリンが生まれ、しかしその個体が環境にうまく適応したので、もはや「奇形」とは呼ばれなくなり、その子孫が増えた」という説明になるのである。そういうわけで、「スピノザによれば私たちは神様の思惑通りに行動しているということになるのか」というと、そうはならないということになる。なぜなら、スピノザの神様は因果系列のことであって目的はないから、思惑などないからである。「自分には短所があるから悩んでいる」という人に対してスピノザならば「あなたは神の無限知性の中から必然的に生み出されたものだから、あなたはそのままで完全だ」と言うだろう。


スピノザの「個体」概念:無目的なランダムの流れ(=自然)の中からでも「個体」は育つ】

生命に目的がないのになぜ人間は地球を支配しているのか。「風」は無茶苦茶に、ランダムに流れる。風の中の空気分子には目的などあるわけがない。しかし、ランダムなくせに、ある山に風がぶつかったときに、その山を迂回するような流れと方向が生じる。そして、その山の周りにくるくると旋回する渦巻きのようなものが生じる。鳴門海峡のいわゆる「渦潮」と一緒である。こうした「渦」の塊がスピノザのいう「個体」である。個体は、「実体」ではないが、周りから相対的に独立して動き出すのである。さらにその独立性が強まると「台風」というものになってあたかも自ら生きているかのように動き出す。台風は移動する。川の水も、雪も、個別的に分子レベルで見ているとランダムなはずなのに、それが「結晶」を作ったり、それが安定した秩序を作ったりする。つまり、無目的なうごめきの中にも、「塊」ができ、そこに秩序が現れ、その秩序が周りから独立して動き始めるということがある。「鍾乳洞」がそうである。鍾乳洞は、どんどん時間の中で秩序を作りながら成長していくのである。ではあれは「奇跡」かというとそうではなく、化学反応によって石灰が無目的に動いているのである。つまり、鍾乳洞だって因果系列の破綻とは言えないのだ。台風、水の渦、雪の結晶、鍾乳洞、コロイド、DNA、アメーバ、これらは全て因果系列の中で独立性と安定性、つまりは秩序を得て行った「個物」である。このような流れの先で、人間が生まれたのである。つまり、無目的な自然の偶然の多方向的な流れの中から人間は無目的に生まれたのである。知性とは、非常に困難な、そして無目的な、自然の強い淘汰圧の中で、その淘汰をすり抜けて、残ったものが、結果的に「知性」と呼ばれているのである。知的になろうなろうとして知性ができたのではなく、残ったものが知性と呼ばれているのである。生命は生き残ろうとはしていない。生き残ろうとしたのではなく、無目的に動いていて、その中である形質を身につけたものが残って、その形質が褒められているというだけなのである。つまり、無目的なランダムの流れの中からでも「個体」は育つのだ。


【「突然変異」と「スピノザの思想」は両立するのか:人から見た「偶然」と無限知性である神から見た「必然」とは表裏一体だから両立する】

突然変異とは「無目的に、ランダムな変化が起きる」ということである。突然変異は常に起きている。それがたまたま環境に適応するならば「進化」と言われるだけで、適応したものでなければ、それは「奇形」などと言われるだろう。では、突然変異は因果の秩序の破綻だろうか。いやそんなことはない。ランダムな突然変異だって、スピノザからしたら無目的に、かつ、因果的に起きているのである。例えば、宇宙の中には、隕石が無方向にたくさんばら撒かれている。それがたまに千葉やロシアに落ちる。そしてそれが人にぶち当たるとする。すると、そのぶち当たって怪我をした人にとっては「すっごい偶然たまたま当たった」と思うだろう。つまり、「偶然だ」ということになる。しかし、無限知性である神からしたらその隕石がそこに落ちることは、因果の連鎖を辿ればそうなるようにしかならなかった「必然だ」ということになる。つまり、ミクロには偶然のように思えることも、マクロには必然であるということがあるのだ。「偶然」とか「必然」とかいう言葉はどういう観点で使われている言葉なのかを整理すれば実は否定と肯定が両立することがあるので注意が必要なのである。「因果系列が破綻すること」を「奇跡」と呼ぶとすると、「突然変異」はマクロに見れば奇跡でもなんでもないということになる。だから奇跡を否定するスピノザの思想と突然変異は両立するのである。

 

【スピノチズムと突然変異を認める進化論の相性はなぜ良いのか】
無目的かつランダムに物体が動いていて、その中から個体として生命が突然現れた。そしてここで重要なのは、突然変異というのは、因果の破綻ではない、ということである。突然変異は常に起きていて、「因果の自然的仕組み(=スピノザのいう「神」)」に則って、しかしランダムに動いていく。例えば宇宙の中に隕石が無目的にばら撒かれているとしよう。実際宇宙ではものすごい量の隕石が無目的に四方八方へと飛び交っている。そしてその隕石が落ちてきて、千葉県の習志野市を歩いている人物Aにぶつかったとしよう。このとき、このAさんからすると、自分に隕石が落ちてきたのはまったくの「偶然」であり、隣のBさんに落ちてきてもよかったのに自分に当たったのはまさしく偶然だ、ということになるだろう。しかし、宇宙全体の中で、その隕石がそこに落ちることには、人間によってその自然的仕組みが解明されているか否かにかかわらず、必ずそうなる原因(=例えば、その隕石がそのAさんの頭上へと向かう方向に進む原因になったような、別の隕石との衝突の繰り返しなど)が常にあり、宇宙全体から見れば、「なるべくしてそうなった」からむしろ「必然」だったということになるのだ。つまり、人間の有限知性からみて「偶然」なことも、無限知性からしたら「必然」となるのである。だから、「生物進化の世界には突然変異というものがあるから」と言って「必然論」を論駁できたことにはならないのだ。


スピノザ哲学で確率はどうなるのか】

スピノザにとって「確率は無知の証拠」ということになる。もしも因果系列を無限知性のレベルで見通せれば「確率」はそもそも消滅するとスピノザは考えるのである。


スピノザは既存の善悪概念を一旦は肯定する】

そもそもスピノザは既存の善悪概念を否定するが、スピノザ哲学というのはそもそも決定論であり、そうした既存の善悪概念も必然的に生じたものとして肯定するべきではないのだろうか。なにせスピノザは「〇〇である」ということは言えても「既存のを否定し、それを変更して△△にすべきだ」とは言えないはずだからである。それに関してスピノザは、人間には「第一種認識」というものがあるから、人間が既存の善悪でもって物事に判定を下してしまうのは必然だとまずは認めているのである。例えば「太陽が200フィート先に見える」とか「太陽が10円玉の大きさに見える」というのは間違いであるがこうした見え方が生じるのは必然である。しかし、こうした判断を別の判断でもって訂正して理解することはできるのである。つまり、既存の善悪概念が生じるのは必然であると一旦スピノザは認めるのである。


【ではスピノザは善悪をどう再定義するのか:コナトゥス】

全ては自然の中で必然的に生じているのだから、そこには善も悪もないのである。存在は神の必然性から生み出されるのである。では世界の中でランダムに、無目的にものが動きながら一つの塊を形成するようなものが現れてくる。台風、水の渦、雪の結晶、鍾乳洞、コロイド、DNA、アメーバのような順序で複雑性が立ち上がっていく。原核生物から真核生物となり、ミトコンドリアと共生したり、ミミズレベルになると「神経」というものを得る。こうして最後は脳までいくわけだ。それぞれのレベルにおいて現れる「塊」がスピノザのいう個物である。このそれぞれの「塊」は、周囲にあるものと常に影響を及ぼしあって相互作用しているわけだが、その周りからの影響に逆らってひとつの「塊」であろうともするわけだ。これは「個物はひとつのまとまりを維持しようとしている」と考えてよい。この本性的に自分の存在を維持しようとする個物の性質が「コナトゥス」である。人間身体における代謝は「コナトゥス」である。「各々の物は自分の存在を除去しうるすべてのものに対抗する。したがって、各々の物はできるだけ、また自分の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。(第3部定理6)」とスピノザはいう。コナトゥスとは、自己保存の努力であり、「活動する神の能力を或る一定の仕方で表現するもの」(第3部定理6)なのである。なぜなら個物も神の一部であり、コナトゥスも神の現れだからである。この考えは、「人は常に生きよう生きようとしている。人は自殺を嫌がるようになっている。事実としてそうなのだ」という考えである。


【コナトゥスから目的が生み出されてしまう】

「目的とは衝動のことである」とスピノザはいう。次の記述を見てほしい。「我々をしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する」(第4部定義7)。衝動は人をプッシュするが、目的は人をプルする。この違いをスピノザは消してしまう。また、「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである。(第3部定理9)」とスピノザはいう。つまり、「衝動は、生の形では意識に上らず、目的を伴った欲望に加工されてから、経験される」のである。だとすると、スピノザの体系の中で居場所がないはずの目的の概念は、実は仮象だったのである。つまり、目的よりは衝動が根源的で、先行しており、目的は衝動が生み出したものに過ぎないとして、目的はスピノザの体系内で消極的位置付けを与えられているのである。つまり、目的というのは、人間が自由に設定するものであるどころか、人間が衝動を満たして衝動を解消するために無理やり(必然的に)作り出されたものである、ということになるのだ。「目的(=end)」は衝動(=コナトゥス)が人に対して「終局地点(=end)」として見せかけているだけであって、実は終局地点でもなんでもないのである。つまり、「これまでの善(あるいは目的)の概念はコナトゥスが見せている幻影に過ぎず、実は実体のないものなのである」というのがスピノザの喝破であった。


【善の再定義:スピノザにおいて、善とはコナトゥスの最大化である】

目的や自由をベースにした善ではなく衝動をベースにした善を考えねばならないとスピノザはいう。それゆえ、スピノザにおいて、善とはコナトゥス(=生存欲求)の最大化である。そして悪とはこのコナトゥス(=生存欲求)を妨げるもののことなのである。そしてこの時代のスピノザにとって「コナトゥス(=生存欲求)の解放を邪魔するもの」こそ、キリスト教道徳における最重要の徳、つまり「謙遜」であった。つまり、スピノザは自己否定の哲学ではなく、自己肯定の哲学を目指したのである。


【では「やりたいようにやること」がコナトゥスの最大化だろうか】

本当に自由な人というのは外部の影響を受けてしまう人のことではなく、自分自身の原理(=コナトゥスの必然性)に則って必然的に生きている人のことである。感覚的刺激に左右されて揺さぶられることがコナトゥスの最大化にはならない。だから、例えば「コナトゥスの最大化だー!」と心の中で叫びながら万引きをすることはコナトゥスの最大化ではないのだ。スピノザは、「強さ」の徳を強調して、「勇気(対自的 Fortitudo):自己の存在を維持しようとする理性的欲望→節制・禁酒・沈着」の徳と、「寛容(対他的 Fortitudo):他者を援助し交友を結ぼうとする理性的欲望→礼譲・温和」の徳を提唱するが、これは「こうした徳を持ちましょうね」と言っているわけではない。そうではなくて、「コナトゥスを最大化しようとしている者は必然的にこういうふうになる」という事実を記述しているのみなのである。例えば「酔っ払い」は実は自分のコナトゥスの増大を妨害していることになるのである。また、他人と喧嘩をすると自分のコナトゥスを最大化できなくなるので、コナトゥスを最大化しようとする人は温和な人に必然的に、おのずからなるのだ(←人間にとって人間ほど有益なものはないから)。コナトゥスの最大化とは要するに生き生きと生きることであり、そのためには万引きが有効なわけがなく、むしろ万引きをしないことのほうが有効な場合が多いのである。


スピノザによれば基本感情には3つありその組み合わせで感情は増殖する】

基本感情は①欲望、②喜び、③悲しみの3つである。そして「喜び」の感情は自分の存在感情が高まった状態のことである。そして喜びの最大化がコナトゥスの最大化なのである。そして②喜びを増やし、③悲しみを減らすと自己を肯定することになる。そして①欲望はコナトゥス(衝動)が意識されたものである。コナトゥスが増大すると喜びが生じ、萎むと悲しみが生じる。そして「〇〇のおかげで」という原因の観念を伴う喜びが「愛」である。そして「〇〇のせいで」という原因の観念を伴う悲しみが「憎しみ」である。スピノザによれば、「謙遜(フミリタス)」は悲しみをもたらし喜びをもたらさないので「徳」ではない。スピノザによれば、「後悔」は他行為可能性を前提している考え方なので「徳」ではない。つまり、スピノザは悔い改めたりしない。人間が理性的でない大半の時にはキリスト教のいう「謙遜」や「後悔」や「希望」や「恐怖」も役には立つ。しかし、理性で考えればそれらは不要だとスピノザはいう。そもそもスピノザからしたら自己卑下(アブイェクティオ)はおかしい。もしもしっかり自分を理性的に見つめたら自分は存在しているんだからダメなところなんかないはずである。しかし、なぜ自己卑下する者は自分をダメだというのかといえば、それは他人と比べて自分を相対的に見て自分を評価しているからである。自己卑下者は、自己評価を他人との比較によって決めるから、すぐさま自分よりダメなやつを見つけて高慢に陥る。だから、自己卑下するものはすぐさま自慢屋に転じるのだ。だから自己卑下はダメなのである。他人と比べるのをもうやめよう。そうしたら自卑も高慢も同時になくなるのである。自卑と高慢はどちらも「自分を他人と比べて自己評価を下すこと」という悪しき習慣から生まれた兄弟なのである。


【どうすれば自己肯定(=コナトゥスの増大=よろこび)を最大化できるのか】

主体の中で起こってくるさまざまなネガティブな感情を、それを固定化しようとする「自己卑下」あるいは「謙遜」などの伝統的でキリスト教的な徳にとらわれずに、ひたすら理解すればよいのだ。「なぜ「憎しみ」や「怒り」が出てきたのか」を理解すればいいのである。そして、『エチカ』において「受動の感情は、その感情についての明瞭・判明な観念を形成すれば、ただちに受動の感情ではなくなる。(第5部定理3)」と述べられているように、もしも外部からやってくる受動感情を人が理解するならば、そこへ別の感情が、その「理解」に伴って発生するのである。この、主体の外部の原因からではなく主体の内部の原因(=「理解したこと」)から発生する感情は、コナトゥスの増大であるから「よろこび」である。そうやって、受動感情の理解(認識)に相伴って発生する感情が能動感情なのである。受動感情の方は外部が原因だが、能動感情は理解という自分の内部の原因で生じる感情である。どちらも神の必然的因果性によって生じる感情だが、受動感情は原因が外部からくるが、能動感情は原因が内部からくるので、この言葉のスピノザ的な意味で「自由」なのである。この自己の内部の認識を原因にして自己の内部に生じる感情が能動感情なのである。能動感情は内部のコナトゥスの増大であるから「喜び」の感情である。そしてこの、理性に従う人ならばその人の中に必然的に生じることになる「能動感情」は、その人の中に先行して生じていた「受動感情」を圧倒するのである。例えば、ある人の愛する人が殺されたとする。その時、必然的に怒りの感情がその人の中に生じる。しかし、その人がいくつかのファクターを見通すとどうなるか。全てを見通すならばその人は神だが、しかしいくつかのファクターならば、その人にも見通せるはずである。そしてその「見通し」を原因として、その人の中に能動感情が生じることになる。そしてその能動感情によって受動感情は幾分か抑えられるのである。まさに、感情をもって感情を制するのである。そしてこの理解こそが理性の発動として、コナトゥスの最大化につながるのである。ここでいう「理解(=必然的連関を見通すこと)」こそがスピノザのいう「第二種認識」である。そして、第二種認識こそが能動感情を呼び起こすのである。「科学を学ぶよろこび」というのは、「第二種認識のよろこび」なのである。


【三種類の認識】

「第一種認識」は因果連関の結果だけを認識することである。それに対して、「第二種認識」は理性知と呼ばれ、この第二種認識自体が、能動感情の原因となる。そして第二種認識は、事物の必然的連関をとらえることである。「第三種認識」は「精神と全自然との合一性の認識に伴う喜び」であり、神の自己愛の一部となることである。

メルロ=ポンティ哲学 その可能性の中心

【「超越論的態度」は人間だけのものではない】
「世界の全てに意味を見出す」というのが人間特有の在り方である。全ての意識は世界を構成していく「超越論的態度」をあらかじめ取っている。そしてこの、超越論的態度を取る意識は、「志向弓(l'arc intentionnel)」の構造を持っている。志向弓とは、予め「力み」が生じているという意味であり、そのような構造を持つことを、「世界構成をしていく超越論的態度」と呼んでいるのだ。このような「意味を見出す構造」としての「志向弓」は、超越論的なのだから、意識にあらかじめそなわっており、しかし「悟性」に備わっているわけではないというのがカント哲学とメルロ=ポンティ哲学の違いである。そして、この意識は、「現実世界にそのまま届いている」というよりはむしろ、この構造が届いていない手付かずの「与件」とか「構造がこれからそれを整理していくところの現実世界」などというものがそもそも存在しないのである。それらの枠組みを当てはめられるべき「与件」などというものは「ほとんど無」なのである。この構造を経由して初めて「現象」が成立するのであるから。そして、この「かまえ(=超越論的態度=価値的没入=志向弓)」があるところに、いきなり「現象」から成立するのである。経験について記述するものは、常にこの「現象」から始めなければならないのだ。そして、「超越論的態度」は悟性に備わっているわけではなく、身体に備わっているのだから、進化論的に考えれば、「超越論的態度」が取れるのは人間だけであるはずがなく、人間は全てに意味づけを行えるが、動物は基礎的な世界構成しかできないというだけなのである。例えば、アメーバは全てを「結果」としてしか扱えないのだから、結局は何かを「原因」としても「結果」としても扱えていることにはならない。しかし刺激のあるものを重要なものとして扱う点で意味づけは行えているように思われる。また、ある種の生物は「赤」を認識しても「何の赤なのか」は問題にしない。つまり、結局は何かを「実体」としても「属性」としても扱えていることにはならない。それを問題にできるようになるためには、やはり「操作」ができるようになる身体が必要なのである。さてこのようにして、「超越論的態度」は微弱なものであれば動物の意識にも備わっていることがわかる。人間の「超越論的態度」は意味づけられるものの自由度が非常に高い(regard A as B のAとBがほぼ無限になりうる)のだが、しかし「意味づけない」ということは決してできない。この点で「人間は意味の刑に処せられている」のである。経験が成立するためには、AとBに何かを常に入れなくてはならないのである。

 

【人間は意味の刑に処せられている】

サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのに対して、メルロ=ポンティは「人間は意味の刑に処せられている」と考えた。